万人救済説がありがたい
万人救済説がありがたい
目 次
はじめに
<最後の裁き>
<裁きの基準>
<自分の罪と他者の罪>
<運命と救い>
<「万人救済説」と「二重予定説」>
<万人救済説がありがたい>
本文
はじめに
キリスト教では、人間は地上でイエスを知り福音を信じたら、天国へいけますよ、信じなかったら永遠の苦しみ、つまり地獄いきですよ、そして、信じるのは今ですよ、今がそのときですよ、と教えます。
これは、未信者が殆どであるこの日本のことを考えると、どうしても納得できないので、未信者のままで死んだ父母のこともあり、いろいろ牧師とか学者の意見を調べてみましたが、結論は、そのことについては、何も決まっていないし、分からないというのが真実だということがわかりました。
聖書のどこにも「この地上でイエスを知り福音を信じた」ら救われる、そしてそれが唯一だとは、書いていません。
第一、そうして人を脅かしてキリスト信仰に導こうとするやりかたは納得いきません。それは、人間の思いであり聖霊の働きではありません。
日本人にクリスチャンが少ないのは、そういうところにも原因が有るのではないでしょうか。
そのためにもわたしは「死後にも救いのチャンスはある」と書くのです。
聖書を読んでみての結論ですが、そのように考えないとおかしいと思うのです。
その理由は以下の通りです。
聖書を読みこの問題について私が得た答えは、この地上でキリストを知らなくて、あるいは拒否して死ねば陰府に行き、その陰府でセカンドチャンスがあるということです。
もちろん、この地上でキリストに出会い福音を受け入れた者は、死ねば天国です。
また、未信者のための執り成しの祈り(ヘブライ人への手紙7章25節)は赦されていると思います。
この聖句には、イエスを永遠の祭祀とし、「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」とあります。
そして救いの御業はその人の努力ではなく聖霊の御業ですから私たちは祈るしかないからです。
執り成しの祈りでもって未信者の救い(死者の復活)を祈るということは、まだチャンスがあるということです。
二度とチャンスがないのならば、執り成しの祈りなど必要ないでしょう。
その執り成しの祈りは、先に救われたキリスト者の重要な仕事の一つではないかと思うのです。
なぜなら、第一コリント15章29節の「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしょうとするのか。死者が決して復活しないなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」という聖句があるからです。
この言葉は、すでに死んだ未信者の親とか兄弟、知人のために、その人たちが救われるために洗礼を受けていたことを指しているからです。
当時の信者も、未信者のままで死んだ人たちの救いを願いまた信じていたのです。
「神様は、その一人子をお与えになったほどに世を(信仰を持っている、持っていないにかかわらず人間はすべてキリストの恵みにある)愛された」(ヨハネ三章16節)のです。
<最後の裁き>
最初に明確にしておきたいことは、救いと裁きの違い、すなわち、「裁きは、神様の意図に従わない生き方(生前の行い)に対する報いを意味し、救いはイエス・キリストを信じることによって得られる救い」です。
さて、キリスト信仰で最大の問題となるのは、キリストを信じない状態で死を迎えた場合、その未信者の死者はどうなるのかということですが、その人は死ねば陰府に行き、セカンドチャンスを経て、キリストを信じる者となれば、地獄行きは免れると思います。
死ねば陰府に行くですが、旧約時代(イエスの救いの御業以前)の人間はすべて陰府に行っていました。
その人たちが天国に行ったとも地獄に行ったとも聖書には書いていません。だから新約時代の人間も同様ではないでしょうか。
ただ、第一ペトロ3章18節から20節に「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神様のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神様が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」とあります。
かつて、人類はノアの家族以外全部が神に逆らって救いに与れなかったのですが、キリストは、十字架の後「霊において」その人(捕らわれていた霊)たちのところ(陰府か)に行って宣教されています。
旧約時代に亡くなった人々に救いに与れるセカンドチャンスを与えておられるのです。
ですから、キリストの福音を受け入れないで死んだ未信者の霊はすぐさま地獄に送られるのではなく陰府で待機し、救いは旧約時代に死んだ人間も含めて最後の行いの裁きまでキリストにゆだねられることになるのでしょう。
