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キリスト信仰について(前編)

第一章.キリスト信仰概観

第二章.キリスト教は宗教か
<キリスト教は宗教か>
<霊の結ぶ実>
<信じるとは>
<わたしを愛する者>
<愛には行いが伴う>
第三章.キリスト教は教えの宗教ではない
第四章.キリスト教の不思議な生い立ち
第五章.キリスト教は聖霊の宗教
第六章.キリスト教の救いと裁き
第七章.罪と救いの構造
第八章.十字架と救いについて
第九章.エクレシアと制度的共同体
第十章.神の言葉(福音)
<神の言葉>
<福音書>
<福音について>
第十一章、宗教心とキリスト信仰
<神が人間になった理由>
<十字架は神にとって苦しみか>
第十二章.キリスト教は信じるに値するのか
第十三章.洗礼について
第十四章.クリスチャン
第十五章.キリストを信じる者
<信仰と希望と愛>
<二つの戒め>
<聖霊によってもたらされる神の愛>
第十六章.福音の力と人間の変容
<福音の力>
<人間の変容>
<万物の完成と希望>

第十七章.キリスト教の伝道
<キリスト教の誕生から伝道>
<キリスト教の布教>
<自由意志と聖霊の働きのもとに>

 

本文
キリスト信仰について書いてみたいと思います。同時にキリスト信仰に伴ういろいろな疑問を考察してみたいと思います。

第一章 キリスト信仰概観

聖書において神は、どこか遠い空で鎮座しておられるのではなく働きそのものです。

神はこの天地万物を存在させ、生命を生起させ、支えておられる働きそのものなのです。

 

神の働きの色々な面の一部の体験が世界中にある様々な宗教となったのだと思うのです。

日本の多神教も、日本人は自然を神秘なるものととらえますから、おそらくその精緻さに神秘を覚え、それに、その自然を創造した神の働きが余りにも断片的で無数であるから、生まれたと言えます。

 

つまり、一つ一つの神の働きを一つの神としてとらえますから、八百万(やおよろず)の神々が生まれたのだと思います。

 

世界の宗教は多神教が殆どで、一神教は旧約聖書を正典とする、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教のみではないでしょうか。

いずれも旧約聖書を経典としています。

一神教の神が唯一であると言う信仰は、いわば、そのような多神教の中で、つまり、無数の神の働きの中で働きの全体を統一的に理解して、その働きの全体を「神」として捉えていると言うことになります。それが聖書の神です。

 

モーセに啓示されたヤハウェという神の名も、「わたしはある。わたしはあるという者だ」というように動詞が繰り返されていて、神が働きそのものであることを語っています。

そして、「わたし」とありますから、神は人格神として認識されているのです。

 

このようにイスラエルの宗教史において成立した唯一神信仰がキリスト教とイスラム教に受け継がれて、一神教世界を形成することになりました。

 

「キリスト」というのは「救い主」という意味ですから、ブッダ(釈迦)や孔子やソクラテスというような聖人や賢者の一人を指す名前ではありません。

 

ユダヤ教は現在もその方を、すなわち、人類救済の働きを地上にもたらせた方を「メシア」(そのギリシヤ語訳がキリスト)と呼んで、イエスはキリストではないとして、ユダヤ教指導者らはイエスを十字架で殺してしまいましたが、現在も自分たちを救うメシアの出現を将来に待ち望んでいるということでしょう。

 

イスラム教では、ムハンマドは最後の預言者(神の言葉を預かり伝える者)と言っていますが、預言者であってキリスト(救い主)ではありません。

 

仏教では、ブッダは悟りを説く賢者ですがキリスト(救い主)ではありません。ブッダの教えは小乗仏教を産みますが、後に救済の働きをする超越者への待望が大乗仏教を生み、アミダ仏が仏教におけるキリストの役割を果たすようになったと言うことですが、その根拠とか証拠はあるのでしょうか。

 

わたしは仏教とかイスラム教のことも、一般の人が持っている知識以上のことは知りませんが、その様に思っています。間違っていればご容赦ください。

 

キリスト教の福音(人類救済の知らせ)は、そのキリストが約2000年前に生まれた一人の歴史的人物であるナザレのイエスにおいて出現したと告知しているのです。

したがって、イエス・キリストという名は固有名詞ではないのです。

 

旧約聖書の創世記の創造物語は、唯一の創造神がおられ、人間はその創造神によってこの世界全体と共に創造された。

現実の人間は人間の本来の在り方、本来いるべき場(創造神の創造のご計画の中で創造神と共に歩む場)から転落しているという理解です。

創造物語の中でそのことをアダムの堕落という神話的な形で物語っています。

 

旧約聖書のアブラハム以降は、堕落した人間の神によるイスラエル民族による

救済物語となっています。

新約聖書において、神は、イスラエル民族による人類救済計画を一旦あきらめて、御子イエス・キリストの十字架死による罪の贖いと、復活によって、キリストの弟子による新たな人類救済計画が始まります。

すなわち、イスラエル民族に代わってキリスト者(クリスチャン)が、その役目を果たすのです。

 

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」(ローマ書3章23節)とパウロは言っています。

 

その罪ですが、ユダヤ教では、罪とは神の律法(モーセ律法)に背く諸々の行為を指しますから、罪という用語を使うときは常に複数形が用いられているそうです。

しかし、パウロが罪という用語を使うときは、複数形で用いることはなく、いつも単数形を使っているということです。

 

それはパウロが罪を律法(行いの規範)に対する諸々の違反行為ではなく、人間の在り方全体(神から離反している事実)を指していますから、人間は罪の支配下に陥っていると理解すべきであるとしています。いわゆる原罪ですね。

 

先のパウロの言葉の中の「神の栄光」とは、神の働きを受けて聖霊によって神が与えられる良きものということでしょう。

その良きものの中の究極が、神ご自身の命である永遠の命です。その永遠の命に与れない者には死があるのみです。ちゃんと筋が通っています。

 

このように聖書では、神から離反していることが罪であり死ですから、わたしたちは「罪と死の律法」の下にある、とパウロは言っているのです。

 

罪は神から離反している状態で、永遠の命は神によってもたらされるものですから、神と離反している状態ではやがて死(肉体だけでなく霊的にも一切が消滅)が訪れるのはやむをえません。

ですから、人間はの本質は肉体でなく霊的存在なのです。

 

神から離反していることを罪というのですが、具体的には、わたしはこの世界は、神が目的をもって創造され、創造された時に設けられたあらゆる法則によって成り立っていると思うのです。この被造世界を見ればそれは明らかです。

 

罪と言うのは、その法則に違反している状態です。

個々の罪は神から離反していることから派生して起こる、すなわち、いのちの法則に違反しているから起こっていると思うのです。

 

パウロは、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ書8章2節)と言っています。

 

具体的には、神はキリストであるイエスの中に働き、イエスを十字架にかけることにより、罪と罪人の贖いを成し遂げ、イエスを死者の中から復活させることによって、復活されたイエスがキリストであることを世界に公示されたのです(ローマ書1章4節)

 

このことをパウロは、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ書8章3節)と言っています。

 

この「肉」という語は、生まれながらの人間の本性を指しています。

人間は本性の弱さ(誘惑に対する)のために、モーセ律法が、すなわちユダヤ教がなしえなかったことを、神が成し遂げてくださった、ということでしょう。

 

そしてパウロは神の愛について「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき(神の背いていた時)、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ書5章6~8節)と言っています。

 

まさにこのキリストの自己犠牲(十字架死)こそ、神の愛(アガペー)の現れだと言っているのです。

 

こうして見ると、同じ宗教でもキリスト教とほかの宗教の教えが全く違うことが分かります。

ほかの宗教の救いは、人間に行い(修行とか儀式)を求めますが、キリスト教は神の人間に対する一方的な愛です。

 

聖書には、病が癒される話、悪霊から人を解放する話、はては、死んだ人が生き返る話、いろいろと信じられないことが書いてあります。

そして、極めつけはイエスの十字架死は全人類の罪を贖うための死だと教えます。

 

そして、それらの出来事は、神の人類救済の御計画の御業の一貫だと言っているのです。

 

ここで確認しておきたいのですが、信じるとは、聖書に書かれたそれらのことを肯定的に読むことだと思っています。

ですからこの投稿文を読まれる方は、聖書に書かれていることを(疑っても)肯定的に受け取っていただきたいのです。

そうでないと、この文書とか聖書を読んでも意味ありません。

 

頭から聖書を否定するのならば、読む必要はありません。疑いは否定ではありません。疑いを晴らすために肯定的に読むことも必要だと思うのです。

それではイエスはどのような理由で奇跡を起こされたのでしょうか。

見世物のためでしょうか、それとも気まぐれでしょうか。

 

もし、見世物とか気まぐれでなされたのならば、十字架に架けられて苦しまれる必要はなかったのではないでしょうか。見世物に命をかける必要はありません。

 

それでは、病に苦しむ人をただ憐れまれたからその様な奇跡を起こされたのでしょうか。もし、憐みゆえの奇跡でしたら、世界中の病を持つすべての人を癒されたほうが、悲しんでいる人々を喜ばせることができますので、よほど理に適っています。

 

イエスは神の子ですからそれができるはずです。でも、その様になさらなかった。

それはやはりそのほかに重大な(イエスが神の人類救済の御計画のためにこの世に来られたとするならば)神のご計画があったからと言えないでしょうか。

 

私たちは、病をイエスに癒されても、また病気になって治っても、私たちはまた病気になります。

イエスの言葉を信じて罪から救われてもまた罪を犯します。ラザロのようにたとえ死から生き返っても、その人はやがて必ず死にます。

 

病も罪を犯すのも死も、厳然たる事実としてすべての人に例外なくやって来ます。例外はないのです。

では、イエスが伝えた「救い」とはいったいなんでしょうか。わたしたちを何から救おうとされたのでしょうか。

 

わたしはイエスの御業(奇跡)は、今のこの世において、神が働いてくださっていることの「しるし」ではないかと思うのです。

祈ることによって病気が治るというのは、神の御霊、聖霊がわたしたちの体を支えていてくださることの「しるし」であり「証し」だと思うのです。

 

「しるし」であれば、ラザロとかヤイロの娘が生き返ったのは、実は死んでいなかったということになります。

 

そうでしょう。本当にわたしたちの命を創造し、支えておられる神の御霊、聖霊がおられるとしたら、ラザロとかヤイロの娘の命はその人個人のものではなく創造主である神のものと言うことになるからです。

また、その通りですが。

 

聖書は語ります。神の御霊、聖霊は、命を生み、支え、わたしたちを新しい人間に造り変え、新しい人間が住む新しい天地を創造しょうとされている。

 

そのために、今もイエスの福音を受け入れた者に内住し、昼も夜も休まずに働いておられると。

このように聖霊は、神の御霊と言われ、イエスに代わってこの世界に遍在され神のご計画のために働いておられます。

 

わたしたちが生きているこの時間と空間の世界、この今の時代、今の世、この時代の中で、全く新しい時代、新しい天地が準備されつつあるのです。

人類の歴史も宇宙の歴史も、そのことに向かって進行しているということです。

 

やがてわたしたちの身体も精神もその全存在も、全く新しい天地にふさわしい新しい人間へとよみがえる。(黙示録21章参照)

これが聖書の言う復活ではないでしょうか。わたしはその様に理解しています。

 

新しい人類と新天新地の創造です。こういう驚くべき事態が、聖霊によって進められています。

「天地は滅んでも、わたしの言葉は滅びることがない」とイエスが言われましたが、このことを言っておられるのだと思います。

 

わたしたち人類に啓示されたイエスの人類救済の御業は、現在まだ進行中です。まだ終わっていません。しかし、そういう事態は必ず到来するのです。

 

聖霊は今もわたしたちと共に、わたしたちを通じて、人類と宇宙の救いの完成を目指して歩んでおられる。

そのことを約2000年前にイエスはこの世に来られて、わたしたちに告知されました。

 

そのことを実現する為に、神から離反しているわたしたち一人ひとりに、今も神の御霊、聖霊が働き掛け、語り、聞かせ、信じさせ、覚らせて啓示してくださっているのです。

 

まさに初めから終わりまで、神による恩恵の支配です。この宇宙を造られた創造主のご計画ですから、必ず成るのです。

 

わたしたちはその働きかけに応えるだけで、自分からは何もできません。

それらのことをイエスはわたしたちに告知する為に来られたのです。そのイエスの告知はまさしくわたしたちにとって(信じる者にとって)福音と言えます。

 

だから、処女降誕から復活まで、福音書で語られるイエスの出来事が、奇跡としるしと不思議で満たされているのは当然だと言えます。

わたしたちの想像の世界を超えた事態が今現実に起こっているからです。

 

全てはイエスの十字架のおかげです。

その出来事があったから、神の御霊、聖霊はこの世に降り神の支配が始まったのです。

神の働きはもう止めようがないし止まらないし、必ず成るのです。

 

わたしたちにはただ聖霊の導かれるままに、イエスの言われた言葉(福音)を信じて心に留めてこの地上の生を歩むだけです。

その上にイエスは、キリストの弟子になった者に「全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣ベ伝えなさい。」(マルコの福音書16章15節他)と命令されています。

 

このような神の素晴らしいご計画を信じてこの世を生きる方が、この世界のどうしょうもない悲惨な姿に悲観して、希望のない暗闇の中を生きるよりもよほどましだと思いませんか。

 

さて、神の働きはよくわかったけれども、では、どうすればわたしたちは神の意志を知ることが出来るのでしょうか、となります。

 

それは自己の潜在意識を聖霊に支配していただくと言うことだと思うのですが、それでは、その潜在意識とはいったい何でしょうか。

 

「潜在意識」という言葉には意識という言葉がついているので、意識の一種ということはすぐに理解ができます。

意識というとフロイトを思い出します。フロイトは、意識には顕在意識(意識している部分)と潜在意識(無意識)があるといいました。

 

聖書では、生まれたままの古い命に生きる者は、その潜在意識は悪魔に支配されているという前提にあります。

この古い命に生きる者に対する言葉は、キリストにあって新しい命に生きる者となります。

新しい命に生きる者とは、イエスの言葉を信じて心に留めて生きる者です。それはキリスト者、つまり、クリスチャンと呼ばれる人々です。

 

だから、その者の潜在意識は、悪魔に代わって神の御霊、聖霊が支配していると言うことになります。

 

潜在意識は、わたしたちの普段の行動、思考、意思決定に大きく関与し、影響を与えています。

従って、潜在意識に悪い情報が詰まっていると、当然、自分の人生にも大きな悪影響を与えることが理解できます。

 

それでは、潜在意識を神の御霊、聖霊が支配されているかどうかは、どうすればわかるのでしょうか。

それは、聖書の言葉に反することをしょうと思えば、神の御霊、聖霊が支配されている潜在意識であればきっと悲しまれるでしょうから、心に葛藤が生まれるのではないでしょうか。

「良心」は神が人間に与えられた意識ですから、聖霊が良心に働きかけて潜在意識を産み出すとということでしょうか。

 

「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイの福音書1234節)とイエスも言っておられます。

 

聖書はその潜在意識を神の御霊、聖霊の支配に委ねなさいと言っているのです。それが聖書の言う救いなのでしょう。

 

イエスは、「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネによる福音書/14章 23節)と言っておられます。

 

そのためにわたしたちがすべきことは、イエスの言葉を信じて心に留めて生きることです。

 

この「愛する」と言うのは、イエスの言葉(聖書の言葉)を信じて守るということでしょう。

 

したがって、キリスト教の伝道は、神の御霊、聖霊に潜在意識を支配された人たちの、御霊と共に歩んだ体験の告白だと思うのです。

 

新しい人間、新しい天地の創造、その先駆けとしてキリストの福音を受け入れた者の集まりであるキリストに属する者の集会(共同体)、あるいは、教会(エクレシア)があると思うのです。

 

キリストの教会(エクレシア)はまだまだ未熟です。成長過程にあると思うのです。だから、教団とか教派がいろいろとあり、構成する信徒も玉石混合です。

 

新しく生まれ、消滅し、また、有機体のように大きくなり小さくなり、去っていく人がいれば入ってくる人もいる。

こうしてこの世の中で苦しみ悶えながら成長して行くのでしょう。

 

したがって、神が設けられたキリストの教会と言っても、救いは人間との共同作業(神の言葉、福音を広めるのは、人から人への言葉による伝道によりますから)ですから、絶対ではないのです。

 

聖書では、この世は約2000年前までは悪魔が支配していました。

その真っ只中にイエスは降ってこられ、ご自分の支配領域を神の御霊、聖霊と人間との共同作業によって作り、広げようとされているのです。

そうして出来上がった支配領域が、キリスト教会であり信徒の集まりである共同体なのです。

 

まだまだこの世界の悪魔の支配領域は広いのですが、一歩一歩と神の支配領域が広がり、やがてすべてが神の支配領域になります。

 

その時に新しい人間と新しい天地が完成するのだと思うのです。

それまで我々人類は罪(神からの離反とそこから派生して起こる罪)の中で呻き苦しみ続けることになるのでしょう。

 

その苦しみは、忍耐することによって新しい人間、新しい天地という希望を生むのです。

 

この世は、永遠の命を生きる過程で、わたしたちにとって、まだ始まったばかりの小学校のようなものだと思うのです。

第二章 キリスト教は宗教か
<キリスト教は宗教か>
一般に宗教というのは、ネット辞書で調べると、「日本語の「宗教」という語は、仏教学者の中村元氏によると、仏教に由来する。仏教において、「宗の教え」、つまり、究極の原理や真理を意味する「宗」に関する「教え」を意味しており、・・」とありますから、宗教とは究極の原理や真理の教えなのです。

 

「究極の原理や真理の教え」ですから、そういう意味では、キリスト教は宗教ではないのです。
ですから、イエスは宗教団体の教祖でもありません。
イエスは、生前宗教団体の教祖と呼ばれたことはないし、本人もそのように主張されたことはありません。

 

キリスト信仰は宗教ではなく、約2000年前にイスラエルのベツレヘムで神の御子であるイエス・キリストが生まれ、その方が語られたこと、なされたこと、その人の身に起こったこと、すなわち、そういう歴史的事実を本当にあったことだと信じることなのです。

 

一般的に宗教は人々の救いを求める教えですが、同じ救いを求めるにしても、宗教は、救われるために行いを求めますが、キリスト教はイエス・キリストという方の歴史的事実を信じれば救いに与れると告知するのです。
それを福音(別に詳しく書きます)と言っています。

 

すなわち、一般的な宗教は、人間が祭祀とか儀式とか行事などの行いをもって「究極の原理や真理」に近づこうとするのですが、キリスト教は、神が恵みをもって人間に手を差し伸べているのですから人間からの行いは一切必要ありません。神の存在を認め、福音を信じるだけでよいのです。

 

なお、このイエス・キリストという方の歴史的事実のすべてが、旧約聖書においてキリストがお生まれになる数百年前にすでに預言されていたというおまけまでついています。これはまさしく驚くべきことです。
それらのことすべてが、この世界の背後には唯一の創造神がおられ、イエス・キリストはその神の御子であることを証ししています。

 

なお、「宗教」ですが、人間が持つ信仰や信念の体系を指す言葉ともありますから、倫理観や価値観、人生の意味を探るための教義や儀式が含まれ、人々の生活に深く根ざした文化的な側面でもあるということです。

 

宗教は「人間が持つ信仰や信念の体系を指す言葉」ですから、人間の思いが形になってできたものです。あくまで主体は、人間です。
キリスト教そのものは、国が認めた宗教法人という法人格を持った宗教団体ですが、聖典と言われる聖書は、イエスの地上での言行と使徒の証が書かれていて、イエスの言葉そのものは神の言葉ですから真理なのです。

 

宗教は、主体は人間ですから間違いを起こしますが、神の言葉は真理ですから間違いを起こしません。中世のキリスト教界の間違いは、キリスト教という宗教のなせる業だといえます。

 

キリスト教は、経典とする聖書の神は創造神であり三位一体の神(父なる神・子なるイエス・そして聖霊)で、それは唯一の創造神だと告知します。
ですから、キリスト教は宗教ですが、経典とする聖書は神の言葉ですから真理です。

 

ちなみに、わたしが所属していた教会の上部団体の集まりで、証を求められたときにキリスト教は宗教ではなく真理ですと証したのを覚えています。

 

宗教と真理の違いは、宗教は、人間が大いなるものの存在を思い、真理を求めて、自分の思想から導き出した教え(だから祭儀とか行いが重要視される)を教祖と言われる人間が語っているのに対し、聖書は、唯一の創造神がおられることを証しし、その創造神が人となり被造物である人間にこの世界の真理を人の言葉で告知したのを書き留めた書物です。

 

ですから、キリスト教は宗教ですが、イエス・キリストは、キリスト教という宗教の教祖ではありません。
イエスは一度もキリスト教の教祖と呼ばれたことはありません。

 

イエスの言葉が真理だと言えば、キリスト教の中世での間違いを指摘する人がいますが、あれは聖書を聖典とするキリスト教という宗教の信者の団体を時の権力者が用いて、聖書を統治に都合よく解釈して国を統治し、国を、国民を間違った方向に導いたのです。

