聖書の人生観
聖書の人生観
目次
第一章.この世とあの世の人生観
<死後への思いと信仰>
<宗教と真理>
<何が真理か>
第二章.聖書をひとりで読む
<教会と聖書>
<自分という人間の存在意義>
<第二の聖書>
第三章.聖書を読み人生を読む
第四章.運命について
<巡り合わせ>
<人生何とかなるのか>
第五章.現世を生きる
第六章.神の畑
第七章.死を迎えるための準備
第八章.永遠への旅人
第九章.この世は、愛と忍耐を学ぶ場
第十章.生かされている意味
第十一章.聖書を読み人生を読む
第十二章.何が幸せか
本文
第一章.この世とあの世の人生観
<死後への思いと信仰>
この世には分からないこと、つまり科学では解明できないこと多すぎます。ここでは、聖書とか類する本を読み、自分が経験したことを踏まえ、思うところを気楽な気持ちでこの世とあの世の関係について書いてみました。分けのわからないことを書いていると思われるでしょう。
その通り、わたしは霊能力者でもなく科学者でもなく、書いていることに確たる根拠もありません。聖書を学んでいるなかからヒントを得て大いに推論して思うところを書いてみました。
わたしは唯一の創造主である神が存在すると思います。世間でいう「あの世」もあると思います。ただし、この「あの世」というのは聖書でいう「新しい天地」とは別物だと思います。
イエスがこの世にこられたこと、その教えも信じます。もちろんイエスの御霊、聖霊がこの世でわたしたちの成長を助けるために働かれているとか、神のみ使いである天使の存在も、
そして、わたしたちを神から遠ざけるように働くサタンと悪霊(悪魔とその一団、天使が変質したもの)の存在も、そして、邪悪な人間の霊とかこの世に執着する人間の迷える霊がわたしたちの周りをうろうろしていることも。
そして、死ぬということは、セミが脱皮するように人間も肉体を脱ぎ棄ててこの世からあの世に行くようなものではないかと考えています。
この世で起こる理解できない人間の奇行とか心霊現象(嘘も多いと思いますが中には本物も)、精神疾患の一部はおそらくそのような霊が影響を及ぼしているのではないかとも思っています。
そのような悪霊たちの影響を避けるためには、この身体を心身ともに健康に保つことが必要だと思います。悪霊たちは自分と同じような性質の人、心とか肉体が病んでいる人などに影響を及ぼしその人の魂を悪いほうにみちびいてしまうのではないかと思います。
そうなればあの世に行ったときに、つまり神のみ前に立ち裁きを受けるときに余り良い結果を得られないと思います。そのようにならないために、イエスはこの世に来られ、また聖霊がそのために働いておられるのだと思います。
この世は、永遠に流れる生命の最初の課程、小学校ととらえたいと思います。命の本体は霊であり、霊は、この小学校の過程において必要があって肉体をまとっているものと思います。
霊はもっと自由なもので肉体は霊の自由を制限していると思います。本当に肉体は不自由です。疲れたら眠たくなるし、休まなくてはならない。病気もします、怪我もします、食事もとらなくてはいけない、なにより行動が不自由です。
それらのことはすべて必要があって、創造主が人間に、不自由な肉体と共に生きる人生を与えられたのだと思います。この世で起こることに何一つ無駄なことはないという考え方です。
この世に生きているうちに、この世の生活のことだけでなく、あの世の世界についても勉強はしておくべきだと思います。
こうして生きている自分は何なのかについても勉強しておく。死後のことは死ねば分かる、慌てなさんなと言われる方もおられますが、この世に生きているうちに学べることは学んで心の準備をしておくことが必要かと思います。
小学校の勉強をおろそかにしたら、きっと、高校とか大学がある「あの世」で困ったことになるのではないでしょうか。
なぜなら、あの世が本体でこの世は影ともいいます。あの世が無ければこの世の出来事はすべて無意味であるともいいます。そうであれば、この世はあの世の準備の為にあると考えてもおかしくはありません。
わたしは、創造主である神が、人間に色々な動物とは違う能力を与えているのは必要があってのことだと思うのです。
たとえば、思考力、探究心、永遠を思う心、知力とか知識、愛する心、思いやる心、努力、忍耐、意志、理性などなどなど。
好き嫌いの感情とか嫉妬とか自己中心とか利己的とか闘争心とか、つまり、本能に関するものは自分では自覚しているかどうかは別にして動物にもあると思うのです。
神はわれわれ人間に、人類の進歩の為に、肉体を健康に保つために知恵を生み出す知力を与えました。
人との関係を上手くやっていけるように愛する心とそれらを実践するための意志を与えました。本能をコントロールするために理性を与えました。
そして、人間に己の本当の姿を教え、この世を生きるための指針を示すためにイエスを使わされました。
そのイエスの志を継いだ神の御霊、聖霊は人類を間違った歩みから本来あるべき歩みに導き、この世を無事に卒業できるように今もわたしたちを助け導いておられます。
神は、生まれ持った本能に、動物には無い人間独特の能力を活用してこの世を賢く生きなさいと言われているように思います。
どちらに偏ってもダメだと思います。バランスをとって生きなさいといわれているように思います。それは、人間が人間たる所以であると思います。
今の世の中は、すこしこのバランスが崩れているように思います。人間のもつ本能が悪い形で強く表にあらわれていると云えないでしょうか。
知恵は文字を生み出しました。人類はその文字を活用して同じ情報を大勢の人に伝えることが出来るようになりました。そして、世代を超えて知識の継承が出来るようになりました。これは科学の進歩に非常に有利に働きました。
イエスを信じる信仰も、信じなさい、信じることによって救われるというのも真実だと思いますが、信じるには理解が必要だと思います。
知識を得て理解する、その理解が一定以上(すべてではありません)になると信頼(信仰)が生まれます。そうすれば自ずと教えが行為として実践されるのは当たり前のことだと思います。
わたしは信仰による行為が大切だと思うのです。きっと、あの世へ行けばそれだけの報いがあると思うのです。信仰が行いに結び付かないわたしなどは、天の国へ行けばきっと末席に甘んじることになるのでしょう。
知識を伴った信仰が大切だと思うのです。信仰に理解とか知識が無ければ盲信になります。神は人間に決して盲信を進めてはおられないと思うのです。
分けがわからなくても信じなさいといわれるなら、神は人間に考える力とか探究心を与えられなかったと思うのです。理を追究する心も与えられなかったと思うのです。
もちろん、この地球を含む宇宙の創造の真理を全部わたしたちに開示されているわけではありません。人間に開示されていることはおそらくこの宇宙の真理のそうですねほんの一部なのでしょう。
イエスが云われたことにも分からないところが多くあります。それは最初から隠されていることだと思います。
分からないところは、子供のように信じなさいと言っておられると思うのです。開示されていないことを無理に理解しょうとすれば、間違って理解することになると思います。
<宗教と真理>
宗教というのは、本来は神および死後の生命の本質を理知的に理解するものだと思います。盲信は執着です。真理は聖霊の働きに裏打ちされた知識を持って理解するものだと思います。
ということは、イエスが云っておられる「真理を知りなさい。真理こそ魂を自由にします」というのは、知識をもって真理を知る。知識は魂を自由にする、と云うことになります。
無知が盲信を生み執着を生むといえます。
この世に執着をもったままあの世に行けば、新しい環境への対応が難しいのではなかろうか。あの世に行く時にはこの世のことから卒業していくべきだと思います。
そうでしょう、いつまでも小学生活にこだわっていれば、中学生活に適応できなくなると思いませんか。執着する姿は、自殺者、狂信者、拝金主義の中にも見られます。
イエスが偶像礼拝を禁じられた真意はそこにあるのではないでしょうか。
我々の心というものは、我々が大切にしているもののところにあるといえます。
自己中心、無知、自己憐憫、嫉妬、お金、我欲はこの世に執着する原因となるからそれを聖霊の力を借りて克服しなければいけない。
そうしてそれらの執着を克服できれば自分の中に天国がくるということだと思います。だからイエスは自己中心を誡められました。
聖霊の力を借りるためには、己のすべてを神に委ねることが必要かと思います。
自分の力では人間、自己中心から抜け出すことができませんから、神は聖霊という大きな助け主をこの世に送られています。
聖霊の力を借りて克服できたらあの世にもスムーズに移行できるし、移行した後も新たな世界であるあの世になじむことにも抵抗はなくなると思うのです。
誰が言ったかは知りませんが、この様なことを書いた本がありました。
「死は罪多き人間を聖人にするのでもなければ愚か者を賢人にするものでもない。
その個性は生前と同じであり、地上時代と同じ欲望、習慣、信条、間違った教義、利己主義、来世に関する無知や不信といったものをそのまま携えて霊界に入る。」。
イエスは、我々に、「第一に神を愛しなさい。第二に、隣人を自分を愛するように愛しなさい」という命令を残されました。
これはあの世を送るためにこの世で培っておくべきもっとも重要なことであるからだと思います。命令ですから否応なく守りなさいということです。
第一の掟、神を愛しなさいということは、霊としての神の存在を、神があなたの創造主であることを知り、その神を愛し御心に従って生きなさい。
そして、次の世界があることを悟りなさい。それは真理ですということだと思います。
第二の掟は、この世での生き方を教えておられて、他人のために役立つことをしたその行為が次ぎの世で役立つことを示しておられると思います。
イエスはこの他に、取り越し苦労を誡められました。
ということは、取り越し苦労をすると心が不安になり悪霊らに影響されやすく、悪霊らが住み着きやすくなります。
そういうときは、神が愛であることを、神がこの世を支配されていることを信じて、その神にすべてを委ねて不安を追い払う。
くれぐれも、邪心や悪感情を心に宿さないようにすべきだということではないでしょうか。心と身体の健康な人には悪霊は寄り付きません。
この世を生きるにつき、たった一人の人間とか家族に執着しすぎるのも良くないと思います。子供への愛も執着しすぎると子供は自立できなくなります。
それと同じで、わたしたちもこの世に執着しすぎるとあの世に適応できなくなると思うのです。
わたしの天国観とか地獄観ですが。わたしは天国とか地獄というのは、特定の場所ではなくて、その人の霊的真理の理解を通して得た心というか魂の状態だと思うのです。
たとえば幸せに思う心とか愛する心の状態は天国だと思うし、逆に嫉妬とか自己中心とか利己主義とか無知からくる心の状態は地獄だと思います。
あの世では霊的に同じような性質の人が集まると思うのです。
したがって地獄は、邪悪な性質の人間が集まっていて、神の霊の光が届かないところだと思いますから、その様相は恐ろしいものだと思います。
だけど同じような性質の者が集まっていれば、そこにいる者にとっては一番落ち着くところではないでしょうか。
聖書に書いてある永遠の火あぶりなどは、実際には火が燃えているわけではないと思います。
それは喩えで書かれていると思うし、当時、つまり2000年前のまだ未熟で無知な人間に説明するのに必要であったからそのような表現になったと思うのです。
神は人間のいまの様相はすべてご存知です。
人間が罪の為に永遠の地獄に陥るというのもわたしには理解できません。
もしそうなら、神はこの宇宙をこしらえた時に間違いをなさったことになる。
神は全知全能で、宇宙や人間をこしらえたほどの神が人間を罪に落とすような過ちを犯すはずがないと思うのです。もしそうだとしたら、神は全知でないことになる。神は人間を地獄に落とすために創造しないと思うのです。
創世記で、人間を創造した後神は言われました「見よ、それは極めて良かった。」と言われたのですから。
キリスト教は、神から離反することを罪だと教えます。
これはおそらく創造主を、創造された目的を知らないままこの世を去りあの世に行くと、おそらくあの世での生活に影響を及ぼすからではないでしょうか。
それは神の1人子イエスをこの世に送って十字架にかけなければならないほど重大なことだといえます。
といってもわたしはイエスを知らなくて死ねばイコール永遠の死とか地獄に行くとは考えていません。
神はどこまでも愛ですから。神はわれわれをどこまでも愛してくださると思うのです。過去、現在、未来の全人類は神の愛する被造物に変わりはありません。
人間は決して神の失敗作でないと思います。いまの世界の状態、戦争、殺戮、飢餓などが渦巻く現状も神はすべてご存知です。
かならずやすべてを益にしてくださると信じたい。聖書を真に理解すればそのことが分かると思っています。
