なぜこの世界があるのか
なぜこの世界があるのか
目次
<創造主の存在>
<希望と試練>
<試練はなぜ必要か>
<悪魔の存在と試練の関係>
<悪魔にも自由意志があるのか>
<ヨブ記でみた神様と悪魔>
本文
<創造主の存在>
ヨハネの黙示録は、21章の新しい天地の創造(そこに住む新しい人間の創造)で終わっています。
わたしは、その新しい天地に住む新しい人間の創造のためにこの世界があると思っています。
そういう意味で、聖書が告知するキリストの福音は、神の新しい人間の創造のご計画の中での罪から離反した人間の救済の言葉となります。
新しい天地に住む新しい人間の創造の目的に沿った人間は、人間の自由意志が守られたうえでの神への帰依(愛)が必要なのです。
最初に記しておきますが、創造主である神がおられるから、この世界に希望がある。創造主がおられなければ裁きもなく、来世はなく、希望はなく、死ねば終りですから、この世界はやりたい放題、弱肉強食の世界、秩序なき世界になります。
今の世界はそのような状態に近いのです。
進化論者が言われるように、万物は偶然に発生し、人間も長い年月を経てアメーバーから進化して現在のようになった言う仮説の世界はそういう世界です。
そこには神の摂理(創造主である神による被創造物への計画・配慮)も良心もない、自己愛はあるが隣人愛はない。もちろん、正義もないから希望もない生きるための本能むきだしの弱肉強食の世界です。
進化論者のいう適者生存で進化(変化)してきた世界がそのような世界なのです。
神の摂理とか良心とか隣人愛(隣人を自分のように愛する)は、創造主がいなくてどうして生まれるのか知りたいと思います。
創造主の存在は、人間を含めたこの天地万物を見て、それが摂理によって見事に運行されているのをみれば疑う余地はありません。
例えば、この人体ですが、詳しくは書きませんが、このようなものが自然にできるでしょうか。私たち人間には、骨が何本あるのでしょう?
色々な種類の食べ物の味をどうやって区別できるのでしょうか。
心臓と脳細胞は生涯再生しないし、皮膚細胞は一年もすれば再生するそうですが、それらは人間が生きていくことに必要があってのこと、誰がこの人体の仕組みを考えたのでしょうか。
参考にフランスの比較解剖学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンチレールを評した言葉を記しておきます。
副題を「神は細部に宿る」とし、ジョフロワは、「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られると考えました。ゆえに自然は新しい器官を作ったりしないのです。すべては基本形の修飾によって生じます。これを言い換えれば、第一にあらゆる生物は、同種の構成要素からなること、第二にこれらの要素の組み合わせ方、つまり設計は同じだということです。・・・」
「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られる」ということは、唯一の創造主がおられるということでしょう。
ネットで検索するとDNAについて、「それは、一人のヒト・一匹の動物・一本の植物など一つの個体では、どの細胞にもまったく同一のDNAが入っているということです。つまり、まったく同じゲノムが含まれています。
例えば、筋肉の細胞・神経の細胞・皮膚の細胞では、見た目も機能も全く違いますが、その中にある遺伝子はすべて共通しているということです。」と検索されました。
明らかに唯一の創造主がおられることを表しています。
人間を含めた天地万物は、自然発生的に偶然に生まれたのではないのです。
それではそこでよく問題になるのが、創造主がおられるのならば、この世を生きるのになぜ試練があるのか、ということです。
聖書は、創造神を愛の神とし、御子イエスは人間の罪を七の七十倍(いわゆる無制限に)許しなさいとも言っておられます。
試練と自由意思との関係は、悪魔との関係は、そして、何でもありの世界と神が悪を放置されている理由を考え、最後にヨブ記を読んでみたいと思います。
<希望と試練>
聖書は、この世界は悪魔という存在が跋扈していることを教えます。
その悪魔の働きもあって、人間がさまざまな試練を経験するのは、新しい人間の創造のために不可欠であるからという見方があります。
それでは、その試練の原因が本人に原因がある場合はまだよいのですが、先天的病気、精神障害、いや、障害にいたらなくても精神的にその試練に耐えられない人の場合もあります。
差別とか迫害、無慈悲な殺人もある。その上この世界は、不条理で不公平極まりない。これなどは誰も否定する方はおられないでしょう。
試練の原因は、生まれ育った国、家族など本人の責任によらない原因による不幸、とても試練とは受けとれない人的あるいは自然災害などがあります。
時には自殺に至るような絶望の淵に立たされることもあります。
それらは人によりまちまち、どのように考えればよいのでしょうか。
わたしたちは、それらの試練に耐えるために、絶望しないために根拠のない希望を持ち、試練にはさまざまな理由をつけて必死に立ち向かい生きています。
でも、この世界の艱難辛苦が、試練でしたら希望があります。
艱難辛苦が試練であるためには、この世界の創造主の存在を認める必要があるのではないでしょうか。