救いに与れないのならば、何も最後の裁きまで陰府に置いておく必要はありません。死ねばすぐに地獄に送ればよいのです。
わたしがこのように考えたのは、一般には救われる(永遠の命を授かる)のには、生前にキリストを受け入れなければいけないと教えられていますが、そうであれば、キリストを知らずに死んだら即地獄に送ればよいのに陰府に送り、地獄でなく、行いの裁きですが、最後の裁きまで裁きが猶予されわざわざ行いを裁かれるのです。
聖書の最後の裁きの箇所ですが、黙示録20章13節.「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」です。
「海」は異邦人社会でしょう。
世の終わりには、すべての死者は復活してそれぞれ自分の行いに応じて裁かれるのです。
最後の裁きはすべての人々を対象とし、行いを裁くのですが、イエスの福音を信じないで死んだ人々は死ねば地獄に行くのが決まっているのなら、なぜわざわざ行いを裁く必要があるのでしょうか。
最後の裁きで、救いに与れるかどうかの裁きがあるとしたら、キリストの福音を受け入れた者でもその信仰の真偽が問われるということになるのではないでしょうか。クリスチャンと主張される方でも、いろいろですからね。
それに、最後の裁きに至るまで、何度もセカンドチャンスを与えられながら、キリストを拒否する人は、いわゆる確信犯は最後の裁きで地獄行きかもしれません。
最後の裁きが行いを裁くというのは、すでに過去・現在・未来の全人類は、キリストの十字架死と復活で無条件でその原罪(神様から離反)は贖われているからです。
そして、救いに与れるための条件は、唯一キリストの救いの御業(福音)を信じることだからです。
マタイによる福音書11章22節に「裁きの日にはテイルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰ですむ」。とか、ルカによる福音書第12章48節の「主人の思いを・・知らずに鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む」とあるように、この聖句は最後の裁きにおいて、その裁きには軽重があることを示しています。
そうであれば、行いを裁くのはその裁きは地獄か天国でなく、行いの対する報いといった方がよいのかもしれません。
未信者のまま死んだら即地獄行きなら、裁く必要はなく(有罪か無罪かを決める必要は無く)、最後の裁きを待つまでもなく、死んだ時点でもう罪は確定しているのだから、陰府にも送らず、すぐ地獄へ放り込めばいいのではなかろうか。・・
また、地上での行いの裁き(原罪は、すでにキリストの十字架死で許されているから)は千年王国の後、最後の裁き(黙示録20章)まで猶予されるということは、その間にその人に救いのチャンスを予定されているからと言えないでしょうか。
また、行いを裁くということは、その人の行いで御心に沿わないところがあれば、悔い改めて間違った行いをただすことにも目的があるのではないでしょうか。
ここで分かることは、裁きの内容は、何も決められていないで、キリストに委ねられている、ということだけです。
<裁きの基準>
黙示録20章の最後の審判は、ヨハネの黙示録20章12節にあるように、その人が(おそらく)地上にいた頃の「行い」によるとなっています。
それではその行いの基準ですが、マタイによる福音書第25章35節から40節に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれたからだ」とあります。
この「わたしに」、というのは、キリストは最も小さい者の中にわたしはいる、といわれているので、最も小さいものとは、社会の弱者、弱っている者、つまり、貧しい者、飢えている者、病んでいる者、障害を持つ者、すぐそこで困って助けを求めている者・・の中にいると言われているのです。
したがって、その人たちを助ける行いだと思います。
聖書上で明確に決まっているのは、地上でキリストを信じたら天国へ行けることだけだと思いますが・・・。
そういう人は、信じると同時に聖霊が内住し、その人は聖化され神様の者となり行いも変えられますから、最後の審判の対象外となる、という解釈でよいのでしょうか。
聖化が問題にされるのであれば、生前にキリストの福音を受け入れて救われる人の行いは厳しいものになるのでしょう。この悪魔が跋扈する現世で生きながら聖化の道を歩むことになるからです。
キリストの空中再臨の時に信者は引き上げられますが、その時、天に引き上げられるかどうかで、答えが出ることになるのでしょう。