人間の本質は零体と考えて、あの世があるとしたら、肉体をまとったこの世は人間に取ってあの世に行くための準備の場所と捉えるのが自然だと思います。
とするとこの世でなすべきこと、体験するすべてのことが、あの世を生きるために非常に大切なことだということになると思います。
あの世が在るからこの世を生きる意義があると思うのです。
死ぬということは、まとっている肉体を脱ぎ捨てて霊の身体になること。
だからあの世ではもう病は無い。病は肉体の故障だから。結婚も無い、もう生殖活動をする必要が無いから。
こうして考えると、本当の意味で生きるというのは、死んでから始まるのではなかろうか。
<何が真理か>
この世は、小学校のように、生命の基本である自分とは何か、何のために存在しているかを学ぶところといえないだろうか。
神は霊であり愛であり生命であり光であり目に見えない知的存在であります。神は宇宙のあらゆる驚異的、神秘的現象の中に顕現されています。宇宙の森羅万象の中にも神を見出すことができるということです。
もちろん、我々の魂の中に、花の中に、動物の中にも神を見出すことができると思います。本来被造物には、創造主を知る手掛かりが必ずあるということです。
人間は余りにも長いこと創造主である神から離反していたので、何が真理か分からなくなり、自分の力では神を知ることができなくなったのだと思います。
そのために、イエスがこの世にこられ、聖霊が人間を真理に導くように働かれているのだと思います。
自分がそのような神の被造物であると分かれば、神は被造物である人間にとって、圧倒的な存在ですから、自然に神を崇めるようになるのは当たり前であるといえます。
神道で、神秘を恐れ拝するのもそのことの表れだと思います。
わたしは、創造神がいるなら唯一であると思うし、多数の神々が思い思いに宇宙の一部を分け合って創造しているなんて考えられません。
おそらく多神論という考え方は、その森羅万象の一つ一つを捉えて見ているから生まれるのではないでしょうか。
この宇宙が統一した節理で保たれているなら、その背後には唯一の創造主がおられると思うのが普通だと思います。
聖書では、もともと生命は永遠で、精神を通して体験したものはすべて記憶されているということです。
イエスは最後の審判で、その記憶の内容を持って裁かれる。いやその記憶の内容が、あの世でのその人の行く場所を決めるのでしょう。
ということは記憶のもとである現世での生き方がいかに大切かということになります。
イエスは2000年前にこの世にこられ、あの世の高い世界、つまり天の国の話と神の支配が到来した話と、人間がおかれている状態と、そこから救われる方法を示されています。
イエスはこの世にイエスを信じる者のワールドを造ろうとされています。二人以上の信徒が集まればそこに教会があるといわれています。
もちろん、このワールドというのは神の家族の場です。それが教会という形をとっているといえます。
神は愛です。愛の中にある者は神の中にあるといえると思います。神もどこか天の高いところに鎮座されているということでなく、目に見えないもの、近寄れないもので形も無いと思うのです。
どちらにしても、有限界に住む人間には無限界のことは知りようがありません。「イエスが神の右に座したまえり」、というのも天と地を支配する一切の権限を与えられたことの喩えであると思います。
なにも本当に神の右に座られているのではないと思います。
どんな形にせよ、一つのドグマや教義に夢中になってはいけないと思います。
この世は聖書解釈を含めてすべてが相対的で、絶対的なものは一つもないと思うからです。人間として、何が真実かを知るために、常に心の中の神に問いかける必要あると思うのです。
そうすれば、神はきっと答えてくださる。なぜなら、神は人間を創造するときに、人間の中に神を見出すことができる、つまり、神と交信できる方法を置いておられると思うからです。
神が人間に自由意思を与えられたのなら、交信方法もきっとあるはずです。造りっぱなしで放りっぱなしはされないと思います。
その助けをしてくださるのが、神の霊、聖霊だと思うのです。その聖霊の働きに身をゆだねるとき、わたしたちは霊的な目が開かれる。それがあの世で迷わないための秘訣になると思うのですが。
現世における日常生活は、この世の行いは、来性においても記憶として残るのですから、みずからの自覚に於いて、明るく陽気に、落ち込んだり動揺したりすることがあってもいつも創造主である神を信頼し、分からないこと、どうしょうもないことは神にゆだねて神を信じて前向きに生きることが大切かと思います。
そして、生きとし生けるもの全てを愛する気持ちで、つまり、自分の幸せだけを求めないように人のために汗や涙を流して生きるように心がけるべきだと思います。
そのためにイエスの教えである「愛の掟」の真理を確りと捉えて、この世を生きるための指針としなければいけない。
それがあの世で幸せに生きることになるのではないでしょうか。お互いがお互いのために生きる世の中は何と素晴らしいでしょうか。
聖書は、真理であると思います。しかし理解して読むべきだと思います。
文字通りに受け取らず、伝統的解釈にこだわらず、聖書が書かれた時の時代背景を考え、イエスの言葉の意味とか聖書著者の意思を、聖書は聖霊の働く場ですから聖霊が働かれていると信じて、聖書を読み理解に努める必要があると思います。
聖書の書かれた時代は、今ほど開けておらず、宗教も無知な人民に教えるためにたとえがよくつかわれました。
もちろん、天の国のことは人間の言葉では表現しようがないのでたとえによっていますが、ある意味、たとえで表現していますから聖霊が自由に働くことができるとも言えると思います。
過去のキリスト教社会の歴史を見てみると、間違った聖書理解といいますか一つの解釈にこだわったために多くの人を苦しめました。大いに反省すべきだと思います。
人間は誰でも間違いを犯します。その間違いから学ぶべきことができるのが人間。それは神の摂理。
神は人間に理解力を与えました。その理解力を使って、自然界に顕現されている驚異と神秘の中に神を見出し、その余りの素晴らしさから生まれる魂の躍動、喜びの状態がほかならぬ天国ではないでしょうか。
それを助けるために働いておられるのが、神の霊、聖霊だとわたしは思っています。
わたしはこの状態を実際に十年前に経験しました。聖書の御言葉を読んでいたときに、生きとし生きるものと共に生きる命の喜びを体験したのです。命の輝きを体験しました。
無知とか利己心とか嫉妬心から愚かなまねをしないように。愛と理解力とを最大限に発揮してこの世を生きたいと思います。
そのなかでも、物事の意味を理解するということが最も大切かと思います。大自然の中に顕現されている神の業の理解、神の存在を理解して知ることが大切だと思います。
それができるのは人間のみで、これは人間に与えられた賜物といえます。
花の一つ一つに、香りがあり、色があり、品種ごとに個性があり、決してそれらはごちゃまぜにならない。
そこに神の摂理があると思います。それを見る目を養うことが必要かと思います。つまり霊の目が開くというのでしょうか。
いつも見ている何とも思わない自然の姿でも、霊の目が開かれてみる自然の姿は、あまりにも素晴らしく、驚異です。
そこに命が輝いて見えます。神は命の躍動そのものだと思います。
この自然界の中に物事の真理があると思います。
同じように、現世を生きるにおいて経験する、体験することの中で物事の本質を理解すること、それがこの世に生きる我々の仕事ではないかと思います。それを助けてくださるのが、イエスの御霊、聖霊だと思います。
そのように考えると、この世で学ぶことのなんと多いことか、とても平均寿命の八十歳では足りません。過ぎ去った年月が恨めしく思います。
宗教はこの世だけのもの。あの世では宗教は不要で、みな兄弟であり、姉妹だと思います。教会での兄弟姉妹の関係は、次ぎの世におけるわたしたちの姿、生き様を表しているのではないでしょうか。
第二章.聖書をひとりで読む
<教会と聖書>
聖書は読まれているかどうかは知りませんが、世界のベストセラーです。
また、聖書というのは信仰書ですが、教会へ行かないと読んでも分からないということはありません。
今回は、聖書を1人で読むために参考となることを書いてみたいと思います。わたしも実質1人で読んできましたのでその経験を踏まえて書いてみます。
ある人からこのようなメールがきました。「私はクリスチャンではありませんけれど」という書き出しで「聖書の言葉に随分慰められました。涙が出てきて仕方ないのです。」と書いてありました。
家族の中で1人で密かに聖書を読んでおられるのです。
そのときわたしは今まで何となくブログ投稿をしていたのですが、投稿文の作成に責任の重さを自覚しました。このメールの方は、すでに信仰生活の第一歩を踏み出されました。聖霊が働かれているのを感じます。
聖書をこのように心の糧として、あるいは楽しみとか教養として読んでおられる方もおられます。わたしのようにわからないから知りたいという向学心で読み始めた人もいるでしょう。
楽しみに読むと言ったら、聖書は信仰の書物だから真剣に読まなければならないと、眉をひそめる人がいるかもしれません。
しかし、私は、基本的にどのような読み方でもかまわないと思うのです。イエスの御言葉(聖書の言葉)に触れることが大切だと思うのです。
分からないところがあれば、いまはグローバルな時代ですから情報源はいくらでもあります。
わたしも教会には行っていますが、聖書は1人で読んでいます。解釈の分からないところは、専門書とかネットで調べています。
牧師先生に尋ねたこともないし、たとえ尋ねても、おそらく通りいっぺんの回答で、納得するような回答は返ってこないでしょう。
先生も忙しくてゆっくり相手をしてくれないかもしれません。それなら自分で学ぼうと思いました。
いまわたしは、聖書を読んでいて誰もが単純に疑問に思うところを自分が納得するまで調べるようにしています。だから教理とか神学を学問的に研究しているわけではありません。
たとえば、「神は存在するのか・・」「天使なんているのか」「聖霊とはなにか・・・」「奇蹟なんて本当にあるのか・・・」「復活ってなに、そんなバカなこと・・・」「聖書に書いてあることは全部作文では・・」「イエスは本当にいたのですか」「サタンは本当にいるの・・」「福音書は矛盾だらけでは・・」「なぜキリスト教はここまで大きくなったの・・」といったたぐいの初歩的な質問を自分に連発して自分で回答をさがして納得しています。
わたしもこれらの初歩的な疑問を解決してから洗礼を受ければよかったのですが、まったく何も分からない状態で洗礼を受けました。もちろん、きっかけはありました。
それは、そのときは何のことか分からなくて後から知ったのですが、聖霊体験と思われる不思議な体験をしましたので、その体験の余りの素晴らしさに、何の迷いもなく洗礼を受けてしまいました。
それに、キリスト教のことを知るためには飛び込むのが一番ですからね。そして、間違っていれば引き返せばいいや、とも思っていましたが、引き返すことなく十三年が経ちました。
というようなわけで、洗礼を受けてから、ゆっくりと初歩的な疑問の答えを求めて、独学で解決しょうとしたので十年間を要したのです。
わたしは思いますに、現在の日本には、わたしのように、キリスト教に関心をもっているのに、「こういう初歩的な疑問」が心の底にひっかかっていて、聖書の世界に入れない人が随分いると思うのです。
「いったい神は存在するのか?」という根本的なところから始まって、こういうさまざまな疑問に悩まされている人には、聖書の言葉も、すんなりとは受け入れられないと思います。この気持ちはよく分かります。
疑問が一応理解できたら、不思議にも、聖書は事実なのだ、イエスとはやはり神だ、と思いました。そのときキリスト教は宗教ではなくてこの世界の真理だと思いました。
後から詳しく書きますが、先に書いた霊的な不思議な体験というのは、それはいただいた命の輝きの喜びと、自分の内なる罪の深さを自覚したことです。
具体的にわたしが聖書を読んで思ったことを書きますと。ヨヘネの福音書を解説書と並行して読んでいて、ふと思ったのです。
細かいところは別にして、イエスの言われたことがすべて理論的で筋が通っている、と。四福音書に書かれていることは矛盾だらけですが、イエスが伝えようとすることは同じで筋が通っているのです。
そして、それがすべて実現しているのです。イエスは自分が十字架で死んでから後のことまで予告されていますが、それも実現しているのです。
聖書が作文なら、当初の、イエスの生前をよく知っている弟子が命をかけてイエスの教えを伝えようとしたことは説明できません。だれも作り話に命をかけません。
それに、この2000年間イエスの教えを信じるものが次から次へと起された事実です。それも無数の人々が福音書を読みイエスの教えを信じて、中にはその教えを守るために殉教した人もいます。
人は作文を読み殉教しますか。?
