フォト
2026年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

救いの御業

救いの御業
目  次
はじめに
<死後に救いのチャンスがある>
<この世は公平ではない>
<最後の裁き>
<すべてのイスラエルの救い>
<イエスの言葉>
<「放蕩息子のたとえ」>

 

本文
はじめに
ここではキリストの救いの御業について少し詳しく書いてみたいと思います。
キリストは神の子であり、父なる神はわが子キリストを地上に送り人間の手によって十字架で殺されるのを許されました。
それは、全人類の罪を贖うための生贄としての主の御業だとキリスト教は教えます。

 

そしてキリスト教は、われわれ人間は、アダム以降神から離れて自己中心の道を歩む現実を罪だと教え、人間の死後の行き先は罪の中にある限り地獄(永遠の死と同義)だと教え、永遠の命を得て天国に行くためにはこの地上にいる間にキリストを受け入れる必要があると教えます。

 

永遠の命などいらないという方もいますが、人間はもともと神のもとで新しい人間に再創造され永遠に生きるように作られていて、それが最も幸せなのです。

 

ですから、死んで消滅はなく、死ねば、キリストにある者は天国へ行き、キリストを知らない者とか拒否する者は陰府に行きます。
死んですぐに天国に行けるのは、キリストの福音を信じる者だけですから、それ以外の人は、陰府セカンドチャンスの機会を得て、最後の裁きを経て、悔い改めキリストの福音を受け入れた者は天国に、それでもキリストをあくまで拒否する者は地獄だと私は思っています。。

 

なお、セカンドチャンスを認めている教会と認めていない教会があります。
しかし、知る限りほとんどの教会はセカンドチャンスを認めていないか、明確にしていないところが多いのではないでしょうか。

 

またヨハネの黙示録20章11節以降では、最後の裁きとして「死者たちが」命の書に基づき、彼らの行い(おそらく生前の)により裁くと記されていますが、その裁きの中身については何も書かれていない。
裁きの結果が、地獄か天国かとも書かれていません。ただ「行い」により裁かれるのです。

 

キリストの福音を受け入れたら天国に行けると教会は教えますが、マタイによる福音書7章21節においては「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」とあるように生前の行いも大切にされています。

 

ヨハネの黙示録20章の「最後の裁き」で、「大きな者」「小さな者」も「命の書」に記載された生前の行いに基づき裁かれます。
「大きな者」「小さな者」は、その人がどのような立場にいても、すべての人を裁くということでしょう。

 

そういう意味では、ヘブライ人への手紙9章27節にも「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」とあります。「人間には」とありますから、(信者であることの有無に関係なく)すべての人間が対象です。

 

とすると、黙示録20章の行いの裁き(最後の裁き)はどのように考えればよいのでしょうか。
わざわざ行いに応じてと特定されていますが、少し引っかかったのですが、普通に考えれば、人間の罪は、神から離反して自己中心に生きている原罪とその結果起こるこの世界での行いの罪があります。

 

神から離反、すなわち、原罪はキリストの十字架と復活によって既に贖われていますから、黙示録20章の最後の裁き「行いの罪」は、地上での、生前の行いの罪と受け止めたいと思います。

 

なお、キリストの福音を受け入れた者は、陰府にいかないで、直接天国に行くのですが、であれば行いの裁きは免れます。
それは、キリストの福音を受け入れた者は、聖霊がその者に内住すると聖書にはありますから、その聖霊の働きによりその者は聖化されるからと受け止めたいと思います。

 

●ヨハネの黙示録20章10節では地獄(永遠の死と同義)に送られることが決まっているのは、悪魔・偽預言者・反キリストと明記されています。
今まで私は、この地上で生きている間にキリストを受け入れた人は天国に、そうでない人は地獄行くと教えられてきました。

 

しかし、聖書を読みましても、この地上で生きている間とはどこにも書いていません。

 

そこで疑問ですが、キリストの十字架死は全人類の罪(原罪)を贖うためであって、それが神様の願いなのは誰もが認める真実だとして、そのうえで、永遠の命を得て天国に行くための切符は、一般に教会で教えられているように、この地上に生きているときにキリストを受け入れる必要があるとするならば、キリストの十字架は当初から失敗だと言えないでしょうか。

 

なぜならば、キリストの十字架死の時点で、アダム以降すでに多くの人が生まれ亡くなっているのです。
その人たちはこの地上でキリストに出会う機会は永遠にありませんからキリストの救いの御業から切り捨てられたことになります。

 

また、キリストの十字架死以降今日まで生まれ亡くなったほとんどの人はキリストに出会う機会もなく亡くなっていますが、その人たちも同様かと思います。
例えば、生まれ、また、育った環境により、本人の責任によらないでキリストに出会う恵みに与らなかった人も大勢います。
福音を聞いていても正確に伝えられていない場合とか、その重要さに気が付かないまま生きることに心が奪われて、死んでいく人も大勢います。
いずれもその人の責任によらないのです。

 

そのように不公平極まりない状況の中で、この地上で福音を受け入れたか否かで永遠の命の行く末を決められ、果ては地獄行きでは浮かばれません。
そのような状況にあるのが、この地上世界の現実です。

 

キリストの十字架死が全人類の罪の贖いのためであるならば、生死を問わずすべての人にその救いのチャンスがなければおかしいと思います。
それも公平にチャンスが与えられるべきです。

 

そうでなければ、神の義はどこへ行ったのかと問いたくなります。
もし、一部の人のみ救われるのが神様の意志であるならば、キリストの十字架は必要でない、その意味がなくなるのではないでしょうか。

 

