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イエス受難と復活

イエス受難と復活

目次
第一章.イエス受難時の出来事
<当時の時代背景>
<イエス処刑時の不思議な出来事>
<聖霊の働き>
<イザヤ書の「苦難の僕」>
第二章.イエスは神の子か
第三章.イエスの復活
<イエスの復活>
<復活の聖書記述を読む>
第四章.奇跡やしるしは事実か
第五章.聖書の記録の信憑性

 

本文
第一章.イエス受難時の出来事

今回は、「イエス受難時の出来事」について思うところを書いてみます。
つまり、イエスがユダヤ教の指導者に逮捕され、十字架にかけられて復活するまでの出来事です。

 

<当時の時代背景>
当時のユダヤ教社会の時代背景ですが、イエスの時代のユダヤ教社会は、熱心党(ユダヤ教の政治的宗教集団,ローマ支配の中でユダヤ民族独立を現実的に切望する集団、急進的)の運動が広がり、旧約聖書で預言されたとされるユダヤ民族の救い主が現れるという、メシア運動の火の手が次から次へと上がる時代でした。

 

そのような社会にイエスが登場するのですが、イエスがなされた奇跡を目の前で見た当時のイスラエルの住民は驚き、イエスこそ旧約聖書で預言されている救い主だと思い、イエスを立てて蜂起する運動を起こそうとする気配が濃厚となりました。

 

イエスは、この世の権力闘争に巻き込まれることを避けるために、自分の手によって奇跡を体験した人々にその奇跡を言いふらさないように何度も厳しく命じられました(マタイの福音書第12章の15節から16節)。

 

また、使徒ペトロにも自分がこの世に来た本当の理由(イエスはペテロが期待するようなイスラエル民族の王ではなく、全人類の罪を贖うために殺されて復活するメシアであること)を教え、そのことを誰にも言わないように厳しく命じられました(マルコの福音書第8章29節から31節)。
それはまだイエスの時(十字架のことでしょう。)が到来していなかったからでしょう。

 

ところが、そのかいもなくイエスは、ユダヤ教の一派であるファリサイ派やサドカイ派などに反逆者として訴えられて、その結果ローマ総督ピラトの裁判を受けて、ローマの兵士たちによって十字架刑に処せられました。

 

この当時、ユダヤはローマの直属州であったので、死刑という刑罰はローマ総督の許可がなければ執行できませんでした。
したがって、ユダヤの指導者には、自分たちの裁判でイエスに死刑を言い渡したとしても、それを執行する権限はなかったのです。
イエスを死刑に処するには、さらにローマの総督ピラトによる裁判とその判決が必要だったのです。

 

なお、イエスが十字架で処刑された事情を一口で言いますと、ユダヤ教は、神がモーセを通して啓示された律法(口伝律法を含む)、実際にはユダヤ教と言う宗教の諸規定を守り行うことが神の救いにあずかる条件としていました。
ところが、イエスは律法には関係なく、どのような人でも(つまり異邦人でも・・ちなみに、異邦人とはユダヤ人以外を指します)無条件で神の救いを受けられるという恩恵による神の支配を述べ伝えました。

 

これは律法(口伝律法を含む)を守ることが救いになるというユダヤ教の教えを根底から覆す許し難いことでした。
このためにユダヤ教指導者はイエスと対立し、ついにはイエスを殺すに至ります。

<イエス処刑時の不思議な出来事>
イエスの受難時の状況を読むと色々と疑問が浮かびますが、最初にイエスが処刑され死んだときに起こった不思議な出来事について考えてみたいと思います。

 

イエスの処刑の時の記事に「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(マタイの福音書第27章45節)とあります。

 

また、同福音書第27章51節から53節には「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
そして、イエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」というのがありますが、これらのことは事実であろうか、それとも何かの比喩であろうか。

 

全地が暗くなったのは日食(日食ではなく実際にそういう現象が別の原因で起こったとする科学者が書いた本を読んだことがあります。)でしょうか、岩が裂けたのは地震と書いていますが、多くの聖なる者たちが生き返ったというのはどうでしょうか。

 

マタイの福音書第27章54節から55節に、ローマ軍の百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった。」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々である。」と説明されています。

 

マタイの福音書はイスラエルの人々を対象に書いています。
記事が嘘か否かは、はっきり言うと、マタイは、実際にイエス受難時に起こったいろいろな出来事と同じような記事が旧約聖書の預言書にあったので、イエスの出来事が旧約聖書の預言の成就だということを強調するために旧約聖書の預言書の言葉を使ったのではないでしょうか。

 

もちろん、預言の言葉を使って誇張している面もあると思います。
マタイは現場には居合わせていなかった(イエスが捉われた後弟子たちは巻き添えを恐れ故郷に逃げ帰っていたと思われます。)と思いますので、それらのことはイエスに従ってガリラヤからきて、イエスの十字架の時にも逃げなかった婦人たちが体験したことを聞いて書いた。
あるいは、婦人たちが体験したことが伝承となって残ったので、それを参考にして書いたのではないかと思うのです。

 

キリスト教は、最初はイスラエル人を相手に宣教を始めました。
それは長い旧約聖書の歴史をみてもわかるように、イスラエル民族には救い主を受け入れる準備ができていたからだと思います。

 

マタイはイスラエル民族を信仰に導くためにイエスの出来事が旧約聖書の預言の成就だということを前面に出して福音書を書いたのでしょう。
イエスの受難時の出来事が作り話であれば、目撃した人がそのころ(イエスの十字架から30年ほど後)は生きていたでしょうから、そのような嘘を書いた福音書を誰も信じないと思います。

 

また、伝説とか神話と言われる方もおられますが、伝説とか神話が成立するには30年は短すぎます。
一般的には数百年の年月が必要だと言われています。
ましてや、マタイの福音書を読む相手は旧約聖書を信じ、熟知しているユダヤ教徒です。

 

マタイの福音書のイエスが旧約聖書で預言されていたメシアだとする記事を読んで旧約聖書を熟知しているユダヤ教徒がその記事を信じたということはどういうことでしょうか。

 

それは、旧約聖書に書かれているメシア預言が本当に起こったと信じるに値する何か不思議な出来事が現実にあったからだと思います。

 

なお、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」という記事はおそらく誇張したものでしょう。
マタイは興奮しているのです。熱意を感じます。
言葉通り、土葬されて腐敗し土にかえった死体、ばらばらに崩れた骨が寄せ集まって生きた人間になったなどとは思いません。

 

この個所はエゼキエル書第37章5節・6節(枯れた骨の復活)の預言、すなわち捕囚民の復活の預言からとってきたものだと思います。

 

しかし、地震とか全地が暗くなったとか神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けたとかの出来事は実際にあったと思います。

<聖霊の働き>
イエスを十字架にかけるほど恐れたユダヤ教の指導者も、イエスの十字架時の出来事が嘘であればそれを言いふらせば、イエスの教えを広める弟子たちの信用を落とし、世界宗教として立ち上がろうとしているキリスト教をつぶすための絶好の材料となりますが、そのような行動も起こしていないところをみるとやはりユダヤ教指導者も信じざるを得ない何かが起こったと見るべきでしょう。
イエスはカリスマを持っておられました。

 

カリスマの原因は明らかに聖霊の存在だと思います。
イエスのおられる所、そこには、聖霊が活発に働かれていて神の臨在が濃厚に顕れていたのは間違いないと思います。

 

わたしたちの身近な人にも、カリスマを持つ人がおられます。
そのような方の説教を聞くと一言で心が奪われることもあると思います。
イエスのカリスマは、神の御霊、聖霊の臨在からきていると思いますので、神秘的で人を強く引き付けるものがあったと思います。

 