言えることは、聖書は、およそありとあらゆる時代の人たちに読まれ、理解され、信じられてきました。それほどに分かりやすく、しかも深く現実に根ざしているということです。
次にわたしの聖霊体験ですが、1996年10月11日のことです。新約聖書ルカによる福音書第12章22節の御言葉を読んでいた時に、わたしの自分の内なる命が輝いたのです。
それからというもの、しばらくの間生かされているのが嬉しくて飛び跳ねていました。森の中を歩いた時など、木も、草も、鳥もみな生きとし生けるもの共に生きている、その命は輝いて躍動に満ちている、そう思ったのです。
そのような経験も踏まえ、このときわたしは聖書の言葉、イエスの教えには命があると思ったのです。
キリスト教は言葉の宗教といいますが、まさにそのことを自分で確認したのです。きっと、わたしを信仰に導くために聖霊が働かれたのでしょう。
わたしは、そのこと、つまりイエスの言葉に命がある、聖霊が働かれている、この事実がキリスト教をこの2000年間存続させてきた原動力だと思いました。
その時代の多数の学者が聖書の真偽を研究しましたが、だれも否定できないのです。
もちろん、2000年前に作成された福音書ですから書かれてあることの事実確認は難しいところがあるでしょうが、だれも荒唐無稽だと否定できなかったのです。
奇蹟にしても、よく考えれば目の前にある出来事すべてが奇蹟ですよね。
花の種に水をやればなぜ成長して花を咲かせるのですか、その他にも、この宇宙の森羅万象をよく見ていると、不思議なことばかりです。奇蹟ばかりです。なにも驚くに足りません。
<自分という人間の存在意義>
聖書を楽しみでとか教養の為に読むということは昔からありました。
本来は、聖書を読みたいと思う人は、教会へ行って、そこで牧師さんの教えを聞くことを考えますが、教会というところは敷居が高くて一人ではなかなか行けません。
牧師さんに対する質問もしにくいものです。ただ聖書をある程度理解しょうと思えば、やはり何度か教会に通う必要があります。
強い求道意識のある方はよいのですが、聖書を読むのを楽しみとか趣味程度に考えている方はすこし抵抗があると思います。
聖書に興味があっても、教会の敷居が高いという人は結構多いと思います。
近くに学ぶことの好きなクリスチャンの方がおられれば一番よいのですが、たとえそういう方がおられない場合でも、今の時代は恵まれていると思います。
教会へ行くのは嫌だけれども、聖書には興味はあるが内容がちょっと難しくて、と思われている方には、まさに恵まれた時代が来ている様に思います。
それは、情報化時代の到来です。情報の伝達方法が発達して、一人一人がだれからも妨げられずに、さまざまな情報を享受できる時代が来ているからです。
パソコンを開いてインターネットで索引すればたいがいの疑問は解決します。
SNSの世界は聖書の情報であふれています。
本やその他の情報を通じても、聖書に関する知識を手に入れることは簡単です。
といっても、イエスにある兄弟姉妹が交わる場としての教会、独りよがりの信仰から守る場としての教会の役割は薄れることはありませんので、適当な時期に教会に行ってみるのも良いかと思うのです。
教会はサロンだといった方がおられます。確かにそういうところがあります。教会は聖書を学ぶところでもありますが、イエス・キリストにある兄弟姉妹が愛し合い交わるところでもあるわけです。
だから、最初から聖書の学びのみを目指している方は失望されるかもしれません。聖書を深く学びたいと思われる方はそういう場が教会には別に設けられていますから、それに参加する必要があると思います。
そのためには何度か教会に通いなじむ必要があるでしょう。いったんなじんでしまえば、信徒にはさまざまな社会経験とか信仰経験を持った方がおられますから勉強になると思います。一般社会では学べない貴重な経験です。
教会へ行っても、ただ忘れてはいけないのは、信仰は神様と自分の関係だということです。あの人がクリスチャンだから間違いないだろう、そういう目で人を見れば必ずつまずきます。
兄弟姉妹とどんなに親しく交わっても信仰は神様と自分の人格の関係です。クリスチャンでも人間、いろんな人がいます。
ひとりで聖書を読むと、聖書と自分をどのように関係づければよいのかが、なかなか見えてこないのです。そのために私も随分時間を要しました。
聖書に書かれていることは難解です。なぜこのように難解なのでしょうね。わたしも不思議に思いました。イエスは全世界にいって福音を述べ伝えよ、といわれているのです。
ならば誰でもが簡単に理解できるものであればと思うのですが。それがそうではないのです。でもわかる時は一瞬なのですよ。不思議ですね。
わたしは、聖書が難解であるのも意味があると思うのです。必要があって、そのようになっていると思うのです。
それは、イエスの御言葉「聞く耳あるものは聞きなさい」ということではないでしょうか。聞く耳をもつ者にしか理解できないということです。
それは、聞く耳ある者にしか聖霊が働かれないということでしょうか。
聞く耳があるということは、聖書を読む者がそこに何かを期待して読むということです。そのような気持ちで読めば、不思議に聖書はその期待に応えてくれるのです。
ところで、こういう個人的な聖書の読み方をする場合には、何しろ書かれたのが2000年前ですから、情報不足、知識不足のため解釈方法がわからない場合や、見当違いの解釈が入り込むのは避けられません。
こんな時、どのように解釈すればよいのか、はたして、自分の読みはこれでいいのだろうかという疑問や不安につきまとわれると思うのです。読み進めると、分からないことばかりでてきます。
そこで、街の本屋さんやキリスト教関係の書籍の専門店へ行って、いろいろな本を買ってきて読むのですが、これがまた難しいか、面白くないか、要するにあまり役に立たないのです。中途半端なものが多いように思います。
わたしも色々な本を読みましたが、キリスト教を信じるについての一般論については、C・Sルイスの「キリスト教の精髄」という本が一番分かりやすかったと思います。
聖書を読みながら、自分はこの箇所をこう解釈したいと思うのだが、はたしてそれでいいのだろうか、という疑問を抱きます。
そこで、手に入る注解書に当たってみます。ところが、注解書にはこの聖書のこの箇所は文献批判的にはこうであるとかああであるとか、ここはテキストの成立上疑問があるとか、
まるで神学の専門家でなければとうてい正しく理解できないようなことが書かれているのです。読む者を混乱させます。
そうでなければ、読者が自分で判断する隙間もゆとりもないほどに厳密な「釈義」が述べられていて、読む者が疑問をはさむ余地のないものまであります。そうするともう思考は停止してしまって、それ以上進みません。
聖書を読もうとする時は、何かを求めて、期待して読み始めたのに、こういう状況に追い込まれる人がわたしを含めてけっこうおられると思います。これはクリスチャンでも一緒です。
教会に行っておられない学生や家庭の主婦や企業で働く人とか畑違いの学問的な分野の人たちなど、だれでもが入りやすい注解書や参考書はないのでしょうか。
読む人の不必要な誤解や誤謬を避けることができて、しかも読者に柔軟な読み方を教えてくれる入門書といいますか、解説書はないのでしょうかね。
聖書は解釈が多様です。ましてや現実の出来事に照らせて解釈しょうと思えばなおさらです。自分流で聖書を読む人たちは、私のように時間をかけて手探り状態を続けるほかはないのでしょうか。
けれども、人生を考えているとか、何か悩みをもっている人は、ぜひ聖書を読んでほしいのです。
読んでみれば、けっこう面白いのですから。面白いから読み始める。そういうところから、一歩一歩と自分なりの読みを深めていけばいいと思うのです。
分からないから面白くないという人は、少しずつ忍耐を持って読んでいれば面白くなります。聖書は期待を裏切らないと思います。
聖書がある程度理解できたら、世間の出来事を見る目が変わってくると思うのです。世界情勢とか、人類の歴史を見る目も変わってくるでしょう。
そして、わたしたちの最大の問題、つまり、今の時代に、間違いなく存在する私という個人が、日本国の中のこの地で、妻、両親、職場、知人、友人に囲まれて、この人類の歴史の中の今の時代に生きているということはどのような意味を持つのかという問いの答えも見つかるかもしれません。
自分という人間の存在意義を見つける旅といえるのではないでしょうか。
聖書は、一冊の書物、神の言葉であるにしても、やはり「書かれた文字」としての読み物です。
この読み物は時代が変わって基本的には変わりません。その内容は、まさに人類の、この宇宙のすべて存在意義が書かれた書物です。
そして、聖書はどこの国にとっても外国からきたもので、すべて翻訳であります。
<第二の聖書>
ここでは、第二の聖書といわれる「自然」について書いて見ます。
聖書解釈は、読む人の置かれた環境とか、人生経験、持っている知識に応じて違うと思うのです。だから出てきた解釈の、どれが正しいともいえないと思います。
また、聖書は神の言葉と言われていますから、神は聖書の言葉を用いて、読んでいる人個人に語りかけられる、だから神の言葉を聞こうと思って読むのが正しい読み方だと思います。
聖書を読んでいて、わたしが注意したことが三つあります。一つは、そこに出てくる語句や用語の意味です。
二つ目は、そこで語られる出来事の時代背景と聖書著者がおかれた状況です。三つ目は、歴史の流れの中で捉えるということです。とくに先の二つが、聖書と現代の日本とでは、ずいぶん異なります。
専門家の話しでは、聖書は、優れた英語訳が幾つも出ていて、英語をある程度読める人なら、これらを参考にしながら日本語で聖書を読むのが、聖書の意味を取り違えることはないということですが同時に現在の日本には、聖書の語句事典、聖書神学事典、それに各巻の注解書・解説書などが日本語でそろっていますから、よほど専門的なことを調べるのでない限りは、日本語で書かれたもので十分間に合うということです。
時代背景についても同様で、事典とか聖書の注解書などで、聖書に出てくる事柄や出来事の背景をある程度理解することができると思います。
ネットでも聖書を研究されている先生が非常に詳しい注解書を投稿されています。わたしなど、それらを読んで、用語の意味とか時代背景は、そこに書かれてある事をそのまま受け取って満足しています。
一から自分で調べる能力も気力も時間もありませんから、先人の研究成果を参考にしています。
聖書の原本にしても、キリスト教は、本質的に、「翻訳の宗教」です。なにしろ原本は残っていないのですから。
もちろん、イエスが自ら書かれたものなどありません。これは、キリスト教が、いまだかつて一度も、ある特定の民族や国語や土地と特別の関係を持たなかったことを証ししています。
イスラエルは、聖書発祥地ですが宗教はユダヤ教です。
キリスト教は、どの国のどの民族にとっても、常に「外国から来た」外国語の宗教だということです。聖書とは、そういうものだということです。ひょっとしたら神様は理由があってそのようにされているのかもしれません。
だから、結論として安心して日本語で読んでかまわないということになると思います。
その聖書を教典とするキリスト教は、どこかの国の宗教ではなくて、全人類にあまねく宣教するために生まれた宗教なのです。キリスト教は、西欧とかアメリカの専売特許ではないのです。
ところで「第二の聖書」という言葉があるのをご存知ですか。
この言葉は、神がご自身を啓示されたのは、聖書を通じてであって、これ以外に神を知る方法は与えられていないと考える人たち向かって言われた言葉だということです。
神は、言葉としての聖書以外にも自然を通じて人の心に語り、神を人に啓示しておられます。いわば、自然は、神が人間にお与えになった第二の聖書であるという意味です。
この言葉は、私たちが聖書を読む場合の心構えをとてもよく言いあらわしていると思います。
なぜなら、第二の聖書を読むためには、人は、活字になった聖書だけではなく、自分の身の周りに広がる豊かな自然にも注意を向けなければならないからです。
活字の聖書と共に自然を読まなければならないということです。
神をよりよく知ろうと思うならば、活字の聖書から目を離して、自分の目と耳と心と知恵を働かせて自然からも神を学ぶことができるということです。
このように、聖書を通じて自然を読み自然を通じて聖書を読む、ということが行なわれて、初めて神の言葉がその人の内で生きて働く力を帯びるようになるというのが第二の聖書の意味だということです。
パウロはこのように言っています。
新約聖書ローマの信徒への手紙第1章20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神聖は被造物(人間とか自然)の中に現われており、これを通して神を知ることができます。」と。
そう言う意味では、音も色彩も、身の周りの、一切の現象もわたしたちが読むことのできる聖書であるといえます。
例えば、人々は、空を見て天候を読みます。株をやっている人などは、絶えず世界の情勢に注意を払っています。実業家は経済情勢を見て会社の経営に注意を払います。
このように、自然だけではなく、社会情勢をも含めて、わたしたちは、実にさまざまな現象を読みとり、かつこれを解釈しなければなりません。
聖書を読むことは、わたしたちにかかわりのあるあらゆる目の前の現象を読む基礎を築くことなのです。聖書を信じる人は、判断に困った時に、聖書を開くと聞きます。
内村鑑三は「聖書しか読まない人は、聖書も読まない人だ」と言いました。自分の身の回りに現実に生じている出来事こそ、神の言葉の注解だという意味です。
神は、いわゆる言語としての言葉を通してだけでなく出来事を通して語られるからです。
人間の歴史、社会を含めて、この宇宙に生起する一切の現象を神はすべてご存知で、神の許しがなければ起こらないということです。
だからそれらのことがすべて神の言葉なのです。それが分かる時、わたしたちは、初めて聖書の言葉をほんとうに知ったと言えるのかもしれません。
なかなか理解が難しいと思います。わたしの目はまだそこまで開かれていません。でもそうありたいと思うのです。
この世界は、神が創造され支配されている、神の恵みにより成り立っているという大原則があるからです。
このことを本当の意味で開かれた心で受け止めることができたら、今までの、小説の中のイエスが、何か遠い存在でしかなかったイエスが、いまこの世界を共に生きる存在として受け止めることができるようになるのではないでしょうか。
物語の中のイエスなら、直接現実の人生とかかわってくることもないし、分からないこともそんなに気になりませんでした。
ところが、聖書を読んでいて、イエスの存在が、突然身近に感じられてきたとき、この時からイエスは、聖書を読む者にとって架空の人物ではなく、遠い過去の歴史上の人物でもなく、自分のかたわらにいてくださる実在感のある人物になっていくのでしょう。
イエスは今もなお生きておられる。しかも、自分と人格的なかかわりを持とうとされている存在であると知ること、これが、聖書がわたしたちに一番伝えたいと願っていることだと思います。
聖書は、どれほどの人がこれを読んで信じたのでしょうか。数えきれません。だまされたと思って読んでみたらいかがですか。究極の疑問である、自分はどこからきてどこへ行くのか、そして、存在意味は、それらが見つかれば幸いです。
キリスト信仰が人生の生涯をかけて育むものならば、生涯未完成であっても、生涯求道者であっても、きっと、神様は愛と恵みをもって救ってくださると信じています。
第三章.聖書を読み人生を読む
悪魔(サタン、悪に誘う力)はいると思いますか。わたしはいると思っています。もちろん会ったことはありませんが・・。
創造主である神様がいて次の世があって、天使がいるなら当然悪魔もいます。悪霊もいると思います。悪霊には人間の迷える霊とサタンの配下の天使の場合があると思います。
次の世があるなら、創造主がおられるなら、人間がいても可笑しくないし、もちろん、悪魔も天使も悪霊もいても可笑しくない。
すべて霊的存在で、本籍は霊界です。だから肉体を持たない人間以外の存在は、現世を生きるわたしたちの目には見えません。
わたしたち人間の背後にはこのような霊的存在の力が働いていると思うのです。聖書はそのようなことが実在することを前提として語られています。