地獄は永遠の苦しみの場であるから、恐ろしく大変な問題でありますが、わたしたちにとって、死んだ後地獄へ行くか否か、このような大変な問題が、たかが90年ほどの地上の人生で、キリストを信じるかどうかという一時の問題で、死後の行き先、永遠の行き先が決められるとはとても思えないのです。
この地上の人生は、その人の責任によらずして決定されるという不条理があまりにも多すぎます。不公平極まりない人生だからです。
そのような地上の人生、生き方で、永遠の人生が決められるとしたら、それは余りに無慈悲ですと神に祈りたい。
もしそれが本当なら、祈れば聞き入れてくださる神様だから、過去・現在・未来すべての未信者のために本気に祈らなければならないのではなかろうか。
イエスが「『最も重要な掟」とされたマタイの福音書22章37節から38節「「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しんさい。』」という言葉を残されましたが、この隣人愛の教えの行いとして、とりなしの祈りを待っておられるのかもしれない。
神様は、「義のゆえに罪人を法的に罰しなければならないが、愛のゆえに、その刑を赦免することを望まれているのではないでしょうか。
救いとは、滅びるのが当然の代価である人間に対する神の一方的な恩恵である」。この言葉を信じたいと思います。
神が御子イエスを贖いの捧げ物として十字架にかけて全人類の罪を許されたその思いは、やはり全人類を天国に導きたいという切なる思いから来ているのではないでしょうか。
わたしが過去に読んだ本にこのようなことが書いてありました。
納得し、その通りだと思いましたので概略を書き留めていました(著者は分かりません)ので、ここに登載します。
「過去・現在・未来に生まれた、生まれるすべての人間の中でキリストを知らなかった未信者がすべて地獄に行くならば、そのチャンスもないままほとんどの人間が地獄に行くことになります。
これも重大問題であります。
そのような重大な問題だから必然的にどのように信じたら救われるのかという問題になり、信仰は個人の問題だからその程度が分からないのでその信じ方(行い)に問題が移ると思います。
行為(行い)を含めてどのような信じ方でイエスを信じれば救われるのか確かな基準は何もありません。
そして、この問題を突き詰めると、だれがその信じ方(行い)を決めるのかと言う問題になると思います。
これでは、どうすれば罪が赦されるのか際限がなくなります。
もちろん、死んでからの裁きはキリストに委ねられるから、これらのことは生前においての問題となります。
これがキリストの教え(自らを十字架に架けてわたしたちを愛して下さっているイエス様の教え、福音)ならキリスト教は怖い宗教だと思います。
そうすると、自分の信仰が正しい、自分の信仰なら天国へいける、過去の免罪符みたいにこうすれば天国へいける、と言う人間も出てくるかもしれません。」
最後に私たちがこの世界で生きる生き方、すなわち、最後の審判での裁きの際の参考になる個所を紹介します。
マタイに福音書25章の「タラントン」(賜物)のたとえ、すなわち、神様から与えられた賜物を忠実に用いなさいというメッセージが込められているイエスのたとえ話ですが、私たちのこの世界での神が望まれている生き方が推測できます。
「タラントン」はその人に与えられた賜物を指すのですが、物語は、五タラント、二タラント、一タラントとそれぞれ賜った三人の人がどのように用いたかですが、五タラントと二タラントの人は倍の十タラント、あるいは、四タラントに増やしました。ところが一タラントの人は減らすのを恐れ、何の努力もしないで穴を掘ってかくして置きました。
神様は、五と二タラントの人には喜び「少しの物に忠実であった」という理由で、より多くの物を管理させます。一タラントを預かった僕には、「怠け者の悪い僕」とし、その一タラントンを取り上げ十タラントを持っている僕に分け与えます。
そして神様は、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ、そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう」と言われます。
<自分の罪と他者の罪>
あるユダヤ人の女性が言いました。
「自分が信じているとおりに信じない人は、すべて地獄に落ちると確信している人。こんな恐ろしい人が世の中にいるだろうか」。
キリストにより自分の罪が赦されたのなら、他者の罪も赦されるべきであると思います。(だからとりなしの祈りが成り立つのです。)
同じ意味で自分より以前の先祖や家族の終末における罪の赦しを祈り求めれば、赦されると思います。
それもとりなしの祈りの根拠ではなかろうか。
ただ、いまわたしたちにできるのは、未信者のためのとりなしの祈りであると思います。
