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キリスト信仰について(後編)

目 次
第一章.キリスト教とは
<キリスト教とは>
<キリスト教の福音>
<神のまことを歩む>
<キリスト教の伝道>
第二章.黄金律
第三章.救い(福音)について
第四章.救いの条件
第五章.神との出会いの構図
第六章.キリスト教は不寛容か
第七章.キリスト教は外国の宗教
第八章.迫害の原因
第九章.キリスト教は信じるに値するのか
第十章.殉教者の信仰
第十一章.キリスト教と新興宗教

第十二章.聖書の言う生きるとは

<生きるとは>

<命の息>

<神の霊>

<生と死>

<生きた人間・死んだ人間>

<神の言葉>

 

本 文
第一章.キリスト教とは

<キリスト教とは>
信者でない方はなぜキリスト教は、あれだけ教派が分かれているのだろうか、なぜ聖書解釈がみんな違うのだろうか、と思われることがあると思います。
それで、いつものわたしの癖で、わたしなりにその理由を調べて一応納得しましたので、ここにまとめてみます。

 

イエス・キリストを信じた者は、いろいろな呼び方をされています。
たとえば、キリストに属する者とかキリストの民とかクリスチャンとかキリスト者とかキリスト教徒、神の子とかキリストの弟子とか・・・。

 

このようにいろいろと呼ばれていますが、べつにそれぞれ意味が違うわけではないと思います。
その共通するところは、約2000年前にこの世にこられたイエス・キリストの福音を信じて、御霊を受け、キリストとの交わりに入った者たちということでしょう。
このような人たちは、同じ信仰と希望に結ばれた民といえます。
わたしの知り合いのクリスチャンである姉妹も、わたしを人に紹介する場合は、わたしのことを信仰の友と紹介しています。
それでは、いろいろな呼び方をされているキリストに属する者についてもう少し考えてみたいと思います。

 

キリストに属する者の聖書解釈は実に多様だと思います。同じ聖書を信奉する者でも、現実を見ればわかるように、大きくはプロテスタントとカトリックに分かれており、プロテスタントの中には多くの宗派があり、単立教会も多くあります。
比べてみたわけではありませんが、各教派毎に聖書解釈が違うのは当たり前で、当然牧師個人間、信徒個人間でも聖書解釈が微妙に違うところがあると思います。

 

これだけ意見が分かれるということは、それだけ聖書解釈が多様性に富んでいるということだと思います。聖書とは、そのようなものだということです。

 

なぜ、聖書解釈が多様性に富むかと申しますと、聖書解釈は、聖書を読みまたは聞き、求める者個人の状態に合わせて聖霊が働かれ、解釈する知恵を聖霊からもらって読む者、聞く者が解釈するからだと思います。
大切なのは、御霊にあって聖書を読むと言うことだと思います。

 

なぜ違うかといいますと、信仰はあくまで神様とその人個人の問題だからです。もし、法律のようにすべての人が一つの教え、一つの解釈(教理)を絶対に守らなければいけないのでしたら、その教理は権威をもち一人歩きを始めてこの世を支配するものとなり、聖書よりも教理のほうが上になり、権威をもつようになります。
それこそ聖書の教えから離れてしまうことになるかもしれません。どこかにそのようなことを書いた本もありました。

 

そのような権威が悪く使われると、中世ヨーロッパであったように、たとえば免罪符のように、恐ろしいことになるかも知れません。 
聖書解釈は多様性があるからこそ意味があると思います。そこに聖霊が働かれる場があり、個人個人の神様との関係が(信仰が)尊重されることになるのだと思います。

 

そして、聖書そのものは人間が書いたもので、原本は無く、多数の写本が造られ、各国語に翻訳されていますので不完全ですが、そこに聖霊が働かれることのより完全なものになるのだと思います。

 

イエスは自分で書いたものは残されなかったし、誰かに自分の言葉を筆記させようともされませんでした。
もちろん、それには理由があって、自分がこの地上からいなくなった後にこの世に聖霊を送り、聖霊の働きに委ねられたからだと思います。
文字という人間の意思伝達手段だけでは、あらゆる個人の現実の問題に対応する場合、その役目を果たすには不十分なのでしょう。

 

聖書を見てみますと、神様はあくまで人間一人ひとりに語りかけておられます。集団に語り掛けられることはなかったと思います。
集団に語りかけられる場合でも、選ばれた個人を通して語りかけられました。

 

わたしは、人間が多様である如く、聖書解釈が多様性であるのは神様の御業と理解しております。
そういう意味で、その人の人生とか、信仰をもつことからくる責任はその人個人が持つべきものと思っています。
ただし、多様性に富んでいるから人間の持つ自己中心的性格によってゆがめられ悪用されることがあるのも事実です。

 

聖書は多様性に富んでいて、不完全なようでありますが、先に書いたように聖霊が働かれる中での解釈であれば、イエスの福音を伝えるという意味では完全だと思います。

 

それは、そうですね、たとえば聖書の一節を読んで人生を変えられた人が多くおられるのは事実だからです。
それは聖霊の働きによらなければ考えられません。

 

それでは、多数に分かれているキリスト教各宗派を共通する教えは何か、つまり、何をもってキリスト教徒と言えるのか、これを外したらキリスト教徒でないといえるものは何かが問題になります。
それは、まさしく、次節「キリスト教の福音」と第三章「救い(福音)について」に書きました「福音」を信じているかどうかだと思います。

 

なお、念のためですが、教会(エクレシア)という言葉がよく出てきますが、この教会は、教会の建物でもないし、信徒の数が何人以上ということでもないし、教会と名前が付いているからここでいう教会でもありません。

 

イエスは、二人または三人の信者がいれば、わたしはそこにいる(マタイの福音書18章20節)と言われていますからね。
イエスがおられる集まりが教会(エクレシア)だと思います。
御言葉が語られて、信仰により、聖霊によって聖徒が交わりをもっている場、群れとか集会を指していると解釈しています。

 

さて、キリスト信仰を個人の立場から見た場合、第三章の「福音」を信じる以外に何が必要かということになりますが、使徒パウロは、キリストに属するかどうかについて、「キリストの霊をもたない者はキリストに属していません。」(新約聖書ローマの信徒への手紙第8章9節)といっています。

 

つまり、聖霊によってキリストとの交わりの中に生きる者たちがキリストに属するのです。
聖徒の集まりに属しているから、教会に属しているから、キリスト教徒ではないのです。

 

それでは、キリストに属する者とそうでない者との区別はどのようにしてするのでしょうか。
キリスト教徒一人ひとりには聖霊が内住され、信徒同士は聖霊によって結ばれている者ですから、聖霊がもっている性質をその人が持つかどうかということになります。外からそれが分かるかどうかも問題ですが・・。

 

聖霊は、人を信仰に導き、キリストの復活をもって来世に希望を与え、神の愛を示します。そして、信仰者は聖霊の導きによってイエスに倣おうとします。そのような性質をもった人がパウロのいうキリストに属するものだと思います。

 

つまり、イエスの言葉を信じて聖霊を自分の内に向かい入れれば、当然その人はそういう雰囲気とか行動をする人間になるので、外から見ても分かるということですね。

 

そして、信仰をもっているかどうかの区別は、パウロは、新約聖書ローマの信徒への手紙第10章9節で、このように言っています。
「口でイエスが主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」。

 

マルコによる福音書第8章38節は、「わたしとわたしの言葉に恥じる者は、人の子もまた、・・その者を恥じる。」
第一コリントの信徒への手紙第12章3節は、「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主であると言えないのです。」

 

これらの聖句が伝えようとすることは、イエス・キリストを信じますと告白するということは、人間の決意や意思によってするのでなく、その人に内住する聖霊の働きを体験すれば、信仰と希望と愛が与えられてその喜びの余り自ずからキリストを告白したくなり、賛美したくなると言うことではないでしょうか。
キリスト信仰は、信じなければと努力して得られるものではないのです。

 

先に、聖霊の三つの性質のうち、「信仰告白」を取り上げましたが、ここからは、もう一つの聖霊の性質である復活について書きます。
復活というのは、いったん破滅した家庭とか国が、破滅した状態から再び立ち上がるとかをいうのではなく、神が自分を死者の中から復活させてくださるという来生への希望を言います。

 

これがイエスの言われる永遠の命をもつことだと思います。
これは来世で起きることのイエスの約束ですが、現実にはイエスが言われた時点で実現しているのです。
なぜなら、神の目から見ると時間は関係なく、神が言われたことは必ず実現するからです。言われた時点で実現したのと同じことなのです。

 

死者の復活なんて、普通の頭では信じられません。でも、キリストは十字架で死に三日後に死者の中から復活されたのです。これは歴史的事実です。
わたしも何度も間違いがないかと聖書を読み考えてみましたが、否定が出来ませんでした。

 

そしてイエスは、わたしを信じる者は、死んでも生きると言われたのです。
ヨハネの福音書11章25節「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」です。

 

わたしとおなじように、わたしが再びこの世に来た時に死者の中から復活させるといっておられるのです。
その証拠は、イエス自身が死者の中から復活されたと言う事実です。
それは、創造主である父なる神がなされたこと、父なる神にしかできないことだから信じなさいと言われているのです。

 

そのことを信じることが来生への希望です。
現状がどんなに不条理でも、もちろん幸せであってもです。来世での復活に希望をもってこの世を生きるのがキリスト教徒なのです。

 

もちろん、来世で復活すると言うことは、この世での人生がどんなに悲惨であっても清算されると言うことです。
それはこの世で悲惨な生活を送るのも神のみ業だからととらえるからです。

 

幸せな生活を送っている人も、それは自分の力ではなく神のみ業ですから、傲慢にならずに謙虚に、神様を第一に愛しながら、恵まれない人を愛しながら、人生を送りなさいと言うことだと思います。
人生を生きるうえで最も大切なことは、隣人を自分のように愛することです。(聖書の箇所は、マタイに福音書22章39節)

 

イエスは、そうすれば、来世には汚れのないきれいな体で復活させてあげると約束されているのです。
汚れがないと言うことは、そこは、ヨハネの黙示録第21章4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」のような場所なのです。

 

もし、このイエスの約束を信じることができたら、それはその人の中で聖霊が働いておられるということです。
信仰告白もイエスの復活を信じるのも、誰かのためではなく、強制されるのではなく、その人に内住した聖霊の働きによるということだと思います。

 

最後に聖霊の性質は、神の愛といえます。
人間は普通、肉親とか恋人とか、仲間の者、つまり自分にとって利益ある者、自分を愛してくれる者を愛しますが、敵を、自分の不利益になる者を愛することはできません。

 

新約聖書マタイによる福音書第5章44節に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とあります。
イエスは、困っている人、人の助けを求めている人を、つまり、「隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」ともいわれていますが、更に「敵をも愛しなさい」といわれました。

 

隣人を愛するのも、敵を愛するのも聖霊の働きなのです。
聖霊の働きがなければ、人間の本性に反することである自分の利益に反する者を愛せるわけがありません。その者のために祈れるわけがありません。
このことをイエスは、人間にはできなくても神には(神を信じたら)できると言われています。

 

これら三つの性質が、キリスト教徒とそうでない民を区別する基準だと思います。このように書きますと、キリスト教徒はそれらの戒めを全部実践しているのか、といわれそうですが、キリスト教徒もイエスを信じたからといってイエスの戒めがすべて守ることができるということではないのです。

 

キリスト教徒もこの世を生きる自己中心的性格を持った普通の人間ですから、罪も犯すし、人を憎みもします。
ただイエスの言葉、聖書を信じていますから、教えと自己の弱さという現実の中で葛藤しながら生きているのです。
イエスを信じる信仰も山あり谷ありです。キリスト者も良いことをしたいと思っても行動できない葛藤の中で生きているのです。

 

ローマの信徒への手紙7章18節でパウロも言っています。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」
なぜできないかは、それは原罪の問題であり、またこの世の支配者である悪魔の問題なのですがその説明は別の投稿文に譲り省略します。

 

わたしは、信仰というものは人生をかけて育むものと思っています。
聖書の言葉を心に抱き、留めて、聖霊の導きの中で、過ちを、罪を犯しながら、もちろん、その都度悔い改めながらでも少しずつ成長していくものだと思っています。

 

それでは、そのようにわざわざ重荷を負って生きるキリスト教徒の使命とは何でしょうか。それはひとえに世界の人々にあまねくイエス・キリストの「福音」を伝えることです。

 

それは、世界のすべての人々が神を知り、神の祝福を受けるようになるためです。そのためにキリストに属する者にイエスは次のように言っています。
マタイによる福音書第5章13節から16節「あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。

 

もはや、何の役にも立たず、・・。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のすべてを照らすのである。

 

そのようにあなた方の光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父があがめられるようになるためである。」

 

この「地の塩、世の光」というのはキリスト教徒のことです。
塩は、食物が腐るのを防ぐ防腐剤の役目を果たしています。調味料としても大切なものです。イエスは、あなたがたは地の塩にならなければならない、と言われています。

 

世は闇で、腐敗しています。けれども、あなたがたはその中で、希望を照らす光となり、世の腐敗を防ぐ、防腐剤として働きなさい。
あなたがたはそのように無くてはならない存在になりなさいということだとおもいます。

 

あなたがたがそのような存在でなければ、もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけだと言われています。

 

「世の光」からあとの聖句は、神とわたしたちの関係は、良い行いという形で現れてきます。
聖霊に導かれたあなた方の存在は、世の光であり希望です、光は、闇が支配するこの世の中では、隠れることは出来ません。むしろ暗闇を際立たせることとなります。悪い行いは良い行いに照らし出されることによって明らかにされるからです。

 

だから、あなたがたは、燭台の下に隠れていて何の意味があるか、わたしは「世の光」である、わたしを見習いなさい、といわれています。もちろん、この「世の光」の光は父である神の光のことです。

 

聖霊が働くところに従い世の人々の模範となりなさい。そうすればあなたがたがキリストの民であることを知り、世の人々はあなたがたを見習うようになる。それが父なる神の栄光をあらわすことになる、といわれています。

 

なぜイエスはこのようなことを言われたかを考えますと、その当時の弟子の中にもいろいろな弟子がおり、つまり、イエスをキリストと言い表し、イエスの弟子のように振る舞いながら、自分に都合のよい限度内でしかイエスに従っていない人がいたのだと思います。

 

そのような人は、イエスを信じていると言いながら、結局自分の利益を求めているだけで、自分を捨ててイエスに従う者ではない。
そのような弟子は塩気を失った塩で、人類の歴史の中で進められる神の業のために何の役にも立たず、神の支配の外に投げ捨てられるだけであるといわれているのだと思います。

 

先に救われた者(先にイエスを信じた者は)は、先に救われる必要があって神の恵みにより救われたのだから、その役目を果たせないのなら救いの働きの中から外されるのは仕方ありません。

 

イエスの教えを身近で聞いていた弟子たちも、イエスの十字架を前にして、巻き添えを食うのを恐れて、みなイエスを見捨てて故郷へ逃げ帰りました。

 

イエスの復活を現実に目で見て、聖霊を体験してはじめて、弟子たちは故郷を捨てて死に至るまでイエスに従うことができるようになりました。
これが人間の現実です。聖霊の働きがなければ、人の信念とか決意では何もできないのです。

 

このようにイエスが求められているキリスト教徒の生き方は、何と厳しい人生でしょうか。身がすくんでしまいます。誰でもこのようなしんどい人生は送りたくはありません。

 

キリスト教を信じると言うことはなんとしんどいことかと思われる方もおられると思います。
でも、そのしんどい人生を自ら選らんだ人が世界人口の三分の一以上おられるのです。この2000年間でどれほどの人が信じたか数えきれません。これは現実です。