キリストは、全世界の人々に私の言葉を伝えなさいと言われましたが、この言葉の伝導は神様の奇跡で一気になされるものではなく、何世代にもわたり人の口から口へ少しずつ伝えることになるのですから、途方もない時間を要し、現実には十字架以降2000年がたちますが、今日までキリストを知らないで生まれ亡くなった人のほうがキリストを受け入れて亡くなった人よりもはるかに多いと思います。

 

先に記したように、どのような事情があっても、本人の責任でなくてもなおこの地上に生きている間にキリストを受け入れなければ、救われないというならば、これ以上の不公平はありません。
そうであるならば、キリストの十字架死が全人類の罪の贖いの十字架だとはとても思えない、つまり、全人類の救済は、最初から失敗であったと言えないでしょうか。

 

キリストの十字架死には、全人類を罪から救いたいという強いイエス様の思いが込められているはずです。
神様が私たちを高価で貴いと言われ、憐れみ深い愛の方で、正義の方であるならばそういうことはとても考えられません。

 

それに、ヨハネの黙示録20章12節では、すべての人が生前の行いによって裁かれるのですが、キリストを受け入れないで死んだ人は地獄行きと決まっているのならば、なぜわざわざ死んでから行いによる最後の裁きの必要なのでしょうか。
裁くイコール死刑(地獄)ではないのです。救いの希望がなければ裁きません。
その行いによる裁きが地獄行きの裁きならば、その人はキリストの十字架死と復活により、既に罪は贖われているのですから、そのキリストの十字架死が無駄になります。

 

ということで、神様の人類救済の御業は、キリストの言葉は、公平と正義が守られるために、生前、死後においてすべての人々が救われるまで、その救いの御業を受け入れるチャンスが用意されているものと思います。

 

そのように理解するといろいろな矛盾がすっきりするのです。
機会の平等は万人等しく与えられなければ、公平な裁きはできないと思います。

<死後に救いのチャンスがある>
死後に救いのチャンスがあると思われることが書かれた聖書個所ですが、
●ペトロの手紙一3章19節には、キリストは十字架死以降復活までの間、「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」とあります。

 

ここで言っている十字架死以降にキリストが行かれた場所は、「陰府」です。
キリストはそのときに過去・現在・未来のまだキリストを受け入れていない死者のところに行かれて宣教されたものと考えます。

 

「捕らわれていた霊」には、キリストを受け入れなくて死んだ霊すべてが含まれると考えます。
十字架死から復活までわずか三日の間ですが、その間に多くの死者に福音を伝える時間はないと言われますが、霊界の時間は永遠です。
この地上世界の時間では測れません。

 

●ペトロの手紙一4章6節には、3章19節を受けて、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」と記されています。

 

この肉の世界(現世)の人間は、キリストを知らないで死んだら、裁かれて死んだととらえるが、その人たちを「捕らわれていた霊」とし、キリストがその人たちが死んだあと一時的に住まう陰府に降り、その人たちに福音を宣教されたのは、「神との関係で、霊において生きるように」ですから、まさにセカンドチャンスです。

 

もちろん、死後、神様を知り、キリストの御業を見て、また聖霊降臨の恵みを受けてもあくまでキリストを否定する人、つまり、反キリストに準ずる人はわかりません。

 

そういう人は現実にはほとんどいないと思いますが、神の国には、そういう人は不要で、また、そういう人は天国には住みにくいものと思います。
キリストの十字架死は、すべての人々の罪を贖うためになされた神の愛の表れです。

 

神は、一人も滅びないようにと願っておられます。
キリストは、今も天において人間のために執り成しの祈りをささげておられます。
それはまさしく父なる神の、また、御子キリストの愛であり、新しい人類創造のための御業、というかご計画の中の出来事だと思うのです。

 

わたしは、神様は人間を地獄に送るために創造されたのではなく、新しい人類の創造の御計画の一環として創造されたものと思います。
この地上世界の苦難も、死後、生前の行いで裁かれるのも、その過程のなかの御業の一つだと思うのです。

 

人間の魂は、キリストの十字架死でその罪はすでに贖われています。
あとは、地上におけるその人の行いの裁きが残されているだけです。
すでに全人類の魂は十字架で救われているので、天上においては、地上における行いのみを裁くのですが、その裁きでその人の永遠の命(キリストが十字架死で贖われた)を奪うなんてあるのでしょうか。

 

それならば、キリストの十字架は意味をなさないのではないでしょうか。
私が思うところ、聖書は救いについては多くの矛盾があります。それらの矛盾を解決しょうと思えば、ほぼ全員救済しかないと思うのです。

 

次の聖句も天国のことを記していると思いますが、この地上に生きているときにキリストを受け入れなければ、とは書かれていません。

 

●ヨハネによる福音書14章6節「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 

黙示録の生前の行いによる裁きの行いの内容は、新しい契約と言われるマタイの福音書5章の山上の説教が参考になるのでしょう。
わたしたちはもともと永遠の命の中に生きる者です。

 

この地上世界は、その永遠の命の中のほんのわずかな時間、一瞬の出来事です。
そのわずかな時間の中でキリストを知らなければ、永遠の命がはく奪されるというのは理にかないません。

 

現世は、あくまでも新しい天地の創造、新しい人類の創造の御計画の中の一環だと思うのです。この地上世界の経験は、そのためにどうしても必要であるからおかれているのでしょう。

 

父なる神も御子キリストも、人間を地獄に送ることなど望んではおられないでしょう。
なによりも、キリストはご自分を全人類の罪を贖うための生贄として捧げられたのです。

 

