イエス・キリスト
イエス・キリスト
目 次
第一章.イエスの登場(序章)
第二章.イエス・キリストの誕生
<イエス・キリストの誕生>
<キリスト誕生の預言>
<クリスマス>
第三章.イエスの時
第四章.イエスの十字架
<聖霊の働き>
<人類救済史と十字架>
第五章.イエスの受難の意義
<受肉の意味>
第六章.イエス復活の事実
<復活の検証 その一>
<復活の検証 その二>
<復活の検証 その三>
第七章.神の支配の到来
<神の国>
<律法とは>
第八章.イエスのプレゼント
<その一 次の世があること>
<その二 罪からの救い>
第九章.キリストの体であるエクレシア
補足
<イエス・キリストと聖書>
<メシアイエス・キリスト>
<イエス・キリストの教え>
<イエスの人格>
本文
第一章.イエスの登場(序章)
イスラエル人は、契約の民と言われます。
それは、神がいまから約3300年前に、イスラエル民族にシナイ山においてモーセを通して語られた言葉、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」(出エジプト記第19章5節)にあります。
この契約は、神が人類にご自分のメッセージを与えるために、その受け皿としてイスラエル民族を選ばれた時の契約です。
そのメッセージは、イスラエル民族の中で、霊的な人物、すなわち、預言者と言われるご自分に近い人物を通して語られました。
そこには神からイスラエル民族に対し、命令としての律法と、イスラエル民族を通して、アダムの時代に神に離反して罪の中をさまよう人類に対するご自分のもとに帰れ、という言葉とともに救いの預言を与えています。
イスラエル民族の歴史は、自分たちの歴史の中の出来事に神の姿を見て、その神とのかかわりを信仰の目で見た歴史だと思います。
その歴史には、神が、時にはご自分から離れてさまようイスラエル民族をご自分の方に目を向けさせるために、イスラエル民族になされた試練もありました。
これらをまとめ編集したものが旧約聖書となります。
イスラエル民族は、このように自分達が神に選ばれ、契約を結んだ民であることを、また、神との関係がどういうものであるかをも知っていました。
それなのに彼らは神から離れてしまっているから、本来の契約の関係に帰ってきなさい、と神に選ばれた預言者たちを通して約1000年にわたる歴史の中で呼びかけ続けましたが、イスラエル民族は、神から与えてもらった律法の真意、また、預言者の言葉をも理解せず、神のもとに帰りませんでした。
神のイスラエルの預言者を通しての人類へのメッセージには、御子イエスを人類の救いの為に地上に送ることを預言していましたが、その預言が、約2000年前に実現し、旧約聖書の歴史を完成させる方として、また、救いの御業を成就させる方として御子イエスをこの地上に送られました。
ところが、当時のイスラエルの宗教家は、このような人類を罪から救うという神からの恩恵の招きを理解できず、神を冒涜する者として救いの福音を告知するイエスを十字架上で殺してしまいました。
イエス自身は、この地上に来られた意義を、「わたしは罪人を招くために来たのだ」と言われています。
罪人というのは神から離反しているわたしたち人類のことです。
神から離反しているために、神の恩恵に与ることができなくなっている人類に対して、「神はいまあなたがたを探し求めておられるのだ、帰ってきなさい」、と語られる言葉が、イエスが人類に対してなされた呼びかけであると思います。
わたしはこれらの出来事を、神の人類救済計画であり、神の人類創造の御業の完成のための一環だと思います。
もちろん、この帰ってきなさいと言うのは、こちらを向いて、わたしの言葉を信じ、心に抱き留めて人生を歩みなさい。
そうすれば、あなたの罪を赦し、現世での生活が終れば、天国へ入れてあげますよ、そして、新しい天地に新しい人間として迎い入れてあげますよ、ということでしょう。
その言葉が、まさしく「福音」(福音については別に詳しく書きます)です。
イエスのたとえ話にもそのことがしばしば出てきます。
わたしたちを羊に喩えて、九十九匹を置いといて迷った一匹の羊を探しにいくたとえ話もそうですし、放蕩息子のたとえ話もそうです。
父親を神に、息子を人類に喩えて、父親から財産分けをしてもらって、家を出て行き、放蕩に身を持ち崩した息子が、窮迫した状況のどん底で本心に立ち帰る物語です。その日の暮らしにも困るほどどん底に落ちたときに、神に帰る、神に頼る人間の姿です。
散々放蕩を尽くした挙句、その日の食べるものにも困ってしまったとき、息子は気がつく。そうだ、わたしには素晴らしい父がいる、わたしは間違っていた、わたしは父のもとに帰ろうと。彼は子でありながら、子としてあるべき生き方を失っていたのです。
その息子は、悔い改めて父のもとに帰るのですが、父は暖かく迎い入れます。
どうしょうもなく困ったときに、最後には神に救いを求めるわたしたちの姿がそこにあります。
罪の中にある人間の救いについていろいろ言われていますが、わたしは、神の真意は、この放蕩息子のたとえ話の父親のようにすべての人間は最後には無条件で許されるものと信じています。
どのような虫のいい人間でも悔い改めたら無条件で許し迎えてくださる。
確かにわたしたちもこの素晴らしい天地万物を造られた神によって、存在させられているのですから、天地万物の素晴らしさと同じように、人間社会も、本来はもっと平和で、他者を愛する愛に満ちた、命が生き生きと輝いている社会であるはずです。
ところが、現実の人間の社会は、ほんとうに悲惨であります。
しかし、神はこの人間社会を創造されたのは裁いて地獄に送るためでなく、人間の新生が目的だと思うのです。
そういう意味で、イエスがこの地上でなされたみ業の一番大事な点は、神である父をわたしたちに示すことであったといえます。
イエスご自身も「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ福音書第14章9節)と言っておられます。
イエスはご自分の使命をそのように自覚しておられたと思います。
人間は本来、神を父として信頼し、交わることができる者として造られているはずなのに、人間は神(父)に敵対する力、いわゆるサタンの働きに捕らえられてしまって、本来のあるべき姿を見失い、自ら父との敵対関係にあり、創造主としての父としての神の存在を認めようともしない。
そう、それはサタン(悪魔)の影響が背後にあるからなのです。
それで神はイエスの十字架死と復活でサタンに勝利し、罪に定めますがなぜかサタンをすぐに地獄に送らないで、そのままこの世界に置かれ、行動も制限されません。その意味は別に投稿させていただきます。
それはさておき、このような状態にあるわたしたちに、イエスは、本来の自分に帰れ、「お父さま!」と叫んで父のもとに自分を全部投げ出して帰ってきなさい、そうしたら父は無条件で今までの罪は全部赦してあげる。
あるがままでよいから受け入れてあげる。
それは十字架ですでに証明したではないでしょうか。
どのような生き方をしたのかは一切問わない、と語られていると思います。
この帰れということが、イエスの御言葉を信じ心に抱き留めこの世を生きなさいということだと思います。これが福音のすべてです。
人間は、神の心も理解せず、呼びかけにも応じず、イエスを十字架につけて殺しました。
ところが、神はこのイエスを三日目に死から復活させて、実はこの方こそ神が最終的に、人類を罪から救うために世に遣わされた方であることを証明されました。
だから、イエスの十字架は、神が人間に対して最終的になされた、人間を罪から救うための贖いのわざであるといえます。
これは、旧約聖書に書いてあるとおり、神が長年イスラエルの民に、歴史の中で約束してこられたことなのです。
このことは、後ほど助け主として、イエスの代わりにこの世に派遣された聖霊によって、十字架によるイエスの死の真実を示された使徒たちが、聖霊の助けを借りて、迫害にも負けずイエスの言葉を述べ伝え、新約聖書を作成し、明らかにしてくれました。
イスラエルの預言者イザヤの預言、「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」(旧約聖書イザヤ書第44章22節)。
この預言者の言葉が、イエスの十字架によってこの地上の出来事として実現しました。
第二章.イエス・キリストの誕生
イエスのことを、キリストとかイエス・キリストとかメシアとか主とか言いますが、その関係を、いわゆるイエス伝承とかキリスト伝承を考える中で、その意味をもう一度確認しておきたいと思います。
同時にキリスト教が誕生した時の状況を簡単にまとめてみたいと思います。
さて、新約聖書の四福音書は、イエスがこの地上に来られ十字架での死に至るまでの生涯を描くことによって、イエス・キリストの福音を語っています。
イエスは人の名であって、キリストはメシア(ギリシア語でキリスト)、救い主ということです。イエスは死からの復活をもってご自分がキリストであることを証されました。
なぜなら、イエスを死から復活させたのは神の御業で、そういうことができるのは神のみだからです。
十字架死からの復活をもって、父なる神は、ナザレのイエスがキリストであることを最終的に証明されたのです。
そのことをキリスト者は信じているのです。イエスの復活なくして、福音はありません。福音がなければ、救いはなくキリスト教もありません。
イエスは、復活することによって、生前弟子たちに、人間を罪から救うために自分がこの世に来た、そして三日後に復活すると予告されていましたから、そのことが実証されたことになります。
こうしてイエスの生前を語るイエス伝承とともにイエスが復活されたことによりキリスト伝承が始まりました。
さて、イエスが十字架で殺されたとき、残された弟子たちは、イエスの十字架刑の巻き添えを恐れて生まれ故郷へ逃げ帰り、ばらばらになってしまったのです。(マタイの福音書14章50節から52節)
ここで、事実上イエスの新しい生き方を教える神の国運動は終わったかに見えたのですが、イエスが葬られて三日後に、生前予告された通り、イエスは復活され、弟子たちの前に現れ、四十日間神の国について語り、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって示されました(使徒言行録第1章3節)のです。
そして、天にあげられました。
イエスの十字架死のショックと、イエスの仲間として巻き添えを食うことを恐れ、故郷へ逃げ帰りました。
そして弟子たちはイエスの生前の予言通り、復活したイエスに出会い、その驚きと衝撃から目を覚まし、(おそらく弟子たちも復活したイエスに出会うまでは、イエスが生前予告されていた三日後の復活を本気には信じていなかったのでしょう。)生前にイエスが語られたことを思いだし、そう「本当にそうだったのだ」と、あらためて目を開かされて、希望が生まれて、力を得て再びエルサレムに集まり食事を共にするようになり祈りの時を過ごします。
やがて、生前のイエスが予告されたように、弟子たちはエルサレムに集まり、一同が一つになって集まって祈っているところに聖霊が降りました。これが有名な、使徒言行録第2章1節の聖霊降臨です。
今までイエス処刑の巻き添えになることを恐れて逃げていた弟子たちは、聖霊に満たされ、力を受け、危険をも恐れず、大胆にイエスのことを述べ伝え始めました(使徒言行録第2章14節)。
使徒ペトロを代表とする、直接教えを受けた生前からのイエスの弟子たちは、聖霊降臨と、復活されたイエスとの現実の出会いを体験し、ユダヤ人に向かって、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた人です。神はイエスを通してあなた方の間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身がすでに知っている通りです」(使徒言行録第2章22節)、と述べ伝え始めました。弟子たちは、生前にイエスが言い残しておかれたことが実現したことを、この時初めて確信し、勇気を持って述べ伝え始めました。
弟子たちがこのように大きく変えられたのは、復活したイエスに出会ったことと、もう一つは聖霊降臨により、聖霊の働きを受け希望が生まれて力を得たと言えるでしょう。
この二つの出来事をもってキリスト教の歴史が始まったと思うのです。
弟子たちは前代未聞の衝撃的な出来事を体験して変えられたのです。キリスト教は、このような強力な岩の上に立っていると言えます。
キリスト教のお添えを否定されるかたは、この二つの出来事が嘘であることを立証する必要があるでしょう。
弟子たちは、共同で食事をすることを核として仲間を形成し、周りの人たちに仲間になるように呼びかけて、イエスによって始まった神の国運動を継承しました。
そのような運動と交わりの中で、イエスの生前の言葉と不思議な業を語り伝えるイエスの伝承が形成されると同時にキリスト伝承が始まったのだと思います。
なお、後にキリストの弟子になり使徒として中心的な働きをするパウロは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」(コリント信徒への手紙第一第15章14節から15節)と打っています。
使徒パウロはユダヤ教徒ですから、生前のイエスとは敵対する関係でしたが、復活したイエスに出会いイエスの弟子となった人です。
だからパウロは十二使徒のようにイエスと寝食を共にしたわけではなく、直接教えを受けたわけでもありませんから、復活したキリストとしてのイエスしか知らないのです。
生前のイエスを知らないのです。そういう意味でパウロはわたしたちと同じ立場にあると言えます。
そのパウロが、コリントの教会に向かって福音をこのように要約しています。第一コリントの信徒への手紙第15章3節から5節で、「 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。と言っています。
パウロは、それまでイエスを迫害する立場であったユダヤ教の熱心な信奉者でありましたが、復活のイエスの顕現に出会って、つまりキリストに出会って、改心しキリストの弟子となった人です。
だから、ここで「受けて伝える」と言っているのです。
それまでの、イエス伝承を受けてメシア・キリストを伝えると言うことだと思います。
つまり、イエスがキリストであることが、イエスの復活により実証されることにより、生前のイエス伝承のほかにキリスト伝承が生まれたのです。
その内容は、新約聖書ローマの信徒への手紙第1章2から4節で、パウロが語っています。福音は、かねて、「神が聖書の中で預言者を通してユダヤ人に約束されていたもので、御子に関するものです。御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」と言っています。
なお、ここで「主」という言葉が出てきますが、この言葉を調べてみますと、これは(主)キュリオスという称号で、イエスが復活して万物の支配者としてのキュリオスとして立てられたという意味だということです。
福音をユダヤ人以外の民族に伝える必要から、メシアというのはユダヤ人が使っている言葉なのでその代りにこの「主」という言葉が使われたということです。
イエス伝承を用いる宣教運動とキリスト伝承を用いる宣教運動はこうして別の流れとして始ったということです。
イエス伝承に基づく宣教運動は、イエスの生前にイエスから直接教えを受けた弟子たちが、生前のイエスの語録集とか奇跡物語とかたとえ集とかを作りそれを語ることで宣教運動をしていました。
キリスト伝承は、パウロが中心で、異邦人(イスラエル人以外)を対象にして宣教活動が行われて、イエス伝承はほとんど用いられませんでした。パウロはいつも復活のイエスとの出会いから述べています。