 

それは、しんどい人生を自ら選ぶためにキリストを信じると言うことは、喜びであり、祝福であり、いやこの世の真理に出会ったということだと思います。人は真理に出会えば変えられるのです。
そこには何事にも変えられない喜びがあるのです。平安があるのです。

 

わたしもキリスト教徒のはしくれですが、ささやかながらその喜びを体験しています。
マタイの福音書第13章44節「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」ということです。

 

模範にはなれないけれどもせめて未信者の方の非難の対象にならない存在でありたいと思います。
そのために、わたしの内で聖霊が働かれて、わたしを導いてくださるように神に祈っています。

 

いろいろとキリスト教を信じると言うことについて書いてきましたが、わたしが思うところ、キリスト教は、生涯をかけて信じても決して後悔しないと思っています。
信じてみる価値が十分にあると思います。現世を生きていく上においても、その人生は、キリスト教を知らない人生よりも確信に満ちた、豊かな人生を送れると信じています。

 

<キリスト教の福音>
「福音」とは何かについて考えてみたいと思います。
その前に、キリスト教の「罪」について書いておきます。
わたしたちを罪の中から救済するとはどういうことかと言いますと、わたしたちは神に造られた存在です。だからわたしたちは造られた計画のもとに生きることが求められます。
ところが今のわたしたちはその神から離れて自分勝手に生きているのです。

 

それは明らかに神にとって人間は罪の中にあるわけです。
わたしたちの周りに起こっている悪いことは全てそこから派生して生まれていると言えます。

 

そういう異常な状態にある神と人間の状態を正常な状態にするための神は御子イエスをこの世に遣わされたのです。
福音とは、そのために神が一方的にご計画されている人類救済のためのみ業と言えます。

 

それでは、福音について使徒パウロの言葉を借りて考えてみたいと思います。使徒パウロは福音を次のように言っています。
ローマの信徒への手紙 第1章16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 

使徒パウロによると、福音を一言で言えば「救いをもたらす神の力」だと言っているのです。
その力は、「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」(マタイの福音書第19章26節)とある何でもできる神の力です。

 

福音は別名良き知らせとも言います。良き知らせを一言で言えば、一人のユダヤ人であるナザレに生まれたイエスが主キリストであり、世界の救済者であると告知する事、それが事実ならば我々人間にとってはとても良い知らせと言えます。

 

その良き知らせを持ってきたイエスは、ローマ総督によって十字架刑で処刑されたイスラエルのナザレの大工の息子にすぎません。
そのような者を主であるとか世界の救済者であるとすることは、神のみ業を信じていない人にとっては愚かなことです。

 

その愚かなことを、なぜ使徒パウロは恥とせず、命をかけて世界に向かって告白するのか。
それは、「福音は救いに至らせる神の力である」という御言葉が働く場の力の現実を身をもって体験していたからと言えます。
それは、生涯をかけて、命をかけて世界に告白するだけの価値があることなのです。
 
キリスト教が、今日まで生き残ったのは使徒パウロのような信仰者が次から次と生まれて、その信仰が引き継がれたからと言えます。
もちろん、そこには神の霊、聖霊の働きがあります。

 

神の言葉、つまり、イエス.キリストの言葉であり聖書の言葉には神の思いが込められています。
神の思いは、それを信じて聞く者に影響を与えて変容させる現実の力といえます。

 

よく聞くのが、聖書の一節を読んでキリストを信じ、人生が変わったという人が多くおられるのも事実です。
すごいでしょう。目に見えない力がイエスの言葉に働いているのです。

 

福音は神の働きと言いましたが、どういう働きかといいますと、人を罪の中から救いあげる方向に導く働きと言えます。
その働きは、「すべて信じる者に」ですから、信じる者がいる場に働くのです。

 

その救いの力は、外から働くのではなく、信じる者の中で働いて、人を造り変え、新しい別の姿へと変容させ、救いに至らせるのです。
そう、新しい人類の誕生なのです。

 

そして、その力の源は、神の霊(第二コリントの信徒への手紙3章18節)といえます。
福音の言葉がこのように信じる者の内に働いて変容させる神の力となるのは、福音を信じる者に神の御霊、聖霊がもたらす結果だといえます。

 

人々に救いをもたらす神の力、「なんでもできる」と言われる神の力は、イエス・キリストを信じる全ての人々を救いに至らせる力です。

 

救いの完成は将来のことですが、救いのみ業は未来の出来事ではなく、イエスご生誕の時からすでに始まっています。
そして、この働きは、全能の神の約束ですから必ず成るのです。だから約束された時点で既に成ったのと同じなのです。

 

現在すでに「救いに至らせる」神の力、救いに向かう聖霊の働きがキリストを信じる者の中で始まっているので、わたしたちは現実に救いへの過程にあるといえます。

 

そして、救いの力が働いて現在それを体験している人がいるからこそ、時間の中で生きるわたしたちも救いを確実に到来する未来として待ち望むことができとも言えます。

 

このように、聖書の神はわたしたちの内で常に働いておられる神です。
どこか遠いところで鎮座しておられる神ではないのです。神は人間の歴史の中に働く、霊であり、創造であり、出来事なのです。

 

人を救いにいたらせる神の力は、物理的な力ではなく、言葉によって働く霊的・人格的な力となります。
人格的なですから、その言葉を信じる者にのみ働く力となります。
その力が働くのは、イエス・キリストの言葉を信じる場(使徒パウロはそのことを「キリストにあって」と表現しています。)においてのみなのです。

 

わたしたちは神に創造された存在ですから、その神から離反している状態は創造者神に対し罪にある状態です。
その神との断絶を克服して救いに至らせるために愛である神は御子イエスをこの世におくり十字架にかけてわたしたちすべての人間の罪を一方的に無条件で許されたのです。

 

したがって、今度はわたしたちが神の方を向く必要があるのです。人間が神を信じていなければ神はその人に働き掛けることができないのは当たり前です。
そして、神は決して人間の心を強引に自分の方に向かせようとはされません。

 

あくまで信仰は自由意志です。神は忍耐を持ってわたしたちがご自分の方を向くのを、働き掛けながら待っておられると思うのです。

 

神の力の働きを受けるのは、何ら条件はなく、つまり、どの民族、どの宗教、男女の別、教養も文化程度も問いません。それを「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、」と表現しているのでしょう。「ギリシア人にも」と言うのはユダヤ人から見てユダヤ人以外の民、つまり、異邦の民すべてをさします。

 

神の民イスラエルの歩みを見てみますと、神は人類救済のために、まずイスラエルの先祖アブラハムとその子孫をご自分の民として選ばれ(創世記12章1節から3節)、モーセをはじめ預言者たちを通して語りかけ、言葉によって働いてこられました。

 

そして、預言者によって預言されていた「終わりの日」に、ナザレのイエスを十字架につけ、死者の中から復活させキリストとしてお立てになりました。同時にナザレのイエスが神の子であることを示されました。

 

アダムの子孫であるわたしたちは生まれながらの本性(自己中心性)に従って生きている古い人間です。キリストにある人間は、アダムにある罪と死から解放され、御霊と共に生きる新しい人間です。

 

古い人間は、神の前にも自己を主張しょうとする。自己主張で救われようとすることは、自分の基準による行いで神との本来の関係に入ろうとすることです。罪を赦し救いに導くのは人間の能力とか努力ではなく創造主である神がなされることです。

 

キリストにある、という場では神がキリストを通して働かれるのであり、キリストが神の働きを働かれるのです(ヨハネの福音書10章30節)。
神がキリストを通して働かれる。人間はその働きを受け入れるだけです。受け入れる人間の資格は一切問われません。

 

わたしたちは、ただキリストにおける父なる神の恩恵にすがるだけです。
律法(法律とか戒め)は行いを裁くのですが、人の行いはその人の能力とか生まれた環境とか努力にかかわりますから、行いによる裁きは不公平が生みます。

 

だから、キリスト教は信仰によって救われるのです。
パウロは、人が義とされるのは、律法(行ない)によるのではなく信仰による(ローマの信徒への手紙3章28節)と言っています。

 

もちろん、信仰とは、約2000年前にイスラエルのナザレで生まれた大工の息子イエスがキリストであると信じることです。

 

信仰によってのみ救われると使徒パウロは言っていますが、よく考えると、信仰とは信じ委ねることですから、行いが必ず伴うのです。

 

そうでしょう、信じていますと言いながら反対のことをしていたら信じていると言えるのでしょうか。言えないと思います。
やはり、信じているならば信じている方の教えを忠実に守る、あるいはそのために努力が必要と思うのです。しかし、キリスト教は他力本願で、自己努力は必要ないのです。

 

その、信仰と行いを導いて下さるのが聖霊だと言えます。そういう意味では、信仰のみで救われるというのは正解ですね。
キリストの働きは、実際には聖霊の働きとして現れます。

 

したがって、キリストにあってという場で働かれるキリストを聖霊と呼ぶのが正しいと思います。神がキリストを通して聖霊によって働かれるのです。信仰も行いも聖霊の働きに委ねなさいということだと思うのです。

 

そのために必要なことは、イエスの言葉を信じ、読み・聞き心に留めておくことだと思うのです。
キリストを告知する福音を受け入れ、キリストに自分の全てを投げ入れて委ねるものは、そのキリストに結ばれることによって聖霊が働かれて救いに至る。そのことを信じるのがキリスト信仰と言えます。

 

福音を受け入れてキリストにあるという立場に入るとき、その場に働くキリストの働きを受けて、今までの自分とは違う別のわたしが生まれる。
この出来事を聖書は新生と呼んでいます(ヨハネの福音書3章3節)。

 

生まれながらの古い命とは別のいのちが新しく生まれ出る。その新しい命は、死んでも生きると言われた命です(ヨハネの福音書11章25節)。その命を永遠の命と呼んでいます。

 

わたしたちを創造された神は忍耐の神です。愛の神です。必ずや過去・現在・未来のすべての人々が救われるまで福音の活動は終わらないとわたしは信じます。

 

<神のまことを歩む>
わたしが聖書に出会ったのは、たしか二十歳くらいの時ですが、本当に読み始めたのは五十過ぎでした。もう人生も後半になって、聖書を読み始めたのです。

 

それまでは、宗教には全く無縁な、毒にも薬のもならない、どちらかというとわが道を行く、自分の生き方にこだわる自己中のサラリーマンでした。

 

聖書を読み始めてからもう三十年近くになります。聖書を読んでいて、御言葉に聖霊が働かれているという不思議な体験、その体験により、生きとし生けるものの命の一体感と命は輝くものだということを知りました。
そして、キリスト教のことがもっと知りたいという強い思いに惹かれました。

 

しかし今から考えると、出会ったのが聖書でよかったとつくづく思います。
ほかの宗教なら、けっしてこうはなっていないでしょう。

 

なぜなら、キリスト教は、他力本願なのですから。神様は人間に何も期待されていない。
ただ、わたしを愛し、つまりわたしのほうを向きなさいと言っておられるだけなのです。
そうすれば、わたしはあなたを変え、永遠の命を与えると言っておられるのです。

 

キリスト教は、ほかの宗教のように、欲望を捨てよとは言わないし、修業を積めとも言わないし、人間には何も努力は求めていないのです。
キリスト教では、人間の欲望は人間の原罪であるとして、イエスの十字架で神様の一方的な恵みにより贖われました。

 

だから、罪を赦されるための人間の修業は求めておられません。良心の呵責にさいなまれたら神様に赦しを請えばよいのです。
もともと罪は、人間の努力ではどうにもならないことだからです。

 

ただ、わたしを愛しなさい、そうすれば他の事はすべてなると言っておられるだけなのです。
イエスは、隣人を愛することどころか敵をも愛せるようになると言っておられるのです。

 

わたしがキリスト教に惹かれたのは、それらのことと、神様、いわゆる創造主の存在論がしっかりしていて、それが理論的で矛盾がなく何千年という人類の歴史に裏付けられているのです。これはすごいことです。

 

聖書のことを知りたいと思い、寝ても起きても御言葉のことを考えて、こうして努力していると、信仰とは努力するものだと勘違いしそうです。
自分の意志の力でやっているのだと思ってしまいます。

 

あるキリスト教宗教学者の論文に、このようなことが書いてありました。
「わたしが自覚していようが自覚していなかろうがわたしを動かしているのは神様である」です。

 

聖書を読んでいて、教会に通っていてわたしはいつも思っていました。
自分の信仰のなさを、どうすれば皆のように信仰深くなれるのか、これでもクリスチャンと言えるのだろうか、と。

 

でも、その言葉を知り、もうわたしは信仰が未熟なことを何も負担に思うことはないのだと思いました。
わたしがここにこうしているのも、こうして聖書を読んでいるのも、こうしてブログ投稿文を書いているのも、すべて神様はご存知で、神様が許されていることですから、それに素直に従っていればよいのです。
努力の足りなさを、信仰の足りなさを恥ずかしく思う必要もない。

 

頑張らなくても神様の言葉に聞きしたがっていればよいのです。神様がわたしを導かれていると、信じていればよいのです。神様は、聖書の御言葉を通じて、あるいは潜在意識に、良心に働かれると思いますので、自分の行いが、それらと矛盾しない限り、神様の御心と思います。

 

そうでしょう、聖書を読むことも、理解することも、それにより信仰をもつこともすべて神様からくるのですから。
神様は働かれなかったら、信仰も持てないのですから、自分の信仰が未熟だとかどうすれば神様を知ることができるのだとかもう考えないようにしました。委ねていればなんとかしてくださる。

 

わたしが五十過ぎにして聖書に出会ったのも、聖書を読み始めたのも、それがもう十数年続いている。
御心でないならばこんなに長く続きません。読もうと思う思いも起こりません。そのように考えればわたしの気持はずっと楽になりました。
なにも無理しなくてもいいのだ。

 

あとは神様が導いてくださる。そして、わたしがやってきたことをすべて益(何事も、この世で起こることに無駄なことはなく、活用して善に変えるとか祝福してくださること。)としてくださる。そういうことを信じる信仰も信仰です。

 

残された人生を、わたしを求めて歩きなさい、と言われているようです。自然体でいたらいいのですね、何も気負う必要はありません。
いま、わたしの身に起こっていることが、すべて御心ならば何も心配することはない。きっと、神様は悪いようにはなさらない。

 

何も力まなくても、何も頑張らなくてもじっと神様の心を聞きながら黙々とやるべきことをやっていればよい。
ただ若い時にキリストを知った人と私のように人生の後半になってキリストを知った者との違いは、一つ言えることは、若い時にキリストを知った人は、純粋な信仰を持っておられるようです。

 

私のように人生の後半になってキリスト信仰に入った者は、わたしも含めて理論的に、理屈でキリストを知ろうとするところが強いように思います。

 

神様はわたしを支配されています。それを信じるならば、わたしに起こるすべてのことに、アーメンと言えるはずです。
アーメンと唱えるとき、それは「神様、あなたまことに真実な方です。あなたの言葉はそのまま事実です」と言っていることになります。心の底から、そのように言えるようになれればいいなと思います。

 

神様の導きにゆだねて、人生を歩くときは、すべてがアーメンといえるようになれるのでしょう。
そうしていると、聖霊が働かれて、神を信じるというあり方が、頭の中の問題でなく、命の現実になるということを保証してくださる。

 

信じる者には、罪の赦しをあたえ、聖霊を与えると約束されています。
イエスはいわれた、「天地は過ぎゆくであろう。しかしわたしの言葉は、過ぎゆくことはない」。天地の存在よりも神の言葉のほうが確かです。