そこには全人類を一人残らず救いたいという父なる神の、キリストの強い思いがありますので、キリストの全人類を救うという御業の営みは忍耐をもって全人類が救いに与れるまで続くのでしょうが、現実、何度機会を与えても救いを受け入れない人もいるでしょうから、その救いは、すべての人でなく、ほぼすべての人になると思います。

 

そして、それは最終的に全人類がキリストの救いの御業に与り天国に導かれ、新しい人類として再創造されるという形で完成するものと思います。(黙示録21章)

 

ここではキリスト教の根幹にかかわることを大胆に書きましたが、わたしはキリストを知り27年の間聖書を学び得た結論がこれなのです。

 

なお、全部の人が救われるのならば、日々人々の救いを祈る必要などないのではという方もおられますが、たとえ、すべての人が救われるとしても、それは確定しているわけでもないし(だから私はほぼすべての人と言っています。)、一人でも多く、一日でも早くこの地上で生きる人が目覚め、キリストと共に生きることは神様が強く望んでおられることであり、その人の創造にも益になるものと思います。

 

●フィリピの信徒への手紙2章10節.こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

 

「地下のものがすべて」の地下は、陰府を指し、この世界でキリストを受け入れないで死んだ人を指すのでしょう。最終的にその人を含めてすべての人がキリストの前にひざまずくのです。

 

●フィリピの信徒への手紙2章11節.すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

「すべての舌」、そう、いまキリストにある者も、ない者もやがてすべての人がキリストをたたえるようになるのです。

 

●ローマの信徒への手紙14章9節.キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 

キリストが十字架で殺され三日後に復活されたのは、「死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」と宣言します。
この死んだ人というのは、すでに死んで「陰府」にいる人のことでしょう。

 

この三つの箇所も、すべての人が救われることを疑いなく宣言しています。
ということで、このような事態が実現するためには、キリストを知らないで死んで、今、陰府にいる人に、それこそ何度もセカンドチャンスが、そう、最後の一人が救われるまで救いの機会が与えられるのでしょう。

 

あ、そうそう、イエスの種(福音)をまくたとえ話(マタイ13章)がありましたが、陰府におけるセカンドチャンスの際に,現世で撒かれたが実らなかった種は、陰府において実ることも想定されるでしょう。

 

最後に、キリストは神の御子です。その御子がわが身を犠牲にして、全人類の罪を贖ってくださったのです。
その強い願いは、必ずや達成されます。神は、全知全能で創造の神です。
私は父なる神の、御子キリストのその思いが成るように祈りたいと思います。アーメン

 

わたしは、救いについて、「ほぼ全員救済」を信じる者ですが、それに関係する聖書箇所を記してみました。長いので、二つに分けます。
とんでもない間違いをしているかもわかりませんが、私はこれからも「ほぼ全員救済」を信じて祈っていきたいと思います。
わたしは聖書のみ言葉を信じるうえで、多くの矛盾に突きあたりました。
その多くの矛盾をわたしの中で解決するのが、救いにつき「ほぼ全員救済」でした。

 

わたしはこの「ほぼ全員救済」が、神様の真意だと確信しています。わたしの信仰の根幹と言えます。
もちろん、ほぼ全員救済ということは、救いについてセカンドチャンスがあるということです。

 

つまり、この世界でキリストを信じた真のクリスチャンは、死ねば即天国に行きます。
そのほかの人々は陰府(よみ)に行きます。地獄はまだありません。

 

ですから、セカンドチャンスは陰府においてあるのですが、そのセカンドチャンスに恵まれながらあえてキリストを拒否する人は、最後の裁きを受けて地獄かもしれません。

 

わたしには、一人でも多く、できればすべての人が天国に行くことを、神様は願っておられる、だから救いのチャンスは何度も与えられ、忍耐強く待たれると思うのです。

 

●マタイに福音書5章3節
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

 

・・・この心という語句は、ギリシア語では「プネウマ」で、意味は、「聖霊」「悪霊」「汚れた霊」という表現で普通に使われているそうです。

 

そして、「幸いである」ですが、「霊の貧しい人々」ですから、霊と共にいない人は幸いとなりますから、その人の「霊」が貧しいのは幸いですから、「聖霊」「悪霊」「汚れた霊」は、神様との関係においては何の問題もない、ということになります。

 

それどころか、「天の国はその人たちのもの」と言っておられます。
主であるイスラエルの神は、ご自分が真の神であり、創造主であると宣言されます。

 

そして、イスラエルを救われた真の神、主は、ご自分の救いの手をイスラエルだけにとどめないで、異邦人にも救いの手を差し伸べられ「先の者(ユダヤ人)は後になり後の者(異邦人)が先になる」と言われています。
それは22節以降で明らかにされています。

 

●フィリピの信徒への手紙2章10節・11節
〇10節「こうして、天井のもの、地上のもの、地下のものすべて、イエスの御名にひざまずき、」
〇11節、「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 

・・終わりの日のその日その時には、すべての被造物の舌がイエスをたたえるのです。選ばれた一部の人間とはどこにも書かれていません。

 

●ローマの信徒への手紙11章6節から8節と11節、12節、15節
〇6節「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。」

 

・・ユダヤ人の残りの者の救いは恵みであり、行いではないのです。
救いは、先の者(ユダヤ人)が後になり、後の者(異邦人)が先になるのです。
神の救いの恵みの手は、最終的にすべてのユダヤ人に、そして、すべての異邦人に及びます。

 

〇7節「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。」

 

・・ユダヤ人の救われた残りの者もかたくなな者も神がそのようにされたからです。もちろん、それは新しい人間創造に必要であるからでしょう。

 