そのイエスに充満していた聖霊と同じ聖霊が今もわたしたちイエスを信じる者の中で働いておられますが、イエスを信じる者各個人に降るのは、イエスが十字架で死に、死から復活され天に昇られた後です(使徒言行録第2章、聖霊降臨)。
イエスがなされたいやしとか奇跡とか説教の場にも、神の聖霊が働いていたと思うのです。

 

民衆はそのイエスの言動を見聞きし、激しく心を動かされて、そのためにメシア運動がおこりイエスは十字架で殺されたのですから、イエスこそ旧約聖書で預言されているメシア(救い主)だと、当時の人々が思ったというのも間違いがないと思います。

 

イエスの十字架死と復活以降に弟子たちに降った聖霊降臨で、イエスの生前の言動と復活を知る者が、旧約聖書に書かれてある預言を思い出し、生前のイエスの言動と結び付け、イエスの十字架と十字架時に起こった出来事の意味をその時初めて真に確信したのだと思います。

 

当時十字架刑はローマの法律での処刑方法でした。
イスラエルの法律では十字架刑にはかけられなかったのです。
ユダヤ教の指導者が強引にイエスを十字架刑にかけ殺したくなるほどイエスを恐れたのは事実です。

 

それは、イエスがなされた奇跡とか受難時に起こった出来事が事実であったことを証しているのではないでしょうか。
そうでないと、一介の宗教運動家がローマの法律に基づく十字架にかけられるはずがありません。

 

<イザヤ書の苦難の僕>
彼らは、イエスの死を旧約聖書の「イザヤ書」53章で語られている「苦難の僕」の預言と結びつけました。
ユダヤ教では、この苦難の僕こそ、来るべきメシアを預言していると信じられていたからです。

 

「苦難の僕」に書かれていることが、イエスに起こった出来事と余りにも似ていました。本当にそっくりです。まだ読まれていない人は、一度読んで見てみてください
弟子たちは、彼らの集まりの中に働く聖霊のご臨在の中で、祈り求めつつイエスの十字架の意味を探り求めました。

 

そして得た結論は、今、終わりの日が到来し、旧約聖書で預言されていた死者の復活が始まっていることを体験しているという信仰であったと思うのです。
そして、マタイの福音書の記者は、イエスの周りで起こった不思議な出来事を、旧約聖書の預言の言葉を用いて語った、ということではないでしょうか。

 

このように、イエス受難時の出来事は、旧約聖書のメシア預言と結びついた解釈が多く含まれていると思いますが、それらは、イエスの出来事と旧約聖書の預言とを、人々が後で意図的に結びつけたとは言い切れないと思います。

 

もし、事実でもないのにそのようなことをすれば、イエスの生前を知っている人、十字架の時の状況を知っている人が当時はまだ多く生きていましたので、嘘がすぐにばれてしまいます。

 

そのようなことをすれば、かえって福音書の信頼を失うことになると思います。現場にいなかった弟子たちも、復活のイエスに出会い、そのとき身を持って聖霊の働きを受け、旧約聖書の預言通りのことが事実として起こったと、疑うことなく信じ、受け入れたのだと思います。その出会いの体験は弟子たちのあらゆる疑惑をも打ち消す圧倒的な出来事だったと思います。

第二章.イエスは神の子か
「イエスは神か」という問いについて考えて見たいと思います。
いろいろ文献を調べた結果ですが、結論はやはり神としか見ることしか出来ません。

 

ではなぜ神としか見られないかについて書いてみます。
なお、この命題は今までに数多くの人に書かれてきたことですから、大発見なんて何もないのですが、わたしの思うところをまとめてみました。
結論として、科学的に証明できることではありませんので、最後は信じるかどうかの問題だと思うのです。

 

今を生きる私たちが、イエスを神と言い表すことは、科学万能の時代に生きる現代人にとっては、価値観を180度転換させなければとうてい受け入れられないことですから、この難題に対して自分なりの納得できる答えか、妥協点を見つけ出せるかが、キリスト信仰への第一関門となるのではないかと思います。

 

イエスを神と受け入れなければ、キリスト信仰はありえません。
なお、聖書を読み聖霊に満たされて神の臨在を体験し、イエスに出会った人は理屈などどうでもよいと言われるかも知れませんが、または、あの世に行けば分かることだから今そのようなことを考えなくても信じていればよいと言う方もおられますが、そういう話はちょっと横に置いておいて、ここでは新約聖書に書かれていることから推測して、イエスが神の子かどうかを見てみたいと思います。

 

最初に、聖書から聖句を一つ上げておきます。
それはマルコの福音書第13章31節のイエスの言葉です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」です。

 

この言葉は、イエスが、自分が預言したことは必ず起こると宣言された言葉です。
イエスは自分の言葉が天地の存在よりも確かだと宣言されたのです。
このような宣言をする方はどのような方でしょうか。
それこそ、神か狂人です。

 

このようなことを言えるのは、天地万物を創造し、その存在を自分の意思で決定することができる方です。
だから、そのようなことが言えるのは神か狂人のどちらかしかありません。
その上でこれから話を進めていきます。

 

さて、イエスが神でなければ、聖書に書かれていることが余りにも奇想天外なことなので、イエスは、誇大妄想狂か、嘘つきか、精神病者か、狂人かのどれかにあたります。
そして、聖書の記録は根拠のない作文だと言えます。

 

もし、聖書に書かれているイエスの言葉が嘘ならば、イエスは嘘を言ってそのために死んだのですから、だれが嘘の為に死ぬだろうかと言う疑問を持ちます。

 

もう一つ、イエスが神格化されたのはいつかという重要な疑問もあります。
イエスが嘘つきならば、偽善者でもあります。

 

なぜなら、イエスは命をかけてこれが真実だといって教えているのに、そのことをイエス自身は真実と思っていないことになるからです。
イエスは人に神の国のことについて教え、そのことを信頼するように教えました。
もしイエスが自分の主張を裏付けることが出来ないことを知りながらそれらを言ったならば、語った内容から見てイエスは言語を絶した誇大妄想家で偽善者です。イエスはまた愚か者です。

 

なぜならイエスは神であると主張したから十字架につけられたからです。
十字架で死ぬために自ら偽善を弄したことになります。
それも最後まで嘘を言い貫いたことになります。
人間誰でも何か得ることがあるから嘘をつくのです。

 

得ることがないと分かれば、命が危なくなれば正直に真実を言います。
ましてやイエスの場合は、自分は神ではないといえば命は助かったのですから。本当に神でないのなら簡単に言えたはずです。

 

次に精神病者かということについて考えてみます。
イエスは常に心の平静を失わず、あらゆる困難や迫害に落ち着いて対応し、試みの為の質問にも常に論理的に懸命な返答をされています。
とても狂人とは思えません。
狂人ならば通常、言っていることは倫理不明で、支離滅裂であるのが当たり前です。

 

弟子たちは、一人残らずそのイエスの教えを信じて、自分の命をかけてその教えを守って生涯を送りました。
それは、たとえイエスの言っておられることが想像を絶することであっても、それが真実だと信じるに値する何かがイエスにあったからだといえないでしょうか。

 

イエスが亡くなられてから、生前にイエスが予告していたことが実現する、体験する(聖霊体験も含めて)と言うようなことがあったからだと思うのです。
わたしは聖霊降臨以降のキリスト教の歴史は、信者個人も共同体も、すべて聖霊の働きの中にあると思うのです。

 

イエスは病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、水の上を歩きました。
そして、自分は十字架上において死ぬこと、三日目に復活すること、弟子に聖霊を注ぐこと、教会(エクレシア)を建てること、そして、エルサレムの崩壊を預言しました。
それらはすべて実現しました。

 

この様な人が、精神病者、いや狂人でしょうか。
もし、イエスが神の子でないのなら、言われたことが一つぐらいはまぐれで実現しても、すべてが実現することはありません。

 