 

参考聖句、ヨハネによる福音書第6章29節「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 

人間が神に受け入れられ、神からの恵みを受けるために必要なものはただ一つ。信じることだけです。具体的には、神がご自身を啓示するために、この世に遣わされた方の言葉を信じることだけだということ。

 

わたしたちは多くのことに心を砕き、ついこの根本原理を忘れがちになります。信じることが神の業。神はそのために、イエスをこの世に送り奇跡を見せ、イエスを十字架に架け、復活させ、聖霊をこの世に遣わされました。

 

<キリスト教の伝道>
キリスト教の伝道とは、ほかの新興宗教のように自分の主張を世に知らせるために、いわゆる教祖と言われる人の人徳とかカリスマ性などをもって人を変え、大きな影響を与え、それによって信徒をつくるということではありません。

 

キリスト教の伝道とは、救い主イエス・キリストとの出会いの喜びの体験を世に証することなのです。
イエス・キリストとの出会いとは、イエスの約束の言葉、すなわち聖書の言葉を信じ、聖霊を受け入れることなのです。

 

この聖霊の働きが欠かせないのです。聖霊は目には見えませんが、外国であれ日本であれ殉教したキリスト教徒の歴史を調べると聖霊が存在し働かれていることを認めずには理解できません。

 

つまり他の宗教は人間が主役ですがキリスト教は聖霊が主役なのです。聖霊はイエスの意志を引き継いでイエスの約束の言葉を広めるために今も働かれているのです。

 

神の前に自分が罪びとであることを認めて、その罪がイエスの十字架上の死で贖われたこと、三日後に復活したこと、その復活はイエスが神の子であること、イエスが死に打ち勝ったことを現し、それはイエスに倣う者を次の世で復活させてくださることの約束であるということを信じることなのです。これらのことを証するために聖書があるのです。

 

キリスト教の伝道は、その救い主イエスの言行が真理であることを知った喜びの体験を世に紹介し、それによって、イエスの信者・弟子を作ることなのです。

 

つまり伝道という行為は、自分の主張の表明ではなく、神から受けた恵みを、真理を知った喜びを体験し、体験した喜びを表白せざるを得なくなる、皆に同じ恵みを、また、真理を知って欲しいと思う心の底からこみ上げる欲求、その結果としての行為ということなのです。

 

だから、宣教師は、どのような患難辛苦があろうとも必要なところへ命をかけて突き進んでいくのです。
クリスチャンは自分の罪が赦されたこと、イエスに出会い恵みを受けた喜びを証するのです。だから教会ではクリスチャンの救われた体験の証しが大事にされます。

 

わたしなど、自分の罪を本当の意味で知るまでに十年もかかりました。イエスとの出会いの喜びとかイエスの言葉が真理かもという強い思いは洗礼を受ける前に与えられました。
その出会いが余りに強烈だったので十年以上もたった現在の聖書研究とかブログ投稿につながっているのです。

 

洗礼を受けてから信仰を持つのに十年もかかったという人もいます。聖書に疑問をもち研究を始めたが捉われてしまって信仰を持ったという人もいます。
信仰を持つというのは、こうあらねばならないというものではないと思うのです。信仰に入るのに色々な形があっても良いと思います。

 

神様がその人にとって最善の出会いのときを用意して下さっていると信じるのも信仰です。イエスのことをもっと知りたいと思った時、既に信仰生活の入り口に立っているのだと思います。

 

イエスの言葉が信頼できると思い、信じていこう、イエスの教えを守ろうと決心しても、人間はこの世に生きている限り自己中心的な性質から逃れるわけではなく、名誉とか権力とか財産などこの世で価値ある物の誘惑から免れえません。それに肉体を持つゆえの弱さからも免れられません。

 

人間は今のような世の中で、それらの影響を排除してイエスの教えを守っていけるほど強くはありません。
雑念は仏教では修業をして、自分の肉体をいじめて克服すると聞いていますが、本性が自己中心的という罪を持つ人間にはそのようなことでは克服できないと思います。

 

信仰生活は、山あり谷ありと聞きます。そう言う意味では、信仰は生涯をかけて育むものなのだと思います。そのスピードも人それぞれです。
若い時にイエスを信じ信仰を持ち世間のことに惑わされ一時的に信仰生活から遠ざかっても再びイエスの戻ってきた人など沢山います。

 

わたしは、この世を去る間際に確信を持てれば十分だと思っています。
伝道する人は、イエスの御言葉を伝えるだけで決して信仰を強制しません。イエスの御言葉(聖書の言葉)を伝えるだけなのです。その伝えたイエスの御言葉を受け入れるか否かはその人次第、あくまで個人の自由意志だということです。

 

その人がいったん自由意志でイエスの御言葉を信じようと決心したら、あとは神の霊、聖霊が働いてその人を信仰に導いてくださるということです。
次にキリスト教がどのように広まったか、布教の面から見てみますと、イエス自身はキリスト教の布教において、生涯何も為されませんでした。

 

反対にキリスト教以外の古代の宗教創始者たちは偉大な人類の教師たちであるといえます。彼らはある特定の瞬間から自分が何らかの方法で悟った教えを伝え始め、そして、彼らの教師としての教えは大きな力をもって人類に働きかけました。

 

最初は教祖という人間が、あとはその教えをもって弟子が働きかけました。教えは道徳的であり、時代により変わることもありました。
仏教のように哲学のようにもなりました。

 

ところが、キリスト教は、イエスも最初は弟子に教えを語られましたが、そのとき弟子は誰もその教えの真理を理解できませんでした。
その教えの内容が余りにも想像を絶する内容であったからです。
イエスのなされた奇跡もそのときは大衆に大きな影響を与えましたが長くは続きませんでした。

 

三年間の公生涯の後イエスは時の権力者から恐れられて十字架に架けられて死にました。政治活動をしたとか、軍隊を率いて政府の転覆を謀ったとかそのようなことはなにもされていないのに時の権力者はイエスを恐れたのです。

 

イエスと面会したローマ帝国のイスラエルの統治者ピラトは、「いきなり私の足は何か重いものによって大理石の床に張り付けられたように全然動けなくなってしまったのです。そのナザレの青年はただだまって立っていたのですが、私はまるで刑事犯のように手足が震えたのです。」という言葉を残しています。

 

人間の罪の贖いのために十字架に架けられ死に、復活し、四十日間弟子たちの前に現われて天にのぼり、助け主であるイエスの復活の御霊、聖霊が弟子に降ることによって、はじめて弟子はイエスが生前に語られた教えの真理を理解できました。

 

イエスの死からの復活を体験して迫害にも負けずに伝道する力を得たのだと思います。
古代教会の伝道は、イエスの教えの言葉というよりも、イエスの十字架死と、復活が主であったと思います。
それほどイエスの復活というものが当時の弟子たちに強烈であったのだと思います。もちろん、このときには、まだ新約聖書はできていません。

 

生前にイエスが語られたいろいろな教えは、そのときのための準備でした。弟子がその教えの真理を理解していようがいまいがイエスは教えられたのです。

 

だからイエスの十字架による死と、イエスの復活と聖霊の降臨がなければキリスト教は無かったと思います。教えだけなら、キリスト教は道徳教となり既に消えていたと思います。驚くべきことに、イエスはそれらの出来事を生前に予告されてもいました。

 

ということは、キリスト教の伝播は、第一義的には、イエスの教えではなく、その行い(十字架による死と復活)を通して働きかけられたということです。そして、地上にいたイエスの最も偉大な行いはそれで終りました。
またそれがすべてでした。これが最も重要な点であると思います。

 

そして、この行為についての知識が世間に広まり始めたとき、イエスはもはや物理的にはこの世に存在していません。ここからキリスト教の伝播が始まりました。これが他の偉大な宗教創始者たちとの根本的な違いであると思います。
キリスト教の教えのすべては聖書に記されています。
またその教えのある部分は、特に道徳に通じる箇所については他の宗教の教えの中にも見いだすことができます。

 

さて、キリスト教を広めるために最も多くの功績を残した使徒パウロという人物は、その教えに頼ったのでしょうか。彼がイエスを信じる者にたいする迫害者からイエスの弟子に変えられたのは、イエスの教えを聞いたからでありましょうか。

 

そうではなく、彼は、イエスが十字架で死んだ後しばらくしてから、復活のイエスと出会い、今でもイエスは「生きている」という霊的体験、彼自身が個人的な神秘体験をし、確信を持ちました。その瞬間、信仰を持ちイエスの弟子に変えられたのです。

 

そうです、生前のイエスでなく復活のイエスとのパウロの出会いこそ、わたしたちがイエスと出会う体験をはじめにした人なのです。
イエスの教えを真に理解するためには、まず自由意志で自発的にキリストを信じようとまず決断しなければならないと思います。

 

そして、聖霊の力を借りなければなりません。イエスの教えは、最初からはなかなか信じられないし分からないのは当たり前だと思います。それほどその教えは想像を絶する内容なのです。

 

自発的に自らイエス・キリストを信じようと決心した結果として、その人自らの内に聖霊が入り、単なる教えが神的力を得て、真理として理解でき、信じることができるようになる。

 

自由意志を持ってイエス・キリストを受け入れることを決断しない人は、誰もイエスの御言葉を理解できないし、受け入れることができない。聖霊はそのような人には働かれません。

 

このようなことが、人間にとって可能になったのはイエス・キリストが地上で人間となり、十字架にかけられ死に、復活し、天に上られその代わりに助け主聖霊がこの世に降ったからだといえます。聖霊は、今でもこの地球上に偏在されています。そのうちどれが欠けてもキリスト教はなかったといえます。

 

それら一つ一つの出来事は、信じられない不思議な出来事ですが、歴史上事実として、いや否定できない事実とされています。
また、神はキリスト教を広めるために、伝道という誠に人間的な方法を取られたのもその必要があってのことだと思います。

 

伝道と言う行為は、罪を犯した人間の責任であり努めだといえます。
なぜなら、人間は、自分の意志で神から離れて罪人となったのですから、人間は、まず自ずから神に救いを求めるべきであり、その努力は人間が自ずからするべきであるということです。
それは人間の自由意思を尊重されていることからも明らかです。

 

神は、まず人間が自分の方を向かなければ、きっと人間を罪から救いに導くことができないのであろうと思います。
それは神が人間に信仰を要求なさった理由も同様であると思います。
だから神は人間に、強制的に自分のほうを向くように、あるいは信仰を決して強制されません。

 

これについては、内村鑑三先生の言葉に適切なものがあります。
「神は己に関する人の詮索を恐れて彼から信仰を要求なさるのではない。至誠なる彼は人が至誠をもって彼に近づくのでなければ、その人を恵むことができないからである。

 

神と人との関係は父と子の関係である。
そして父子の関係は世のいわゆる研究的態度ではない。愛を基盤にした相互的信頼である。
すなわち、子の側からは父に対する信仰である。懐疑という他人行儀をもって己に対する子に対しては、父は教えようとしても教えることができない。恵もうとしても恵むことができない」。

 

創造主が人間を造るとき、人間がテレビを造るのと同じようにその意味と目的を持って造られました。人間が自分の子供を愛するように、創造主が被造物である人間を愛するには当たり前で、放蕩三昧の人間に、自分の方を向いて教えた通りの人生を歩んでほしいと思うのは当たり前だと思います。

 

創造主である神が、人間の歴史に関与され、人間を、犯した罪から何とか救おうと思われるのも当たり前だと思います。
まさにイエスは神と一体となった最初の人間でありましたが、イエスを信じる信徒もイエスと一体となる事により神と一体となりました。その三者をつなぐものが御言葉の共有ということになります。御言葉は聖霊が働かれる場であり媒体です。

 

ここに初めて父と子の愛を基盤にした相互信頼関係が生まれ、父なる神の力の業がイエスおよび弟子の行う奇跡となりしるしとなります。これがキリスト教であります。凄い宗教です、いや宗教ではなくて、この世の真理でしょうか。 

 

第二章.黄金律
次の聖句は、いわゆる「黄金律」といわれています。
もちろん、この黄金律はキリスト信仰の根幹をなす戒ですから、取り上げました。

 

聖書の箇所は、ルカの福音書第6章31節「人にしてもらいたいと思うことを、人にも(同じように)しなさい。」。
マタイの福音書第7章12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも(そのとおりに)人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」です。

 

この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という命令の言葉は、人間の倫理的規範のすべてを要約する原理として、「黄金律」と呼ばれています。
辞書で黄金律を調べてみますと、「黄金律」(おうごんりつ)は、多くの宗教、道徳また哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。

 

現代の欧米において「黄金律」という時、一般にイエス・キリストの「為せ」という能動的なルールを指す。」と書かれていました。

 

例示として次のようにあげられています。
○イエス・キリスト:「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイの福音書第7章12節)
○孔子:「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語巻第8衛霊公第15 24)
○ユダヤ教「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ダビデの末裔を称したフアリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)。
「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(トビト記第4章15節)
○ヒンドウ教「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』5:15:17)
○イスラム教「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)

 

マタイの福音書第7章12節は、いわゆる山上の垂訓に中の一節です。
「黄金律」と言うのは、いわゆるキリスト教だけにあるわけではないのです。
「黄金律」は古代インド思想、中国の儒教、古代ギリシア文学にもあるということですが、あらゆる世界の思想にそのような共通した教えがあるというのは、進化論の考えでしたら、そのようなことにはならないと思うのです。
創造神が背景におられるとしか思われません。

 

ただ、新約聖書以外では圧倒的に、「人からされたくないことを、人にするな」という否定の形で述べたものが多いですね。
古代ギリシア文学にもあると書きましたのは、調べてみると、旧約聖書のレビ記第19章18節にも「・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という戒めの言葉があります。

 

これは、ヘレニズム時代にギリシアの知恵と合流して、律法全体を要約する言葉としてこの黄金律がマタイの福音書に採用されたのではと言われています。
まさしく、創造神の知恵がここに現れているのだと思います。

 

わたしは創造神の知恵は人類全体に、いや宇宙、自然界全体に働いていると思うのです。だから黄金律以外でも、すなわちこの世界の物理法則とか化学法則から動植物の遺伝子に至るまで統一されているのです。

 

ただ宗教は人間の目線から神を崇める行為ですから、いろいろな宗教があり、その宗教により受け取りかたが違うのはありえます。
しかし、背景には唯一の真の神、聖書の神おられ、その創造神の働きがイスラエル民族においては全人類救済の神の働きとなったのではないかと思うのです。

 

イエスは、律法の専門家の「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイの福音書第22章36節)という質問に対し、マタイによる福音書第22章37節・38節・39節で次のように答えられています。

 

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えられました。

 

この聖句の、「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの言葉も、レビ記第19章18節の言葉「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の言葉も、頭書に書いたマタイの福音書第7章12節のいわゆる黄金律と同じことを言っていると思います。少し変形させただけのように思うのです。
この「自分のように」というのは、「自分に対するときのように無条件で」と解釈したいと思います。

 

人間は、人に悪いことをしていても、自分には良いことをしてほしいものです。そのように自分に良いことをしてほしいと求めるならば、自分に悪いことをする人にも、自分に対するように人に良いことをしなさい。それが、黄金律が求めることではないでしょうか。

 

マタイの福音書は、おもにユダヤ人に向かって書かれていますから、イエスの教えがモーセ律法と預言者に代表されるイスラエルの宗教を成就完成するものであることを強く主張しています。

 

だから、黄金律の後に旧約聖書を代表する言葉である「・・これこそ律法と預言者である。」を入れたのでしょう。

 