その人がそのようになりたいと思って努力したわけではありません。
だから神は最後に全イスラエル人に御霊を注ぎその人の心をご自分の方に(本人の意思に関係なく)向けられ、救われます。

 

〇8節「神は、彼ら(異邦人)に鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。」

 

・・異邦人が神から離反しているのは、ユダヤ人と同じく神が異邦人をそのようにされたからです。
だからユダヤ人に起こったことは、我々異邦人にも起こります。

 

〇11節「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいた(十字架)とは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」

 

・・十字架は異邦人に救いを持たらし、ユダヤ人に(救いをもたらすために)妬みをもたらすためであったのです。

 

ユダヤ人は、自分たちは選民だと言って自慢していたのですから、キリストの十字架で異邦人が先に選民とされたなら選民意識のユダヤ人はそれが期待外れに終わり、異邦人を妬みます。

 

〇12節「彼ら(ユダヤ人)の罪が世の富となり、彼らの失敗(十字架)が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら(異邦人)が皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」

 

・・キリストの十字架は異邦人が全員救いにあずかるのが目的です。この救いはあくまでも、永遠の命につながる霊的な救いだともいえます。
地上での行いの裁きは、黙示録20章の最後の裁きです。

 

キリストを知らないで死んだら地獄なんてどこにも書いていません。
キリストを知らなくて死んだ人間は、陰府にいるのでしょう。
陰府では、ラザロのように、悔い改めてこの地上世界で生きている人間(子孫)の救いを求めている例もあるのです。陰府においても、救いのチャンスがあるということです。

 

〇15節「もし彼ら(ユダヤ人)の捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」

 

・・キリストの十字架が世界に救いと和解をもたらすならば、それでユダヤ人が救われるのは、死んだ者が生きることになり、死者からの復活となるのです。

 

●コリントの信徒への手紙一15章22節
「つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。」

 

・・キリストの十字架は、全人類が肉において死に霊において生きるためです。
アダムにあってすべての人が霊的に死ぬことになったのならば、キリストにあって(一部の人でなく)すべての人が霊的に生かされるのは当然です。

 

その人が、現世、来世、どちらの世界でキリストを知るのかは神様の御心次第です。
なお、生前の行いの罪は、黙示録20章で千年王国が終わった後で裁かれます。

 

聖書の神は、正義と公平と愛の神です。
だから、過去・現在・未来のすべての人間に対し、公平に義をもって愛を実現してくださるでしょう。

 

そうであれば、この悪魔が支配する不公平な世における、それもたった80年ほどのその人の責任によらない生前の行いだけで、その人を地獄に送るのは、これほど不公平なことはありません。この世界においては、あらゆる面で絶対的な公平はありえません。

 

聖書は、人間は霊的な存在で、新しい人類の誕生と言う計画のためにこの世があり、この世はその計画を達成するための一時的な場所とされています。
だから神の子とされた人間の本籍は天国なのです。
ですから、この世界で生きた行いだけで、その人の霊的な命が必要か否かを決めるようなことはないと思います。

 

<この世は公平ではない>
先にも書いたように、この世はあらゆる面で絶対的な公平は存在しませんから、キリストを知る機会も公平に与えられることはありません。

 

この世界は新しい人類の創造という神の目的のための御計画の中で必要なことを体験する場であり運命を決定する場ではないと言うことです。

 

誰がみても人は生まれた時代、生まれた国、生まれた両親、育った環境、持って生まれた資質も違います。それぞれが全部異なります。それもその人の責任によらないのです。

 

それなのに、この地上の世界に生きていた時だけを取り上げてその人の生涯を裁くのは、不公平極まりないと思います。

 

もちろん、キリストの教えが、選ばれた者だけが天国に行き、そのために利用されたその他の人々は、使い捨ての命として最後には地獄に行くという教えならば、そういうことでしょう。

 

そうであるならば、選ばれた者は何を基準に選ばれたのか、聖書にはどこにも書いていません。
選ばれた者しか救われないのなら、選ばれていない者は使い捨ての命になります。
果たして神は、そのような命を創造されて、あなたは効果で貴いと言われるでしょうか。

 

●ペトロの手紙第一3章18節・19節・20節
〇18節.「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」
〇19節.「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
〇20節.「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」

 

・・キリストは十字架から復活までの間に、ノアの時代に神に逆らって洪水で死んだ者たちのところに行って宣教されています。セカンドチャンスを明確に肯定しています。

 

当然、ノアの時代に神に逆らって洪水で死んだ者以外のキリストを知らないで、または逆らって死んだ過去・現在・未来の人もその中に入るでしょう。

 

この人たちは、陰府の国に行けば、当然神を知り、キリストを知り、何が真実かを認識しますから、当然、すべての人がキリストの言葉を受け入れるでしょう。

 

もちろん、それでも神を、キリストを否定する人は地獄かもしれません。
キリスト以降に生まれた者は、キリストの十字架以降は弟子たちが伝導しているという事実はありますが、すべての人に生前に平等にキリストの救いを知るチャンスがあったかどうかは、疑問です。

 

ほとんどの人がキリストを知らないで死んだというのが、現実でしょう。
それに何回も書いていますが、この世は不公平極まりない世界ですから、とてもこの世の行いだけで、地獄に行くとか天国に行くなどを決められるわけがありません。

 

そのようなことがまかり通れば、神の義はどこへ行ったのでしょうか。
ましてや、キリストに導かれる人を唆して反キリストに持っていこうとするサタンが跋扈するこの世界、その世界に人間を置かれたのも神様の御業ですから、なおさらです。

 