それに、イエスの中には、発狂した人に普通見られるような精神の異常さや、不均衡が見出されないのです。
もし、イエスが、気が狂っているとしたら、イエスの安定した精神状態や、落ち着いた態度とか倫理的な受け答えは驚くべきことで信じられません。

 

当時のユダヤ社会は、一神教の文化の中にありました。
その中で、ある人間が、しかも大工の息子(イエスの父ヨセフは大工でした)が、自分は神の子であると思い、そして人々に自分を信じるか否かによって、彼らの永遠の運命が決まるなどということを語ることは、周りの人はその人間を、狂っていると見るでしょう。

 

こうしてみると、聖書で語られていること、イエスの身に起こったことが事実なら、イエスは神の子であると言えます。
そうでなければ、イエスが神でないなら狂人です。
これ以外の選択は無いと思います。

 

それでは、もし、聖書の記載事項が、弟子たちがでっち上げた作り話であったならば、弟子たちはその作り話に命をかけたことになります。

 

それを信じてこの2000年間どれほどの人が命を落としてきたか、それこそパウロの言葉、コリントの信徒への手紙一第15章15節「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」同16節「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。」同17節「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」ということになります。

 

次にイエスの神格化の問題ですが、通常、人が神格化されるのは、絶対君主が権力を持って強制的に自己を神格化する場合を除いて、その人が死んでから何百年という時間を有します。
ところがイエスは、イエスが地上におられた時にイエスを知っていた人が生存している間にすでに神格化されていたという事実です。

 

これは、最初から神であったからにほかならないと思います。
それはイエスが生前になされたことが、神にしかできないことをなされたからと言えます。
また、それを目撃した多くの証人がいると言うことです。

 

イエスが裁判にかけられ、有罪とされたのは、神を冒涜したという理由でした。
病気の癒し、悪霊の追い出し、死人を生き返らせるなどの奇蹟を行ったイエスに、人々はイスラエルの王としてのイエスを熱狂的に期待しました。

 

このような、人々の人気があるイエスに律法学者ら権力者は恐れをなします。イエスにこの世の王を期待した人々は、最後にはそのような期待が裏切られ、失望しイエスを裏切ることになるのですが。

 

また、イエスを人間と見ている律法学者らにとって、自分が「神の子」であると主張するイエスは、神を冒涜する存在になります。
奇蹟を行い、人々に人気があり自分を神の子と自称する(神の子と自称されたのは逮捕されてからですが)イエスは、律法学者らにとって自分たちの立場を脅かす対象になるのです(ユダヤ教を、律法を独占していた彼らにとって、救い主は自分たちの救い主でなければ困るのです。)。

 

それに、ナザレの大工の息子が神だなんてあり得ない、という先入観念もあったのでしょう。
目の前で、イエスがなされていることを見れば明らかなのに、見えなかったと言いますか、真実を見なかったのだと思います。

 

まさに、ヨハネの福音書第9章39節のイエスの言葉、「イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」の通りです。

 

そのような律法学者にとって、イエスは神を冒涜していることになり、絶対に認められないことです。

 

どちらにしても、イエスが神の子であるということが、誰が見てもとんでもない嘘ならば、律法学者も大衆もイエスを馬鹿にして取り合わないでしょう。

 

律法学者が、イエスを殺してしまおうと思うほど怒りとか恐怖を持ったとすれば、少なくとも、イエスを神かもしれないと思う何かがあったと考えるのが普通だと思います。
こうしてイエスは裁かれることになりました。

 

裁判というのは、自分がしたことについて裁かれるのですが、イエスは、イエスが神であるかどうかで裁かれました。

 

なお、罪状書きは「イスラエルの王」でしたが、それは、ローマ法では、自分を「神の子」と言ったという理由では、十字架に架けられなかったからです。ローマにとって、イエスが神の子が否かなどどうでもよいことですからね。

第三章.イエスの復活
<イエスの復活>
さてイエスの復活ですが、これから書くことは、他の投稿文と重複しているところもありますが、ここでは福音書の記事にそって書いてみたいと思います。

 

最初にイエスに従ってついてきた二人の女が、十字架の日から三日目にイエスの墓を見に行きました。

 

聖書にはその時の状況を次のように書いています。
マタイの福音書第28章1節から4節「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」

 

不思議なことが起こったのです。
そのとき婦人たちは天使に「・・まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカの福音書第24章6節7節)と言われて初めて生前イエスが言われた言葉を思い出したのです。

 

そして、空の墓を確認した婦人たちは、急いで弟子たちに知らせに行こうとしたら、目の前に復活したイエスが立っていたのです。
復活したイエスは女たちに、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイの福音書第28章10節)と言われます。

 

女たちから、復活したイエスの言付けを聞いた十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登って祈っているときに復活のイエスに初めて会いました(マタイの福音書第28章16節)。

 

最初に知らせを受けた二人の弟子は、女たちから報告を受けたが信じられなかったので、空の墓を確認に行っています(ヨハネの福音書第20章3節)。
この二人の弟子は空の墓を見て初めてイエスの復活を信じたのです。

 

そのことを聖書には「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人は、まだ理解していなかったのである。」(ヨハネの福音書第20章9節)と書いています。

 

それからも、イエスは弟子たちの前に何度も顕れるのですが、その時の状況を福音書は、イエスの復活の体は、肉体をもってといわれる方もおられますが、閉め切った部屋に突然現れたり(ヨハネの福音書第20章19節)、復活のイエスを見て弟子たちが亡霊だといって驚いたり(ルカの福音書第24章37節)、二人の弟子がエマオでイエスにであったときも、話をしていても最初それがイエスだとかわからなかったとか(ルカの福音書第24章13節以降)、漁から帰ってきた7人の弟子に現れた時、岸に立っていた人物がイエスだと気がつかなかった。(ヨハネの福音書第21章1節以下)などと書かれています。

 

記事に共通して言えることは、一つは、弟子たちは復活のイエスに出会ってもすぐにイエスだとは認識できなかったということです。
だから、わたしたちが持つ肉体と同じ肉体の体で復活したとはとても思えない。
もう一つは、イエスのほうに何らかの働きがなければイエスがイエスだと分からなかったということです。

 

復活のパターンは、復活のイエスに出会っても初めは気がつかないということです。イエスから何らかのアクシヨンがあって初めて気がついているのです。

 

どうやら肉眼で見てもわからない。霊的に感知しなければわからないのですね。それは、聖霊が見る者に働かなければ、イエスとはわからないということでしょう。まさに復活のイエスは異次元の存在です。

 

また、イエスの復活が弟子たちの幻覚とか妄想でもないと思います。
なぜなら一時に大勢の弟子の前に現れていますから幻覚や妄想ではそれは説明できません。

 

復活の事実を確信するのには、神の聖霊の臨在が伴うと思うのです。
弟子たち個人への聖霊降臨以降、聖霊の働きは一時的なものではなく、イエスの周りだけでなく、弟子たち個人に一層激しく働くようになったと思います。
だから、弟子たちは常に身近にイエスの存在を感じることができたので、イエスは死んではいない、甦って今も生きておられる、と信じるようになったと思うのです。これがイエスの復活の記事の真実ではないでしょうか。

 

勃興期のキリスト教には、聖霊の働きは今よりも激しかったと思います。
あらゆる迫害に負けずに信徒たちが信仰を守り抜いたのも、迫害の中、次から次と新しい信者が生まれたのも聖霊の激しい働きがあってのことだと思います。聖霊は時代に応じ、信者の必要に応じ激しく働かれるのでしょうね。

 

旧約聖書に通じていた弟子たちはイエスの復活に出会った衝撃が落ち着いて、冷静に物事を見ることができるようになってから、イエスの十字架と復活という不思議な体験とイエスの生前の言動の意味を解明するために旧約聖書を調べ始めたと思います。

 

 