マタイの福音書第5章17節の「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」の通りです。
マタイの福音書の山上の垂訓の中の「敵を愛しなさい」は更に厳しい戒めですが、黄金律を徹底したものとして捉えたいと思います。

 

イエスにおいて人間相互の愛が、隣人愛から敵を愛する愛に拡大されました。
敵を愛することなど、とても人間業ではできないことですが、神が支配される場ではできるのです。

 

神の国はイエスが来られた時からすでに始まっているのですが、未完成の状態で現在進行中です。
その進行はわたしたちの目には遅すぎてよくわかりませんが、かならず実現するのです。
人類の歴史を見れば、殺戮と戦争の歴史です。
「敵を愛しなさい」どころか、黄金律を守ることすら考えられません。

 

でも、イエスが明らかにされた唯一の創造神を愛するならば、そこに希望があります。創造神のおられないところには希望はありません。
その神は、聖書が告知する神だけです。

 

第三章.救い(福音)について
教会に行くと「救い」という言葉をよく聞くと思います。その「救い」について考えて見たいと思います。最初に、救いとはどういうことかをまとめてみます。

 

約2000年前に、イエス・キリストは罪人(過去・現在・未来の全人類)を救うためにこの世に来られました。
そして、イエスはその罪を贖うために自ら生贄となり十字架にかかり死にました。それは神の絶対無条件の愛の現れでした。

 

イエスはご自分の言葉を信じる者に永遠の命と天国への道を約束されました。なお、この「永遠の命」というのは、単純に永遠という時間を指しているのではないと思います。

 

天国も陰府も被造世界であることは間違いありません。。それに永遠の存在は神様のみだと思いますから、その辺は言ってみなければわかりません。
永遠の存在である神様と共に生きる世界を「永遠の命」と表現しているのかもしれません。

 

聖書には、わたしたちには、新約聖書ヘブライ人への手紙第9章27節に「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」とありますが、イエスの御言葉を信じる者には、その裁きを免除して下さいました。

 

「イエスは答えていわれた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」(新約聖書ヨハネによる福音書第3章3節)

 

「神の国」とは天国のこと。「新しく生まれる」とは、キリストを受け入れる、イエスの約束の言葉を信じることを意味します。
キリストを受け入れるには、神に対して罪を悔いあらためて、イエスがわたしたちの罪を贖うためにわたしたちの代わりに生贄として十字架にかかってくださったことを信じ、そのイエスの約束の言葉を受け入れて心にとどめてこの世を生きることです。

 

もし救いの確信を持てれば、次の世に希望をもってこの世を生きることが出来ます。この世を生きるのに意味が見出せます。
聖書はそのように教えています。

 

救いには、行いは不要です。エフェソの信徒への手紙第2章8節、「事実、あなた方は恵みによって、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」とあります。

 

社長になったとか、総理大臣になったとか、日本一の金持ちになったとか、東大に入ったとかは関係ないのです。
もちろん、教会に休まずいったとか、献金をしたとか、伝道に励んだとか、毎日休まず奉仕をしたことも関係ありません。
また救いの確信は、感情とか感じによって判断するものでもありません。

 

なぜなら感情とか感じは情勢が変われば変わるもので、不確かなものです。
もし、大きな試練とか誘惑に合えばそのような感情は、簡単に失せてしまいます。

 

といいましても、聖書には救いには喜びが伴うと書いてありますし、人間は弱いもので、やはり奇蹟とか感情で信仰を確認したいのでは、と思うのはわたしだけでしょうか。

 

信仰に自信がなく、自分が天国へいけるとはっきりいえないのは、イエスの約束の言葉が必ず成就することを信じていないからだと思いますが、わたしなどは、このようないい加減な自分が天国へいけるのならイエスの言葉を知らない(信じていないではない)多くの善良な人々、および弱さゆえに罪を犯した人々、置かれた環境ゆえに罪を犯した人々のことを考えると神の愛と恩恵はその人達にも当然あっても良いと考えています。

 

したがって、最近のわたしは、大きな神の愛、無条件絶対の愛を信じ、最終的にはイエスを信じる者に限らず、イエスを知らずに死んだ人もすべての人々が救いにあずかれることを信じています。

 

新約聖書第一テモテの手紙第1章15節に「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」とあります。

 

キリスト教は言葉の宗教とも言います。イスラエル民族に語られた神の言葉が歴史上の出来事として実現してきたことから起こされた宗教だからです。だから聖書の言葉が必ず実現するということに信頼がもてるのです。

 

神の御業を歴史上の事実として捉える事が出来れば、御言葉に、救われていることに確信がもてるのかもしれません。
神の御言葉(聖書に記載)を読むことによって、救いの確信がもてるようになるといわれています。

 

その過程は、御言葉を読むと理解が深まる。ある程度理解が深まると信頼が持てるようになる。そうすると信仰をもつことの決心に動かされる。決心ができれば聖霊がその人に内住し、その人をキリストに似た者に変えていきます。

 

そのスピードは個人個人に差があるので、なかなか変わらないから救われていないとはいえない。
わたしなど、変えられた事がいつ自覚できるのだろうか、もし自覚できるとしても、恐らくこの世を去る間際ではなかろうか、と思います。
でも、古くからの友人に言わせると、お前は変わったな、と言われるのですが・・・。

 

最近は、余り現世のことに夢中になっている友人を見ると違和感を覚えるのも確かです。
同じキリストを信じる兄弟姉妹の中にいると平安と信頼と喜びがあるのも確かです。この平安と歓びは、世のものでないので、周りがどのような状況にあろうとも自分の心の中は平安であり歓びに満ちているということです。
世の平安とか歓びは周りの状況で一喜一憂しますからね。

 

どのように変わるかというと、神の御心に適うことをしたくなる。キリストにある兄弟姉妹を愛するようになる。死後に希望をもつようになる。苦難も重い病気も死もそのまま神のみ業として受け入れることが出来るようになる。そして、人生をキリストにゆだねるようになる。

 

生きていることに感謝し、死後に希望を持ち、何があっても平安でいられるようになる。キリストを喜ぶあまりキリストを伝えたいと思うようになる。そうですね、このブログを、何の利益もないのに一生懸命に書いているわたしは何なのだろう。この意欲は何処からくるのだろうか。

 

どちらにしても、イエスを知らずに死んだ人もイエスを信じて死んだ人もすべて神の愛する子供であることは確かです。
すこし言うことをきかないからと言って、こちらを向かないからと言って自分の子供を地獄へ落とすような偏狭な愛をもった親はいないと思います。神が愛ならなおさらのことだと思います。

 

ただ、やはり生前においてイエスを信じることには重要な意味があるのは事実と思います。
わたしはそのような人々は何か神から託された目的があって生前にイエスを知ることになったのだと思うのです。

 

すべての人々が救われますように、と祈るとりなしの祈りとか、なかなか思うようにできないけれども社会の緊張の緩和のためにも隣人を愛する愛を示すのもそうではないかと思います。

 

このようなことは聖書には書いていませんが、わたしはそうであることを信じます。ただただ神の絶対無条件の愛にすがりたいと思います。キリストを知らずに亡くなったわたしの両親のためにもそうでそうであったらと思います。

 

天国がどのようにすばらしいところでも、自分の愛する人が地獄で苦しんでいるのを見ながら、はたして自分は平安でいられるだろうか。
どのような人にも愛を持って接するのがキリストの教える愛ではないのでしょうか。

 

最後に救いを一口で言いますと、救いとは、人間の罪を赦す神の愛と憐みを、全人類にもたらす神の計画だとわたしは解釈しています。
そして、救いと福音は同じ意味だと思っています。

 

第四章.救いの条件
キリスト教の救いの話は今まで何度も書いてきましたが、ここでは教会の説教ではあまり強調されないことを書いてみます。
教会では、信仰により救われると教えられています。

 

つまり、いったんイエスの約束の言葉を信じたら、いや信じたと信仰告白をしたらその人に聖霊が内住し、天国へいけると教えています。
そのあとイエスの教えについての行いが伴わなくても、教会を離れることがあても、罪を犯しても、イエスを拒否することがあってもです。

 

信仰は神からの賜物で、信仰告白ができるのは聖霊の働きがあるからだという考えだと思います。信仰の長さ深さは一切問いません。

 

もちろん、この救われるというのは、イエスの十字架で罪赦されて、死んだあと復活して天の国(天国)にいけることを言います。
ところが、聖書には信仰のみによって救われるとは思われないイエスの言葉があるのです。それは次の聖句です。

 

マタイによる福音書第25章35から37節「わたしが飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸のときに着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに尋ねてくれたからだ」

 

マタイによる福音書第25章40節「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである。」

 

この聖句は、隣人を愛したこと、弱い者を愛したことは、神様を愛したのと同じだということだと思います。
裁きの時に天の国を受け継ぐ人たちはどういう人かについて例を上げられたイエスの言葉です。明らかに行いも救いの基準だと言われています。

 

もちろん、この小さい者というのは、無邪気とか純粋の象徴としての子供を指すのではなく、自分では何かをする力もないいわゆる弱者の象徴を語る言葉だと思います。
存在する価値もないとして社会に無視されている者の象徴だと思います。
わたしは天国とこの世の価値観は180度違うと思うのです。

 

そのような小さい者を受け入れ、自分をその小さい者と同じ立場に置く、つまり、そうして隣人を自分のように愛することが、神様の御心に敵う道だと教えられていると思うのです。

 

神様に最も近いのは、特定の宗教に精進してその奥儀を極めたものではなく、聖職者でもなく、日常の生活の場での弱い者と苦しみを分かち合いながら共に生きている者だと言われていると思うのです。

 

また次の聖句はいかがでしょうか。
マタイによる福音書第7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者どもがわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し・・御名によって奇跡をいろいろ行ったでありませんか。』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

この聖句を読むと、いくらイエスを信じていると言って、イエスの御名によって祈ったり預言したり奇跡をおこなっていても、当然全員が天国へいけるとは限らないとイエスは言われています。

 

「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」といわれているのです。救いは、むしろ自らの行い、実践で決まるということでしょう。

 

イエスが教えられた倫理に沿って生きるためには、信仰告白をするとか、イエスを主と誉めたたえることが必要というわけではなく、しなければならないのは他の信者と連帯して自らイエスの教えを実践することが大切であるということだと思います。

 

ただ単に、イエスの御名により祈り、イエスが神であったと信じるだけでは不十分だということです。
逆にいえば、決められた祈りもせず、聖餐式に与らなくて信者からダメ信者と思われているような人の中にも天国に招かれる人もあるといえます。

 

これらの聖句を読んでいると、教会に行き、牧師から信じるだけで救われると聞いても、はたして自分は天国へいけるのか不安になります。
間違いなく言えることは、だれが天国へいけるかどうかは誰にも分からないということです。それを決められるのはイエス様だけです。

 

もっといえば、これらの聖句をそのままとれば、たとえキリスト教を信じていなくても、知らなくても天国へいける条件を満たしている人が大勢いおられると思います。逆に、キリストを信じていると主張している人でも、天国へいけない人も大勢おられるということではないでしょうか。

 

使徒パウロがいう信仰のみによる救いも、ルカによる福音書第23章42・43節では、イエスと共に十字架に架けられた強盗は、悔い改めて信じることのみによって救われていますから、そのことも真実でしょうから、両者の違いは、天国へいけるかどうかではなく、天国へ行った後に指定席を与えられるか立ち見席を与えられるかの違いかも知れません。

 

誰かが言いましたが、キリストを信じる者はすべて天国へいけますが、同じキリストを信じる者でも、信仰だけでなく行いも伴った信者は褒めてもらえて、祝福してもらえる。それに、同じ天国のなかでもきっと行く場所が違うのだと思います。

 

イエスは、本当にわたしを愛していたら、行いが伴うはずだとも言われています。だから結論として、イエスを本当に信じていれば罪から救われて天国へいけるが、わたしの掟(隣人を自分のように愛しなさい。)も当然守れるはずだということでしょうか。

 

なぜ、信じるだけで救われると言われたかについては、信じれば聖霊がその人に内住し、その人をイエスに似た者に変えられるので、そうすればイエスの掟も守ることができる。そうなるはずだということではないでしょうか。

 

だから、信じることと行いは不可分で一体だと思うのです。キリストを信じるクリスチャンにとって厳しい言葉です。そういう意味で、わたしはキリストを知らない人でもその人の行いが御心に沿っていれば、その人の霊魂がキリストを知っていると言えると思うので、そのような人は救われて永遠の命に与れると思うのです。

 

第五章.神との出会いの構図
神との出会いはどのような形で起こり得るのか、これは人間にとって大きな問題であります。典型的な例として、旧約聖書にあるイスラエル民族における神との出会を観てみたいと思います。

 

旧約聖書は神話と歴史上の出来事でできていると思います。この中の歴史上の出来事には、出来事から体験された意義が込められていると思うのですがいかがでしょうか。

 

旧約聖書の中のイスラエル民族は、長い歴史の中で、語り継がれてきた伝承に自分たちの体験を付け加えて、次世代に渡していくということに情熱を傾けてきたと思います。

 

伝承が体験と結びつくことがなければ、伝承は単なる言葉のままで終るし、逆に体験が伝承と結びつくことがなければ、体験の意義を深めることができません。
つまり、神との契約とか預言者を通して語られる預言という伝承を、歴史の中で伝承と体験を一つ一つ結びつけて確認する。こうして伝承と体験が一つに結び合わされたときに、歴史は意義を持ち、生きたものとなる。
もし、伝承と体験が結びあわなかったらイスラエル民族の神との出会いはなかったのではないでしょうか。

 

そのようにしてイスラエル民族は、自分たちの歴史の中に神の存在を見、独特のアイデンテイテイを形成していったと思うのです。

 

旧約聖書は、伝承が語り伝えられてゆく間に、伝承にある出来事が奇跡的に実現したと思われることを体験し、その体験をすることによって伝承に新たな見方が加わり、また誇張もされて現在の形に発展してきたものと思います。
伝承の発展が固定化したのは、モーセ五書の場合は、紀元前400年頃といわれています。

 

神との契約とか預言者を通して語られる預言という伝承を現実として体験することにより、伝承が真実として生きたものとなりました。
歴史上の出来事をバラバラで見るのではなしに、一対として見ているのです。

 

だから、旧約聖書にある1300年に及ぶイスラエル民族の神との出会いの歴史は、決して偶然の寄せ集めではなく、同じ神の言葉が語られ、一つの目的をもち全部がつながっているといえます。

 

旧約聖書を聖典とするユダヤ教とキリスト教は、言葉の宗教といわれますが、イスラエル民族の歴史上の体験の中から生まれた宗教ともいえるのではないでしょうか。

 

したがって、もし旧約聖書に書かれている歴史的事実がひっくり返されたらこの宗教は成り立たないことになると思います。
もちろん、旧約聖書がひっくり返ったら新約聖書もひっくり返ります。
イエス・キリストの出現は旧約聖書によって預言されており、その意味づけは旧約聖書によりなされているからです。

 

歴史の中の出来事はすべて移り変わります。
しかし神が預言者を通して、イスラエルの民に発せられる言葉は、変わらないものであるということを、イスラエル民族は長年の神の民としての体験の中で体得して確信しました。

 

その典型的な表現が旧約聖書イザヤ書四〇章の言葉だといえます。
「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(旧約聖書イザヤ書四〇章六~八節)

 

人間がここで、朝には萌出るけれども、夕べには枯れ果ててしまうはかない草や花にたとえられて、人間もそのようなものに過ぎないと言っています。

 

人間は神の言葉(歴史上の出来事に裏付けられた)に出会うことによって、この世の中で変わらないもの、時の流れによって変化しない確かなものがあることを体験します。

 