救いの伝道は、あくまでも罪を犯した人間の手でなされることに意味があるのだから、神はとりなしの祈りを待っておられるのかも知れない。
だからといって地上において救われることに意味がないわけではないのでしょう。」
私見でありますが、地上で救われることの意味は、人間の霊は地上においてキリストと出会い、艱難とか苦しみの中でイエスの「愛の掟」、つまり「第一の掟は、・・心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。」、つまり、神と他者(隣人)を愛する愛を実践(行い)する中で霊的に成長することに重大な意味があるのではなかろうかと思うのです。
もちろん、悲惨な人生を送って最後に福音を聞き、人生の真実を知り、その人の人間性が一変して変えられ、救いに与るということもあるのでしょう。
霊の成長はこの地上生活においてもっとも有効になされるという考え方です。
だから、地上において救われるか、死後救われるかには大きな相違があります。
わたしは、聖書に書いてあるわけではありませんが、次の世は、その人の霊的な状態により(神様との近さの程度で)居住する場所が違うと思いますので、果たして地上において救われなかった人間(最後の審判で無罪となった人間、有罪であっても地獄へ行かなかった人間)の住む場所はどのようなところであろうか。
だから同じキリストを信じる者であっても、天国に於いての住居は、わたしたちと使徒パウロとはおのずから違うと思います。
もちろん、教会に通っているとか洗礼を受けから救われるというものでもないと思います。
教会に集っているクリスチャンでも玉石混合です。
未信者でも、信仰者よりはるかに清い人生を送り、また隣人を愛し(行い)てきた人も大勢います。
その人たちが地獄へ行き、わたしの様な隣人を愛することに不十分な信者が天国へ行くなどとても考えられないし、不公平だと思います。
詩編139編7節から10節を紹介します。
「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に上ろうともあなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。・・御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」。
この聖句について、内村鑑三はこう言われています。
「神はどこまでもその赦免の霊をもってその子の後を追いたもう。
彼の忍耐はまた無窮である。彼は人がこの世で悔い改めないとて、これを捨てたまわない。
彼は未来永劫までそのあとを追いたまいて、その悔い改めを促したもう。
天にのぼるも、陰府にくだるも、海の端に住むも、人は神の愛を離れその恵みより遠ざかることはできない」。
もう一つ、使徒パウロの言葉を紹介しておきます。
ローマの信徒への手紙第11章36節「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」
そう、すべてのものは(信者であろうが、未信者であろうが)神に向かっているのです。「もの」ですから、人間だけとは言えませんね。
<運命と救い>
救われる者と救われない者がいるならば、救われるのは運命でしょうか、そうではないのでしょうか、という問題になります。
ちなみに、運命を辞書では、「人間の意志にかかわらず、身に巡ってくる吉凶禍福。めぐり合わせとあります。
最初に救いの意味について書いておきます。
キリスト教に於いて救いとは、この世の多くのご利益宗教が説いているものとは全く違います。
病気とか貧困とか人生のいろいろな悩みや苦しみからの救いのことでもありません。
御利益宗教は、人間が一方的に教えに基づき何かをすれば浄土に行けると教えるのですね。そう、行いを求めるのですね。その行いは修行であるとか、金銭などですね。
ところがキリスト教の言っている「救い」は、人類が神に罪を犯して神から離れた結果、いわゆる的外れの状態からの救いを意味しているのです。
それは罪を赦す神の愛と憐みによって永遠の命を授かることを言います。
神の人類救済計画、ひいては新しい人類の創造を言います。
人間に必要なことは、そのことを伝えるキリストの福音を受け入れて信じることです。
ですから、これは、そのことを知っているか否かにかかわらず、あなたも含めて「すべての人」と関係があるのであり、「私には関係ないですよ」とは言えない重大な真理なのです。
問題は、人間は神の被造物であり創造主の意思に沿って生きていないことにあるのです。
信仰(キリストの福音を信じること)は神様からのものとか、救われるのは神様に選ばれたからとよく言います。
たとえば、第一テサロニケに信徒への手紙第1章4節「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」というようにイエスに御言葉(福音)を信じて信仰を持った人を「選ばれた人」というように表現しています。