なお、念のためですが、神様が悪魔らを造ったのではありません。神様は悪を造れません。彼らの前身は天使です。つまり、堕天使です。
天使の長が、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい。」と思うようになり、部下の天使に命じて自分の王国を造ろうとする。
そうすると神様から離れるので、神様の恵みを受けられなくなり変質してサタンになるのです。サタンになった天使の長は天使の内3分の1を配下に置き(旧約聖書イザヤ書14章12-15)、
この天使が「天の諸々の悪霊」に変質します。この聖句で、曙の子、明けの明星とは、前身が天使であるサタンのことを言うのだと思います。
この見える世界の背後で働く見えない世界の勢力の説明はこのくらいにしておいて、聖書では、イエスとユダヤの権力との関係を「神と悪魔」の関係において捉えています。
これは、客観的、歴史的出来事ではありませんから、学問的に実証できません。ところが、聖書を読んでみると、イエスのものの見方、あるいは語り方 には、明らかにイエスとユダヤの権力との関係を神様と悪魔の関係に類比させて語られています。
聖句で言いますと、マタイによる福音書第4章10節。同16章23節。ヨハネによる福音書第13章27節他多数あります。
明らかに聖書は、わたしたちの目に客観的に目に見える事実だけではなく、その事実の背景には、目に見えない悪魔らの働きがあることを示そうとしていると思います。
神様は霊的な存在ですから、聖書の言葉を読むというのは、そのみ言葉の背後に目に見えない霊的な意味・意義を読み取ることだと思うのです。
聖書の言葉の背後にある、目に見えない霊的な意味・意義を読み取るには書かれた文字を追っているだけでは不十分で、神様から来る聖霊(神の霊だから聖霊)の働きが必要だと思います。
霊的存在を読み取るには霊の目で読む必要があると思うのです。霊的な目は、イエスのみ言葉を信じる信仰によって養われると思うのです。
これによって初めて、わたしたちは聖書を神の言葉として読むことができると言えるのではないでしょうか。
ただし、外側から客観的に確認できる歴史的な状況を正しくとらえることも、背景にある霊的な意味を正しく読み取るために必要だと思います。
イスラエル民族は、歴史的な出来事の中に神を見いだし、信仰を深めていったと思うのです。言い伝えとか神話が多く聖書に取り入れられているのはそのことを説明する手段だと思います。
だから、信仰は、歴史的な出来事をどのようにとらえるかということから生まれると思うのです。
それは、歴史的な出来事を客観的に解釈して、背後の霊的な力は、み言葉に、祈りに働かれる神の霊、聖霊の働きに委ねて解釈するということだと思います。
聖書にある出来事は、未完であり今もわたしたちの歴史として現在進行形で続いていると思うのです。そういう意味で、今も聖書の時代、つまり使徒言行録の時代が今も続いていると思うのです。
言い伝えとか神話と呼ばれるものでも、それが生まれるためには、そこには必ずなんらかの人間の体験なり出来事が背景にあると思うのです。
福音書が伝えるイエスの行なわれた奇跡物語もおなじで、それがどんなに荒唐無稽であっても、そこには、聖書で語られたこととそっくりではなくても、イエスが実際に行なわれたなんらかの行為とか出来事が基になっていると思うのです。
つまり、聖書には、実際に起こった出来事が解釈されて書かれていると思うのです。新約聖書は旧約聖書を素材としています。
忠臣蔵が、テレビで見るような形で起こったかというとそれは疑問で、やはり実際に起こったことが解釈されてドラマになったとい思うのです。
これと同じです。もちろん、そのドラマに用いている素材は忠臣蔵とは大いに違いますがね。
したがって、わたしたちは、それらの奇跡がそっくりそのまま起こったかということを議論するのではなく、それらの奇跡の中にイエスが語ろうとされている神の国の姿を見ようとするのが大切かと思うのです。
神の国はイエスの中にすでに到来していたのですから、イエスはきっとそれをどのようにわたしたちに表現するか苦心されたと思います。
人々はイエスを「神の子」だと言い、また敵対する人たちは、「おまえは自分を神と等しくしている」と言ってイエスを非難しました。外側から見る限り、イエスの振舞いは、そのようにしか見えなかったのでしょう。
しかし、これはいたしかたないことで、そのときは、神の霊、聖霊はイエスに降ってはいるが、弟子たちにはまだ降っていないので、真理を見る目が開かれていないので、イエスの真実の姿を知る由もないと思うのです。
それでは、なぜ、イエスは、聞く者が理解するか否かにかかわらず、神の国のことを、神の支配の到来を言葉で伝えようとされたのかは、
それはイエスがこの地上からいなくなった後、聖霊が弟子たちに降り、イエスの生前の言行の真理をことごとく解き明かして下さるのに備えられたと思うのです。
もちろん、奇跡とかしるしによって信じなさいともいわれています。奇跡とかしるしが起こるのは神の力なのだから、その神の力を行使できるわたしの言葉を信じなさいと言うことでしょう。
イエスが天に昇られた後、聖霊降臨(使徒言行録第2章1節以降)を体験した弟子たちは、きっと生前のイエスの言葉を思い出し、
その言葉の本当の意味を知り一つ一つかみしめていたと思います。その聖霊は、今もイエスを信じる者に内住し、働き続けておられます。
イエスを信じる者の背後には、そのような聖霊の働きがあるということは、信徒の集まりであるキリスト教会の歴史の背後にも聖霊の働きがあるということになります。
わたしは、この宇宙を、この歴史を、そしてこのわたしの周りで起こっている出来事が、神様の支配のもとで起こっていると分かったとき、自分に起こる現実の出来事を自分以外の無数の周りの出来事と結びつけて見るようになりました。
そして、今起こっている出来事を、聖書にそっくりの形で書かれていなくても、現実の出来事に似た聖書の言葉を比較して読むという作業をしました。
同時に、背景で働く目に見えない霊的な力の存在を考え、その出来事に霊的な意味を読み取ろうとしました。そして、自分の内心の意思に問いかけて、目の前の問題にひらめきや霊感とか知恵を求めました。
クリスチャンはいつもそのような目で、祈りの姿勢で目の前の出来事の答えを求めています。聖書の内容と、一見今自分が直面している問題とは全く無関係に思われることであってもはっときがつくこと、教えられることが多いのです。
このように歴史に、あるいはわたしの身に起こる出来事というものは、外に現れる目に見える出来事と同時に、その背景には、出来事を成り立たせている神様の働きがあると思うのです。
そのようにして、物事を見るとその出来事の中に意義が見えると思うのです。未熟なわたしですが、物事をそういう目で見ることができるように日々訓練に励んでいます。
ナザレのイエスの出来事は神様からの啓示の出来事です。啓示というのは、辞書では。神様が人間に顕れて、「人の心を開いて真理を示すこと」とありますが、このように、主導権は神様にあるわけです。
そして、あらわれ方は、夢とか幻とか知恵とか悟りの形で、求める個人に示されると思います。
第四章.運命について
<巡り合わせ>
最後に運命について考えてみたいと思います。
運命という文字を辞書で引くと、人の意思によらずに幸いや不幸を与える力、あるいはめぐりあわせとあります。
人間は、生まれてくるとき、その時代のその環境を、つまり、自分が人生を送るであろう両親を含めた家庭環境、居住する町、民族、国家、文化、社会制度さらに持って生まれた性格、男女の別、背の高さなど身体的特徴、体の健康・不健康とか身体的能力、知能などは選べません。
こうして考えると、生まれた時から歩む道はほとんど決まっているようなものです。そうしてその人の意思によらずに決められたことを運命というならば、運命は、命が神から与えられるものならば、神の手によって決められたことといえます。
人生の節々における選択、つまり、進学、就職、結婚、退職、リタイア後の生き方なども自分の意思で選択する余地はありますが、それまでの生き方がその人の選択を決めるところもあり、選択の余地も若い時ほど多く、年をとるに従って狭まっていくと言えます。
しかし、幸せか幸せでないかというのは、その人の捉え方という面もあり、また、善いことをするか悪いことをするか、人のためにするか自分のためにするかというようなことは、
もし、それが自分の意思だけで事足りるものならば選択ができるように思いますが、それでも、性格が大いに影響すると思います。
性格は運命といわれる人もいますが、わたしは、性格は、遺伝的な面(先天的な特性、個性)と、育った環境とか教育、生き様(後天的、人格、
つまりその人らしい行動とか振舞い方)により形成されると思っております。その中で特に大きな影響を及ぼすのは教育かと思います。
如何にすぐれた素質を持って生まれてきてもその能力を引き出すことのできる環境がなければ宝の持ち腐れとなります。
逃れられない運命の力に押しつぶされて犯罪を起こすこともあります。反対に運命の力に耐えて、一かどの人物に成長する人もいます。
人間が生まれて、育ち、生き、そして死ぬところに、自分にも人にも理由のわからない、どうすることもできない一人ひとりの違った運命があると思います。
さて、悪いことがあれば何事も運命だからどうしょうもないと決めてしまえばそれまでですが、はたして神様はそれで良しとされているのでしょうか。
せっかく自由意志を与えられているのに活用できないのなら意味がありません。
一つ言えることは、与えられた環境で一生懸命に生きることだと思います。自分の努力ではどうしょうもない、もって生まれた運命は、人間の価値を決める基準とはならないと思います。
それでは、運命を変えることはできるのでしょうか。わたしはできると思います。
他人の恵まれた運命を羨んで、不平を言いながら人生の早い時期に自分の人生をあきらめる人もいれば、恵まれない運命に引きずられながらも、もくもくと前を見ながら人生を歩いている人もいます。
あきらめの人生が最善とは決して思いません。与えられた運命の中でいかに生きるかが問題だと思うのです。神様は、与えられた環境をいかに用いて生きるかを見ておられると思うのです。聖書にこのような喩え話があります。
マタイによる福音書第25章14節以降のタラントンの喩え話がそのことを語っていると思うのです。主人が旅行に出かけるに際し、三人の僕にそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けました。
主人が旅行から帰ってくると、5タラントン預けた僕はそれを運用して10タラントンにしました。
2タラントン預けた僕は、それを運用して4タラントンにしました。が1タラントン預けた僕はそのお金を土の中に埋めておいて全く運用しませんでした。
運用して預かったお金を倍にした二人の僕に対し主人は、「忠実な僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。
主人と一緒に喜んでくれ。」といわれた。これに対し、土の中に隠しておいた僕に対し、主人は、「怠け者の悪い僕だ・・そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ」と言って、「誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」と勤勉を褒め、怠惰を戒めています。
最後に主人は、怠惰な1タラントンを預けた僕に、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう。」。
この喩え話は、タラントンというお金のたとえで語っていますが、これを生まれつき与えられた能力、あるいはいま自分に与えられている自分が利用できるものに変えて考えればよいと思うのです。
つまり人生の出発点で既に持っているものが違う。
これは不公平ですが、その不公平に文句を言って怠けて与えられたものを腐らしておくより、持っているものを忠実に、つまり誠実に活用するために工夫して努力して人生を歩むように求めていると思うのです。そうすれば、与えられた運命に、更に良きものを与えられる、といっておられます。
人の世の運命の内に生きながらも決して退かず、黙々と力の充実を図り、自分の運命を内側から変えていく人もいます。
運命に勝つには、焦っても駄目、無茶をしても駄目、また自分の力の及ばないことや道理にはずれていても駄目。
運命に勝とうと思うならば、決して無茶をしないで、自分の力の少し上を見て力を蓄えながら歩むのがよいかと思うのです。
人生には時たま運命を変えるチャンスに出会うことがあります。
しかし、そのチャンスを正しく選択し、自分のものにすることができるのは、日ごろの努力の積み重ねの結果ではないでしょうか。
ましてや、そのチャンスが神様からのものであれば、日ごろの努力に対する報いですからなおさらです。
もちろん、忠実な僕が更に与えられるタラントは、能力などだけでなく、人との出会いとか、人格(品性とか性格)、平和な家庭などのこともあると思います。
だから与えられるタラントは、財産とか学歴など狭い範囲にこだわらずに、広い視野で見る必要があると思うのです。己の欲を満足させて下さるのではないということです。
この喩えが言おうとしていることは、この世の富に忠実なもの、誠実な者は次の世の富にも忠実であると言っていると思います。この世で怠けものは次の世でも怠け者だということですか。
またイエスは、誠実に、勤勉に働くのは良いけれども、天に富を積みなさいと言っておられます。マタイによる福音書第6章19節から21節で、「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・富は天に積みなさい。・・あなたの富のあるところに、あなたの心もあるからだ。」
この話は、この世の富である地位とか権力とか財産に心を奪われてはならないと言っておられるのです。そのようなものに心を奪われる生き方が問題だということでしょう。
天に富を積むとは、貧しい人、恵まれない人に施すこと、慈しむ心を持つそういう生き方をしなさい、そういう生き方が天に富を積む生き方だということでしょう。
運命に、与えられた環境に不平を言わず、まじめに誠実にこの世を生きる者は、必ず神様の祝福を得て、何かはわかりませんが更にわたしの為になるタラントを頂けると信じます。
<人生何とかなるのか>
困った時に、慰めの言葉として、「人生何とかなる」とよく言われますが、本当に何とかなるのでしょうか。ある知人が家を買いました。凄いねと驚きますと、お金は天下の回り物、お金なんて何とかなる、といわれました。
よく聞いて見ると親に必要金額のほとんどを援助してもらっていたのです。
もう、五十を過ぎたオッチャンが。これを何とかなっているというのでしょうか。
わたしは、このような状態を何とかなっているとは思わないのです。
親とか人に迷惑をかけて何とかなっているというのはおかしいと思いませんか。親の援助ももらえず何ともならない人もこの世にはたくさんおられます。
世の中にはなんともならずに、自殺する人も、ホームレスをしている人もたくさんいます。だからむしろその人は、甘えられる親がいることに感謝すべきだと思います。
そういう親のもとに生まれたのは神の計らいですから、神にも感謝するべきです。
運命と宿命という言葉を辞書で引くと、運命は「人の意志によらず、幸いや不幸を与える力。またそれによってもたらされる現象、事柄、めぐり合わせ」とあります。宿命は、「前世から決っている運命」と書いてありました。
神はその人の人生のすべてをご存知ですが、人間はロボットではないのですからなにもその人のすべてをコントロールされているわけではないと思います。ただ大事な時に方向を示され導かれることはあると思います。
でも、その導きに従うかどうかの選択はその人に任されていると思うのです。だから、いくら神がこの世を支配されているといっても、すべてを神様に委ねているといっても、自分の人生には自分が責任を持つべきだと思うのです。
たとえば、いまの不幸が、確かに今だけを見ているとその人の意志ではどうにもならないことだと思いますが、その不幸を招く元を作ったのはその人ということが大いにあると思うのです。
また、何とかなるといいながら何ともならないこともある。これは運命でしょうか、対応できる、あるいは対応できていた不幸は運命ではないでしょう。