言葉によって、万物を創造した神は、創造に続く歴史に於いても、出来事を通して語りかけ、その語り掛けによって創造時の秩序を維持し、さらにつぎのステップに進もうとされています。

 

旧約聖書の時代と新約聖書の時代の神の語りかけ、あるいは関与の仕方は違いますが、いまもその秩序維持の働き、さらに新約聖書によると新しい創造の働きは続けられていると思います。

 

その新しい働きかけを受け取っているのがイスラエル民族に変わりキリストを信じる民であると思います。
神はキリストの民を通して全人類に語りかけておられると思うのです。

 

ヘブライ人への手紙第1章1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」、とあります。
今はその終わりの時代なのです。

 

旧約聖書をみていますと、その語りかけ方は、神はその業(人間社会への関与)をなされるにあたって、それが神からの関与、出来事であるということを示すために、神ご自身が事前にまずそれを預言の形で言葉として語っておかれます。

 

預言者を通して、あるいは特定の選ばれた人に対して、それを明確な言葉で語られます。それが広い意味の約束となり、歴史上の伝承として語り継がれていきます。

 

神が語り掛けられたと思われるころから相当年数がたち、状況がすっかり変わってしまって、みながあきらめるころになって突然、驚くべき方法で神が語られたことが実現する。旧約聖書を読んでいるとイスラエルの歴史はそのことの繰り返しなのですね。

 

これを、具体的に書きますと、わたしたちは雨上がりに美しい虹を見ます。これは昔の人も同じように見ました。ところがイスラエルの民はこの虹を見たときに、あの美しい虹は神の約束のしるしだと受け止めるのです。

 

それはなぜかといいますと、ご存じのように、神は人間の悪を憤ってノアの時代に裁かれました。大水と大雨を送って、地上の生き物をすべて絶やされたのです。

 

そのときに神の前に正しく歩んだノアとその一族、および神が指定された動物だけが箱船の中に入れられて救われました。これは紀元前2370年ころの出来事といわれているノアの箱舟の物語です。

 

水が引いた後でノアが神を礼拝した時、神は空に虹を見せて、約束の言葉を与えられました。「わたしはもう二度と大水によって地上の生き物を滅ぼすことはしない」と。

 

だからイスラエルの民にとっては、今人間が水によって覆い尽くされずに、乾いた土地に生きていられるのは、神の約束が実現しているからだと自覚しました。そのしるしとして雨の後には虹が出るのであって、これは神の約束が確かであることのしるしだと理解しました。

 

このように神の言葉に出会った人間は、虹を見てもそこに神の約束の言葉を見ることができました。神を知らない人達は、不思議な出来事を見ても、何も感じないか、たんなる偶然と見るかですが、神の存在を信じる人はそこに神を観るのです。

 

人間は誰でも死ぬことは嫌です。しかしイエスは、十字架の死が神の御心によって定められた自分の道であるから、それを受け入れられたのです。何の罪もない方が何一つ弁解もせず受け入れられたのです。

 

なぜなら、イエスは自分の出現はすべて旧約聖書で預言されていることで、その預言を成就させるために自分が来たことを自覚しておられたからだと思います。それが神の約束の言葉なのです。
また、死人の中から復活するというようなことは誰もまだ経験したことがありません。

 

けれども、イエスは、そのことが旧約聖書に記されているから、自分の身にそれが起こらざるを得ないのだと受け止めておられたと思います。神の言葉は必ず実現しますから、避けることができないのです。

 

イエスは十字架にかけられる前に、弟子たちに、人々に捨てられ、苦しみを受けて死ななければならないこと、そして三日目に復活するということを語っておられました。

 

これは旧約聖書の歴史の中で確証されてきた預言(神の言葉)であり、イエスは、ご自身がそれを成就する者としてこの地上に来たことをしっかりと自覚しておられました。

 

イエスが現実に十字架にかかり、そして三日目に復活されたとき、その出来事はまさに預言者を通して、イスラエルの民とイスラエルの民を通して人類に語られていた神の約束、つまり人類を罪の中から救済する約束が成就したのです。そのことと、そのことの意味を述べ伝えているのがキリスト教です。

 

第六章.キリスト教は不寛容か
キリスト教の現在に至る歩みの中で、犯した誤りを調べてみました。それは大きく四回あると思います。簡単にまとめてみました。
その原因は寛容と不寛容、あるいは正統と異端の問題と関わっているということでしょう。

 

それはどのような状況かといいますと、キリスト教が確立していないとき、発展と衰退を繰り返す中で、ある時期に暫定的に要求された神学を別の状況の中で異端と断じる。ところがまた暫くすると、先に異端とされた信仰が要求されるような状況が生じてくる。

 

そうすると、先に誤って異端とされていた神学や信仰が再び頭をもたげてくる。こうして異端は、権力の趨勢に合わせて定期的に繰り返されたということです。
このようなことがあるたびに、キリスト者がキリスト者を拷問にかけるとか斬首刑などで殺害する。魔女狩りとか、免罪符は典型的な事件でしょう。

 

もしそういうときに、キリスト教が、パウロのように互いの違いを認め合っていたらもっと早くキリスト教制度は確立し、迫害も戦争も防げたのかもしれません。

 

といいましても、ヨーロッパにおいてはローマ帝国時代に始まったキリスト教が国家権力と結びつき発展した状態、つまり、国家が国民をまとめる必要からキリスト教を利用したことは事実ですから、そういう事態は避けられなかったかも知れません。

 

今のアメリカでは政教分離が強く叫ばれているのは、その反省からと聞いていますが、二度と過ちを犯さないために善いことだと思います。

 

11世紀から13世紀にかけての十字軍遠征のとき、キリスト教はイスラムの世界と真っ向から衝突しました。この十字軍は、イスラム圏の人に、キリスト教に対する激しい憎悪を残しました。この戦争は、戦争というより十字軍の狂気じみた虐殺と略奪だったということです。

 

アメリカにおける異教徒に対する不寛容は、黒人奴隷制度と中南米のインディオの大虐殺、それからアメリカインディアンに対する差別と攻撃だということです。
キリスト教は、彼らの伝統や文化や宗教を根こそぎ絶滅させようとしたのです。なお、最近になって、南米のカトリック教会が、この時代に教会の行なった政策は間違っていたと正式に認めたということです。

 

キリスト教以外の宗教を、その宗教的価値をまったく認めようとしない傾向は、今なお欧米の教会に根強く残っていると思います。
わたしたち日本のクリスチャンの間でもそのような考えを持った人がいます。教会がその様に教えているのですね。

 

わたしは何年か前に、外国から来られている宣教師さんと話をしていて、どうしても受け入れられない体験をしました。
仏壇をすぐに捨てなさい、といわれるのです。命令的で、絶対にという言い方です。その宣教師が、神道や仏教などの日本古来の宗教を「異教」として厳しく否定したからです。

 

このことは、ある意味で、日本の文化の根底を否定することにつながります。いくらわたしでも、それには拒否反応をもっています。
わたしは、日本の伝統的な価値観にも神の導きがあったことを認めたいと思っています。

 

それから以降、その宣教師さんの言われることが本当だろうかと疑問を抱きましたので、そのことがその後の聖書研究の大きな課題となりました。
キリスト教はなぜそんなに不寛容なのだろうか。けっして神はそのようなことを喜んでおられるのではないと思うのです。

 

互いに愛し合いなさい、隣人を自分を愛するように愛しなさい、と命令されているイエスが、人間がイエスの名のもとに人間を排除するとか迫害することを喜んでおられないと思います。

 

隣人を自分を愛するように愛する愛は敵をも愛する愛です。その愛には愛そうとする強い意志がいります。寛容がためされます。

 

聖書の神は、他の人間から出た宗教をむきになって排斥するほどちゃちな神ではないと思います。
むきになるということは、ある意味、他の宗教を聖書の神と対等の神として扱っているということになります。
それは真の神から出た宗教であるキリスト教の聖書の神への侮辱です。

 

たしかにキリスト教は真理で、絶対です。
しかしそこに愛がないと不寛容になります。キリスト教が過ちを起こす時は、キリスト教の絶対性だけを表に出し愛を忘れている時だと思うのです。愛のない宗教は怖いです。

 

この世では、教えに絶対性を持つキリスト教でも一宗教ですから相対的です。だから愛が必要なのです。
絶対性をあくまで追求するならば、相手を滅ぼすしかありません。この世では何事も相対的であり絶対的なものはなにもありません。

 

自己の立場のみを意識的にせよ無意識的にせよ絶対化すると、そこにキリストの愛がないと、自分とは異なる人達や異なる宗教に対する抑圧あるいは排除を生み出す不寛容へと走りがちになります。
特に民族とか国家とかがこれに絡んでくると、理屈抜きで感情的な不寛容に支配されがちです。

 

最後にそれらのことを端的にあらわした聖句をあげておきます。ルカによる福音書9章50節「イエスは言われた。やめさせてはならない。あなた方に逆らわない者は、あなた方の見方なのです。」

 

この聖句は、イエスのグループに属さない者のイエスの名前を使っての悪霊追い出し活動に対して弟子がやめさせようとしたときのイエスの言葉です。自分たちのグループを絶対化しないキリストの民の姿です。

 

最近アメリカのメソジストのクリスチャンと出会い、話をする機会がありました。欧米のキリスト教は不寛容だと思っていたのですが、その方は、日本の仏教の葬式に列席するときには焼香もするということです。
その国のしきたりも尊重するということです。アメリカ人のキリスト教徒でもいろいろな方がおられます。

 

超越した存在である真の意味での神は、人間側の一切の条件に左右されない神です。人種、性別、身分、国籍、宗教、こういう諸条件で人を偏ってみない神だと思います。愛の神、公平・公正な神であるというのはそういう意味だと思います。

 

神が超越した存在ならば、地上の人間の営み一切を超越しておられるはずです。だから、地上で営まれる人間の一切の宗教活動からも超越しておられるはずです。

 

わたしは仏教には、聖書の神のような創造神という生ける神の概念はないと思います。だから死んだ人、仏を敬うことが偶像礼拝に当たるのか疑問に思っています。

 

第一仏像とか墓石を前に拝む(礼拝ではない)とか神社にお参りに行くとかをしても、その人は願いをかなえてくださる神の存在を信じて、期待して拝んでおられるのでしょうか。決してそのようなことはありません。

 

仏教にも神道にも神の存在論がないのですからそのようなことは考えられません。
敬虔な気持ちで祈って(けっして礼拝されているは思いません。)おられるでしょうが、しっかりとした神信仰を持ってその上で仏像礼拝とか神社参拝をされているとは思えません。どちらかといえば、文化というか習慣といえるのではないでしょうか。

 

それは聖書の生ける神を知らないからです。知りながら別の神を求めてそうしているのではないと思うのです。
イスラエルが偶像礼拝に走ったのは、聖書の神に何度も何度も導かれ、神はイスラエルの民にその力を示され、神を否定できない状況に置かれたにもかかわらず、それでも聖書の神を拒否し、異教の神を拝するから厳しく諌められたのだと思います。

 

人類救済の目的を達するために特別に選ばれた民です、異教の神に染まるのを特に恐れられたのだと思います。
偶像礼拝というのは、聖書の神を無視して別に木や石で偶像の神を造り、その神を聖書の神と同じ神のように考えて、聖書の神を排除して礼拝することだと思うのです。

 

そうであれば仏教のようにもともと神という概念がない宗教とか、神道のように神の存在論がない宗教の神は、実在されて働かれている聖書の創造神と同じ土俵で論じるのはおかしいと思うのです。

 

同じ神という言葉を使うから混乱しますが、内容はまったく違います。そもそも聖書の創造神を「神」という日本語をあてたのが間違いだと思います。そうですね、日本語で一番ふさわしい言葉は「創造主」だと思います。

 

仏教徒とか神道の信者は、聖書の神を否定しているのではなくて、聖書の神を知らないだけなのだと思います。だからキリスト教がそういう宗教を迫害するとか排除するのはサタンの策略に乗っていると思うのです。

 

仏教徒にしてもキリストを知らなくても神の愛、慈悲の愛をもった方が多くおられます。
そのような方が真のキリストに触れれば決してキリストを拒否されないと思います。

 

もし、その方が聖書の神を信じるときがきたら、次の聖句が実現するのではないでしょうか。
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイによる福音書第19章30節)。

 

パウロもこう言っています。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい。・・大切なのは神の掟を守ることです。」(コリント信徒への手紙第一 7章17節)。

 

この聖句は、クリスチャンになったということで、今までの習慣とか、自分が置かれている外側の状況をあえて変える必要はない、ということだと思います。もちろん罪に関する事柄に関わっているのであれば、即座に変えなければいけませんが。

 

わたくし自身は仏教の葬式の場合数珠の所持と焼香だけはクリスチャンであるのを明確にするために遠慮させてもらっています。
あまりに節操がないのも困りますからね。
もちろん仏壇は処分していません。死者を敬う気持ちはクリスチャンも仏教徒も同じですからね。

 

最後に、マザーテレサは、主イエス・キリストの父なる神を信じていました。それでも、あらゆる宗教の人たちをそれぞれの宗教でその最後を全うさせるようにとりはからったのです。

 

これは、マザーに内住するイエス・キリストのみ霊、聖霊からくるキリストの慈愛がそうさせたのだと思います。

 

だからこそ、マザーが召天したときに、なんとヒンズー教の国インドが、彼女のために国葬を行ったということです。
もちろん、マザーは心の中でイエス・キリストの御名で死者の平安と祝福を祈っていたと思います。これがイエスのいわれる愛の本当の姿だと思います。

 

最後に、最近ですけれども、今をときめく日本の政治家が高野山の坊さんとの対話で、「キリスト教は排他的だ」と言われたと新聞に書いてありました。
それを読みわたしはふと思いました、なぜ、唯一の神を信じるのが排他的なのだろうかと。キリスト教において、アガペーの愛がいかに重要な位置を占めるか御存じないのですね。

 

第七章.キリスト教は外国の宗教
キリスト教はなぜ日本には定着しないのでしょうか。外国の宗教だからでしょうか。確かにキリスト教は外国の宗教です。聖書は翻訳されたものが伝わっています。

 

しかし、よく考えると、キリスト教は、そもそものはじめから翻訳の宗教なのですね。キリスト教の聖典である聖書の生い立ちを調べてみますと、キリスト教のもととなる聖典はギリシア語で書かれていたということです。

 

キリスト教の最初の使徒と呼ばれる人たちは、ユダヤ人でした。彼らは、ヘブライの神を父なる神とするイエス・キリストをギリシア語で伝えました。
ユダヤ教の聖典はヘブライ語ということです。

 

調べてみると、彼らはヘブライ語をギリシア語に訳した聖典を使って福音を伝えたということです。その真偽は知りませんがそのように書いてあります。
この翻訳された聖典を用いることは、ローマ・カトリックでも、ドイツでもフランスでも英国でも、アメリカでも、もちろん日本でもまったく変わらないということです。

 

こうしてみると、キリスト教はどこの国でも、はじめは外から来た翻訳の宗教だったということです。
それにキリスト教が、聖書が生まれたのはイスラエルですが、イスラエルはユダヤ教です。だからキリスト教には国籍がないのです。どこの国でもキリスト教は外国の宗教なのです。

 

この様に考えると、キリスト教は最初から世界宗教になるべくして生まれたという風に考えられます。キリスト教の教えは真理だと言う面からみれば当然のことかもしれません。

 