 

これも通常の宗教とは違うところですが、唯一神がおられるからあり得るのです。なにしろ、唯一神の言葉は絶対ですからね。

 

そこで、キリスト信仰を語るに重要なのは、聖霊の存在です。
聖霊は、聖書が教える三位一体の神のお一人で、神の本性において、父なる神とまったく同じ方です。

 

つまり、霊であること、無限性(永遠性、遍在性)、全能性、自存性、不変性、唯一性、人格性を持ち、聖、義と公平、憐れみと慈しみ、愛、善、真実であられることにおいて、父なる神と同じだということです。

 

また、聖霊は、使徒言行録2章が告知する聖霊降臨によって、父なる神の働き手としてこの世界に降り遍在されておられます。

 

ですから、この世界に遍在されている聖霊の本籍は「天」で、働きは、第一ペトロ1章12節で「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなた方に告げ知らせた人たちが、今、あなた方に告げ知らせており、・・」とありますが、その聖霊の働き方は、創造神の働き手としてさまざまな姿に変化し、いろいろな働きをします。
働く姿とか働き方は、ワンパターンではないようです。

 

なお、宗教とか信仰と言いますと、人は胡散臭いとか金集めの手段という印象を持ちますが、未知なるものがあるから信仰が生まれるので、人間は、自分たちは何者で、どこから来てどこへ行くのかわからない、また、天地万物の存在もこのようなすごいものがなぜできたのかわからない、つまり、人間には自分たちの存在を含めてこの世界のことは何もわかっていないのですから、それらが未知である限り宗教心とか未知なるものを追求する探求心が生まれるのは当然であると思います。

 

そのことについて、コヘレト3章11節には「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」とあります。

 

キリストの福音は、世界中の人口の30%以上の方が信じています。
それに世界の歴史に与えた影響は計り知れません。決して無視できるものではありません。

 

聖書の神は、言葉をもってご自分を現わされます。
この神の言葉は、聖書ではロゴス(言)とも言い、イエス・キリストを指します。
イエス・キリストは、神の言葉そのものなのです。それはヨハネの黙示録1章1節に「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。・・。」とあるからです。

 

つまり、聖書が記している神とは、あるいはキリストとは、私たちと言葉で直接コミュニケーションをはかられるお方であるということでしょう。

 

ロゴスなる神は、仏さんのように平安で慈悲深いお顔立ちをして、高い所に鎮座して、ただ黙って私たちを見ているだけの物言わぬ像とは違うのです。
歴史の中で私たちに語りかけ、交わり、私たちの祈りの言葉に耳を傾けてくださるお方なのです。その働きをしているのが、聖霊です。

聖書は神(イエス)の言葉であり、内容は真理です。ということは、ほかの宗教の信仰者は、その信仰を捨てなくてもキリスト信仰を受け入れることができるということです。

<霊の結ぶ実>
聖書の箇所は、ガラテヤ信徒への手紙第5章22節です。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とあります。
この22節に書かれている「霊の結ぶ実」は、御霊の実といわれて、イエスを信じていてその人に聖霊が内住していたらそのような実がその人の思いとか行いに自然に現れるようになるということだと思います。

 

逆に言うと、その人にそのような御霊の実が確認できたら、その人に聖霊が内住していることが分かるということになります。
クリスチャンの生きる姿はそのようなものだということです。

 

教会では、ただイエスを信じたら救われると教えますが、行いについてはあまり言われません。

 

本当に信じていたら上記のような行い「御霊の実」がその人に現れるはずだとも聖書に書いてありますので、罪から救われるだけなら信じるだけで良いが、救いには行いは関係ないが、行いが伴わなければ神様も喜ばれない、ということでしょうか。

 

もし、その人がキリストを信じていると言いながら、「御霊の実」と逆の行いをしていれば、その人の信仰も疑わしいということになるのでしょう。
でもよく考えれば、イエスを信じる信仰を持っても、聖霊が内住されても、肉体を持ってこの世を生きている限り、罪なる存在から人間は180度変われるものではありません。

 

人間の罪を好む本質をそのままにして、この世に生きているかぎりこの世の影響を避けることもできません。
イエスの言葉を心に留めて希望を持って人生を送っていれば、内住された聖霊がその人の心に影響を与え、その人の本質を徐々に変えてくださると言うことでしょう。

 

聖書を読むと、信じているといいながら、御霊の実がその人に見られないなら信じていないのと同じだと書かれているところもあります。
本当に信じていたら行いが伴うのは当たり前です。

 

わたしなど自分の信仰の未熟さをみて本当にこれでいいのだろうかといつも不安に思っています。
だからただ「信じている」と言ったら救われるというほど簡単なことではないようです。

 

<信じるとは>
イエスを信じたら神の御霊、聖霊がその人に内住し、その人を御霊によって歩むように導きます。
御霊によって歩んでいるかどうかは、その人に御霊の実が見られるかどうか、つまり「御霊の実」である行いによって見分けることができます。

 

そのことを裏付ける次のような聖句があります。
聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第14章21節・23節・24節です。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。・・わたしもその人を愛して、その人にわたし自信を現す。」・・「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」です。

 

この聖句の「わたしの掟」とは、イエスが弟子たちに与えた新しい掟「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさ」(ヨハネによる福音書13章34節)だと思います。
その掟を受け入れ、それに従う(行為)者はわたしを愛している。つまり、その掟に行為が伴えば「わたしを愛している者」、行為が伴わなければわたしを愛しているとはいえない、ということになります。

 

クリスチャンにとっては厳しい言葉です。
クリスチャンはイエスの言葉を信じるのと同時にその言葉に従順であることを求められているともいえます。

 

イエスの掟を守る者には、「わたし自身を現す」ともいわれています。
「現す」とは、その人にイエス自身が、顕現、復活して現れるということだと思います。

 

教会では、信じているが行為の伴わない人でもその人に聖霊が住まわれ、救いには与れると教えています。
しかし、わたくしは、さらに聖霊が住まわれたら必ず「御霊の実」がその人に現れるはずだと思います。

 

そうでしょう、イエスの言葉を信じているなら、信じた言葉通りに生きようとするのが本当だと思うのです。
言葉はそうだけれども、そのようなことが出来るはずはないよ!!ではだめなのです。

 

すくなくても、イエスの戒めの言葉をいつも心に留めて、守ろうと努力する必要があると思うのです。
古い自己を捨てて(世のしがらみを捨てて)イエスと共に生きる従順が求められると思うのです。

 

聖句の「一緒に住む」とは、イエスを愛する者のところには、イエスと、そのイエスと一体である父が来て住まわれる、とイエスは言われています。
これは内的顕現のことを言われているのでしょう。
そうなれば、その人は心の中でイエスの実在を認識できるのです。
なお、「わたしを愛さない者」とは、「イエスの言葉を守らない者」と同義だと思います。

 

<わたしを愛する者>
ヨハネによる福音書第14章21節「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。」ですから、イエスの言葉を守らない者は、イエスを遣わされた神である父の言葉を拒んでいることになるから、わたしを愛さない者はわたしの言葉に従わない。当たり前のことです。

 

この愛すると言う言葉を、信じると言う言葉に置き換えればよいと思います。
わたしたちは、本当に人を尊敬し、信じたらその人に倣おうとするものです。
そうすればその人は倣った人物のように徐々に変えられていきます。
しかし、原罪をもつ人間は、サタンが活動するこの世では、自己の行いは、いくら努力して正せるものではないのも事実です。

 

わたしも若い時は、尊敬する人がおられたらその人のようになりたいと思い、その人に倣うように努力したものです。

 

神を思っていれば(イエスの言葉を信じ、心に抱き留めていれば)、聖霊が働いてくださり、その人の潜在意識に影響を与えてその人の意識を変えてくださる。意識が変われば、結果的に行いも変わるのでしょう。

 

この変化を、自分の意思の力でやろうとすると、アダム以降自己中心に生きる人間は、意識が神でなくどうしても自分に向かってしまうので、聖霊は働かなくなる。だから自分の力では自分を変えられない。

 

イエスは言われる。「わたしを愛する人は誰でもわたしの言葉を守る。
なぜなら、父なる神はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住むからです」(ヨハネによる福音書第14章23節)と。

 

こうしてイエスを愛すればだれでも、イエスの栄光の啓示を受けられるのであるから、イエスの栄光の啓示を受けることができないのは、イエスの側に理由があるのではなく、イエスを愛さない(すなわち信じない、従順でない)者にその原因があるということになります。

 

イエスを愛さない者には、その人には最後までイエスの栄光が現されることはない。すなわちその人はイエスの実在が分からないし、イエスの言葉を信じることが出来ない。これは当たり前です。
心をイエスに開かない者には、イエスも、もちろん父なる神もその人に自分を現わせようがないのですから。

 

<愛には行いが伴う>
次のイエスの言葉をかみしめたいものです。
いったんイエスを信じて洗礼を受ければ、行いがどうであれ救われることに変わりがないと言うのは疑問です。
イエスの言葉に対する従順が強く求められています。信じると言うことは従順が伴うはずです。当たり前のことだと思います。

 

聖書の箇所は、マタイの福音書第7章21節・第7章23節です。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。・・・「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

だから、わたしはキリストを知らない人でもその人の行いが御心に沿っていれば、その人の霊魂がキリストを知っていると言えると思うので、そのような人は救われて永遠の命に与れると思うのです。(参考ローマの信徒への手紙第2章14節以降)

 

反対に今キリストを信じていると言っているクリスチャンでも、はたして裁きの時に無条件で天国へ行けるとは限らないと思うのです。
キリストに、わたしはあなたを知らないと言われるかもしれません。
それを決められるのは、裁き主キリストだけです。聖職者でもないし、自分自身でもないのです。

 

最後に、少し俗っぽい話を書きます。
教会に行っておりますと、牧師が「あなたは信じていますか」「信じなさい」と何度も何度も問われます。
わたしはそういうときには、いつも不思議に思うのです。
そのように言われると、信じるための努力を問われているように思うからです。信仰を持つのは、人間の努力ではないからです。

 

聖書によると、信仰は神の賜物だからです。信仰で人間がすべきことは、肯定的に神の言葉(聖書の言葉)を読んだり聞いたりすることだけだと思うのです。

 

そうすれば、聖霊が神の言葉を解釈する知恵を与え、信じる賜物を与えてくださると思うのです。
もし信仰が努力によるのであれば、信仰の深さ、強さは、一律ではなく、個人個人で成長段階もありますから、当然そこには差が生まれます。

 

であれば、どれほど努力すれば神様に納得していただけるのか、誰が決めるのでしょうか。誰も、聖職者でもその様なことを決めることはできません。

 

教会に集っているということは、聖書を読んでいるということは、神の言葉を肯定的に受け取っているということではないでしょうか。
それで十分ではないでしょうか。あとは神様(聖霊の働き)にゆだねるべきだと思うのです。

 

第三章.キリスト教は教えの宗教ではない
2000年前にこの地上を生きておられたナザレのイエスが現在のわたしたちの罪の贖い主となる、と聖書は教えています。
これはいったいどういう意味なのでしょうか。今回はこのことを考えてみたいと思います。

 

キリスト教は2000年前この地上で生きていたナザレのイエスという男を神の子と信じる宗教です。
イエス・キリストのキリストとは救い主という意味ですから、ナザレで生まれた2000年前の男がわたしたちの救い主と崇めることです。

 

罪を贖うために死ぬということは、人身御供になるということです。人身御供になるためには、イエスはわたしたちと同じ人間であらねばなりません。

 

誰に対する罪かと言うと、神に対する罪です。だから神に全人類の罪の許しを願うためにイエスは代表して、生贄として十字架に架けられ殺されたのです。
それは父なる神が人類を愛するゆえの御子イエスによる贖いのご計画でした。罪の贖いの生贄は罪のない方しかなれない。罪の中にある人間は贖いのための生贄とはなれないのです。

 

イエスは過去・現在・未来のすべての人類を代表して、象徴的に人身御供にされたのです。誰がしたかと言うと、人間の手を借りて神がされたのです。
だからイエスは神の子だと聖書は言っているのです。
クリスチャンは、その神の子イエスを尊敬し賛美し崇拝するのです。感謝するのです。

 

このように、キリスト教は「イエスの教えの」宗教ではないのです。
イエスの十字架による死、イエスの復活、聖霊降臨という出来事があって初めて「罪の赦しの贖罪の犠牲」が意味を持ち成立したからです。
キリスト教の根幹の完成です。

 

このように、キリスト教は、教えは従で出来事が主なのです。
2000年前にナザレで生まれたイエスという男に関する出来事がキリスト教を生んだのです。

 

キリスト教は、約2000年前にこの地上におられたイスラエルのナザレのイエスが今もわたしたちの内に生きておられると教えます。
わたしの妻も霊的に恵まれた人で霊イエスと直接会話しています。 わたしには残念ながらそういう恵みは与えられていません。どこに違いがあるのでしょうか。

 

イエスは「わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり命である。」(ヨハネの福音書第6章63節) と話されました。
2000年前にこの地上に生きておられたイエスが、今の時代に、同じようにしかも個人的に語りかけて下さる。実に不思議な出来事です。少なくとも体験者は事実だと主張しています。

 

わたしはそれを聞いたとき、最初は不思議でなりませんでした。
自分の妻ですからウソをついているとは思いません。語りかけられたその時には、心の中は喜びと平安で満たされるそうです。
そうして語りかけられるのは、もちろん復活した霊イエスです。
いまも私たちを導くために働いておられるのです。

 

それでは、霊イエスと会話をするというような特別な例は別にして、どうすれば神を見出すことができるかという質問に対してCS・ルイスはこのように言っておられます。

 

「もしあなたが神を欲していなかったら、どうしてあなたは神を欲したいとそのように一生懸命になるのですか?わたしの考えでは、実は、神を欲したいという願いが、真の願いであり、そう願う人は、まだ完全に意識していなくても、実際は、神を見出しているのです。
わたしたちは、物事が起こっているそのときには、そのことに気づかないことがあります。いずれにしろ、それよりもっと重要なのは、神がその人を見出したということであり、それこそ、最も大切なことなのです。」

 

つまり、ルイスはこう言っておられるのだと思います。
誰でも一度は本当に神がいるのだろうか、いないのだろうかと考えたことがあると思います。
その結果、神がいると信じる人と、神の存在を考えるのをやめる人もいる。
しかし、神がいないと言われる人は何を根拠に言われているのでしょうか。

 

そうそう、神がいると信じることができなくても、生涯をかけて求め続けておられる方もいる。そうなれば、もう信じているのと同じだと思うのですがね。

 

それでは、神がいないと言われる方にお聞きしたのですが、その根拠は何でしょうか。わたしたちクリスチャンにとって、神は万物の創造主のことです。
念のために書きますが、他の宗教のように、山とか川とか石とか昔の偉い人間などではないのです。

 

もし、神がいないということは創造主がいないということですから、この世の万物は偶然にできたことになります。
宇宙も人間の進化もすべて偶然の結果となりますから、「神がいない」と考える偶然の産物である人間の思考も偶然に生まれたものといえます。

 

思考は分子の働きの偶然の副産物ということです。
不思議なのは、偶然の副産物である思考が、なぜ「神はいない」と断言できるのでしょうか。

 

神がいないということは、この世界の出来事には何の法則も意味もないということですからね。そうであれば、その思考によって生みだされる善悪の判断の基準はどこにあるのでしょうか。わたしにはわからない。

 

そしていえることは、善があるから悪があると思うのです。
善をしたいと思うのが普遍的であって悪をしたいと思うのは副産物だと思うのです。
人間も宇宙もすべてが偶然の産物ならば、どうして物理法則があるのでしょうか。どうしてわたしたちは一定の化学法則の下に生きているのでしょうか。

 

どうして人の喜ぶことをするときには、自分自身にも喜びがあり、人が悲しむことをするときには罪悪感があるのでしょうか。ほとんどの民族が共通して持っている良心というもなぜあるのでしょうか。

 

この世界には、一定の秩序とか法則があることは誰でも知っています。
それらは偶然の産物でしょうか。偶然から秩序とか法則が生まれることはないと思うのですが。

 

わたしたちは秩序を好みます。東北大震災で日本人の秩序あるある態度が世界中から称賛されました。
このように秩序ある態度を称賛することは、どの民族においても、どの国家においても共通したものだといえないでしょうか。

 

おそらく、そこには隣人愛があるからだと思うのですが。どの民族でも同じように称賛する隣人愛というものは偶然の産物ではないと思うのですがいかがでしょうか。

 

神はご自分のすべてを明らかにされていませんから、人間は神の一部しか知ることができませんので、信じるしかないのですが、信じる人がいるということは、そういう思いを持ちたくなる何かの一定の力が働いていると思うのです。

 

平たく言うとそういうようにわたしたちは造られているからだと思うのです。被造物は創造主を求めるように造られているものだと思うのです。

 

神の子イエスは、十字架の後、復活されて弟子たちに40日間教えを述べられてから天に昇られました。
それから10日後に弟子たちに聖霊が降り、その聖霊は今もわたしたちの内に働いておられ、イエスを証しておられるのです。そうしてこの世はサタンの支配下から神の支配下に移されたのです。

 

そのことを証言する人が現実には無数と言われるほど大勢おられるのです。」世界人口の三分の一以上がクリスチャンですからね。そういう人の証言が妄想ならばこの世の何が現実なのでしょうか。

 

神がいるというのが妄想ならば、神はいない、聖霊もいないという証言も妄想だと思います。しかし、現実を見れば、神がおられる、聖霊は今もわたしたちにイエスを証しておられることに賭ける方が正解だと思うのですが、いかがでしょうか。
このように、キリスト教は教えの宗教ではなく出来事を証する宗教だと思います。

 

第四章.キリスト教の不思議な生い立ち
皆さんも、ご存知だと思いますが、キリスト教の聖典である新約聖書は、イエスが書いたものではありません。イエスは現存中自ら書いたものを何も残されませんでした。

 

新約聖書に書いてあることは、イエスのことですが、書いたのは、イエスから直接教えを受けた者とかイエスの教えを信じる者、いわゆる弟子達で、イエスが死んでから20年以上も経てから書かれたものの寄せ集めです。

 

歴史的事実として確認されていることは、イエスという男が約2000年前にイスラエルのナザレの地で大工の父親の手伝いをしながら生きていたこと。その男はローマの法律で裁かれ、十字架に架けられて死亡したことです。

 

イエスについて語ろうとするとき、信頼できる史料が皆無に等しいと言われています。信頼できるにたる史料はただ一つだけです。

 

それは二世紀にタキトゥスが書き残した年代記に、「その名(キリスト教という名)に由来するクレトゥスは、ティベリウス帝のとき、ポンティウス=ピラトゥスによって処刑された」と記されているだけです。クレトゥスは、キリストのことです。

 

聖書以外に、イエスのことを書いてある書物で信じるに値する書物はありません。だからその人物像は聖書を読むしかありません。
よって、新約聖書に書かれていることの真偽を客観的に立証する方法はありません。

 

このように、新約聖書の内容を信じるに値する証拠は何もありません。新約聖書も証拠ですけれど、イエスの教えを信奉する当事者が書いたものですから客観性がなく証拠にはなりません。

 

新約聖書は原始教会の信仰告白の記録で、読む者に信仰、つまり、約2000年前にこの世に生きていたイエスという人物が述べたこと、行ったことを信じるように決断を迫っているものであって、イエスの外的生活についても、内面生活についても正確な事を伝えているわけではありません。

 

このように書くと、聖書はとっつきにくく、見た感じ何の面白みもない書物に見えます。それにその内容が真実だとする確実な証拠もありません。
本当は面白くて不思議がいっぱいでこれほど人を引き付ける書物はないのですが。

 

また、この新約聖書ほど、その真偽を疑われて研究対象となった書物もありません。この約2000年間多くの人に疑われて叩かれてきましたが、多くの新興宗教が消え去る中で、生き残ってきました。

 

いや、生き残るどころか、未だに聖書を読んでイエスを信じるものが次から次へと起こされている不思議な書物です。人類の歴史を、紀元前と紀元後に二分し、今も聖書を読み信じる者の人生を二分し、大きな影響を及ぼし続けている書物です。

 

聖書は、これからも、人類社会が続く限り人類の歴史に影響を与え続けるのでしょう。これほど、人類の歴史に、人間個人に大きな影響を与えた書物はないでしょう。そのような書物はこれからも出てこないと思います。同じものは二つと造れない。それこそ唯一無二の存在です。

 

キリスト教は言葉の宗教といいますが、聖書の中身は、神を信じる者が信仰の目を持って見たイスラエルの歴史と、イエスのことが記載されています。
だから、歴史から生まれた宗教ともいえます。

 

その主張は神を信じる者が肯定する歴史的な事実に基づいて成り立っています。したがって、その歴史的な事実が覆されてしまえば、キリスト教は成り立たないことになります。

 

内村鑑三はこういっています。「キリスト教が無かったならば、今日の立憲体制も、哲学も、文学も、芸術も、教育も無かったのである。宗教はこの世のことではないが、この世に関係の無いことではない。この世に嫌われながら、深く強くこの世を感化するものである。世に実は宗教ほど確実なるものはないのである」。