そう、この世界は創造のご計画のもとにすべてが成り立っているという意味です。
もし、この世界の創造主がいないならば死んでしまえばすべてが終わり、来世はなく、救いもなく、同時に希望も無くなります。
この世界は、やったもん勝ち、それこそ地獄です。
そうですね、神の摂理(創造主である神による被創造物への計画・配慮)もないのですから、無秩序な世界になります。
また、創造主がおられるとしても、あまりに試練が厳しければ絶望に追いやられ、二度と立ち直れない場合もありますが、そのような場合は、この世の艱難辛苦は試練だと言っても何の意味もありません。
創造主がおられるならば、人間が移動に便利なように車を作るように目的がなく人間を創造することなど考えられません。
人間を含めた万物は目的があって作られていることになります。
しかし、争、虐待、自然災害、パンデミック、その他ありとあらゆる本人の責任によらない苦しみは、苦しみの理由としては決して納得いくものではありません。理不尽であることには間違いありません。
わたしはこの世を生きるうえでの患難辛苦は創造主による試練だと思っています。だからそこに希望があるのです。
<試練はなぜ必要か>
さて、聖書は、神は人間に自由意志を与えたと書いています。
神は人間に自由意志を与えたが、人間はその自由意志を濫用して、わたしから離れて自己中心に生きている、その結果がこの悲惨な現状を生んだと言っているのです。
反面、聖書はそれらの試練をわたしたちの益にして新しい人間の創造のために用いるとしています。
神はこの世界が終わった後に新しい天地を創造し、そこで生きることができる新しい人間を創造するために人間を、この世界を造ったのです。
そういうことであれば、この世界で起こっていることのすべては神の創造のご計画の中での出来事と言えます。
自由意志が人間に与えられているのは、新しい人間を創造するのに必要であるからでしょう。
言い方を変えれば、神は人間を愛されているからと言えます。
本当の愛が育まれるためには、強制された愛ではだめ、そのような愛は神が求めておられる愛ではないのです。
神が求めておられる愛は自由意志の中ではぐくまれたご自分を求める愛なのです。神はロボットを求めておられません。
つまり、神は自由意志の中で愛のある関係を人間と育むことを求めておられるのです。
だから神はご自分に似せて人間を創造されたのです。神と交流ができる霊的な存在として創造されたのです。
また、人間は不完全で自由意志をもって生きていますが、希望をもって生きるように設計されていますから、失敗とか過ちを繰り返し少しずつ成長すると思うのですが、ヨハネの黙示録などを読むと、人間は自分の力ではなんともできないで、最終的に神の介入によって救済され新しい天地と共に新しい人間に造り変えられます。
この世界が神のご計画と目的をもって創造されたのならば、神は万能のお方ですから、必ずご計画通りになるはずです。
神は、決して目的があって計画に沿って造ったものが滅びることを望んでおられるとは思いません。
神は創造のご計画を成就させるために御子イエスをこの地上世界に送り、御子イエスの命をもって人間の罪を贖い、御子イエスの福音を信じた者に三位一体の三位格である聖霊を助け手として内住させ、ご自分との交流を回復し、創造の本来の目的である永遠に生きる存在にすると言っておられます。
人間に与えられた自由意志によって、当然ですが、人間は神のように万能ではありませんから、悪魔がそこに付け込み誘惑し、そのことで苦しむこともあります。
でも、そのことも神のご計画の中で、そのような事態を用いてその人間のためになる、すなわち益としてくださるのです。
そして、それは愛をはぐくむための糧ともなります。
キリスト信仰でよく問題になるのが、原罪(的外れとも言います。神からの離反)です。
原罪も自由意志がなせる業です。
人間は悪魔にそそのかされて、その与えられた自由を誤った用い方(神から離反して自己中心に生きることを選んだ)をしたので、人間社会は今のような悲惨な状態になったのだと思いますが、しかし、それでもその人の責任によらない試練とかその人の責任を超えた理不尽な試練はどうなのか、もう一つ納得できません。
<悪魔の存在と試練の関係>
わたしたち人間は目に見えることしかその存在を信じないところがありますが、聖書は、霊界があり霊的存在がいることを当然として書かれています。
悪魔・天使・悪霊・人間も霊的存在で、この肉体を持った人間の体は仮の住まいです。もちろん、創造主である神様も霊的存在です。
この目に見える世界の外に霊界があり、その霊界がこの世界の本体なのです。
それでは、聖書が描く世界観を見てみたいと思いますが、その前に念を押しておきますが、悪魔とか悪霊は天使が堕落した存在ですが、その行動を神は新しい人間の創造のために必要があって許されていると受け止めたいと思います。悪魔も悪霊ももとは天使ですから、人間と同じように神が創造された被造物です。
また、悪魔とか悪霊は天使ですから、人間のように自由意志がないので神の許しがなければ何もできません。
聖書には、天では戦いがあると書いてあります。
ヨハネの黙示録12章7節・8節「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所はなかった」です。