そのキリスト教がときたま傲慢だとか不寛容だといわれます。世界宗教である、いやこの世の真理であるキリスト教が傲慢、あるいは不寛容とはどうしたことでしょうか。真理というものはそんなに傲慢でしょうか。キリスト教の愛はそんなちっぽけな、安っぽいものでしょうか。

 

たとえば、マザーテレサの例を上げますと、マザーテレサはインドで貧しい人たちのために奉仕活動を始めました。今は天に召されたマザーテレサは、ヒンズー教徒であれ、仏教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、死の間際にあるひとりひとりのために、それぞれの宗教でみとってあげるように配慮したということです。

 

マザーは、主イエス・キリストの父なる神を信じていました。
それでも、あらゆる宗教の人たちをそれぞれの宗教でその最後を全うさせるようにとりはからったのです。

 

これは、マザーに内住するイエス・キリストのみ霊、聖霊からくるキリストの慈愛がそうさせたのだと思います。
だからこそ、マザーが召天したときに、なんとヒンズー教の国インドが、キリスト教徒である彼女のために国葬を行ったということです。

 

これがイエスのいわれる愛の本当の姿だと思います。キリスト教徒もイスラム教徒も同じ人間です。同じ神の被造物です。慈愛の神が同じわが子を平等に愛されないわけがないと思います。アメリカ人も日本人も同じです。

 

両国ともキリスト教は外国の宗教です。そういう意味で、現在日本に伝わっているキリスト教は欧米化されたキリスト教ですから、日本化されたキリスト教があってもおかしくはないと思います。

 

よく問題になるのは、救われる人間は最初から決まっているという考え方です。聖書を読んでいると確かにそのようにも思えるところがあります。それに全ての人が救われるなら神が人間に与えた自由は崩壊します。

 

イエスを信じるのも信じないのもその人の自由だから伝道に意味があるのです。いままで命をかけて伝道してきた人たちは何のために苦労したのか意味がなくなります。

 

最初から救われる人と救われない人が決まっているのなら、はたして神は創造する人間の行く末を最初から決めて創造されるのでしょうか。
慈愛の神が地獄へ人間を送るために人間を創造するでしょうか。

 

すべての人を平等に愛される神がそのようなことをするでしょうか。人間でさえ自分の子供を分け隔てしないで育てようとするのですよ。
わたしは地獄と言うところは、サタンのために造られたところと思っています。けっして、人間の行くところではありません。

 

地獄へ行く人は、イエスの約束の言葉を知りながら、あるいは知らないのに知っていると言いながら頑なに受け入れようとしない人(ヨハネの福音書第9章41節)、あくまで自分が神のようになりたいと思いイエスを拒否した人だけが地獄へ行くのではと思っています。仏教徒であれ、イスラム教徒であれ何ら差別は無いと思います。

 

このようにキリスト教は最終的にすべての民族を導く宗教だと思うのです。だから、どの国から見ても外国の宗教で世界の宗教なのだと思うのです。

 

それはキリスト教がこの世の真理だからです。キリストの教えは、特定の国、特定の民族に対する教えではなく、すべての民族の、すべての国のための教えだから真理なのです。

 

真理は絶対です。だからキリストの教えは曲げられません。でも、真理もこの世にあれば、宗教となり相対的になります。絶対的な教えを相対化すると言う問題が起こります。その方法は「隣人を自分のように愛しなさい」と言うイエスの教えの実践です。

 

これは、万人に対して述べられた命令です。このようにして、絶対なるキリスト教は、相対化されるのだと思います。

 

第八章.迫害の原因
この2000年間のキリスト教の歴史をみると、キリスト教は迫害の中を生き残ってきた宗教といえると思います。
なぜキリスト教がこれほど迫害されるのかを今回は考えてみたいと思います。

 

聖書の神は人格の神です。自由と愛の神です。それは、ヨハネによる福音書第14章20節の「かの日には、わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたにも分かる。」と言われているように、イエスは十字架により殺され復活し天に昇るがそのかわり聖霊(三位一体の神の三位格)を送りあなた方の内に一緒に住む、そしてあなた方を導くといわれました。

 

これは使徒あるいはその後今日まで続く代々の信徒に言われているのです。これは神の約束ですから、イエスを信じる者には誰にでも与えられます。

 

このように、信徒一人一人がその身にイエスの御霊を宿し、イエスと人格的に交わる、これがキリスト教信仰で、このように自分の心の中に存在するイエスの御霊を体験し、信じて生きているのがクリスチャンだと思います。

 

このように目に見えないものを信じているクリスチャンを宗教的な権威や、政治組織に依存している人達が自分たちの思う通りに支配しょうと思ってもどうしょうもありません。

 

人の心の中までは、どんな権力者も自由に支配できません。
キリスト教は仏教のように修行をするとか神道のように儀式を重んじる行いの宗教ではないのです。
ましてや、御霊の存在を信じない、御霊の働きを知らない人達は、その意味が分からないがゆえに不気味さを感じると思います。

 

また、クリスチャンにとって、聖書の神は唯一であり、救いの道も唯一と教えられていますからなおさらです。この世の真理で、絶対者(少なくとも信者はそのように信じている)を信じているのですから妥協の仕様がないのです。

 

ただし、間違っては困るのですが、宗教としてのキリスト教はこの世のものですから、相対的なもので妥協は必要かと思います。愛の神は頑なになりなさいとは言っておられません。

 

だから、世の統治者からみればそういうクリスチャンは最も警戒すべき脅威の対象になると思います。福音に生き、これを伝えようとする人たちに対して迫害が生じる原因がここにあると思います。
宗教戦争が執拗で、残酷さを伴うのもそのような事情があると思うのです。

 

クリスチャンが迫害されるもう一つの理由は、仏教も神道も敬ったり、礼拝する対象が誰の目にもはっきりしていると思うのです。自然とか、仏像とか、死者とかですね。

 

また、仏教という宗教は、おそらく人間(釈迦は人間ですね)から出たものだと思いますので、その時代に臨機応変に適応できるのですが、キリスト教は神から出た宗教なので、絶対なのです。

 

もちろん、絶対といいましても、イエスの教えである隣人を自分のように愛しなさいとか、敵をも愛しなさいとか、柔和でありなさいはすべての人との関係で言われています。

 

したがって、絶対というのは、たとえどのような状況にあろうとも、聖霊を自分の内に留めて、その導きで生きることを求められているということだと思います。未信者にイエスの教えを押し付けるようなことは求めておられません。

 

どうしても信者同士が集まるようになります。そのようなクリスチャンの集まりを世間から見れば異質な存在になるわけです。

 

目には見えないイエスの御霊の働きに導かれて、お互い助け合いながら愛し合いながら仲良く暮らしている、価値判断基準が世間とまったく反対の集団があればそのような集団を外から見れば異質になるわけですね。わけのわからない変な集団になるのですね。

 

だから、もしも世の人たちが、クリスチャンを迫害するとすればそれはそのためであって、クリスチャンが、時の政府に反抗するからではないと思います。

 

クリスチャンが内に宿すイエスの御霊、聖霊は、イエスのみ言葉を信じる人間に内住し、その人間を新しい人間に造りかえようとされているのです。そのような人々の集まりが教会です。

 

つまり、イエスは教会という新しいイエスのワールド、つまりイエスの支配圏をこの世に広めようとされているのです。人の心に深く根付いている、生ける神イエスという目に見えない存在がその人を支配するのですから、誰もその支配権を奪えません。時の権力者が支配できない場がそこにできるのです。

 

そのようなクリスチャンが世の人々に仲間を増やすために福音を伝えるのですが、そうすれば当然摩擦が生じます。だから迫害が起こるのだと思います。世の権力者からみればわけのわからない不気味な集団の教えが、世間に広まればそれは恐ろしいものだと思います。

 

人格の神の御霊を内に宿し、そこからくる御霊の導きによる良心に従った愛と自由による新しい組織は、時の権力者にとって、そういう人種がはびこることは、特権や既得の利権や支配的な立場を脅かすことになるということだと思います。

 

それでも、取るに足らない存在であれば問題はないのでしょうが、時の権力者が恐れるほど大きくなり無視できない存在になったから迫害が起こるのです。キリスト教の歴史をみると、迫害があればある程さらに大きくなる現実が見られます。不思議です。

 

しかし、クリスチャンから世間の自分たちへの迫害を見れば、それはすべて神の御心、ご計画であり、神が必要であってなされていることだといえます。イエスはそのことを生前に予告されています。

 

イエスは、マタイによる福音書第10章16節で「・・いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。

 

だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」といわれていますが、狼とはこういう権力者や宗教的な指導者、つまり、信徒を迫害する人たちのことだと思います。だから、イエスに従う者に、「蛇のように賢くなり、鳩のように素直に」なるようにといわれているのです。

 

なにも、時の権力者と戦えとは言っておられません。敵を愛せよと言っておられます。

 

迫害や困難に強くあるためには、勇気と忍耐が必要ですが、勇気と忍耐は人の努力や意志の力では知れています。
それは、生ける神主イエスの御霊にすがり、御霊の導きと共に歩む時にのみ強力なのです。

 

体験してみなければ分かりませんが、これは本当のことです。しっかりしたキリスト信仰を持った人は、本当に強いです。迫害の中で信者が増えていったのはそのことを証しています。

 

このようなことを書いているわたしですが、現実にそのような場面が自分に迫ってきたらイエスの言われるようにできるかと言われれば、心もとないところがあります。今からそのようなことを心配しても仕方がないし、その時になれば、イエスの御霊、聖霊が働かれて強い信仰と勇気を与えて、共に戦ってくださると思います。

 

パウロは、 イエス・キリストという目標/到着点を目指して、競技する選手のようにひたすら走りなさいと勧めています(フィリピの信徒への手紙第3章12~14節)。

 

もちろん、到達点は、イエス・キリストに似たものになることです。そのためには、人間の努力、自己との闘いもありますが、最終的にはそういうことを乗り越えて御霊の働きに己を委ねる姿だと思います。

 

一切を父なる神のみ手に委ねている姿、わたしはその姿がクリスチャンの目標とする姿ではないかと思っています。

 

そうなれば、迫害や困難など所詮この世のこと、その人にとって何の意味もなさないということでしょう。弟子はその師のようになれば、それで十分です。
マタイの福音書第10章28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

 

第九章.キリスト教は信じるに値するのか
さて、今回はキリスト教と他の宗教の信頼性について考えてみたいと思います。キリスト教はこの2000年間、聖書の内容が、その教えが真実かどうかを疑われて叩かれ続けました。

 

キリスト教以外の宗教には、主なもので仏教、ヒンズー教、イスラム教などがありますが、キリスト教と違ってこれらの宗教は、歴史的起源の事実と、説かれているメッセージに関してわたしの知る限り徹底的にその信ぴょう性を調査されていないと思うのです。

 

書店の棚をみてもキリスト教以外の宗教の歴史的起源の事実と、教えの信ぴょう性を検証した書物は見当たらないのです。
つまり、書かれた内容がすべて正しいという前提で書かれているのです。
それでは、なぜキリスト教だけがこれほどその信ぴょう性を疑われ、叩かれるのでしょうか。

 

この2000年間、聖書を読み、奇跡なんてばかばかしい、聖書は作り話だといってその信ぴょう性を覆そうと挑戦した多くの人々がいます。
その時代の優秀な頭脳により徹底的に調査、検証されました。
もちろん、考古学上もですが、聖書もキリスト教も元の姿のままで生き残っています。
結論は、信じるに値いしないことは何もないということです。

 

キリスト教の起源についての科学的、学問的調査は、その起源の土台を崩すどころか逆に強固にしたといわれています。
イエスのメッセージも、2000年前に語られたメッセージですが現在でも時代遅れになっていません。

 

今でも生き生きと世界中の人々にその人の人生を二分する大きな影響を与えています。
日本の神道は、天皇家が神的起源を持ち、天皇は天照大神の子孫である、また日本国は男神と女神との結婚によってできたものと教えられていましたが、そのことが事実であるか否かの学術的調査はされたのでしょうか。

 

その辺が不確かですから、神道には神の存在論が無くて儀式のみの宗教のようにみえるのです。
キリスト教は、経典である聖書の内容の信ぴょう性について徹底的に検証されましたが、書かれていることが、もちろん目の前で見たわけではありませんので全ては状況証拠だけですが、聖書に記載された出来事を状況証拠は事実であると肯定しています。

 

話が変わりますが、仏陀は神でしょうか。創造主でしょうか。人間の力や自然の力を超えた存在でしょうか。
仏陀はご自身が神であると主張されたことはないと思います。
仏陀は神の存在について不可知論者であったと聞きます。

 

アメリカの神学者であるポール・リトル氏の本には、「もし神が存在するとすれば、神は個々人が悟りに入るのを助けることができないであろう。各人は、これを自分の力で達成しなければならないであろう。」と仏陀が言ったと書いてありました。まさしく仏陀は人間です。

 

世界の偉大な宗教指導者のうちで、キリストのみが自分を神であると主張されていると思います。そのためにイエスは十字架にかけられて殺されたのです。
すべての宗教を調べたわけではありませんが、私は勝手にそのように思っています。

 

マホメット、仏陀、孔子、この世の新興宗教の教祖も教えを強調します。
本屋の宗教書の棚を見ましたら、多くの本を出している新興宗教の教祖、人の信仰心をもって商売をしている教祖がなんと多いことでしょう。

 

キリストは自分自身の言葉と生きざまを持ってその教え「福音」の焦点とされています。仏教は、多くの知識人は哲学だと言っています。

 

イエスは、本は書かなかったし、商売もしなかった。金儲けとか献金を求めなかったどころか、イエスの主義主張に反対する人たちに迫害されて十字架にかけられて殺され、聖書によれば三日後に復活され自分の主張が事実であることを証されました。

 

聖書に書かれていることは、歴史であり、信仰者の信仰体験から生まれた信仰告白であり、それは、イエスの御霊、聖霊の告白なのです。

 

それに、旧約聖書のころから、イエスの自己の生涯は予言されていたのです。
そして、その予言はすべて実現したのです。このような教祖はどこにもいません。だから信じることができるのです。

 

聖書には、今でもイエスの御霊聖霊がイエスを信じる者を助けるために働かれていると証言されています。
それを裏付けるように聖霊の働きでイエスを信じる者が今でも次から次と起こされているのです。
聖霊はイエスを迎え入れる人々の中に力強く入って行かれ、その者を変えられる。

 

現に数えきれない人々が、イエス・キリストによってその生活に大変革がもたらされたことを証しています。
それが人間の思いから来ているのかどうかは、その人の証言と結果を見ればわかります。

 

だれも感情的ではなくて理性的には聖書を否定できないのです。
聖書に書いてある数々の奇跡もイエスの復活も否定できないのです。

 

イエスの復活は、霊体で復活したとか肉体で復活したとか説はあり、今となっては確認しようがないのですが、復活されたのは事実だと思います。
弟子たちが復活のイエスに出会い、その事実に人生を、命を委ねたのは歴史的事実なのですから。

 

もし、イエスが復活しなかったらキリスト教は今頃歴史の中に消えていたことでしょう。
復活されたから、もろもろの新興宗教が消えていく中で生き残ったのだと思います。

 

ありきたりのことしか書けませんが、最後にポール・リトル氏の「あなたは何を根拠に信じるか」という書名の本があるのですが、その中の一文を紹介します。
「このナザレのイエスは、金も武器も用いずに、アレクサンドロス、カエサル、マホメット、ナポレオンが征服した以上の数えきれない人々を征服された。科学も学問も用いずに、彼は人間の問題と神の問題に、すべての哲学者、その他の学者を合わせた以上の光りを投じられた。学校で雄弁術を習われたわけでもないのに、後にも先にも語られなかったいのちの言葉を語り、雄弁家や詩人がとうていなしえないような影響をもたらされた。