 

新約聖書はいろんな教えの寄せ集めとか、作文だとか、イエスは創作上の人物だとか、信仰上の観念的な存在だとかいう意見もありますが、そのようなものでは、この2000年間のキリスト教の歴史は説明できません。

 

キリスト教は、諸宗教をなぎ倒してひとり世界宗教として発展していきました。そのエネルギーは、強烈な創始者イエスの存在抜きには考えられません。
新約聖書を読んで、迫害に耐え、イエスの教えに命をかけて信じぬいた無数の民がいたことも事実です。

 

キリスト教を端的に説明した文書がありましたので二つ紹介します。
正に的確です。
「キリスト教のキリスト教たるゆえんは、イエスの史実そのものに客観的にそなわっているのではなく、イエスをキリストと信じ、それを告白することにある。
イエスとの出会い、そこでなされる決断において信じられるキリストは、もはや単なる史実を越えたもので、そのつど、ここと今における決断の瞬間に現実となる歴史的事実である」と。

 

もう一つは、「イエスはわれわれの方に、見知らぬ人、名もなきものとして歩み寄ってくる。彼は命じ、彼は従う者に自己を啓示する。こうした人々は、口には言い表し難い秘密として、彼が誰であるかを経験するのである」。

 

難しい表現ですが、簡単にいえば聖書もキリスト教もイエスを信じた人の信仰告白(聖書を読んで信じるところを告白すること)が結実したものだということだと思います。

 

ではなぜそのような聖書を読んだ者に、イエスの言葉を信じる信仰を与え、その信仰を告白させる力はどこからでてくるのでしょうか。
そこに何か目に見えない大きな力が働き、信仰者はその目に見えない力の働きを現実に体験しているからだとしか思えません。

 

わたしはその力は神の霊、聖霊の働きだと信じているのです。
イエスは十字架に架かられる前に、わたしが死ねば、自分に代わって助け手としてこの世に聖霊を送ると予告されているのです。その聖霊です。
イエスを信じた者は少なからずその聖霊の存在を、働きを体験し、自覚しています。
だから事実として信仰を告白できるのです。

 

聖書を読むと、書かれた言葉はやさしいのですが、喩えで語られているところが多いので解釈に多様性があります。
ですから読んだ者が書いてあることを信じるかどうかは別にして、一応理解できます。全く分からなければ信じるどころではありません。

 

仏教の経典は、誰もが分かる言葉で書かれていないので、お坊さんが解釈してくれなければ理解できません。大きな違いです。

 

書物を読んで理解するのと、信じるのとは別です。
信じるということは、ある程度理解できて本当のことだと思えたから信じることができるのです。

 

それは、先に書きました神の霊、聖霊が聖書の言葉に働かれて、書いてあることを肯定して読む者に信仰を与えるのです。
そう「人々は、口には言い表し難い秘密として、彼が誰であるかを経験する」のです。

 

聖書を読む者はそういう風にして、イエスと出会います。
その結果、世界の人口の三分の一以上はその教えを信じ受け入れたクリスチャンなのです。
不思議です。この人類の歴史なくしてキリスト教はありません。このキリスト教の歴史が無くて何が聖書かと言いたい。

 

聖書は、世界のベストセラーであると同時に、まさに聖書は生きています。
こんな書物は他にありません。
しかし、聖書は、世界のベストセラーですが、全て購入した人が読んでいるかといえばそれは分からない。

 

読むチャンスは誰にでもあるが、読むかどうかは別、いや読もうとして購入したが面白くなかった、読んでも訳がわからなかった人もきっと多いのでしょう。
でも幼子のような心を持つ方は、神の霊、聖霊に導かれきっと読まれるでしょう。
ただ言えることは、その人の人生での聖書との本当の出会いは、最善の時に
なされるものと思います。

 

最後に、やはり内村鑑三の言葉を載せておきます。
「キリスト教は歴史的宗教である。すなわち、かつてあったことを信ずる宗教である。人が考え出したことを信じる宗教ではない。その点において、仏教とキリスト教との間に根本的相違がある。仏教は釈迦牟仏1人の思想教訓に始まっているが、キリスト教はアブラハム以来キリストまで、少なくとも4000年間の生ける歴史に根ざしている。生ける神は、言葉をもってするよりも事実を持って教えたもう。
理想を説かずして実例を示したもう。・・かくて神は地理と歴史を持って聖書を書きたもうたのである。それゆえに聖書は貴く、世界無二の書である。」
わたしも思います。

 

最後の最後に、キリスト教は、なぜこんなに大きくなったのかを考えたら、「キリスト教は、内外ともに高名であるが、その実よく知られていない。
とすれば、キリスト教を知られざる高名者に仕立てているのは、他ならぬ『知られざる人キリスト』自身ではなかろうか。」

 

キリスト教は、目に見えない聖霊とか、死人の復活を信じるのです。
そんなのナンセンスと言われる方がおられますが、はっきり言えることは、新約聖書もキリスト教もイエスの復活と聖霊降臨がなければ生まれなかったということです。これが現実です。

 

第五章.キリスト教は聖霊の宗教
イエスは十字架にかかられる前に弟子たちに語られました。
ヨハネによる福音書第14章26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」。
弁護者と言うのは、聖霊のことです。

 

したがって、聖霊のことを、イエスの御霊とも言い、肉イエスが地上でしょうとされていたことを世界中でなさんがために霊となられたイエスです。
聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第16章4節「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」です。

 

次に、人間を罪の中から救いだすために、十字架と復活と伝道という方法しかったのか、なぜ神はそのような方法をとられたのでしょうかを考えてみます。

 

聖書では、神とイエスは親子関係ですが、その創造神から親の目線で人間を見てみると、もし自分の罪を認めないのに一方的に許せばそれは単なる親バカです。そこには子供への愛はありません。
自分勝手な行動をしている子供を放任しているだけです。
それではろくな子供にならないし、親の意見も聞く耳を持たないこともが出来上がります。

 

やはり罪を許すためには、最低限、親と向き合い、親の言葉を聞こうと、理解しょうとする気持ちがなければ、親が何を言っても馬耳東風です。
それではその子の成長は望めません。
神は、あなたたちはわたしから離れては生きてはいけない、と言われているのにそのことも分からず人間は放蕩息子をやっているのです。

 

神は、人間がこちらを向くのを語りかけながら待っておられるのですが、それも気の長い話でその人が死ぬまで待っておられます。
根気よく。侮辱されようがののしられようがまっておられます。

 

けれどもけっして強制はされない。弟子となった人に対しては、ただみ言葉(イエスの言葉)を伝えるだけでよいといわれています。
聖書の箇所は、マルコによる福音書16章15節「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」です。

 

たしかに、自由意志をもつ人間が神を知るのも時があると言えるでしょう。
時があるからイエスの言葉は伝えるだけでよい。
説得するのは、理解させるのは神の仕事だと言うことだと思います。

 

神は強制的に人類を罪から救わずに、罪の中に埋もれる放蕩息子の状態をそのままにしておいて、その中に個人から個人への伝道という方法でイエスの言葉を信じる者のワールドを造ろうとされているのです。
信じるか信じないかの選択を人間の自由意志に任せてです。

 

こういうことですから、不条理と不法が満ちる人間世界はこの世界が終わる時まで続くのでしょう。
サタンはこの世の最後の最後に地獄に放り込まれますのでそのときまで続きます。そのときまで人間の苦しみは無くなりません。

 

不条理も不法も無くなりません。これも霊的成長のためといいますか、新しい人間の創造にとって必要なことなのでしょう。

 

艱難の最中におられる方は神も仏もあるものかと言いたくなりますが、コリントの信徒への手紙一第10章13節にこのような言葉があります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 

人生の試練は、神がなされることではない。それは人間が選んだ自己中心的な生き方から来る当然の結果。しかし、神は人間が試練にあい苦しんでいるのを許しておられます。

 

何も人間が苦しんでいるのを見て喜んでおられるのではなく、それもわたしたちにとって必要なことでご計画の内と心得ます。
だから、試練の先には必ず救いが、平安があることを信じてこの世を生きていきたいと思います。
もちろん、この世で報いがなくても次の世ではきっと報われると思います。

 

自由意志で人間は神から離反したのですから、自由意思で神のもとに帰るべきです。それが神の義です。
きっと、そうでなければ神も人間を罪の中から救うことが出来ないし、新しい人間の創造には欠かせないことなのでしょう。

 

自由意志を含めてこの世のすべては神の言葉により創造されたと聖書にはあります。神の言葉は一旦発せられたら取り消しはできないし絶対にそのようになる。もちろん、訂正もできません。

 

キリスト教は、この2000年間イエスの言葉を伝えようと個人から個人へ伝道をしてきました。その原動力は、イエスの約束の言葉を信じた者は、自分の信仰体験を語らずにはいられなくなるという事実です。

 

それはまさしく聖霊の働きでもあるわけです。
ですから、キリスト教会では、信徒一人ひとりがイエスに出会った証を大切にします。

 

イエスも言われています。
使徒言行録第1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」。

 

そのように考えれば、衝撃的なイエスの十字架による死と復活、それにイエス昇天後に弟子の伝道の助け主として来られた聖霊の存在は、まさに見事と言うほかありません。

 

イエスが肉体のままであれば、イスラエルという限定された一地域での働きになるが、聖霊は霊ですからこの地球上に遍在して人間一人ひとりに臨機応変に働くことが出来ます。

 

ヨハネによる福音書第12章24節で「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とイエスも言われています。
この言葉は十字架にかけられる前、生前に言われているのです。

 

イエスの十字架以降2000年がたちます。
それでも、世界的に見ても、日本ではなおさらイエス・キリストを知らないでこの世を去る人がほとんどです。

 

したがって、わたしのように全員救済を信じる者から見ると、イエスが再臨される終末と言われるこの世の終わりは、まだまだ先のようにも思います。
聖書には今すぐにでもイエスが再臨されるようなことも書いてありますが、それは迫害と言う厳しい状況の中で信徒を勇気づける必要により書かれたのではないかと思います。

 

こうして考えると、神の歴史、いや人類の歴史は、新しい天地と新しい人間の創造のためにあると言えないでしょうか。(ヨハネの黙示録第21章)
神が一旦発せられた言葉は、必ずそのようになるのなら、何があろうが神の国は到来するのですから、人間一人ひとりの人生は別にして、人類の歴史は、神による出来レースと思いませんか。

 

おそらく十字架も復活も神の最初からの御計画による出来事だと言えると思うのです。
もちろん、御計画とはそれら十字架の出来事も含めて人間を罪の中から救い上げ、新しい人間の創造することだと思うのです。

 

イエスがこの地上に来られて、聖霊がこの地上に降ってから、その新しい人間を創造するプロセスは既にキリストを信じる者の中で始まっています。
すべての出来事が新しい人間の創造のためにあると心得ます。

 

イエスはサタンに勝利したが完全に滅ぼされなかったので、サタンはまだこの地上を自由に動き回っていて人間を誘惑し続けていますが、この世の終わりにサタンは地獄に落とされるのです。

 

サタンをそれまでこの地上に放置されているので、人間の苦しみが絶えませんが、きっとサタンにも新しい人間の創造のために必要な大きな役目があるのではないでしょうか。

 

つまり、神のご計画のためにサタンも用いられている、そのこともすべてご計画の中に織り込み済みだと言うことです。

 

人間一人ひとりは人生においてその時その時を自由意志で選択して生きていますが、神はいつも一人ひとりの人生を新しい人間の創造のために導かれています。人間は神の意向に沿って人生を選択するとは限りません。

 

でも、人間がどのような道を選択してもその結果を神はご存じなので、その人間の人生におけるすべての体験を用いて御心に沿うように最終的には導かれる、その働きをされるのが聖霊である。わたしはそのように信じています。

 

新約聖書は、イエスの弟子が神の霊感を受けて書いたと言われています。では、なぜイエスは自分が書いたものを残されなかったのでしょうか。

 

なぜ、後のことをすべて弟子と聖霊の働きにゆだねられたのでしょうか。現在の新興宗教の教祖には、自らの行動は知りませんが、教えと言いますか自分の思想を書いた沢山の本を出版しお金儲けをしている方がおられますが、それとは大きく違います。

 

イエスが書いたものを残されなかったというのは、イエスは字が書けなかったとか、現在の紙のようなものがなかったので書き残すことは簡単なことではなかったとか、識字率が非常に低かったから書き残す意味がなかったからとか、いろいろと言われていますが、本当にそのような事情なのでしょうか。

 

そのような事情はイエスを神とするなら余りにも人間的です。
自分が書けなければ人に書記を頼めば良いし、ソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの書物で、当時書かれたものが現在に多く残されています。
わたしは下記の理由でそうではないと思うのです。

 

書いたものはどうしてもいろいろと解釈が生まれます。
そのために多くの教派が生まれ争いがおこります。自己を正当化するのは人間のもつ罪なる性です。
国家が国をまとめるために宗教を利用しょうとすれば、国家にとって都合のよい解釈がまかり通ります。
ときには、その解釈を正当化するために戦争になります。

 

中には聖書の解釈を独占する人もでてくる。その人が権力と結びつけば、一つの解釈が権威を持ってしまい、その人の解釈は教理となって聖書以上のものになる。

 

そのようなことは、元来自己中心的な人間には避けられないことです。
中世におけるヨーロッパでのキリスト教の混乱はまさにそのような姿であったと思います。

 

たとえイエスが直接聖書を書いたとしても、それが人間の文字で書かれている限りそういう弊害は避けられなかったと思います。
そういう意味で、政教分離の考え方は正しい選択だと思います。

 

イエスは個人の自由な意志の上に立った信仰告白を大切にされています。
聖書は信仰者の信仰告白を集めたものです。
国家の法律ではないのです。道徳の教えを集めた本でもないのです。

 

神とはどういう方か、神を信じるとはどういうことかをわれわれに教えるために、神は聖書という信仰者の信仰告白を集めたものをつくられたとわたしは思うのです。

 

個人から個人への伝道にしても、イエスが自分の書いたものを残されずに、あくまで人間が信仰によって霊感により書いた信仰告白という方法でイエスの言葉を残されたことを見ると、そこには人間の働きと人間の自由意志を最大限に尊重されている姿を見ることができます。

 

神を信じることができるのは、罪を示されるのは神の働きでありますが、罪の中から救われたいと神にすがるのは人間の自由な意志だということでしょう。

 

わたしは、聖書解釈はいろいろあってよいと思うのです。
もちろん、キリストを信じる最小限必要なこと、たとえば、イエスが神の御子であるとか、十字架とか復活の出来事などを否定されては困りますが。

 

聖書は人間が霊感を受け書かれました。
その解釈は聖霊の働きにゆだねられました。聖霊は聖書を読むものに働かれる。働かれる対象は個人ですから、聖書を、イエスの約束の言葉を読む者は、読んで得られた解釈は聖霊の導きにより、自分に語られていると受け取ることが大切かと思います。

 

聖書は信仰者が現実の社会(迫害とか戦争)の中で、イエスの言葉を聖霊の働きの中で実体験し、確信をもって書かれたと思いますから、人間にとってこれほど身近なものはないと思います。
したがって、聖書の内容が時代背景を反映しているのも当たり前だと思います。

 

あくまで信仰は個人と神様の関係だと思うのです。そこには仲介者など必要ありません。信仰というものは、上から強制するものでもないと思うのです。
人間にとって自由意志はそれほど大切なこと。それは神の御心です。
おそらく霊的成長を図るのには人間を自由意志のもとに罪から救い導くことが必要なのでしょう。

 

この世は、次の世への準備のためにあると何かの本で読みました。次の世では高校も大学もある。この世は小学生の段階だと書いてありました。
そうかも知れません。

 

人間を罪から救うみ業にしても一番簡単な方法は神の力により人間の心を強制的に自分に向けさせ一方的に救えばいいはずです。
しかし、神はそうされなかったのは、神の人間救済のみ業の達成には、人間が自ら神のほうを向き神に助けを求める必要があるからだと思います。
そうであって初めて人間は新しく生まれ変わることができる、といえます。

 

人間はアダムの時に自分の意志で神から離れてしまいました。そうであれば、自分の意志で神のほうを向き直す必要がある。これなど当たり前だと思うのです。

 

人間を罪の中から救い、来世の復活につながる新しい命を与えるためには聖霊の働きが必用なのですが、きっと、人間が自由意志で神を選び神に救いを求めなかったらその人に聖霊は内住することができず、神との交流ができないのではないかと思うのです。
神は、み言葉(イエスの言葉)の伝達を人間の手に委ねられました。

 

このことからもわかるように、信仰を持つかどうかはあくまで人間一人ひとりが聖霊の導きの下に自由な意志で選択するべきだということではないでしょうか。

 

ただ、神は一つだけ、誰にでも見える衝撃的な方法をとられました。
それが、イエスの十字架と復活の出来事です。
もちろん、その出来事が神の御業と信じるには聖霊の働きが必要ですが。
これはまことに衝撃的な方法でありました。事実その出来事は今でも廃れることなく述べ伝えられています。

 

当時の弟子たちに命をかけるほどの、人生を変えるほどに強烈なインパクトを与えました。
そのことは、ヨハネによる福音書第12章32節に「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」という十字架に架けられる前のイエスの言葉がありますが、この言葉がそのことを示していると思います。

 

もちろん、「上げられる時」というのは十字架を指します。
「引き寄せる」が救うという意味なら、最後の審判は不要であるし、死をかけての使徒の伝道も不要であります。
したがって、ここは、「すべての人がイエスに心がひきつけられることになる」という意味であると解釈します。

 

そういう出来事がなければ、イエスの三年間の伝道と信仰者の伝道だけで、キリスト教は今日まで存続できたでしょうか。疑問に思います。
それだけなら、信仰宗教の教祖と同じです。

 

イエスは神から預かった約束の言葉を伝えよといわれましたが、決して強制しろとは言われていません。強要とか説得する必要はない。伝えるだけでよい。

 

そして、あとは聞く者の意志と神の霊である聖霊の働きに委ねなさいと。これを宣教命令と言い、次の聖句がそれを示しています。

 

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(新約聖書マタイによる福音書第16章15節)

 

この聖句にあるように、述べ伝えなさいといわれているだけなのです。
このように、強制はされていないのですが、イエスを知れば聖霊が働きその人は喜びのあまり自分の体験を他人に伝えたくて仕方なくなるのです。

 

上手くできていると思いませんか。それがキリスト伝道の原動力だと思います。人間は真理を知れば、嬉しくなる、ほかの人に教えたくなるのです。

 

こうしてみると、すべては聖霊の働きによって進められているといえます。
参考聖書箇所、マタイによる福音書第12章28節「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

 

この聖句を読むと、神の国と言うのは聖霊に導かれる国と取れないでしょうか。そうであれば、イエスがこの世に来られた時には既に聖霊はイエスの中で働かれているわけですから神の国はイエスの中に来ていると言えます。

 

神は、人間が本来の姿である神とともに生きる存在に、そして、次の世でも幸せに生きていけるように、霊的に大きく成長することを望んでおられるのではなかろうか。
この世における体験はすべてそのためあると思います。この世の体験で無駄なものは何もないということです。

 

もしイエスが書いたものを残されてそれにより教えを広めようとされていたら、はたしてキリスト教は生き残ったか疑問です。
歴史の中に埋もれて消えてしまっていたかもしれません。

 

聖霊の働きと言う目に見え無いものなど信じられるか、と言われる方もおられるでしょうが、日本では分かりませんが、それを信じてクリスチャンになった人が無数におられるのは事実です。
キリスト教は目に見えない聖霊の働きにより成り立つ宗教だと思います。

 

第六章.キリスト教の救いと裁き
キリスト教の創造神は、愛の神であり裁きの神でもあります。ここでは、創造神の裁きについて考えてみます。
ヨハネによる福音書第12章47節に、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」というイエスの言葉があります。またヨハネによる福音書第9章39節には、「わたしがこの世にきたのは、裁くためである。

 

こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」というイエスの言葉があります。この二つの聖句は矛盾しているようでしていないのです。

 

地上でイエスを信じないで死んだ人間に対する裁きは、最後の審判でなされることになっています。これは別の投稿で説明します。
ここでは、人間がこの世に生きている間の裁きを取り上げます。

 

人間は生れながら罪を持っているというのが聖書の前提です。人間はエデンの園で、サタンの誘いにのり創造神から離反しました。

 

その離反がすべての罪の元、人間は本来永遠に生きるべき存在であったのに、その罪の為に命の根源である神様からの霊的エネルギーが得られなくなり、死ぬべき者となりました。

 

罪に対する報いは霊の死、永遠の死です。その罪から人間を救うためにイエスはこの世にこられ、自らの十字架上の死で過去・現在・未来のすべての人間の罪を贖われました。

 

罪の内容は、原罪があり、そこから派生する思いの罪・行いの罪があります。イエスは人間を罪の中から救うためにこの世に来られましたが、救いは無条件ではなかったので、この世の終わりで最後の審判の時に裁きがなされるのです。裁きには有罪と無罪がありますから、人類全部が救われるとは限らないというのが前提です。

