聖書を読む
聖書を読む
目 次
第一章.聖書という書物
第二章.聖書を読むときは
<聖書解釈について>
<福音とは>
<ファンダメンタリズム>
<聖書の読み方>
<言葉の働き>
第三章.新約聖書
<新約聖書の成立>
<各福音書の食い違い>
<聖書の編成と聖霊>
第四章.神話と聖書
第五章.霊感で聖書を
第六章.聖書の魅力
第七章.聖書と奇跡
<続・奇跡について>
第八章.旧約聖書と新約聖書の関係
第九章.聖書が伝える「真理」とは
<聖書でいう真理>
<良心>
第十章.旧約聖書
<旧約聖書の編纂>
<旧約聖書の成立過程>
<旧約聖書のユダヤ教での聖典化>
<旧約聖書のキリスト教での聖典化>
<旧約聖書と新約聖書>
<新約の神と旧約の神との違いと関係>
<神と人との契約>
<宗教>
<預言書を読んで>
第十一章.聖書は不完全か
第十二章.イエスが生きておられた時代
第十三章.新約聖書が生まれた経緯
本文
第一章.聖書という書物
聖書は小説のように、一人の作者が、一つの物語として全体的に一貫性をもって書いたものではありません。
たとえば、「創世紀」とか「イザヤ書」とか「マタイの福音書」とか「ヨハネの黙示録」などこれらはそれぞれ書かれた年代も成立状況も著者も違う独立したテキストです。
書いた人も場所も、著者の職業も教養も境遇も異なっていて、書かれた年代も違っているので著者が互いに連絡することもできない状況で書かれています。
登場人物には、羊飼いがあり、貧乏人があり、放浪者があり、国王があり、金持ちがあり、宮廷の大臣があり、罪人があり、奴隷や囚人もでてきます。
それに、最初の著者と最後の著者の年代は1000年以上も離れています。
しかし、それらの文書は一貫して主人公は唯一の神なのです。
唯一の神について語っているのです。
唯一の神のもとに旧約聖書と新約聖書全66の文書が統一されているのです。
旧約聖書には39の文書があり、新約聖書は27の文書があります。創世紀から黙示録まで計66の文書で構成されています。
そして、聖書の文書一つ一つだけでは意義をなさず、66の文書が寄せ集められて、まとめられたから意義が生まれたのです。
それに、例えば創世記の特定の箇所一つとってみても、その語句だけも読んでも何を意味するかさっぱり分からない箇所があるのです。
おそらく、作者も言葉とか幻で啓示を受けて書いたのでしょうが、自分で何を書いているのか分からなかったと思われ、神の言葉だから意訳せずそのまま残しておかねばということで残されたと思われるところが多々あるのです。
そのように啓示を受けた時には何を意味するのか分からなかった言葉も、時代を経て起こった出来事とか、時代を経て書かれたほかの聖書の箇所を読んで初めてその言葉の意味が分かるところがあるのです。
ただ、驚くべきことは、そのような文書でも、聖書にはそのまま残されているのです。
作者は、意味が分からなくても神の言葉として尊重し、残したのでしょう。
ですから、著者にとってはその文書が決していい加減なものではなかったのです。
言葉を伝えた預言者は、そのためにほとんど殺されていますからね。
受け取るほうも真剣でなくてはなりません。
「時代を経て起こる出来事」と書きましたが、その中には、キリストが現れることによって、ヨハネの黙示録が生まれたことによって、旧約聖書で隠されていたこと(何を意味するか分からないでも、そのまま神の言葉として残されていた文書の内容)が明らかになるということです。
ダニエル書に書かれていたことがヨハネの黙示録で明らかになり、その黙示録で語られていることも、時代を経て人類の歴史の中で実際の出来事として明らかにされるのでしょう。
聖書は時代を隔てて評価されていて、現実にこの2000年間人類の歴史に大きな影響を及ぼしてきました。アメリカを作り、ヨーロッパを変え、近代科学を生んだのです。
現在、全人類の三分の一がクリスチャンだということです。
そういう意味で、聖書は人類にとって大変価値のある書物だと思います。
そのような聖書であるから、この2000年間その信憑性を疑われて、徹底的に調べ上げられてきました。
それでも生き残ってきたのです。
その様な書物は他にあるでしょうか。
他の宗教の経典で、世界中の人々から信憑性を疑われて徹底的に調べ上げられたものはあるでしょうか。