世にも不思議な物語、前代未聞の出来事である、約2000年前のイスラエルのナザレのイエスと言う男が十字架に架けられ死んでから三日後に復活されたということについて書いてみます。

 

聖書にははっきりと書かれています。イエスは死んでから蘇ったと。
復活といいますと、考えられるのは、まず肉体の身体で復活する、霊の身体で復活する、それと人の心の中で復活する、といろいろありますが、聖書の言っている復活というのは、もちろん、この肉体をもったわたしが死んで、肉体が滅んで、つまり腐ってなくなってしまっても、新しい霊の体をもって復活し次の世も生きるということです。

 

もし、本当にイエスが死んだ後、肉体とか霊体で復活されたのなら、そのようなことが出来るのは、人間をこの宇宙を創造された神様だけですから、イエスの復活は神の御業であると言うことになり、そうであれば、イエスは神の御子と言えるし、イエスが神の子ならイエスが生前に約束された言葉(聖書の言葉)が必ず成就すると思うし、また、生前にイエスがなされた奇跡とかしるしが、どんなにわたしたちの目から見て奇想天外なことであっても、それらの出来事はすべて事実であったと言えるのではないでしょうか。

 

もちろん、創造主なる神の存在を否定される方は、人間の復活など論外でしょう。死ねば無、死後の世界はないと信じておられると思います。それとも無関心でしょうか。死からの復活を論じる以前の問題です。
その復活はイエス誕生の幾世紀も前に旧約聖書で予告されていました。約2000年前にその予告が実現したのです。新約聖書は、そのことが歴史上の事実であることを証明しています。新約聖書には、次のように書かれています。

 

「最もたいせつなこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟に同時に現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に・・わたしにも現れました。」(新約聖書コリント信徒への手紙第一第15章3節から8節)。

 

もし聖書の記載が信用できないといわれるならば、この2000年の間にイエス・キリストに出会った(もちろん、出会い方はいろいろですが)と証言し、キリスト者になった方がたくさんおられますが、その事実はどのように考えればよいのでしょうか。しかもその出会いは、いずれもその人の人生を百八十度ひっくり返すような衝撃的な出会いなのです。
決していい加減な出会いではありません。

 

2000年前にイスラエルの地に生まれ、十字架で死んで、今はもうこの地上にはおられないイエスと出会うのです。出会ったと証言された方のその後の生き方を見ると、決して錯覚でも狂言でも嘘ごとでもないと思います。

 

約2000年前に起こったイエスの弟子たちが証言する出会いは、たしかにイエスは体を持っておられ、食べ物を取り、彼らが理解できる言葉で語りかけ、一緒に歩かれた。しかし、その体はわれわれの地上の体とはまったく違ったもので、閉じられた部屋に突然現れたり、見えなくなったり、天に昇ったりする体でした。人類がそれまでに経験したことのない事態であるから、それを正確に表現する言葉もないわけです。

 

しかし、イエスが復活されたときの状況をみると、イエスは元の体に生き返られたのではなく、全く別次元の体をもって生き返られたことは確かだと思います。もとの肉体の体では壁を通過することはできませんからね。

 

死んだ人間が、どのようなことがあっても自分自身を死人の中から生き返らせることはできません。また、いかなる人も死んで三日もたって、すでに肉体は腐っている人間を生き返らせることは不可能です。復活が事実ならどうしても、人間より偉大な何者かがイエスをよみがえらせたと考える以外に説明ができないと思うのです。

 

もちろん、その何者かというのは、人間にいのちを与えることのできる創造主である神ご自身以外には考えられないことです。ということは、イエスの復活が事実なら、明らかにイエスの神性を示しています。

 

創造主である神がいなければ復活もあり得ません。アメーバーが進化して人間になったという進化論を信じる人にとってはとんでもないことでしょう。

 

逆に、もし、この世界にいのちを自由にすることのできる方、すなわち死人を復活させる方がおられるならば、その方はまさしく創造主で神であるということができるでしょう。 人間が作った偶像の神々、つまり、木や、石で造った神々ではなく、神(創造者)です。

 

いまだかつて、古今東西のどのような偉大な宗教家も、自らの復活について語った人、また事実として示した人、また、当然ながら復活について実証した人もありません。

 

しかし、聖書の記載によると、ただ一人イエス・キリストだけは、生前中に何度もご自分の十字架の死と三日目の復活について弟子たちに予告されました。そして、その通りにすべてが成就しました。と聖書には書いてあります。

 

そのようなことは、普通の頭では信じられません。この目でみない限り信じられません。信じられないけれども否定も出来ません。だからそれを信じるか否かは信仰なのです。現実に目の前で起っていることを信じるのは信仰ではなく体験です。

 

ただ言えることは、科学が非常に進歩したと言いましても、人間はこの宇宙のすべてを知っているわけではないということです。分からないことの方がはるかに多いのではないでしょうか。だから何があってもおかしくはありません。わたしはそのように思っています。

 

復活は、旧約聖書と新約聖書全体にかかわることなのです。
だから、復活を否定すれば聖書のすべてを否定することになるのです。
聖書を信じるのなら復活も信じる必要があるのです。
このようにイエスの復活は、聖書の根底を支えています。

 

イエスの復活が余りにも奇想天外なことなので、疑う人もいますが、わたしはそれをいちいちここに書きません、なぜなら、いくらここで書き、論じてみても意味のないことだからです。復活を信じるかどうかは創造者なる神の存在を信じているかどうかに尽きると思うからです。

 

神の存在を信じることができれば、復活を信じるのは簡単なことです。神は命を創造された方です。復活など朝飯前です。

 

復活の出来事が起こったのは正しいから信じろ、といってみてもイエスの復活を目の前で見せられるわけではないから完全には証明できません。
所詮信じるしかないのです。ある一定まで理解できればあとは信じるしかないのですから。それが信仰だと思います。

 

逆にいえば、すべて事実として確認できれば信仰にはなりません。
でも、信じろと言われてもにわかに信じられるものではないのも事実です。
なぜなら、そういうことを信じることができるというのも、神の霊、聖霊がその方に働いたがゆえなのですから。

 

イエスの復活を信じている方は、自分で信じようと努力したから信じることが出来たのではないのです。と言いましても、まず信じてみようと決心することは必要ですがね。

 

イエスの復活は作文で嘘である、復活は個人の心の中での出来事をそのように記載しているだけであるというようにとらえる方がおられます。
しかし、聖書を注意深く読むと、ただ一概にそうとも言えないところがあるのです。

 

たとえば、ゴルゴダの丘におけるマリア以下弟子達に至るまで、記載されている体験は細かくて、非常に実証的であります。とても作文とは思えないのです。リアルなのです。

 

イエスの弟子たちは、イエスが葬られた墓に行って遺体の有無を確認したり、指をイエスのお腹の釘跡にいれて確かめたり、彼らは彼らでイエスの死を検証しています。ただ信じているだけではなく、あくまでも自らの目で見、自らの肌で確認しています。

 

それがあったからこそ、彼らはイエスの復活を信じたのだと思います。あまりにも生々しい体験であったのに違いありません。弟子達もわたしたちと同じように、幾度も疑ったと思います。目で見て指で触れてみなければ信じられなかったでしょう。

 

聖書を読んでいると、状況証拠はすべて復活が事実であることを証明しています。どうしても嘘とは思えないのです。

 

もし、これを作文としてしまうと、イエスの復活の御霊といわれる聖霊の存在も認められなくなるので、わたしなどの聖書理解は根底から崩れてしまいます。
キリスト教とは一体何だったのだろう、この2000年間聖書に記載されたイエスの教えを信じて、そのために命をかけてきた人々の努力はすべて無に帰すわけです。

 

迫害を受けて死んでいった無数の人々は一体何だったのだろう、となるわけです。キリスト教はイエスの十字架による死と復活がなければ成立しないのです。

 