この二つの伝承は、イエス死後二十年以上たったころに、最初に書かれたマルコによる福音書により両者の融合が行われたということです。
最初の福音書が出来るまでに二十年以上かかったのは、おそらくイエスから直接教えを受けた弟子(主に十二弟子)たちの生前のイエスを語る言葉に権威があって、文字とかそのほかの者には何ら権威を認められなかった。
それにその弟子たちは生前のイエスと寝食を共にし、直接教えを受けていて、イエスが天に昇られた後も聖霊に満たされて語っていましたから、生前のイエスを語る言葉に権威があったのは当たり前です。
そこには、他社が入り込む余地は全くありません。
使徒言行録に、弟子たちが、イエスキリストの名によって、色々な業がなされた記録があります(使徒言行録3章。5章12節ほか)ので、聖霊の力強い助けを見ることができます。
産声を上げたころのキリスト教は、よちよち歩きで危なっかしかったから、聖霊の働きはすさまじかったと推測します。
聖霊の力強い助けがなければ、弟子たちは、キリスト教を憎み敵とするユダヤ民族に囲まれて、その勢力に対抗する力と勇気はなく、キリスト教は消えていたかも知れません。
ということで、福音書の著者は、イエス伝承を用いて地上のイエスの生涯を描いているのではなく、地上のイエスの働きと生涯を物語ることによって、わたしたちの罪のために死に、復活してキリストとされた方を世界に知らせているといえます。
だから福音書はイエスの伝記ではなく弟子たちの体験から得た確信による信仰告白だと思います。
四つの福音書には、不思議なことがいろいろと書かれていますが、ただ言えることは、著者はイエスの復活と顕現に出会い、体験し、聖霊に満たされて確信を持って書いていると言うことです。
嘘で人は変えられません。もし、福音書が嘘であるなら、福音書が編纂されたころには、生前のイエスと同時代に生きていた人がまだ生きていたので、すぐにばれてしまいます。(このことについての詳しいことは別の投稿文「福音書の成立」で書きます)。
<キリスト誕生の預言>
聖書箇所は、ダニエル書9章25節です。
「これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての/御言葉が出されてから/油注がれた君の到来まで/七週あり、また、六十二週あって/危機のうちに広場と堀は再建される。」
ちなみに、ダニエル書が書かれたのは、紀元前605年頃ではないかとされています。キリスト誕生の600年以上前です。
「油注がれた君」はキリストで、キリスト到来まで「エルサレム復興と再建についての/御言葉が出されてから・・七週あり、また、六十二週あって」ですから、キリスト到来まで「エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから」69週となります。
それでは、「エルサレム復興と再建についての/御言葉が出され」たのはいつなのか。
それは、アルタクセルクセス1世(アルタシャスタ)の治世の第7年(紀元前457年)に出されました。
つぎに、69週の解釈ですが、聖書の預言の解釈には、一日を一年と換算するという原則があります(民数記14章34節、エゼキエル書4章6節)ので、
一日を一年ですから、7週は49日で49年間、62週は434日で434年間をあらわしますから合計で483年となります。
エルサレムの再建が開始されたのは紀元前457年ですから、そこから483年後は紀元27年になります。
この紀元27年は「油注がれた者(メシア)」であるイエス・キリストに洗礼者ヨハネがヨルダン川でメシアキリストにバプテスマを授けた時です。
この時からキリストは公に活動を開始します。
ルカによる福音書3章1節に「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主・・」、同3節にそこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣ベ伝えた。」とあり、同21節22節に「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」とあります。
<クリスマス>
神の身分であり、神と等しい者であるキリストが、人間と同じ者になり、人間と同じ姿で現れた出来事を、キリスト教では受肉といいます。
クリスマスは、この受肉の秘儀を告げる祝祭です。
イエスは復活されたからこそ、「神と等しいキリスト」となられたのです。
そして、そのキリストが十字架の死に至るまでおのれを低くして歩まれたから、神はイエスを高くあげて主とされました(フィリピの信徒への手紙2章9節)。
つまり、受肉は復活を前提としていると言えます。
受肉が神の御業なら復活も神の御業です。そういう弟子たちの信仰体験の中から、その体験が余りにも衝撃的だったので(もちろん、復活が事実であったからですが)イエスの誕生物語、つまり、聖霊による神の子の誕生という物語が生まれたのだと思います。
そして、当時それを誰も疑わなかったのです。
復活が事実であったから、イエスの誕生物語があり、それは事実なのです。
イエスの誕生物語があるから復活があるのではないのです。わたしはその様に考えます。
第三章.イエスの時
聖書では何事も出来事には時があると言っています。今回はイエスの時について見てみたいと思います。
マルコの福音書第1章34節に「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」と言う聖句があります。
この中に「悪霊にものをいうのをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」とあります。
イエスは悪霊にものを言うのを禁じられたというのは、悪霊がイエスのことを知っていてイエスの真実の姿をしゃべることを禁じられたということでしょう。
悪霊は霊界の存在です。だから同じ霊界の存在であるイエスの真実を知っていたのでしょう。それは何かということです。
それに、悪霊はイエスの禁止の命令に素直に従っています。イエスには悪霊を有無を言わせず支配する力があるのです。
また、マルコの福音書第1章43節に、イエスがらい病を患っている人を癒された時イエスは「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。・・」と言われています。
これらの聖句を読むと、イエスに何か人々に知られたら困る秘密があると言うことでしょう。他の個所でも悪霊を追い出された時、悪霊に対しても自分のことをしゃべらないように禁じておられます。
たとえば、マルコの福音書第3章11節で、湖の岸辺で汚れた霊どもを追い出されたときの状況は、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。」同12節で、「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。
この汚れた霊(悪霊)は他で、イエスのことを「神の聖者」だ「神の子」だと言っている箇所があります。(マルコの福音書1章24節、5章7節)。
推測すると、おそらく、病人が癒やされることは、神によって癒された事になるので、病をいやしたイエスは大衆にとっては神の子キリストである。
イエスはそれがユダヤ教社会でどう受け取られるのかも知っておられたでしょう。イエスはあわれみ深い方であるからほってはおけないので、病人を癒しながら、神の子キリストであることを自称する者であると思われることを極力避けようとされたのだと思いまます。
なぜなら、ユダヤ教指導者は、いかなる人間も人間である以上神ではあり得ないとする立場でありますから、イエスを神とすることが絶対に認められないことでした。
ましてや、イエスはナザレの貧しい大工の息子ですからね。
後にイエスはそのことが理由に十字架に架けられることになるのですが、まだその時ではなかったのだと思います。
ところが、病気の癒しの場合は、いくらご自分のことを秘密するよう求めても、皮肉なことに癒された人は嬉しさのあまり、「イエスが口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」(マルコの福音書7章36節)となります。
こうしてイエスの噂はますます広がります(マルコの福音書1章45節)。
また、イエスが、「わたしを何者だと言うのか。」とペトロに尋ねたときに、ペテロは、「あなたはメシアです。」と答えています。
このときもイエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちに戒められました(マルコの福音書8章30節)。
またペトロとヨハネとヤコブが、山の上でイエスの変貌する姿を観た時は、三人に対し「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことは誰にも話してはいけない。」(マルコの福音書9章9節)と言われています。
これらの話もどうやら、御自分がメシア(神の子キリスト)であることを自称する者と見られたくなかった。まだそのことを公にする時ではなかったからでしょう。
十字架にかかるまでに、まだやるべきこと、言い残しておくことがある。
すなわち、十字架以降の神の人類救済の計画の準備が整っていなかったと言うことだと思います。
また、イエスが会堂司の娘を生き返らせた業も、苦しみを受けて復活する人の子としての秘儀も、ここでの変容の出来事もすべて父なる神がなされていると言うことも、この段階ではいくらイエスが言葉で説明しても誰もその真意は理解できなかったと思います。
弟子たちも聞く耳を持たなかったと思います。
イエスは、神の御子ですがこの地上では人間として生まれましたからあくまで人間です。奇跡を起こせる力はお持ちではなく、奇跡をなすときは父なる神と一体となり、父なる神から力を得てなされるのです。
イエスの奇跡は、「父なる神がなされている」というのは、マルコの福音書9章9節にあるように、イエスが死者の中から復活されたという事実によってのみ、はじめて証明されるのです。
なぜならば、イエスご自身の死からの復活は、イエスご自身の御業でなく神の御業であることは明らかだからです。
イエスは、弟子たちにだけ「神の国の秘密」を打ち明けられた個所があります(マルコの福音書第4章10~12節)。
また、ご自分のこれから受ける受難(十字架で長老、祭司長、律法学者に殺されることと三日後に復活することを)も十二弟子にだけ三度も密かに予告されています(マルコの福音書第8章31節、第9章31節、第10章33節)。いずれの場合も弟子たちはイエスの予告の言葉の意味が分からなかったようです(マルコの福音書第9章32節)。
同時にその予告の言葉の真意を知ることを恐れてもいました。弟子たちのイエスに期待する思惑はイエスの思いとは別のところにあったのでしょう。
また、このようなこともありました。
ペトロは、イエスが自分の受難を予告した時に、「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」」(マタイの福音書第16章22節)とも言いました。
イエスは、ご自分のことをメシアだとか神の子だと呼ぶこともされなかったと思いますが、周囲の人たちは、イエスがメシアであり神の子キリストであり神の聖者であり偉大な預言者でありダビデの子ではないかと信じたのです。
周りの人は誰でもイエスに宿る不思議な聖霊の力を感じていましたからそういう言葉が出てきたのだと思います。
同じ体験をしても人間は置かれた立場で受け止め方は違います。
感心するだけで信じないとか、素直に信じる人もあれば畏れる人もあると言うことです。
あそうそう、非難した人もいました。どちらにしても、人間は自分に都合よく解釈するものです。
こうして見ると、イエスは自分で自分のことを神の子であるとは言われてはいないが、否定もされていません。
十字架の受難についても秘密にはされていません。何度も弟子たちに予告されています。ただ弟子たちはそのことを信じたくなかったようです。
おそらく弟子たちは、イエスがこの世の救い主になることを期待していたのでしょう。そのような弱いイエスは、信じたくなかったのでしょう。
マルコによる福音書第10章37節にこのような聖句があります。「二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」です。
この聖句の前後の記事を読むと、これは弟子たちがイエスの真意もわからないで、イエスがこの世の王になる時は自分達をイエスの左右の座に座らせて下さいと言っているのです。
こうして見ると、イエスが神の子キリストだということ、十字架の受難で死ぬと言うことは秘密ではなかったと思います。
大衆はイエスの言葉が自分たちの思惑とは違ったことを知り、期待外れでイエスの周りから去っていきます。
ヨハネの福音書第6章66節「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」です。
残った一部の弟子たちも、最後までその答えが分からなかったと思います。
イエスが逮捕された時に、それまでイエスに従っていた弟子たちも「全員、イエスを見捨てて逃げました」(マルコの福音書第14章50節)が、そのようにイエスと寝食を共にした弟子でも、やがてやってくるイエスの逮捕とか十字架のイエスの予告の言葉の意味は分からなかった、信じたくなかったというのが本当でしょう。
イエスが殺されて目の前から消えてしまうという事態に対する心の準備が出来ていなかった証拠でしょう。
だからそのことが現実になって、怖くなり、イエスの巻き添えを食うことを畏れて逃げたのでしょう。
弟子たちには、病気を癒し、奇跡を起こす強い神の子キリストを知っています。
そのような弱いメシア、弱い神の子キリストは、想像することさえできなかったのでしょう。
だから、イエスがどのようなメシアだったのかは、本当のところ、十字架の死まで、いや、イエスが十字架の死から復活して聖霊が降るまで、誰にも予測もできなかったと思うのです。
ヨハネの福音書第12章の37節・40節によると、それは預言者イザヤの言葉(旧約聖書イザヤ書6章10節「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく悔い改めて癒されることのないために」)が実現するためであったとなっています。
イエスがどういう意味で神の子キリストであったのか。このことが、イエスの復活以後に初めて、弟子たちに啓示されます。
イエスが天に昇られて、代わりに代弁者である聖霊が降り、その聖霊の働きを待たなければ分からなかったのです。
聖霊が生前のイエスが語られた言葉の真の意味を分からせて下さるまでは分からないのです。
そのことがヨハネの福音書第14章26節の「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」です。
ということで、表題の「イエスの時」は、聖霊がこの地上に降るとき、ということでしょう。
第四章.イエスの十字架
同じ出来事でもそれを見る人によって理解が少しずつ違います。
共観福音書とヨハネの福音書を比較して考えてみたいと思います。
大祭司を頂点とする祭司長たちや最高法院が形成するユダヤ教指導層が、イエスの宣教内容を拒否して、イエスを殺すためにローマ総督に引き渡したのすが、ではなぜ彼らがイエスを拒否し憎んだのかという受難の理由になると、共観福音書とヨハネ福音書では微妙に違いが見られます。
マルコとルカの福音書は、イエスがユダヤ教神殿の境内で過激な行動をして、ユダヤ教指導層を批判したことが、イエスを殺そうとした直接の動機だとしています。