たとえば、生まれた国はその人が選んだのでもありません。どの時代に生まれるかも人の意志ではどうしょうもありません。
人の生き死には神の支配のもとにあり、それはその人の意志ではどうにもならないことですから、それらのことは運命というのでしょう。
では、その人を取り巻く家族とか職場とか知人友人関係はどうでしょうか、これらはその人に対処の選択の余地がありますから運命ではないのでしょうか。
でも、出会いは神の御業とも言いますから運命と言える出会いもあるかも知れません。
しかし、その人の意志で対処できようができまいが、神がこの世のすべてを支配なさっているという観点から見るならば、起こったことの原因がなんであれ、いまここにこうしているわたしは、御心に適っている限り、すべて神様の御業、つまり神様のご計画の内といえるでしょう。だから運命の中でわたしは今ここでこうしているのです。
聖書では、自分の努力ではどうにもならない運命を神様の賜物とか御業とも言います。
この世の出来事はすべて神が支配されておられ、病もすべてではありませんが神のみ業(たとえサタンの仕業であっても神がそれを許されているのなら神の御業といえる)もあると思います。
世にいわれている前世の悪行が病の原因という考え方はありません。
聖書には、世界の終末がどうなるかを記載しています。その上で、人間は死ねばどうなるとか、この世の生き方を教えていると思います。
すると、先の事でも、いま起こっていることでも、聖書に書いてあることを信じて、意識して相応に対処すれば、人生をある程度変えられるということになります。
それが人間の努力では対処できないものだとしても、それがどういうものか、原因は何か、は聖書という書物のおかげで、知ることができると思うのです。
ところが、聖書を詳細に見ていくと、聖書そのものの中に、神が人間に教えない神様の意志もある、と書いてあるところもあるのです。次の聖句をご覧ください。
「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。」(旧約聖書申命記、第29章28節)
ここで「啓示されたこと」とは、聖書(旧約聖書)に言葉として記録されたことでしょう。これは「この律法の言葉をすべて行うことである。」となっています。
いわゆる旧約聖書ですから、イスラエル民族に対し律法に従順に生きなさいということでしよう。
ところが、それ以外の事柄もあると、聖書はいっているのです。それが「隠されている事柄」なのです。そしてそれは、我らの神、主のもとにある、といっています。
同じ御言葉が、新約聖書にもあるのです。父なる神の御子とされているイエスに対しても、父なる神は知らせないことがある、という。
色々ありますが一つ取り上げますと、たとえば、7年間の大艱難が始まる時期がそれです。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存知である。」(新約聖書マタイによる福音書、第24章36節)。
これはいわゆるこの世の終り、終末が近づくと、7年間の大艱難がやってくることをイエスが弟子に教えた場面の言葉です。
イエスは将来それが起きることは知っています。だから起きるということを、弟子たちに教えています。
だが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。」というのです。
これらのことは、わたしたちが生まれる前から起きることが決っていて人の意志ではどうにもならないことですから、まさに運命ですね。
では我々はそういう起きることが決っているが、いつ起きるのかは聖書にも書いていないことに対してどう対応していったらいいのでしょうか。
聖書にも書いていないことは神が意識して隠されていることで、そのことに関しては、知ることができないからそれを理解することもできないし、それに対して祈ることもできません。
だから、そのことは、人間がどうであれ神様の意志としてなされることだということなのです。対応不可能です。
ある時がきたらそれは明かされるかもしれないが当面人間はこのような運命に対してどうしたらいいでしょうか。もちろん、そのことが世界の終末に関係がなくても人生で日常に起こることでも同じことです。
答えはただ一つ、神はわたしたちを支配されているのですから、神を信頼すること。
知らされていないけれども、聖書に記されたことを真面目に守って生きていれば、父なる神はよきに計らってくださる。こう信頼するのが聖書信仰の核心のようです。
で、つまるところ「聖書にも記されていないことがある」となれば、人間個々人の人生は、その人が生まれる前からあらかじめ計画されているのかもしれない、ことになります。
計画ですよ。決定ではありません。決定は人がするのです。人には自分の意志でどうにもならない、聖書にも書いていない運命があるかもしれません。
このように考えてみると、この世の出来事の中で人の意志ではどうしょうもないこと、つまり運命は神の隠された意志といえるのではないでしょうか。ならばどうしょうもないことは、神を信頼して生きるしかないと言えます。
いろいろ書きましたが、この世の出来事のほとんどは自分が過去に選択した結果であることが多いように思います。
自分の知らないところで決められたこと、すなわち生まれた時代、生まれた国、生まれた親、持って生まれた知能、身体機能などは自分の力ではどうにもなりませんから運命なのでしょう。
それらは神がその人に下さった賜物とも言えます。そういう条件の中でわたしたちはどのように生きるかが問われていると思うのです。
第五章.現世を生きる
この世は辛いことが多すぎます。辛い人生の渦中にいる人に、わたしが、人生如何に生きるべきか、なんて偉そうなことを言っても、所詮言っているだけ、このようなブログを書いていてもわたしの自己満足に過ぎない。
人間の忍耐には限界があります。しかし、自分に取って意味のある苦難であるならそれは担うことも容易です。
また、その苦難に有無を言わせないほどの意味を与えるのは神の意志だとどこかで聞きました。
いまの苦難が神の意志であることに確信がもてればよいのですが・・・。
それは信仰ですね。神の意志だと確信がもてれば、その苦難は、意味があり希望があるということになります。
神が支配されている世なら、この世の苦難はすべて神の意志だといえます。
聖書には、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書第6章34節)と書いてあります。
確かに、明日生きているかどうかさえわからないわたしたちですから、何を心配している、といわれればその通りです。でも人間は弱いものです。
心配するなといわれても心配する。現実は、何も考えずに能天気に生きることは難しい。
先の聖句は、おそらくどうにもならない心配のことを言っているのだと思います。真面目にやるべきことをやっていれば神が何とかしてくださる、という信仰を言っておられるのでしょう。
艱難の最中にいる方から、なぜわたしがこのような目に会わなければいけないのか教えてくれ、と言われたら、納得できる答えは多分出来ないでしょう。
人生の艱難は、何処までいってもその人個人の問題で、そこに艱難の意味があると思いますから・・・。
この世の出来事の全ては、原因があって結果があるという考え方があります。今あるわたしは、いままでにわたしが歩いてきた結果。
生まれたときは、誰でも可能性が一番大きい、それから生き方を選択する都度、選択幅は、可能性は小さくなっていく。
そして年老いて可能性は殆どなくなる。ところが、生きようとする力、精神力はどうであろうか。
重度の障害を持つ人、不治の病におかされた人、経済的に追い詰められている人などは人生をギリギリの状態で生きておられる。
それらの人は、大きなハンデイを負った上で、ハンデイを受容した上での生き方が問われています。
とくに、死に直面した状況の中にいる人は、「生きる」ことへの問いが真剣に問われています。
人間、どんなに辛いことが多くても生きることをあきらめることは難しい。あきらめたといっておられる方も決してあきらめてはおられない。
それは創造主の意志。命ある限り一生懸命生きるように造られているからだではなかろうか。
生きることをあきらめることは自殺すること。神は自殺を誡められています。生きていることに少しでも希望があれば人生はあきらめられない。
最近老人問題が多く論じられています。
関心があるのでときたまそれに関する記事を読みますが、それも結局は「生きる」こと、「生き方」の問題に尽きると思います。
老人は、肉体の機能が衰え、社会的にも疎外されるという状況の中で、人間として生きるとはどういうことかが改めて問われているのだと思います。
社会から疎外されることほど辛いことはありません。人との繋がりがなくなることほど辛いことはありません。
誰も関心を持ってくれない、名も知れず、会話する人もなく、存在すら知られず静かにこの世から消えていく、孤独死が多いと聞きます。
このようなことを考えると余り長生きはしたくないものです。
人間の精神は本来、自分という者を自覚して生きるように造られています。
逆にいえば自分を主張するために人生を生きているようなものだと思います。
だから、生が否定される、否定されかねない状況に至っては、否応なく生き方の問題が自覚されるようになる。
そして、精神は「何のために生きるのか」、「よく生きるとはどういうことか」「どうすれば生きられるのか」と問いかけます。
肉体が死に直面するときも、死への不安を超えて未来に生きようとする力を与えられているはずだと思います。
なぜなら、本来人間は永遠の生命をもった存在であるからで、永遠の存在である神から離反した人間にはそれが認識出来ないだけではないだろうか。
聖書によると、この体は土のちりで造られたが、動物にはない神の命の息が吹きこまれて、人には魂が宿り、生きるものとなりました(旧約聖書創世記2章7節)。
ここで命の息というのは魂、つまりプシケーで、プシケーとは精神、魂、生命を意味する語ということです。
人は動物のように単に生きているだけの身体になったのではない。魂が宿り、将来を考えて生きるようになった。
そのため人はよりよく生きるために、からだの健康に留意しつつも、究極的には生きる力とか精神を魂に求めざるをえないものとなった。
しかし生きる力としての魂は、地上で生きるためのものであるから、魂が死ぬと、魂に属するからだは腐敗し土に帰ります。
聖書では、人を真に生かすものは魂ではなく霊だということになっています。
魂と霊はよく似ていますが全く別のもので、魂は人間が地上で生きるために生まれながら持っている固有の命で、霊は創造主である神に属します。
魂は自ら生きる力を与えられているが、地上だけのものだから限界がある。
霊こそ人を真に、永遠に生かす力だということです。
人は創造主である神からの霊を受けてはじめて永遠の生命を持つことになる。
人は、創造主に似たものとして造られているから、本来は霊と交信する能力をもっているはずです。
人は本来永遠に生きるものであったが、創造主からの離反により神の霊との交流が出来なくなって、死ぬ者となりました(旧約聖書創世記3章19節)。
聖書は、イエスを知ることは神を知ることと教えています。
それは、イエスの復活の御霊、聖霊がイエスを信じる者の中に内住することによってなされるとなっています。
このとき、魂は自分の故郷が神のもとであって、本来永遠に生きる存在であることを知ります。
そうなれば、魂はこの肉体の死が故郷へ帰るための単なる通過点に過ぎないことを知り、現世を生きる苦しみを、死への不安を乗りこえることが出来るということでしょうか。
その先の世界に希望がもてたら、現世を生きる生き方も自ずと変わるでしょう。その先に希望をもって喜んで死んでいくクリスチャンも多いと聞きます。
魂(命)は、本来輝いているものだと思いませんか。理想とする生き方とは、そう言うものではないだろうかと思うのですが。
いずれにしても、人間にはできないこと。
神の霊、聖霊の助けがあって始めてできることだと思います。
前記した問題の解決方法は、やはりイエスを信じることのほかに方法はないということになります。
わたしも、そういう信仰をもてたらいいなと思います。他に何か方法があるでしょうか。わたしにはわかりません。
「最初の人アダムは命のある(プシケー)生きものとなった。と書いてありますが、最後のアダム(イエス)は命を与える霊(プニュマ)となったのです。」(新約聖書コリント人への第一の手紙 15章45節後半)
第六章.神の畑
人生に問題を抱えて生きるのは、それもそれを持続して生きるのは、容易なことではありません。強い精神力が必要だと思います。
しかし、その問題も強烈なストレスを生むようなことでは大変ですが、少しの緊張を必要とします。
程度のことなら、日々の生活に、心に張りができて生甲斐を与える一助ともなります。
そのような緊張感があるほうが人生にはプラスに働くように思います。
このようなことを書くと、真面目だな、人生なんか真面に生きたらやってられないぜ、といわれそうです。でもわたしはなぜか人生を真面目に生きるのが好きです。
-----
どのような大きな人生の問題も解決する方法があります。
それは自分を創造した神の存在を認めて、自分の人生を委ねる事だと思います、と大きく言いましたが、この世に生きている限り、そのような信仰を持ち続けるのは現実には困難かもしれません。
わたしなど俗人にはなかなかできることではありません。でもそのような人生を歩んだ、一部の選ばれた先人は、そのような歩き方をすれば、逆に人生が楽になったといわれています。
人生の最終段階で、わが人生に無駄がなかったと言えるようになるためには、やはり自分を創造した神の存在を認める必要があるかと思います。
その神が、わが人生の、数限りない悔いを残す無駄の全てを取りあげて用いてくださる神であるならば、また人生の全てをその神の知恵と恵みに委ねることができるならば、きっと、わが人生に無駄はなかったといえるのでしょう。
この世の価値、つまり、名誉とか、財産とか、権力とか、これらは現世を生きていく上にはある程度必要なのでしょうが、そればかりに気を取られていたら、
際限がなくなり心の空虚は埋められず、人生の最後に、生きてきた人生を振り返ったとき、一生懸命になって得たものをすべて捨てていく自分をみて、空しくなるのではないだろうか。
次の世に持って行けないものは、次の世に希望をつなげられないものは、所詮、人の心を埋められないと思います。
造られたものは、造られた目的に沿って生きることがもっとも無理なく充実した人生を送れるのではないだろうか。
人間は、汚れものを洗うために洗濯機を作りました。汚れものを洗うこと以外に利用されることほど洗濯機にとって不幸はありません。それは、最善に利用されているとはいえません。
もちろん、わたしはその創造主である神は、イエス・キリストと言いたいのですが、なぜこのようなことになるかといいますと、
今までに、人間が存在する意味とか人間を含むこの宇宙の存在の意味を的確に答えた人、そして、人類の歴史を二分するほど大きく変えた人は、歴史上にいたでしょうか。
唯一そのことにつき命をかけて応えられた人物が、約2000年前にこの世にこられたイエス・キリストなのです。
創造主の存在を認めないなら、そのような問題は起こらないのですが、創造主の存在を認めたら、何らかの形で被造物の歴史に関与されていると見るのが自然だと思うのです。
わたしにとって、それはイエス・キリストなのです。
なぜなら、イエス・キリストが現実に生きて働いておられることは、この人類の約2000年の歴史が証明しているからです。
いや、旧約聖書の時代を含めたら、約3000年以上にもなります。
聖書によれば、わたしの人生を完成するのは、わたしではなく神であります。わたしを造った神が、人類の歴史だけでなくわたしの生涯の計画をお持ちであるという。
そして、その計画(御心)を成就しょうとされていますが、その御心を受け取り、従うかどうかはわたし自身に委ねられています。
創造主である神の存在を認めない人に、御心を示して計画を実行しょうとしても無駄ですからこれは当たり前です。
だから、イエスはわたしたちにこちらを向きなさいという神の御心を伝えに来られました。
そして、最終的にその御心を、十字架という強烈な方法で示されました。
十字架で全人類の罪は購われましたが、その恩恵を受けるかどうかは、人間一人ひとりの自由意志に委ねられました。
