旧約聖書の神と新約聖書の神
目次
第一章.怒る神と愛の神
第二章.旧新約聖書の罪と祝福
第三章.行いの罪と思いの罪
第四章.神の目と人間の目
第五章.旧新約聖書の神の定義
<新約聖書の神の定義>
<旧新約聖書の神の定義の比較>
本文
第一章.怒る神と愛の神
聖書を読んでみてまず思うことは、旧約聖書と新約聖書が示している神の性質について、「新約聖書の神は愛の神であるのに、旧約の神は怒る神ではないか。」という疑問が浮かびます。
そして、旧約聖書は、イスラエルの歴史を中心にして、イスラエルの歴史的事件や歴史の中での神と人との関係を通して、神を啓示していますが、両聖書共通して言えるのは、神は旧約から新約へと変わるお方ではないし、神の怒りと愛の両方が旧約と新約のどちらにも示されていることです。
旧約聖書全体を通して、神は次のように表現されています。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦しす。しかし、罰すべきき者を罰せずにはおかず、、」(出エジプト記34章6節、ほかには民数紀14章18節;申命記4章31節、ネヘミヤ9章17節、詩篇86章5節、詩篇86章15節、詩篇108章4節、詩篇145章8節、ヨエル2章13節)
つまり、共通用語は、「憐れみ深く、恵みに富む、忍耐強く、慈しみに富む」です。
と言っても、新約聖書では、神の愛と憐れみがそれ以上に強く表現されています。
それは、次のヨハネの言葉です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
また、聖書全体を通して、聖書は神を、神とイスラエルの関係を愛する子供を扱う父のように描かれています。
聖書箇所はヘブライ人への手紙12章6節に「なぜなら、主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
具体的には、特に旧約聖書においては、イスラエルが神に対して故意に罪を犯し、偶像礼拝に走ると、神は彼らに罰を与えられます。
けれども、彼らが偶像礼拝を悔い改めて神に立ち返ると、そのたびに神は彼らを救い出しておられます。
同様に、新旧約聖書を通して、あくまで悔い改めない罪人に対しては、神の裁きと怒りが降り注ぐということがわかります。
新約聖書の該当箇所は次の通りです。
「神の怒りは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。なぜなら、神について知るうる事柄は、彼らにも明らかだからです。」(ローマ1章18節19節)
こうしてみると、新約の神でも旧約の神でも変わらないお方だということが分かりますが、イスラエル民族に対しては、親が子供をしつけるように厳しく臨んでおられることが分かります。
イスラエル民族は、自己のご計画(万物の創造、救済、新しい人類の創造)のために選ばれた民ですから、特に厳しくされているのかもしれません。
ただし、神の本質は変わらないのですが、場面により、神の性質が、ある一面の方がより強く現れている場面があります。
第二章.旧新約聖書の罪と祝福
新約の神と旧約の神との違い、および、両者の関係の問題をいろいろと考えてきましたが、じつは、その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。
「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約のこと)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約のこと)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネの福音書第5章39節)
イエスは、旧約聖書という書物には、わたしのことが書いてあるといっているのです。
ところがこの書物にはイエスという名前はどこにも見あたりません。イエスのイの字もでてこないのです。
それでも、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で、たとえば比喩で現しているということになると思うのです。
だから、旧約聖書はそういう風に読む必要ではないかと思うのです。
聖書というものは、新約聖書にはイエスのことが書いてあり、旧約聖書はそのイエスを証言している。
となると、イエス以降の新しい時代を生きるクリスチャンにとっては、両聖書は一体的に扱うにしても、第一に新約聖書でその内容の信ぴょう性を補完するものとして旧約聖書があると考えるべきだと思うのです。
こうして考えると、両者間で矛盾することがあっても、旧約は新約の影絵と考えて、ある聖書学の先生はこのことを、「真理とは霊に関することです。罪の真理も、霊に関することです。
旧約で祝福として示される物的豊かさと健康は、霊の豊かさ、霊の健康をという真の祝福を示唆する影となる。旧約は物的な富と健康でもって霊の祝福状態を影絵でもって示していることの多い書物である。」と言っておられました。非常に分かりやすい説明かと思います。
つまり、神が人間を祝福する方法が旧約時代と新約時代は違うと言うことです。