ですから、キリストを知らないで、死ねば地獄に行くという教えははなはだ疑問です。

 

キリスト教は、そのように信じなければクリスチャンではないと言われたら、私は真のクリスチャンではないかもしれません。
でも、そのようになるように祈るのは許されるでしょう。

 

●ペトロの手紙第一4章6節
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」

 

・・キリストを受け入れないで死んでも(その死は「人間の見方」ですからこの肉体が滅ぶ現世での死です。)、その罪は死ぬこと(肉体が滅ぶ)で「裁かれて死んだようでも」と言っていますから、この肉体の死が、人間から見れば裁きのように見えても、それは裁きではなく「神との関係で、霊において生きるようになるため」ですから、肉において死んでもキリストは霊において生きるようにしてくださるのです。

 

そう、肉体において「死んだ者にも福音が告げ知らされ」生きる者としてくださるのです。
キリストを知らなくて死んだ人が行く陰府において、その神の御業(霊において生きるように)は、なされることでしょう。

 

●テモテへの手紙一2章4節・6節
○4節.神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
○6節.この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

 

・・わたしは、神が人間をこの世に創造されたのは、地獄に送るためでなく、天国に導くため、新しい人間の創造のためにこの地上の経験が必要だからだと思うのです。

 

イエスが十字架で全人類の霊的な罪を贖われたのですが、そのことによって全人類の魂は救われているのですから、そのうえで地獄に送るというのは理解できません。

 

もちろん、地獄に送る人間をわざわざ行いで裁くというのも理解できません。
この地上の命が尽きれば、裁くことも地獄に送る必要もなく消してしまえば済む話です。

 

地上における艱難とか鍛錬は、あくまでも未来に期待するからこそ存在するものだと思います。

 

●ヨハネの手紙第一2章2節
「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う生贄です。」

 

・・キリストの十字架は、全世界の人々の罪を贖うためだと断定しています。
十字架は実行されたのですから、当然、全世界の人間の罪(原罪)はすでにキリストの死により、福音を受け入れることが条件ですが、贖われているのです。同時に、それは、全人類が霊において生きるためです。

 

ペトロによれば、キリストを受け入れないで死んだ人の罪は死ぬ(肉体の滅び)ことにより贖われますが、生前の行いは千年王国の後で復活し神の前で裁かれます。

 

そして、霊によって生きるのです。
わたしは、この神による生前の行いの裁きも、神はご自分の義を全うされるためにあると思うのです。地獄に送るためではありません。

 

霊的には罪はキリストの十字架死ですでに贖われていますから、裁かれるのは生前の行いだけです。生前の行いの裁きですから、裁きには罪に軽重はあるのでしょう。

 

というわけで、わたしは確信的な反キリストでない限りほとんどの人には死後にセカンドチャンスを与えられてキリストに導かれると思っていますし、そのように祈っています。

 

<最後の裁き>
●ヨハネの黙示録20章12節・13節
〇12節「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」

 

〇13節「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」

 

・・・救われていない死者(命の書に名前がない死者)は、行いによって裁くとありますが、裁くとあって地獄に送るとは書いていません。
第一、 救われないで死ねば地獄に行くのならば、わざわざ行いで裁く必要はありません。

 

死ねば即地獄に送ればよいことです。
ただし、ヨハネの黙示録20章10節「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」には地獄に行くのは、悪魔と反キリストと偽預言者だと特定されています。

 

地獄に行くのはそういう者ならば、それに該当する人間は、どれほどいるのでしょうか。

 

普通に暮らしているほとんどの人は、該当しません。
わたしは人間のこの世界の80年ほどの命は、来世も含めて永遠に生きる命のほんの一瞬の命の時間だと思うのです。

 

神はすべての出来事を益にしてその人を永遠の命の世界に導かれるのでしょう。
そう、新しい天地の創造と新しい人類の創造と言う究極の目標に向かってです。

 

どんなにつまらないと思われる人生を送った人でも、その行いはそのひとのために用いられ、益、すなわち有効に用いてくださるのです。
天地創造の最終目標に向かって、どのような人でも必要があって生まれてきたのです。

 

この世界には、無駄なものは何一つありません。
神はその人を必要あって生まれさせたのです。
そして、この世の体験を益として新しい人類へと導かれます。
ただし、そのためには一つ条件があります。

 

キリストの十字架で罪を贖い霊的な命を救い、最後の審判で生前の行いで裁き、新しい人類の創造への準備ができるのですが、人間が新しい人類への創造の御計画を享受するためには、自ら神と霊的につながる必要があるのです。
わたしは、そのチャンスが、この地上だけではなく、死後の世界(陰府)においても準備されていると思うのです。それも何度もです。

 

●ヨハネの黙示録20章13節
「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」

 

・・・これは黙示録の「最後の裁き」の箇所ですが、もし、この世でキリストを信じないで死ねば地獄に行くならば、この最後の裁きは必要がありません。
死ねばすぐに地獄に放り込めばよいことです。

 

生前にキリストを受け入れないで死んだ人は、その人の生前の行いによって裁かれるのです。
生前の行いを裁くのは、霊的にはキリストの十字架でその罪はすでに贖われていますから、裁きの対象ではないからでしょう。

 

もちろん、裁きですからいろいろ段階はあると思いますが、地獄に送るとはどこにも書いていません。行いの裁きで、原罪の裁きではないのですから、当然ですね。

 

明確に地獄に送ると書かれているのは、ヨハネの黙示録20章10節に書かれている通り、悪魔と獣(反キリスト)と偽預言者です。
もちろん、神とキリストを目の前にしてあくまで反キリストを貫く人間は、地獄かも知れません。
そのような人は、神とキリストが支配される天の国では居場所がありませんからね。