もし、聖書と同じ書物をもう一度作るとしたら3000年以上の時間を費やし、ユダヤ人が体験した数千年にわたる奇跡的な宗教的、歴史的体験を持つ民族が存在して、聖書に書かれているような偶然とも言える奇跡的な出来事が起こる必要があります。
その様に考えると、これから先、聖書のような書物はもう二度と人類の歴史からは生まれないと思うのです。
そして何よりも、現在、世界人口の三分の一以上の人々がイエスを神として聖書を読み信じて洗礼を受けているのです。
これは紛れもない事実です。
このことからして、信仰を持つか否かは別にして、聖書は学んでみる価値は十分にあると思うのですがいかがでしょうか。
聖書は二つとない人類の財産だと思うのですが・・・。
このような聖書が、神話で作り話の寄せ集めで、その上で改竄されて価値がない書物と思っていられる方がおられますが、そういう方はまず読まれることです。
そのような方に質問したいのですが、人類の歴史の中に生まれ、歴史に大きな影響を及ぼしたそのような聖書が信頼できないで、価値を認めないで、人類にとって何が信頼できるのでしょうか。
何に価値があるのでしょうか。
聖書がそういうものであれば、聖書の一節に命をかける、人生をかける人、たとえば、誰でもが知っているガンジーとかマザーテレサみたいな人が生まれるのは、どのように考えればよいのでしょうか。
そういう人は無知で精神異常者なのでしょうか。
それとも、盲目的に信じていると思っておられるのでしょうか。
なにより人は、盲信の産物とか作り話に人生を、命をかけることはできません。
聖書には、歴史を変え、人を変える力があると思いませんか。
その様に思う方が自然ではないでしょうか。
確かに聖書は人類の歴史に間違いも犯しています。
しかし、それ以上の良い影響も及ぼしています。
その間違いも、聖書が悪いのではなく聖書を悪用した人間が悪いのです。
聖書は真理ですが、制度的キリスト教は、人間が作った宗教です。
その宗教が過ちを犯したのです。
書物に人の人生を良い方向に変える力があるならば、それだけで十分その書物には価値があると言えるのではないでしょうか。
聖書はそういう書物の最たるものです。
目に見えることだけが真実だとわたしたちは思いがちですが、決してそうではないことを聖書は教えます。
本当に創造者たる神がおられるならば、神は必ず被造物の歴史に痕跡を残しておられます。
わたしはそれが聖書でありユダヤ民族だと思うのです。
<聖書を読むときは>
聖書(旧約聖書と新約聖書)はご存知の通り、キリスト教の聖典です。
聖書を読むに際し、前提があると思うのですが、それは、聖書の語る神は唯一で万物の創造主であるということです。
この世界の背後には、そのような神が存在するということです。
そして、その神は権威と権力をもった神で、人間と同じように、感情を持ち人格(神格?)をもっておられるということです。
聖書では神の愛を、父なる神というように人間の生みの父というイメージで表現しています。
神は愛の神であり裁きの神であり正義の神です。人間はそのような感性を持った神に造られて生かされているということです。
人間は神に似せて造られていますから、人間と同じような感性を持っておられると思います。
被造物は創造主に服従するのは当たり前だという前提です。
ただ、そうであっても、神は人間をロボットには造られていません。自由意志をもったものとして造られています。
この宇宙も人間も造られた存在ですから、初めがあります。ということは終わりもあるということです。
どのような創造であれ、創造は計画と目的を持って創造されます。
したがって、人間に与えられている自由は創造の目的の中での自由だと言うことだと思います。
また、人間は霊的な存在ですから、肉体が滅んでも存続します。
そういう意味で、私たちの人生はこの世だけではなく来世もあるということです。そして、聖書が語る命は、創造されたら終わりでなく、育むものとして造られていると思います。
聖書を読むときは、それらのことを意識して読まなければ何が書いてあるか訳が分からないと思います。
<聖書解釈について>
前にも書きましたが、聖書は解釈が必要ですが、一つの聖書解釈が絶対となればキリスト教を産み育ててきた聖霊の働く余地が無くなると思います。
そして、その一つの解釈をした人が、絶対の権威を持つようになります。
