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この世界が終わるとき

この世界が終わるとき

目次

<終わりの日の始まり>

<宣教命令>

<キリストの空中携挙>

<7年間の艱難時代>

<すべての人にわが霊を注ぐ>

<血と火と煙の柱>

<キリストの地上再臨>

<イザヤ書で見るキリストの地上再臨>

<千年王国、千年王国の終わりと最後の裁き>

<新しい天と地>

本文

終わりの日は、使徒言行録2章の聖霊降臨によって始まりました。

使徒言行録2章15節のペトロの言葉「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」とあるからです。

なお、ヨエル書3章の聖霊降臨は、使徒言行録2章の聖霊降臨と同じです。

 

<終わりの日の始まり>

五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっているところに、聖霊が降臨しました。(使徒言行録2章)

「一同」とは使徒言行録1章15節にあるように、120名ほどのイエスの弟子(兄弟)たちです。

 

彼ら一同は心を合わせて、祈りに専念していたとあります。

なお、この祈りには冠詞がついていますので、「主の祈り」(マタイによる福音書6章6-13ルカによる福音書11章2-4)ではないかとされています。

このように主を求める者に対しての聖霊降臨は、約2000年前の使徒言行録2章に記された聖霊降臨で始まりました。

 

聖霊降臨の時の出来事は使徒言行録を読めば、そのときどのようなことが起ったのかを知ることができます。

ただし、聖霊が内住されるのは、キリストの福音を聞いてキリストを求めた人だけでしょう。

 

ここでは弟子たち120人が、おそらく主の祈りを祈っていたのですから主を求めていました。

この「神の霊の降臨」によって、神のみこころを知る力が与えられるということはエレミヤ書31章の「新しい契約」で預言されています。

そして、「その日」が来る前には、以下のような事が起こります。

 

「終わりの日」には、「いなごの来襲」に象徴される反キリストによる大患難が起こり、さらに自然界での天変地異も起こります。

 

終わりの日の艱難時代は、神である主はかたくななユダヤ⼈の残りの者たち

の⼼を開かせるために大患難という試練を起こし、主を求めさせ、聖霊を注いで、再臨のメシアを受け⼊れさせる準備をされるのです。(エレミヤ書31章、新しい契約の成就)

 

それでは、そのために起こる出来事ですが、それは天と地に起こります。

その日はキリストを求めないものにとっては「主の大いなる恐るべき日」

(ヨエル書 3章4節)であり、キリストの救いを求める者にとっては「主の偉大な輝かしい日」(使徒行伝2章20節)となるわけです。

それはエレミヤ書31章でエレミヤによって預言されている「新しい契約」が実現したことを示します。

 

約2000年前にキリストがこの地上に来られ十字架で死なれ、三日後に復活し、天に昇られましたが、それから10日後の日曜日(ユダヤ教の五旬節の祭りの日)に主の祈りをそろって祈る弟子たちの上に聖霊が降り実現します。

 

よって、今はそれから約2000年、終わりの時の途中にあり、やがてこの世界の終わりに際し、7年間の艱難時代到来しますが、その前にキリストがキリスト者を空中携挙されます。(テサロニケの信徒への手紙一4章16-18節とコリントの信徒への手紙一15章52-54節)

 

したがって、そういう事実があれば、七年間の艱難時代が始まり、世界の終わりが近づいたと言えます。
なお、終わりの日ですが、終わりの時、その日、万軍の主の日など「日」は表現が異なりますが、すべて同義です。

 

さて、祈っていたイエスの弟子たちの上に約束の御霊が注がれ、その御霊に満たされた彼らは、他国のことばで話し出しました。その時の状況を描写してみます。

五旬祭の日が来て、ユダヤ人たちやユダヤ教改宗者たちが各地から来てエルサレムに集まっていましたから、これを見聞きした人々は驚きました。

 

その驚きの一つは、祈っていた者たちの多くがガリラヤ出身なのに一同が聖霊に満たされて、「めいめいが生まれた故郷の言葉」、すなわち、各地から祭りのために来ていた人々の国語で話したことでした。いわゆる、異言です。現在でも、異言を語る人が多くおられます。

 

もう一つの驚きは、ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方であるとし、それは神のご計画であることを語ります。

また、ペトロは、この出来事がヨエル(3章1節)の語った預言の成就であると説明し、イエスの十字架の死と復活の出来事を語って人々に悔い改めを迫りました。

 

すなわち「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を

受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2章38節)です。

ただし、ペトロが、この出来事はヨエル(3章1節)の語った預言の成就と言いましたが、この時にそのすべてが成就したわけではありません。

 