 

たった一行の文書も書かれなかったのに、古今のすべての偉人を集めた以上の筆を動員し、説教、演説、討論、学問的著作、美術品、賛美のテーマをもたらされた。」

 

これほどの証拠があるのに仏教や神道は信じることができても、キリスト教は信じるに値しないと思いますか。
あ、そうそう、わたしがキリスト教(という宗教団体でなく福音)を信じることが出来た理由がもう一つありました。

 

それは、キリスト教は教祖の受難と屈辱を信仰の対象にしているということです。
そのような宗教は他にないと思います。他の宗教にわが身を捨てて他者を救う教祖がいますか。
キリストは、自分の命を捨ててわたしの言葉を信じなさいといわれたのですよ。

 

最後に、イエスは死ぬ前にご自分の名と言葉(福音)を世界中に述べ伝えなさいといって十字架につけられて亡くなりました
現在そのイエスの名前を知らない人は世界中にいるでしょうか。

 

そして、イエスの宣教活動は、つまり、公生涯は約三年と言われていますが、そのたった三年間で語られた教えとなされたことが、その後の約2000年の人類の歴史にどれほどの影響を及ぼしたか、これは誰が考えてもただ事ではないと思うのですがいかがでしょうか。

 

第十章.殉教者の信仰
2000年前の原始教会時代から、クリスチャンは数限りなく殉教してきました。そのほとんどが、自らの信仰の正しさに確信を持ってのことだと伝えられています。

 

それはどういう信仰だったのだろうか。少なくとも、わたしも、一応クリスチャンですが、もしわたしが殉教せざるを得ない立場になったら、できるのだろうか。分からない、いや多分出来ないと思う。だから、今の我々の信仰とは同じではないはずです。どこがどう違っているのだろうか。

 

人は心底思いを持った一人のためには死ねる、という言葉があります。信仰の世界以外でも確かに人のために死ぬ人はいるでしょう。
殉教者の気持ちを、俗な考えで推測すると、その場のムードに流されて抜き差しならなくなって殉教する。

 

殉教するといった手前後へ引けなくなった、いまさら世間に戻ってもろくな生活しか出来ない、そんな世の中で生きるのなら死んだ方がましだ。それとも一時の思い込みだろうか。

 

俗に考えればこうなるが、いざ自分の命がかかるとそのような理由では死ねるのだろうか。それも十字架死である。辱めと苦しみは並みではない。わたしなら逃げ出すかも知れない。それともいろいろ理屈をつけて踏絵をするだろうか。

 

ローマ帝国全盛時代の迫害は、多数のローマ市民の見守る中で、信者は、猛獣に食い殺されたといいます。そのような迫害を受けているクリスチャンを見ながら、その信仰に、おそらく真理を見て、そこには本当のことがあると思って、イエスを信じて信仰を持った人が、次々と起こされたのも事実と聞きます。

 

殉教で死んでいくクリスチャンは、イエスの教えに真理を見て、教えに、死後に希望を持ってあえて身を投じました。その顔は平安だったと言います。もちろん、恐くて破教したクリスチャンもいたでしょうが、迫害は信仰の純化を進めるともいいます。

 

わたしは、そこに神の霊、聖霊の働きをみたいのです。この世の論理では分からない力が殉教者の心の中に働いているのではなかろうか。そのように考えなければ、理解できません。

 

イエスを信じていない人(迫害者)が、イエスを信じるがゆえに死に値するという裁きをする。クリスチャンは、自分たちにはいま人間の裁きが実施されるが、イエスは、必ずこの地上に再び来られて、わたしたちを裁いた人々を裁かれる。そして、自分たちの殉教が神によって正しいとされ、必ず天国にいける。そう深く確信できた場合、人間は殉教ができるかもしれない。

 

そうであれば、この世での死罪の裁きなど、一時の肉体の苦痛にすぎない。イエスを信じる者を、そこまで深く確信させる力が聖書には、イエスの御言葉にはあるはずだ。
つまり、殉教者は、死ぬのではなくて、永遠の命を生きるために殺されるほうを選ぶのです。本当の意味で生きるために殺されるのです。

 

それがキリスト教の根幹だと思います。ローマ帝国の迫害がはじまったときの当時の教会の状況が垣間見られる聖書の個所を見つけましたので、搭載しておきます。聖霊が活発に働いている様が書かれています。

 

ペトロ第一の手紙第1章6節、8節、9節「・・今しばらくの間、いろいろな試練に悩まなければないかも知れませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、・・あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 

イエスを信じたゆえにもたらされる、魂の救いの確信と、内から溢れる輝かしい歓喜。これが迫害の中にあるキリスト者を励まし苦難に耐えさせました。

 

ローマ帝国全盛時代に、迫害を受け、殉教で死んでいくクリスチャンがいたが、それを見て、殉教者の数よりもはるかに多くの信仰者が起こされた事実。これはまさに、聖句の中の「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だは、死ねば、多くの実を結ぶ」新約聖書ヨハネによる福音書12章24節。が実現したことになる。

 

これが聖句の力、福音の力、いや神の霊、聖霊の力ではないでしょうか。多くの信徒や聖書愛読者は、その力が聖書の御言葉の中にあるに違いないと、日々探し求めているのではないでしょうか。
実はわたしもそうなのです。聖書に、イエスの御言葉に何かがあると捜し求めています。

 

聖書に記載されている言葉が、神の御言葉と確信がもてたら、その人の意識のうちには、万物を創造した神がこの世界には存在するという認識、その創造神が約束されたことは、必ず実行されるという認識を明確にもてるのではなかろうか。

 

そうすると、神の言葉、つまり、聖書の御言葉に従ったほうが得というか、希望が持てるということになる。それがなかったら、人間はこの世でのいのちを、ある教えを根拠として、軽視するようなことはしないのではなかろうか。
日本は、信仰の自由が国家権力でもって保証されています。イエスを信じるがゆえに、少々のいじめがあっても殺されることはありません。

 

だから、殉教しましょうという言葉は、今は絵空事。ただ、かつて信仰者をそうさせたくらいの、信仰を持てたらいいなあ、と考えてみることもありますが、ちょっと恐ろしい気がします。ひょっとしたら、このようなわたしでも、その時には神の御霊、聖霊が働かれて死ぬのが怖くなくなるかもしれません。取り越し苦労はやめておきましょう。

 

そこにはどのような世界がまっているのでしょうか。ひょっとしたら、死ぬことなんて怖くなくなるかもしれない。こんな言葉が思い浮かびました。

 

「イエスの御言葉を信じたら、イエスの教えゆえにこの世を生きるのは少々不自由であるが、イエスの言っていることが本当なら、彼岸では永遠の命があり天国へ行ける。

 

もし嘘なら、彼岸はなく無である。もし信じなかったら、この世の人生は、イエスの教えに束縛されない自由な人生を送れるが、イエスの言っていることが本当なら、永遠の地獄行きだ。嘘なら、彼岸はなく無である。」。とすれば、イエスの教えを信じたほうがいいことになる。

 

どこまでわたしは俗人なのでしょうか。ご容赦ください。殉教なんてとてもとてもですね。わたしのような者を、イチクリと言います。まあ、どちらにしても神様もわたしのような者に究極の信仰を求めてはおられないでしょうがね。
最後に、イエスの言葉と十強者の言葉を紹介します。

 

マタイによる福音書第10章28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
豊臣秀吉のキリシタン迫害によって十字架刑で処刑された、当時十二歳のルドヴィコ・茨木の最後状況を紹介します。

 

ひとりの武士がまだ幼い少年を哀れに思い、こう語りかけました。「君がこうして罰を受けるのは、キリスト教を信じているせいだ。だから信仰を捨てれば許して頂いて上げる。そして、君をわたしの養子に迎えよう」。

 

するとルドヴィコは、首を振ってこう答えました。「あなたさまがキリシタンになって、私と一緒に天国へ来てくださるといいのですが」。

 

潔いですね。そして、十字架につけられた状態で、苦しみの極限を味わいながら、聖歌を歌ったということです。信仰を持つということは、人間を恐ろしく強くします。これも人間が自身にもつ神秘だと思います。

 

第十一章.キリスト教と新興宗教
宗教一般の教えは、人を縛ります。
それは宗教と言うのは教えを信じることから成り立っているからでしょう。
人が何かを信じればそれに縛られるのは当たり前のことです。
縛られないのならば信じているとは言えません。

 

宗教の持つ意味の一つには、真の生き方を教え、間違った人生を送らないようにという目的もあるのでしょう。
とくに、新興宗教の中には道徳教といわれるものもあります。

 

社会問題を起こす宗教団体は、その教えを教祖の支配欲、金銭欲あるいは色欲の達成に利用しょうとするところから来るのでしょう。
教祖も、最初は何らかの霊的な自覚があってその道に入られたのでしょうが、途中から我欲に目覚め間違った道に入ることもあるのでしょう。

 

最初は善意で語られた教えも利用の仕方で違ってきます。
信徒も教祖を、その教えを信じていれば、教祖が途中でおかしくなって、これは間違っているかも、と気がついてもなかなか後戻りはできないものです。

 

現状を受け容れるのには多くに時間がかかるでしょう。
また、全ての宗教を調べたわけではないのですが、新興宗教も神道も神概念が非常にあやふやだと思うのです。
両者ともしっかりとした神の存在論がないのです。

 

聖書の神は天地万物の創造主で唯一の存在です。
神の存在論は聖書にいやというほど書かれています。
よく聖書の神と他の宗教の神を比べて論じている人がいますが、それは間違いだと思うのです。

 

両者は、全く違うものだと思うのです。
両者を宗教ととらえれば、同じかも知れませんが、その教えの内容はまったく違います。
そうですね、一般の宗教は、祭儀とか行いをもって人間が神を、あるいは神に代わる何かを求めるのですが、キリスト教は、神が憐れみをもって人間を救おうとされているのですから、全く反対なのです。

 

さて、その救いを告知されるイエスは、わたしが真理だと言っておられるのです。
ということは、真理は唯一ですからイエスの言葉以外は真理でないということです。イエスは神の言葉(ロゴス)、神の意識がイエスになったのです。
そういう存在なのです。

 

だから、キリスト教は宗教というよりこの世の真理と言ったほうがふさわしいと思います。
宗教はこの世のものだから相対的なものですが,キリスト教の教えは真理ですから、絶対的です。

 

しかし、キリスト教も宗教(宗教法人が定義するx宗教)と言う面からみると相対的です。
イエスは神の子と言う面と人の子と言う面の二面性を持つように、キリスト教も真理{絶対的な教え}と言う面と宗教(この世のことだから相対的)と言う面の二面性を持つのです。

 

人間の世界で神の国のことを語るかぎり二面性はやむを得ないと思います。
わたしは聖書の神と他の宗教の神が同じ神だと、同列に考えるからおかしいと思うのです。

 

日本では神道の神も新興宗教の神も聖書の神も同じ神だと思っておられる人が多いのではないでしょうか。
新興宗教などの神と聖書の神は全く別物です。

 

言葉が「神」という同じ文字が当てられているからおかしくなると思うのです。
紛らわしいのは、わたしが思うに、キリスト教が日本にもたらせられた時に、聖書の創造主を日本語で神と訳したことに問題があるのではないかと思っています。

 

第十二章.聖書の言う生きるとは

<生きるとは>

生きると言うことについて聖書はどのように書いているのか、について考えてみます。

聖書によると、イエスを救い主として信じるすべての人には、全く新しい命が与えられます。

それは、 「だれでもキリストにあるならば、そこには新たな創造が起きるのです」(新約聖書第二コリント5章17節)とあるからです。

 

これは、わたしたちが、イエスから全く新しいからだ、新たな創造、つまり、新しい命が与えられることを言っているのだと思います。

新しい命というのは、この生まれながら持っている命、神に逆らって、神を知らずにいる命、つまり、古い命に対して神と共に生きる永遠の命のことだと思います。

そして、その創造はキリストを信じたその時から始まっているのです。

 

信じられないことですが、本当だと聖書には書いてあります。

そんな馬鹿な、といわれる方もたくさんおられると思いますが、そのことを信じてクリスチャンになった人はこの世界人口の3分の1以上を占めるのです。

この2000年間に、そのことのために命を捨ててきた人も数えきれません。

これらは疑う余地のない歴史的事実です。

だからどんなにバカバカしいと思っても真面目に考えてみる価値は十分にあると思うのです。

 

なお、上記聖句の「キリストにあるならば」というのは、キリストの言葉を信じてそこに希望を持ち続けるならば、という意味だと思います。

 

旧約聖書の創世記第9章4節で、「しかし、あなたたちは、肉をその命の血と共に食べてはならない。」とあり、同6節には、「人の血を流す者は、人によって彼の血も流される。 (神は)人を神の姿に造られたからである。」 とあります。

旧約聖書レビ記第17章14節には、血は命であるとあります。

こうして見ると、血が命のキーポイントだと分かります。

医学的には、血そのものは命ではないことはあきらかですから、聖書において血は命を象徴しているということでしょう。

 

したがって、旧約聖書の創世記第9章6節にある人の血を流すことは、人を殺すこと、人の命を奪うこと、という意味だと思います

 

聖書は、「血」は、赤血球と白血球で構成するただの液体ではない。それには、その人の命が宿っている、だから血は尊いものであり神聖なものだと言っているのだと思います。人の血は尊いもの、神聖なものなのです。

だから人の血は、簡単に流してはだめなのです。

 

イエスが十字架上で流された血が、罪の赦しの贖いのためであるという信仰は、そこに血は命であり尊くて神聖なものという、霊的な意味から含まれているから成り立つのだと思います。

 

血が、赤血球と白血球で構成するただの液体ととらえるなら、イエスが流された血が贖いの血であるという信仰は生まれないと思うのです。

血は流れているから血であって、命も働いているから命なのだと思います。

どちらも流れて、あるいは働いていなければ死んでいます。

 

新約聖書ヨハネによる福音書第78章38節で、イエスは聖霊を「生きた水」と表現されています。聖霊は水のようにたゆまず流れているのですね。

聖霊は神の霊ですから、聖霊が生きた水であれば、聖書の神は生ける神だということになります。神は、生きておられる、常に働いておられるということだと思います。

 

<命の息>

創世記2章7節に、「主なる神は、土(アダム)の塵で人(アダマ)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」 とあります。

 

旧約聖書の創世記には、人間の創造において神は、まず土から塵の人を造られて、それから、その塵の人に神は命の息を吹き込まれた。 すると、生きた人になったと書いてありますから、人は、塵{土}で造った人に息を吹き込まれて生きた人にされたのですね。この生きるというのは後で書きますが通常わたしたちが生きると言っている意味と違い、命のもとである神の霊を宿すことにより初めて生きると言っているのだと思います。

 

この息の意味を調べますと、この息は人間だけでなく他の動物をも生かす息とのことです。原語は複数形ということですから、それは息を吹き込んだのは動物一般をさすということになります。

だから、この段階の人間は、動物並みの息の人で、鼻で息をして動く人間のことということになります。

 

わたしは最初、創世記2章7節の息を吹き込んだら生きた人となったとありますから、この生きた者というのは、はたして、塵の人がたんに生きた者となったという意味か、霊を吹き込まれて霊の人になったのかどちらを取ればよいのか分かりませんでした。

 

しかし、よく考えると、人間はもともと神と交信できる人格を持った存在として造られていますから、神と交信できるということは、それは霊的存在であることを示します。だから霊をも吹き込まれていたはずだと思うのです。

 