その絶対の権威を持った人が愛に満ちた方であっても人間ですから、その立場を悪用するかもしれません。
その力が、時の政治権力と結びつくかもしれません。
そうなれば、とんでもないことになります。信仰の世界は怖いです。
時にはその人の解釈が聖書以上の権威を持つことにもなります。
そうです、その人が神になってしまうのです。
そうすると、聖書を学ぶ者は何が正しいか間違っているかを選択する余地が無くなり、真理追及の目的どころではなくなります。
そうなると、人間の自由意志も、聖霊の働きも関係なくなります。イエスの言葉を伝えるだけの伝道の必要性もおかしくなります。
わたしが何度も聖書解釈は個人のものだというのは、信仰はあくまで神と個人の関係だと思うからです。
そして、神は聖書を通して読む者個人に語られていると思うからです。
特定のクリスチャンとか説教者に勧められたから信仰を持つのではないと思うのです。それは手段であって、あくまで、自由な意志の下で、聖書の言葉が本当だと思うから信仰を持つのです。
聖書は文字で書かれていますが、言葉が文字になればいろいろ解釈が生まれるのは避けられないと思いますし、また避ける必要もないと思うのです。
そして、いくらいいろいろな解釈がなされても、聖書が語る神の教えは真理であり、真理は唯一です。
神はそれを人間に伝える方法として、特定の信仰厚い人に語り、それを他の人に伝える、時代を超えて語り伝える方法として、最初は口伝で、そして、文字で書かれた聖書と言う方法をとられたのです。
そして、今は、聖書は多くの言語に翻訳されていて、多くの国の人々が自分の国の言語で読むことができます
また、キリスト教会も多くの宗派に分かれていて、その主張する聖書解釈も違います。教会に属しているクリスチャンも思い思いの捉え方で信仰を持ち聖書を信じています。
神は、文字でもって意思を伝えることによる弊害もご存知のはずです。
時代を超えて神の言葉を伝える方法は、現在では音声を録画すると言う方法もありますが、当時は、人間には文字しか与えられていませんでした。
神は聖書を用いて、何が真理か、何が罪か分からない状態にある人間に、読む者の人生の中で、時をとらえて罪を教え、悔い改めに導き、イエスの教えに導こうとされています。背後でその働きをされるのが三位一体の三位格、聖霊(使徒言行録2章、聖霊降臨)だということです。
聖書の真理を教える働きも聖霊の働きにゆだねられています。
聖書そのものは意志を伝える手段としては不完全だと思いますが、そこに聖霊が働かれることにより完全なものとなると思うのです。
言い換えれば、聖書の文字はあくまで相対的です。
したがって、文字を絶対視することは文字の偶像化となり解釈を間違う恐れがあると思うのです。
聖書の文字はあくまで真理に導くための手段だと思うのです。
聖書を学ぶための知識も同じだと思います。知識は聖書を読みとき真理に導かれるためには絶対に必要だと思いますが、知識を絶対化すると聖霊の働く場が無くなると思うのです。
知識に溺れない、つまり知識を偶像化しないようにゆめゆめ気をつけねばと思います。これはわたしに対する警告でもあります。
次の聖句には、信徒でない人々が使徒の語る説教を聞き、聖書(旧約聖書のこと、当時は、新約聖書は無かった)を読みその説教が真実かどうかを調べていたことが書かれています。
「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」(使徒言行録第17章11節)
したがって、未信者であれクリスチャンであれ、説教者の説教を聞いても分からないところがあれば、そのまま見過ごすのではなく、ぜひ自分の目で聖書を読み説教の内容が真実かどうかを調べるのは大切かと思います。
上記の聖句は、ユダヤ人に語られた使徒パウロの説教、つまり、彼らが教わっていない新しい旧約聖書の解釈(当時、新約聖書はまだありません。)、つまり、旧約聖書がイエスのことを証言している書物として解説したのです。
それに対し、ただ調べもせず反対するユダヤ人と、ベレヤのユダヤ人のようにパウロのいう新しい解釈は果たして本当かどうかを、旧約聖書を熱心に読み調べた人たちもいました。
この人たちの中から、パウロの話を真理だと判断する人が多く出た、と使徒言行録の著者ルカは記録しています。
聖書は2000年にわたって、世界最大のキリスト教と言う宗教を形成し続けてきました。