「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」と神はヨエルを通して約束しましたが、この時、「すべての人に」注がれたわけではなく、イエスの弟子120人ほどに注がれただけでした。

すべての人に霊が注がれるのは、終わりの日のキリスト地上再臨の直前と思いますが、それまでは、福音を聞いて「主の名を呼び求める者」にのみ注がれるのです。

 

<宣教命令>

弟子たちが福音を前世界の人々に延べ伝えるためにイエスはこの世を去る前に弟子たちに宣教命令を発しておられます。

そして、その力は聖霊の働きによるのです。

 

四福音書と使徒言行録のすべてに記されていますから、最重要事項です。

ここで大切なことは、「福音を宣べ伝えなさい。」とか「わたしの証人となる。」とあるように、福音を宣べ伝えるだけでよく、信仰を強制し、説得する必要はないのです。信仰は賜物で、授かるのは聖霊の役目です。

 

そして、延べ伝える福音とは、「良い知らせ」、つまり、イエス・キリストの十字架刑と復活(紀元後30年頃)によって、この世界に「神の国(支配)が到来した」というイエスのメッセージです。

 

〇マタイの福音書28章18節から20節「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

〇マルコの福音書16章15節「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 

〇ルカの福音書24章47節から48節「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

 

〇ヨハネの福音書20章21節「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 

〇使徒言行録1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

<キリストの空中携挙>

終わりの日のその日に世の終わりに際し7年間の艱難時代が始まりますが、その前に実現することが、キリストの空中携挙で、それをもって教会時代は終わります。

キリストの空中携挙(テサロニケの手紙第一 4章13~18節)

キリストは空中に降り立ち、クリスチャンと言われる者を地上から取り去られます。

 

この出来事は’空中携挙と呼ばれています。

空中携挙されたキリスト者は、キリストの裁きの座で、地上にいる間の良い行いについての報いを受けます。

 

良い行いをしなかった人は、報いを受けませんが、永遠のいのちはなくなりません。(コリントの信徒への手紙一3章11-15節;同二5章10節)
空中再臨はなんの前ぶれもなく、キリストが天から花婿として花嫁なる教会(キリスト者の集まり)を迎えるために来られます。

 

そのとき教会は一挙に引き上げられ、花婿なるキリストと花嫁なる教会は空中で会い、婚姻をして、天の父の住まいでハネムーンを過ごします。

なお、携挙により、福音を本当に信じている信者が天に上げられて大艱難時代の災害から守られます。

 

<7年間の艱難時代>

キリストの地上再臨の前、艱難期の始まる前に、神の民であるユダヤ人は反キリストを約束されたメシアだと信じて契約を結びます。

その結果、一時、平和を手にし、経済的にも繁栄して非常に裕福となりますが、堕落します。(2章6節から9節)

 

そのために主は、彼らを救うために裁きとして反キリストによる大艱難期を通らせるのです。参考箇所は、イザヤ2章19節と21節、ヨハネの黙示録6章(六つの封印が解かれる)で、封印が次々と開かれ、第六の封印が解かれたときで、黙示録6章12~17節です。

 

しかしキリストが再臨される時には、メシア・キリストに逆らう者たちは自滅させられます。ですから、「その日には、人間の高ぶる目は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、主はただひとり、高く上げられる」(イザヤ2章11節)のです。

 

そのようにしてメシア王国(千年王国)が実現します。

天の父の住まいで花婿なるキリストと花嫁なる教会(キリスト者の集まり)が婚姻をして、天の父の住まいでハネムーンを過ごしている間、地上では七年間におよぶ反キリストの支配による艱難時代があります。

 

それは人類にとってかつて誰も経験したことのないほどの恐ろしい苦難の時です。

この何度も繰り返される裁きは、人々が悔い改めて神に立ち返る機会を与えておられるのでしょう。

神から離反したままであれば死んでしまいますから、何とか生きる者となってほしいという神の愛というか、人類救済のご計画の一環でしょう。

 

すべての魂が救われるのを神は待っておられるのでしょう。もちろん、何度も書いていますが、救いは第一義的にはイスラエルで、異邦人はその後ということでしょう。

艱難時代で最初の出来事は、反キリスト(獣)が権力を得て、イスラエルに自分たちが約束されたメシアだと騙して7年間の平和条約を結びます。(ダニエル9章27節)

 

その結果、イスラエルは一時的に平和を取り戻し、経済的にも繁栄して非常に裕福となりますが、偶像礼拝に堕落します。(イザヤ書2章6節から9節)