したがって、ここでは特に人間の創造が語られているのですから、この命の息は、単に動物的な生命を支える息を意味するだけでなく、霊的存在としての人間につながる意味を秘めていると思うのです。

 

ここの息という字の原語が書いてある解説書を見ますと、「ニッシャーマー」、この意味は、息だけでなく霊の意味もあると書いてありました。だから、ここの命の息は、霊をも含んでいると考えたいと思います。

 

<神の霊>

創世記第1章27節には人間が他の動物と違って神にかたどって創造されたと書いてあります。だから、エデンの 園で神と霊的に交わっていた頃の人間には、ほんらい、このような霊的な輝きが具わっていたと思うのです。

 

新約聖書では、この神の霊が宿っている人を生きた人といい、死人というのは、神の霊が宿っていない塵の人のことを言います。

塵の人は、動物と同じで、息をして動いているだけの人という見方をしています。

こういう人を死んだ人というのです。

つまり、イエスを信じていない全ての人々のことを言います。

 

なぜなら、アダムが神から離反して、そのために以降の人類の子孫全ては神との交流が無くなって命の息、霊を受けることが出来なくなったからです。

人間は常に神様と交流して、霊を受け取っていなければ生きているとは言えないのですね。

本当に生きているという状態はどんなに素晴らしいか体験したいと思います。

 

イエスの言葉を信じることによって、その人に神の霊が宿りますから、そこで初めて人は生きる者となるのです

 

人は神と共にあって初めて生きる者と言えるのですね。人が神と共に生きることが、神のかたちとして生きること。イエスを信じることにより神の霊、聖霊がその人に内住されると聖書には書いてありますから、その聖霊の働きによりその人の中で新しい命が創造するのです。だから人は生きる者となるのです。

 

殺人(戦争を含めて)とか自殺による死は、病気で死ぬとか老衰で死ぬという自然の死ではありません。

なぜならこれは、人間が意図的に作り出した死だからです。

 

戦争による死も、自然死ではなく歴史的の中での死といえます。

だから、殺人者とか戦争を遂行する人は、自分では手を下さなくても死を作り出し、憎しみを生み出し、偽りを語る罪人だと思います。

彼らは死んでいる人だと思います。

神の霊を宿している人なら、命を大切にして命を育てようとするはずです。

 

自殺が罪かという問題は、ここでは取り上げませんが、わたしは一概に罪だと言えないと思っています。

それはいま私たちが生きて生活しているこの人間社会の制度そのものが罪を生みだす制度だと思うからです。

 

このように、イエスが生きている人たちあるいは死んでいる人たちと言われるのは、肉体が生きているか、いないかは、直接かかわりがないということになります。

 

<生と死>

人間は、肉体の姿形を神から与えられています。

でもこれだけでは生きているのか死んでいるのか分かりません。

人間は姿形だけではなく息をします。神は人間を創造したときその鼻に命の息を込まれました(創世記第2章7節)から人間は生きるものとなりました。

ということは、人間は息が与えられると生きて、息を引き取ると死ぬということになります。

 

わたしたちは、臨終の際に息を引き取るといいますが、その引き取るは、神によって息が引き取られるという意味にも取れます。

神が息を与えて生きる、神が息を引き取るから死ぬのですから、命は神から来ているということになります。

 

だから聖書の神は生ける神であり命の神です。命は神のもので、神が命を左右しておられるのです。これが聖書の基本的な信仰だと思います。

 

主は生きておられるという言葉が聖書に度々でてくるのも、ここから来ていると思います(旧約聖書サムエル記上25章34節、同列王記上22章14節)。

ただし、この段階で、生きているだけでは人間も動物も変わりません。

 

<生きた人間・死んだ人間>

さて、次は、人間を創造したときに神は、人間の鼻に息を吹きいれられましたが、その息には命の息以外に霊の息の意味もあるのではとわたしは思っています。なぜなら、それは、人間は霊的な存在で、神と人格的に交わることができる存在だと聖書には書いてあるからです。

 

神と人格的に交わりながら生きている人間の姿が、真に生きる人間の姿だと言うことだと思うのです。

 

聖書では、そういう神の霊を宿した人間を生きた人間、神の霊を宿していない命の息だけの人間を死んだ人間と言っていると思うのです。

この死んだと言うのは肉体が生物学的に死ぬことではなく、罪によって死ぬということです。それは、最初の人アダムが神から離反したのでアダムと神との交流が断絶し、アダムは霊の息を宿さなくなったので死ぬものとなったということです。

 

神からの離反を罪といい、その罪を背負った性質がアダムの子孫である現在までの人類が受け継いでいるということです。

聖書でよく言う罪の報いは死というのはこのことを言うのだと思います。

 

だから、罪によって死んだ人間というのは動物のように生きているだけの存在ということになります。

 

アダム以降生まれてきた人類はすべて霊的に、例外なく死んでいるのです。

霊的に死んでいる人間の性質は、霊的に自分が死んでいることが分からないのです。

 

死んでいるが死んでいる自分が分からない。その特徴は、神と人格的な交わりがなく、世に流されて、肉の欲(物質的な欲、社会的な欲)、精神的な歓び(人から来る歓び)に心を奪われて、それが罪であることも、その原因にも、つまり、それは神でなくサタンに支配されているのが原因だと気がついていないということです(エフェソの信徒への手紙第2章1節から3節)。

 

真の生きた人間とは、神の御霊、聖霊を宿し,神の霊と共に生きる人間、神と交流ができる人間のことで、これを聖書では神の似姿をもった人間と表現しているのだと思います。

その人間から生まれるものは、物欲とか、金銭欲とか、人の目つまり名誉とか支配欲などではなく愛(隣人を自分のように愛する愛)と信仰(神への信頼)と希望(来世への希望)を大切にして生きる姿だと思います。

創世記からヨハネ黙示録まで、聖書が言う命の本当の意味がこの意味だと思います。このような命は神に属していますから、神は永遠ですから属する命も本質的に永遠性を帯びているということになります。このような命の反対が死んでいるとなります。

これらのことを、誰が決めたかと問われますと、それは、神の御言葉です。

聖書にそのように書いてあるからです。

 

<神の言葉>

といっても、聖書を読んだことのない人には何のことかさっぱりわからないと思いますので、神の言葉について少し書いてみます。おそらくこのような考え方は、キリスト教のみだと思います。

 

わたしたちは普段言葉を用いていますが、言葉には二つの面があると思うのです。そうですね一つの面は、特定の出来事や物の意味を伝えるための言葉のように、目で見て確かめることができる言葉があります。

 

もう一つの面は、人は言葉を発することにより、聞く人に自分の思いを伝えようとしますが、そのような、目で見て確かめることが出来ない自分の思いを伝えるための手段としての言葉があります。

典型的なのは、あなたを愛しますという言葉にはあなたを愛するという言葉を発した人の思いが込められています。

聖書では、神も言葉を発します。

神の言葉は人間の言葉と違って、神の言葉は霊です。

この霊の言葉が発せられることによって、発せられた言葉通りのことが出来事となって起こるのです。なぜなら、霊の言葉には神の思いが込められていて、発せられるとその霊の言葉が働き、言葉通りになるのです。

だから「言葉」は聞くものに影響を与えるエネルギーなのです。

もちろん、神の言葉と人間の言葉はその力の強さは全く違います。

 

つまり、言葉を発することとその言葉によって言葉通りの出来事が起こることがイコールなのです。

だから、言葉を発すること自体が出来事なのです。

つまり、神が言葉を発すると、神の霊聖霊が働き言葉通りの出来事が実現するのです。

 

また、神の言葉は、絶対なのです。人間の言葉のように発せられてもそのようになるかならないかわからないのではないのです。

聖書はそういう原則に立っていると思います。

 

イエスは弟子たちに「わたしの言葉を述べ伝えなさい」と言われました。

約2000年前に発せられたこの言葉が今も働いているのです。

その働きが、キリスト教が世界中に流布したエネルギーの根源だと思います。

 

聖書の言葉は神であるイエスが発せられた言葉ですから聖書は聖霊の働く場ということになります。

 

聖書の言葉はそれを読む者に聖霊が働かれるということになります。

また、霊の言葉を読むときは、否定して読むのではなしに、全面的に受け入れて心で読むのが大切だと思います。

 

そうでなければ、霊の言葉、聖霊は働かれないと思うのです。

もうひとつ、霊の言葉には命があるといえます。なぜなら、命の根源は神の言葉から出ているというのが聖書の教えだと思うからです。

神の御言葉は、人が発する言葉よりもはるかに影響は大き く、全世界の教会やクリスチャンたちの行動として現われます。

そう、キリストを証するという行動です。キリストに倣って生きると言う行動です。

 

神の言葉は目には見えません。しかしその見えない言葉が、実は見える教会、クリスチャン全部の行動を支配しているということです。

キリスト教徒の集団とはそういうものだと思います。そこには新しい命が躍動しているのです。

 

ヨハネによる福音書第1章1節から4節の聖句 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずになったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

 

この聖句には、イエスは神の言葉、つまり神の思いが込められた言葉だと書いてあります。神の言葉は、神の霊、聖霊が働く場ですから、イエスは神の霊、聖霊により成ったと言うことになります。

だからイエスは神を顕すということになります。イエスを見た者は神を見たことになります。「言」がイエスだということは、同14節に「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」という聖句です。

神の言葉が肉(肉体をまとったこの地上に生きる人間)となったのです。そのイエスの発せられる言葉は神の言葉であり、イエスのことを語る神の言葉、聖霊が働き書かれた聖書も神の言葉で、それらは聖霊が働く場であるということです。したがって、キリスト教は言葉の宗教といいます。このような聖書はこの世に唯一無二のものです。

 

イエスを通して語られた神の言葉は、真理であり、霊であり、新しい命なのです。キリスト教伝道のすべての現象はこのイエスの言葉、命の言葉から始まると思います。

 

 

新興宗教は、道徳教と言ってもよいものと、御利益(本当に御利益があるかどうかは知りませんが)を前面に出して、信者を増やしている所が多いと思います。
教祖は、自分の教えをあらゆる手段を通じて広めようとします。
本を出版してお金に換えようとします。
ベンツに乗り豪勢な暮らしをしている人もいます。

 

そのように、生きているうちに花を咲かせようとしている教祖も多いと思います。
そのような方が多いと思うのですが間違っていましたらお許しください。
イエスは、生きているときは無一文で、その教えのために迫害されながら、教えを述べ、そのために十字架にかけられ殺されてしまいました。

 

その後2000年間のキリスト教の歩みを見ると、イエスの教えは死んでから大きく花が咲いたといえます。
そうなることを、十字架の前に予告されてもいました。
もちろん、お金とか権力などは無縁の世界です。

 

キリスト教も献金とか言ってお金を集めていますが、それは教会が集めているので、イエスではありません。
イエスはお金を要求されたことはありません。

 

キリスト教の教職者にもご自分が献身者(人に仕える立場)であることを忘れて、お金とか家族に執着して問題を起こす方もたまにはおられます。
新約聖書に次のようなパウロの言葉もあります。

 

コリントの信徒への手紙一 第7章32節から34節、「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。・・・。」

 

世のことに心を奪われていたら、主のことがおろそかになると言うことでしょうか、ゆめゆめ気をつけねばと思います。
新約聖書の中には、イエスが直接自分で書いた文書は一つもありません。

 

イエスの弟子が聖霊の導きを得て書いたと言われています。
なにしろ、新約聖書はイエスが十字架で死んでから二十年以上経てから書かれたものです。

 

それにイエスは自分の教えを他人に説得しろとか強制しろとは言われていないのです。
ただのべ伝えなさいといわれているのです。
あとは聖霊の働きに任せなさいといわれているのです。

 

聖霊と言うのはキリスト教独自のものだと思います。
本当に聖霊などいるのですか、と聞かれそうですが、目に見えないので説明がなかなか難しいのですが、聖霊の働きを自分で体験するか、聖霊が働いたとしか思えない出来事を見て信じるしかないと思います。

 

キリストを信じて洗礼を受けている人が世界で三十億以上おられます。
少なくとも、その人たちは聖霊の存在と働きを体験し信じているのです。
これは事実なのです。

 

イエスは自分の書いた本を買えとか献金しろとかは一度も言われていません。権力を持とうと、また行使しようとされたこともありません。
ただこの世の真実の姿を教えにこられただけなのです。

 

こうしてキリスト教を見ると新興宗教とは随分違うと思います。
どちらが本当だと思いますか。

 

キリスト教と他の宗教との違いをもう一つ書きますと、他の宗教は何らかの儀式や教義、あるいは病気を癒す(実際に完全に癒されるかどうかはわかりませんが)などの御利益それ自体が目的となっているのが多いと思いますが、キリスト教の目的は、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた、イエス・キリストを知ることだといえます。

 

イエスにすべてをゆだねて共に生きることがキリスト信仰だと思います。
イエスが自分で書いたものを一切残さなかったのは、イエスは復活の御霊、聖霊となって、常に信者の内にいて、信者と共にいて下さり働かれるから必要がないのです。

 

だから、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われるのです。嘘だと思われるでしょうが、クリスチャンはそのことを信じ、あるいは体験し、今でも来世に希望を持って死んでいくのです。
これは事実です。

 

このような宗教、あるいは、このような教祖はおられますか。
また、イエスは死ぬ前にご自分の言葉を世界中に述べ伝えなさいといって十字架につけられて亡くなりました。

 

現在そのイエスの名前を知らない人は世界中にいるでしょうか。
そして、イエスの宣教活動は、つまり、公生涯は約三年と言われていますが、そのたった三年間で語られた教えとなされたことが、その後の約2000年の人類の歴史にどれほどの影響を及ぼしたか。
その事実を知ると、これは誰が考えてもただ事ではないと思うのですがいかがでしょうか。

 

これはわたしが実際に経験したことですが、ある新興宗教の方が人を信仰に導くとき、病気の方とか、何か悩み事を抱えて困っている人に教祖が祈れば癒され、叶えられるといって誘っておられました。

 

その教祖が神の代行者だと言っておられました。
これなどキリスト教とは全く異なります。
キリスト教の伝道は、罪から救われる道を、救われる方法を伝え、救われた時の喜びの証を持って伝道するのです。

 

確かに、癒しの奇跡をなされましたが、御利益が本筋ではないのです。
そして、その罪と言うのは何も道徳的なものではなく、人間が神から離反して自己本位で生きているのを罪だと言っているのです。

 

人間は神の被造物で、被造物は創造主のために存在するのです。
その被造物が創造神の意向(創造の目的)から離れればそれは創造神から見れば罪になります。当然のことです。

 

道徳に反する罪とか刑法に該当する罪を犯すのは、神から離反している生まれたままの命の状態ではあって当たり前なのです。
何が真理かもわからないのですから、罪を犯すのは当たり前です。
パウロは生まれながらの命を持つわたしたちは罪に囚われていると表現しています。

 

イエス・キリストは罪に囚われているわたしたちを罪から解放するためにこの世に来られたのです。
こうしてみると、仏教とか神道とか新興宗教とは、わたしにはそれらの宗教のことを詳しくは知りませんが、一般的に理解されている範囲で比べてみましても、根本的に違うと思うのです。いかがでしょうか。

 

あ、そうそう、もう一つキリスト教と新興宗教に大きな違いがありました。
それは、十字架で象徴されるように、キリスト教は教祖の受難と屈辱を信仰の対象にしているということです。

 

そのような宗教は他にないと思います。
他の宗教にわが身を捨てて他者を救う教祖がいますか。
自分の命を捨ててわたしの言葉を信じなさいといわれたのですよ。

 

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