 

なお、地獄は、その人の霊的な死ではありません。人間は、キリストの罪の贖いのための十字架死で肉において死に、霊において生きるようになったのです。
だから最後の審判での裁きは、行いに対してであり原罪に対してではないのです。そのように思うのですが、いかがでしょうか。

 

●ヨハネの黙示録21章8節。
「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」

 

・・・おくびょうな者と人を殺す者を同列に扱うなどちょっとわからないところがありますが、おそらく前提とするものがありそれを表現するためにこのように書いたのだと思います。

 

それは、何度もチャンスを与えても悔い改めない不信者のことを言おうとしているのでしょう。
そのような人は、キリストを知らないで、あるいはキリストを拒否して死んだ人で、セカンドチャンスにもキリストを受け入れなかった人なのでしょう。

 

そう、キリストに反抗するのでもないが、何が真実かわからないでさまよっている人、何度もチャンスを与えても、あくまでもキリストを信じない人です。

 

そう、七の七十倍もキリストの許しをもってしても、キリストの福音を受け入れなかった人です。

 

そのような人は、反キリストと同じく、神とキリストが支配される世界において、居場所はないでしょうからね。彼らが相続するのは、「火と硫黄の燃える池」です。

 

火の池には、20章10節で、すでに悪魔が投げ込まれていて、反キリストと偽預言者もすでに投げ込まれていますから、不信者が最後になるのでしょう。
この火の池に投げ込まれることを「第二の死」と言っています。

 

〇タラントンのたとえ

最後に私たちがこの世界で生きる生き方、すなわち、最後の審判での裁きの際の参考になる個所を紹介します。

 マタイに福音書25章の「タラントン」(賜物)のたとえ、すなわち、神様から与えられた賜物を忠実に用いなさいというメッセージが込められているイエスのたとえ話ですが、私たちのこの世界での神が望まれている生き方が推測できます。

 

「タラントン」はその人に与えられた賜物を指すのですが、物語は、五タラント、二タラント、一タラントとそれぞれ賜った三人の人がどのように用いたかですが、五タラントと二タラントの人は倍の十タラント、あるいは、四タラントに増やしました。ところが一タラントの人は減らすのを恐れ、何の努力もしないで穴を掘ってかくして置きました。

 

神様は、五と二タラントの人には喜び「少しの物に忠実であった」という理由で、より多くの物を管理させます。一タラントを預かった僕には、「怠け者の悪い僕」とし、その一タラントンを取り上げ十タラントを持っている僕に分け与えます。

 

そして神様は、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ、そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう」と言われます。

 

<すべてのイスラエルの救い>
●イザヤ書45章18節から25節
〇18節.神である方、天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた方/混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた方/主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。

 

・・「わたしが主、ほかにはいない。」と、ご自分が天地万物の創造神であることを宣言されています。

 

そして、神はこの地球を「混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた方」としていますから、創造するだけでなく天地万物を秩序をもって創造したといわれているのです。

 

その創造は、異邦人も含みますから、神はわれわれイスラエル以外の異邦の諸国の民に対しても、ご自分の救いを受け入れるよう呼びかけておられると言えます。

 

〇19節.わたしは隠れた所で、地の闇の所で/語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって/混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。わたしは主/正義を語り、公平を告知する者。

 

・・イスラエルの神は、異邦の諸国民から見れば「御自分を隠される神」(15節)ですが、神ご自身はご自分を「わたしは隠れた所で、地の闇の所で/語ったことはない。」と言われています。

 

イスラエルの神は、何か事を成す場合は必ず預言者をもって事前に予告されます。
異邦人が「御自分を隠される神」と言っているのは、イスラエルの真の神がどのような方かを知らないからです。

 

〇20節.国々から逃れて来た者は集まって/共に近づいて来るがよい。偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ/救う力のない神に祈る者。
〇21節.意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。

 

・・「国々」は、メド・ペルシヤ帝国によって征服された国々を指すのでしょう。
主は、それらの国々の民を「偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ/救う力のない神に祈る者。」と言っています。

 

そして、主は滅びた国々の民に、偶像に期待して裏切られた民に「集まって/共に近づいて来るがよい。」と言って、「意見を交わし、それを述べ、示せ。」ですから、偶像が前もってキュロス王によるイスラエルのバビロン捕囚からの解放を告げていたなら、その証拠を示せということでしょう。

 

何度も書きますが、イザヤがイスラエルのバビロン捕囚からの解放を預言したのは、そのことが実現する約162年前のことです。
ちなみに、イスラエルの捕囚からの解放が預言されたのが、紀元前700年代で、実際に解放されたのはキュロス王の解放宣言が紀元前538年です。

 

だから主は、「だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。」と言われるのです。
このことが事実ならば、すごいことです。

 

イスラエルの神、聖書の神はおられるのです。今も働いておられるのです。
まさに、「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。」です。

 

〇22節.地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。

 

・・ここで主は、メド・ペルシヤ帝国によって滅びた偶像礼拝の国々から逃げてきた人だけでなく、「地の果てのすべての人々」にも「わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」と呼び掛けておられます。

 

なお、「救いを得よ。」の原語は、男性複数2人称受動態の命令形で、「あなたがたは救われよ」という恵の言葉となります。

 

〇23節.わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て

 

・・主の力強い言葉が続きます。
万能の主、聖書の神が「わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。」と誓われます。

 

この誓は、「すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て」ですから、全人類の救済を誓われています。

 

〇24節.恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
〇25節.イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。

 