 

自分は罪など犯したことがない、と言われる方は、静かに自分の心の奥底を見つめてください。イエスのいわれる罪は思いの罪も入ります。

 

すなわち人に嫉妬したことはありませんか、人に驕りを持ったことはありませんか、心の中で、バカだ、死んでしまえとか言って人を裁いていませんか、人の不幸を喜んだことはありませんか、これはみな罪です。

 

そのような経験を持ったことのない人は誰もいないはずです。思っているだけならいいのでは、という人もありますが、思いは行いに通じると思いませんか。だから同じことです。本当に怖いのが、そういう思いがその人の本当の姿に影響を及ぼしていないかと言うことだと思います。裁きはその人の本当の姿を見て裁かれると思うからです。裁きの時には、肉体がないからそういうことだと思います。

 

神はイエスの十字架で人間の罪を贖われましたが、天国へ行くのには、裁きが赦されるのには条件を付けられました。
それはこの地上で生きている間に、イエスの教えを信じることです。

 

イエスは地上にいるとき、教えを語り、人間が信じることができるように奇跡を行いました。
イエスは十字架で死に、三日後に復活されてから昇天されましたが、イエスの生前の教えは聖書となり、イエスはその教えを伝道するために助けぬし聖霊をこの世に送り、そうして、御言葉を信じるチャンスはそれから以降の全人類に与えられました。

 

生前のイエスから直接教えを受けながら、教えを知りながらイエスを拒否した人は、罪から救われません。
イエスはある点まで教えを述べ、それでもダメな人間、つまり、イエスの教を知りながらその教えを拒否する人は突き放します。

 

イエスを裏切ったユダの場合がそれで、ユダはイエスから直接教を受けていたのにイエスを裏切ったのです。

 

たとえば、ヨハネによる福音書第13章27節でイエスはユダに対して言いました。「しょうとしていることを、いますぐ、しなさい」・・と突き放します。この時点から、ユダはもう悔い改めてイエスに従うことは、完全にできなくされた。神の言葉は絶対です。取り消しはできません。

 

もう一つ、罪の残る人は、イエスの教えの真髄が、見えていないのに見えていると思っている人、見えていないことの自覚がない人も罪が残ります。
教えを悟っていないという自覚があるならば罪はない。罪が残るということは、裁きが有罪だということです。

 

上記聖句の、「見える」というのは、イエスの言葉を悟って悔い改める可能性が少しでもありその真意を悟れる、ということをさします。
「見えないようになる」というのは、その可能性がゼロということになる。

 

だからイエスが、「しょうとしていることを、今すぐ、しなさい。」といえばもうそれに従ってやるしかない。
悔い改めのチャンスもない。これが裁きだと思います。イエスの言葉は絶対だから。

 

地上でイエスの言葉を信じた者は、信じた時点でもう裁きはすんでいます。つまり、天国行きの裁きが済んでいることになる。この場合は、この世の終末になされる裁きの対象外だということです。

 

聖書では、人はみな、罪びととしてこの世に存在する。イエスはその罪人を救うためにこの世に来られました。
したがって、人はみな、悔い改めることによって罪を赦される可能性を平等にもっています。

 

ところが、全員が最後の最後までそうではない(前記した、新約聖書ヨハネによる福音書第9章39節はそういうことを指すと思います)。

 

罪の赦しには悔い改めが必要であります。悔い改めには言われたことがわかっていなければならない。知的に恵まれない人とか幼子はどうなるのか、彼らはイエスの言うことが知的に理解できないはずであります。

 

イエスはそれでも、罪を赦される道があると明言しています。それは、「自分はまだ教えが見えていないと、素直に自覚すること」。
それは、逆にいえば、イエスの教えに真理があると(霊的に)感じているということになるからです。

 

イエスの弟子になるとは、「まだ、理解しきれないけれども教えに真理があると信じて付き従い学ぶ者」であります。この場合でも、イエスは最初の段階で罪を赦すといっています。

 

教えることの意味が知的によくわかって、悔いて、以後行動を改めるということでなくても、赦すといっています。
信頼して、教えを学び続ければ、すでにその当初の段階で罪を赦しているということになります。

 

イエスの教えに何かがあると感じた段階の心理は、幼子が神の国の話を受け入れた状態と同じ。大人も出発点では幼子と同じ状態になっています。
その時点でもって幼子と同じように罪は赦される。

 

ルカによる福音書第18章16-17節「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」。

 

最後に罪から救われる者を例示してみますと、「信じてバプテスマを受ける者」(マルコによる福音書第16章16節。)「信じない者は罪に定められる」(マルコによる福音書マルコ16章16節)。

 

信じてバプテスマを受けない者(信仰を表明しない者)は、「わたしの言葉を聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。・・・」(ヨハネによる福音書第12章47節)。
つまり、信じていて、行ないがイエスの言葉に従っていない人は裁かないということ。このような人も天国には入れます。

 

第七章.罪と救いの構造
聖書では、人間みんな罪人、となっています。これは原罪(神に対して的はずれ)をもつからですが、信仰を持たない人には理解し難いことであります。
一般的には、刑法に抵触して裁判所で有罪の判決を受けなければ罪人とは言いません。

 

しかし、聖書での罪の構造は、まず原罪がある、その周りに思っただけで罪となる思いの罪(裁き、盗み、殺し、姦淫などの思い)があり、更にその周りに行いの罪(思いが実際の行動につながる)があります。

 

このように三重構造になっていて、神様は全ての罪を罰せられる。刑法で裁く罪は、上のうち表から見える行いの罪だけであります。

 

聖書での罪を具体的にいえば、人間は本来自己中心で、自分のことはすぐに赦すのに他人をなかなか赦せない存在であること、自己愛的な存在であることです。殺人とか傷害ばかりが罪ではありません。

 

人間はすぐに責任転嫁するし、謝る事が苦手な存在です。謝るには一大決心が必要です。本来人間は、何か大きな罪が赦された感謝の体験がないと、なかなか他人を赦せない存在です。
つぎに、人間に原罪が入った原因を考えてみます。

 

原罪とは、ことの善悪の判断を、人間を創造した創造主である神に依存しないで、自分で善悪の判断をしょうとすることをいいます。

 

つまり、自分を造った神である創造主を思う心を意識の内に保持しない状態、神から離反した状態です。旧約聖書の創世記に人間に罪が入った時の状況をまとめてみると次のようになります。

 

「人の体は土の塵で造られているが、神の命の息、すなわち神の霊を吹き込まれて生きた者になった。この霊によって、人は神と交わり、神と同じ生命に生きる存在となった。現在の人類は、そこから始まっていて、その子孫である。つまり人は本来永遠に生きる存在であったのです。

 

ところが、人は蛇(サタン)にそそのかされて、『それを食べると必ず死ぬ』と言われていた善悪を知る木の実を食べてしまった。

 

それは、神に敵対する霊的存在であるサタンの誘惑に負けて、ことの善悪の判断を自ら行い、神のようになりたいという高ぶりに陥り、背神という根元的な罪を犯したのであります。

 

神への背信は、神は、人間が人間らしくあるために人間に自由意志を与えましたが、その自由意志を悪用した結果だと思います。

 

その結果、神との交わりは断たれ、命の根源である神の霊を受けることができなくなり、人間の霊は死ぬことになり、自らを恥じて神の前から隠れるようになってしまった」。
 
この人間の創造と神からの離反は、神話的な形式で語られていますが、これは現実の人間そのものの姿をあらわすものだと思います。
この物語で「人」と訳されているヘブライ語原語が「アダム」であります。
本来アダムとは人自身のことであり、アダムの姿は人間そのものの姿なのです。そして、わたし自身の姿でもあります。

 

人が神から離反した結果、神は人との間で霊的な交信ができなくなり、常に人間に注がれていた命の根源である霊の力は欠乏し、サタンの影響をもろに受けるようになり、神のはじめの業である天地万物も、死の影を宿し、滅びにむかうものとなったのです。

 

肉体は滅ぶのは当然としても、もともと永遠に生きる存在であった人間の霊も死ぬ者となったのです。(新約聖書ローマの信徒への手紙第6章23節)。

 

イエス・キリストがこの世にこられるまでは、この世の支配者はサタン(この世の君ともいいますが)でしたが、サタンも霊的存在ですが被造物で、もともと神につかえる天使でありましたが、神のように自分も崇められたいという欲求をもち神から離れ変質しました。
だからサタンは人間と違ってその本質が罪であります。

 

アダムとイブはサタンに騙されて、神との交信は不協和なものとなりましたが、神と交信出来なくなったその霊は天国の雛型であるエデンの園を去らざるをえなくなります。なぜなら、天国には、罪が無い者、罪が赦された者しか入れないということになっているからです。

 

今から約4000年前、神は信仰深いアブラハムに対し、その子孫を星の数ほど増やすという約束を与えます。
そして、この子孫が形成する民族を、以後人類へのメッセージの受け皿としました。そのメッセージを記録し、編集したものが旧約聖書であります。
そして、その子孫とはイスラエル民族のことをいいます。

 

神は、預言者という特定の人間を通してその意志を人間に伝えました。イエスの誕生を予定する為に、また未開の民であったイスラエル民族の信仰上の純潔を守り、しつけ育てる為に、律法を与えそれを守るように厳しく命じました。

 

神はイスラエルに預言者たてその者を通して、イエスの誕生を預言(イザヤ書53章1-6ほか)します。その預言者の言葉は書き留められ、かつ民に話し伝えられる。それら預言者の言葉が律法とともにまとめられたものが、ユダヤ人だけの宗教(ユダヤ教)の教典となっている旧約聖書ということになります。

 

イスラエル民族は、イエス誕生の預言を、人類でなく自分たちの王、自分たちの救い主の誕生の預言と受け取ります。

 

今から約2000年前、イスラエルは強国にはさまれ、民は退廃しメシヤ待望の期待が頂点に達した時、イエスが現れて、この旧約聖書は、そもそもユダヤ人だけのものではない、人類へのメッセージで、メシヤ預言は、わたしのことだと教え始めます。

 

イスラエルの支配者階級である律法学者らは、イエスのその言葉と、イエスの力と民衆の人気に恐れをなし、イエスを十字架にかけて殺してしまいます。
ところが、そのイエスの十字架による死は、罪からの人類救済という神の大いなる創造のみ業であったのです。

 

イエスは約2000年前にこの世に来られたが、その第一声は、神の支配(神の国)が到来した、でありました。
それまでサタンが支配していたこの地上に神の支配が実現したのです。

 

だが、サタンが追放されたわけでもないので、今でも悪霊と共にこの地上をさまよっています。サタンは、人間の潜在意識に悪い影響を及ぼし、人間社会のあらゆる罪のもととなっています。

 

約2000年前にそのような罪の中にある人類を、罪から、死から助け出すためにこの世に神の御子イエスはこられたのです。

 

そして、人類が持つ罪を贖うために自らを生贄としてささげ、十字架で死に、神は、死に打ち勝ったこと、神の子であることを証するために御子イエスを死から復活させたのです。

 

そして、イエスは天に昇られた後、復活の御霊、聖霊が助け主としてこの世にこられ、今も人類を罪の中から救い出すために働いておられます。
そう、イエスは復活の聖霊となって全世界にあまねく偏在して、今も一人一人に語りかけておられるのです。

 

イエスの復活は神様がなされたことですから、このことによりイエスは神の御子であること、同時にイエスが約束されたこと、教えられたことのすべてが真実であり、それらは必ず実現することを証明したことになります。

 

このことを信じたら、あなたの罪が赦され永遠の命を得られる、と教えているのがキリスト教なのです。
イエスを信じたら、神の霊、聖霊がその人に入り、神との交信が出来るようになるということです。

 

そして、来世につながる天国がその人の内に実現し、死後の復活と本当の天国に希望が持てるようになるのです。

 

人間は、この世に肉体をもって生きている限り、サタンの影響を完全には免れませんが、そうすればサタンの影響から守られ少しずつ本来の姿に変えられていくということです。

 

クリスチャンでもない人でも知っている、最後の審判ですが、神は人間を人間らしくあるために自由意志を与えて創造したのですが、人間はその自由意志を持つゆえに、神への背信、神の戒めに背いてしまったのです。

 

そのために、この世が終わるときには再び全権を委任されたイエスはこの地上に来られるのですが、そのときに、神は義なるゆえに人間を裁かざるを得なくなりました。

 

しかし、それまでにできるだけ、できればすべての人間が背信を回復し、罪から救われることを願って、御心を伝えるためにイエスをこの世に送られたのです。
それは、イエスの言葉を信じ神との交流が回復したものは、裁きから免れ復活ののち天国へ招かれますが、あくまでイエスの言葉を信じない者は復活ののち地獄へ送ると言う裁きです。

 

イエスを知らないで死んだ人は、復活し、その人の律法(良心のことと思います)により、行いに応じて裁きを受けます。(参考聖書個所ローマの信徒への手紙第2章14節以降)

 

第八章.十字架と救いについて
クリスチャンでなくても誰でも知っている十字架について、今日は考えてみます。十字架はまぎれもなくキリスト教の象徴です。十字架の横線は天と地、すなわち神と人間の断絶を意味しています。

 

縦線は、イエス・キリストが神と人間の和解の為に上から下に、この世に来られたことを意味しています。

 

イエスは神の一人子であり、人間の罪を贖うために約2000年前にこの世にこられ、ユダヤ教指導者層とローマ帝国の属領ユダヤの統治者ポンテオ・ピラトはイエスを十字架上に処刑しました。これは信仰の有無に関係なく歴史的事実です。

 

イエスがなぜ神の子かというと、聖書には、イエスは十字架で亡くなられたあと、三日後に復活かれたと書いてあります。

 

このことが事実なら神の子といえます。死人を復活させることができるのは、創造主である神のみでありますから。

 

聖書に記載されたこのことを信じるかどうかですね。それを信じて読むか、信じようと決心して読まなければ、聖書はただの歴史書です。

 

十字架の意義は、マタイによる福音書第26章26節から28節の最後の晩餐で、イエスは我が身にこれからおこる十字架の出来事を象徴して、パンを裂き言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」、また杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡していわれた。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と。

 

そうです、十字架は神と人間との新しい契約なのです。それは、イエス・キリストによる救いの契約です。

 

聖書でいう罪とは神から離反していることを言うのですが、人はみな、自覚しなくても、神への反逆という根元的な罪の中にあります。
エデンの園でのアダムとエバの神からの離反に始まりその子孫である人類全てがということです。

 

人間は、この罪の故に命の源泉である神から切り離されて、もともと永遠に生きることができる存在であったのに死ぬべき存在となりました。

 

なぜ死ぬべき存在になったかというと、神から離反することにより、神の霊、聖霊の働きからくる神の恵みを、人間は受けることができなくなったからだと思います。

 

しかし、人間は被造物ですから、自分の力ではこの罪から逃れて、神との交わりを回復し、神の恵みを受けることができません。
それは、創造主である神にのみできることだからです。

 

神は御子イエスを人間と和解するためにこの地上に遣わし、彼の肉において人間の罪を罰し、彼の血において罪を贖ったのです。

 

そして、死から蘇るという復活において死に打ち勝ったのです。罪の根源であるサタンの完全な敗北です。
それがイエスの十字架による死と死後の復活の意味です。

 

イエスの死により過去・現在・未来すべての人間の罪は贖われ(罪が無くなったわけではない)、そして、神はイエスを死から復活させることにより、イエスはキリスト(救い主)であることを最終的に証しされ、死ぬべき運命にあった人間の霊魂を永遠に生きるものとされました。

 

なお、わたしはこの永遠の命というのは、来世での復活を希望として、時間的に永遠ではなく神とともに生きる命ととらえています。

 

こうして、神の子イエスがサタンに完全に勝利されたので、この世の支配者はサタン(イエスがこの地上にこられるまでは、人間社会はサタンが支配下にありました。)から神が支配者になりました。

 

それは、神の御子イエスを信じる者が、もはや罪に支配されることなく、神との交わりを与えられ(これを義とされるという)、神の命と栄光を受け、永遠に生きる者となるためです。

 

イエスを信じることとは、聖書の言葉は神の言葉ですから聖書に書いてあることを信じることです。
その中で最も重要なことは、イエスの十字架による死は、過去・現在・未来の全人類の罪を贖うための生贄であったこと。

 

イエスは三日後に復活されたこと。復活により、罪のために死ぬべき運命にあった人間に永遠の命を生きる、つまり、神とともに生きるために次の世で復活する希望が与えられたこと。これを事実だと信じることです。

 

信じるといわれてもどうすれば信じられるのですか、という問いを受けそうですが、それは、まず、信じてみようと決心する、そうすると聖霊が働かれて、それらのことを信じさせてくださる。

 

そうすれば、その者に十字架と復活の真理が見えてくるとしか言いようがありません。信仰は神の霊、聖霊の働きですから人間が信じようと思っても信じることはできないと思うのです。

 

そうですね、信じてみようと思ったらもうその人には聖霊が働いているのだと思います。
聖書には、イエスが語った御言葉(聖書の言葉)を信じ、心に抱き、いつもイエスから目を離さないでこの世を生きなさいと書いてあります。

 

そうすれば義とされる。現実の人間は罪人で、正しくはないのだけれどもただ恵みのゆえに正しい者とされるのです。こうして、神の恵みゆえに義とされたのがクリスチャンです。神への反逆という罪が赦されたとみなされるのです。

 

なぜこのような面倒くさいことを神はなされたかといいうますと、神は自分から離れていった放蕩息子である人間をふたたび自分のものとするために、聖霊をこの世に送り人間を自分とともに生きる存在とする、つまり人間改造といいますか、新生が目的だと思います。

 

強制的にされないのは、人間はあくまで自由意志をもつ存在であるからです。ロボットではありません。どうするかは、一人ひとりの自由意志にゆだねられます。

 

イエスは十字架に架けられて死に、三日後に復活され、四十日間弟子の前に現れて、その後天に上り父なる神の右の座に着かれた。
そしてイエスは、イエスを信じる者のために、父なる神にお願いして助け主として聖霊をこの世に遣わされた。

 

従って、聖霊はイエスの復活の御霊ともいわれ、この世にあまねく存在し、今も働いておられます。その働きは、未信者に罪を示し、真理へ導き、真理について教え、イエスを証しする者に力を与えます。
これらは全て、聖書の言葉によってなされます。

 

聖霊は、キリストの十字架が神の贖罪(罪を赦すこと)の御業であることを啓示します。このことを、聖書は「キリストはわれらの罪のために死に・・。」と告げていますが、これは人の思いをはるかに超える秘義であります。

 

そうでしょう、だれがそのようなことを想像できたでしょうか。だれも、そのようなことを想像できた人はいません。人間には思いもつかぬことです。
だから、神の働き、聖霊の力を借りなければその秘儀を本当の意味で認識することができないと思うのです。

 

聖霊だけが人の心の奥底にその真意を示すことができる。十字架の秘儀は聖霊の働きがなければ理解できないと思います。

 

キリスト教の伝道はそれらのことを伝えることです。説得して納得させるのではありません。ただ伝えるだけです。イエスの教えを聞いた人がそれを受け入れるかどうかはその人の自由です。

 

ただ、信仰を持つのも神からくると言います。それに、信仰を持った人を、神は「わたしが選んだ」(マルコによる福音書第13章20節他)と言われていますから、何度も書きますが、神の選び、すなわち聖霊がその人に働かなければ信じることができません。

 

これらのことは、にわかには信じられないことだけど、十字架による死は歴史的事実です。聖書の言葉も否定できません。今まで理性的に聖書を否定した人はおそらく一人もいないだろうということです。

 

約2000年前から現在にかけてどれほどの人がそのことを信じて洗礼を受けてクリスチャンになったか、これも歴史的事実です。

 

本当かもしれないと思ったら、信じようと決心する、そうすれば、最初は疑心暗鬼でも信じることが出来るようになる。決心したらあとは聖霊が導いて下さる。決心しなかったら何も始まらない。

 

そういう分からない世界に飛び込むのには勇気がいりますが、一度の人生です、自分の人生を変えて見たかったら飛びこんでみる価値は十分にあると思います。

 

そして、今もその神の支配の時代は続いていますが、サタンが滅ぼされたわけではないので、現実の人間世界を見ればわかるように、サタンの働きにからくる罪とか病が無くなったわけではありません。

 

つまり、イエスはそのような世界にイエスを信じる者のワールドを造ろうとされているのです。それがイエスを信じる者の集まりであり、キリスト教会なのです。

 

サタンは今でも人間に悪い影響を及ぼしています。だから人間社会は、悪がはびこり、人々の心はすさみ、病で苦しみ、混沌としています。
さらにいえば、わたしは、猟奇殺人とか、普通の人間では理解できない陰湿な行為などもサタンの影響と考えています。

 

そういう意味では、最近そのような事件が多いから、サタンが跋扈しているのでしょうね。信じられないような事件を目の前にすると、そう思いませんか。

 

神から離反して、神の誘いを無視して自分の意志で生きようとする人間は、神の守りがないのでサタンからの誘いにのりやすいといえるでしょう。

 