イエスの復活が嘘ならイエスの教えが全部嘘になるし、イエスはただの気の狂った、妄想の中で死んだ人間になります。復活が事実ならイエスの教えはすべて事実となります。そして、イエスが神の御子であることになります。復活はそれほど重要なことなのです。

 

パウロというキリストの弟子で聖書の著者も書いています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」(新約聖書コリント信徒への手紙第一第15章14節から15節)。

 

わたしは復活を、霊の身体でイエスが実際に蘇られたととらえているのですが、ただ、作家の遠藤周作氏は、復活を弟子の心の中での出来事だといっておられると思います。
しかし、わたしには、五百人以上といわれる弟子が、心の中に同じ時に復活を体験したとはとても思えません。

 

「わたしが復活であり、生命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書第11章25~26節)・・・イエスの言葉です。

 

改めて申し上げます。イエスは、約2000年前にこの世に来られて、約三年の間この世に神の支配が到来したことを述べ伝え、十字架にかけられ死に、三日後に復活されました。そのあと四十日間弟子たちの前に姿を見せて、天に昇られました。
そして、イエスの復活の御霊、聖霊が弟子たちの上に降り注いだのです。これらのことは事実だと思います。少なくとも否定する根拠はありません。

 

なぜそのように思うのかって?それは先の投稿文にも記載しましたが、次のようにも言えます。
それは、イエスが復活されてからの弟子たちの変貌ぶりと、この2000年間のキリスト教の歩みと、今日に至るまでにキリストを信じた人の人生をかけての証です。

 

科学で説明できない出来事が多い現実の世の中で、何があってもおかしくはないと思いませんか。
それにわたしは現実に聖霊が弟子たちの上に降り注いだ(新約聖書使徒言行録第2章1節から)、という聖書記載の出来事とおそらく同じことが再現されたのだろうと思われる現場をこの目で目撃しているからです。

 

ただ違うところは、聖書記載の当時のほうが強烈で聖霊を受けた人に与える衝撃が大きいというだけです。
聖霊の降り方が、キリスト教が生まれたての当時と現在とは違うのは当たり前だと思います。

 

それを異言というのですが、もちろん異言はキリスト教が産声を上げた当時だけで今はないという説があり、認めていない教派もあります。それでもわたしたちのもつ知識では説明できない事実であることに変わりはありません。異言についての説明は省略します。

 

さて、復活の話に戻りますが、死者は復活するかと問われたら、そんなバカな、ありえないという反応が返ってくるのが普通です。
わたしもイエス・キリストを知るまでは、そのように考えていました。死者が復活することを信じる者は特別な例外的(普通でない・・何が普通かは問題がありますが)人物と考えていました。妄想だとも思っていました。
そういう反応も科学万能の現在ではやむを得ないと思いますが。

 

調べてみると、昔から人類は、死者は復活すると信じ、そういう願望を持っていたと思われます。たしか、死者のミイラ化による死体の保存は死者の復活を前提としていると思うのです。

 

イエスの復活という出来事の上に成り立つキリスト教も復活を信じています。わたしも聖書を読み、キリスト教の歴史を調べたのですが、結論として、もし、イエスが復活しなかったら、聖霊の存在は考えられないし、聖霊の存在と力がなければ、はたしてキリスト教は今日まで存続できただろうか、と疑問に思います。

 

イスラム教においても、アッラーの神は最後の日に死者を復活させて裁くとされているということです。イスラム教は旧約聖書を聖典とするところはキリスト教と同じです。死者の埋葬に土葬の習慣があるのも復活を信じているからではないでしょうか。

 

このように世界の大宗教が死者の復活を信条として掲げているので、少なくともそれらの宗教の信徒は死者は復活すると信じているということです。

 

もちろん、霊魂不滅を信じていたギリシャ人、輪廻転生を信じていたインド人、生への執着を断つことによって死の矛盾を克服しようとした仏教徒など、復活という形以外の方法で死の問題を克服しょうとしてきた多くの人がいたのも事実です。

 

死者の復活を信じる人は、それはその人が無知だから、現代人でないからといわれる方もおられると思いますが、いやいやとんでもない、その時代のノーベル賞を受けるような学者を含めて多くの知識人がキリストの復活を受け入れて信仰に入ったのも歴史的事実です。

 

わたしの回りにも、復活を信じている人は、わたしの知っているところ、そうですね、お医者さんとか会社経営者とか学校の先生とかあらゆる職業でいわゆる知識人と言われる人も多くおられます。

 

今でもイエスは、死の不安、苦悩、悲しみに、そしてこの世の矛盾に苦しんでいる人々、神などいるものかとうそぶいている人々に、わたしが復活である、次の世はあるのだよ、だからいまのあなたの置かれた状況は、意味あってのこと、決して無意味ではないから希望を持ちなさい、と語り続けておられています。その言葉に救われてキリスト者になった人がどれほどおられることか。

 

このように考えると、復活は所詮歴史的事実として、客観的に科学的には証明が出来ませんから、どこまで行っても信じるか信じないかの個人の問題となるわけですね。イエスは復活をもってわたしたちにこの世は神の支配下にあることを、次の世があることを、そこに希望があることを、同時にこの世の出来事のすべてに意義があることを教えにこの世に来られました。そして、今も生きてそのために働いておられます。

 

<復活の聖書記述を読む>
ここでは聖書の復活の既述箇所を聖句に沿って詳しく見てみたいと思います。

 

聖書箇所
〇ヨハネの福音書の記述
ヨハネの福音書第20章13節「天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
同14節「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」
同15節「イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
同16節「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」
同17節「イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
同19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
同20節「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
同21章4節「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」

 

〇ルカの福音書の記述
二人の弟子がエマオの村に行く途上で
ルカの福音書第24章15節「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」
同16節「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」同30節「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」
同31節「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
同32節「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」

 

考察
イエスは鍵のかかった家に入ってきて、弟子の前に突然姿を現せています。
そして、すぐにはその人物がイエスだとは分からなかったのです。
また、イエスが現れた姿は手には釘が打ちつけられた跡があり、わき腹には槍で突かれた跡があった。食事もしています。

 

マグダラのマリアには、まだ父のもとにいていないからすがりつくのはよしなさいと言っています。
非常にリアルに細かく描写されています。

 

このような描写は、とても想像の産物とは思えません。
各福音書の書き方も一定ではありません。
これらのことから推測されるのは、福音書記者は見たまま聞いたまま感じたまま書いたのだと思われます。
これらの描写をどのように解釈すればよいのでしょうか。

 

イエスは、鍵のかかった家に入ることができて、猛スピードで移動し、突然現れる。
そういうことができるの体は霊体でもなく肉体でもないと思います。
はたして、どのような体でしょう。
それに弟子たちはイエスをよく知っているのにすぐにはイエスと識別できないのです。

 

はっきりいいまして、情報は福音書に書かれたことがすべてですから、幾ら考えても答えは出ないと思うのです。
そこで、わたしはスピリチュアリズムの知識、つまり、G・カミンズ氏が霊界通信で自動書記の方法で得たイエスの成年時代を著した本がありますので、そこに「復活という現象」について書いておられますのでそのまま転載することにします。

 

事実かどうかは、信じることができるかどうかは分かりませんが、聖書の記述と矛盾していないと思います。参考にしてください。
「後になって確認されたことであるが、イエスの体は次元の高い物質に変化したため、肉眼には感じられない存在となり、墓より消えて他の場所に現れたのである。
死刑執行人の兵隊が、槍でイエスの胸を突き刺したときに、『銀の糸』(肉体と霊体を結んでいる紐)が切れてしまったけれども、神の霊力と天使の助けによって、イエスの肉体は依然として霊の支配下に置かれていたので、死後四十日間も腐敗せず、新鮮に保たれていたのである。

 