わたしにはいろいろやりたいことがあるけれど、でも御心ならば全てを捨てて従います。そのような信仰があれば、わたしの人生は、自分を造った神の御心に添っているのだから決して空しいものではなくなるはずです。
聖書には、人生で経験する全ての不運とか艱難辛苦などに無益なものは何もないと書いてあります。
なぜなら、神がわたしの経験したことの全てを最善に用いてくださるからです。
不運とか艱難辛苦は、人間を創造した神が、素材である人間に加える工夫であり、試練であり、練磨だというのです。
そのように悟るとき、その人間は積極的な意欲をもってそれらに耐えることができると思うのです。なぜならそこには希望があるからです。
ローマの信徒への手紙第5章3節から4節「苦難を誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと言うことを。希望はわたしたちを欺くことはありません。」
これはイエスの使徒パウロの言葉です。神から与えられた苦難は、忍耐すれば希望を与えてくださると言うことです。
この希望は神から頂いた希望ですから決してわたしたちを裏切ることはありません。
なんの取り柄もないわたしでも、用い方によっては、欠点は長所に、長所が弱点として最善に用いてくださる。
こうして、創造主である神は、わたしという作品を完成に向けて、その素材の全てを活用して下さる。
人間の評価は、その人の人生を全体として一つで評価して、最終段階で創造主である神が下すべきものといえると思います。
わたしも、若いときにイエス・キリストを知っていたら、もっとしっかりした人生を歩んでいたかもしれない。
八十のもなるのに、わたしは、未熟で素材に近いのかもしれない。収穫できる状態でないのは確かだと思います。まだまだ死ねないと思います。
人間の社会は、そのように考えると神の畑と言えると思います。
収穫の時に、腐っていてゴミかごに捨てられないようにしたいと思います。
今日の聖句は、新約聖書、第一コリント3章9節「わたしたちは神のために力を合わせて働くものであり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。マタイによる福音書9章38節「収穫の主は神である」。
第七章.死を迎えるための準備
聖書は、人間には、肉体の命と霊的な命の二種類があることを教えます。
そして死にも、肉体の死と霊的な命の消滅を意味する死があることを教えます。
ルカによる福音書第12章4節にこのような聖句があります。
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
この聖句は、肉体の命より霊的な命の方がはるかに重要であると教えます。
なぜなら、肉体の命は次の世へ行くときに滅んで消えてしまいますが、霊的な命は、本来永遠に生きるもので、神様に離反してから死ぬものとなったのですが、その命の消長の権利を握っているのは神様だから神様を恐れなさいということです。
この世には、不条理、不公平が多く正義はなされない。試練も多く忍耐が試されることもたびたびであります。
もし試練の彼方に、天国があると信じることができれば、試練も喜びに変わると聖書は教えます。
あなたの創造主である神と和解ができれば、つまりイエスを信じれば、神の霊、聖霊がその人の内に住み、その人の罪をぬぐい、次の世では、復活させ天国へ導いて下さると言うことです。
人間は、子孫を残し自立させてもまだ平均寿命まで三十年は生きながらえます。
これは、動物のように子孫を残せば、自立させれば終わりではないということになります。
与えられた三十年は、おそらく動物にはない、肉体の死を迎えるための、次ぎの世に備えるための準備期間が与えられていると考えられないでしょうか。
人は生きてきたように死ぬという意味において、死は人にとって一生をかけての最大の事業であるといえます。
しかし、死が肉体の消滅で終わりなら、大事業ではなく、ただ肉体が滅んだらその人の人生は終わるだけであります。
あとには何も残らない、無であります。土の塵で造られたから塵に帰るだけです。
ところが、人間は肉体の死で終わりでないと、聖書は教えます。
あなたは霊が本体であるから、あなたの霊の故郷である神の身元に飛び立つまでこの肉の器の中で準備をしなさい、それがあなたに託されたこの世における最大の事業であるといわれています。
死は生の一部、単なる通過点ということです。
青年期から、聖書出会い、死の訪れを心して待つ人には、死が光栄に満ちた仕事であると信じられるときが来ると聞きます。
わたしのように、五十も過ぎてから聖書に出会い死への準備が始まったとすれば、なんとも心もとない。
でも、神様のなさることは時に適っているとすれば、わたしを聖書に出会わされたのは、まだ遅くはない、これから死の準備をしなさい、人生最後のお仕事、次の世の準備をしなさいといわれているような気がします。
どこかで読んだのですが、「死が恐いというのは、おそらく死んだ後のことが分からないから、想像によって喚起されるからだ。」と書いてありました。
死は経験していない未知のことだから、取り乱しておそれる人も架空の想像上の死を恐れているのだということです。
人は未知のことには恐れを抱くものです。
わたしは、未知の世界のことを伝える聖書に出会い、そのように死への恐れが観念的なものなら、信仰を持てばその恐れから乗り越えられるのではないかと思うようになりました。これも死ぬための準備と心得ております。
死への準備は、この世に生まれてきてすぐに始まります。
人生には幼年時代があり、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代があります。
これ全体にして一つ。各時代を経験して人格は成長するもので、老年を迎えて人生は完成します。
そこまで生かされたら、神様の祝福だと感謝すべきではないでしょうか。
でも、よく考えれば、人一倍生きるということは、祝福された人生であれ、どのような人生であれ、それは神様がなされたことだから、すべてその人にとって最善であるということでしょう。
だから、やはりそれは恵みであって感謝すべきと思います。
この世で経験した全てのことは、その人のためにプラスになるように用いてくださるのです。その言葉を信じましょう。
死は人格成長プロセスの最終段階という考え方をすると、中世ヨーロッパでは「死とは時間をかけて、努力して磨き上げるべき芸術」だという思想があったということです。
汝、死すべきことを覚えよ、ですね。
パスカルは、人生の目的は幸福であるとした上で、真の幸福を考察しています。そして彼は、人間が幸福になるには、死の問題を克服し、来世での幸せが保証されなければならない、と確信します。
「死んだら死んだときだよ」とウソぶき、まじめに死を考えようとしない輩は、パスカルに言わせれば”人間じゃない”のかも知れません。
歳をとると、肉体的には脳細胞の数が減り判断力も、記憶力も、そして、筋肉も衰えてきますが、精神はその人の精進次第で最後まで成長すると言われています。
三十代のときの考えより、五十歳、六十歳、七十歳と年を重ねるほど思考も豊かになります。人生楽しければ長生きしたいと思います。
でもその楽しいということに一つ加えれば、もし、老年期に苦しみにあっても、その苦しみに意味があれば楽しいと言えるのではないでしょうか。
もし、人一倍長く生きることができたら、神様がきっと意味があってそのようにされていると思います。そうであれば、長生きは祝福です。
わたしは、人間が神の創造された作品であるならば、この世で経験するすべてのことに意味があると思うのです。
老人になることは、淋しくもあり苦しくもある。なぜなら、自分の身体の自由がきかなくなったり、記憶力が悪くなったり、美しい人が醜くなったり、社会的地位を失ったり、親しかった友もいなくなるからです。
後に残るのは自分の気力と人格だけです。
人は少しずつそれらのことを受け入れながら、多くの人はその中で成熟します。いや、真実はあきらめかもしれませんが、死ぬための準備といえるのではないでしょうか。
そのような中で歩む老年期は、人格の完成期とでもいうのでしょうか。逆に老年を知らずに若くして死ぬことは人格を完成させずに死に逝くことになりますが、神がそうなされたのなら、その人の人生はそれで完全であるととらえるべきだと思います。
だから、わたしの人生も、神に召されるときがくれば、そのときがわたしのこの世の人生が完了したときといえます。
その時がいつ来るのか、わたしには分からないから、すべてを創造主である神様に委ねて、そのときが来るまでその日その日を大切に生きていけばそれでいいと思います。
わたし達人間は、いつ死が訪れるかもしれない。明日かも分からない、だから、今を一生懸命生きること。
後悔しないために今日すべきことは今日しょうと思う。わたしが死ぬときをご存知なのは、わたしを造られた創造主である神様のみであります。
最後に、長生きすると良いことがあるということを紹介します。長生きできることは神の祝福と思います。
なぜなら、あるお医者さんが言っておられました。高齢になると病気の症状は軽くなります。ガンが進行してもゆっくりとなります、痛みに対する感受性も低下します。八十も過ぎると、無痛性心筋梗塞というのもあります。
安らかな死を望むなら、できるだけ長寿で健康に過ごすことが痛みのない自然死を迎えることが出来るということです。
神に祝福されて、長生きすることはいいことずくめですね。老衰で死にましょう。楽に死ねて、次ぎの世に確りと希望を持てる信仰が持てれば最高です。
第八章.永遠への旅人
わたしたちは、何処から来て何処へ行くのでしょうか。聖書では、人間の始まりは、創造主である神様によって造られました。そして、人間は本来霊的存在で、永遠に生きる存在として造られています。肉体をもった姿はこの世の仮の姿だということです。
人生を旅にたとえることが多いのですが、通常旅に出るときは、わたしたちは計画を立てます。行き当たりばったりで、旅にでる楽しみもありますが、人生の旅はやはり計画を立てて歩むのが、人生の質にかかわることだから正解ではと思います。
人生の生甲斐や、意義について深く考えながら計画を立てる。計画をたてるポイントは、明確なゴールをもつことだと思います。
人生を考えると言うと、考えても仕方ない、そのような暇は無い、考えても答えが出ないから仕方ない。という答えが返ってきそうですが、人間は考える動物といいます。
太古の昔から人間は人生を考えてきました。分からないことがあると、考えざるを得ない、というのが人間の本質ではないでしょうか。
神様は、永遠を思う心を人間に与えて下さいました。この思いは動物にはない人間特有のものだということです。
人間は初めがあり終わりのない永遠に生きる存在であるから、この永遠を思う思いも当然具わっていて当たり前だといえます。
何となく学校へ行って、就職して、結婚して、子供を産み、何となく定年は来た。そのときそのときを流されるままに生きる、そのような人生もありますが、まさに酔生夢死の世界です。それで済むのなら人生は幸せかも知れませんが、人間が人間たる所以は何処にあるのでしょうか。
人生を考えなければ、きっと、信仰を持つ必要もないのでしょうね。自分の存在なんてどうでもいいや、といえるのかな。わたしにはわかりません。
生きることだけで精一杯、人生を考えるなんてとんでもない。そのような人からわたしなどを見ると、答えも出ないことをああでもないこうでもないと考えて、暇だね、変わり者と言われそうです。
いや、事実言われています
そこに宇宙があるから考えるのです。そこに人生があるから考えるのです。そこに聖書があるから読むのです。では回答になりませんか。
この世には人間に理解できない、神秘なことが多すぎます。
たとえば、愛、自由、出会い、苦しみ、存在、誕生、生と死など、これらのことは考えても分からない、分からないから神秘に思える。
神秘なことは避けるのではなく、支配するでもなく、素直な驚き、謙遜、畏敬、開かれた心で接すること。日本の神道は、神秘なことに対して、まさにこのような心で接しているのではないでしょうか。
わたしは、人間は神秘なこと、分からないことに興味が向くようにできているのだと思うのです。
だから西洋科学が発達し、宗教があり、哲学がある。
なにもそのことを専門に考える学者でなくても、一般人でも不思議なことは不思議ですから考えてしまいます。それが自然だと思うのですが、いかがでしょうか。
永遠を思う気持ちは、動物には無い人間にしかないものです。だから人間には科学があり、宗教があり、哲学があるといえます。
運動にも食事にも気をつけるのは、生涯健康で居たいと思うからそうします。生涯健康でいたいのは誰でも同じだと思いましたが、知人に言われました。
健康に気をつけて、食べたいものも食べずに長生きしても仕方ないでしょう、食べたいものを食べて、したいことをして、そのために人生が短くなっても、太く短く生きるのがいいですよ、と言われました。
しかし、もっと現実的に考えて、その人は老いても人に迷惑をかけるような事態にならない自信があるのだろうか。先のことは人間には何もわからないはずですが。現実、病を持ちながら長い老後を病院で過ごしておられる方も大勢おられます。
生涯健康でいたいと思うのは、生甲斐を持ち続けることに通じると思うのです。老いて、役に立たなくなれば、人に迷惑をかけます。迷惑な存在になれば、生甲斐をもつどころではなくなります。
本当は誰でも介護されるよりも、年齢にかかわりなく自立した人生を歩みたいものです。
わたしたちは、自分の意志でこの世に生まれてきたわけではありません。今ここで出会った、あなたもわたしも、いわば人為を超える大いなるもの、創造主である神の力によって生かされているのです。
そうでしょう、この世界は、理解できないことばかりです。人間そのものを見ても、自然界を見ても大いなるものの存在、創造主である神の存在を認めないと理屈が合わないのです。
そのように考えれば、自分に生命を下さった、創造主である神様に対する感謝の念が自然に湧いてきて、神様に、そして周囲の人に対して素直に、ありがとう、と感謝の気持ちを口にだせるかも知れません。
健康でいても病んでいても神様がともにいてくださることを知ることができれば、そこに平安と歓びがあるかもしれません。
わたしは第三の人生を歩んでいます。それも最終段階です。
人生の旅の段階は、第一の人生は、教育を受けて自立する人生。大人になるための準備期間。言い換えれば親の命令で生きる人生。第二の人生は、社会人として働く人生。言い換えれば、関係する会社とか組織の命令で生きる人生。第三の人生は、定年退職してからの人生。言い換えれば、自分の命令で生きる人生です。
第三の人生は(現役リタイア後の人生)、平常心、忍耐、聞き上手、寛大さ、希望、思いやり、そういった内面的な価値を発見していく旅になると思います。
主演俳優が、一番懸命に演じるのは、一幕でも二幕でもなく最後の三幕目であると思います。死を認識して積極的に生きる人生です。人格形成の最終段階です。
次の世があることを前提にして、はじめてこの世の生と死に意味がもたらされると思います。人生最大の試練は、死への直面、死を学ぶことは次の世に希望をもつこと。これは、生きることの尊さを学ぶことでもあると思います。
死を理解してこそ、生きている人間を真に理解できると思います。
これならわかっていただけますね。
そうです、人生を考えるということは、生きることを学んでいるようで、死ぬことを学んでいるのです。
もちろん、死と次の世のことは永遠の謎、神秘な面が多いですから、信仰でしかとらえるしか方法はありません。聖書は、次の世を、永遠を考えるための指針を与えてくれます。
死と次の世のことを、信仰によってでも、一応自分なりにとらえることができれば、きっと人生の意味を真に理解できるのではなかろうかと思っています。
そのためには、新約聖書が最もふさわしい書物です。新約聖書は2000年前に書かれた世界最大級のロングセラーです。
その時代のイエスの教えやイエスの行動の記録であるのは勿論、読めば読むほどその深みが分かってくる、永続性を持った神秘な書物です。聖書を読んで、永遠を考えてみませんか。
最後に、永遠への旅人の最終段階は、わたしが思うにおそらく人間の霊は人格を持ったまま神と合一するのではないかと考えています。その聖句は、旧約聖書コヘレトの手紙第12章7節「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」