それで主は、彼らを教育するための懲罰として反キリストによる大艱難期を通らせるのです。

 

これからの7年の間は、艱難時代として知られています。

この艱難時代には、ひどい戦争、飢饉、疫病、自然の大災害などが多く起こります。

ということは、この世を終わらせるためには、人間の地上生活時の罪とか悪を明らかにし、その罪とか悪が極まらないとこの世は終わらないということでしょう。

 

艱難時代には、神の怒りが罪や悪に対して注がれるのです。

艱難時代の神の裁きは、黙示録の4頭の馬とその馬に乗った4人の騎手と、7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢の裁きがあります。

なお、第二の封印で、赤い馬に乗った剣をもった人物が現れ戦争が起こります。

 

この戦争が、おそらくエゼキエル38章のゴグマゴグ(エゼキエル戦争)とそれに付随する戦乱ではないかとされています。詳細は、別の投稿文で書きます。

 

また、神の裁きで「7つのラッパ」のときに起こる三つの災い(ヨハネの黙示録9章18から19節)ですが、第五と第六の天使がラッパを吹いた時の災いは、一つ目と二つ目の災いで、悪魔と悪霊による災いで、第七の天使がラッパを吹いた時の三つ目の災いは、稲妻・もろもろの声・雷鳴・地震・大粒の雹による災いでしょう。

 

この三つの災いで人間の三分の一が殺されるのです。

ヨハネの黙示録9章18から19節に「その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。 馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである。」とあります。

 

エゼキエル30章とかヨエル書1章とリンクしているのでしょうね。
7年の艱難時代の半ばごろに、反キリストはイスラエルとの平和条約を破り、戦争を挑みます。

 

そして、荒らす忌むべき者として、自分の像を拝ませるために像を神殿に持ち込みます。(ダニエル9章27節;テサロニケの信徒への手紙二2章3-10節)

最後の3年半は、大いなる艱難、また、ヤコブの苦難の時’とも言われています。 


7年の艱難時代の終わりに、反キリストは最終的にエルサレムに攻撃を仕掛け、ハルマゲドンの戦いで滅び終わります。

そして、イエス・キリストが戻ってこられ、反キリストとその軍隊を打ち負かし、火の池に投げ込まれます。(ヨハネの黙示録19章11-21節)

 

<すべての人にわが霊を注ぐ>

ヨエル書3章1節では、神は、全イスラエルとか神を求める人だけでなく、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と預言されています。(使徒言行録2章17節)

この預言は、人間の罪が極まり、最後の裁きの前に実現するのですから、最終的に救われる機会をわたしたちにくださるのでしょう。

 

使徒言行録の時代に一部実現していますが、完成するのは、ヨエル書3章が預言するように終わりの日のキリスト地上再臨の直前だと思います。

このように神の霊を直接受けて神を求めない人はいるでしょうか。わたしは一部の人を除いて普通の人であればいないと思うのです。

 

そういうわけで、わたしはほぼ全員救済を願い、そのように祈りたいと思います。

 

神がこのようにキリストの再臨に際し、すべての人にわが霊を注がれるのは、かたくなな人々のを開かせるために大患難という試練の中で、主を求めさせ、聖霊を注いで、再臨のメシア・キリストを受けれさせる準備をされているのだと思います。

 

もちろん、われわれ異邦人より先に全イスラエルの残りの民のすべての人に霊を注ぎ「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(31章33節)と言われるのは、神はイスラエルの民を異邦人の救いの先兵として再び用いようとされているからなのでしょう。

 

これは、エレミヤ書の「すべての人にわが霊を注ぐ」という預言は、エレミヤ書は旧約聖書ですから、ユダヤ人への預言ですが、新約聖書の使徒言行録2章の同様の言葉は、そのエレミヤ書の預言は、新しい契約では全人類の救いに関する預言でもあると暗に示していると思うからです。

 

なお、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」という一方的な救いの約束は、イスラルの民に対してのみ言われていることで、我々異邦人の残りの者には、すべての者に霊を注ぎ、「主の名を呼び求める者は、皆救われる」と言われているだけです。

 

その上で、神は異邦人のすべての人に霊を注がれ新しい人類の創造という神の遠大なご計画を成就されるのでしょう。

 

艱難時代に起こる出来事は、かたくなな者にとっては「主の大いなる恐るべき日」となり、救いを求める者にとっては「神の大いなる輝かしい日」ともなるのです。

「さばき」と「救い」、それが必ず実現するしるしこそ、ここでいうところの「不思議なしるし」であり、そのしるしは「血と火と煙の柱」によるものということでしょうか。

 