・・・その時のイエスの体は、顕幽両界(二つの世界)にまたがって生きていた。
従って、復活してから四十日の間、イエスは超常的な速さでどこにでも出現することができた。
勿論、弟子たちの前に現れるときには、鈍重な地上の速さに戻さねばならなかった。
更に、上層界の速さに切りかえたときは、・・・・人間の視界から消えてしまうのである。・・・

 

マグダラのマリアにしても、復活直後のイエスと出会っていながら、最初はまったく識別できなかったのである。
それは、十字架に吊るされた時の大きな苦しみと、銀の糸の切断という大変な経験が、彼の顔つきをすっかり老けこませてしまったのである。」です。

 

以上です。もちろんこのG・カミンズ氏霊界通信も事実だと思いますは、信じられますか。
でも、霊界の存在を信じる者にとっては、わかるように思うのですがいかがでしょうか。

 

わたしは、聖書で分からないうところがあれば、このようにスピリチュアリズムの知識を借りて、それが聖書に記載がないことで、また聖書の記載と矛盾しなければ、一概に否定せずそうかもしれないと勝手に納得するようにしているのです。

 

以上書いたことは、イエスが復活し、弟子たちに顕現された時の現象ですが、それでは、復活という出来事をどのようにとらえるかについてわたしの考えを書いてみたいと思います。

 

現在は科学の時代ですから、科学で説明できないことは信じられないと思うのが普通です。
したがって、科学的な解釈は横に置いておく以外ないと思います。
科学にこだわっていては前に進みません。

 

イエスは死から復活されました。
これもそのようなことはあり得ないということで、いろんな方がいろんな説を述べられています。

 

でも、わたしは聖書の記載そのままを信じたいと思います。
もちろん、イエスの復活もイエスの処女降誕と同じようにイエスの御霊、聖霊の臨在の中で書かれたもので、聖書著者の信仰告白だと思いますが、わたしたち創造論を信じる者にとってそういう事態はあってもおかしくはないと思うのです。

 

そうでしょ、最初の人アダムとエバの創造を考えればイエスの処女降誕だってあってもおかしくはないのです。
なぜなら、最初の人アダムとエバは男女の交わりにより生まれたのではなく聖霊により創造されたのです。
これも霊体の物質化現象といえるかもしれません。

 

わたしは神を信じている創造論者ですから、アダムとエバの創造は信じるけれども、イエスの処女降誕とか復活は信じないという理屈はないのです。
いかがでしょうか。

 

イエスの復活も処女降誕と同じく、聖霊体験により新しく生まれ変わり、真の神の子となれば、真実信じられるようになるのではないでしょうか。
聖霊はイエスの御霊ともいいイエスの復活の証となるものです。

 

今もわたしたちの中に偏在されて、イエスを証するために働かれています。
この記事を書いた福音書記者も、イエスの御霊、聖霊に満たされて、本当にナザレのイエスは神の子だったと証せざるを得ない体験の中で書いていると思うのです。もちろん、復活され顕現されたイエスに出会っているのでしょう。

 

その体験があまりにも強烈であったので、人生を180度変えられた一人と言えます。

 

イエスは四十日間の復活顕現のあと天に昇られましたが、その後神の霊、聖霊がイエスの神の国運動の弁護者としてこの世に降りました(使徒言行録第2章)。聖霊の仕事はヨハネの福音書第15章26節によれば、イエスを証することです。

 

聖霊など存在しないと言われる方もおられますが、その聖霊の臨在を実体験し、この2000年間どれほどの人がイエスの言葉を信じ、キリスト信者になったか。
これは歴史的事実です。

 

キリスト教以外の宗教では聖霊の存在を認めてはいないと思います。
目に見えるものだけを信じて目に見えないものを信じないというのはおかしいと思います。

 

イエスも言っておられます。
ヨハネの福音書第20章29節「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 」と。
もしこの言葉が、目の見えるものしか信じないわたしたちのことを言っておられるならば、すっかり見抜かれているのですから、すごいことです。

 

イエスを信じキリスト教徒になった人は、聖書を読み聖書に道徳的に良いことが書いてあるからキリスト信者になったのではないのです。
聖霊の働きにより、イエスの臨在を現実に体験して、イエスの復活が事実だと信じたからキリスト信者になったのです。

 

イエスの復活は処女降誕と違ってキリスト教信仰の生命線です。
イエスの復活がなければキリスト教はありえません。イエスの復活がなければイエスの御霊、聖霊の降りもないのですからあたり前です。

第四章.奇跡やしるしは事実か
誰でもがつまずく新約聖書の奇跡やしるしが事実かどうかいについて考えてみたいと思います。
福音書記事の真偽については、先に書きましたが、ここでは「奇跡やしるし」に焦点を当てて考えてみたいと思います。

 

この問題は誰でもが聖書を読むうえで考えることだと思います。
たとえば、ルカの福音書第7章11節以下で、ナインのやもめの息子が死から生き返ったというのは、ほんとうの出来事でしょうか。

 

これは一つの例ですが、こういうことをどのようにとらえるかは、四観福音書全体を読む上で、最も大事な問題点だと思います。

 

もちろん、わたしはこの出来事は本当にあったものと信じています。
これは当たり前のことですが、結論として学問的な研究では聖書に記載された奇跡とかしるしの真偽について判定をくだすことはできないということです。
タイムスリップして当時に行って確かめることができるならば別ですが、それはとても無理な話です。

 

言えることは、イエスの言葉を伝えれるために、イエスに選ばれた十二使徒以降の代々の信仰者である信仰者たちが、聖書の真正を確信していたことは歴史的な事実であると言うことです。

 

また、この2000年間、聖書を読み、書いてある出来事を真実だと信じた人が数多く起こされて、いまもまた世界のどこかで信じる人が次から次へと起こされているのも事実だということです。
いわゆるクリスチャンと言われる人は、イエスから直接言葉を聞くことができなくても、聖書を読みあるいは聖書の言葉を聞くという行為だけで信じたのも事実です。

 

また、聖書の魅力に取りつかれて、否定が出来なくて聖書の言葉に何年も囚われている人がごまんといるのです。
そういう人もある意味イエスの言葉を信じていると言えると思います。

 

見方を変えれば、十二使徒以降の代々のクリスチャンと言える人種は、約2000年前にこの地上に生きたイスラエルのナザレのイエスと言う人物は、神の子として神の人類救済のご計画により、この地上に使わされ、神と神のみ心を顕し、神の支配の始まりを告知するために来られた。

 

そのイエスの十字架死と復活は、イエスの言葉を信じる者に、肉の体から新しい命へ移行する来世への希望を保証するものであると信じたのです。

 

その希望が現実に現世での迫害に耐える力となり、迫害に負けずに次から次に新しいクリスチャンが生まれたのも事実です。
もちろん、このような見方が、イエスの出来事が真実だと証明することにはなりません。

 

なぜなら、イエスと同時代に生き、目で確かめた人なら事実であると断言できますが、イエス以降を生きる信仰者にとってはあくまで「事実であると信じている、という表現になるのですね。

 

学問的にどこまで研究しても同じだと思います。
それ以上のことは言えません。
イエスの十字架死と言う出来事は歴史的に事実であると確認できても、イエスの復活が事実であるかどうかは、学問的には判定できません。

 

学問的に判定できるのは、イエスの死後、その弟子たちの間で、復活信仰が起こったと言うことだけです。
それは弟子たちが命をかけて復活を証言し、イエスを神の子だと信じイエスの言葉を語り伝えたのを見れば明らかです。

 

復活を体験した弟子たちの弟子たち、代々の弟子たちにはその復活を体験した弟子たちの言葉を信じて、イエスの復活を信じたのです。
そう、信じたのです。

 

イエスの復活が事実であるかどうかの証明は、信仰の世界、霊的な領域に属することになると思います。
信じる人にとっては事実であるし、信じない人にとっては作り話です。
もう一つ問題があります。