2000年という長い人類の歴史の中で、その時代の優秀な頭脳にその信憑性を疑われ、考古学とか歴史学から検証されてきたが生き残った書物です。
イエスは自分の身を十字架にかけてまでして、全人類にこの世の真理を教えようとされた方です。
イエスの死後、イエスに代わりこの世に遣わされた聖霊は今も働かれています。それが事実かどうかは証明できませんが、そのことを、多くの人が体験し証言しています。
キリスト教は、奇跡物語が多く、つまり水をぶどう酒に変えたり、死人を復活させたり、病気を癒したり、水の上を歩いたり、嵐を静めたり、5000人に供食するなど一見とても信じがたいのですが、よく読んでみるとそれが一概に否定できないのです。
これはわたしだけが言っているのではなく、世界人口の30%以上の人がそれを信じているのです。
そのような聖書がその人達の人生を変え、また今もどこかで多くの人々の思考や人生に影響を与え続けているのです。
そのような現実とこの世界は不思議に満ちていることを考えると、十分信頼するに値すると思うのです。それが真実なのです。
そして、聖書の内容は時代が変わっても2000年前とほとんど変わっていません。それに、キリスト教の国際化の波は今もとどまることなさそうです。
このようにキリスト教が普遍性を持つ宗教だというのは歴史が証明しています。
過去2000年の人類の歴史の中で、聖書ほど人類の歴史に大きな影響を及ぼした書物はないと思います。
移り変わるこの世で聖書ほど普遍なものはないと思うのです。
普遍は信頼に導きます。信頼は信仰を生みます。
わたしの聖書解釈は、あらゆる信仰者は、聖霊に導かれて聖書を解釈する限り、その解釈は正しいという考え方です。
なぜこういうことを書いたかと言いますと、たとえば聖霊に導かれた一人一人の良心に基づく聖書解釈が否定されるとすると、必ず、先にも書きましたが、ある特定の人、あるいは一団の人たちが、聖書解釈の実権を握るようになると思うからです。
そうなれば、実権を握った彼らは握った実権を行使するために、または、守るために意識的にせよ無意識的にせよ、「聖書の権威」を利用して、ある特定の信条のみを他の人々に押しつける危険が生じると思います。
そういう人たちは、自分たちの権威を基準にして、ある事柄なり人間の行為なりが「正しい」かどうかを判断するようになります。
これは、キリストを名乗る新興宗教によくあることだと思います。
権威付けの為に聖書の言葉をつまんできて教典を作っている新興宗教もあると聞きます。
こうして、人間に自由と命をもたらすはずの神の言葉としての聖書が、自由を殺し、人間を抑圧しその良心を殺す道具に逆転する。教会の歴史、さらには人類の宗教の歴史を見ると、そのことを疑う余地はないと思います。
だから、大切なのは聖書がある特定の人たちの権威付に利用されないで、一人一人が、神のみ霊に導かれて、直接神との交わりに入る道を確立することが大切だと思うのです。
こうして聖書の解釈を個人に委ねると、自分勝手な解釈が出てくることを否定はしませんが、現実、キリスト教は多くの宗派に分かれ、聖書は多くの解釈がなされていますが、どの宗派の教会の信徒もキリスト者であることは間違いありません。個人はなおさらです。
それは、どの宗派も共通して信じている言葉、かってな解釈を許されない絶対といえるイエスの言葉があるからです。
その言葉を信じることが、キリスト教会であり、クリスチャンであるといえる言葉です。
それは「福音」です。
<福音とは>
福音について使徒パウロの言葉を借りて考えてみたいと思います。
使徒パウロは「福音」を次のように「神の力」と言っています。
ローマの信徒への手紙 第1章16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
使徒パウロは、福音を一言で言えば「救いをもたらす神の力」だと言っているのです。
その力は、「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」(マタイの福音書第19章26節)とある何でもできる神の力です。
そして、「福音」の内容は、コリントの信徒への手紙第一第15章3節から6節「最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケフアに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」です。