第九章.この世は、愛と忍耐を学ぶ場
わたしは若いときから、仕事に就くことを、人間としての課せられた義務だと考えていました。
だからこの世に生まれて成人すれば、働くのは当たり前、働かない人生は考えられませんでした。
今の若いかたは知りませんが、わたしが若いころは誰でも働くことを当然のように思っていたと思います。
人は誰でも何らかの意味目的をもって働いていると思うのですが、わたしの場合は、職業を持つことは、生きていくための糧を得る手段でありますが、反面それが社会に参加する手段であり、人々が助け合って生きている社会の一助となり、自分を訓練することになると思っていました。
そうすることがこの人間社会の中で生きていくために課せられた義務であり喜びであると思っていました。
イエスはこのように言っておられます。
マルコの福音書第12章30節で、「第一の掟は、・・心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。」、と。
もちろん、隣人には自分に不利益を及ぼす人もいるし嫌いな人もいる。そのような人も含めて、神を愛したら隣人を自分のように愛せると言っておられるのです。
そこには何の条件も無い。自分を愛するのに人は条件をつけませんからね。
そして、これは自分の命令(掟)だといわれる。命令なら、嫌でも、その意味が分からなくても従いなさいということになります。
これは、それほど重要な、イエスが弟子に言い残した命令なのです。
イエスの弟子にということは、もちろん、イエスを信じる者、クリスチャンすべてにです。
だから教会では、お互いを兄弟姉妹と言い合います。クリスチャンは、イエスを長兄とするイエスの家族なのです。
隣人を愛する、思いやるということは、容易く行い難しですが、神様を愛していればできるのです。
それらのことは、人間関係を平和に保つには、ほかの何よりも必要不可欠だということです。
もちろん、この「隣人を自分のように愛しなさい」、というのは、相手の立場にたち、同じ目線で互いに助け合い、支えあいなさいといっているのです(ヨハネによる福音書第15章17節)。
詳しく言えば、自分が不利益になることでも相手が困っていれば1人の人間としての立場から助けること。その人が望んでいることをしてあげること。
嫌いな人は、好きになれということでなく、嫌いなままでも良いから、今目の前にいる嫌いな人に、人間として自分がなすべきことをなしなさいといっておられるのです。相手の人格を尊重しなさいということだと思います。
この世界には、悩みとか苦しみがなんと多いことか。戦争、難民、貧困、病苦そして、惨事・・・。人はそれぞれ自分の十字架を背負って生きています。イエスのいう愛と忍耐を実践する場としては最適です。
創造主である全能の神が、この世を支配されているにもかかわらず、あえてこのような世界を放置されているのは、人間に愛と忍耐を教えておられるとしか考えられない。
もちろん、神はこの世の出来事に対し、積極的にあるいは消極的にかかわらず関与されています。神に愛された人ほど、神に見込まれた人ほど、苦難に合うと考えられないでしょうか。
事実、キリスト教の歴史を見るとそのように思えます。
愛とは、相手の立場にたち、同じ目線で互いに助け合い、支えあいなさいということ。イエスは、隣人愛を実践しなさいという。
自分の周囲で自分を必要としている人を、自分に対するときと同じように助けなさい、あなたたちは支え合いながら人生を送りなさいと言っておられる。
ならば職業を持つのも、助け合う、支えあうことになるのではなかろうか。自分が仕事に就くことは、この社会を構成している、支えている一員になること。
そうすることが、この世に貢献していることになると発想できないだろうか。もちろん、報酬を得ることにより自分の家族の生活を支えていることにもなります。
わたしが着ているこの衣服、そして毎日食べている食物、これ全て人が作ったもの。そして、それらを与えてくださったのは神様のめぐみ。ならばわたしも何等かの方法で社会に参加すべきだと思います。
その結果、得られる日常生活をしていくのに必要なものは、自分が働いたお金で買ったのだから当たり前と思わずに、仕事に就けるのも、こうして生きていけるのも神様の恵みのお陰と感謝する。
こうして考えると、キリストの神ではなくても日本人は昔からそのような心で神棚を拝んでいたのではないだろうか。
絶対者の存在を認め、謙虚になることが何よりも必要なのです。人間が傲慢になればろくなことがないのですから。
職業につくことにより、社会に参加し、多くの人と交わることにより、人間が愛と忍耐の実践で訓練され成長する。
こうして人間は神の愛のなんたるかを知る。神の愛が成就されるところには、平安と喜びが満たされます。
わたしは、ささやかな自分の無償の愛に対し、感謝された時の何とも言えないさわやかな喜びを経験したことがあります。
過去を振り返れば少なからず誰にでもあると思うのです。それは神の御心にかなっているからだと思います。
資本主義社会は、今のところ人間社会を維持する最善のシステムですが、所詮人間の世界は何事も相対的であることをわきまえて、どのような社会システムも、相対的であるかぎり、社会的弱者、敗者が生まれます。
それらの人々に配慮し、病の為に働けない人を助けることは当たり前で、たまたま自分は健康に恵まれて、強者の立場になったからといって自慢などせずに、自分が今あるのは神様の恵みと考えて神様に感謝する。
そのように考えれば、神の愛、隣人愛の実践も、すこしはできるかと思うのですが、毎日を生きていくのに精一杯の我々は、そのようにしたいと心で思っていてもなかなか行いに至らないのが現実です。
現世を生きている限りやむを得ないところがありますが、ただ神様にお赦しを乞うて生きていくしかありません。
でもせめて、そのような面から職業を見ると、仕事をもつことは、健康な人に課せられた義務といえるのではなかろうか。そのように考えれば、毎日のいやな仕事も少しは楽しく前向きにできるのかもしれません。
第十章.生かされている意味
一部の突然死されるような方を除いて、人は怪我とか病気のために寝たきりになり、社会とのコミニュケーシヨンを取れなくなっても簡単には死ねません。
なぜすぐに死が訪れないのか、ポックリと死にたいと望む寝たきり老人に死が訪れるのに十年もかかることがあります。
これは何事も効率的に出来ている人間の体の仕組みからみると非常に矛盾していると思われます。
それは人間が抗生物質などによる医学の進歩の成果としての延命の結果なのでしょうか。人間は、遺伝子に死のシステムが組み込まれていると聞きますが、その死のシステムはどうなっているのでしょうか。
死はすぐには訪れない。そこにはやはり何か意味があるはずだと思いませんか。植物状態とか痴呆の為に社会とのコミニュケーシヨンを取れなくなった人でも生かされているのは、どのような意味があるのでしょうか。このような疑問をもつのは、おかしいのでしょうか。
周りの動植物は、大概は子孫を残せば枯れて死んでいきます。
人間だけが、子供が一人前になっても、例えば、その時の親の年齢が五十歳とすれば、まだ、男の場合平均寿命まで二十九年もあります。
女性は、排卵が止まっても三十年以上は生き続けます。
考え方として、ある1人の人が地球上に生きていることが、周りの人にどのような影響を及ぼしているか、廻り回って大勢の人に影響を及ぼすということでしょうか。
一人では小さな影響であっても、集まれば相当に大きな影響を周りに及ぼすのではと考えるのはどうであろうか。
社会とのコミニュケーシヨンを取れなくなった寝たきりの人が存在するには、酸素を吸い食べ物からエネルギーを作り出します。
これだけではごく小さな病院内での出来事かもしれませんが、しかし、この小さな出来事にかかわる数多くの人がいます。
例えば、看護師、医者、家族、ヘルパー、病院の職員、健康保険・介護保険に関わる人、食事を作る人、医療に関わる人。
それだけではない、ある1人の、寝たきりの人のその存在は思いもよらないところに有形無形の影響を及ぼしていることもあるでしょう。
いくら隔離された病院内に動けないまま生きていても、最終的には他の人間の住む環境に、心に影響を及ぼしていることもあると思うのです。
逆に考えれば、寝たきりの人にすぐ死が訪れないのは、その人の存在がもたらす周りへの影響力に意味があるからではないのだろうか。
他国で起きていることは、わたし達にはまったく関係の無い出来事のように思いますが、しかし、それは何らかも形でわたしたちに遅れて影響が出てくる、といえないだろうか。
ましてや、健康で活動的な人の社会に対する影響力は大きなものがあるように思います。わたしは、そこに人と関わる手段として仕事をもつ意味を含めて社会でいろいろな人と関わる意味があると思うのです。
わたしは、何事にも、わたし達がこの世に存在しているのには意味があるとかねてから思っていました。いやそのように思いたいのかもしれませんが。
だから、仕事、家庭、勉強、人と交わるあらゆる活動に意味がある。人生を生きる上で必要な何事にも意味がある。
いま世界で起っている戦争を含めすべての出来事に意味がある。全人類の一人一人の人生に意味があると思うのです。
患難が、人とのかかわりがその人の人格を磨くとか、霊的訓練だといっても、人とのコミニュケーシヨンをとれなくなれば、そのことはどうなるのでしょうか。
他の動物のように、子供を産み育てるだけなら五十年間も生きれば十分だと思うのですが・・。
しかし、人間は五十歳では死にません。それはただよけいに生かされているというだけでなく、そこに存在意味があると考える方が自然だと思うのですが。
人間が死んでも残せるもの、それは子孫と主に言語を介した文化です。残せるものの一つである文化を残していくという意味では、生殖年齢を過ぎ子供がひとり立ちになっても生きる意味がある、このように思いませんか。
解らなければ、最終的には聖書を開くしかないと思っていますが、答えが出ないこともけっこうあって、そういう場合は、いつかそのうちわかるはずだと思うにとどめています。
もしかしたら、真理を見つける鍵が人生のどこかにしまわれていて、これを見つけるために、人は苦しまなければならないのかもしれません。
その苦しみは、この世に生きている限り逃れる術がない。神様は簡単にはこの世の真理を教えてくれません。
植物人間になっても同じです。隣に植物人間になった人がいたら、きっとその人はわたしに暗黙の内に何かを語りかけているのかもしれない。
そして、その鍵が見つかったら、真理の扉が開く。でも、その扉は入り口にすぎない。その先はどのようになっているのだろうか。終着駅は次の世かもしれません。
神を信じるとは「世界を創造しその中で起るすべての出来事を統御する意志が存在することを信じること」という言葉があります。そして、永遠に存在する神、はじめにおられて万物を創造し完成する方。
この方を知りこの方の意志にしたがって存在するとき、この塵芥のようなわたしたちの存在も、永遠の意味を持つようになるのです。
もちろん、塵芥と言う意味では健康で活躍している人間も、寝たきりになり社会とコミニュケーシヨンを取れなくなった人間も、同じ存在だといえます。
このような神を信じることがなければ、人間は存在の意味を失い、地球上をうごめく虫けらのごとき存在となる。
世界は、それこそ弱肉強食の論理が支配し、不条理・不公平が闊歩する世界となり、修羅場と化す、と今のところこういう結論になりました。
つまり、生かされている意味についていろいろ書いてみましたが、最後はわからないから、人間を創造し、この世を支配されている神の意志を信じる(信頼も含めて)ことにしました。
そうでないと、何を縁に生きればよいのかわかりません。生きているのに何も縁がないのなら人生が余りにも空しくなります。人間が蛆虫のような存在で無いことを信じて終ります。
いやいや蛆虫でもきっと生きている意味があるのでしょう。
最後に、内村鑑三先生の言葉を紹介しましょう。
「この世は一単位であり、人類は一大家族である。これは余が余の基督教の聖書において読むところである。愛国心は・・このことを否定するように見えるけれども。諸君は他人を完全にすることなしに諸君自身を完全にすることはできない。・・外側の成長は常に内側の成長を意味する。それは反射作用である。」
人間関係とは、社会と関わることの意味とはこういうものなのでしょうね。
第十一章.聖書を読み人生を読む
悪魔(サタン、悪に誘う力)はいると思いますか。わたしはいると思っています。もちろん会ったことはありませんが、推測です。
創造主である神様がいて次の世があって、天使がいるなら当然悪魔もいます。悪霊もいると思います。悪霊には人間の迷える霊とサタンの配下の天使の場合があると思います。
次の世があるなら人間もいろいろですから当然いてもおかしくはありません。神様も悪魔も天使も悪霊もすべて霊的存在です。
だからわたしたちの目には見えない存在です。
わたしたち人間の背後にはこのような霊的存在の力が働いていると思うのです。聖書はそのようなことが実在することを前提として語られています。
なお、念のためですが、神様が悪魔らを造ったのではありません。神様は悪を造れません。彼らの前身は天使です。
天使の長が、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい。」と思うようになり、部下の天使に命じて自分の王国を造ろうとする。
そうすると神様から離れるので、神様の恵みを受けられなくなり変質してサタンになるのです。サタンになった天使の長は天使の内3分の1を配下に置き(旧約聖書イザヤ書14章12-15)、
この天使が「天の諸々の悪霊」に変質します。この聖句で、曙の子、明けの明星とは、前身が天使であるサタンのことを言うのだと思います。
この見える世界の背後で働く見えない世界の勢力の説明はこのくらいにしておいて、聖書では、イエスとユダヤの権力との関係を「神と悪魔」の関係において捉えています。
これは、客観的、歴史的出来事ではありませんから、学問的に実証できません。ところが、聖書を読んでみると、イエスのものの見方、あるいは語り方 には、明らかにイエスとユダヤの権力との関係を神様と悪魔の関係に類比させて語られています。
聖句で言いますと、マタイによる福音書第4章10節。同16章23節。ヨハネによる福音書第13章27節他多数あります。
明らかに聖書は、わたしたちの目に客観的に目に見える事実だけではなく、その事実の背景には、目に見えない悪魔らの働きがあることを示そうとしていると思います。
神様は霊的な存在ですから、聖書の言葉を読むというのは、そのみ言葉の背後に目に見えない霊的な意味・意義を読み取ることだと思うのです。
聖書の言葉の背後にある、目に見えない霊的な意味・意義を読み取るには書かれた文字を追っているだけでは不十分で、神様から来る聖霊(神の霊だから聖霊)の働きが必要だと思います。
霊的存在を読み取るには霊の目で読む必要があると思うのです。
霊的な目は、イエスのみ言葉を信じる信仰によって養われると思うのです。
これによって初めて、わたしたちは聖書を神の言葉として読むことができると言えるのではないでしょうか。
ただし、外側から客観的に確認できる歴史的な状況を正しくとらえることも、背景にある霊的な意味を正しく読み取るために必要だと思います。
イスラエル民族は、歴史的な出来事の中に神を見いだし、信仰を深めていったと思うのです。言い伝えとか神話が多く聖書に取り入れられているのはそのことを説明する手段だと思います。
だから、信仰は、歴史的な出来事をどのようにとらえるかということから生まれると思うのです。
それは、歴史的な出来事を客観的に解釈して、背後の霊的な力は、み言葉に、祈りに働かれる神の霊、聖霊の働きに委ねて解釈するということだと思います。
聖書にある出来事は、未完であり今もわたしたちの歴史として現在進行形で続いていると思うのです。そういう意味で、今も聖書の時代、つまり使徒言行録の時代が今も続いていると思うのです。
言い伝えとか神話と呼ばれるものでも、それが生まれるためには、そこには必ずなんらかの人間の体験なり出来事が背景にあると思うのです。
福音書が伝えるイエスの行なわれた奇跡物語もおなじで、それがどんなに荒唐無稽であっても、そこには、聖書で語られたこととそっくりではなくても、イエスが実際に行なわれたなんらかの行為とか出来事が基になっていると思うのです。