・・この個所は、すべての人が救われるが、そこには二つのタイプの人たちがいるのです。主を目の前にして、「主に対して怒りを燃やした者」とそうでない者です。

 

ただし、「イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。」のです。
「主に対して怒りを燃やした者」というのは、主を信じなくて死んだ人の中で、主に敵対心をもって、確信犯的に主を否定して死んだ人のことを指すのでしょうが、現実的にほとんどいないと思います。

 

その人たちは、主を、キリストを目の前にして、主の御業を見れば、「主に服し、恥を受ける。」ですから、どんなに怒っても、主も、キリストも否定しきれませんから信じざるを得ませんが、キリストを拒否していたことが恥ずかしくなり、もっと早く、生前に信じていればよかったと後悔するということでしょう。

 

「主に対して怒りを燃やした者」でも主に服するようになるのですから、主を知らない人とか、いわゆる確信犯でない人は、なおさら救いに与ることになるでしょう。

 

どのような形であれすべての人が救われるのです。
ましてや、エレミヤ書では、終わりの日のその日に、おそらくキリスト地上再臨の直前に「すべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル書3章1節)と言われているのです。

 

そのようなときに、逆に言えば、主と、キリストを信じるということに対して、正反対にいた人ほど、真実を知ればキリストを知り死んだ人より忠実な僕になるかもしれません。

 

「イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。」のであれば、イスラエルの子孫でない人々もすべて主によって正しいものとされるのは当然として、誇ることはないかもしれませんね。

 

先の者(ユダヤ人)が後になり後の者(異邦人)が先になるのです。その結果、救われるのは同じです。

 

<イエスの言葉>
ここでは救いの御業についてイエスの言葉から考えてみたいと思います。
ご自分を殺そうとしているユダヤ教指導者層に対する執り成しの祈りで、そこには(生きている人間、既に死んでいる人間を含む)全人類の罪の許しを願うイエスの強い思いが込められています。

 

イエスの言葉が神の言葉なら、この言葉は必ず実現します。

 

●ルカの福音書23章34節。
「〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
・・イエスの十字架死は全人類の罪(原罪)を贖うための死です。
この出来事には、全人類を罪から救いあげたいという神の強い意志があり、目的があります。

 

それは神の愛と憐れみの故ですが、神の全人類救済計画の一環であるともいえます。

 

よって、イエスの十字架の御業で全人類が救われないのならば、それは神の御計画の失敗だといえないでしょうか。
神のなさることは必ず成るのです。

 

今の人類社会は悲惨な状態にありますが、神は人類創造の初めからこのようになることをご存じであったと思うのです。
そうでしょう。サタンが支配するこの地上に無垢な人類を置かれたのですからそのようにしか考えられません。

 

そうであれば、なおさらではないのでしょうか。
最後にマタイの福音書20章のイエスのたとえ話で「ぶどう園の労働者のたとえ」ですが、「ぶどう園」を天国とすると、何もしないで広場に立っている労働者に、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」という主人(イエス)の声にこたえ、何時にぶどう園に言っても同じ報酬(救い)が支払われたのです。
救いは何時でもですから、時間も場所も関係なく、平等なのです。

 

<「放蕩息子のたとえ」>
最後に救いについて参考になりますので、「放蕩息子のたとえ」を登載しておきます。

 

聖書箇所は、ルカの福音書第15章11節から24節で、すでに「共観福音書を読む」ノカテゴリーで投稿済みです。
共観福音書に並行箇所はなく、ルカ単独の記事です。

 

●11節.また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
●12節.弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
●13節.何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
●14節.何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
●15節.それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
●16節.彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
●17節.そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
●18節.ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても.またお父さんに対しても罪を犯しました。
●19節.もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
●20節. そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
●21節.息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
●22節.しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
●23節.それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
●24節.この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 

この箇所は、イエスのたとえ話の中でも、特に有名な喩え話であります。
そのたとえ話は、父親が子を思う愛を喩えにして、父である創造主である神から離反して好き勝手に生きてきた息子であるわたしたち人間が、罪を悔い改めて父のもとに、すなわち神のもとに立ち返ることを何よりも喜ばれる父である神の姿をあらわしています。

 

財産とか権力とか名誉などよりも神に立ち返ることが大切であることを教えていると思います。

 

「解説」
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂く事になっている財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父親は、財産をふたりに分けてやった。

 

何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩に限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

 

それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は食べ物をくれる人は誰もいなかったので、豚の食べるいなご豆を食べて腹を満たした。

 

そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

 

ここをたち、父のところへ行って言おう。「お父さん、私は天に対しても罪を犯しました。もう息子と言われる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。』

 

彼は、自分のしてきたことを悔い改め、彼はそこをたち、父親のもとに帰ったのです。(20節)
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 

息子は言った。『お父さん。私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

 

それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして祝宴を始めた。・・・・」です。

 

この喩え話は、一般的に「放蕩息子のたとえ話」と言われていますが、実は、イエスはこの喩え話によって神の愛のまことを語りたかったのだと思います。この喩え話の中で、二人の息子の父親は神のまことの姿を示しています。
もちろん、息子は我々人間のことを喩えているのでしょう。

 

父親から財産の分け前をもらって、家を出た放蕩息子(弟)は、神から離れて罪の中に生活しているわたしたち人間一人一人の姿を表しています。

 

実は、この喩え話には、この後に落ちがありまして、まじめに父親に仕えていた兄息子が、「わたしが友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。・・・」と不満を父親に漏らします。

 

これに対して父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしの物は全部お前の物だ。だがお前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と答えます。

 