しかし、ヨハネの福音書では神殿でのイエスの過激な行動はイエス殺害の直接の動機ではなく、その行動がもとでイエスのガリラヤでの活動に監視がつくようになり、イエスの言動がユダヤ教指導層の知るところとなって、律法違反を唆す教師という疑いをかけられたのです。
律法違反だけではなくそれを唆す教師は重罪です。
そして、ヨハネの福音書のイエス殺害の直接の動機は、ラザロを生き返らせたことです。
この御業は、神の大いなる御業でイエスを神の子とする誤魔化しようのない証です。
これによって、ユダヤ教指導層は民衆への影響と騒乱を恐れたことがイエス殺害の直接の動機とされています。
共観福音書とヨハネの福音書の共通するところは、実際はそうではないのですが、安息日律法を公然と破るように(彼らには)見えるイエスの言動が、イエスへの疑いを強める原因となったと思いますが、イエスは律法を否定されていないのです。
ユダヤ教指導層は、律法は自分たちのためにあるとし、律法が人間のためにあることをユダヤ教指導者層は忘れていたのです。
人間があって律法があるのですからね。
共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では、イエスの「神の支配」の宣教が実は「恩恵の支配」の宣教であって、「律法の支配」というユダヤ教社会と対立させています。
それは、イエスが律法を守れない「罪人」と食卓を共にして仲間とされたことをみても明らかです。
ところが、ヨハネ福音書は、イエスとユダヤ教指導層(福音書ではユダヤ人となっているが)との対立は、もっぱらイエスとは誰かということに集中しています。
イエスは何度も、「エゴー・エイミ」(「わたしは・・・である。」と表現しているところはすべてそうです。)を宣言して、御自身が神から遣わされた者であると宣言されますから、これを聞いた「ユダヤ人」は神を侮辱しているとしてイエスを石打にしようとします。
ヨハネ福音書は、イエス(実際は復活されたイエス)を神と等しい方と告白するヨハネ共同体と、それを神への冒涜として反対するユダヤ教会堂勢力(実際はフワリサイ派)との激しい論争になっています。
ただし、イエスが逮捕されてからの大祭司による尋問では、この問題はもはや触れられていません。
なお、「エゴー・エイミ」(「わたしは・・・である。」というのは、英語の I AM に相当する語法で、本来旧約聖書では神の自己啓示の呼称です(出エジプト記3章14から15節)。
共観福音書では最高法院でのイエスの裁判で、大祭司の「お前は神の子(ほむべき方の子)、メシアなのか。」(マタイ26の63、マルコ14の62、ルカ22の70)という質問に、マルコの福音書にだけイエスが「そうです」、すなわち「エゴー・エイ ミ」と答えて、神からの者であると証言されたという記事があるだけです。
この答えを聞いて、大祭司は衣を裂いて、これを神への冒涜とし、死刑の判決を下したことになっています。
まとめてみると、共観福音書では、イエスはイスラエルの民に律法違反を唆す異端の教師として訴えられ、死刑の判決を下されたと言うことになりますが、ヨハネ福音書は、イエスは自分を神とするという冒涜の罪で死に値するとされたということになります。
ヨハネの福音書が書かれた時代(イスラエル崩壊の後、1世紀末頃)のユダヤ教は事実上律法厳守のフワリサイ派のみでしたので、そのことが、律法の問題には触れなかったことに影響しているのかもしれません。
<聖霊の働き>
キリストによる人類救済史は、キリストの十字架から復活、昇天、そして聖霊降臨と続き終わりの日が始まるのですが、その終わりの日の過程で重要な働きをするのがキリストに代わりこの世界に降臨された聖霊です。
聖霊の仕事は、キリストにあるものと共に神の御業を生きるのですが、さらに、キリストの十字架が神の贖罪の御業であることを啓示します。
キリストの福音の言葉は「キリストはわれらの罪のために死に・・」と告げているが、そのようなことは目に見えることではなく、普通ならば一笑に付する言葉です。これは人の思いをはるかに超える秘義であり、聖霊だけが人の心の内にその真意を明らかにすることができるのです。
だから信仰が必要なのです。聖霊はそのために働いておられます。
生前イエスは、自ら人間の言葉で、この世界の真理を語られます。
イエスは、人間の言葉でさまざまな教えを述べるだけでなく、自ら十字架に架けられ殺されることによって、人間の原罪の贖いと悪魔の束縛から解放する条件を整えることになります。
そのことを伝える言葉は福音と言われ、終わりの日に全世界に告知するようにイエスは命令されています。
「福音」は、別の投稿文にも書きましたが、重要なことなので、再掲載しておきます。
福音とは良き知らせともいいますが、パウロは新約聖書ローマの信徒への手紙1章16節でこのように言っています。
「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力である。」と。
福音は神の力、神の力は神の思いがこもった言葉です。神の言葉が受肉した神の子イエス・キリストの出来事を知らせる神の言葉です。
その聖書の言葉は、神のみ子であるイエス・キリストの出来事を告知する言葉です。この言葉は、福音を告知し、信じて読み聞く者に人格で交わり語りかける愛の言葉でもあります。そして、聞く者を根底から変えてしまう創造の言葉でもあります。
それでは、上記パウロの言葉を考えてみましょう。
「福音、・・・神の力である。」とはどういうことでしょうか。
神の力に万物を創造し、人を罪の中から救い造り変える働きがあります。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコの福音書10章27節)と言われる力です。
力ということですから、ある目的に向かって働く、意志を持った動的な力です。その力は人を救いに導く力です。人を救いに導き力ですから、人格的な力です。
「すべて信じる者には、救いに至らせる」とはどういうことでしょうか。
福音と言う神の力は、人を「救いに至らせる」方向に働く力です。何からの救いかと言いますと、人を悪に導くサタンの影響から解放して、また、悲惨な状態に閉じ込めている罪や病気や死の支配から解放して、やがて、神と共に生きることができる命へと変えて、栄光にあずかる姿に完成(ヨハネの黙示録21章1節から8節)させることです。解放・変容・完成の過程です。これは神の約束ですから必ずなるのです。
それでは、すべて信じるものには、ですが、前記のような人を救いに至らしめる神の力が働くのは、イエス・キリストの福音を受け入れて信じている個人とその個人が集まる場においてのみだと思います。
だから、イエスの言葉を信じない者には何の変化もないと言うことです。
信じるだけでよく、何の条件もない。国家・民族・教養・男女・文化程度・社会的身分・財産・道徳的価値も問わないと言うことです。もちろん、宗教もです。
次に「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」ですが、ユダヤ人というは、モーセ律法を遵守するユダヤ教徒のことです。ギリシア人と言うのは、ユダヤ教徒以外のこの時代であればギリシア文化の世界の人々。一般的には、ユダヤ教徒以外の異邦人すべてを指すと思います。
人がキリスト信仰を持てるか否かは、キリスト者の福音伝道もあるが、その人がその福音が真実であることを確信できるか否かが大切なのです。
それは本人の努力とか行いだけでなく聖霊の働きがあって初めてなしえるものなのです。
福音の言葉が人を動かす力は、言葉だけでは限界があります。
でも、聖霊の働きがあれば福音を信じた人の心は確信に変わります。それも、時には命を賭けての確信です。
ユダヤ教指導層とローマの権力がイエスを十字架上に処刑したのは、目に見える事実ですから、信仰の有無に関係なく報告できる歴史的事実ですが、同時にこの十字架の出来事は、神が人間の罪を取り除くことにより、天地のすべての存在を御自身と和解させられる御業であることを聖書は証しするのです。
それはやはり目に見える事実ではないので、人の言葉だけではむつかしく、神の霊、聖霊がその福音の言葉に働かれて、そのことが真実であることを人に啓示するのです。
だから、聖霊の働きは、福音の真実を証しするのになくてはならないのです。
使徒言行録2章の聖霊降臨によって始まったエクレシア(教会・キリスト者の集合体)ですが、その聖霊降臨によって生まれたエクレシアの場で、キリストの福音が真実であることの啓示を受けた人たちが、そのことを伝え、エクレシアはこれを保持して言葉で証言し、記録したのが新約聖書となるのでしょう。
言葉で福音が証言され、聖霊が働かれて、福音は全世界のあらゆる民に時代を超えて告知されるようになったのです。
このように聖霊は、十字架が神の永遠の贖罪の御業であることを啓示するだけではなく、同時に、1コリント15章1節から5節で、パウロは次のように証しています。
「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」
この文書を読んでいると、パウロのキリストに対するあふれ出る思いが伝わってきます。
パウロは、自分が体験したことを万感の思いを込めてこのように告白しているのです。この事実を一人でも多くの人に伝えたい。それも命を賭けてです。
その強さは聖霊の働きから来るのです。その姿はまさにキリスト教の奥義です。
福音の言葉だけならイエスの救いの御業を信じるのはむつかしいが、福音を聞いて、その者に聖霊が働かれてその者が変貌する姿を見ると、神がその人に働かれているのを確信することができます。
事実、私は30年近く教会に通い、多くの信徒さんと交わってきましたが、その人たちは、ほとんど例外なくクリスチャンになる経緯において、何らかの霊的体験をされているように思います。
霊的体験というと、胡散臭い、怖いという印象をもちますが、でも、この世界の森羅万象のすべてが人間に分かっていないのですから、どのような現象があっても可笑しくはないし、それはその人にとっては否定できない事実です。
わたしたちは自分自身はどうして生まれたのだろう、なぜ生きているのか、死ねばどのようになるのだろうか、この世界はなんと美しく秩序正しくできているのだろうか、いろいろ考えても答えは見つかりません。
ただ、背後にそれを造られた方、知的存在がおられることを、また、そのようなことが自然発生的にできるわけがないことを確信することができるのです。
私が創造神の存在を確信する理由は、そこにあるのです。
<人類救済史と十字架>
創造主である神の人類救済史とは、創造から復活に至る神の御業の総体ですが、救済史の完成の根幹となるのは、実にこのキリストの十字架死と復活なのです。
だから、キリストの十字架死と復活なくてキリスト信仰はありえないし、人類救済史も成り立ちません。
なお、人類救済史の詳細は別の投稿文で、ここでは概略を書きます。
人はみな、知っていても知らなくても、それを自覚してもしなくても、神への反逆という根元的な罪(原罪)の中にあります。(創世記3章)
人間は生みの親である神からこの罪の故に神と交流できなくなり、命の源泉が途絶え(命の息が断絶)神と交信できなくなり、人は死ぬ者となったのです。
人間は被造物ですから、被造物は創造神の創造の目的に沿って創造神と共に生きることでその意味を見出せるのですが、神から離反した人間は、本来の性質である自己中心性と神から特別に与えられた自由意志ゆえに自分でこの罪(神からの離反)を悔い改めて創造神のもとに帰り、創造神との交わりを回復し、神と共に生きる命に至ることができないのです。
その罪は神に対する罪ですから、人の罪は神のみが赦すことができるので、それを神が代わりに成し遂げてくださった。それが十字架です。
それは、御子キリストにある者が、もはや罪の支配の下にいることなく、神との交わりを与えられ(これを義とされるという)、神の命と栄光(永遠の命)を受けるようになるためなのです。
永遠の命を得るとか終わりの日に復活するといっても、被造物である人が罪から離れ、永遠の存在である創造主である神との交わり(罪の贖い)を持つことができなくては不可能です。
何度も書きますが、人間は神の創造のご計画から離れて、自己中心に生きていることを罪と言いますが、その罪を赦すことができるのは、創造主である神のみです。
このように人類救済史は、神のご計画であり、それは人の罪と神の戦いの歴史でもあります。
神は御子の十字架において全人類の罪の贖いという決定的な業を成し遂げ、人間イエスを死から復活させ罪に勝利されました。
罪に勝利は、それは背後で暗躍するサタンに勝利という意味です。
なぜならば、キリストを十字架死に追いやったユダヤの指導層の人々の背後には、サタンの働きがあったという前提にあるからです。
ですから、キリストの十字架死はそれなくしては救済史の全体が成立しなくなるのです。
人類救済史は、十字架を土台とし、復活を冠とし、聖霊の働きという柱で支えられているということです。
そういう土台があるから、聖霊も十全にその力が発揮できるのでしょう。
このようにイエスの十字架死は、人類救済史の全体を支えることによって、人類の存在、ひいては新しい天地とそこに住む新しい人間の創造の御業を明らかにしているといえないでしょうか。
そう、すべてのことは神の究極の目的である新しい天地とそこに住む新しい人間の創造のために必要なゆえになされたことです。
すなわち、これらのことはすべて神が天地万物を創造する前からご存じで、すべてご計画の中の出来事であったといえないでしょうか。
第五章.イエスの受難の意義
「イエスの十字架の理由」は、第四章で、各福音書を比較して考えてみましたが、ここでは、イエスの十字架の死の意義を各福音書がどのように取り上げているかも見てみたいと思います。
聖霊降臨(信徒言行録2章)が、福音宣教活動の始まりとされていますが、福音宣教において弟子たちは、イエスの十字架の意味をどのように理解し、意義づけるかが最大の問題であったことでしょう。
弟子たちはみなユダヤ人でしたから、当然その出来事を聖書(旧約聖書)の中から調べ、イザヤ書53章をはじめとするメシア受難の預言が実現したものと理解したと思います。
そこで、最初に理解されたのが、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(コリント一15章3節、紀元50年から62年の間に書かれた。)。
驚くべきことは、このように紀元50年代に既に、イエスのことをキリストと呼んでいるということです。それも当然のごとくにです。
ですから、十字架の三日後、死者の中から復活したイエスは、神からキリストとされた方で、十字架上に死なれたのは「わたしたちの罪のため」とされ、それによってわたしたちの罪が赦されるという「贖罪」の出来事とする理解が、紀元50年代にはすでに確立していたのです。イエスの十字架死からわずか20年後のことです。
どこにも復活を疑い議論された形跡はないのです。イエスの復活が当然あった出来事として述べ伝えられています。確か歴史上死後20年ほどで神格化が完成した人物はいないと思います。
パウロの手によって、このコリントの信徒へ手紙の少し後に書かれたローマの信徒への手紙6章4節には、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と一歩進めています。
それでは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの各福音書)にどのように書かれているのでしょうか。
それが、「主の晩餐」の箇所で、イエスの十字架上の死は「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ26章27節、マルコ14章24節、ルカ22章20節)というイエスの言葉で意義づけているのです。