 

新約聖書は、当時のギリシヤ神話とか旧約聖書を取り上げているところが多くあるということです。
旧約聖書を取り上げるのは、イエスの出来事が旧約聖書の預言の成就という問題がありますから分かるのですが、ギリシヤ神話はどうでしょうか。
似ている場面があるのは事実だと思います。

 

それでは新約聖書のギリシヤ神話によく似た物語は、ギリシヤ神話を真似した作り話でしょうか。
このことも、学問的には、架空の作り話であるともないとも立証できません。

 

ただ言えることは、福音書を書いた人は、イエスは神の子で、旧約聖書で世の終末に来られると預言されていたメシア(救い主)はイエスだと信じていたということです。

 

そうであれば、福音書を書いた人は、自分がメシアだと信じたイエスをギリシヤ神話を取り入れてメシアに仕立て上げようとしたのでしょうか。
これも学問的には立証できません。

 

イエスの復活は、イエスの復活を実際に体験した人によって書かれました。
だから、その人たちは、イエスは神の子であると信じています。

 

そして、自分が見たこと体験したこと(第一ヨハネの手紙第1章1節)を、命をかけて証言し、守ったのです。
そのような弟子たちが書いた福音書は信頼できないと言えるでしょうか。

 

ルカが書いた使徒言行録には、ペトロとパウロが死者を生き返らせた話と言う話が出てきます(使徒言行録第9章36~43節/同20章7~12節)が、ペトロもパウロも「ナザレのイエスの名によって」このような奇跡を起こしたのです。

 

使徒言行録第4章30節「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」とある通りです。

 

したがって、福音書で語られた「ナザレのイエスの出来事」が偽りの作り話ならば、使徒言行録のこれらの話も同様の理由で作り話になります。
そうであれば、パウロが書いた手紙類の内容の真偽もおかしくなります。
すると今日までに起こされた全世界の何億というクリスチャンが証言することはなんであったかということになります。

 

パウロはペトロを含む十二使徒に福音という任務を働きかけられた方と同じ方(ナザレのイエス)が自分にも働きかけられたと述べているのです(ガラテヤ書第2章8節)。

 

したがって、使徒言行録のペトロやパウロに関する記述もそれなりの信憑性があり、同様にペトロの力ある業(ペトロの手紙二第1章4節、しるしとか癒しの奇跡、つまり神の業)にも信憑性があると認めるべきだと思います。

 

ペトロやパウロが、復活のイエスの力とみ名を信じることによって、このような神の業であるしるしとか癒しの奇跡が現実の出来事として起こったのであれば、生前のイエスにも、同様な神の霊の力が働いて、現実にイエスの身に起こった出来事とか、なされたしるしとか奇跡が事実であったと考えるべきだと思います。

 

生前のイエスはただの人間で、そのような力が無く、福音書の出来事は、イエスの復活信仰は架空の出来事にすぎなかったとすれば、そのイエスの名を信じたペトロやパウロにどうしてそのような不思議な出来事が現実のこととして生じるでしょうか? 

 

事実はそうではなく、生前のイエスに、神の御霊、聖霊の力が働いて、聖書に書かれている奇跡やしるしが現実のこととして起こったからこそ、イエスの死後においても、ペトロやパウロに同じイエスに働いた同じ聖霊が働いてイエスと同様のことが起こったと考えるほうが、よほど確かな推論だとわたしは思うのですが、いかがでしょうか。

 

確かに、聖書の記事の中には、明らかに神話を取り入れたと思われる個所や、旧約聖書の預言に影響された考え方や、イエスの復活以後に派生した伝承も含まれていると思います。さらにイエスの復活それ自体を証しする目的で語られた個所もあると思います。

 

だから、どの記事がどの程度、出来事として現実に起こったことなのか、言い換えると、どの程度、神話とか伝説的な部分が取りこまれているのか、これを確実に見分けるのは容易ではないと思います。これは聖書学者の話です。

 

現代の聖書学では、どれが本来のイエスの言葉なのか、これをなんとか見分けることはできるらしいのですが、それ以上のことは判断できないということです。
わたしは、新約聖書に神話や伝説や旧約聖書の預言の反映があったとしても、頭から嘘だと言って無視するのではなく、そのようなことが、なぜ記載されているのか、そこに含まれている宗教的、あるいは霊的な意味を知ることが大切かと思うのです。

 

福音書著者が福音書などにそのことを組み入れた意味目的を知る必要があるかと思うのです。
福音書著者が信じていることが本当だと説明するためにそれらのことを利用したのですから必ず意味目的があるはずです。

 

イエスに起こった出来事が、すべて作り事と言われる方は、現在でもキリスト教世界に起こっている不思議な現象、つまり、異言や預言、癒しやその他のしるしが信仰者を通して、イエス・キリストのみ名によって現実に起こっているのをどのように見るのでしょうか。

 

異言を語られる方などは現実にわたしの身近にも大勢おられます。
異言をそばで聞いていて意識的にまねて語ろうと思っても語れません。
不思議な霊的現象です。
そういうことが事実として現実に起こっているのを見ると、聖書の不思議な出来事も架空のことではないと思えるのです。

 

どちらにしても、この世での出来事には科学では説明できないこと、人間の目や耳で確認できないことなど不思議な出来事が多くあります。
所詮人間は被造物です。
被造物には創造主の世界のすべてを理解することは決して出来ないのではと思います。

 

第五章.聖書の記録の信憑性
聖書には余りにも不思議な出来事が書かれています。
また。旧約聖書の預言がそのまま起こったこととして記載されているところもありますので、福音書を読んでいてどの個所が事実でどの個所が物語なのか、いや、全部が本当なのだろうかと、疑問を持ちます。

 

何人かの聖書を研究されている方の解釈を読んでみましたが、どれももう一つ納得できるものがありませんでした。
すべて本当だと割り切ってしまえば楽でよいのですが、わたしの性格上そうもいきません。

 

新約聖書には、旧約聖書から多岐にわたり引用されています。
これは、先に記した通り新約聖書を書いた記者たちが、イエスの出来事を旧約聖書で預言されていたメシアの到来、預言の成就という視点から見ていたからでしょう。

 

イエス受難時の出来事も同じです。
「真昼に闇が襲った」についても、これは、旧約聖書アモス書第8章9節の「その日が来ると、と主なり神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。」の預言を踏まえていると思うのですが、実際に起こったと科学的に説明した学者もいます。

 

旧約聖書出エジプト記にも、モーセが命じるとエジプト中に暗闇が襲ったという記事があります。

 

このように、福音書の物語には、旧約聖書の物語を用いているところが多いので、イエス受難時の出来事を含めて、福音書は実際に起こった出来事に基づいて、それを細部にわたり史実どおりに伝えていると簡単に割り切ることができないのも事実だと思います。

 

福音書は出来事を時系列にそのまま記録した歴史書でもないのです。
それでは、イエス受難の出来事は、旧約聖書の預言書に書かれていることが事実として実際に起こったということでしょうか。
次のように考えることはできないでしょうか。

 

まず、間違いがない出来事は何かを見てみますと、イエスという人物がいたこと、その人物は独特の考えを持ちそれを広めようとしていたこと。
その人物が自ら広めた教えを理由にローマ軍により十字架に架けられて死んだこと。

 

それらは誰もが問題なく信じていることで、間違いなく歴史上の出来事としてあったことです。
そこでこの事実を、十字架の出来事を後世に伝えようとしますと、その出来事に意味を持たせる必要があります。

 

事実を伝えるだけなら、「ナザレのイエスという男がユダヤ教の教えとは違った独特の考えを広めようとしたので、ユダヤ教指導者の反感を買い十字架に架けられて殺された。」で終わってしまいます。

 

これでは、なぜそのような出来事が起こったのか、その出来事とイエスの独特の考えはどのように関係し、何を伝えようとするのかというその意味は伝わりません。

 