これは、神様に選ばれたという意味でこのような表現は他にも多く見られます。
だから信仰を持つのも神様に選ばれたから持てるのです。
なぜ選ばれたかは、信仰は聖霊の救いの働きの結果だからです。
だから、キリスト信仰を授かるのは、神様の賜物です。
たとえば、イエスを信じた人は、イエスの十字架による罪の贖いで、罪から救われて天国行きと永遠の命が約束されています。
だから、クリスチャンは救われた喜びをいつも証するのです。
他人も救われて欲しいと思いイエスを信じるよう伝道するのです。
ただ、何度も書きますが、人間がイエスの教えを信頼して救われる資格を得られる期間が、生まれてこの世に肉体を着て生きている80年くらいの間だけだとしたら。そのチャンスに恵まれない人がほとんどだということです。
人類誕生から現在までに生まれた人々のほとんどは、イエスの教えに触れる機会がない社会に生きた人々と言えます。
過去・現在・未来の人類すべてをみるとイエスを信じた人間より、イエスを(福音を正確に)知らない人間の方がはるかに多いのではないでしょうか。
救いが、生前にイエスの言葉を聞いて、信頼して、その結果救いを受けるという方法しかないのなら、そのイエスの教えを耳にする機会がなかった人は、救いのチャンスもないことになります。イエスが来られる前に死んだ人はすべてそういうことです。
そうすると、生まれた国、生まれた時代が神様の御業なら、その人が生涯でイエスの言葉に出会わなかったのも神様のご計画と言えます。信仰は神様からの賜物とするならば、なおさらです。
にもかかわらず、すべての人間に救いの(イエスの福音を受け入れる)チャンスがあたえられている、というのなら、そういう考えは、上記のような本人の責任によらない条件がなくならないと無理があると思います。
その矛盾をなくすには、霊が肉体を抜け出た後にでも、イエスの教えに触れて信頼して救われることができる、というようなことでなければなりません。
<「万人救済説」と「二重予定説」>
ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と救われる人の数を尋ねたとき、イエスは言われました。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(ルカによる福音書第13章24節)と応えられています。
この聖句を読むと、イエスに質問した人は、救われる人は多いか少ないか、全部か一部かという質問をしています。
人の救いを第三者の立場から問題にしていることになります。
それに対してイエスは、救いを質問者自身の問題として、数に言及しないで、自分が狭い戸口(苦難に満たされた道の意味)から入るように求めておられます。誰が救われるかは数の問題ではなく、自分の問題なのです。
だからこの聖句の解釈は、古来二つに分かれているということです。
一つは、神は愛であるから、結局最終的には、すべての人間が救われるという「万人救済説」です。
もう一つは、神は救われる者と滅びる者をはじめから予め定めておられるという「二重予定説」です。
「万人救済説」も「二重予定説」もこれをそのまま受け止めると、もし、すべての人が救われるのが、または救われる人が決っているのなら、救われる人をできるだけ増やすための伝道の必要はなくなり、無意味になります。
二重予定説は、同じ人間に生まれてきたのに、救われないことが、地獄行きが決っていながら生まれてくる人もいるなんて、人間の目からみると不公平ですね。
神の創造は新しい命の創造とわたしは理解していますから、そういう考え方はおかしいと思います。
創世記第1章28節の「神は彼らを祝福して言われた。・・・」と1章31節「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」、と矛盾すると思うのです。
聖書の神は愛の神であり、創造の神です。新しい命を創造しょうとされているのです。そのような神が、地獄に送るために命を創造されることはないと思います。
わたしなりの救いの解釈は、予め救われる人は決っているかもしれませんが、救われると決っていない人でもクリスチャンの執り成しの祈りなどにより変更は可能と思っています。
また、死後(陰府)においても何度も救いのチャンスがあると思います。
だから地獄行きも最後の裁き(黙示録20章)の時まで猶予されていると思うのです。
そして、最終的には万人とは言いませんが、普通の人はほとんど救われるものと信じています。
なぜならば、キリストの十字架死は、全人類の原罪を贖うための神の愛の御業ですから、そこには全人類を救いたいというキリストの強い思いが込められていると思うからです。