なぜならサタンの働きは巧みなので神から離反している人間には、何が善で何が悪か分からないと思うのです。

 

もちろん、サタンが誘いをかけやすい性格とか、心が病んでいて心に隙があるということもあると思います。人の性格とか心の問題は難しいですね。

 

ある本には、性格は遺伝と育った環境と肉体の影響を大きく受けるということです。別の機会にこのことを詳しく取り上げてみたいと思います。

 

この世は、神が支配されていると書きましたが、この世の悪は神がなされたことではありません。悪の根源は、神の愛から離反し、善悪の判断を、神の導きにも関わらず、神に委ねようともせず、自分で判断し行動することから生まれているのだと思います。

 

もちろん、神の影響から離れた人間は、サタンにとっては誘惑しやすい存在だと思います。

 

世界を見ると、人間は救いようのない地獄に陥っているようです。不法と不条理がはびこるのも、人間は、自分たちがどこから来てどこへ行くのか、自分たちは何者なのか、自分たちの存在する意味もわかっていないからではないでしょうか。

 

全ての人が、次の世があることを知れば、自分たちが造られた存在であることが分かれば、イエスを信じる者だけではなくすべての人に神の愛が満ちる。そうすると、もっとこの世は住みやすくなると思うのです。

 

みんなは孤独で不安なのです。イエスは、そういう世界の将来に希望を与えてくれます。イエスは次の世の復活につながる希望です。

 

動かしがたい証拠を持ってそのようなことを教えている宗教は、すべての宗教を調べたわけではありませんがキリスト教しかないと思います。

 

マタイによる福音書第27章46節によれば、イエスは十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとあります。
イエスが神の子であるならば、なぜこのような言葉が口から出るのでしょうか。この言葉は、神への人間の叫びです。矛盾します。

 

この叫びは、何を意味するかについては、解釈が分かれているということです。この言葉は、旧約聖書詩編22編の冒頭の言葉と同じですから、同22編を叫ぼうとされたという解釈があります。
この詩篇が神への信頼と賛美で終わるからです。

 

しかし、そのような長い詩を十字架上で、想像を絶する苦しみの中で叫ぼうとされたのでしょうか。わたしはその解釈に長年疑問をもっていました。

 

ところが、ある本で読んだのですが、当時ユダヤでは詩篇の冒頭句をよみ全体を顕す慣習があったということです。

 

また、この詩の内容は、殉教者(人間)の叫びなら分かりますが神の子の叫びではないのです。それはどのように考えればよいのでしょうか。

 

今のわたしに一番納得できる解釈は、イエスは神の子でありながら、人間の代わり人間の罪を背負い、裁きを受け、贖いのための生贄になられたのだから、全人類に対する罪の裁きを、罪に沈む人間の魂のうめきを全面的に背負われる必要があるということです。

 

だから、イエスは現実に一時でも神から見捨てられたと思われたのではなかろうか。人間を愛するゆえに、神でありながら一時的に人間と一体になられたということです。母親が不肖の息子を世間からかばうときに、自分も世間から責められているような気になるのはよくあることです。

 

そうであって初めて、全人類の罪を背負い、贖うと言う御業が実現するのではないでしょうか。この叫びは、神からの離反により命の源である神の霊、聖霊を受けることができなくなり、罪に沈み、滅びの下にある人間をふくめ、生きとし生ける物の悲痛な魂の叫びをイエスが代わって叫んでおられるのだと思います。

 

それは、人間を罪の中から、裁きの定めの中から救いあげたいという強烈なイエスの愛の証だと思うのです。といいましても、己がしてきたことの罪の重さが分からないわれわれには、イエスの壮絶な苦しみは所詮理解できないことでしょう。

 

イエスは十字架上で想像を絶する苦痛に耐えられました。しかし、肉体の苦痛を耐えることから来る叫びならイエスは特別だとは言えません。

 

一緒に十字架につけられた強盗二人も、また、歴史上多くの義人が十字架刑に処せられ同じ苦痛を味わっています。イエスの十字架もその中の一つにすぎないといえます。

 

イエスは十字架で死んだあと、復活されたから特別の意義を担うことになるのだと思います。

 

それは、イエスは神の子キリストであり、十字架が神の御業であることを証しているからです。そういう意味で、イエスが復活されなかったら今のキリスト教はありません。

 

神であり人間である、最も清く罪の無いこの人が、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか。太陽系の小さな星、地球にうごめいている人間という惨めな生き物の罪を贖うために、神は御子イエスを十字架にかけるという身代金をなぜ払う必要があったのか。
その意味をいろいろ調べてみましたらいろいろ出て来ました。

 

第一に、イエスは人間に、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15章12節)という新しい掟を与えたので、その模範を示す必要があった。

 

第二に、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたはわたしの弟子である」(ヨハネ13章35節)。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章39節)。「敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)とも言われた。このことも証拠立てるべきであった。
しかも、現在及び未来にわたり影響を及ぼせるような衝撃的な方法で。

 

そして、イエスの受難の意味は、一言でいえば、ヨハネの言葉にある、「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3章16節)に尽きるということです。

 

イエス昇天に代わりこの世に降った聖霊は、人々を信仰に導き、その者に十字架による死と復活が神の贖罪の御業であることを啓示し、キリストを信じる者に、またその集まりに神の愛を注ぎます。

 

つまりキリストを信じる者による御言葉による交わりの中に、聖霊は働かれます。そこには愛と平安が満ちることになる。それがキリスト教会です。

 

その聖霊は、ヨハネによる福音書第16章7節でイエスは、「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしは去っていかなければ、弁護者(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなた方のところに送る。」

 

と十字架にかけられる前にわたしの代わりに遣わすと予告されたのです。そして、ヨハネによる福音書第16章13節で、「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と言われました。

 

ここであなたがたというのは、イエスを信じる者、イエスの弟子のことです。それはすべて実現したのです。今もその聖霊は働かれています。

 

そういうことで、キリスト教では聖霊の働きが重要なのです。聖霊の働きがなければ、十字架とは・復活とは・罪とは・愛とは・義とは・信仰とは、つまり聖書の言葉すべてについて、その真理が分からないということになります。

 

キリスト教は御言葉の宗教です。聖霊は御言葉に働かれるのです。御言葉とは聖書の言葉です。

 

キリスト教の教典である聖書は、神が人類に啓示された真理の書です。人類の歴史の背後に神のご計画と導きがあることを明確に証言しています。

 

そして、神が天地万物の創造主であること、また、神が目的をもって人間を創造されたこと、人類の始祖アダムが神に対して罪を犯した時以来、すべての人間は神の前に罪を犯し続けており、人間は皆生まれながらの罪人であり、死後に神の裁きを受けなければならないということを記しています。同時に、その裁きを免れる方法をも示されています。

 

聖書は、裁きを免れる方法は、この地上に生きている間に、イエス・キリストを信じ受け入れることだと教えています。キリストを知らなくて死んだ人は、その人の行いにより裁くとなっていてそれ以上のことは明確ではありません。

 

行いの基準は、健康でもなく、若さでもなく、お金持ちでもなく、地位とか名誉でもないのはたしかです。わたしは神様が人間に与えた内なる法則である良心だと思っています。

 

「また、人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙第9章27節)。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちなのです。」(ローマの信徒への手紙第6章23節)。

 

第九章.エクレシアと制度的共同体
一般に教会とは、キリストの民の共同体で、規則をもち、信条と教義を掲げ、洗礼や聖餐の儀礼を行い、聖職者の組織をもつ制度と定義したいと思います。そして、そこで信じ表現されている宗教が「キリスト教」ということでしょう。

 

エクレシアとは、その中での御霊による交わりの集会(キリストを信じる人々の集まり)を指すのだと思います。パウロがよく使う「キリストにあって」とはそのことを指しているのでしょう。

 

したがって、制度的教会はエクレシアの容れものであって、エクレシアそのものではないと思います。

 

神の御霊に満たされたエクレシアは、キリストの充満体ですが、制度的教会は必要により歴史の流れの中で生まれた、制約された相対的な制度だと言えます。
キリストの充満体である(御霊に満たされた)エクレシアは絶対ですが、制度的教会は絶対ではなく相対です。

 

制度的教会は必要により生まれたものですから、成長しながら変遷し、キリストの再臨までの一時的、相対的なものです。

 

したがって、制度的教会を絶対化して、その制度(教義や祭儀)に従うことを 強要し、従わない者を排除・迫害するならば、その「教会」はエクレシアの敵対者になってしまします。ですから、現在の制度的教会の礼拝への出欠席とか教会員の出入りが自由なのはそういう意味であると思うのです。

 

キリストの集会に集うのは、規約とか戒律で強制的に集わされるのではなく、あくまで御霊に導かれて集うのだと思うのです。

 

中世ヨーロッパにおけるキリスト教会の歴史は、悲惨な歴史です。それは制度的教会を絶対化し、絶対化された制度的教会が時の国家権力と一体化したので、そこから生まれた対立抗争が原因で、血塗られた歴史になったのだと思います。

 

したがって、中世ヨーロッパにおけるキリスト教の悲惨な歴史は人間の作った制度から生まれたのであって、神の御心ではないと思います。

 

そういう意味で、パウロの手紙で「教会」と訳されているのは、キリストの充満体としてのエクレシアを指すとわたしは理解しています。

 

よって、わたしは新共同訳聖書でパウロの手紙などで教会と訳されているところを、(制度的教会と間違いますので)キリストの民の集会とか共同体と表現しました。

 

事実、新約聖書の福音書とか手紙類が書かれた1世紀頃までは現在のような制度的教会は存在しません。制度的教会が成立するのは紀元300年以上後のことです。

 

紀元70年のユダヤ戦争でエルサレムが崩壊するまでのキリストの民はユダヤ教の一派のような存在で、「イエス派」とか「この道」などと呼ばれていたそうです。

 

紀元70年以降にエリウサレムの崩壊と同時にユダヤ教の崩壊が進み、律法遵守に厳格なフワリサイ派が勢力を伸ばしユダヤ教会堂から追放されたので、そのためにユダヤ教から完全に独立する事になったのだと思うのです。

 

それにキリスト教という宗教が生まれたのは制度的教会からと書きましたが、ヨハネの福音書14章6節のイエスの言葉「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」」、とあるように、イエスそのものが真理で命です。イエスの言葉と行いが神を顕わしているのです。

 

イエスは真理をこの世に告知し、神のご計画である人類救済のご計画を実現するためにこの世に来られたのです。イエスは決してキリスト教という宗教の教祖となるためにこの地上に来られたのではないと思うのです。

 

イエス・キリストの福音の告知は、宗教という人間の作った制度になじむものではなく、イエス・キリストは神の体現者ですから天地万物の真理です。
少なくとも、聖書を素直に読んでいる限りその様に解釈、理解するしかないと思うのです。

 

したがって、キリストの民の集会で、キリストの御霊を体現するエクレシア(共同体とか集会)が初期教会の呼び方として最もふさわしいと思うのです。

 

キリストが語りかけておられるのは、けっして一つの教会を指すのではなく、教団、教派の垣根を越えて、世界中のキリストの民全体であり信徒一人ひとりだと思うのです。
キリストの民はどの教団、教派、教会に所属していようが、信仰は一つで、心も一つです。

 

もちろん、世界中のキリストの民が一堂に会し、礼拝するなどは現実的ではないので、一つの教会の属し、また集会に属し交わりを保つことは絶対に必要だと思います。

 

そういう意味で、制度的教会は歴史の中で必要によって生まれ、絶対的なものではなく相対的なものだと書いたのです。
わたしは以上のように理解しています。違った意見の方もおられるかもしれませんが、その場合はご容赦ください。

 

第十章.神の言葉(福音)
聖書の言葉はなぜ神の言葉と言うのでしょうか。この聖書の言葉について思うところを独断と偏見で書いてみたいと思います。
時々しっかりと基礎的なことを確認しておく必要があると思いますので・・・。

 

<神の言葉>
約2000年前イスラエルのナザレでこの地上に生きていた大工のイエスという一人の男が神の子と言われています。具体的には、イエスは神の言葉が受肉した存在。神の言葉を聖書では、ロゴス(ロゴスとは、神の言葉、理性とか知性のこと)といいます。

 

神の言葉(ロゴス)は、神から発せられた創造のみ言葉(ことば)であり、その言葉が受肉することによりロゴスはわたしたち人間と同じ人格的な霊性を宿す人となったといえます。

 

イエスが十字架で殺されて復活され天に昇られますが、そののち使徒言行録2章にあるように聖霊降臨の出来事があります。
聖霊は神の霊ですから神の言葉でもあります。聖霊はイエスの代わりにこの世に送られたのでイエスの御霊とも言います。

 

その聖霊は、神の言葉である聖書の言葉を信じる者に内住され、その人を言葉で導きます。内住した聖霊である神の言葉はその人の理性・知性とか知能を支配し、新しい人間に造り変えます。
ですから、聖霊は、聖書の言葉と現実とを結ぶ働きをする知恵の御霊といえます。

 

そして新約聖書は、神の言葉である聖霊が内住したイエスの弟子たちがその神の言葉に導かれて聖書を書いたと言うことです。

 

ロゴスを辞書でひくと(1)事物の存在を限定する普遍の理法、(2)行為の従うべき準則、(3)この理法、準則を認識し、これに聞き従う分別、理性を意味する、とあります。
理性・知性・霊知・宇宙の原理などの諸概念をイメージします。

 

言葉には力があります。人間の発する言葉も相手に影響を及ぼし、時によりその言葉を受け取った人の人生に影響を与えます。
ましてや神の力ある言葉(ロゴス)は言葉でも創造の言葉ですから信じる者を造り変える力があります。この世に具体的な出来事を実現させる力があります。

 

聖書であれ何であれ書かれたものは時代を通じて読まれますが、文字を読むだけでは、色々な解釈が生まれて著者の真意が伝わらないことが多いと思います。
その働きを担うのが聖霊だと言うことでしょう。

 

人間は本来霊的な動物と言えます。霊的な動物ならば、霊は神の言葉ですから、人間も本来は神の言葉が受肉した存在と言えます。
人間が霊的な存在ならば、その霊を与えて下さった霊的な存在である創造神といつも交流していなければ生きてはいけない存在ともいえます。

 

ところが、人間は命の源である創造神と断絶して自己中心で生きるようになってしまいました。

 

したがって、人間は創造神と霊的な交流が絶たれて死ぬものとなったのですが、その神と人間の断絶を回復させるために神は言葉で持ってイエスをこの世に降下させられたのです。

 

イエスが神の言葉が受肉した存在ならば、この世界にイエスに代わり降下された聖霊は、イエスの御霊で、ロゴスでもあります。

 

イエスの存命中はイエスの働きは特定の相手あるいは一地域に限られたが、聖霊(ロゴス)はイエスの言葉を信じるものに内住して、その者の理性とか知性を言葉(ロゴス)でもって支配します。
そして、わたしたちの間に遍在して、イエスの言葉を信じるように導かれています。

 

そして、その言葉は、人間の文化とか文明にも影響を及ぼしていると言えます。
しかし、神とコンタクトの取れていない人間の理性とか知性は脆く事実上破たんしており、不完全極まりない。
だから、神のいない人間の歴史は悲惨この上ない。

 

こうしてみると、聖書を読む者は聖書の言葉を神の言葉として読み、受け取り、これを歴史と時間の中で解釈することが必要なのではないだろうか。

 

聖書を読む者は、聖書の言葉に隠された霊的な意義を自己がおかれた現実に照らして、再度解釈しなおし、聖書の言葉が何を言わんとするか読みとる必要があると思うのです。

 

そして、聖書の言葉は信じるものが読めばその者に行動を要求しますから、聖書の言葉は読む者を変え、歴史をも変えていく。

 

なぜ、信じる者だけかと言えば、神を信じる者としか神はコンタクトがとれないので、聖霊も働く余地がないからということでしょう。
聞く耳がなければ神の言葉も聞こえないのです。

 

ですから、神の言葉が聖書になって、それが実現するのは、その真意を伝えるのが聖霊(ロゴス)の働きと言えるのではないでしょうか。

 

その営みは、欧米の、あるいは世界の歴史に大きな影響を与えてきました。
これは、聖書が単なる書物ではないことを表していると言えないでしょうか。
そういう意味で、聖書を単なる書物で偽書とお考えの方は、人類の歴史を否定することになると思います。

 

<福音書>
新約聖書の福音書はキリスト教の聖典ですが、生前のイエスが弟子たちに教えられたこと、なされたことが書かれています。

 

著者はイエスの公生涯の三年間イエスと寝食をともにした弟子が、イエスを自分の目で見て、言葉を耳で聞いて、思ったこと、感じたことをそのまま書いたのです。

 

神は福音の伝達を人間の手に委ねられました。そのために神の言葉であるイエスを信じる者に神の言葉が受肉した神の子イエス・キリストの出来事を書かせました。そして、神はその聖書の言葉を用いて、聖書を読む者に自己を啓示し、働かれていると思います。

 

福音書を書いた著者は、イエスのことを本人イエス以外で最もよく知っている人たちです。なにしろ、三年の間寝食をともにしたのですからね。
そして、その人たちは、イエスの死からの復活と聖霊降臨を自ら体験した人たちでもあります。
その人たちがイエスはこういう人だ、イエスはこのように言っていた、イエスはこのようなことをされた、だからイエスは神の子だ、そのイエスの言葉を信じたら良きことがある、事実わたしも良きことがあった、だからイエスの言葉を信じなさいと言っているのです。

 

もちろん、その人たちは自分の潜在意識の中で、あるいは、信徒の集まりの中で、活発な聖霊(神の言葉の)の働きを、たしかにわたしの内に神は働いておられるという体験をしているのです。

 

それは、外からは、異言とか予言とか迫害にも負けない信仰などで確認できます。

 

だから、聖書に書いてあることがイエスの言葉を信じていない人にとってはとんでもないことであっても、その人たちにとっては当たり前のことなのだと思います。

 

その人たちが、イエスとの体験を福音書という書物に著したのです。
その福音書を当時の人たちは信じたのです。
そして、福音書に書いてあることを信じた人たちは迫害に遭いながらも命をかけてイエスの教えを広めようとしたのです。

 

また、迫害にも負けずにあらたな信者が猛烈な勢いで増えていったのです。
そして、とうとうローマの住民の半数以上がイエスの教えを信じるようになり、ローマ帝国はキリスト教を国教にせざるを得なくなったのです。これは歴史的事実です。

 

その神の言葉である聖書は、その後2000年間、現在に至るまで人類の歴史に大きな影響を及ぼし、次から次とイエスの言葉を信じるものを起こされています。そして、今や世界人口の三分の一以上の人々が、神の言葉である福音を信じているのです。

 

福音書に疑問を持つ方は、福音書の内容をとやかく言う前に、福音書にはそういう歴史的事実があることを知ってください。

 

イエスの処女降誕は、まさか嘘だろうと言われています。処女降誕が本当かうそかは母マリアにしかわからないと思います。今更、科学的にはその真否を明らかにはできません。

 

でも、イエスと寝食を共にした人たちが、また、当時の人たちがそのことを信じたのです。
多くの人々が、あのイエスなら、あるいは、弟子たちが(イエスの言葉を信じた者たちが)聖霊が満たされて迫害をももろともせず歩むその姿を見て、それは事実に違いないと思ったのです。

 

だからキリスト教の今があるのです。これも歴史的事実です。
キリスト教というかキリストの福音が、生まれては消えていった多くの新興宗教の中で生き残ってきたのです。これらのことはすべて神の言葉、聖霊の働きの結果だと思います。

 

<福音について>
福音とは良き知らせともいいますが、パウロは新約聖書ローマの信徒への手紙1章16節でこのように言っています。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 

信じる者を救いにいたされる神の力としての福音とは、コリントの信徒への手紙第一 第15章3節から6節「最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケフアに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」

 

パウロがみんなに伝えたこと、すなわち「福音」は、パウロが誰かから受けた言葉だと言っています。
ケフアと言うのは、イエスの十二弟子のひとりで、ペトロのことですね。

 

パウロは誰から受けたかというと、もちろん、イエスと寝食と行動を共にし、イエスの逮捕から裁判、そして十字架死、実際に葬られたこと。これらの出来事を体験した十二人の弟子からでしょう。

 

そのイエスに直接選ばれて弟子になった十二人は、イエスは葬られて三日目に復活されて自分たちに顕現されたことを体験し、聖霊の注ぎを受けて、神がイエスを復活させることによってキリストとして立てられたということを確信して、その驚くべきことを世界に、つまり、異邦人の世界に告知しょうとしている弟子たちです。

 

十二人の弟子たちは、イエスはキリストとして立てられて、「わたしたちの罪のために死んだ」と告知しています。

 

その意義は、キリストはわたしたち人間を、神にそむいた結果陥った罪の支配から解放し、神のもとに引き戻すためであるとしています。
これが十字架の意味だということでしょう。

 

したがって、福音とは、十字架につけられて死なれたキリストは、三日目に復活されました。
この事実を実体験した人の証言が福音ということになります。

 