出来事の意味を伝えるためには、事実を語る必要があります。
語るためには事実を解釈する必要があります。
このように出来事を解釈し語ることによって出来上がったのがイエスの受難物語ではないかと思うのです。

 

事実を羅列しただけでは出来事の意味は分かりません。
福音書記者が実際にイエスの身に起こったことを旧約聖書の預言に当てはめてみると、余りにも酷似していたので、イエスの出来事を語るために、解釈するためにその預言が用いられたということではないでしょうか。

 

細かいところまでは符合しなくても明らかに預言の成就だと信じさせる出来事が現実に起こったのだと思います。
それも旧約聖書の預言に詳しいイスラエルの住民をイエスの出現が旧約聖書の預言の成就だと信じさせるほどの出来事がです。

 

聖書の記録の信憑性はどうであろうか。
新約聖書は、紀元後一世紀の四十年代から八十年代の間に書かれたことがわかっています。
その記事の内容は、イエスの生存中に生きていた人々が、まだ生きている間に流布していました。

 

これらの人々は、記事の正確さを確証することも、否定することもできましたが、誰もそれをしなかったのです。
それは、書かれていることが事実であり、疑問を挟む余地のない出来事であったからではないでしょうか。

 

使徒ペトロはイスラエルの人々に対する最初の説教で、「イスラエルの人たち、このことばを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から使わされた方です。神は、イエスを通してあなた方の間で行われた奇蹟と不思議なわざとしるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」(使徒言行録第2章22節)と言いました。

 

もし、この説教の内容に事実と異なるところがあるならば、聴衆はペトロを嘲笑してその場から離れ去っていきます。
それどころか、41節によれば、ペトロの説教を聞いてその日に3000人ほどが信じたと書いてあります。

 

十字架のときは、弟子たちは悲しみに打ちひしがれて、失望し、臆病がゆえに巻き添えを食うことを恐れてイエスから逃げました。
ペトロなどは、イエスの弟子だといわれた時に、巻き添えを恐れて、三度もイエスを知らないと否定しました。

 

しかし、復活のイエスに出会ってからは決して疑うことはありませんでした。このように臆病な弟子が短期間で驚くほど変わったのです。
イエスは、弟子達の前にご自分をあらわされ弟子たちに神の国の教えを述べ、四十日後に天に上げられました。

 

その後、イエスが生前に予告された通り聖霊が弟子たちの上に降られたのです。
このときから、弟子たちは大胆にイエスの教えを述べ伝え始めました。
それはイエスが現実に復活されたから、イエスを神の子だと信じたからと言えます。

 

これらのことが嘘なら、使徒たちは殉教者として死ぬまで、一人も挫折せず確固とした態度をとっていたことは説明できません。
彼らは苦しめられ、鞭で打たれ殺されました。

 

使徒たちは、イエスの教えが真実であることを実証するため、死をもいとわずイエスの教えを述べ伝えたのです。
もちろん、財産も権力もこの世に価値があるものは何一つ求めていません。
時代の流れに逆らって生きようとしないで、傍観者として生きる人々の証言よりも、使徒たちの証言のほうがよほど信頼できるのではないでしょうか。

 

パウロは、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によって力ある神の子とさだめられたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマの信徒への手紙第1章3節4節)、と述べています。

 

最後に、最近わたしはイエスの出来事はすべて真実であることを証する小冊子を読みました。
その本は、「ピラトの報告書」という題が付けられています。

 

もちろん、ピラトという人物は、イエスを十字架につける判決を下した人物で、ローマ帝国から派遣された属国イスラエルの執政官です。
イエスの弟子以外の人物、それも敵方の書いた文書であり、また、イエスのことをローマ皇帝に報告する為に作成された公文書です。

 

原本は、トルコの聖リビア寺院に所蔵されているということです。
内容は信頼できると思います。
上記の報告書には、イエスが十字架につけられる経緯からイエスの復活までを事細かに記録され、当時のローマ皇帝、カイザルにピラトが報告したものです。

 

内容は、聖書の内容と全く相違がなく、ピラトはこの小冊子の最後でイエスのことを、「十字架の傍らでマルクスが言ったとおり、私はまことにこの人は神の子であったと言いたいのであります。」と結んでいます。

 

キリスト教においてイエスは神の子でなければならないのです。
オックスフオード大学の英文学を講じていたC・S・ルイスは次のように言っておられます。

 

「もしも神が人間になったのであれば、つまり、死や苦しみの伴う人間の性と、神の性質とが、ひとりの人に融合したのなら、その人は私たちを助けることができるであろう。彼は人であったので、自らの意志を放棄し、苦しみ、死ぬこともできた。そして神でもあったので、それを完全になし遂げることができた。私やあなたも、神が同じことを私たちの内側でなしてくださるなら、その経験にあずかることができる。しかしそれが可能になるのは、唯一、神が人間になることを通してのみだ。私たち人間は神の死にあずかって初めて、自己に死ぬことができる。それはちょうど、私たちの思考が神の知性の大海の一滴となるとき初めて機能するのと同じである。しかし、神が死ななければ、私たちは神の死にあずかれない。そして神は、人間にならなければ死ぬことができない。神が私たちの負債を支払い、ご自身でまったく苦しむ必要のない苦しみを私たちのために負ってくださるとは、そういう意味なのである。」

 

ちょっと分かりにくいのですが、簡単にいえば、人間の罪(神から離反したこと)を贖うために生贄となって死ぬことができるのは、人間であり神でもある(無原罪の)イエスしかいないということでしょう。

 

十字架で死んだ人間はいくらでもいます。
でも、人類の罪を贖うために十字架にかかったのはイエスのみです。
両者のどこが違うかと言いますと、イエスは無原罪であったと言うことです。罪を罰せられて死んだのではないのです。

 

だから、イエスがもし原罪を持つ人間そのものならイエスの十字架死は何の意味もないことになります。
「自己に死ぬ」というのは、罪ある過去を葬るということだと思います。

 

新しい人間に生まれ変わる、つまり自らのプライドと自己中心的な生き方をしたいという身勝手な願望に中に生きている自分を葬り、神の恵みの中にすべてを委ねる新しい人間の生き方に生まれ変わるということだと思います。

 

神がイエス・キリストという人となり地上にやってきて、神と人間の間の隔たりを埋めるための解決策として(全人類の罪を贖うための生贄として)、十字架にかかられて死に、三日後に(罪の結果として訪れる死を克服して)死から復活されました。

 

もちろん、イエスの死からの復活は父なる神がなされたことですから、復活は同時にイエスは神の子であることを証します。
そのような人物が、イスラエルのナザレの大工の息子イエスであったのです。奇想天外な出来事ですけれども、否定する根拠は何もないのです。

 

科学的に立証することもできませんが、後は信じるか否かです。
もし、信じることができればそれは聖霊が働かれた結果でしょう。
ただ言えることは、イエスの十字架と復活と聖霊降臨がなければ、いまのキリスト教は存在しないと言うことです。

 

だから、この三つの出来事はキリストを信じる者が起こされている限り事実なのです。
イエスを信じて洗礼を受ける人は、それこそ、パウロが言うように、「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。
死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」(コリントの信徒への手紙一第15章29節)。
そのような意味のないことはやめておきなさい。
大の大人が、何を子供ダマシのようなことをしているのですか、です。
イエスを信じた、あるいは信じている何十億という民は、そのような無意味なことをしたのでしょうか。

 

少なくともその人達はイエスを神と信じて洗礼を受けたのだと思います。
この現実は、荒唐無稽と笑って無視できるほど簡単なことではありません。
もし、イエスの言葉とか出来事を信じるに値しない、嘘だと思われるならば、その何十億と言うキリストの民を無意味なことを信じた愚か者と言いきれるでしょうか。

 

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