この「福音」は別名良き知らせとも言います。
良き知らせを一言で言えば、一人のユダヤ人であるナザレに生まれたイエスが主キリストであり、世界の救済者であると告知する事、それが事実ならば我々人間にとってはとても良い知らせと言えます。だから「福音」なのです。
そしてイエスは、「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(マルコによる福音書第16章第15節)と使徒たちに命じられました。
この「福音」のことは、マタイの福音書は第28章第19-20節、ルカの福音書は第24章第47~49節の三福音書すべてに書いてありますから、最重要なイエスのお言葉です。
ということで、この「福音」を信じていれば、どの宗派に属していようが、一人で聖書を読んでいようが、クリスチャンと言えるのでしょう。
<ファンダメンタリズム>
次に、聖書解釈の一つであるファンダメンタリズムについて書いてみたいと思います。専門のかたがいろいろと書かれていますが、わたしは専門的に聖書解釈について勉強したわけではありませんが、聖書解釈について思うところがありますので、見当違いをしているかもしれませんが書いてみたいと思います。
聖書に書かれた言葉は神の言葉だから、一字一句間違いがない。だから字句の意味だけをとらえて解釈すると言う考え方があります。
そのような考えを、ファンダメンタリズムというのですね。一般に原理主義と言われているのですね。
このような質問をするのはおかしいのかもしれませんが、それでは次のイエスの言葉はどのように受け取ればよいのでしょうか。
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」(マタイの福音書第5章28節・29節)
これらの聖句を絶対真理として、単独で取り出して見ると、はたして他人の妻を一度でもみだらな思いで見たことのない人はこの世にいるでしょうか。
また、イエスの言葉を信じると言うことはその言葉に従うと言うことですから、その言葉はそのままの意味で絶対ですから、罪を犯せば目をえぐって捨ててしまわなければならないのです。
みだらな思いで人の妻を見たら目をえぐり出して捨ててしまわなければならないのです。
このような怖い教えがはたしてキリスト教でしょうか。それが事実なら、みんな恐れてキリスト教など信じる人などいないと思います。
この言葉は、イエスが弟子に言った言葉ですが、弟子はこれを聞いて、片目をえぐられたでしょうか。だれもそのようなことをされていません。
同じようなことを書かれている聖書学者の方がおられましたので、わたしもその通りだと思ってここに取り上げました。
このように書けば、当たり前ではと言われそうですが、不思議でしょうが、牧師でもクリスチャンでも結構ファンダメンタリズム的な解釈をする人がおられると思います。
それは聖書の言葉は神の言葉だから一字一句絶対に間違いがないという信仰から来ていると思うのです。
わたしはやはり聖書の一字一句を絶対間違いがないとし、字面だけを取って聖書解釈をしてはいけないと思うのです。
文脈も大切です、文脈を見ないで、一節だけを取り上げて字面だけで解釈すると、ときには大きな間違いをすることもあると思うのです。
また、聖書自体も全て写本であり翻訳です。原本はありません。
日本語の翻訳聖書でも、新共同訳、共同訳、新改訳、口語訳、文語訳その他多くあり、各聖書を比べてみると随所に表現の違いが見られます。
それに今では聖書は多くの言語に翻訳されています。聖書が一字一句間違いがないとすると、完全な翻訳というのはあるのでしょうか。
ましてや、現在残っている聖書の原本はすでになく、すべて写本だそうです。
それならば、写しを書いた人間の思いとか間違いが入るのは避けられません。
ということで、聖書の一字一句を絶対間違いがないとする捉え方は問題があると思うのです。
原本は絶対で間違いはないと言う方もおられますが、原本が現在残っていないと言うことは神様がそれでよしとされているからだと思うのです。
どちらにしても、原本がないのにそういう議論をしても無意味だと思います。
神様がどうしても絶対に間違いがない神の言葉を残そうとされたのならば、絶対に修正できない方法で、原本を残すようにされたはずです。