最後の晩餐はもちろんイエスがこの地上に生きておられた時のことですが(共観福音書が書かれたのは、最も早いとされるマルコの福音書で紀元65年から70年と言われています。)、福音書著者が生前にイエスが言われたこととしてそのように証言しているのです。
このことは、三つの福音書すべてで取り上げられていて詳しく書かれています。
弟子たちは、重大なイエスの証言として記憶していた、いや、聖霊の働きで記憶が蘇らされ、知識が与えられたのです。
そう、現実的には弟子たちが三十年以上前にイエスから聞いたことなど細かく明確に覚えているわけはないので、それは聖霊の働きによる以外何物でもないでしょう。
それに対して、ヨハネの福音書には贖罪とか契約という見方はなく、最初からイエスはご自分の十字架の時を「わたしの時」と表現して、そのときを「わたしが上げられる時」と言っておられます。
この「上げられる時」には、十字架にかけられて地から上げられることと、復活して40日後に天に上げられることが重なって「上げられる」と表現されていると思います。
同時にそれはイエスが「栄光を受けられる時」なのです。したがって、栄光は、十字架死と復活を指すのだと思います。
共観福音書のイエスは、「引き渡される、苦しみを受ける」など受難はいつも受身、すなわち、受動態で語られています。共観福音書は生前のイエスを書こうとしていますから、預言者イエスを書いているという見方があります。
反対にヨハネの福音書のイエスは、いつも自ら進んで受難の道を歩まれますから能動態で書かれています。ヨハネの福音書は一番遅く完成していますから、復活したイエスを見て書かれていますので、神の子イエスを書いているという見方があります。
全体としてイエスは、地上に父を啓示するために来られた御子が、地上での使命を終えて天の父のもとに帰られる出来事として描かれていると思います。
ヨハネの福音書では、イエスは「わたしは・・・である」と言う言い方をよくするのですが、これは神の自己啓示の言葉なので、イエスと神は一体である、イエスは神の子であると言っているのです。
そしてついにその時が来たとき、イエスは「成し遂げられた」(この言葉はヨハネ19章30節のみ)と、ご自分の使命が完了したことを宣言されて、その生涯を終えられています。
<受肉の意味>
わたしたちが住む宇宙と人間を創られた神は、この自然界の「外に」おられます。全てを超越した存在です。
この超越した存在の神が、その神性をもったままの姿で、わたしたちの内に住まわれるとき、これは全てを超越した無限の存在が、有限の世界に内在されたことになります。
こうして神の言葉が人間イエス・キリストとなって、この地上に住まわれたことを受肉と言っています。
超越した無限の存在が、空間的にも時間的にも制限された人間世界に内在する、これは通常ではあり得ないことです。
これを信じることは、人間の理解の範囲を超え人間の努力では到底困難なことです。
信仰でもって信じることが必要かと思いますが、その信仰は、イエスの復活の御霊・聖霊の働きによると思います。
信仰は持とうと思って持てるものではないと思います。
たとえば、宇宙を見てそこに誰も否定できない歴然と存在する法則と秩序に神を見る人もあればそれを不思議とも思わず当たり前のことと受け取り何とも思わない人もいるということです。
わたしたちを造られた神様が本当におられるならば、何が起こっても不思議ではないと言われる方もおられます。
人間を含めてこの自然界の出来事のすべてを人間は理解しているのでしょうか。
人間の体の仕組みが分かっても、なぜそうなるのかはわからない。植物が種を植えて水をやれば大きくなるのは分かっているが、なぜそうなるのかはわからない。
それはそこに命が働いているからです。その命は創造主である神の力です。
この自然界に超越した無限なる神が内在あるいは内住する方法は、神の言葉が肉となるという出来事により成就しました。これを受肉といいます。
約2000年前のイスラエルで、神の思いが込められた神の言葉が受肉するという出来事が起こったのです。
それがイスラエルのベツレヘムで生まれてナザレの地で育った歴史上のイエスなのです。
言葉には言葉を発する人の思いが込められています。言葉には力が、エネルギーがあります。
その神のエネルギーである神の言葉がイエスと言う人間をこの世に創造したのです。
不思議な出来事ですが、わたしは何となく理屈抜きにそういう事態が起こったのは本当かも知れないと妙に納得しました。
そのことを語った、ヨハネの福音書第一章はすごいと思います。わたしの好きな聖句の一つです。
そうそう言い方を変えればわたしたち人間も聖書によれば、霊的存在です。
だから人間はこの肉体が滅びても来世にも生きるのですが、その霊が受肉した存在と言えます。
神の言葉は霊ですから、人間も神の言葉が受肉したと言っても何も不思議なことではないのです。
神の言葉の受肉も歴史上のひとつの出来事です。しかもこの出来事は、人類の歴史において、約2000年前に起こった一度限りの出来事です。
神の思いを込めた言葉が受肉し、それがイエス・キリストと成って人類に自らを啓示されたのです。こうして超在なる神が、この人類の歴史の中に降りてこられたのです。
それでは、神の言葉が肉となってイエスの内に宿ったというのは何を指すのでしょうか。
それは神でありながら人間になることによって、人間の罪深さ、これをご自分の問題として背負い、その罪を贖うために神はその言葉の受肉という手段でイエス・キリストをこの世界にお遣わしになった。一口に言えばこういうことではないでしょうか。
罪のない清い神が、罪に生きる人間として生まれ生きたのですから、その苦しみはいかほどかと推測します。
イエスは神の言葉が受肉した存在であっても、人間であるゆえに自己の意志を放棄し、苦しみ、また死ぬことができる。
しかも、神であるが故に、それを完全になし遂げることができると言えないでしょうか。神は神のままなら死ねないが、人間になることにより死ぬことができるのです。
超越した存在である全能の神がなぜ人間の苦しみが分かるのかというのは、神は人間を創造した存在です。創造者は被造物である人間の苦しみを分かって当然ではなかろうか。
創造主は、人間の苦しみも悲しみや痛みが分からなければ、人間を造ることはできません。
神でおられたイエス・キリストが、わたしたちと同じ肉体的な弱さをもった存在となることによって初めて、人間の苦しみも悲しみや痛みがわかる存在となり、わたしたちの罪を赦し、弱いわたしたちを助け支えることができる。このように思うのです。
超在したままの神であればそのようなことはできません。
高いところに鎮座して、人間を憐れんでいる仏さまとは違うのです。
また、神の言葉が人間となったということは、創造者である神が、被造物である人間とイエス(霊となった復活のイエス)を通して出会うこと、交わることになると思うのです。
神の言葉は神の意思の表れです。なぜなら言葉には言葉を発する人の思いが込められているからです。だから神と出会うためには神の言葉を読みあるいは聞き、触れることが必要だと思います。その言葉の寄せ集めが聖書なのです。これがキリスト教の伝える福音の根本だと思います。
わたしたちと同じ肉体の姿で、地上を歩まれた神の言葉が受肉したイエスの出来事は、創造主である神と被造物である人間との間に横たわる断絶という大きな溝を埋めてくださいました。
その溝は、決して罪を犯した者、被造物である人間から埋めることはできません。
人間と同じ姿になられたというのは、人間としてわたしたちがもつ肉体にまつわるあらゆる苦悩をイエス・キリストを通して、言わばご自分の苦しみとされたということになります。だから、人間の罪を贖うことができるのです。十字架はそのことの象徴だと思います。
それでは、なぜ約2000年前の出来事と今と関係があるのかといいますと、イエスは十字架にかけられて死にました。
その後、三日後に前代未聞の出来事が起こったのです。それがイエスの死からの復活です。蘇られたのです。
もちろん、そういうことができるのは創造主である父なる神様しかありません。
イエスは、死から復活して御自分が神の子であることを証されました。
ということは、イエスが告知された神の支配の到来という福音が、また、イエスが十字架に架けられて死んだのは全人類の罪の贖いのための生贄であった、それが神の御業であることが実証されたことになります。
そして、さらにイエスが昇天されたのち、御自分に代わり、福音告知のために使徒たちの弁護者としてこの世に神の霊、聖霊を送られたのです。
生前イエスはこの地上を神の福音を述べ伝えるために各地を回られましたが、肉体をもったイエスなら、言葉の影響は活動の範囲に限られていました。
ところがご自分が死ぬことによって聖霊をこの世に送られたので、聖霊は霊ですからどこにでも遍在され、人間一人ひとりに内住することもできるので、福音が語られる範囲は世界中に広まったのです。
それが、イエスが十字架で亡くなられた一つの理由でもあったのです。
つまり、ヨハネによる福音書第12章24節のイエスの言葉「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」が成就したのです。
そのようにして、神がわたしたちの内に宿りわたしたちの間に内在される。だから、人間一人ひとりの苦悩を自分のものとして内側から支えることができると言えないでしょうか。
こうして、創造主が、被造物である人間と出会い、そこに交わりが生まれるのです。
ヨハネによる福音書第14章9節でイエスは「フイリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は父を見たのだ。」と言われています。もちろん、父とは神のことです。
ほんとうの意味での唯一まことの神、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書第1章18節)です。
神は異次元の存在だから、はっきり分かれば人間は怖くて生きていられないかもしれません。
人間が神を知るには、信仰をもって知るしかないと思うのです。
そういう意味で、信仰は懐疑の内に育つというのは真実かもしれません。信仰が成長すればだんだんと神も見えてくるのでしょうね。期待したいです。
第六章.イエス復活の事実
<復活の検証 その一>
イエスが逮捕され十字架にかけられると、弟子たちは巻き添えを恐れ、故郷へ帰るなどしてばらばらになっていました。
ところが、イエスは、十字架にかけられてから三日後に、死から復活され弟子たちの前にその姿を現わされました。
そして、四十日間顕現され教えを述べた後天に上げられました(使徒言行録第1章9節)。
イエスの復活顕現の出来事を体験し、その驚愕の事実に驚き、それまでばらばらになって故郷に逃げかえっていた弟子たちは、身の危険をも顧みずに再びエルサレムに集まりました。
なによりも弟子たちは、イエスが生前に予告されていたことが現実に実現したことに驚くと同時に復活したイエスを目の前にして勇気づけられました。
だから、イエスを十字架に架けた権力者がいるエルサレムに危険も顧みずに集まったのだと思います。
エルサレムに集まった弟子たちは、イエスに言われた通り、一つになって祈っていました。すると、イエスが生前予告されたイエスが死んだあとイエスの弟子たちの伝道を助けるために送るといわれていた聖霊が、弟子達の上に降り(使徒言行録第2章1節以降)、生前にイエスが語っておられた言葉の意味が、その真意(神の支配の到来)が何であったかを弟子たちはこのときはじめて理解できたのです。
そのときの状況を聖書は次のように書いています。
「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人に上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせられるままに・・・」(使途言行録第2章1節から4節)。
その後、「するとペトロは、十一人と共に立って、声を張り上げ、話しはじめた。」(使徒言行録第2章14節)。
こうしてイエスの神の国(神の支配)の到来を告げる教えが広まっていきました。
ペトロのこの言葉がキリスト教伝道の第一声となりました。
それから、2000年後の現在もその営みは続いています。
イエスが十字架による死から復活されてから5年ほどたったころ、イエスの弟子パウロはキリストの福音を次のように述べています。
「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」(コリント信徒への手紙第一第15章3節から6節)
この聖句は、パウロのいう福音で、イエスの復活後5・6年のことです。
まだイエスの復活を知っている人のほとんどが生きているころです。
パウロはイエスの生前の弟子ではありませんから、イエスの復活には直接出会っていません。そのパウロがこのようなことを述べ伝えるということは、つまり、当時すでにイエスがわたしたちの罪のために十字架で死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、十二人の弟子と五百人からの兄弟に同時に現れたことなどを知らせる伝承があったことになります。
パウロは、自分はイエスの生前の弟子ではなかったけれども、それらの伝承を信じることができる現実をパウロ自身体験していたということだと思います。
それは上記、「福音の言葉」を、命をかけて事実だと伝えるに値する復活したイエスとの出会いがあったからだと思います。
それは、使徒言行録第9章1節以降のパウロがダマスコへの旅の途中での復活したイエスとの電撃的な出会いだと思います。
パウロはそれまでユダヤ教徒であって、キリスト者迫害の急進的存在であったのです。
もし、イエスの復活がウソなら、でっち上げならそのようなことをいえば聞いた人はパウロをバカにして去ってしまいます。キリスト教が成立するどころではありません。
ましてや、キリスト者迫害の急先鋒であったパウロが180度転換して、キリストを信じる者になったのです。それはパウロの身に驚くべき事態が起こったことを想像できます。迫害する者から迫害される者になったのですからね。
また、イエスの復活が幻とか思い込みという方もおられますが、幻と言うものは、一人ひとりが個人的に体験するもので、500人以上が同時に体験すると言うのは理解できません。
それに、上記のパウロの言葉は、教えではなく、事実としての出来事です。
パウロは、まず、イエスにあった上記のような出来事を告げ知らせたのです。この言葉は、イエスの言葉を信じることを求める言葉だと思います。
このような凄いことがあった。だから、イエスの教えは本当のこと、だから信じなさい、と言っているのだと思います。
復活したイエスに出会ったのは、イエスの弟子でした。彼らは復活したイエスに出会ったのです。
それは既成観念をひっくり返す圧倒的な体験でした。否定しょうがない現実でした。
彼らは、迫害にもめげず命がけでこの事実を証言しました。このような体験を証言せざるを得なかったのでしょう。
わたしたちも同じです。誰もが想像できない凄い出来事を体験したら、人に言いたくてたまらなくなるものです。そして、その体験はいくら否定されても曲げることはできないものです。彼らは話を聞いて信じるのではなく実体験して信じたのです。
そして、弟子たちは迫害をも恐れずイエスが生前語られた教えを堂々と述べ伝え始めたのです。それまでの逃げ回っていた姿とはまったく違っていました。
当時は今わたしたちが手にしている新約聖書もありません。だから、弟子たちは生前にイエスが教えられたことを聖霊の力を得てその真意を悟り、パウロは、旧約聖書の知識と復活のイエスとの出会い、イエスの弟子たちから伝承を学びイエスの教えの真意を悟り、キリスト教の伝道を開始したと思います。