ルカの福音書23章34節にご自分を十字架のつけた役人などを指し、このようなイエスの言葉があります。
「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエスは、迫害する人々の赦しを父なる神に祈り願っておられます。
人間でもどんなにできの悪い子でも愛し助けようとします。神様ならばなおさら自分の被造物である我々を、どんなに出来が悪くても、何度も必ず救いのチャンスは与えられ、全ての命が救われるまで忍耐強く待って下さると思います。
それに、救いには、この地上あるいは来世においてその人その人で最適の時があると思いますので、この地上ですべてが決まるわけではないと思います。
だって、そうでしょう、神が愛なら、人間を創造するのに地獄へ落とすために人間をわざわざ創造することなどされるのでようか。
それも救われる人をあらかじめ選んでおいてです。それなどナンセンスです。
もし、そうであるなら「あなたは高価で貴い」といわれた神の言葉はうそになり、神は滅ぼすために命を創造されたことになります。
この世界の苦難は、神様の戯れかいじめになります。
ただし、一部の人はご計画があって、この地上に生きているときに救われることを神が望んでおられるのも確かだと思います。
また、聖書には地獄がどのようなところか詳しく書いていないし、裁きについても量刑は色々あると思うし、神様はそこらのことは隠されています。
新約聖書黙示録第20章12節には、イエスを信じていない人は、その人の律法で、行いによって裁くとあります。いわゆる、最後の裁きです。
信仰を持つのも神様の働き(賜物)だと言われていますので、信仰はあくまでも個人の問題として捉えるべきだと思います。
聖書に記載されているイエスの教えも読む者個人に語りかけているとして捉えることが必要だと思います。
人の信仰よりあなたの信仰はどうかということです。
教会に集っているから救われるのではなく、その人の信仰により救われると言うことだと思います。
救いも第三者の問題ではなく自分の問題として受け取るときで、一人でも滅びる者があるとすればそれは自分だ、すべての人が救われるのでなければ自分は救われないのだという、自分の罪をどん底に置いて救いを考える者は、「万人救済説」をとらざるをえないし、救いを、自分が救われる根拠は自分の側には何もないのに救われることと考える者は、神が自分を救いに定められた(=選ばれた)からだという他はない、と告白する「二重予定説」をとらざるをえません。
しかしですよ、運よく自分が救われて天国へ行っても地獄で愛する人々、いや人々が地獄で苦しんでいるのを見て心は平安でいられるでしょうか。
涙はぬぐわれるでしょうか。
もし、涙がぬぐわれるならば、そこに神の大いなる恵みがあると思うのです。
また、最近では、親の虐待のため幼い命をなくす子供がたくさんいます。
世界も見れば、飢えで亡くなる子供がたくさんいます。
それらの子供がイエスを知らないからと言って、良い行いをしていないからと言って地獄へ送られるなら、そのような宗教はおかしいと思います。
それこそ神も仏もないものかと叫びたくなります。
イエスを知らなくて死んだ人は行いで裁くとなっていますが、幼児とか子供が亡くなればその子たちの裁きはどうなるのでしょうか。
イエスを知らないからと言って地獄へ行くのでしょうか。
行いで裁くと言っても、その行いはあくまでも自分で自分の責任を取れる年齢になってからの行いだと思いますので、その子たちの行いは裁きの対象にはならないと思うのです。
その子たちは悔い改めるチャンスも与えられないまま、神の御心により命を取られるのですから、わたしはそのような幼児とか子供は裁きの対象から外されると思うのです。このような考えはおかしいでしょうか。
その様な状態で心が平安でいられるならばその人の心は自分だけ良ければよいとする、自己中心的な人間そのものです。
そのような人は、神の愛から最も離れた人間と言えないでしょうか。
わたしは地獄へ行く人は、神様から行かされるのではなしに、自ら進んで行く人、地獄の方が居心地のよい人だと思っています。
そのような苦しいところへ自ら進んで行く人はいるのでしょうか。おられてもほんのわずかでしょう。
わたしなど、バプテスマを受けて教会に通っているけれども信仰はどうかと問われれば心もとないものがあります。
何があってもわたしはイエスを信じて付いていけるかといわれると、・・・・。
<万人救済説がありがたい>
このようなわたしですから、やはり「万人救済説」がありがたいです。
まあ、「万人救済説」をとるにしても、聖書を読むと、この世に生きているうちにイエスを信じて救われることを望まれているのは確かだと思いますが・・。