だからわたしたちが、そのような旧約聖書から学ぼうとすると、その知恵は、物的な富と健康を得るためのものになるのが道理です。
旧約聖書の罪は、原罪以外では律法違反であって、物的な面、すなわち、富と健康に関することがほとんどです。
これは現世での処世の知恵と同じだと思います。だから、現世でのなやみを解決する道しるべとしては、旧約は最適だと言えます。
新約聖書マルコの福音書第10章に「金持ちの男」の話がありますが、まさにこの男は、19節を読むと律法(殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え)を守ってきたと言っていますから、話の内容から推測すると、旧約聖書の時代を生きた男ですから、17節の「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」という問いかけの真意は、財産を、富をもっとほしいという延長線上で永遠の命を得るにはどうすれば良いのかとイエスに尋ねたと思われます。
イエスの教えは、永遠の命を得るのにはそういうものに頼らずにわたしについてきなさいと言うことですから、180度違います。
だから、イエスは金持ちの男に財産を(すべて)売り払って貧しい人に施し、わたしについてきなさいと言われたのです。
すなわち、旧約聖書なら祝福の証とされるのは物的な面、富と健康ですが新約聖書では、イエスへの信仰、すなわち、精神的な面を求められているのです。
この「財産を売り払い」と言うのは、現在では信徒の献金で生活する聖職者なら別ですが、そのようなことをすれば生活は成り立たないし、なかなか直ちには出来ることではありません。
だから、この「金持ちの男」の話は、何が一番大事かを求められていると思うのです。
それに、イエスは与えられた賜物を活用して経済活動をすることを否定されていませんから、ここは、財産に頼って生きている男にそのお金の使い方を、そして、イエスについていく決意を求められたのだと思います。
その上で、財産の使い道については、イエスの御霊の導きに委ねなさいと言うことだと思います。
男は悲しみながら去って行きました。男は旧約から新約へと時代が変わったことを理解できなかったのです。
新約が明らかにする神の恩恵の時代を生きるには,まず、イエスの霊に従う決意が求められるのです。
新約聖書はどこを読んでも霊のこと、霊の働きが中心です。
癒しとかしるしは神の支配がはじまったことを告げるためになされましたが、ダビデとかサムエルのように財産とか権力を祝福して与えられたところ(祈れば何でも叶えてあげる、とは言われていますが。)はないと思います。間違っていればごめんなさい。
第三章.行いの罪と思いの罪
次に罪の問題ですが、「原罪」と言う言葉は旧約聖書にも新約聖書にも確かなかったと思います。
ということは、神学用語と言うことになります。
「原罪」というのは、源の罪だから、聖句で直接示されている罪とは別に、その源になっている罪、ということでしょうね。
アダムとイブが禁断の知恵の実を神の戒めに逆らって食べたことによって生じたというのが原罪、神からの離反とか的外れと解説されています。
それは新約聖書によって明らかにされたことです。
旧約聖書での罪と言うのは、神がイスラエル民族に守るべき律法として与えた十戒を含むモーセ五書、内容は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記に定められた行いの戒め(律法)を守らないことを罪としています。
すなわち、律法(行い)を守れば祝福が与えられます。
代表的な聖句が「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記、20章6節)です。
この幾千代にも及ぶ慈しみは物質的恵みだと思います。先にも書きましたが、具体的には肉体の健康と物的な富とか権力でしょう。
つまり、霊的な恵みではありません。霊的な恵みはあくまでも神を求める者個人が信仰によって得られるものだと思います。
預言者を見ればよくわかります。各人一人ひとりが信仰によって勝ち取るものです。
言い換えれば、神の戒めである律法を守るという行いの功績は、「幾千代にも及ぶ慈しみ」ですから先祖の功績で自動的に子孫に与えられるものなのですね。親の因果が子に報いですね。
それでは、新約聖書の祝福を見てみますと、「悲しむものは幸いです。・・・」(マタイの福音書第5章4節)
悲しむのは物的、健康的な祝福がないから悲しむのだとすると、これは旧約においては祝福されていない状態です。
イエスは旧約聖書において祝福されない人が幸いだと言われたのです。
それは、新約時代において価値観が180度変わったと言うことでしょう。物的、健康的な祝福でない、正反対の祝福とは霊の恵みになると思うのですが、そうすると、物的、健康的恵みに恵まれていれば霊的恵みを得るのには、それが障害になると言うことでしょう。
このようにみると、クリスチャンでもよく健康とか物的な祝福を求めますがちょっと考えさせられます。
物的な恵みはこの世においては確かに必要なことですが、クリスチャンにとって一番大切なのは霊的な恵みを求めることになると思うのです。
いいかえると、イエスは、物的・健康の恵みは影の恵みで本物の恵みは霊の恵みだと言われていると思うのです。