イエスの逮捕と十字架の巻き添えになることを恐れて、逃げ回っていた弟子が、イエスの復活の事実を目の前にしてから命をかけてイエスの出来事と教えを述べるようになったのです。それはイエスの死からの復活が、そして、そのあとで助けてとしての聖霊が弟子たちに降ったのが事実であったから、弟子たちは命をかけてイエスの出来事と教えを宣べ伝えたのです。人は、嘘には命をかけません。
十二人の弟子のほとんどは殉教しました。キリスト教は、ローマ帝国の残虐極まりない迫害の中でも信徒は増え続けたということです。だからやがてキリスト教はローマの国教となるのです。
その力はどこから来たかといいますと、復活という驚くべき出来事のあと、イエスが生前に予告されていました、神の霊、聖霊降臨の実現による力だと思います。
イエスを信じる者の中に聖霊は働かれるのです。これは、この世に神の支配が到来したことの証です。
キリスト教の勃興期には、聖霊の働きは今と違って非常に活発だったと思います。
こうしてイエスの出来事を見てみると、新約聖書が書かれたのも、キリスト教が成立したのもイエスの復活がすべての始まりといえます。
助け主聖霊は今もイエスを信じる者の中に、イエスの教えを述べ伝えるために働いておられます。そのこともイエスは生前に予告されていました。それが次の聖句です。
ヨハネによる福音書第12章24節「 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
もちろん、一粒の麦というのはイエスのことです。地上で生きているイエスなら、イエスの教えを聞くことができるのは周りの者だけです。
イエスが死んで送られてくる聖霊は、霊ですから世界中に偏在することができます。
世界中のイエスの弟子が聖霊の助けを借りてイエスの教えを述べ伝えることができます。イエスの生前の予告が実現したのです。
イエスは十字架にかけられましたが、今も聖霊という形で生きておられるから、聖霊のことを復活のイエスの御霊とも言われています。
現実にキリスト教徒が世界人口の三分の一以上になっているのがその結果です。
もちろん、御霊の働きでないと理解できない現象を体験をした何人ものクリスチャンから聞いています。
最後に、キリスト教は、目に見えない聖霊とか、死人の復活を信じるのですね、そんなのナンセンスと言われる方がおられますが、はっきり言えることは、新約聖書もキリスト教もイエスの十字架と復活と聖霊降臨がなければ生まれなかったということです。
これが物語でなく事実で、キリスト教の秘儀です。
そして、新約聖書は、その出来事に基づいて、出来事を証し、出来事を再現する為に生まれたと言えます。
<復活の検証 その二>
イエスの復活について、別の面からもう少し詳しく書いてみます。
世にも不思議な物語、前代未聞の出来事である、約2000年前のイスラエルで「ナザレ人」と言われたイエスと言う男が十字架に架けられ死んでから三日後に復活された出来事がありました。
聖書にははっきりと書かれています。イエスは死んでから蘇ったと。
復活といいますと、考えられるのは、まず肉体の身体で復活する、霊の身体で復活する、それと人の心の中で復活する、といろいろありますが、聖書の言っている復活というのは、もちろん、この肉体をもったわたしが死んで、肉体が滅んで、つまり腐ってなくなってしまっても、新しい霊の体をもって復活し次の世も生きるということです。
もし、本当にイエスが死んだ後、肉体とか霊体で復活されたのなら、そのようなことが出来るのは、人間をこの宇宙を創造された神様だけですから、イエスの復活は神の御業であると言うことになり、そうであれば、イエスは神の御子と言えるし、イエスが神の子ならイエスが生前に約束された言葉(聖書の言葉)が必ず成就すると思うし、また、生前にイエスがなされた奇跡とかしるしが、どんなにわたしたちの目から見て奇想天外なことであっても、それらの出来事はすべて事実であったと言えるのではないでしょうか。
もちろん、創造主なる神の存在を否定される方は、人間の復活など論外でしょう。死ねば無、死後の世界はないと信じておられると思います。
それとも無関心でしょうか。それならば死からの復活を論じる以前の問題です。
その復活はイエス誕生の幾世紀も前に旧約聖書で予告されていました。
約2000年前にその予告が実現したのです。
新約聖書は、そのことが歴史上の事実であることを証明しています。先にも書きましたが、新約聖書には、次のように書かれています。
「最もたいせつなこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟に同時に現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に・・わたしにも現れました。」(コリント信徒への手紙第一第15章3節から8節)。
もし聖書の記載が信用できないといわれるならば、この2000年の間にイエス・キリストに出会った(もちろん、出会い方はいろいろですが)と証言し、キリスト者になった方がたくさんおられますが、その事実はどのように考えればよいのでしょうか。
そんなのは、勘違いとかその人の妄想だと言われる方もおられるでしょうが、その出会いは、いずれもその人の人生を百八十度ひっくり返すような衝撃的な出会いなのです。決していい加減な出会いではありません。
2000年前にイスラエルの地に生まれ、十字架で死んで、今はもうこの地上にはおられないイエスと出会うのです。
出会ったと証言された方のその後の生き方を見ると、決して錯覚でも狂言でも嘘ごとでもないと思います。
約2000年前に起こったイエスの弟子たちが証言する出会いは、たしかにイエスは体を持っておられ、食べ物を取り、彼らが理解できる言葉で語りかけ、一緒に歩かれた。
しかし、その体はわれわれの地上の体とはまったく違ったもので、閉じられた部屋に突然現れたり、見えなくなったり、天に昇ったりする体でした。
その表現は正確かどうかはわかりませんが、人類がそれまでに経験したことのない事態であるから、それを正確に表現する言葉が分からなかったのではないでしょうか。
しかし、イエスが復活されたときの状況をみると、イエスは元の体に生き返られたのではなく、全く別次元の体をもって生き返られたことは確かだと思います。
もとの肉体の体では壁を通過することはできませんからね。
死んだ人間が、どのようなことがあっても自分自身を死人の中から生き返らせることはできません。また、いかなる人も死んで三日もたって、すでに肉体は腐って完全に死んでいる人間を生き返らせることは不可能です。
復活が事実ならどうしても、人間より偉大な何者かがイエスを蘇らせたと考える以外に説明ができないと思うのです。
もちろん、その何者かというのは、人間にいのちを与えることのできる創造主である神ご自身以外には考えられないことです。
ということは、イエスの復活が事実なら、神がイエスに直接働かれたのですから、明らかにイエスの神性を示しています。
創造主である神がいなければ復活もあり得ません。
しかし、アメーバーが進化して人間になったという進化論を信じる人にとってはとんでもないことでしょう。
逆に、もし、この世界にいのちを自由にすることのできる方、すなわち死人を復活させる方がおられるならば、その方はまさしく創造主で神であるということができるでしょう。 もちろん、その神は、人間が作った偶像の神々、つまり、神となった歴史上の人物や、木や、石で造った神々ではなく、神(創造者)です。
いまだかつて、古今東西のどのような偉大な宗教家も、自らの復活について語った人、また事実として示した人、また、当然ながら復活について実証した人もありません。
しかし、聖書の記載によると、ただ一人イエス・キリストだけは、生前中に何度もご自分の十字架の死と三日目の復活について弟子たちに予告されました。
そして、その通りにすべてが成就しました、と聖書には書いてあります。
そのようなことは、普通の頭では信じられません。この目でみない限り信じられません。信じられないけれども否定も出来ません。だからそれを信じるか否かは信仰なのです。現実に目の前で起っていることを信じるのは信仰ではなく体験です。
ただ言えることは、科学が非常に進歩したと言いましても、人間はこの宇宙のすべてを知っているわけではないということです。
分からないことの方がはるかに多いのではないでしょうか。だから何があってもおかしくはありません。わたしはそのように思っています。
復活は、旧約聖書と新約聖書全体にかかわることなのです。だから、復活を否定すれば聖書のすべてを否定することになるのです。
聖書を信じるのなら復活も信じる必要があるのです。だから、イエスの復活は聖書の根底を支えていることになります。
イエスの復活が余りにも奇想天外なことなので、疑う人がいても当たり前ですが、所詮、(二度と同じ現象を起こせませんから)科学的な検証ができないことですから信じるしかないのです。
復活を信じるかどうかは創造者なる神の存在を信じているかどうかに尽きると思うからです。神の存在を信じることができれば、復活を信じるのは簡単なことです。神は命を創造された方です。復活など朝飯前です。
逆にいえば、すべて事実として確認できれば信仰は必要ありません。
でも、信じろと言われてもにわかに信じられるものではないのも事実です。
なぜなら、そういうことを信じることができるというのも、神の霊、聖霊がその方に働いたがゆえなのですが、そのことも目に見えない異次元の現象ですから、体験した当事者以外はわかりません。
だから、イエスの復活は弟子たちの作文で嘘である、復活は個人の心の中での出来事をそのように記載しているだけである、というようにとらえる方がおられます。
しかし、聖書を注意深く読むと、ただ一概にそうとも言えないところがあるのです。
たとえば、ゴルゴダの丘におけるマリア以下弟子達に至るまで、記載されている体験は細かくて、非常に実証的であります。とても作文とは思えないのです。リアルなのです。
長いので転載しませんが一度読んでみてください。
(ヨハネの福音書16章17節以下「悲しみが喜ぶに変わる」ほか)
イエスの弟子たちは、イエスが葬られた墓に行って遺体の有無を確認したり、指をイエスのお腹の釘跡にいれて確かめたり、彼らは彼らでイエスの死を検証しています。ただ信じているだけではなく、あくまでも自らの目で見、自らの肌で確認しているのです。
それがあったからこそ、彼らはイエスの復活を信じたのだと思います。
あまりにも生々しい体験であったのに違いありません。弟子達もわたしたちと同じように、幾度も疑ったと思います。目で見て指で触れてみなければ信じられなかったでしょう。
聖書を読んでいると、状況証拠はすべて復活が事実であることを証明しています。どうしても嘘とは思えないのです。
もし、これを作文としてしまうと、イエスの復活の御霊といわれる聖霊の存在も認められなくなるので、わたしなどの聖書理解は根底から崩れてしまいます。
そうであれば、キリスト教とは一体何だったのかが問われ、この2000年間聖書に記載されたイエスの教えを信じて、そのために命をかけてきた人々の努力はすべて無に帰すわけです。
それに、この2000年世界の歴史を大きく変えてきた欧米文化の根底にあるキリスト教は何だったのだろうかとなるわけです。
迫害を受けて死んでいった無数の人々は一体何だったのだろう、となるわけです。キリスト教はイエスの十字架による死と復活がなければ成立しないのです。
イエスの復活が嘘ならイエスの教えが全部嘘になるし、イエスはただの気の狂った、妄想の中で死んだ人間になります。
復活が事実ならイエスの教えはすべて事実となります。そして、イエスが神の御子であることになります。復活はそれほど重要なことなのです。
パウロというキリストの弟子で聖書の著者も書いています。
「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」(コリント信徒への手紙第一第15章14節から15節)。
わたしは復活を、私たちと同じ肉体ではない身体でイエスが実際に蘇られたととらえているのですが、ただ、作家の遠藤周作氏は、復活を弟子の心の中での出来事だといっておられると思います。
しかし、わたしには、五百人以上といわれる弟子が、心の中に同じ時に復活を体験したとはとても思えません。
「わたしが復活であり、生命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書第11章25~26節)・・・イエスの言葉です。
改めて申し上げます。イエスは、約2000年前にこの世に来られて、約三年の間この世に神の支配が到来したことを述べ伝え、十字架にかけられ死に、三日後に復活されました。そのあと四十日間弟子たちの前に姿を見せて、天に昇られました。
そして、イエスの復活の御霊、聖霊が弟子たちの上に降り注いだのです。
これらのことは事実だと思います。少なくとも否定する根拠はありません。
なぜそのように思うのかって?それは、イエスが復活されてからの弟子たちの変貌ぶりと、この2000年間のキリスト教の歩みと、今日に至るまでにキリストを信じた人の人生をかけての証です。それと、人類の歴史を導いてきた歴史上の事実です。
人間、この宇宙、自然界の見事に設計された摂理(万象を支配している理法)、科学で説明できない出来事が多い現実をみれば何があってもおかしくはないと思いませんか。
それにわたしは現実に聖霊が弟子たちの上に降り注いだ(使徒言行録第2章1節から)、という聖書記載の出来事とおそらく同じことが再現されたのだろうと思われる現場をこの目で目撃しています。
ただ違うところは、聖書記載の当時のほうが強烈で聖霊を受けた人に与える衝撃が大きいというだけです。
聖霊の降り方が、キリスト教が生まれたての当時と現在とは違うのは当たり前だと思います。
それを異言(使徒言行録2章「聖霊降臨」)というのですが、もちろん異言はキリスト教が産声を上げた当時だけで今はないという説があり、認めていない教派もあります。
それでもわたしたちのもつ知識では説明できない事実であることに変わりはありません。異言についての説明は省略しますが、現実にあるのは事実です。
さて、復活の話に戻りますが、死者は復活するかと問われたら、そんなバカな、ありえないという反応が返ってくるのが普通です。
わたしもイエス・キリストを知るまでは、そのように考えていました。死者が復活することを信じる者は特別な例外的(普通でない・・何が普通かは問題がありますが)人物と考えていました。
妄想だとも思っていました。そういう反応も科学万能の現在ではやむを得ないと思いますが。
調べてみると、昔から人類は、死者は復活すると信じ、そういう願望を持っていたと思われます。
たしか、死者のミイラ化による死体の保存は死者の復活を前提としていると思うのです。
イスラム教においても、アッラーの神は最後の日に死者を復活させて裁くとされているということです。
イスラム教は旧約聖書を聖典とするところはキリスト教と同じです。死者の埋葬に土葬の習慣があるのも復活を信じているからではないでしょうか。
このように世界の大宗教が死者の復活を信条として掲げているので、少なくともそれらの宗教の信徒は死者は復活すると信じているということです。
もちろん、霊魂不滅を信じていたギリシャ人、輪廻転生を信じていたインド人、生への執着を断つことによって死の矛盾を克服しようとした仏教徒など、復活という形以外の方法で死の問題を克服しょうとしてきた多くの人がいたのも事実です。
死者の復活を信じる人は、それはその人が無知だから、現代人でないからといわれる方もおられると思いますが、いやいやとんでもない、その時代のノーベル賞を受けるような学者を含めて多くの知識人がキリストの復活を受け入れて信仰に入ったのも歴史的事実です。