<血と火と煙の柱>

それでは、神はすべての人に霊を注がれた後、ヨエル書3章3節では、その日には「天と地にしるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。」、使徒言行録2章19節では「上では、天に不思議な業を、下では、地にしるしを示そう。血と火と立ち込める煙が、それだ。」とあります。

 

これらは終わりの日の艱難時代に起こる不思議なしるしである「血と火と煙の柱」といわれるものですが、どのように解釈すればよいのでしょうか。

神はすべての人々に聖霊を降らせ「血と火と煙の柱」で、最後の裁きというか警告をなされたのでしょう。

 

天において現われる不思議なしるしを考えるための参考となる聖書箇所は下記のとおりですが、まさに天変地異そのものです。

参考箇所は、マタイの福音書24章29節「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」

 

〇マルコの福音書13章24節から25節「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」

 

〇ヨハネの黙示録6章12~13節「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。」

他に、ヨエル書3章1節、3節と4節.使徒言行録2章17節、19節、20節です。

 

<キリストの地上再臨>

ヨハネの黙示録1章7節「見よ、その方が雲に乗って来られる。

すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。

地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

 

主は、地上にいる神の民(イスラエルの民―ユダヤ人)を、反キリストの軍隊から救うためにこの地上に来られるのですが、そのときがキリストの地上再臨です。

 

そのときキリストは一人で来られるのではなく、ゼカリヤ書14章5節に預言されているように、「すべての聖徒たちも主とともに来る」のです。

キリストが再臨され統治することによって、はじめて世界に平和が訪れるのです。

 

人間的な方策や政治的努力によって平和をもたらすことはできないのです。

イエスの地上降誕からの流れを大雑把な形で書きますと、イエスの地上降誕、イエスの十字架の死と復活、復活されたイエスが天に帰られる、イエスの弟子たちの上に約束の御霊、聖霊降臨実現し、終わりの日の教会時代が始まります。

 

ですから、わたしたちは終わりの日の教会時代を生きていることになります。

なお、教会時代は旧約聖書には出てきませんので、旧約時代の人々にとって教会時代は「奥義」となるのでしょう。

 

その「奥義」である教会時代は、使徒パウロによって明らかにされたのですが、その「教会時代」もイエスの空中再臨によって終わりを迎えることになります。

教会が携挙されるのは、艱難時代が始まりますから、その前に教会を反キリストの支配から守るためであるのでしょう。

 

反キリストはイスラエルを騙して自らを真のメシアだと思わせ、イスラエルと和平条約を結びますが、やがてこの反キリストはその本性を現わします。

キリスト再臨により起こるべきことは、6節に「あなたはご自分の民、ヤコブの家を捨てられた。」です。

 

イザヤ書2章6~22節には、神に従わない神の民イスラエルに対する裁きと警告が記されています。

6節に「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた」とあります。「捨てられた」は「そのまま放置する、見捨てる、投げ棄てる」という意味があるそうです。

 

預言的完了形ですから、それは必ず実現することを意味します。

その理由が6節後半から22節は、そのことを書いています。

ヤコブの家(イスラエル)が捨てられることになったのは、「偽りの神々を拝んだから」です。「偽りの神々」とは偶像の神のことです。

 

また、11節には、「その日には、人間の高ぶる目は低くされ傲慢な者は卑しめられ主はただひとり、高く上げられる。」とあり、メシア王国(千年王国)が実現するのです。

この時には、キリストの花嫁も天から地上に降りて来て、「その日」の来るのを待ち望むのです。

 

だから、そのような日々が到来するのが、確実であることを信じる者は、「人間に頼るのをやめよ鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(22節)となるわけです。

 

22節で「人間に頼るのをやめよ」の理由は、「終わりの日」には、サタンから権威を与えられた反キリストがその統治力と知恵、および超能力において人間の目を盗んで自分をすばらしい存在と思わせ、多くの者を騙すからです。

 

<イザヤ書で見るキリストの地上再臨>

聖書の箇所は、イザヤ書2章2から5節です。

〇2節.終わりの日に

主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち

どの峰よりも高くそびえる。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい

〇3節.多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

主はわたしたちに道を示される。

わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから

御言葉はエルサレムから出る。

〇4節.主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。

〇5節.ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

 

キリストは終わりの日のその日に地上再臨されますが、その場所は、「主の神殿の山」

すなわちエルサレムです。

そこから全世界を統治されます。

 