つまり、聖書には、実際に起こった出来事が解釈されて書かれていると思うのです。新約聖書は旧約聖書を素材としています。
忠臣蔵が、テレビで見るような形で起こったかというとそれは疑問で、やはり実際に起こったことが解釈されてドラマになったとい思うのです。
これと同じです。もちろん、そのドラマに用いている素材は忠臣蔵とは大いに違いますがね。
したがって、わたしたちは、それらの奇跡がそっくりそのまま起こったかということを議論するのではなく、それらの奇跡の中にイエスが語ろうとされている神の国の姿を見ようとするのが大切かと思うのです。
神の国はイエスの中にすでに到来していたのですから、イエスはきっとそれをどのようにわたしたちに表現するか苦心されたと思います。
人々はイエスを「神の子」だと言い、また敵対する人たちは、「おまえは自分を神と等しくしている」と言ってイエスを非難しました。外側から見る限り、イエスの振舞いは、そのようにしか見えなかったのでしょう。
しかし、これはいたしかたないことで、そのときは、神の霊、聖霊はイエスに降ってはいるが、弟子たちにはまだ降っていないので、真理を見る目が開かれていないので、イエスの真実の姿を知る由もないと思うのです。
それでは、なぜ、イエスは、聞く者が理解するか否かにかかわらず、神の国のことを、神の支配の到来を言葉で伝えようとされたのかは、
それはイエスがこの地上からいなくなった後、聖霊が弟子たちに降り、イエスの生前の言行の真理をことごとく解き明かして下さるのに備えられたと思うのです。
もちろん、奇跡とかしるしによって信じなさいともいわれています。奇跡とかしるしが起こるのは神の力なのだから、その神の力を行使できるわたしの言葉を信じなさいと言うことでしょう。
イエスが天に昇られた後、聖霊降臨(使徒言行録第2章1節以降)を体験した弟子たちは、きっと生前のイエスの言葉を思い出し、その言葉の本当の意味を知り一つ一つかみしめていたと思います。その聖霊は、今もイエスを信じる者に内住し、働き続けておられます。
イエスを信じる者の背後には、そのような聖霊の働きがあるということは、信徒の集まりであるキリスト教会の歴史の背後にも聖霊の働きがあるということになります。
わたしは、この宇宙を、この歴史を、そしてこのわたしの周りで起こっている出来事が、神様の支配のもとで起こっていると分かったとき、自分に起こる現実の出来事を自分以外の無数の周りの出来事と結びつけて見るようになりました。
そして、今起こっている出来事を、聖書にそっくりの形で書かれていなくても、現実の出来事に似た聖書の言葉を比較して読むという作業をしました。
同時に、背景で働く目に見えない霊的な力の存在を考え、その出来事に霊的な意味を読み取ろうとしました。そして、自分の内心の意思に問いかけて、目の前の問題にひらめきや霊感とか知恵を求めました。
クリスチャンはいつもそのような目で、祈りの姿勢で目の前の出来事の答えを求めています。聖書の内容と、一見今自分が直面している問題とは全く無関係に思われることであってもはっときがつくこと、教えられることが多いのです。
このように歴史に、あるいはわたしの身に起こる出来事というものは、外に現れる目に見える出来事と同時に、その背景には、出来事を成り立たせている神様の働きがあると思うのです。
そのようにして、物事を見るとその出来事の中に意義が見えると思うのです。未熟なわたしですが、物事をそういう目で見ることができるように日々訓練に励んでいます。
ナザレのイエスの出来事は神様からの啓示の出来事です。啓示というのは、辞書では。神様が人間に顕れて、「人の心を開いて真理を示すこと」とありますが、このように、主導権は神様にあるわけです。
そして、あらわれ方は、夢とか幻とか知恵とか悟りの形で、求める個人に示されると思います。
第十二章.何が幸せか
人間はこの世が終わればすべて終わりでしょうか。それならば何が幸せでしょうか。
財産を築いても、地位とか名誉を得ても、悪いことをしても死んだらお終い。善いことをしても何も報いはない。
やりたい放題に生きて死んだらお終い。そのような人生が幸せだろうか。それとも、来世への希望を持って生きていくことが幸せでしょうか。
聖書は、人間が幸せになるためには、神(創造主)とともに生きることだと書いてあります。その人生はこの世から始まり来世に至る生き方です。
ある意味、人が幸せとか不幸を思うのは、心の中でその人が形成したイメージではないかと思うのです。
置かれた状態を幸せに思うかどうかは人それぞれであると思うのです。
ある本で知ったのですが、人が物を見ているのは、その人の眼の網膜に写った状態をそのまま見ているわけではないのですね。
その網膜像を、視覚連合野に送られ他の感覚器情報の影響を受けながら、視覚を統合し形成します。つまり加工して見ている像のイメージを創るのですね。
その加工は、対象に持っている過去の記憶を選択的にあつめて、憎い人には憎い要素を選び出して、他のものを切り捨ててやっているのですね。
で、それをその人だと意識して対応しているのですね。
見ている対象のイメージに対応して見ているということです。不思議なことですね。今見えてる対象は見たままではないのですね。物を見るためには、複雑な作業がいるのですね。
こうして考えてみると、いま見えていると思っている世界も本当は正確ではないかもしれない。人を好きになればあばたもえくぼに見えるのはそういう理由なのでしょうか。
そのようにして見ている世界は物的・物理的な世界です。
その見えてる世界が絶対に確かだと思っていても、脳で加工されイメージされた像が見えているというなら、同じイメージでみる世界、つまり目に見えない世界である信仰の世界があってもおかしくはないですね。
物理的世界は、人間は死んだらおしまいの世界です。栄枯盛衰常ならぬ世界です。
人間は、物理的には肉体が死んで消滅してしまいます。肉体は火葬されたら目に見えなくなるのですから死んでお終いのイメージは強烈です。
それでは目に見えない世界で、人間は来世も生きるということを信じることができたらそういうイメージが持てるというか見えるようになるのかもしれません。
前記の物が見える目の仕組みを考えればそのようなことがあってもおかしくはない。
キリスト教の歴史では、来世に希望を持って迫害にあい死んで行った人が無数におられます。
その人たちは恐らく目に見えない世界、死後に起こるべきことに強力なイメージをもち、来世への希望に確信を持ったのでしょう。
死んで行く時も顔は平安であったといことです。これは現実です。
ここではっきりしているのは、来世に希望が持てれば、恐れとか不安がなくなるということです。来世に希望を持つことが現世を生きる上で幸せだということでしょう。
現世での置かれた状況により十分にあり得ることです。現世に未練を、執着するものを持たない人はなおさらでしょう。
人間死んでお終い、その先は何もないと分かれば、反射的にわたしは何のために生きているのだろうか、何のためにこんなに苦労をしているのだろうか、と思うようになると思うのですが。そこには、生きることの空しさとともに漠然とながらも死への不安があると思うのです。
もし、来世に希望を持てるとしたら、そのことを心底信じることができれば、きっと、死への不安とか生きることへの空しさは消えると思いませんか。なぜなら来世のために今があると思えるようになると思うからです。
人間は、現世に存在するものすべてに意味を見出そうとする。
人間は、何にでも意味を見出すのが好きな動物です。そのように造られているのですね。そして、意味があれば安心するのです。
わたしたちの周りにある草木にもその存在に意味がある。共に生きとし生ける命があるのです。そのような意識で草木を見ていると、あるときには草木の命が輝いて見えるときがあります。愛おしく思う時があります。
聖書では、肉体を脱いだ死後の幸せと、この世の幸せとの両方を人間が得られることを願っています。そしてこの世でイエスを知ることで得られる幸せは死後の幸せにつながっています。
この世の幸せを考えると、まず、衣食住など物的・経済的な条件が足りること。そして、肉体の健康、さらに、仕事場での人間関係、家族との人間関係、友人との交友関係も良好であることが必要でしょう。
人は所詮一人では生きていけません。それに、精神的なもの、心の安定・平安・喜びなども必要でしょう。
健康で、人間関係に恵まれ、経済的にも安定していて心は平安な状態がもっとも幸せな状態ですか。
そして言えることは、経済的な問題を幸せと感じるかどうかは人それぞれですが、心、精神的に幸せかどうかが最大の問題ではないでしょうか。
心が不安定であればいくら経済的に恵まれていてもやはり不幸と言えるのではないでしょうか。その反対、つまり心が平安であれば経済的に恵まれていなくても幸せはあると思います。
問題は心なのですね。その心の平安を得るためには生きている意味を見出すことが必要だと思います。そのためには、次の世も生きること、次の世での幸せを信じるのが一番手っ取り早い。
通常人は日常のこと、地位とか名誉とか財産を得ることに忙しくて死んだ後のことなど考えません。
理屈では人間は死ぬということは分かっていますが、自分のことだという実感が持てない。
だから生きていけるところがある。そういう人も年をとり社会から遠ざかり体が衰えてくれば分かってくる。それでも次の世があるなんて考えようとしない。日本人は特にそのように思います。諦めが先に来るのですね。
そのような人でも青年のときは人生を考えたと思います。長い年月の間に心が硬くなってしまったのでしょうか。
聖書では、すべてを求めるのではなく、何が一番大切かを説いています。それを得たら他のものはすべて与えられると書いてあります。それが、次の聖句です。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイによる福音書第6章33節、34節)。次回に続きます
聖書には、マタイによる福音書第6章33節、34節を読みますと、神の義と神の国を求めたら、後のことはすべて与えられると書いてあります。
神の義と神の国とそれ以外のことには因果関係があるのですね。どのような因果関係でしょうか。それは心の状態ではないかと思います。
衣食住、健康、人間関係など外的環境的なものと心の喜び・平安とを取り上げてみたら、後者の心の状態が原因になって、ほかの外的なものがもたらされてくるという考え方です。
先の聖句の、神の義とは、天国でなされていること。神の御心ですか。マタイにおいては「神の国」を求めることは「神の義」を求めることに他ならない。
そして、「神の義」とは「神に受け入れられる義」、すなわち「それによって天の国に入ることができる義」であると思います。神の義とは、神の正義、神の御心、聖書の言葉となります。
マタイによる福音書第6章34節の、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
この言葉は、明日の心配が絶えない現実の生活者にとって、慰めに満ちた知恵であります。
言い換えれば、「明日のことを心配するな。なぜならその日に何が起こるか、お前には分からないからである。あるいはお前は明日生きていないかもしれない。そうすればお前は自分のいない世界のことを心配していることになる。」と言っているのです。
何よりもまず求めるのは、天の国に入ることができる義、それは、「人間は次の世も生きる。そこで幸せになるためにはイエスの約束の言葉を信じなさい。」ということではないでしょうか。
人間はその義を求めて得ると、次の世、天国につながる永遠に生きる命に確信が持てる。
そうすると、この世の物的なものは結果として付いてくる、という教えではないでしょうか。
だから明日のことまで心配する必要はない。明日のことは、あなたを作られた神様に委ねてらよい。
人は次の世での幸せに確信を持つと、この世に生きる意味を見出す。虚無感は失せ、絶望感が減少し、心は平安になる。心の底から嬉しくなって、喜びが増します。
この喜びは、歓喜という感情に近いものです。この働きは、神の霊、聖霊がその人に内住することによりもたらされるということです。
これはわたしの実体験でもあります。
イエスの約束の言葉を信じ、心にとどめれば聖霊が内住すると聖書には書いてあります。
これは超自然的な話ですが、クリスチャンなら誰で得もが経験していることだと思います。不思議ですが本当のことです。
もちろん、ローマ帝国に迫害されても次から次とイエスを信じる者が起こされ、喜びと平安の中で死んで行った信徒に働く聖霊と同じ聖霊です。聖書を読む者に働かれて、御言葉の真理を教える聖霊と同じ聖霊です。
心が喜べば、心が歓喜すれば、この世の物的・経済的な面でも成功しやすくなってくると思います。
明るい人には、心の健康な人には人が寄ってくる。類は友を呼ぶという諺の通りになります。
経済的なことも必要ですが、心の健康な人は経済的にも恵まれているといいますか安定している人が多いのも真実かと思います。このことは、現実の世で多く経験できることだと思います。
そのようになるのはなぜかと言いますと、すべて神の祝福である、ということになります。
こうして考えると、自分は死んでお終いではないという、来世への希望を持つことがいかに大切かということを考えさせられます。
教会では、感謝という言葉をよく使います。感謝とは、自分が対面しているもの、自分を取り巻く環境すべてを、「ありのままに」素直に受け入れる心理状態だと思います。
自分は生かされていると思うから生かされていることに感謝が生まれる。そうではないでしょうか。生きていると思えば、不満ばかりが募ります。
被造物は創造主に守られて生かされ、必要なものを与えられていたら、その恵みの多少に不平を言わずに感謝すべきだとおもいます。
この世で得た物的物理的なものはすべてそれらを造られた神様からの預かりものです。死ぬ時に返すべきものです。所詮人間は被造物です。被造物は主役にはなれません。創造主の手の中で生きるしかないのですから。
神様は、素直な心を喜ばれます。子供のようにありなさい、とも言われています。
そうすると自然と何事にも感謝する心と喜びが生まれるのだと思います。それ以上のことは欲というものだと思います。与えられたものを持って足るを知るということでしょう。
テサロニケ人への第一の手紙第5章16~18節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。
祈りなさいというのは、たえず神とコンタクトをとっていなさい。そうすることによって、喜びと感謝がわいてきますよ、ということでしょうか。
どんなときにも感謝しなさいとうことは、恐らくこの世を生きていくには苦労は多いけれども、意識して何があっても感謝していれば人間関係も物的関係もうまくいきますよという意味でしょうか。
ほとんどの方は、人生のむなしさを、辛さを快楽とか権力とか名誉とか物的なものを追及することで紛らわしているのではないでしょか。
それらのものはいくら追及しても、達成しても達成できなくても後には空しさだけが残ります。そうして幸せを感じても一時のことです。
快楽の追及が行き過ぎたら、時には、家庭の経済的破綻に至る例もあります。そのような気持ちで、わたしもたまにはクリスチャンではない友達に聖書の話をするのですが駄目ですね。
わたしたちは何者で、どこから来てどこへ行くのか、そういうことを考えようとしないのですね。
人生の意味を考えるなんて面倒くさいと言う雰囲気ですね。
もういい加減この世のことに執着するのをやめたらと思うのですが、お金儲けと遊ぶことばかり考えています。
だけど聖書は大部で、読むのが大変ですね。それに考えさせられることが多すぎます。
聖書ももう少し簡単であればよいのですが。といっても、教えの内容は簡単なのですがね。
わたしのように何事も疑問を持ち探究するのが好きな人間にとっては最適なのですが、わたしの周りのクリスチャンは、もっと単純にイエスを信じているようです。
余り疑問を持ったり、探求したりしない人が多いようです。わたしみたいな人間は少数派かも知れません。
あるクリスチャンに聖書の疑問点を質問しましたら、そのようなことは天国へ行けば分かります、という答えが返ってきました。
それはそうでしょうが、疑問を持ち探求したくなるのも人間なのですが・・。


最近のコメント