原罪があり、旧約聖書は律法により行いの罪を示し、新約聖書は思いの罪をも含めたイエスの律法(山上の説教)を明らかにしています。
原罪は、行いの罪と思いの罪の源と言えますが、イエスは、更に新しい霊に生きる者の律法を示されたと思うのです。
内容は、人間の努力ではとても成就できないことばかりです。
イエスは、当時のユダヤ人に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消えることはない。」(マタイの福音書第5章17節)と言われています。
ということは、律法(行いの罪を罰するのは)はこの世においては必要なことであるが、天の国では不完全なものだということになります。
そうですね、天の国では思いの罪を含めた一段上のイエスの律法が求められると言うことだと思います。
新しいイエスの律法が成就すると、当然旧約の律法も成就することになる。両方の律法に共通するのは隣人を自分のように愛する愛です。それが完成するということ。これで理屈は通ります。
要するに、旧約聖書は神とイスラエル民族との関係のみ記していますから、従来ユダヤ人たちは、罪と言えば「行いの罪」だと学んできたということです。
なぜ、旧約聖書は「行いの罪」かと言いますと、生まれて間もない未熟なアブラハムを神はイスラエル民族の父祖として選び、その子孫をしつけて創造のご計画(全世界の民族の救済と完成)を達成するために用いる目的で、一人前の民族に育てようとされたので、その基本となる「行いの罪」を教えしつける必要があったのでしょう。
そういうユダヤ人たちに、イエスは新しく思いの罪を含めた一段上のイエスの律法を語られたのです。
そして、それを完成させる働きをするのが聖霊の働きだとわたしは思うのです。
神はイスラエル民族を選んで、イスラエル民族を通して全人類を罪の中から救い上げようとなされたが、その選んだイスラエル民族が神の思いから外れてしまったので(その象徴的な出来事がイエスの十字架)、今度はイエスの言葉を信じるクリスチャン、その集まりである教会を通して全人類を罪の中から救い上げ天の国に引き寄せようとされていると思います。
そのためには律法の完成した姿、イエスの律法としての「山上の説教」が成就した姿が求められるのですね。その姿が、本来人間があるべき姿なのだと思います。
十字架で、全人類の原罪が贖われたので人類救済のご計画を「行いの罪」から「思いの罪」に一歩進められたのでしょう。
旧約聖書はイエスが来られるまでの時代。新約聖書はイエスが来られてから以降の時代。だから、今生きる者は新約聖書を一番に考えるべきだと思います。
新約聖書の神はすべての民族に神の支配が来たことを伝えようとされています。
その神の語りを受け取らないで拒否する人々、受け取るが語り手が誰だかわからないで受け取っている人々、曲解して受け取っている人々など色々おられるから、いろいろな宗教が生まれたり霊能力者が生まれたりするのだとわたしは思っています。
もちろん、中には悪霊の働きを神の働きと間違って信じておられる宗教もあると思います。
それでも、神の支配はすべての人々に及び、神はすべての人々を差別なく愛されています。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書第5章45節)
旧約聖書のイスラエルの信仰の父アブラハムは、イスラエル民族の信仰の父であるだけでなく、われわれクリスチャンの信仰の父でもあるわけです。パウロは言っています。
ローマの信徒への手紙第4章11節「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」
こういうわけで、アブラハムは、われわれ異邦人(ユダヤ人以外)の信仰の父でもあるわけです。
われわれ現在を生きるクリスチャンは、神の思いから外れてしまった2000年前のイスラエル民族と同じ罪を重ねることにならないように祈るばかりです。
最後に、わたしの旧約聖書のとらえ方ですが、創世記は神話(とくに前半は)だと思いますが、その意味するところは深く、旧約聖書と新約聖書を貫く思想が描かれています。
預言書は新約聖書を解釈するときに参考にして、ほかの文書、つまり、イスラエルの歴史書(史実に基づいた物語として見ています)とか随筆とか詩篇は、信仰を持って生きる生き方を学ぶための参考にしています。
新約聖書は福音書と使徒言行録を重視しています。手紙類とか黙示録は福音書を理解するために読んでいます。
第四章.神の目と人間の目
このように神は旧約でも新約でも変わらない神であることが分かるのですが、なにしろ聖書は、66のそれぞれ独自の書で成立っていて、約1500年かけて40人以上の作者(時代も年齢もお互いに連絡することもなく、様々な生活状況の人たち)によって、3つの違った言語で書かれたものです。
それにもかかわらず、最初から最後まで、何の矛盾もない一つの統一した書物に変わりないのです。これは確かです。
その中で、あわれみ深い、愛と義なる神が、様々な状況にある罪深い人間をどのように扱われるか見ることができます。
その扱われかたが、旧約聖書の特に裁きの厳しさにおいて表に現れています。理不尽な裁きと思われる場面もあります。
しかし、それは神の目と私たちの目の視点が違うからだと思うのです。