2章2節・3節ですが、字義通りに解釈するなら、「主の神殿の山」は、エルサレムを指し、エルサレムは、「山々の頭として堅く立ち」ですから、地形的激変(大地震)によって最も高い山になるのです。

 

地震といえばヨハネの黙示録16章18節に「そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。」とあります。

この地震は「人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震」だと記されています。

 

この地震によってエルサレムの「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。」(ゼカリヤ書14章4節)

 

エルサレム周辺の地形は山地なのです。この地震の変動でエルサレムはそれが南北に裂かれた北側に位置するようになり、他の山よりも高くなるということでしょう。

エルサレムは、「山々の頭として堅く立ち」を霊的に、比喩的に解釈すると、エルサレムがメシアの支配(統治)における中心的な場所となるということでしょう。

 

「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい

多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

主はわたしたちに道を示される。」とある通りです。

3節の「多くの民」は、「諸国の民」のことで、異邦人のことです。

つまり、224節にある「終わりの日」の終末のヴィジョンは、ユダの民よりも先にわれわれ異邦人に啓示されることを示しています。

 

イエスが「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われたのは、このことを意味しているのでしょう。

事実、新約聖書の「使徒言行録」を見ると分かるように、御国の福音はまずユダヤ人に伝えられましたが、彼らはそれを拒んだので異邦人に伝えられるようになったのです。

 

神の民が御国の福音に与るのは異邦人よりも後だということです。

それは、「終わりの日」(キリストの再臨)の直前なのです。

「多くの民」、すなわち諸国民は、回復したエルサレムに主を礼拝するためにやって来るのです。

 

そして「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」のです。

このようにキリストの地上再臨によるメシアの統治によって、はじめて人々は、「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。」(4節)ようになるのです。

 

世界平和の実現は、人間的な方策や政治的努力によってもたらすことは不可能なのです。

イザヤ書2章5節の「主の光の中を歩もう。」の「主の光」とは、神の人類救済、すなわち、新しい天と地の創造のご計画のことでしょう。

その計画がイエスによって実現するのですが、そのことを悟った者をエフェソ書4章8節「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」ということでしょう。

 

なお、イザヤ書2章6~22節には、何度警告されても神に従わない神の民に対するさばきの宣言と警告が記されています。

6節に「あなたはご自分の民、ヤコブを捨てられた」とあります。

 

この「捨てる」は、「そのまま放置する、見捨てる、投げ棄てる」ことを意味し、預言的完了形ということですから、それは必ず実現するのでしょう。

その理由が6節後半から22節において説明されていますが、それは、「偽りの神々(偶像)を拝んだから」です。

<千年王国、千年王国の終わりと最後の裁き>

それから、サタンを縛り、1000年間穴に閉じ込めて、地上ではキリストによって治められる千年王国が始まります。(ヨハネの黙示録20章1-16節)

千年王国は、キリスト支配のもとで、キリストの再臨によって回復した全イスラエルの民は、「第一の復活」にあずかった者たちとともに、千年の間地上を支配する者となります。

 

千年の終わりに、サタンはまた解き放たれますが、打ち負かされ、最終的に火の池に投げ込まれます。そこにはあの獣(反キリスト)と偽預言者がいる。(黙示録20章7-10節)

このように地獄に送られるのは、サタン、反キリストと偽預言者と明確にされています。

 

この時に、ゴクとマゴク、いわゆるエゼキエル戦争が起こるのでしょう。

聖書箇所は、エゼキエル書38章1節から23節です。詳しくは別の投稿文で書きます。なお、エゼキエル書では、神がゴグの全軍団を召集したことになっていますが、黙示録では違うようです。

 

それからキリストは、すべての異邦人の未信者を‘大きな白い御座’で、彼らの行いに応じて裁きます。(黙示録20章10-15節)

よく考えると、行いにより裁くということは、神は我々異邦人を地獄に起こることは予定されていないと思うのです。地獄に送るのならば、行いで裁く必要はありません。

 

なお、イスラルの残りの者を含む全イスラエルは、神の恵みにより一方的に救われていますので対象外です。

それから艱難時代が始まる前にキリストの空中携挙で天に挙げられたクリスチャンも同じく対象外です。

そして、死も陰府も火の池に投げ込まれます。この火の池が第二の死です。

 

<新しい天と地>

そうして、新しい天と地と新しいエルサレムを導きいれ、そこで信者は永遠に住むことになるのです。

そこではもう罪も悲しみも死もありません。(黙示録21-22章)

このようにして神の正義は、裁きと救いにおいて明らかにされるのです。

そして、そのしるしは「血と火と煙の柱」によるものなのです。

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