そして、その福音は、コリント信徒への手紙 第一 15章209節にあるように、イエス・キリストも十字架死と復活の出来事は、神が終わりの日に成し遂げると約束されていたことの成就であると宣言しています。

 

それはイエスの言葉を信じる者たちが、キリストに合わせてやがて復活することを保証するのですね。

 

この「福音」が告知する十字架・復活の出来事を信じる者は、神が終わりの日に約束されている聖霊を無条件で受け、この聖霊の働きが信じる者を救いに至らせる神の力となるのです。

 

言い換えて、福音は信じるものを救いに至らせる神の力、神の言葉の力です。
「福音」は、神の恩恵を告知する言葉であり、初穂としてのキリストの復活に生きる希望であり、信じる者に聖霊をもたらし、新しい命、神の愛の命に生きるように人間を根底から変容させる力だということだと思います。

 

「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力である。」。

 

福音は神の力、神の力は神の思いがこもった言葉(ロゴス)です。神の言葉が受肉した神の子イエス・キリストの出来事を知らせる神の言葉です。
その聖書の言葉は、神のみ子であるイエス・キリストの出来事を告知する言葉です。

 

この言葉は、福音を告知し、信じて読み聞く者に人格で交わり語りかける愛の言葉でもあります。そして、聞く者を根底から変えてしまう創造の言葉でもあります。

 

それでは、上記パウロの言葉を考えてみましょう。
「福音、・・・神の力である。」とはどういうことでしょうか。
神の力には、万物を創造し、人を罪の中から救い造り変える働きがあります。

 

「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコの福音書10章27節)と言われる力です。

 

力ということですから、ある目的に向かって働く、意志を持った動的な力です。その力は人を救いに導く力です。人を救いに導き力ですから、人格的な力です。

 

それでは、「すべて信じる者には、救いに至らせる」とはどういうことでしょうか。
「福音」と言う神の力は、人を「救いに至らせる」方向に働く力です。
何からの救いかと言いますと、人を悪に導くサタンの影響から解放して、また、悲惨な状態に閉じ込めている罪や病気や死の支配から解放して、やがて、神と共に生きることができる命へと変えて、栄光にあずかる姿に完成(ヨハネの黙示録21章1節から8節)させる力です。
解放・変容・完成の過程です。これは神の約束ですから必ずなるのです。

 

「すべて信じるものには」ですが、前記のような人を救いに至らしめる神の力が働くのは、イエス・キリストの福音を受け入れて信じている個人とその個人が集まる場においてのみだということでしょう。

 

だから、イエスの言葉を信じない者には何の変化もないと言うことです。
信じるだけでよく、何の条件もない。国家・民族・教養・男女・文化程度・社会的身分・財産・道徳的価値も問わないと言うことです。
もちろん、宗教もです。

 

次に「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」ですが、ユダヤ人というのは、モーセ律法を遵守するユダヤ教徒のことです。

 

ギリシア人と言うのは、ユダヤ教徒以外のこの時代であればギリシア文化の世界の人々。一般的には、ユダヤ教徒以外の異邦人すべてを指すと思います。

 

なぜこのような書き方になったかを考えますと、福音は、最初はユダヤ教徒がになったからでしょう。
それはモーセ律法を守るユダヤ教徒でなければ、神の民になれないという教えがあったからでしょう。

 

パウロは、ユダヤ教徒でなくても、ギリシア人であっても福音を信じるならば、福音を告知するイエス・キリストを信じるならばモーセ律法と関係なく、その信仰によって義とされ救われるとしたのです。

 

ということは、現在においても、特定の宗教とか教会とかにかかわらずイエス・キリストを信じるものは救いにあずかれるということでしょう。

 

だから福音は過去・現在・未来のすべての人々に公平に伝えなければならない。
神は公平な方です。神は過ちを犯しても何度でも赦して下さる憐みと恩恵の神です。
だから、人生80年間でその人の永遠の命の運命が来まることはないと思います。もし、それが真実なら不公平極まりない、神の信義に反します。

 

そうすると、自ずから来世においても救いのチャンスがあると言うことになります。すべての人が救われるまで、何度もチャンスを与え神は根気よく待って下さると思うのです。

 

そして、最後にはすべての人を神の国へ導かれると思います。わたしはそのように信じています。
それでも、最後まで福音を否定する人はわずかですがいるでしょうが、その人たちの行方はわかりません。

 

福音について、もう一か所福音書から紹介します。
聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙第一第15章3節から6節です。
「最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。

 

すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケフアに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」

 

パウロがみんなに伝えたこと、すなわち「福音」は、パウロが誰かから受けた言葉だと言っています。

 

ケフアと言うのは、イエスの十二弟子のひとりで、ペトロのことですね。
パウロは誰から受けたかというと、もちろん、イエスと寝食と行動を共にし、イエスの逮捕から裁判、そして十字架死、実際に葬られたこと。これらの出来事を体験した十二人の弟子からでしょう。

 

そのイエスに直接選ばれて弟子になった十二人は、イエスは葬られて三日目に復活されて自分たちに顕現されたことを体験し、聖霊の注ぎを受けて、神がイエスを復活させることによってキリストとして立てられたということを確信して、その驚くべきことを世界に、つまり、異邦人の世界に告知しょうとしている弟子たちです。

 

十二人の弟子たちは、イエスはキリストとして立てられて、「わたしたちの罪のために死んだ」と告知しています。

 

その意義は、キリストはわたしたち人間を、神にそむいた結果陥った罪の支配から解放し、神のもとに引き戻すためであるとしています。
これが十字架の意味だということでしょう。

 

したがって、福音とは、十字架につけられて死なれたキリストは、三日目に復活されました。
この事実を実体験した人の証言が福音ということになります。

 

そして、その福音は、コリント信徒への手紙 第一 15章209節にあるように、イエス・キリストも十字架死と復活の出来事は、神が終わりの日に成し遂げると約束されていたことの成就であると宣言しています。

 

それはイエスの言葉を信じる者たちが、キリストに合わせてやがて復活することを保証するのですね。

 

この「福音」が告知する十字架・復活の出来事を信じる者は、神が終わりの日に約束されている聖霊を無条件で受け、この聖霊の働きが信じる者を救いに至らせる神の力となるのです。

 

言い換えて、福音は信じるものを救いに至らせる神の力、神の言葉の力です。
「福音」は、神の恩恵を告知する言葉であり、初穂としてのキリストの復活に生きる希望であり、信じる者に聖霊をもたらし、新しい命、神の愛の命に生きるように人間を根底から変容させる力だということだと思います。

 

第十一章.宗教心とキリスト信仰
人間は、常に何かを求めているから、それが得られないきに、色々な感情が生まれるのではないでしょうか。何かを求めることから生まれる感情の中には、恨みや憎しみやはては欲望から来る闘争心もあります。

 

それらの原因は、他人との比較からうまれる嫉妬ではないでしょうか、嫉妬は、自己中心から来ていると思います。これがキリスト教でいう人間が本性としてもつ罪だと思います。

 

死、苦、不幸、悲惨、孤独と不安その他この世の多くの問題に対して人間は無力で、生きている限りそれらを避けることは出来ません。そのことを真に自覚したとき、人間は自分自身の無力さと生きることに意味を見いだせなくなるのではないかと思うのです。

 

人間は自分の無力さを知ったとき、満たされぬ気持ちと不安に襲われる。そして、何かにすがりたくなり、その対象として人間を超える絶対者である神を求めるようになるのではなかろうか。

 

人間は絶対者としての神を見出し、その神に自己を投げ出し、もちろん、自己を投げ出すには自我を捨てる必要がありますが、すべてを委ねることができれば、その神に自己の存在と意味を見出し、無意味と思えた自己を意味あるものにでき、心の平安を得ることができるのではなかろうか。宗教心というのはそのようなものだと思います。

 

このようなことを考えるのは、おそらく人間だけではないだろうか。そこに人間が存在する意味というか、人間を造った創造主の意思を感じることが出来ます。
このように、人間に神を希求する心が与えられているのは、人間が神によって造られた存在だからだと思います。

 

困った時に、子が親を求めるように、造られたものは造ったものを希求する。神は人間を創造するときに親が子に求めるように、いつも自分のほうを向いていてほしい、道を間違わないでほしい、あるいは何か創造の目的を成就するために人間に神を希求する心を与えられたと思うのです。

 

造られたものの住む世界は有限、創造主の無限の世界のことはわかりません。だから人間はどこから来てどこへ行くのか、生きている意味は何か、分からないから、知ることが限られているので心の底では常に不安を持っています。

 

絶対者に依拠する心、それが宗教心を生む意味だとすれば、絶対者である創造主の意思を、信仰をもって真に理解し信頼できたとき、はじめてわれわれの心は親の胸元で赤子が安らかな顔をして寝ているように平安に包まれると思うのです。

 

自己の生死とか存在の意味は知らなくても生きてはいけますが、それでは動物と変わらないと思います。目も見えず耳も聞こえずただ自己愛という本能的な衝動によって動かされて、ひたすら己の欲するところを追及して生きているだけの存在になると思います。

 

もちろん、知恵とか良心が与えられていますが、現世では、努力だけではとうてい自我を完全にコントロールできるものではありません。

 

動物の世界には、いわゆる悪は存在しないと思います。動物が共有している本能、つまり自然な衝動と欲望だけではまだいかなる悪も生じないが、これに人間の自我が入ると我意が生じ自己愛が生じる。
それがこの世のあらゆる悪を生み出し、人生の苦を生み出すのだと思います。

 

このような罪なる無意識な衝動が、自己の内に巣くっていることを見出し、その罪に対する無力を知るとき、われわれは自己の力ではどうしょうもない罪悪感を覚えるのではないだろうか。
これを使徒パウロは次のように表現しています。

 

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(新約聖書ローマの信徒への手紙第7章19節・20節)。

 

罪を知るのには、聖書には神の霊、聖霊の働きだと書いてあります。
神がいなければ、つまり、進化論で言う、人間が偶然の産物なら、罪悪感も覚えることはないので、自己の思うままに生きればいいだけである。

 

人生はこの世だけだから、やりたいことをやって死ねばすべてが無。この世の不条理、不公平も関係ない。やったことに対する報いもないから罪とか裁きを気にすることもない。

 

もし、進化論が正しくても進化の過程に秩序があるなら、やはり創造主の存在をわたしは認めたいと思います。
創造主である神の存在を認めるとき、人は自己の心の奥底に潜む、自己の力ではどうしょうもない罪なる自己の存在に気がつくことがあります。

 

そのときに猛烈な悔い改めに導かれます。そして、そこから救われたいと思い、創造主である神に許しを求めるようになると思うのです。
自分ではどうしょうもない罪悪からの救いは、自己を創造した神の前に悔い改めるしかないと思います。イエスを信じる信仰も、深い罪の自覚と、人間の無力の自覚から出てきたものといえるのではないだろうか。

 

人間が、どんなに善行を積み、戒めを守り、律法を守る努力をしてもこの罪なる意識は克服できません。

 

なぜなら、人間には、自分は造られて生かされているという自覚がない。当然自己を創造した神から離反しているという自覚もない。だから、造られた目的も分からないから、造られた目的にそって生きていないことになる。

 

神の霊、聖霊も受信機が壊れているそのような人間に働きかけても交流は不可能。人間は本来歩くべき道を外しているがために常に重荷を背負って生きていかねばならないことになる。

 

聖書には、人間の神からの離反は人間の自己愛と傲慢から起きていることになっている。その原因は、人間に自由意志が備わっているからだということです。

 

神は人間に必要があって、人間にとって善きことと思って自由意志を与えられましたが、人間は自由意志を神からの離反という悪いほうに使ってしまいました。
神は人間を創造しておいて、たとえ人間が自分から離反しても、放置して単に人間の世界を超越したところに絶対者として君臨しているだけなら、愛の神ではないと思います。

 

罪の中で苦しんでいる人間がいるからこそ、神は人間を愛するので、それゆえに人間世界に神の子を使わしました。
聖書では、これを義なる神と言います。

 

この様にして、人類を救うために神の子イエスはこの世にこられました。イエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書第1称5節)、であります。

 

そして、イエスは、財産とか、地位とか、名誉とか誇るべき何ものも持たない者に、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである。」(新約聖書ルカによる福音書第6章20節)といわれました。

 

神は、御子イエスをもってこうして人間に救いの道を開かれました。神は唯一であるから救いの道も唯一であります。神は万人を愛するがゆえに、イエスの十字架上の死で過去・現在・未来のすべての人間の罪を贖われましたが、その恩恵を受ける唯一の条件として、イエスの御言葉を信じること。

 

だから救いの道はイエスただ一人だといわれました。なぜイエスを信じることが条件かといいますと、イエスを信じた者に聖霊が宿り、受信機は補修され、神との交流が可能となるからです。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書第14章6節)。

 

前に罪の根源と救いの道は唯一であることをとりあげましたが、ここでは救いの方法としての、イエスの十字架の死と信仰について書きます。

 

人間は絶対者である神から離反し反抗するから両者の間には断絶があり、対立があるといえます。そのためその断絶を埋め、対立を無くそうとしてこの地上世界にこられたのがイエスです。

 

イエスは、両者の間に立って、人間を憐れむがゆえに苦悩しなければならない。それがイエスの十字架上での死だと思います。その死に至るまでの苦難と悲惨は、人間との断絶の溝が深ければ深いほど強烈なものとなります。事実その苦しみは想像を絶するものでありました。

 

ゲッセマネでのイエスの祈りがそれを示しています。(マルコによる福音書第14章32節以降)
それまで、イエスのもとに慕い集まっていた多くの人々はいつしか遠ざかり、人々はイエスに侮辱と嘲笑を投げかけました。

 

信頼を寄せた弟子達ですら逃げさり、ペトロのようにある者は彼を三度も否認し、さらにユダのようにイエスを敵の手にお金で売り渡す者さえでました。

 

イエスに惹かれて従ってきた女たちでさえ、イエスの極刑を遠くから見ているだけでありました。これは、人間の真の姿を現しているのではないでしょうか。

 

アダム以来神から離反し、自分が造られた存在であることも知らずに、自分が一番、自分には何でもできるという自己愛そのものの姿であると思います。サタンは人間の自己愛を利用し、人間を罪へとそそのかします。

 

他方神の方は、御子イエスをこの世に送り、人間にその罪を自覚し、神のもとに帰るように説きました。

 

両者の仲を取り持つためにこの世に来られたイエスは引き裂かれます。余りにも、両者の断絶が深かったために、人間を愛する愛の深さゆえに、イエスは、極度の苦悩に陥ることになります。

 

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(新約聖書マイイによる福音書第27章46節)、というイエスの最後の叫びは、人間の背信と嘲笑と残虐な仕打ちの中での苦悩の叫びであったと思います。
人間の罪を一身に背負った、人間としてのイエスの断末魔の叫びと言えます。

 

それでもイエスは、十字架は神の御計画であることを自覚しておられて、人間を愛するがゆえに、甘んじて受けられたのです。
イエスは地上の人間に父なる神の言葉を語り、その深い罪を自覚し、悔い改めて神のもとに帰るように説きましたが、人間はその神の声に素直に聴き従うほど従順ではなかったのです。

 

イエスの十字架上の死は、人間の罪を贖うための贖罪の死であったという。イエスは地上の人間のもとに遣わされた神の子であって、神は、この罪なき神の子イエスの受難と死を通して、人間の力では償うことの出来ない罪を自らに背負い人間の罪を贖いこれを恩恵のゆえに赦された。

 

このように対立する者を赦すのが神の愛であるといえます。逆にいえば、人間は罪なる存在であるがゆえに愛すべき存在だといえます。できの悪い子ほどかわいいとも言いますが。

 

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(新約聖書ローマの信徒への手紙第4章8節)

 

われわれの信仰そのものが神の愛の働きであり神からの恩寵であるということです。

 

自由意志を持つ人間には、信仰は一つの選択ですが、われわれが選ぶ前に我々は神に選ばれている。神の愛の働きは啓示として現れ、言葉として表れ、言葉の受肉としてのイエスとして現れたのです。それは神の恩恵であり、神の行為であります。

 

このような神の業があって初めて人々は信仰に入ることができる。信仰は人間から神に向かう働きでありますが、それ自身神から人間に向かう神の働きによって可能になるといえるのではないでしょうか。(ローマ8-20)。

 

イエス・キリストの復活の信仰には、永遠の生命への信仰があります。われわれは、イエスが、人間の罪を贖う(死は罪と結び付けられているから)為に十字架に架けられ死に、死から復活したということを信じることによって、罪は赦され、われわれも来世において復活して永遠の生を得ることができる。

 

ここに来世への希望が生まれます。そのための準備がキリスト者においてもうすでに始まっているといえます。
これにより人間は罪に死に、愛に生きる、自己に死に神に生きることになります。

 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(新約聖書ヨハネによる福音書第11章25節・26節)。

 

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(新約聖書ヨハネによる福音書第12章24節)。

 

世界宗教となったいまのキリスト教を見ると、まさにこの御言葉が成就したことになります。考えれば考えるほどこの聖句は、すごい言葉だといえます。人間には言えません。

 

もし、創造主がいないのなら、もし、イエスの救いの十字架がなければ、この地獄のような世界から人間をどのようにして救い上げればよいのでしょうか。

 

戦争、殺戮、破壊、そして、貧困。人間の生を見れば、不幸と悲惨、孤独と不安に支配されています。死にも、苦にも、その他この世の多くの問題に対して人間は無力であります。この地獄のような世界を造り出した人間には、地獄をなくすることはできません。

 

神はいない、だから裁きもない、自分だけ良ければよい、救いようのない世界、強い者勝ちの弱肉強食の支配する世界がここにあります。

 

その世界に輝く、希望の光がキリスト信仰ではないでしょうか。最後に、ナルニア物語の作者C・Sルイスの言葉を紹介します。

 

<神が人間になった理由>
もし、神(人に善いものを分かち合うことができても、死ぬことも降伏することも苦しむこともできない)が人間になったとしたら、苦しみそして死ぬことのできるわれわれ人間の性と神の本性とが、ひとりの人格の内に融合したら、その人格はわたしたちを助けることができる。

 

彼は人間であるゆえに自己の意志を放棄し、苦しみ、また死ぬことができる。しかも、神であるが故に、それを完全になし遂げることができる。

 

<十字架は神にとって苦しみか>
イエスが神であり人間であるならば彼の苦しみや死はどれほどの値打ちがあるのか、彼にとってはそんなものはいとも簡単なことだから。

 

イエスは神であったが故に完全な服従、完全な苦難、完全な死は彼にとって容易であったというだけでなく彼は神であったからこそそれらのものが可能となったのである。

 

神が死ななければわれわれは神の死にあずかることが出来ない。神は人間にならなければ死ぬことが出来ない。このような意味で、神は我々の負債を払いご自身は全然苦しむ必要のない苦しみをわれわれのために苦しんでくださった。
神は十字架にかかることは易しい。易しいから人間を助けてやることもできる。

 

第十二章.キリスト教は信じるに値するのか
さて、今回はキリスト教と他の宗教の信頼性について考えてみたいと思います。キリスト教はこの2000年間、聖書の内容が、その教えが真実かどうかを疑われて叩かれ続けました。

 

キリスト教以外の宗教には、主なもので仏教、ヒンズー教、イスラム教などがありますが、キリスト教と違ってこれらの宗教は、歴史的起源の事実と、説かれているメッセージに関してわたしの知る限り徹底的にその信ぴょう性を調査されていないと思うのです。

 

書店の棚をみてもキリスト教以外の宗教の歴史的起源の事実と、教えの信ぴょう性を検証した書物は見当たらないのです。

 

つまり、書かれた内容がすべて正しいという前提で書かれているのです。
それでは、なぜキリスト教だけがこれほどその信ぴょう性を疑われ、叩かれるのでしょうか。

 

この2000年間、聖書を読み、奇跡なんてばかばかしい、聖書は作り話だといってその信ぴょう性を覆そうと挑戦した多くの人々がいます。

 

その時代の優秀な頭脳により徹底的に調査、検証されましたが、もちろん、考古学上もですが、聖書もキリスト教も元の姿のままで生き残っています。
結論は、信じるに値いしないことは何もないということです。

 

キリスト教の起源についての科学的、学問的調査は、その起源の土台を崩すどころか逆に強固にしたといわれています。

 

イエスのメッセージも、2000年前に語られたメッセージですが現在でも時代遅れになっていません。
今でも生き生きと世界中の人々にその人の人生を二分する大きな影響を与えています。

 

日本の神道は、天皇家が神的起源を持ち、天皇は天照大神の子孫である、また日本国は男神と女神との結婚によってできたものと教えられていましたが、そのことが事実であるか否かの学術的調査はされたのでしょうか。

 

その辺が不確かですから、神道には神の存在論が無くて儀式のみの宗教のようにみえるのです。
キリスト教は、経典である聖書の内容の信ぴょう性について徹底的に検証されましたが、書かれていることが、もちろん目の前で見たわけではありませんので全ては状況証拠だけですが、聖書に記載された出来事を状況証拠は事実であると肯定しています。

 

話が変わりますが、仏陀は神でしょうか。創造主でしょうか。人間の力や自然の力を超えた存在でしょうか。
仏陀はご自身が神であると主張されたことはないと思います。
仏陀は神の存在について不可知論者であったと聞きます。