ミカエルとその御使たちが、竜と戦っているのです。
竜は、9節で「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」とありますから、竜は悪魔とかサタンとか呼ばれるものを指していて、この地上(宇宙)に投げ落とさたことがわかります。
それでは、神の御使いであるミカエルと悪魔との戦いの根本原因は何でしょう。
そのためには悪魔とは何かを考える必要があります。
悪霊(悪魔は天使長)誕生の経緯ですが、神は悪霊(悪魔)を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありません、
悪魔となった天使長は天使ですから、神に逆らえない(神に逆らって何もできない)のですが、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい」と思うようになり、部下の天使に命じて王国を造ろうとしたのです。
天使も霊的存在ですから、神から離れると神からくるいのちの霊(エネルギー)を吸収することができなくなり、天使長は変質し、悪魔となるのです。
悪魔になった天使長は部下の天使の内三分の一を配下に置きました。それが悪霊となるわけです。
神が人間を創造され、人間が、テモテへの第一の手紙2章4節では、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあり、同時に、他の箇所では救われない人もいると述べています。
ヨハネの福音書3章18節には「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」です。
「裁かれている」ですから、神が何もしなくてもその人は自分で自分をすでに裁いている、最終的な死後の行き先を決めているということでしょう。
つまり、神は「すべての人を救いたい」という強い思いをお持ちですが、ご自分を信じないでご自分から離反している人は救えないのです。
神を信じない人というのは、ご自分と繋がっていない、ご自分を拒否する人間のことで、そういう人は救いたくても救えない。つまり、神の命の霊を注げないから神にはどうしょうもないのです。
また、神の働き手である聖霊をその人に内住させようと思っても、神を拒否する人には聖霊を内住させることができないので、その人を救いようがないのです。
そういう人は神の創造のご計画の外で生きている、すなわち、自分の死後の行き先(地獄行き)を自分で決めていることになりますから、すでに裁かれているのです。
聖書には、「神にできないことは何一つない。」とも書いてありますから、その神の恩恵に与るためには、そういう人を含めて、神の思いであるすべての人が救われるためには何が足らないのか。
それはすべての人が自由意志で神を求めるようになることなのです。
人間が自分の意思で神を知り、神と繋がり、神を愛するようになることです。
そうすることで、神の御霊聖霊がその神を信じる人に内住され、その人は新しい人間に造り変えられ、神の願いは成就するのです。
そう、新しい天地に住む新しい人間の創造です。
神は全能ですから、無理やり人間を救うことができますが、もしそれをしたならば、神と人は本当の愛の関係にならないから神は望んでおられない。
人間はロボットと同じ、そうすると、神が人間を造った創造の目的が達成できなくなるのでしょう。
そういう人間は、神が望んでおられる創造のご計画から自ら離れてしまっているのです。
神は、人間が一人も滅びることなく、すべての者が自由意志でご自分を愛し、悔い改めに至ることを望み、この世においてもあの世(陰府)においても、何度も機会を与え忍耐して待っておられるのでしょう。
ですから、この人生の艱難辛苦は、創造の目的を達成するに必要なことであると同時に、そのことで、人間が神を知り、神を愛するようになることを期待しておられるのでしょう。そう、忍耐強く、何度のチャンスを与えて待っておられるのです。
ペトロの第二の手紙3章9節に「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」とあります。
わたしたちは被造物です。だから創造主である神のことは分からないし、神に教えてもらわなければ、わたしたちはどこから来て、なぜ存在するのか、なぜ生きているのか、死ねばどうなるのか、何もわからないのです。
それに被造物であれば、創造主の創造の目的に沿って生きることが最も幸いであるはずです。
テレビは人間の被造物ですから、テレビは創造の目的に沿って人間のために働かなければ何ら存在する意味もありません。
もし、その創造主である神の存在を認めなかったら、わたしたちは、この世界の真理も知らず、神の言葉である福音も知らず、神の創造のご計画から外れたまま生きることになり、そのような人間で構成された社会は、愛が廃れ、自己中心に生きることが優先され、不条理がまかり通る社会です。そこには夢も希望もありません。
まさに今の世界はそのような世界で、神を知らない又は否定する人間と神を認めていても自分を優先する人間が神を認め神の言葉を守り生きている人間よりはるかに多いので、このような世界になっているのでしょう。
人間は何も知らないで自己中心的性格の上に自由意志を与えられて生きています。