わたしの回りにも、復活を信じている人は、わたしの知っているところ、そうですね、お医者さんとか会社経営者とか学校の先生とかあらゆる職業でいわゆる知識人と言われる人も多くおられます。
今でもイエスは、死の不安、苦悩、悲しみに、そしてこの世の矛盾に苦しんでいる人々、神などいるものかとうそぶいている人々に、わたしが復活である、次の世はあるのだよ、だからいまのあなたの置かれた状況は、意味あってのこと、決して無意味ではないから希望を持ちなさい、と語り続けておられています。
その言葉に救われてキリスト者になった人がどれほどおられることか。
このように考えると、復活は所詮歴史的事実として、客観的に科学的には証明が出来ませんから、どこまで行っても信じるか信じないかの個人の問題となるわけですね。
イエスは復活をもってわたしたちにこの世は神の支配下にあることを、次の世があることを、そこに希望があることを、同時にこの世の出来事のすべてに意義があることを教えにこの世に来られました。そして、今も生きてそのために働いておられます。
<復活の検証 その三>
もう少しイエスの復活について書かせてください。
誰もが一番信じがたいのですが、最も重要な出来事は、キリストの復活です。
キリストのバプテスマと公生涯の開始が紀元27年頃とすると、そこから3年半経った31年頃にキリストは十字架で処刑されたことになります。
その後、わずか約25年後に使徒パウロによって次のように復活の記録がまとめられたのです。
聖書箇所は、コリント人への第一の手紙15章3から6節です。
なお、この手紙一は、使徒パウロが第3次伝道旅行で3年間(紀元54―57年)活動したエフエソで書かれました。
3節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4節「葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5節「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6節「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
なお、このパウロの記述は、パウロ自身はキリストの死と復活には立ち会っていません(当時のパウロは急進派のユダヤ教徒)から、キリストの死後3―8年後で、すでに存在していたキリストに関する口伝を参考にして書いたのではないかとする意見もあります。
パウロは復活のキリストに出会って、人生が変えられて使徒になったのです。
もう一つ、イエス・キリストについての第三者の証言として、紀元111年秋頃に小プリニウスは、ローマ皇帝に送った公的な書簡の中で、クリスチャンがキリストを神として扱っていることを記載し、その教えを「常軌を逸した俗信」としているそうです。(『プリニウス書簡集』423―424ページ)。
「小プリニウス」を調べると、「ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus) 61年-112年。帝政ローマの文人、政治家。」とありました。
そして、小プリニウスは、博物学者、政治家、軍人のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)の甥で、養子。伯父との区別のため小プリニウスと称される。ポンペイのヴェスヴィオ火山の噴火の様子を著した。」とありました。
キリスト信仰を「常軌を逸した俗信」と記述しているのですから、ローマ帝国がキリスト教の影響力を恐れ、「常軌を逸した俗信」である救い主であるキリストの復活とその教えが迷信であるとして否定しようとしていことが分かります。
小プリニウス同様ユダヤの指導者たちもキリストの復活を否定しようとしました。
マタイによる福音書28章12から15節では、墓の番兵が長老たちに死体がなくなった出来事を報告しています。
長老たちは番兵に多額の金を与えて、「弟子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んでいった。」と言うように命じています。番兵は命じられ通りにし、そして、「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まってる」と記されています。
長老も番兵もイエスの出来事が嘘であってほしい人々の会話ですが、イエスを葬った墓には番兵をつけていたのに朝には墓は空になっていたことが事実であることを前提に話が進んでいるのです。
番兵と書きましたが、当時、弟子たちが死体を持ち出さないように、墓は警備されており、警備の失敗は死につながりました。一説にはイエスの墓の警備に100名が配備されたとされています。
墓にイエスの屍がないということは、弟子たちが死体を持ち去ったということですが、墓荒らしも重罪で死刑になる可能性もあったため、命がけです。
キリストの死後、失意の中にいた弟子たちがそのような行動を本当に起こせたのでしょうか。
キリストの実在、十字架での死の記録、空になった墓の事実は、預言されていたキリストの三日後の復活につながります。
そしてすでに書きましたが、何よりキリストの十字架死時の弟子たちの逃亡(キリストを失った弟子たちが逮捕されることを畏れた)から復活のキリストに出会ったのちの弟子たちの変貌がキリストの復活が事実であることを物語っています。
キリストの十字架時に故郷へ逃げかえっていた臆病な弟子たちは、エルサレムで会うというキリストの言葉を信じエルサレムで集まり祈っていたところに、復活されたキリストが現れるのです。
それから以降弟子たちは長老たちを畏れることなく、命を賭けてキリストを証しし、生前のキリストの言葉を信じ、福音を宣べつたえます。
この弟子たちの変貌は、キリストの復活が事実であったこと以外では、説明できません。もちろん、これらの出来事のすべてに三位一体の神の三位格である「聖霊」の働きがあるのは聖書が証しするところです。
第七章.神の支配の到来
新約聖書のマルコによる福音書第1章10節にこのような聖句があります。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのをご覧になった。すると、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた」。
洗礼者ヨハネからバプテスマを受けて水から上がられるイエスに、神の聖霊が鳩のように下り、この様な声が天から聞こえたとあります。
この記事は、神の霊、聖霊がイエスに降り、イエスの内に神の国、神の支配が実現し、イエスは「神の子」となられたことを顕していると思います。
これによりイエスは、父と子のように喩えられて、神の聖霊と一体となって生きる方となり、聖霊によって語り、聖霊によって力ある業、つまり奇蹟を行う方となられました。
しかし、神の御子キリスト登場に人間が考えるような演出、神も粋な手段を取られたのですね。このような感性をお持ちの神なのでしょう。
また、天が裂けて、というのは、今まで人間の罪によって神との間を閉ざしていた天が開かれ、新しい神の国(神の支配)がこの地上に到来したことを告知しているのだとされています。
ということは、「神の国」とは、国とか領域ではなく、むしろ「神の支配」の意味だと思います。
上記のような出来事があるまでは、この世は、この世の君サタンが支配していましたが、このときを境に神が直接統治者としてこの宇宙に君臨し、この宇宙を神の秩序のもとにつくり変えようとされている。それが「神の国」であり神の支配の意味であると思います。
だから、「神の支配」は既に始まっているが完全ではない。なぜならこの宇宙には神の支配の到来を阻止しょうとするこの世の君サタンがいるからです。
神の子となったイエスの使命は、すでに自己の内に到来している神の支配の到来を人々に告げることでありました。
そして、神の子がこの地上に出現したことを、神の支配が始まったことを、イエスは地上での公活動の三年間、数々の奇蹟でもって証しされています。
キリスト教は、罪の悔い改めを強く求めますが、これはイエスがこの世にこられて、神の支配が始まったことにより、その時点で時間は過去と未来に裁断される。
そして、過去は捨てられ、時間は永遠の未来に向かって開かれている。
これにより未来に生きようと、神の支配の中で生きようとするならば、過去の罪をすべて清算し(これを悔い改めと言います)、自己に残された生涯のすべてを神に委ねて生きることが求められます。
しかし、その道は険しく狭いもので、簡単にできることではありません。
そのためにイエスは、十字架に架けられて死ぬことにより、過去・現在・未来の全人類の罪を清算してくださいました。
これは神の支配がはじまった最初の人間に対する父なる神の大いなる恵みの御業です。
過去を捨てるということは、今この世で報われている者は、例えば、地位とか、教養とか財産とか権力などを持つ者はそれらを捨てなければ神の国に入れないことになるが、これを現在に適用して実行することは現実に不可能だと思います。
イエスも、もし“完全になりたいのなら”という前提つきで、金持ちの青年に「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい・・それから、わたしに従いなさい」といわれました(マタイによる福音書第19章21節)。
現在に生きるわれわれには、通常ではこの御言葉を完全に実行することは難しい。イエスもそのことはよくご存知だと思います。
だからここは、自分の善行や価値(資産・地位・教養・権力など)に頼る立場を放棄し、神にゆだねることを、あるいは神を優先することを今、すぐに実行することを求められたのではないかと思います。
自分を放棄することは、資産や地位や教養などを多く持っている者ほど難しくなる。
そういうものを持たない者、自分に頼るものを何も持たない貧しい者が神の支配に入るにやさしいことになる。
このように、神の国ではこれまでどうであったかが問題とされるのではなく、たとえどのような人生を送っていようが、すぐに今までの自分を放棄して生きるということでなく、これからどう生きるかが問われることになるのではないでしょうか。
ただ、神の支配に生きるには唯一の条件があり、それは、イエスの言葉(福音)を信じることです。福音を信じ、神の支配の到来を信じた者は、神の国は永遠の未来に向かって開かれているから、誰でも永遠の未来に生きることが出来る。
この永遠の未来の向かってというのは、永遠なる神とともに生きる人生を表現していると思います。
イエスは、神の支配の到来を証しするために奇蹟を行います。
人々は、奇蹟を見て、イエスを神の子であると信じましたが、神の子が告げる御言葉の真意(神の国の到来、福音)を理解できませんでした。
民衆は神の支配でなく神の子によるこの世の政治的な改革、指導を期待しました。
神の子をイスラエルの王にしょうと望んだのです。
そのようにイエスを誤解したのは、一般民衆だけではなく、イエスが信頼した弟子達も、イエスを誤解しました。
民衆は、イエスが奇蹟を使ってイスラエルの王として君臨することを期待しました。
それほど、奇蹟は民衆をひきつけました。
聖書に書かれている奇蹟を疑う人もいますが、奇蹟が実際に行われたからこそ、時の権力者が恐れるほどにイエスは民衆の期待を集めたし、そのためにイエスは政治犯として十字架にかけられたといえます。
そして最後に、強いイエスを期待して、この世の政治的な改革、指導を期待した民衆は、十字架にかけられ殺される弱いイエスを見て、裏切られたと思いイエスを離れ、とうとうイエスは政治犯として十字架に架けられることになります。
このとき弟子達もイエスの巻き添えを恐れて民衆と同様全員イエスを見捨てて逃げてしまいます。
これで表面的にイエスは神の国の到来を告げることに失敗したということになりますが・・・・。
ところが、イエスは死から復活されました。復活は神の御業がイエスに実現したからであるといえます。復活は、イエスが神の子であることを、死に打ち勝ったことを証明し、同時にイエスを信じる者の次の世での復活の約束を証明するものだと思います。これによりイエスは、人類の救い主キリストとなられたのです。
十字架によるイエスの死は、神による全人類の罪の贖いが完成されたことを示し、人類はもともと始祖アダムに罪が入り死ぬ(霊的に)べき運命(人類はもともと神と共に生きる存在であった)にあったが、イエスの復活によりイエスを信じる者が神と共に来世に向かって永遠に生きる存在となったということだと思います。
イエスは復活し、最初に、マグダラのマリアの前にあらわれます。弟子達でなく1人の女性に出現されたのです。そのあと多数の弟子達の前にイエスは出現されます。出現したのは肉体を持ったイエスでなく、イエスの純粋精神であり霊的な存在であると思います。
復活は、イエスが神の子であることを証明する唯一絶対の奇蹟でありました。他のイエスの行った奇蹟はすべて神の支配の到来を告げるための奇蹟でありました。
イエスはこの世に神の国が到来したこと、神の支配が始まったことを知らせるために2000年前にこの地上にこられました。
イエスはそのことを証しするために数々の奇蹟をお見せになりました。
もちろん、この様なことができたのもイエスが神の子であったからでありますが、イエスが神の子であることはイエスの十字架による死から復活されたことにより最終的に証しされました。
キリスト教の狭い意味の福音はその出来事が事実であったことを知らせることだと思います。
なぜならイエス自身の復活は神の御業の現れであるからです。
イエスは神の支配の到来を述べ伝えましたが、イスラエルの民と弟子はその真意を理解せず、自分たちの窮状を救ってくれる王として期待し祭り上げました。大衆は最後には自分たちの期待を裏切られたことによる恨みからイエスの十字架刑を扇動しました。
イエスの奇蹟を伴った伝道も大きな大衆の人気を呼び、時の権力者は、大衆の人気に恐れをなし、イエスを十字架にかけて政治犯として殺してしまいました。
さて、ここではイエスが命をかけて伝えようとしたのは、そして現在もイエスの意志を引き継ぎ、この2000年間弟子達が命をかけて伝えてきたのは、神の支配が始まったことと神の支配に生きるための条件でした。それは人類にとって、よき知らせ、福音といわれています。
簡単に言えば、聖書に書いてあるイエスの約束の言葉を信じなさい、そうすれば、あなたは神の国に入れて永遠の命が得られますということです。
<神の国>
それでは、イエスのいわれた言葉から、どのような人が神の国にふさわしいのか、また神の国とはどのようなところかを見てみたいと思います。
有名なイエスの、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(新約聖書ルカによる福音書第6章20節)という言葉で始まっている山上の説教は、イエスの神の国の福音をもっともよく現しているといわれています。
イエスの回りには病人や障害者、貧困階層の人たち、取税人や遊女のような社会から疎外された人たちが大勢集まっていました。
そのような人々に向かってイエスは開口一番、「あなたがた貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものなのだから」と言われたのです。
なぜなら、わたしたちの価値観では、金持ちとか身分の高い人、権力を持った人が幸いであると誰でもが思っています。
しかし、神の国では、神の支配下では、貧しい人が幸いであると言われているのです。まさに価値観の逆転です。
それでは、ここで言われる貧しい者とはどのような人たちを指すのでしょうか。誰でもが考えるのは、収入や資産を持たず貧困生活をしている人だと思いますが、ここの貧しい人というのはそうではないと思います。