父親は、兄息子の為に盛大なお祝いをしたことはないかもしれませんが、財産分けが済んでいるので、残ったわたしの財産は全部お前の物だと言っています。

 

それにいつもわたしと一緒にいる、何が不服なのか。
つまりいつも神とともに歩いている。それが一番幸いなことだ、そのことが分からないのか、と言いたかったのでしょう。

 

それともう一つ、「死んだのに生き返り」(24節)ということは、神から離れることは霊的に死ぬ(神から離反すること)ことで、「生き返り」、すなわち神と共に生きることが出来るようになったのです。

 

兄息子は、いつも父親と一緒であったから、それが当たり前になり、それがどんなに祝福されたことなのか気がつかなかったのだと思います。
わたしたちも神の祝福、恵みを忘れないようにいつも信仰のリフレッシュをしなければと思います。

 

弟息子は、父親の家で幸福に暮らしていたのに、親から自由になりたいと思って、勝手に家を飛び出して遠い国に行って、働きもせずわけてもらった財産を浪費し、毎日遊び暮らして放蕩三昧な罪深い生活をしていました。
神から離れた自己中心の生活です。

 

父なる神から多くの賜物をもらって何不自由なく暮らしてこれたのに、そのことをすっかり忘れてしまって、その賜物を大切に用いることもしないで、使いつくしてしまったのです。

 

神の保護から離れた人間には神の祝福はありません。
神に背を向けて自分勝手に生活している人間の不信仰で傲慢な姿を示していると思います。

 

神は我々人間の創造者です。被造物は創造主の保護から、御心か
ら(造られた目的から)外れれば幸せになれないのは当たり前です。

 

しかも、父親からもらった大切な財産をすべて使い果たし、飢えと孤独を経験し、惨めな人生のどん底まで落ちて、やっと弟息子は自分の犯した罪(神から離れて自己中心に生きてきたこと)に目覚め、豚小屋の中で、悔い改めて家に帰る(神に立ち返る)決心をするのです。

 

これなど、どん底に落ちなければ、神を求めない人間の姿をよく現しています。健康、能力、財産などは神の恵みのゆえに得たものですが、わたしたち人間は逆境に陥るまでは、自分の持っているそれらこの世で価値あるものは自分の力で得たと錯覚し、困ったときには神に頼るよりそれらに頼り、持たない者をさげすみ、高慢になり恵みを受けた神にすがろうとしません。

 

どのような人も歳をとれば健康にも自信をなくします。
財産とか能力とか権力は求めているときは分かりませんが、得てしまえば、あとには平安のない空しさだけが残る人生が待っていることを肝に銘じるべきだと思います。
そういうものはこの世を生きていく上にほどほどには必要ですが、余分に持ちすぎると守ることに、またより多く得ることに執着し、平和と安全な生活から遠ざかることになると思うのです。

 

この弟息子は、父の家から離れ、働きもしないで放蕩に身を委ねていたので多くのものを失いました。
お金、健康、暖かい家庭、友人、信用など‥‥です。
しかし、たった一つ失わなかったものがあるのです。それは信仰です。

 

一度は神から離れましたが、悔い改めて神に立ち返ったのです。
それを、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と表現しています。

 

この言葉は、セカンドチャンスがあることを認めていることになりませんか。
神から離反することは、罪であり死であるのです。
そして、悔い改めることは、ルカによる福音書第15章7節「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」のです。 

 

父親である神は、放蕩三昧を尽くした弟息子が,自分の罪を悔い改めて帰ってきたので、何も言わずに迎え入れ、涙を流して喜びました。
神の愛というのは、そう言うものだということでしょう。

 

神は、罪を悔い改めて神に立ち返ったらいつでも迎え入れて下さる。
歓迎して下さるということだと思います。人間の親だって同じですね。
毎日毎日、断腸の思いで息子の帰りを待っていた父親は、ある日の夕暮れ時、トボトボと重い足取りで帰って来た息子を遠くから見つけ、おそらく、毎日のように弟息子が帰ってくるのを今日か明日かと玄関に出て待っていたのでしょう。

 

弟息子の姿を遠くに見つけた時、走り寄って彼を抱き、何度も何度も口づけして迎えました。
そして、この父親は、こんな放蕩息子に着せるため一番良い着物を用意し、美味しいご馳走を作って家中で、息子の帰宅を喜びました。

 

父親の喜ぶ姿が目に見えるようです。神に立ち返るということはそれほど神に喜ばれることなのです。
たとえ一時的に世間のことに目を取られて神と共に生きる生活から離れても、気がついたときに神の元に帰る。

 

このようなクリスチャンの話はよく聞きます。長い人生です。色々なことがあります。誘惑に負けて神から離れることがあっても、神は悔い改めればいつでも赦して下さる。聖書の神はそういう神なのです。(参考箇所、旧約聖書イザヤ書55章7節)

 

最後に、ここを読んでわかったのは、キリストを知らないでまたは拒否して死んだ人でも、(おそらく陰府で)悔い改めてキリストのもとに帰れば許してもらえる、受け入れてもらえる、つまり、セカンドチャンスがあるということです。

 

あ、そうそう、イエスの種(福音)をまくたとえ話(マタイ13章)がありましたが、陰府におけるセカンドチャンスの際に,現世で撒かれたが実らなかった種は、陰府において実ることも想定されるでしょう。

 

種が実を実らせるのは、現世だけとは限りません。
霊界も地上世界も創造されたのは神です。そのような神の人類救済計画のマスタープランは、この地上世界と霊界を一体として考えられていると取るのが、当然のことかと思います。

 

無料ブログはココログ

最近のトラックバック