 

アメリカの神学者であるポール・リトル氏の本には、「もし神が存在するとすれば、神は個々人が悟りに入るのを助けることができないであろう。各人は、これを自分の力で達成しなければならないであろう。」と仏陀が言ったと書いてありました。まさしく仏陀は人間です。

 

世界の偉大な宗教指導者のうちで、キリストのみが自分を神であると主張されていると思います。そのためにイエスは十字架にかけられて殺されたのです。
すべての宗教を調べたわけではありませんが、私は勝手にそのように思っています。

 

マホメット、仏陀、孔子、この世の新興宗教の教祖も教えを強調します。
本屋の宗教書の棚を見ましたら、多くの本を出している新興宗教の教祖、人の信仰心をもって商売をしている教祖がなんと多いことでしょう。

 

キリストは自分自身の言葉と生きざまを持ってその教え「福音」の焦点とされています。仏教は、多くの知識人は哲学だと言っています。

 

イエスは、本は書かなかったし、商売もしなかった。金儲けとか献金を求めなかったどころか、イエスの主義主張に反対する人たちに迫害されて十字架にかけられて殺され、聖書によれば三日後に復活され自分の主張が事実であることを証されました。

 

聖書に書かれていることは、歴史であり、信仰者の信仰体験から生まれた信仰告白であり、それは、イエスの御霊、聖霊の告白なのです。

 

それに、旧約聖書のころから、イエスの自己の生涯は予言されていたのです。
そして、その予言はすべて実現したのです。このような教祖はどこにもいません。だから信じることができるのです。

 

聖書には、今でもイエスの御霊聖霊がイエスを信じる者を助けるために働かれていると証言されています。
それを裏付けるように聖霊の働きでイエスを信じる者が今でも次から次と起こされているのです。

 

聖霊はイエスを迎え入れる人々の中に力強く入って行かれ、その者を変えられる。

 

現に数えきれない人々が、イエス・キリストによってその生活に大変革がもたらされたことを証しています。
それが人間の思いから来ているのかどうかは、その人の証言と結果を見ればわかります。

 

だれも感情的ではなくて理性的には聖書を否定できないのです。
聖書に書いてある数々の奇跡もイエスの復活も否定できないのです。

 

イエスの復活は、霊体で復活したとか肉体で復活したとか説はあり、今となっては確認しようがないのですが、復活されたのは事実だと思います。

 

弟子たちが復活のイエスに出会い、その事実に人生を、命を委ねたのは歴史的事実なのですから。

 

もし、イエスが復活しなかったらキリスト教は今頃歴史の中に消えていたことでしょう。
復活されたから、もろもろの新興宗教が消えていく中で生き残ったのだと思います。

 

ありきたりのことしか書けませんが、最後にポール・リトル氏の「あなたは何を根拠に信じるか」という書名の本があるのですが、その中の一文を紹介します。

 

「このナザレのイエスは、金も武器も用いずに、アレクサンドロス、カエサル、マホメット、ナポレオンが征服した以上の数えきれない人々を征服された。科学も学問も用いずに、彼は人間の問題と神の問題に、すべての哲学者、その他の学者を合わせた以上の光りを投じられた。
学校で雄弁術を習われたわけでもないのに、後にも先にも語られなかったいのちの言葉を語り、雄弁家や詩人がとうていなしえないような影響をもたらされた。たった一行の文書も書かれなかったのに、古今のすべての偉人を集めた以上の筆を動員し、説教、演説、討論、学問的著作、美術品、賛美のテーマをもたらされた。」

 

これほどの証拠があるのに仏教や神道は信じることができても、キリスト教は信じるに値しないと思いますか。
あ、そうそう、わたしがキリスト教(という宗教団体でなく福音)を信じることが出来た理由がもう一つありました。
それは、キリスト教は教祖の受難と屈辱を信仰の対象にしているということです。

 

そのような宗教は他にないと思います。他の宗教にわが身を捨てて他者を救う教祖がいますか。
キリストは、自分の命を捨ててわたしの言葉を信じなさいといわれたのですよ。

 

最後に、イエスは死ぬ前にご自分の名と言葉(福音)を世界中に述べ伝えなさいといって十字架につけられて亡くなりました
現在そのイエスの名前を知らない人は世界中にいるでしょうか。

 

そして、イエスの宣教活動は、つまり、公生涯は約三年と言われていますが、そのたった三年間で語られた教えとなされたことが、その後の約2000年の人類の歴史にどれほどの影響を及ぼしたか、これは誰が考えてもただ事ではないと思うのですがいかがでしょうか。

 

第十三章.洗礼について
クリスチャンになるためには、キリストの福音を受け入れることを確認した後で、教会では水による洗礼というものを授けます。聖句を探しますと、
まず、ルカが書いたと言われる使徒言行録第2章38節に次のような聖句があります。

 

「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」

 

ローマの信徒への手紙第6章3節から4節には、「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。

 

それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。」

 

最初の使徒言行録の聖句は、ペンテコステの日に聖霊が初めて弟子たちに降った時、異言や預言が語られている中で、ペトロが立ち上がって語ったメッセージです。

 

ここでペトロは、受ける時期は別にして洗礼と罪の赦しと聖霊の賜、この三つは一体だといっています。
水による洗礼を受けると、「洗礼と罪の赦しと聖霊の賜」の三つが同時にあるいはそうでなくても必ず起こることなのです。

 

水による洗礼を受けることは、聖霊による洗礼を受けることで、その結果、罪が洗われるのではなしに赦されるのです。
水の洗礼と同時に受ける聖霊による洗礼は賜物ということです。
つまり、神様の贈り物、プレゼントです。

 

もちろん、洗礼を受ければ罪はぬぐわれるのかと言いますと、それは違います。洗礼はあくまで礼典であり、一口に言えば、信者がキリストと共に葬られ、キリストと共に復活したことを象徴する礼典なのです。

 

この聖句に書いてあるように、洗礼を受ける前には罪の悔い改めということが必要なのです。罪を悔い改めるには罪を認めることが必要で、罪を認めるためには神がおられることを認め自分が被造物で創造主の恵みの中に生かされていることを知ることが必要です。

 

罪を認めるとは、創造主である神の御心に沿った生き方をしていないことを認めることです。そのうえでイエスの約束の言葉を信じ、あるいは信じようと決心することが必要だと思います。

 

信じると言うことは、イエスと共にこれからの人生を歩いていこうと決心することです。イエスの教えがすべて理解できたからではないのです。
それら一連のことを導かれるのは、聖霊の働きによるのです。

 

すでにこの世は神が支配され、人間を救いに導くために働かれていますが、その働きに気がついて応じるかどうかは、人間個人の自由意志に委ねられているのです。

 

聖霊はすべての人にいつも働きかけておられますが、その人間の生涯の中で一番受け入れられやすい時を選んで働きかけられると思います。

 

病の時、苦難に合った時、お金に困ったとき、宇宙飛行士が宇宙にいって神を見たという話も聞きます。このようにあらゆる時を利用して神様は働きかけておられるのです。

 

黙示録第3章20節「見よ。わたしは、戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう。 」の通りです。

 

洗礼は、ある意味儀式だと思います。イエスの言葉を心で信じたら、そのことを表に現すために受ける儀式です。
そうすることによって、教会の正式のメンバーに加えられるということになります。

 

結婚は両者の意思を確認して、役所に婚姻の届け出をすれば成立しますが、結婚式を挙げるのはそのことを公にするということになると思うのですが、洗礼も結婚式と同じように考えればよいと思っています。
イエスの言葉を信じて、共に歩もうと決心することは、イエスと結婚することなのです。

 

洗礼を受けることを軽く考える方もおられますが、わたしにとって洗礼はたとえ儀式であっても非常に重いものでありました。
わたしの人生で、あともどりできない節目ができたと言いますか、これからの人生、自分自身においても対人間関係においても大きな変革だとの意識が強くありました。

 

だから、洗礼は、わたしの人生にとって、あるいみ抜き差しならない非常に大きな意味を持っています。公に現さない決心ならば、自分の心の中だけですから簡単に変えられますが、公に現すとなると、特に信仰に関しては人生の一大事だと思います。

 

洗礼を受けるかどうかは別にして、イエスの約束の言葉を信じると、イエスと共に生きていこうと決心すると、キリストに結ばれることになりますが、そうして初めてキリストの死にあずかることができると思います。

 

キリストの死とは、全人類の罪を贖うための死、つまり、罪が赦されて新しい命を授かるための死ですから、キリストの死にあずかるとは、つまり、アダムから続く親と先祖から受けた命、この罪の中にある古い自分はキリストの十字架に合わせられて死に、キリストの死からの復活に合わせられて新しい命を生きるということだと思います。

 

これもキリスト教が持つ秘儀ですが、キリストを信じる者はそういう現実に生きるということだと思います。そんなバカなと思われますが、聖書はそのように宣言しています。このことは別の投稿文で「人間の新生」として改めて詳しく書きます。

 

なぜこういうことが可能かといいますと、両親と先祖から受けた古い生命も、キリストとともに生きる新しい生命も、自分が作ったものではないということです。命というものは神様から預かってわたしたちは扶養しているにすぎないのです。命は自分のものであって自分のものではないのです。

 

創造主である神のものなのです。だからわたしたちの生と死はわたしたちには自由にできないし、またしてはいけないと思うのです。
こういうことから、キリスト教は自殺を禁じているのだと思います。

 

第十四章.クリスチャン
キリスト者は、一般的にクリスチャンと呼ばれています。そのことについて、ちょっと書いてみます。

 

聖書の戒めを、すべて守れるのがクリスチャンなら、クリスチャンは、本当に聖人君子に見えてきます。
ところが、クリスチャンも皆さんと同じ罪人です。何も変わりません。人を憎んだり、羨んだり、怒ったりするのは当たり前です。
それはキリスト教の過去の悲惨な歴史を見れば明らかです。

 

では、クリスチャンでない方とどこが違うかと言いますと、クリスチャンはいつも二つの力、というか罪の誘惑と神の戒めを心の中で感じています。
それは罪に誘う力と神様の御言葉を守るように勧める力です。

 

イエスを信じると決心したら、その信仰生活の中でクリスチャンはいろいろな体験をします。
たとえば、不思議なのですが、普通の愛ではなく万物を愛する愛、隣人を慈しむ愛とか、罪(神からの離反)とか、命とかそういうものがものすごく迫ってくる体験を持っているクリスチャンは多いと思います。

 

そのときは、涙があふれたり、懺悔したくなるほど罪が示されたり、心が躍動したり、生きている、いや、生かされていることが楽しくなったりします。
人によれば、異言を話したり、幻を見たり、神の声が聞こえたりしますがいずれも喜びが伴います。

 

逆に、心が暗くなったり、死にたくなるような体験はありません。喜びと癒しが主だと思います。

 

このような不思議な体験は、クリスチャンならだれでも一つや二つは持っていると思います。

 

ただ言えることは、わたしの三十年近いクリスチャン生活で思ったことは、自分の力ではコントロールできない何かの目に見えない力がこの世界で働いているのは確かだということです。

 

わたしはその力は聖霊とかサタンなど悪霊の働きから来るのだと思っています。
だからクリスチャンは、神様はもちろん、罪にも、愛にも強く意識して日常生活を送っていると思います。

 

聖霊の働きが、神の御心に沿うように働きかける力なら、罪に誘う、つまり神様から離れさそうとするサタン(悪魔)の働きも力だと思います。

 

キリストを信じた者には、聖霊が内住されていますので、聖霊は神の御心に従うように働かれますが、自分の方に引き寄せようとするサタンの誘惑をも感じながらクリスチャンはこの世を生きています。

 

サタンはクリスチャンに対して、最も攻撃が激しいと聞いています。
なにしろ、キリストは、サタンの敵ですからね。キリストに属する者も敵です。
しかし、わたしのように霊的に疎い者はサタンも敵にするほどの価値もないから、あまり強い攻撃はしないのかもしれません。

 

聖書では、神を信じて神の御言葉を心に抱きながら人生を歩めば、少しずつ変えられていくと書いてあります。

 

たとえサタンの誘惑があっても、「わたしは決してあなたを離さない」と神は言われています。

 

だから最終的には、神の力、聖霊の働きが、イエスが十字架による死から復活されて罪と死に勝たれたように勝利するのです。これは神の約束ですから必ず実現します。

 

人生を歩きながら、少しずつキリストに似たものとなるように変えられることを、新生といいます。

 

約2000年前に、キリストが新しい霊の体をもって復活されたように、キリストが再臨される時には、クリスチャンもキリストに倣って霊の体を着て復活するということです。そのことが「永遠の命」が与えられるということだと思います。

 

教会に行けば、「永遠の命」「永遠の地獄」とか、そういう言葉はよく出てくるのですが、教会では、それが何を意味するかは説明されないことが多いと思います。

 

永遠の地獄などあるのだろうか、ちょっと理解できません。地獄がどういうところかももう一つわかりません。血の池とか火の池と言われましてもそれはたとえでピンときません。

 

だから永遠の地獄をそのまま言葉通り受け取ることはできないと思うのです。なにしろ、そこは時間のない世界ですから、永遠をその言葉のまま受けとるのもおかしいと思います。永遠の命については、こういう聖句があります。

 

ヨハネによる福音書第6章47節から51節に「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってくるパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 

イエスは謎のような言葉を、残されています。
天から降ってこられたのはもちろん御子イエスです。御子イエスは、ヨハネによる福音書第1章14節によると、神の御言葉が受肉した姿ですから、このわたしの肉とかパンというのは御言葉のことを指すと思います。

 

その御言葉を食べる者は永遠に生きるといわれています。御言葉を食べるというのは、イエスを信じ、御言葉を心に抱きとどめ、御言葉とともに生きるということでしょうか。

 

もちろん、御言葉とは聖書の言葉です。そうすれば、その人は永遠に生きると言われています。

 

ヨハネによる福音書第1章4節によると「言のうちに命があった」とあります。この命は神の御霊、聖霊ということだから、聖霊が働く御言葉とともに生きるということだと思います。

 

ヨハネによる福音書第6章39節から40節、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

この聖句を読むと、復活に至る命こそ永遠の命といえます。復活できない命は、結局滅びに至る命です。わたしを信じる者、つまりクリスチャンは現在すでにそのような命を内に宿し、それによって生きているということです。

 

イエスが死者の中から復活されたことは、神の力による奇跡が起こったというだけではなく、それは、神が旧約聖書に書かれているように、預言者たちによって語っておられた終りの日に救済の出来事が成就することの証であります。

 

イエスの復活はその始めであり、来世における復活の保証です。神はイエスを復活させて始められた業を、終りの日にキリストに属する者を復活させて完成されるのです(コリントの信徒への手紙第一第15章)。

 

こうして神は、この約束に与るためにイエス・キリストを信じるように、すべての人を招いておられます。

 

永遠の命とは、キリストを信じる者は、この地上においても、次の世(新しい天地)においても、復活してもはや死ぬことのないイエス・キリストの命と一体となって生きるので、死ぬことはないということ。だからイエスは、「わたしが復活であり、命である」といわれました。

 

こうして考えると、永遠の命とは、永遠の時間を生きることではなく、キリストとともに生きる命、キリストが復活されたように、キリスト再臨の時に復活することに希望を託して生きる、神の祝福と恵みの中にある命と言えばよいのでしょうか。

 

そういう発想で、永遠の地獄というものを考えますと、もちろん死とは霊的な死を意味しますが、その状態は神様の恵みと祝福から遠い世界にいる状態、と言えばよいのでしょうか。

 

ある意味、この世においても、神を知らないで、人の命を粗末にし、自分本位に生きている一部の人は、そういう人生を歩んでいると言えるのではないでしょうか。

 

第十五章.キリストを信じる者
<信仰と希望と愛>
新約聖書テサロニケの信徒への手紙第1、第1章3節にこのような聖句があります。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神のみ前で心に留めているのです。」

 

この聖句は、この手紙の著者である使徒パウロの言葉です。パウロは、「信仰と希望と愛」という言葉をよく使います。この生き方は、神の霊、聖霊が内住したイエスを信じる者に生まれる人間の新しい生き方のことだと思います。

 

人間はこの世を生きていく上で関わるのは、神との関係、隣人あるいは社会との関係、そして、時間の中に生きているから時間との関係だと思います。
これは三次元の世界に生きているわれわれ人間の姿だと思います。

 

つまり、神との関係では信仰、隣人との関係では隣人愛、そして時間の中で生きているから希望となるわけですね。

 

イエスは地上におられる時、神の霊、聖霊と一体の中で、神との深い交わりの中を歩まれました。キリストが十字架で死ぬことにより、すべての人類の神に対する罪が赦されました。

 

そして、キリストを信じる人に、神の霊、聖霊が降り、内住し、その人は、その聖霊の働きに身をゆだねて生きる生き方を求めておられます。

 

そのためには神への従順が必要ですが、神はそのように望んでおられると思います。キリストを信じた時から、神への全面的な信頼と交わりに生きる生き方を生きる人生が始まるのです。これがクリスチャンのこの世を生きる姿だと思います。

 

そうは言っても、クリスチャンはこの世にいる限り、生まれながらの肉体を持って生きているのには変わりはありません。

 

聖霊が内住されたと言っても生れながらの肉体をまとって生きている限り、また、サタンの影響が強いこの世で生きている限り罪に誘う力も強く、その力に勝つすべを持たないので罪を犯します。

 

<二つの戒め>
だから、聖霊の力と、生まれながらの命との葛藤の中に生きていることになるのです。だからイエスの言葉を信じたら、はい、おしまいではないのですね。
神に従順になることにより、その人は聖霊の力により徐々に変えられていくということですか。

 

だから神は、祈りよりも、献金よりも、奉仕よりも神の言葉であるイエスの言葉に従順であることが最も大切だと言われていると思います。

 

もちろん、何に従順かと言いますと、マタイの福音書22章37節「イエスは言われた。

 

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」 同38節「これが最も重要な第一の掟である。」同39節「「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」
この二つの戒めに従順であれと言われているのだと思います。

 

神を信じて、神をいつも思っていれば神はあなたを導いて下さる。隣人を自分のように愛することも、此の世で生きているかぎりは、自分の努力ではできないけれども神を愛すればできる。そのようにあなたを変えてあげると言われているのだと思います。

 

キリストを信じる信仰は、すべての人に与えられるのではなく聖霊の賜ものだと聖書には書いてあります。

 

神の霊、聖霊の働きがなければ信仰も持てないということです。
そして、けっして神は信仰を持つように強制されません。信仰を持つか否かは、賜ものを受け取るか否かを決めるのはわたしたち人間の方です。

 

それもわたしたち一人一人である個人にあるわけです。だから、信仰は人間個人と神との関係なのです。そういう意味で、信仰は決して強制されるものではないのです。

 

<聖霊によってもたらされる神の愛>
神を、イエスの言葉を信じることによって、神の霊、聖霊がその人に宿るとその人の中に生に対する喜びと感謝と平安が生まれます。

 

それは来世において、イエスが十字架から三日後に復活されたようにイエスが来臨される時に自分自身も復活するという希望です。その希望を持ちながらこの世を生きるのがイエスを信じる者の姿だということだと思います。

 

そして、それは神の約束ですから来世において必ず実現します。
したがって、イエスの言葉を信じた者には既に実現したのと同じといえます。

 

その状態をイエスはルカの福音書17章21節で「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われたのだと思います。

 

その永遠の命を得た人には、希望と隣人を愛する愛に生きるように導かれます。
人間は、ほかの人間との交わりの中に生きています。人間は、他者との関係の中で初めて人間であります。人間は社会的存在であります。そして、この人と人との間のつながりは、愛という言葉で表現されます。

 

だから、誰でも人は生きる上で最も大切なのは愛だと知っています。その有り方を書いたのが上に書いた、マタイによる福音書22章37節のイエスが生前に残された戒めだと思います。
したがって、この戒めは実践規定です。いや、努力規定かな。

 

愛にもいろいろと種類があります。生れながらにもつ、親は子を愛し子は親を慕う親子の情愛。男女間には異性を求める情愛があり、友人を大切に思う愛、友情もあります。

 

そのような、生まれながらの人間が本性としてもつ愛とは違う愛がキリストを信じる者に聖霊によってもたらされました。それは神の愛です(新約聖書ローマの信徒への手紙第5章8)。それは聖霊によってキリストを信じる者の心に注がれます(新約聖書ローマの信徒への手紙第5の5)。

 

この愛は、相手の価値とか資格を問わない、見返りを求めない無償の隣人愛です。イエスはこの愛を、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」(マタイによる福音書第5章の45)と言い表しておられます。

 

人間が生まれながらに持つ本性的な愛、自己愛とは異なる無償の隣人愛をアガペーと呼びます。そのような愛なんて無いと言われるかもしれませんが、現実にアガペーの愛を体験し、実践した人がいるからそのような愛があることは事実です。

 

そのような愛を使徒パウロは次のように言っています。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを包み、すべてを担う」。コリント信徒への手紙第一13章4節から7節)