当時ユダヤ教社会では、律法を知らず、律法を守る生活をすることができない人々は罪人と呼ばれていました。
そういう人たちは、神の民としての資格のない者とされていました。ユダヤ教社会では律法を守る者が義人で守らない者が罪人とされていました。その様な人々は、社会から疎外され、虐げられ、貧しく、救われるためには神に頼るしかすべが無い人々です。
イエスは、救われるには神に頼るしかすべが無いそのような人を、罪人とは呼ばず、貧しい者と呼ばれました。
このように自分に頼るもの、誇ることができる何物も持っていない人のことを貧しい者といわれたのです。
決して怠けて貧しくなった人のことを言っているわけではないのです。
だから、たとえ財産があり、地位もある人でもそのようなものにとらわれずに、イエスの約束の言葉を信じることができれば、神に国に行けるということです。
その心は、財産とか地位を得たのは神様の恵みであると感謝して、その財産を使って、隣人を自分のように愛しなさいと言われているように思います。
<律法とは>
律法とは、約3250年前にイスラエルの民がエジプトの奴隷となっていたとき、神がモーセを選びそこから脱出させました。
そのとき神はモーセを通して、人類を罪(神から離反している状態)の中から救済するという神の御心を成就するために、選ばれた未開の民族イスラエルの民に与えた戒めで、神は律法で人間の守るべき道を教え、十戒その他の戒めを与えました。すなわち、イスラエル民族の教育です。
内容は、道徳律、祭儀規定、社会法規、種種の勧告なども含まれています。
ところがイエスの時代の律法は、口伝律法という形で、長い年月のうちに複雑・膨大になり、完全に守ることなど不可能な状態になっていました。
そのような律法の諸規定を守れなくなった人々を罪人といっていました。
彼らが受けていた侮蔑や疎外が一般的で日常的であったということです。
自分たちはモーセ律法に自分たちに都合よく作成された口伝律法を加えて形骸化させて、それを守っていました。
後には、モーセ律法よりも口伝律法を重視していたようです。
律法学者は、律法を独占し、律法を守ることを誇りとしていたのです。
そして、律法を守る者が「神の国」に行けると主張していたのです。
もしイエスが言うように、律法学者がいうような「罪人」がそのまま神の国に受け入れられるのであれば、律法を守ることは意味を失います。彼ら律法学者の誇りはなくなります。
彼らの立場からすれば、イエスは律法の神聖を汚す背教者です。
彼らにとってイエスは、おられては困るのです。ましてや、病気の癒しなどの奇跡で、住民の人気があっては困るのです。
そういう人たちに向かってイエスは、「神の国はあなたがたのものだ」と宣言されるのです。神は、ユダヤの社会で律法を守れないために罪人といわれている貧しく何の価値も資格もない者を、無条件でご自分の民として受け入れ、その人にとってよいものを与えようとされている。これがいわゆる無条件の恩恵による神の支配ということだと思います。
「貧しい者は幸いである」という言葉によって、イエスは神の無条件の恩恵を受けることができる者の姿を示しておられます。
イエスが病人や障害者を癒し、悪霊を追い出し、貧しい人々に「神の国はあな
たがたのものだ」と福音を告げられるとき(ルカによる福音書第7章22節)
、この世界に神の恩恵による支配の時が来たことを告げておられるのだと思います。
神の裁きでなく恩恵による神と人との新しい関わりの時代が到来したことを告知しておられるのだと思います。
もちろん、神の支配とか恩恵による支配といいますが、この支配というのは決して神が力づくで人間を従わせることではありません。
あくまでも、恩恵を受けるかどうかの選択は、人間一人ひとりの自由意思に委ねられています。人間を罪の中から救いあげる作業は、神と人との共同作業であるからです。
神が支配する場で与えられる恩恵は、人に何の資格がなくても、求める者には誰でも無条件で与えられる恩恵。それは、神から離反して死ぬべき運命にあった人類を、神とともに生きる存在に変えていく。
それは来世での復活につながる命である。人は神の恩恵なくしては生きてはいけない。人は神に支えられ、守られて生きている。神と人とは本来そのような関係でつながっているのだと思います。イエスは人とこのような関わりにある神を父と呼ばれました。父は子を無条件に愛して、良いものを与えます。
第八章.イエスのプレゼント
<その一 次の世があること>
イエスはこの世に来られて、人間は何者でどこから来てどこへ行くのか、ということとともに、次の世があることを教えに来られました。いわゆる、わたしたちは、死んだらお終いではないということを教えに来られました。
わたしたちの肉体は、長くても100年もすれば、ほとんどの人は死んで腐って崩壊して消滅します。もちろん、死体は火葬しますからそのようなことはありませんが。
イエスは、人間は霊と肉体からなると言っておられるのです。その霊が次の世も生きると言っておられるのです。
イエスはそのことをほとんど喩えを用いて教えられました。
そして、自分の教えが本当であることを証するために多くの奇跡をやって見せました。
たとえば、病人を癒したり、死人を蘇らせたり、悪霊を追い出したりしました。
その力は、すべて父なる神から来たと言うことですから、イエスが語られていることは全て真実であると言うことになります。
「その力は、すべて父なる神から来た」ということは、イエスにその力がないわけですが、それは、イエスがこの地上に、それも人間としておられるからでしょう。
地上のイエスは、父なる神から力を受けなければ何もできないのです。
わたしなど、イエスの奇跡よりもその教えが論理的で体系的で実証的であることに感心したものです。
いや、論理的で体系的と書きましたがとりあえず矛盾があって矛盾がないのです。
だから教えに現実感を持つことができました。
そのようにして、イエスの教えに信頼を持ち本当かも知れないと思いました。
不思議な霊的な体験もさることながら、わたしもそういうことから死んでお終いでなく、次の世があることを信じるようになりました。
もちろん、疑い深いわたくしですから、いろんな本を読みました。
たとえば、「人生は霊的巡礼の旅」とか「永遠の大道」とか「迷える霊との対話」ほかいろいろです。
次の世があるからこの世のことにいろいろ意味があり、人はこの世での自己の存在価値を見いだせると考えています。
人は、自分は存在価値があると意識しているから生きていこうとする。それを失ったら、生きる意欲を失い虚無状態になるのではないでしょうか。存在価値と書きましたが、言い換えると、人間は他者との関わりの中に自分の生き甲斐を見出す存在だと思うのです。それが無くなったら生きる意欲を失ってしまうと思うのです。
もし、この世に失望し、生きる意欲をなくした人に次の世があると教えたら、そういうあなたが必要だから神様はあなたを造られたということを教えたら、そして、それを信じることができたら生きていく希望を持てるようになるのではなかろうか。
生まれてすぐに死ぬ子供でも、障害を持ち生まれてきたが人の助けがないと生きていけない人でも、次の世があるから生まれてきた意味があるのだと言えると思います。
だれだって、本音は生きたいのです。だれからも自分の存在を認めてほしいのです。人は、そういう意識を持って生きていると思うのです。平たく言えば、みんなに愛されたいのです。
大概の人は、人格を否定されるわけでもないが、この世の価値、名誉欲、物欲、権力欲を果てしなく追い求めて、そこに自分の存在価値をおいて、自分を誤魔化して生きている人がほとんどではないでしょうか。
昨年の自殺者が年間三万人を超えたと聞きます。それらの人は、きっと自分を誤魔化せない人なのだと思います。
あるいは、誤魔化したくても社会から弾き飛ばされて誤魔化すこともできない人々だと思うのです。
衣食住足りて礼節をわきまえるではないですが、人間衣食住足りたら、自分は何のためにこうしてあくせくして生きているのか、どうせ死んだらお終いなのに、と思うようになると思うのです。会社を退職しリタイア人生に入ると、これから何をよすがに生きていけばよいのか考えるようになるものです。
この世の価値、名誉欲、物欲、権力欲などでは自分を誤魔化せなくなってくるのですね。
お金を得ても権力を得ても、それはそれなりに楽しいが、なんだかむなしくなってくるのですね。
そういう問題意識を持った人々は、新興宗教に何かを求めて入っていくことが多いように思います。
かつてのオウム真理教がそうであったように。閉そく状態に置かれた若者も、新興宗教に興味を抱く。わたくしは、本来そういうことは、キリスト教が最も得意とする分野だと思うのです。それなのにキリスト教がそういう人を助けることができないのは、受け入れる側の教会に何か問題があるのかもしれません。
人間は、肉体と霊からできています。聖書で言う霊は意識体です。意識は霊から出てくるのです。だから、霊の状態が、意識のあり方を決めるということです。
意識には潜在意識と顕在意識がある。顕在意識は人の意識の中でその人の知性が自覚することのできる意識です。
潜在意識は知性では自覚できない意識です。意識の奥では憎んでいても、憎しみの意識があると自覚できない。つまり、潜在しています。
この潜在意識は、フロイトが言っている無意識のことでしょう。
フロイトは無意識が大事だと言っています。
なぜなら無意識が顕在意識に影響を及ぼし、顕在意識が行動に影響を及ぼしているからだということでしょう。
霊はこの潜在意識に影響を及ぼしている。霊がその人に入れば、霊の意識がその人を支配する。霊には、悪霊があり聖霊もある。聖霊は神の霊だから聖霊が入るとその人は神の意識が支配する。悪霊が入れば悪霊がその人を支配する。
聖霊が人の潜在意識を支配するためには、聖書の言葉を常に心に留める必要があるのです。そのための努力が人間には必要なのです。具体的にいえば、聖書を読みそれを心にとどめる(聞いてもいいですが)努力が必要ということです。
イエスは神の言葉、つまり神の意識(思い)が肉体の姿をとって人としてこの地上に来られた存在ということです。
だからイエスの言葉は、神の言葉であり、神の意識体です。
聖書の言葉はイエスの言葉ですから聖書の言葉は神の意識がこもった神の言葉です。
<その二 罪からの救い>
そのようなイエスがこの世にもってきたもう一つのプレゼントは「罪からの救い」です。
もちろん、この罪と言うのは殺人とか窃盗とか詐欺など刑法に該当するような罪ではなくて、キリスト教で言う罪とは、神を知らない、神を否定することを罪と言っています。
アダムがエデンの園で神に離反してから、その子孫であるわれわれは神を知らない罪人になってしまったのです。現実の世界で起こっている、戦争も殺戮も、わたしたち個人でも、自己中心的な、自分さえよければよいと言う考えから起こる争い事などはすべてそれが原因で起こっていると言えます。
人間の生まれたままの命に巣食う罪を、神の御子であるイエスは、御自分の命をささげて贖い、人間が次の世で幸せな人生を送るための方策を教えに来られたのです。それを永遠の命というのだと思いますが、その命はこの世でイエスを信じるときから始まります。
もちろん、イエスを信じることは、神に立ち返ることを表します。
永遠の命というのは決して時間的に永遠ではなく、神の霊、聖霊とともに歩む人生、神と共に歩む人生を言い、その人生は次の世にも確かな希望として繋がっているのです。
それはヨハネによる福音書第17章3節でイエスが言われたそのことについての聖句があります。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と書いてあります。
イエス・キリストを知るとは、イエスの約束の言葉を信じ心に留めて聖霊とともにこの人生を歩むことです。
霊は、次の世で二つの道、つまり、幸福になる道と、不幸になる道に分かれることになっていますが、誰がどちらに行くかは、はっきりしていることは生きているうちにイエスの言葉を信じ聖霊がその人に内住している人は幸福になる道に行くと言うことだけです。
そのほかの人はまず陰府に行きますが、その後どちらに行くかは明確ではありません。死後復活して生前の行いによる裁きが待っているということだけです。
わたしの不安といいますか恐怖感は、死ぬときはどのような死に方をするのだろう、ということと、これは恐怖ではないのですがこの世への未練です。そして、信仰者にはあるまじき次の世へのささやかな不安です。
未知の世界は、いくら説明してもらっても、いざ、行くとなると不安です。
やはり次の世は未知の世界ですから、全く不安がないと言ったらウソになります。反面、次の世への希望もあります。聖書が述べている次の世を楽しみにもしています。
ハート出版社の心霊科学の本で「ブルーアイランド」という本がありますが、その中には「地上生活は鍛錬のためにあり、また、地上での霊性はそのまま死後のわたしの姿と環境に反映する。死後にまとう霊的身体は、その地上生活で自分がこしらえている、この地上での仕事の中身と思念の性質が死後の生活環境を決める」と書いてありました。
この地上での心の姿勢が、やがて赴く死後の世界での境遇を決する、と書いてあるのです。
これなど、イエスの教えと全く矛盾しないと思うのです。イエスはこの世の生き方を述べていますが、それが死後いかに大切なことかということを語っておられるのではないでしょうか。
この地上での心の姿勢というのは、どのような生き方をしたら良いかについて、聖書で聖句を探してみますと、ユダヤの律法学者があらゆる掟の内で、どれが第一ですかとイエスに尋ねたところイエスは、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟は他にない。」(新約聖書マルコによる福音書第12章29節)
「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイによる福音書第5章44節。)これらの聖句が参考になるのではなかろうか。
また、マタイによる福音書第5章の1節から10節までのイエスの山上の説教を読んでみますと、この世の価値観、つまり、名誉欲、物欲、権力欲などとは無縁の生き方の教えが述べられています。
この教えでイエスは、自分に誇るべき何の価値も資格も持たない者、ただただ神の恵みで生かされていることを自覚している者に対して、あなた方は幸いだ、神の国はあなた方のものだといわれているのだと思います。
まさにこの世の価値観の180度転換です。
来世はそのような世界だと思います。来世の価値観はこの世の価値観と違う全く正反対なのです。だからこの世で成功した人でも来世ではどうなるかわかりません。
そのように考えたら、わたしのように年をとってからイエスに出会うより、若いうちに出会ったほうがはるかにその人の人生に、また死後の生活環境にとって良いことだと言えると思います。
同じ鍛錬を受けるにしても、イエスの教えを心に刻みながら受ける鍛錬と、何も分からず生れながらの生命そのままの姿で受ける鍛錬とではその結果に大きな差が生まれるのではないでしょうか。三つ子の魂百までとも言いますからね。
神はこの人間の生きざまを見かねて、このままでは来世でその報いを必ず受けなければならないことを案じて、そのようなことを知らずに好き勝手に生きている人間を罪から救い、悔い改めさせて、来世で幸せな生活を送れるように御子イエスをこの世に送られた、といえます。
このようにキリスト教の救いを考えると、現世でイエスを知り救われることがいかに大切かということになります。
もちろん、イエスを知らずに死んだ多くの善良な人は行いにより、その行いの良し悪しを測る基準はその人の良心でそれなりの報いは受けると思いますが、決してイエスを知らずに死んだすべての人が地獄へ行くとはわたしは思っていません。わたしは、すべての人が最終的には救われると信じています。聖書を読んでいるとそのようにしか思えないのです。