わたしたちは人間をみるとき、人間は80年くらいの地上人生がすべてですから、そのような人間の営みを見て裁きの対象を判断し裁きますが、神が人間を見るときは、この地上の人生をその人の永遠の命の中の一コマとして見て、判断し、裁かれるということでしょう。
地上の80年ほどの命が、永遠の命を生きるその人の人生のすべてではないということです。
それは次のように考えられます。
聖書は、人類に宛てた神のラブレターなのですが、そこには神の創造物に対する愛、特に人間への愛が、聖書全体を通して明らかです。
神は、愛とあわれみを持って、被造物である人間に、アダムの時代に悪魔に唆されてご自分から離れていった人間に、私の元に戻ってくるようにと呼び掛けておられるのです。
そのことを、わたしたちは神の人類救済計画と呼んでいますが、これも神の新しい天地、新しい人類の創造計画の一環なのでしょう。
人類救済計画は、神が私たちを、悪魔の支配から救いだし、新しい天地と共にご自分と共に歩む新しい人類の創造でもって完成するのです。
すなわち、私たちの裁きは、この地上の人生のたかが80年を生きる中での裁きですが、神が裁かれるときは、霊界、地上界、その人の霊的命の全期間を通して裁かれるのです。
だから、私たちには時に神の裁きが厳しいように思われることもあるのでしょう。特に旧約聖書においてはです。
旧約聖書は、今まで書いてきた通り、ほとんどが、神とイスラエル民族のかかわりの歴史だと思います。
内容は、イスラエルの民の教育というかしつけのためでしょうが、裁き、導き、そしてイスラエルの預言者をもってのイスラエルの民に対する預言と、キリスト来臨を含めた全人類救済の預言です。
旧約聖書においては、神に選ばれた民であるイスラエル民族に対する場面で、裁きが私たちには残酷と思えるほど厳しい場面が見られるのですが、それは、神は聖であり、正義なるお方ですから、罪には厳しいお方だからでしょう。
特に、ご自分の命令に従わないで、神への礼拝を拒み、自分達で作り上げた偶像を拝み、真の神を礼拝することを拒む人には特別厳しくさばかれているようです。
イスラエルの民は、人類救済計画、新しい天地と新しい人類の創造計画を成就するために選ばれた民ですから、イスラエルの民は神の大いなる人類創造計画を成就するための期待を背負った民族なのです。
神の、生みの親、育ての親としてのその思いはよくわかります。
ただし、先にも書きましたが、神が裁かれる場合は、その人の霊界、地上界の全期間の中で、つまり人類救済計画、そして最終的に新しい人類の創造計画の中で、それらの計画の成就に必要があって裁かれますから、この地上界のたかが80年ほどの人生しか知らない我々にはその裁きが厳しく見えることもあるのでしょう。
人類は神に対して背きの罪(原罪)を負っています。それに原罪から派生する行いの罪(律法違反)もあります。
神の義と聖なる性質からして、すべての人のすべての罪、過去、現在、未来の罪全部が裁かれなくてはなりません。
そのような人類に、神は、人類を愛するゆえに、御子キリストをこの地上に送り、罪(原罪)のための代価と和解の道を備え、神の怒りから逃れる道を与えてくださったのです。それも無償でです。
聖書の箇所は、第1ヨハネ4章10節です。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子(キリスト)をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
旧約聖書の時代は、神は罪の贖いのために、いけにえの制度を備えておられました。
しかし、この制度は暫定的、一時的なもので、やがて御子イエスキリストが全人類の罪のための贖いの身代わりとなって十字架で殺されることをもって全人類の罪(原罪)の贖いは最終的に完成するのです。
旧約聖書で救い主の誕生が預言され、新約においてより現実化し、究極的な神の愛は、イエスキリストを遣わされたことで示され、新約においてその神の人類救済計画と新しい天地と新しい人類の創造計画が明らかにされたのです。
第五章.旧新約聖書の神の定義
御子イエスキリストの十字架死という重大な出来事をもって神の人類救済計画が大きく変わるのですが、当然、十字架以前、すなわち旧約聖書の時代に強く提示されていながら、新約聖書においては語られることが少なくなる、すなわち、神の定義のあり方も変わると思うのです。
それは、主に人格神や万軍の主といった神についての定義があげられるのではないかと思うのです。
旧約時代の人格神や万軍の主という神の定義(イザヤ書8章13節、42章13節など)が、新約聖書では入れ替わるようにして、新たな神の定義のあり方が示されていくことになります。
旧約聖書においては、戦いを司る万軍の主と呼ばれ、熱情(ねたみ)の神といった負の感情をも有する人格神としての神の姿が色濃く示されていると思います。
それに対して新約聖書においては、こうした万軍の主や、負の感情も持った厳しい人格神としての神の姿についての記述が非常に少なくなり、そうした旧約聖書における神の定義のあり方が徐々になくなっていくのに比例して、
新約聖書独自の神の存在のあり方、新たな定義が示されます。
それで、まず、新約聖書の神の定義(神の存在証明)を調べて、後に旧約聖書の神の定義と深く検討してみたいと思います。