生前に福音を受け入れて救われるということは、そこにその人に対する神様のご計画があると思うのです。信仰は、人間の努力とか行いではなく、神様の賜物と言いますからね。
なお、わたしはキリストを知らない人でもその人の行いが御心に沿っていれば、その人の霊魂がキリストを知っていると言えると思うので、そのような人は救われて永遠の命に与れると思うのです。(参考聖書箇所ローマの信徒への手紙第2章14節以降)
また、黙示録20章の最後の裁きは生前の行いについて裁かれるのですから、そういう見方もできると思うのです。
反対に今キリストを信じていると言っているクリスチャンでも、はたして裁きの時に無条件で天国へ行けるとは限らないと思うのです。
キリストにわたしはあなたを知らないと言われるかもしれません。
それを決められるのは、裁き主キリストだけです。
聖職者でもないし、自分自身でもないのです。
ただし、イエスに選ばれた12使徒が生涯をかけて、命を懸けて福音を延べ伝えたのは、この地上で救われることに重要な意味があることを表していると思います。
その中には、この現世を信仰と共に生きるのではなく、人生の最後に、十字架上でイエスを受け入れて救われた犯罪者がいますし、殉教者は、キリストと共に千年王国を治めることになっています。
といっても、救いには人それぞれ神様が決められた最善の時(今世か来世かはわかりませんが)があるのでしょう。
いつ、どこで、どのような形で神様に出会うのか、救いに預かるのかは、自分でどうこうできる問題ではないと思います。
もしわたしの考えが間違っていたとしても、わたしは万人ではなくても普通の人はすべて救われることを信じて祈り死んでいきたいと思います。
自分の親兄弟を含めて、この世に生まれたほとんどの命が地獄で苦しんでいるのに、自分だけが救われて、心が平安でいることなどわたしにはとてもできません。
神様は裁かれるが必ず救済されるかたです。それは聖書が語る真理です。
わたしは思うのです。弟子ペトロがイエスに「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイの福音書第18章21節)と尋ねたら
「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(同22節)と答えられました。七の七十倍つまり無限に赦しなさいと言われたのです。
それも無条件にですよ。そのように弟子たちに教えられたイエスです。
この聖句から見ても、わたしは最終的にはほとんどの人が救われると思うのです。
その根拠となる聖句は、ヨハネの福音書10章16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。
その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」です。
この囲いと言うのはキリスト信仰のことです。
そこに入っていない羊(ほかの宗教の人も入る)も羊飼いであるイエスの言葉に導かれて救われるのです。
そして、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(第1テモテへの手紙第2章4節)。
もう一つ、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 」(フィリピの信徒への手紙第2章第10節と11節)。
「そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」(使徒言行録 10章34節)
この聖句などは全員救済とまでは言いませんが、普通に生きているほとんどの人は救われることを語っているのではないでしょうか。
イエスと共に十字架にかけられていた強盗は、十字架上でイエスに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と宣告され、死ぬ間際に救われたのは有名です。
救いは死ぬ間際でもよいということは、救いがこの世界だけというような時間とは関係がないとういうことでしょう。
だから、陰府においても救いがあるし、何度でも救いのチャンスがあるということです。
また、イエスの私たちに対する思いを延べた箇所がありますので、記載しておきます。
聖書の箇所は、マタイの福音書18章12節「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」です。
この聖句を読むと、たかだか80年の現世でキリストを受け入れないで死ねば地獄に行くなどという考え方はどこから来るのでしょう。
キリストは、最後の一人が救われるまで、この世においても、来世においても何度でもチャンスを与え、待っておられます。


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