そのような人間社会に神は悪魔を自由に泳がせ放置されているのです。悪魔は、人間を唆し神から離し、自己中心に生きるように誘導しています。
ですから、その結果は決まっています。
このように人間は、悪魔のように根っからの悪ではありません。
悪魔も神の被造物ですから、人間と同じです。そして、悪魔も同じこの世界で神に背いて生きています。
違うところは、悪魔は本質的に、すなわち、神が創造されたこの人間世界を自分の支配下に置こうとしているが、人間は悪魔に神から離反することが何たることかを知らないでそそのかされて本来の自己中心的な性質もあり、自由意志も備わっているので自己中心に生きることを選んで多くの人は神の存在を否定、あるいは知らないで生きているのです。
しかし、人間は本質的に悪(確信犯)でないから、そこに救いのチャンスがあるということです。
人間は、悪魔と違って根っから悪ではありません。悪魔に騙されているだけなのです。
また、ヨハネの黙示録12章9節に「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」とあるように、神はこの地上に「悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者」を投げ落とし、その中にエデンの園を造り、人間を創造し、何も知らない無垢な状態のままの人間を置いたのです。
ですから、神は人間が悪魔にそそのかされて今のような悲惨な状態になるのをご存じで、つまり、このようになることは創造のご計画の中に組み込まれていることとなります。
つまり、悪魔も新しい人間の創造という神のご計画にとって必要だから放置されているのです。
それはすべて万能の神のご計画ですから、この世界で人間が体験すること、なすことのすべてが新しい人間の創造に必要なことだと言えないでしょうか。
どのような無駄に思えることでも、神は益として新しい人間の創造に用いてくださると思うのです。だからそこに希望があるのです。
<悪魔にも自由意志があるのか>
悪魔には、自由意志はあるのか、悪魔は天使(自由意志はない)が変質した存在ですから、自由意思はないと思います。神の許しのもとでしか何もできない存在です。
神はその悪魔の働きを止めないで、自由にさせておられる。
悪魔が人間の自由意志を利用して神から離れて自分に従うように誘惑するが、それによって、人間はますます神から離れて、何が真実かもわからず罪の中をさまよう。この世は人間が神から離れることによって、派生する行いの罪が蔓延するようになる。
そのような現状を見ても、神は悪魔の働きを止めようとはなさらない。・・・
それはなぜか、
神が悪魔の働きを妨げない理由として考えられるのは、一つは、それが「人間に与えた自由意志を侵害する」ことになるからでしょう。
聖書を読めば、神は私たちが自分の子供を愛するように人間を愛しておられます。ご自分が創造した人間ですから、それは当然のことだと思います。
何かを創造する場合、そこには必ず目的があります。
神は目的あってわたしたちを創造し、このような世界を造られた、いや、このような世界になることを創造の前からご承知のはずです。
神が被造物である人間に自由に生きる権利を与え、もちろん、自己中心に生きる自由も与えています。
ということは、それを許された神ご自身の自由がその分逆に制限されることになりますが、神は人間を愛するゆえに必要があって、目的があってそのようにされたのです。
もちろん、神は人間に自由に生きる権利を与え、自己中心に生きる自由も与え生きるようにされているが、神は同時に人間に良心を与え、良心に従い生きるようにもされているのです。
その中で葛藤しながら生きることが、神が求める人間の創造には必要なのでしょう。
良心でもって生きる上の指針というか、同時に何が大切かも教えておられるのです。
しかし、人間は良心を持っていると言っても、自己中心に、自由に生きることの誘惑には勝てないのです。
おそらくそのことも神はご存じで、創造の目的の一環なのでしょう。
人間は自由を制限する良心より、(欲)思いのまま自由に生きることを望みます。
もし、人間が良心に従い、聖書に書かれた神の言葉を完全に守るならば、この世界はもっと素晴らしい世になっていることでしょう。
しかし、神はそのような人間社会を望んではおられないようです。
人間には(自由意志とか、自己中心的な思いから派生する)悪い心も備わっていますから、理想的な世界になるとは思いません。
理想的な世界を求めるならば、やはり神(創造主)と共に生きる人の心が必要でしょう。
以上を鑑みると、神は愛ゆえに、創造の目的ゆえに、必要があってご自分の力の行使や活動の範囲を制限されることをも容認されていると言えます。
それは神が被造物を創造された目的であり、また、人間を愛するゆえであり、聖書は最終的にそのような人間の経験を益にして私たちのために用いてくださると言っています。
でも、神は悪魔の働きをもう少し制限してくだされば、もう少し良い社会を私たちは築けたかもしれません。
悪魔も神の被造物ですから、神の承諾がなければ何もできないのです。だから、悪魔の働きをもう少し制限することができるはずです。
人間に与えられた試練の理由で、もう一つ考えられるのは、悪魔を含めた被造物の罪を神の忍耐の限界まで至らせることが目的なのではという見方です。