<新約聖書の神の定義>
〇新約聖書のエフェソ書4章6節「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」
「すべてのもの」に神はおられるのですから、普遍性としての神の定義が導かれます。
〇ヨハネの福音書第1章1節「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
〇ヨハネの福音書第4章24節「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
この「ヨハネによる福音書」においては、言(ロゴス・ことば)と霊(精神的存在)が神の定義として示されています。
〇ルカの福音書第1章47節「わたしの霊は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」
〇ローマ書第2章10~11節「すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」
〇第一コリント第14章33節「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」
これらの聖句からは、救い主・平等なる神・平和の神といった神の定義が見られます。
〇ヨハネの黙示録第1章8節「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」
「ヨハネの黙示録」では、はじまり(アルファ)と終わり(オメガ)の方としての神の存在のあり方が描かれています。
<旧新約聖書の神の定義の比較>
旧約聖書でだけ語られていて、新約聖書においてはほとんどない定義のあり方としては、戦神としての万軍の主という神の呼び名や、人格神としての神の定義のあり方です。
新約聖書で新たに強調されるようになっていく神の定義は、普遍性・言(ロゴス)・霊(精神的存在)・救済者・平等なる神・平和の神・始動因・目的因といった全部で八つの神の定義を挙げることができると思います。
旧約聖書と新約聖書の両方に共通する神の定義は、
創造主・全知全能・唯一神・善性・完全性・永遠性・至高者・契約の神・裁きの神・光明神という全部で十の神の定義を挙げられることができると考えられます。
なお、神を定義することは、神の存在を証明することであり、ひいては、人々の信仰の対象となっているキリスト教の神が現実において実際に存在するということを人間の理性によって論理的に証明しようとする試みであると考えられます。
ここでは、新約聖書だけにある神の定義と旧約聖書だけにある神の定義
の違いのあり方についてまとめてみますと、
旧約聖書だけで語られていて、新約聖書においてはほとんど示されない定義としては、戦神としての万軍の主という神の呼び名や、負の感情も含めた人格神としての神の定義のあり方といった二つの神の定義が挙げられます。
新約聖書で新たに強調されるようになる神の定義としては、普遍性・言(ロゴス)・霊(精神的存在)・救済者・平等なる神・平和の神・始動因・目的因といった全部で八つの神の定義を挙げることができます。
旧約聖書と新約聖書の両方に共通する神の定義のあり方としては、
創造主・全知全能・唯一神・善性・完全性・永遠性・至高者・契約の神・裁きの神・光明神という全部で十の神の定義を挙げられます。
旧約聖書から新約聖書へのキリスト教思想の展開においては、旧約聖書においては強く表れていた人格神や万軍の主といった神の定義が新約聖書においては消え、普遍性・言(ロゴス)・霊(精神的存在)・救済者・平等なる神・平和の神・始動因・目的因といった新たな神の定義が加えられています。
こうしてみると、旧約聖書の神は、新約聖書においては、神という存在のあり方が、より理念的な存在として捉えられていくようになっていったと考えられます。
例えば、旧約聖書の段階においては、熱情の神ととか人格神としての神の性質が、新約聖書においては一切語られることがなくなります。
例えば、万軍の主と呼ばれるような民に勝利をもたらす戦神としての神の性質です。
旧約聖書における戦神としての万軍の主から新約聖書の平和の神への移行が見られます。
万軍の主の聖書の箇所は、サムエル記上17章45節、イザヤ書8章13節、イザヤ書42章13節です。
新約聖書で、「万軍の主」が出てくるのは、新約聖書においては、旧約聖書を引用する場合として出てくる場合以外は、ヤコブの手紙5章4節「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」です。
新約聖書は、ローマ書15章33節に「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」とあるように、「神は無秩序の神ではなく、平和の神となります。
それは、イエスキリストの全人類の罪の贖いとしての十字架死と復活の完成によって、やがてこの世界は、神にご計画である新しい天地と新しい人類の創造のご計画の成就が確実となったということでしょう。


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