 

人間の本性は、自分に良くしてくれる相手は愛せますが、自分に不利益を及ぼす相手を愛することはできません。キリストの愛は、無償の愛です。自分に不利益を及ぼす相手のために、善をおこなうという愛です。

 

この愛の実践には、イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ、」と表現されました(マタイによる福音書第5章の44)。

 

この無償の愛は、人間の本性である自己愛に反する愛ですから実行は不可能のように思われますが、キリストにあって聖霊が内住して働いている者にはできると言われています。

 

この愛は、人間の本性から出るものではなく、聖霊の賜ものであり、神から恩恵として賜る新しい命の愛のことを言うのだと思います。

 

キリストを信じる者になったからといって、この生まれながらの人間の本性が一挙にキリストのようになるわけがありません。聖霊による新しい命が生まれながらの人間の本性の中に生き始めたという状態です。

 

この二つは互いに混じり合うことなく、キリストを信じる者の中で互いに反対の性質を持つがゆえに葛藤しながら存在するのです。

 

使徒パウロはこの生まれながらの人間の本性を肉と呼んでいます。わたしたちがキリストにある立場を忘れずに、神への従順の内に踏みとどまるなら聖霊からくる命は罪の中にある古い命に必ず勝利します。
もちろん、従順とはイエスの言葉への従順であるということです。

 

しかし、戦いはわたしたちが時間の中にある限り続きます。つまり、肉体をまといこの世で生きている限り続きます。
戦いが終わるのは、わたしたちの肉体が滅び、この世を去ったときです。だから希望なのです。

 

この世を去るとき、この葛藤と人間変容の過程は終了し、イエスが来臨される時に新しい霊の体を持ってその人は復活します。

 

その時の到来を待ち望むことがキリストを信じる者の希望なのです。それがキリストを信じる者に与えられる永遠の命なのだと思います。

 

わたしたち人間が抱く希望は、時間の中にあるから希望です。時間がなくなる時、つまり、自身が死ぬ時、その希望もなくなります。

 

しかし、キリストを信じる者の復活への希望は、キリストが来臨される時に実現する希望ですから死の彼方にあります。わたしたちが死んで灰になろうと、この地球が火で燃え尽きようとも消えることのない希望です。

 

第十六章.福音の力と人間の変容
<福音の力>
新約聖書ローマの信徒への手紙第1章16節「福音は、ユダヤ人はじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力です」
この手紙を書いた、使徒パウロはこの聖句で、おそらく文字通り福音は力だと言いたかったのでしょう。

 

その力の内容は、何かと考えますと、人を救いに至らせる力。そして、その力は何に対して働くかといいますと、イエスの言葉を神の言葉として受け入れる者すべてに対して働きます。

 

ユダヤ人にもギリシア人、いわゆる異邦人(ユダヤ人以外の民族のこと)にもすべての民族に差別なく働く力ということだと思います。

 

福音は言葉とも言います。イエスのことが書いてある神の言葉、聖書の言葉に力があるということです。つまり、その言葉は、約2000年前にこの地上におられた主イエス・キリストの出来事を世界に告げ知らせる言葉です。

 

その言葉の内容は、ナザレのイエスの生前になされた驚くべき奇跡やしるしの働きを、そして、イエスの教えの言葉を伝え、イエスの十字架上の死と、三日目の復活という出来事を告知し、その死は人間を罪から救いだすための贖いの生贄としての死であり、復活は、父なる神がなされたことであるから、イエスを主キリストとして立てる出来事であると告知する言葉でしょう。

 

イエスは復活により御自分が神の子であることを証され、イエスは神と一体だと言われていますから、それらの出来事は、すべて創造主である神の御業であり、その言葉は神から人間へのメッセージということになります。

 

力は、力によって、つまり、殴られれば殴られた者は倒れます。このように力を受けた者に何らかの変化を起こさせます。ここで言う神の力はこのように物理的に物を動かす力ではなく人間を根本から変える力です。

 

神の力は、それを受け入れる者に働き、神の言葉(意思)がその人に実現するのです。

 

神の言葉に力があるとか、神の言葉は人間を変えると書きましたが、それはどういうことか考えますと、通常言葉には、言葉を発する者の意思と思いが込められています。発する相手に、わたしが何を言いたいか、何をしてほしいか分かってほしいという思いが込められています。

 

だから、その言葉を受けた相手は何らかの、つまり喜んだり怒ったりの変化を起こします。ある意味、それはエネルギーでもあるわけです。

 

<人間の変容>
聖書では、その神の言葉に神の霊、聖霊が働かれていますから、聖霊が働かれているところに神の力が働く、神の思いが実現するということだと思うのです。

 

人間を変えるということは、一人の人間を、人生を変えるだけでなく、その人間が構成する社会を変え、歴史を変え、文明をも変えることになります。

 

イエスの十字架から以降、キリスト者の集まりを中心として、そのような営みの中に人類はありますから、この世界は神が支配されているということになります。

 

その神の力、つまり、神の思い、意思は人間を罪と死から救いあげようとする思いです。その思いを実現するのが神の言葉で、それは神の霊、聖霊の働く場となります。

 

福音の力は、神の霊、聖霊の働きによりイエスの言葉が神の言葉だと信じるすべての者に働かれます。よそを向いていては、たとえ神の言葉でも働きようがありません。その言葉が神の言葉だと信じ、受け入れなければ働きようがないのです。
つまり、周波数が合わないとラジオが聞けないのと同じです。

 

人間同士の会話でも同じです。耳を傾け、相手が何を言おうとしているかを聞こうとしなければ通じないのと同じだと思います。

 

イエスを信じると、つまり、福音を聞いて信じるとその人に神の霊、聖霊が内住し、聖霊が働く場、神の支配される場がそこにできるのです。

 

そのときからその人の中には、神の霊、聖霊の力と、生れながらの命からくる、つまり自己中心的な罪に誘い込もうとする力が同居することになります。

 

聖霊は神の愛と罪を示し、罪から離れるように働きますから、罪に誘い込もうとする力はそれと正反対です。だから両者は、その人の中で戦うことになります。
そのように神を信じると、その人の中で葛藤が始まるのですが、肉体をもってこの世で生きている限りそれはやむを得ないことです。
しかし、神の霊は、イエスの十字架と復活ですでに人間の罪は贖われ、死に打ち勝っていますから最終的には勝利をおさめます。

 

逆に言えば、両方の命を内に持ってこの世を生きながら神は人間を御心に沿うように変容させていくということになります。だから、一時にではなしに徐々にと言うことだと思います。

 

聖霊を宿した人の人生はそのような人生を生きるということだと思います。いつも神の言葉を心に抱き留めて人生を歩んでいると、聖霊は少しずつその人をイエスに似たものに変え、その人に死後復活するという神の栄光にあずかる希望を与えます。これをパウロは信仰と愛と希望によって生きると表現しているのだと思うのです。

 

<万物の完成と希望>
新約聖書ローマの信徒への手紙第8章18節から25節
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるのではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望を持っています。

 

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

 

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。・・わたしたちはこのように希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。

 

現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むことです。」

 

この聖句では、神の子(イエスを信じている者)たちの栄光への解放に被造物全体があずかることで、万物の完成の時がくることが待望されています。

 

この栄光への解放というのは、わたしたちが死すべき体を脱ぎ捨てて、もはや朽ちることのない「霊の体」を着せられて復活するとき、神の栄光にあずかる希望が実現するということだと思います。

 

そのときわたしたちは、古い命からくる罪と死の支配から完全に解放されて、神の栄光を持って輝き、人間としての完成に到達する。わたしたちは、いまはその途上にあるということだと思います。
この世のわたしたちは、永遠の生命の中でのほんのひと時の旅人なのです。

 

人類すべてはアダムひとりが神から離反したことにより神の栄光を失いました。キリストひとりにあってすべての人間は罪が赦されました。

 

その中でも、イエスを信じる者は、その栄光を回復し、イエスが死から復活したように、やがて地上生活が終わっても、死から復活するという神の栄光にあずかることに希望を持って生きています。

 

この栄光というのは神と共に歩むことだと思いますが、そこには神の性質が当然前面にでてくるはずです。つまり、神が神として本来備えておられる正義、誠実、慈愛、自由などが支配する人生だと思います。

 

虚無に服しているというのは、本来人間はこの神の栄光に輝く存在として造られたのに、自分を神とする自己中心の罪によって神から離反し、この神の栄光を失いました。

 

現実の人間は、神に敵対する罪の力、サタンなどの支配下に陥り、不義と虚偽、冷酷と不法・不条理に陥っています。この状態を虚無に服すると表現しているのだと思います。

 

なお、虚無に服することになった原因は人間ですが、その人間は被造物の管理者ですから、影響は被造物全体及んでいると考えます。

 

イエスの言葉を信じた者は、イエスに似た者となる、それは神の御心に沿うように変容すると言うことだと思いますが、そこに働くのは、聖霊で、それは神の力ということです。
本性が罪の中にある人間は自分の力や働きでは自分自身を造り変えることはできません。

 

では、その人が神の子かどうか、つまり、聖霊がその人に内住しているかどうかは、どうしてわかるのでしょうか。それを人間の変容という面でみますと、
ガラテヤ信徒への手紙第5章22節「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

 

これらは御霊の実といわれて、神の霊、聖霊がその人に内住していれば、そのような実がその人の思いとか行いに自然に現れるようになる。

 

だからその人にそのような御霊の実が確認できたら、その人に聖霊が内住していることが分かるということだと思います。現実は・・・・・?

 

第十七章. キリスト教の伝道

<キリスト教の誕生から伝道>

キリスト教の伝道とは、ほかの新興宗教のように自分の主張を世に知らせるために、いわゆる教祖と言われる人の人徳とかカリクマ性などをもって人を変え、大きな影響を与え、それによって信徒をつくるということではありません。

 

キリスト教の伝道とは、救い主イエス・キリストとの出会いの喜びの体験を世に証することなのです。

 

イエス・キリストとの出会いとは、イエスの約束の言葉、すなわち聖書の言葉を信じ、聖霊を受け入れることなのです。この聖霊の働きが欠かせないのです。聖霊は目には見えませんが、外国であれ日本であれ殉教したキリスト教徒の歴史を調べると聖霊が存在し働かれていることを認めずには理解できません。

 

つまり他の宗教は人間が主役ですがキリスト教は聖霊が主役なのです。

聖霊はイエスの意志を引き継いでイエスの約束の言葉を広めるために今も働かれているのです。

 

神の前に自分が罪びとであることを認めて、その罪がイエスの十字架上の死で贖われたこと、三日後に復活したこと、その復活はイエスが神の子であること、イエスが死(悪魔)に打ち勝ったことを現し、それはイエスに倣う者を次の世で復活させてくださることの約束であるということを信じることなのです。これらのことを証するために聖書があるのです。

 

キリスト教の伝道は、その救い主イエスの言行が真理であることを知った喜びの体験を世に紹介し、それによって、イエスの信者・弟子を作ることなのです。

 

つまり伝道という行為は、自分の主張の表明ではなく、神から受けた恵みを、真理を知った喜びを体験し、体験した喜びを表白せざるを得なくなる、皆に同じ恵みを、また、真理を知って欲しいと思う心の底からこみ上げる欲求、その結果としての行為ということなのです。だから、宣教師は、どのような患難辛苦があろうとも必要なところへ命をかけて突き進んでいくのです。

 

クリスチャンは自分の罪が赦されたこと、イエスに出会い恵みを受けた喜びを証するのです。だから教会ではクリスチャンの救われた体験の証しが大事にされます。

 

わたしなど、自分の罪を本当の意味で知るまでに十年もかかりました。

イエスとの出会いの喜びとかイエスの言葉が真理かもという強い思いは洗礼を受ける前に与えられました。その出会いが余りに強烈だったので十年以上もたった現在の聖書研究とかブログ投稿につながっているのです。

 

洗礼を受けてから信仰を持つのに十年もかかったという人もいます。

聖書に疑問をもち研究を始めたが捉われてしまって信仰を持ったという人もいます。

信仰を持つというのは、こうあらねばならないというものではないと思うのです。

 

信仰に入るのに色々な形があっても良いと思います。

神様がその人にとって最善の出会いのときを用意して下さっていると信じるのも信仰です。イエスのことをもっと知りたいと思った時、既に信仰生活の入り口に立っているのだと思います。

 

イエスの言葉が信頼できると思い、信じていこう、イエスの教えを守ろうと決心しても、人間はこの世に生きている限り自己中心的な性質から逃れるわけではなく、名誉とか権力とか財産などこの世で価値ある物の誘惑から免れえません。それに肉体を持つゆえの弱さからも免れられません。

 

人間は今のような世の中で、それらの影響を排除してイエスの教えを守っていけるほど強くはありません。

雑念は仏教では修業をして、自分の肉体をいじめて克服すると聞いていますが、本性が自己中心的という罪を持つ人間にはそのようなことでは克服できないと思います。

 

信仰生活は、山あり谷ありと聞きます。そう言う意味では、信仰は生涯をかけて育むものなのだと思います。そのスピードも人それぞれです。

若い時にイエスを信じ信仰を持ち世間のことに惑わされ一時的に信仰生活から遠ざかっても再びイエスの戻ってきた人など沢山います。

わたしは、この世を去る間際に確信を持てれば十分だと思っています。

 

伝道する人は、イエスの御言葉を伝えるだけで決して信仰を強制しません。

イエスの御言葉(聖書の言葉)を伝えるだけなのです。

その伝えたイエスの御言葉を受け入れるか否かはその人次第、あくまで個人の自由意志だということです。

 

その人がいったん自由意志でイエスの御言葉を信じようと決心したら、あとは神の霊、聖霊が働いてその人を信仰に導いてくださるということです。

 

<キリスト教の布教>

次にキリスト教がどのように広まったか、布教の面から見てみますと、イエス自身はキリスト教の布教において、生涯何も為されませんでした。

反対にキリスト教以外の古代の宗教創始者たちは偉大な人類の教師たちであるといえます。

 

彼らはある特定の瞬間から自分が何らかの方法で悟った教えを伝え始め、そして、彼らの教師としての教えは大きな力をもって人類に働きかけました。

最初は教祖という人間が、あとはその教えをもって弟子が働きかけました。

教えは道徳的であり、時代により変わることもありました。

仏教のように哲学のようにもなりました。

 

ところが、キリスト教は、イエスも最初は弟子に教えを語られましたが、そのとき弟子は誰もその教えの真理を理解できませんでした。

その教えの内容が余りにも想像を絶する内容であったからです。

イエスのなされた奇跡もそのときは大衆に大きな影響を与えましたが長くは続きませんでした。

 

三年間の公生涯の後イエスは時の権力者から恐れられて十字架に架けられて死にました。

政治活動をしたとか、軍隊を率いて政府の転覆を謀ったとかそのようなことはなにもされていないのに時の権力者はイエスを殺したのです。

 

イエスと面会したローマ帝国のイスラエルの統治者ピラトは、「いきなり私の足は何か重いものによって大理石の床に張り付けられたように全然動けなくなってしまったのです。そのナザレの青年はただだまって立っていたのですが、私はまるで刑事犯のように手足が震えたのです。」という言葉を残しています。

人間の罪の贖いのために十字架に架けられ死に、復活し、四十日間弟子たちの前に現われて天にのぼり、助け主であるイエスの復活の御霊、聖霊が弟子に降ることによって、はじめて弟子はイエスが生前に語られた教えの真理を理解できました。

 

イエスの死からの復活を体験して迫害にも負けずに伝道する力を得たのだと思います。もちろん、そこには聖霊の働きがあります。

 

古代教会の伝道は、イエスの教えの言葉というよりも、イエスの十字架死と、復活が主であったと思います。

それほどイエスの復活というものが当時の弟子たちに強烈であったのだと思います。もちろん、このときには、まだ新約聖書はできていません。

 

生前にイエスが語られたいろいろな教えは、そのときのための準備でした。

生前のイエスは、弟子がその教えの真理を理解していようがいまいがイエスは教えられたのです。

 

だからイエスの十字架による死と、イエスの復活と聖霊の降臨がなければキリスト教は無かったと思います。

教えだけなら、キリスト教は道徳教となり既に消えていたと思います。

 

驚くべきことに、イエスはそれらの出来事を生前に予告されてもいました。

ということは、キリスト教の伝播は、第一義的には、イエスの教えではなく、その行い(十字架による死と復活)を通して働きかけられたということです。

 

そして、地上にいたイエスの最も偉大な行いはそれで終りました。またそれがすべてでした。これが最も重要な点であると思います。

 

それらの出来事についての知識が世間に広まり始めたとき、イエスはもはや物理的にはこの世に存在していません。

ここからキリスト教の伝播が始まりました。これが他の偉大な宗教創始者たちとの根本的な違いであると思います。

 

キリスト教の教えのすべては聖書に記されています。またその教えのある部分は、特に道徳に通じる箇所については他の宗教の教えの中にも見いだすことができます。

 

さて、キリスト教を広めるために最も多くの功績を残した使徒パウロという人物について見てみます。

パウロは、もともとユダヤ教の急進的な信者でした。そして、キリスト者を迫害した人間でした。

そのパウロが180度変えられてイエスの弟子になったのですが、その教えに頼ったのでしょうか。

 

彼がイエスを信じる者にたいする迫害者からイエスの弟子に変えられたのは、イエスの教えを聞いたからでありましょうか。

 

そうではなく、彼は、イエスが十字架で死んだ後しばらくしてから、復活のイエスと出会い、今でもイエスは「生きている」という霊的体験、彼自身が個人的な神秘体験をし、確信を持ちました。

その瞬間、信仰を持ちイエスの弟子に変えられたのです。

 

そうです、生前のイエスでなく復活のイエスとのパウロの出会いこそ、イエスの死後に生まれたわたしたちがイエスと出会う体験をはじめにした人なのです。

 

<自由意志と聖霊の働きのもとに>

イエスの教えを真に理解するためには、まず自由意志で自発的にキリストを信じようとまず決断しなければならないと思います。

そして、聖霊の力を借りなければなりません。

イエスの教えは、最初からはなかなか信じられないし分からないのは当たり前だと思います。それほどその教えは想像を絶する内容なのです。

 

自発的に自らイエス・キリストを信じようと決心した結果として、その人自らの内に聖霊が入り、単なる教えが神的力を得て、真理として理解でき、信じることができるようになる。

 

自由意志を持ってイエス・キリストを受け入れることを決断しない人は、誰もイエスの御言葉を理解できないし、受け入れることができない。聖霊はそのような人には働かれません。

 

このようなことが、人間にとって可能になったのはイエス・キリストが地上で人間となり、十字架にかけられ死に、復活し、天に上られその代わりに助け主聖霊がこの世に降ったからだといえます。

 

聖霊は、今でもこの地球上に偏在されています。そのうちどれが欠けてもキリスト教はなかったといえます。

それら一つ一つの出来事は、信じられない不思議な出来事ですが、歴史上事実として、いや否定できない事実とされています。

 

また、神はキリスト教を広めるために、伝道という誠に人間的な方法を取られたのもその必要があってのことだと思います。

伝道と言う行為は、罪を犯した人間の責任であり努めだといえます。

 

なぜなら、人間は、自分の意志で神から離れて罪人となったのですから、人間は、まず自ずから神に救いを求めるべきであり、その努力は人間が自ずからするべきであるということです。

 

神は、まず人間が自分の方を向かなければ、きっと人間を罪から救いに導くことができないのであろうと思います。

それは神が人間に信仰を要求なさった理由も同様であると思います。

だから神は人間に、強制的に自分のほうを向くように、あるいは信仰を決して強制されません。

 

これについては、内村鑑三先生の言葉に適切なものがあります。

「神は己に関する人の詮索を恐れて彼から信仰を要求なさるのではない。至誠なる彼は人が至誠をもって彼に近づくのでなければ、その人を恵むことができないからである。神と人との関係は父と子の関係である。

そして父子の関係は世のいわゆる研究的態度ではない。愛を基盤にした相互的信頼である。

すなわち、子の側からは父に対する信仰である。懐疑という他人行儀をもって己に対する子に対しては、父は教えようとしても教えることができない。恵もうとしても恵むことができない」。

 

創造主が人間を造るとき、人間がテレビを造るのと同じようにその意味と目的を持って造られました。

人間が自分の子供を愛するように、創造主が被造物であるわが子人間を愛するのは当たり前で、放蕩三昧の人間に、自分の方を向いて教えた通りの人生を歩んでほしいと思うのは当たり前だと思います。

 

創造主である神が、人間の歴史に関与され、人間を、犯した罪から何とか救おうと思われるのも当たり前だと思います。

 

まさにイエスは神と一体となった最初の人間でありましたが、イエスを信じる信徒もイエスと一体となる事により神と一体となりました。その三者をつなぐものが御言葉の共有ということになります。御言葉は聖霊が働かれる場であり媒体です。

 

ここに初めて父と子の愛を基盤にした相互信頼関係が生まれ、父なる神の力の業がイエスおよび弟子の行う奇跡となりしるしとなります。

これがキリスト教であります。凄い宗教です、いや宗教ではなくて、この世の真理でしょう。

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