試練は、神が目的とされる新しい人間の創造に不可欠で、そのためには人間の罪が創造の目的を達するに必要な段階まで満ちるのを待っておられると言うことです。聖書は、神の人類救済計画を告知しています。
そして、最後の最後に人間の救いに介入されるのでしょう。
と言っても、神は正義の神、義の神ですから、人間の罪をそのまま放置して許してはいただけません。
キリストの十字架で、人間の罪(原罪)を赦しておいて行いの罪の裁きはこの世の終わりにすべての人間に対して、最後の審判としてなされます。(ヨハネの福音書20章)
ヘブライ人への手紙9章27節には「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」とあります。
この言葉は、「人間には」ですから、全人類(キリスト教徒もそうでない人も)に対して言っているのでしょう。
<ヨブ記でみた神様と悪魔>
ここで新しい人間の創造に大きな役目を、影響を与える悪魔その者について、そして、神と人間との関係について考えてみます。
最初、サタン(悪魔)はルシファーという天使であったと聖書は言っています。
エゼキエル章28章15節で、神は悪魔のことを「お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見出されるようになった。」と言っています。
なお、悪霊(悪魔は天使長)誕生の経緯ですが、神は悪霊(悪魔)を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありません、
悪魔となった天使長は天使ですから、神に逆らえない(神に逆らって何もできない)のですが、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい」と思うようになり、部下の天使に命じて王国を造ろうとしたのです。
天使も霊的存在ですから、神から離れると神からくるいのちの霊(エネルギー)を吸収することができなくなり、天使長は変質し、悪魔となるのです。
悪魔になった天使長は部下の天使の内三分の一を配下に置きました。それが悪霊です。
イザヤ書14章12-15には悪魔の顛末が、「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」と記されています。
悪魔は、神の創造のご計画を無視し、同じ神の被造物である人間を言葉巧みに唆し、神から離反させ、罪(神から離れて自己中心に生きること)へと誘ったのです。
悪魔は人間に神の真を違って教え、罪にさそい、今もその働きは続いています。
神は、そのような悪魔をすぐには処罰しないで泳がせておられます。
2000年前のイエスの十字架刑の背景には悪魔の働きがあったのですが、その出来事でもって悪魔の罪状は明らかなのですが、それからも神が悪魔を自由にさせておられるのは、悪魔にも自由意志があるからと言えますが、やはり、その悪魔の働きが新しい人間の創造にとって必要なことなのでしょう。
このように神は悪魔に人間社会の中で自由にふるまうことを許されたのですが、一定の制限も設けられています。それはヨブ記にあります。
ヨブ記1章12節には「主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。」です
この12節の前に、ヨブ記1書11節には、悪魔の「ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて(ヨブの財産を失わせる)ごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」という神に対する主張に対して、神はその主張を退け、12節の言葉となるのです。
神は、「彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」と、制限を設けて悪魔の活動を許されたのです。
なお、わたしはここで悪魔とか天使の存在を当然のように書いていますが、わたしは事実悪魔とか悪霊、天使が存在すると思っています。
天使とか悪魔・悪霊は、通常は人間の目には見えませんが、ときにはいろいろな姿で人間の前に現れるそうです。
創造主とか霊界(来世)の存在を信じるならば、それらの存在を否定する理由はありません。
それにこの世界には理解できない不思議な現象が多すぎます。
この世界、人間を含めた天地万物も、信じられないほど細部にわたり見事に秩序だった世界です。見事です。
このような仕組みは、適者生存という進化論では、絶対にできません。背景に、人間の能力をはるかに超えた存在がおられ、創造されたとしか思えません。
全知全能の神は、ご自分の創造のご計画の中で人間には試練が必要とされている。そして、ヨハネの黙示録22章12節で御子イエスは、「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。」と宣言され、そしてご自分のことを、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」と告知されています。


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