そうでしょう、神は自分が創造しておいて、善人と悪人をより分けたり、たまたま自分を拒否して、親不孝をしたらからといって、永遠の地獄へ送るなど、理不尽ではないでしょうか。神の愛が人間の親が子に持つ愛と同じなら、むしろ出来の悪この方がかわいいと思うのが本当だと思います。聖書の神は罰は与えられますが、必ず救いの手ものべられる愛にあふれた方です。
ただ、人間は自由意志でこの世を生きたのならその結果の報いはそれなりに受けねばならないと思いますが、それは人間の親でも罰は与えますから当たり前だと思います。
第九章.キリストの体であるエクレシア
キリスト者は、キリストにあって神の贖罪の御業にあずかり義とされ、聖霊を受けて復活の命に生き、来るべき復活を望み見てこの地上の人生を歩む者となります。
キリストは、約2000年前にナザレのイエスとしてこの地上に現れた方ですが、その本質は「見えない神のかたち」であり、父なる神の御業で死からの復活されたことで永遠の神の御子と定められた方です。
そして、御子は天地の創造に先立って「最初に成った方」であり、天にあるもの地にあるもの一切は御子にあって造られました。
すなわち、万物は御子イエスを原型として、御子の中に秩序づけられて創造されたのです。言い換えれば、御子によって作られた万物を見れば御子イエスがどのような方かが分かります。
万物は目的があって作られるのですから、万物を見れば創造の意味も分かります。
聖書の箇所は、コロサイ書1章16から17節で「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」です。
人が神に背いたために人は「命の息」(創世記2章7節)が受けとれなくなり死ぬものとなりました。死はその中に、闇、虚無、無秩序、亀裂、闘争、滅びを伴い、被造世界を混沌に陥れます。
この人間を含む天地万物の創造が完成した姿は、エフェソの信徒への手紙1章10節で「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とあります。
このように、被造物を「頭であるキリストのもとに一つにまとめられ」るのが、神の奥義であり、隠された御計画に他ならないのです。
「一つにまとめられ」ですから、最終的にキリストにある者は,皆霊となってイエス・キリストと一つになるのです。
キリストの復活は、終わりの日のはじまり(万物が完成、創造の目的を完成させる御業が始まった)であると同時に、キリストは死人の中から復活した終わりの日の「最初に生まれた方」となり、復活の命に生きる新しい人類の初めの者、頭、となられたのです。
御子を頭としてすべてを再統合しようとされる神の御計画は、御子の十字架死からの復活によりその実現が現実に始まり、終わりの日の死人の復活によって完成するのです。
この人類救済計画は、2000年前のイエスの十字架死と復活で始まり、それは終わりの日の始まりであり、御子の人類救済計画の御業の始まりであり、同時にキリストの福音によって救われたキリスト者の誕生の始まりとなります。
表題のエクレシアは、終わりの日に復活されたキリストと共に生きるキリスト者の集合体を指すのですが、言い換えれば、、エクレシアはキリスト者が一体となったキリストの体であり、たんなる信者の集団ではなく、その様は、人類救済史の目標である「キリストを頭とする統合」を、地上に体現し、世界に示すために、聖霊によって形成された有機体といえます。
このような事態を、エフェソ1章10節は「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるんです。」としています。
エクレシアの頭たる御子キリストと、神の働き手としてこの世界にあまねく遍在し、キリスト者に内住している聖霊は新しい時代に属しますが、エクレシアを構成するキリストに合わせられて生きるキリスト者はこの世界に生きるものですから、その体は肉のまま古い時代に属しています。
キリスト者の集合体であるエクレシアは、この両者のはざまで存在していますので、エクレシアの栄光と悲惨、使命と苦闘が形成されるのでしょう。
過去のキリスト教会の悲惨な歴史を見てそのように思うのです。
エクレシアの栄光と悲惨、使命と苦闘と書きましたが、「栄光」とは、御霊によって受けている神の啓示、命、力であり、「悲惨」とは肉(罪)の働きの故に生じる分裂、紛争、誤謬などを指します。
「使命」とは、キリストの福音の世界伝道です。
それは、キリストの福音を全世界の人々に、時代を超えて世に伝えることです。(マタイの福音書28章19-20節大宣教命令)
その営みの中で、エクレシアはその使命を帯びて聖霊と共に活動します。
「苦闘」とは、肉である人間であるがゆえに、自身の中にある矛盾や弱さとの闘い、敵対的な世に働きかける労苦を指すのでしょう。
皆さまが知っているキリスト教会は、人間が作った社会の制度である宗教法人です。
しかし、エクレシアは教会にこだわらない、キリスト者の集団であり、そして、キリストの体なのです。
宗教法人であるキリスト教会の信徒は、そのエクレシアの中の一つの形と言えるのでしょう。
キリスト教という宗教法人もエクレシアの一つの形なのでしょう。
宗教法人は、人間社会の必要により生まれたのですが、エクレシアは、創造神である御子キリストの営み、すなわち聖霊の営みで生まれたのです。
そこで語られる福音は、神の言葉ですから、真理なのです。
人間社会の必要により生まれた宗教法人は、頭はキリストであっても、構成する信徒は肉のまま現世を生きる生身の人間ですから、自己中心的性質からのがれることはできないので、罪から免れることはできません。
第十章.補足
この章は、イエス・キリストその人に焦点を当てて書いてみたいと思います。
<イエス・キリストと聖書>
現在の世界のクリスチャン人口は約23億人、70億の世界人口のおよそ32%であり、イエス・キリストは世界で最も多くの人から崇められています。
聖書の中心テーマはイエス・キリストです。
聖書の頒布数、翻訳言語数、影響力は過去比類のない書籍でることには誰も異議はないでしょう。
また、聖書は、キリスト教の聖典で、イエスキリストが教祖と思われていますが、キリスト教の聖典であることは間違いないのですが、イエスキリストがキリスト教という宗教を作られた、また、自分がキリスト教の教祖だと名のられた事実はありません。
今年は西暦2025年ですが、これはイエスが誕生してから2025年後、という意味です。実際に誕生されたのは少し前だそうですが(それはイエスの誕生日を間違ったからということです)、どちらにしても、西暦はイエスが誕生された日を起算日として制定されました。
なぜ、西暦が定められたのか、それはイエスの誕生をもって神の人類救済の歴史が変わったからです。
何にしても、イエスは神の御子で、そのイエスが語られた言葉(福音)を記した聖書の言葉は真理だと信じる人々が、世界人口の30%と聞くと、驚くほかありません。
イエスが、人類の歴史にとって比類なき存在であることがわかります。
たった三年しかこの地上で活動されておられただけなのに、人類の歴史に対するその影響は計り知れません。
イエスキリストが真理でなくて何が真理なのでしょうか。
なお、イエス・キリストの「キリスト」とは、名前ではなくタイトル(称号)です。その意味は「救い主」です。
人類の歴史上、自分を「救い主」と称した人間は、キリスト以外にいません。
そのことを認めている人々が世界の人口の30%を占めるのです。
誕生した場所は、ユダヤのベツレヘムという町で、マリヤという女性によって、家畜の小屋で出産されたそうです。
イエスはおよそ三十歳頃から、公の伝道活動を開始するが、それまでの職業は大工であった。以上が、イエスの簡単なプロフィールです。
<メシアイエス・キリスト>
ヨハネの福音書14章6節にこのようなイエスの言葉があります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
すごい言葉です。イエスは、自分が「救いのための唯一の道」であると宣言されたのです。
イエスはあなた方の救い主としての
自分の権威は唯一で絶対だといわれたのです。事実でなければ傲慢の極みです。いや、くるっているとしか言えません。
こんな言葉もあります。
ヨハネ8章58節から59節に「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」
「わたしはある」というイエスの自己宣言は、ユダヤ的視点で捉えると、聖書の唯一神・ヤハウェの神の名を意味し、自分は唯一神・ヤハウェだとする神性宣言となります。
ユダヤ人たちは、イエスのこの言葉を聞いた上で、彼に石を投げようとした。なぜなら、彼らがイエスの言葉を神性宣言と捉え、イエスが冒涜の罪を犯したと考えたからです。
「父はだれをも裁かず、裁きは一切、子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」(ヨハネ5:22―23)
これもすごい言葉です。父はもちろん聖書の唯一の神、「子」はイエスですから、イエスは、ご自分が「神の子」として自己認識しておられたことを明らかにしています。
「裁きは一切、子に任せておられる。」ですから、イエスは、全人類の裁き主である神が、その全ての裁きを、自分に委ねている、という大胆な宣言となります。
そして「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるため」ですから、聖書の唯一の神と自分は父と子という関係で一体だと言われているのです。
これらの言葉により、イエスは、自分が神の子として、神と同等の権威を持っていると主張しておられたのです。
イエスの自己認識をイエスの言葉で宣言されているところを取り上げましたが、自己認識から推測される可能性をまとめると、
イエスの自己認識とは、「唯一の道・真理・命」、「神」、「裁き主」、「神の子」、というものです。
このようなイエスの自己認識から、イエスに実像について考えられる、三つの可能性があります。。
すなわち、気狂いであるか詐欺師であるか本物の神の子であるかです。
イエスは、もとろん、「本物の神の子」です。
イエスのことを、単に偉大な宗教指導者や、道徳的に優れていた素晴らしい人物だと評価する人がいるが、イエスの大胆な自己認識の発言からは、そのような中途半端な評価を下す余地は残されていない。
もちろん、イエスの十字架死からの復活と生前になされた数々の奇跡を見ればメシアイエスは明らかです。
もし彼が本当は「神の子」でないのだとすれば、彼は人類史上最悪の気狂いか、詐欺師であります。しかし、そうでないのなら、本物の神の子・救い主であるといえます。
<イエス・キリストの教え>
イエス・キリストの教えとなると、最初に浮かぶのは「山上の垂訓」(マタイの福音書5章から7章)です。
イエスの教えの中でも特に有名なのが、「山上の垂訓」と呼ばれる一連のメッセージです。
解説するのに、歴史上の有名なキリスト者の言葉を借ります。
まず、インド独立の父であるガンジーは、山上の垂訓の価値を、インド駐留の英国総督に、次のように語っています。
「あなたの国とわたしの国が,この山上の垂訓の中でキリストが述べた教えについて意見の一致を見るならば,わたしたちの二国の問題のみならず全世界の問題をも解決することになるでしょう」(マハトマ・ガンジー)
他には、精神科医のジェームズ・T・フィッシャーは、現代の精神医学とイエスの教えを比較した結果、次のように語っています。
「最高の資格を持つ心理学者と精神病医がこれまでに書いた,精神衛生に関する権威ある論文すべてを集め,それを組み合わせて洗練し・・たとしても,それは,山上の垂訓の不器用で不完全な要約でしかないであろう。」です。
山上の垂訓の内容は、主に人間関係における黄金律と復讐(仕返し)してはならないです。
黄金律の聖書箇所は、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイの福音書7章12節)です。
イエスのこの教えは、黄金律とも言われる有名なものです。
この教えは、あらゆる人間関係において、普遍的に適用ができるからです。
復讐(仕返し)してはならないの聖書箇所は「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つならば、左の頬をも向けなさい。」(マタイの福音書5章39節)です。
この教えは、復讐することを戒める教えです。
暴力に対して暴力で返すことは、憎しみを増幅させる行為であり、根本的な解決策とはならない。
かつてガンジーが、非暴力によってインド独立を勝ち取った背景には、この教えの影響があったと言われています。
イエスの教えでそのほかの有名なものを上げますと、
・「放蕩息子」の例え(ルカに福音書15章11から32節)
放蕩した息子が父のもとに戻り、悔い改めることの重要性を示していますが、それはどのような子供でも、また、いつでも悔い改めれば父である神が受け入れてく出さることを表しています。。
・善いサマリア人(ルカの福音書10章25から30節)
隣人愛と永遠の命に関するたとえ話です。
解釈は、一つは、仁慈と憐みを必要とする者を誰彼問わず助けるように、愛するように命じられた教えであるとする(正教会、カトリック教会ほか)。
もう一つは、ユダヤ教的律法主義・キリスト教的律法主義の自己義認の誤りを論破するためのたとえ話であって博愛慈善の教えではないとする解釈です。
この解釈は「人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる」信仰義認の立場をとるプロテスタントが採るのですが、私は、「信仰によってのみ義とされる」とするプロテスタントの解釈であってもまことに信ずれば行いが伴うのは当たり前ですから、正教会等の解釈も理解できます。
信じていても行いが伴わないのはおかしいと思います。
だから神の憐れみ、無条件の許しが必要なのだと思います。・
・山上の垂訓 本文 (マタイの福音書5章、6章、7章)
有名なイエスの教えの箇所で、それでも特にマタイ5章3節から11節「幸い」は有名です。
解説は別の投稿文を参考にしてください。
<イエスの人格>
世の中には、どんなに良い言葉を語っていても、言行不一致で人格的に問題のある人間も多いと思いますが、イエスは言行一致の方です。
イエスの人格を表す重要な聖句を二か所取り上げます。。
〇イエスの弟子のリーダー格であったシモン・ペトロは、イエスと三年以上もの間、寝食を共にしました。
そのペトロが、イエスについて、以下のように語っています。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(第一ペトロ2章22から23節)
彼は三年以上もの間、ずっとイエスと寝食を共に一緒に行動をしていましたが、そのペトロがこのように言っているのです。
まさにイエスは、理想的な人格を備えた、言行一致の人間だったのです。
〇誰でも厳しい試練に遭った時に、その内にある本当の人格を見せるものですが、イエスは十字架上で、ご自分を十字架につけようとする人々に対し「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカの福音書23章34節)と言われました。
これは、イエスが十字架に架けられる際に、神への祈りの中で語った言葉です。
自分を処刑しょうとしている処刑人たちの罪が赦されるようにと、イエスは天の神に祈ったのです。
イエスは、死に至る程の厳しい試練の中でも、柔和で敵対者に対する憐れみを神に願ったのです。


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