もちろん、それは人間の言語では不可能でしょうけれどもね。
やはり、聖句の真意を知るためには、語句の意味はもちろんですが、聖句の前後関係、語られた時の状況、聖書著者がその言葉を取り上げた目的とか著者が置かれた状況などを考慮して、聖書全体の本筋に照らし合わせて何を語ろうとしているかを解釈する必要があると思うのです。
聖書をファンダメンタリズム的な解釈をすれば、いろいろと困難が出てきます。
<聖書の読み方>
最初に、聖書は怖い教えでもありません。神の言葉ですから、真理です。
ですから、ほかの宗教を信じながら、聖書を、キリストを信じることができると思うのです。
新約聖書はイエスの言葉を霊感の豊かな弟子たちが聖霊の導きにより信仰によってイエスの言葉とか行いを解釈し書き留めたものだといわれています。
いいかえれば、聖書著者がイエスの言葉と行いをもって自分の信仰を書いたのだと思います。
記録者は霊感が豊かなだけでなく、聖霊によって導かれて信仰によって書かれたものです。聖書にはこれはそういう本だと書いてあります。
だからそれは真実でしょう。信仰によってということは、その著者がイエスの言葉を信じるところによってということです。
だからそういう意味では書いてあることは真実で絶対なのだと思います。
しかし、読む人間は不完全な人間です。そこには読む人の状況による、つまり読む人が神の意思とピントがあっているのかどうかという問題があります。解釈にしたってその知識レベルは人によりいろいろです。
しかも、文字と言う意思伝達方法は、有効な手段ではありますが、不完全な方法でもあるのです。
もちろん、人間には世代を超えて完全に意思を伝達する手段は他にありませんから仕方がないのですが。発する言葉がいったん文字になれば、文字はどのようにでも解釈できるというのも事実です。
そういう不完全で限界のある文字をもって神の(イエスの)メッセージの内容を記述したのが聖書です。
メッセージを発せられる神の方は絶対で間違いがなくても、人間が生み出した不完全な文字で表現するのですから、正確な意思伝達と言う面では問題があると思うのです。
そうであれば、聖書の言葉は不完全で信頼できないかと言えばそうではないのです。
つまり、聖書の言葉は人間が使っている意思伝達手段ですから、完全ではないのですが、神はその言葉を利用して神の意志を人間に時代を超えて、いろいろな言語を持つ全世界の人々に伝達しょうとされているのです。
文字で意思を伝える方法は、文字の意味もありますが文脈はより大切かと思います。もちろん、時代を超えて読む場合は、その時代の時代背景も考えなければなりません。
文字の字面だけにこだわっていてはそれは分からないと思うのです。
間違って、つまり神の意思と違った解釈がなされることもあると思うのです。第一全能の神がそのようなことは御存じでありながら、あえて人間の文字を使った聖書という方法でご自分の意思を伝達しょうとされたと思うのです。
だから、意思伝達手段としては不完全な聖書を完全なものにする方法も用意されていると思うのです。
そのうえで、神は助け手として聖霊を送り、言葉であるいは文字での伝道を人間に委ねられたと思うのです。
わたしはイエス自身が書いたものを何も残されなかったのは、また、誰にも自分の言葉を書き留めておくように依頼されなかったのも、自分が死んだあとの伝道を人間の知恵と復活の御霊、聖霊に全てをゆだねられたからだと思うのです。
わたしは聖書解釈の助け手、いや主なる働き手はイエスの復活の御霊、聖霊だと思うのです。
聖霊が働かれて初めて聖書はその真意を伝えることができると思うのです。
また、聖霊は硬直的な解釈を望まれないと思います。
その時代にあった、その人にあった方法で、臨機応変、柔軟な解釈を導かれると思うのです。
人間社会も個人の置かれた状況も一人ひとり千差万別で常に変化していますから、そういうものだと思うのです。
聖書は一つの解釈が絶対かといえば、そういうものではなく、解釈は読む人それぞれが違ってもかまわないと言うことです。
聖書を読む者は、聖霊の働きを信じて解釈すべきだと思います。
といっても本筋から外れては困りますが、やはり、神様が人間に伝えようとされている御心に沿って解釈する必要があると思います。
そのためには、旧約新約聖書全編を通して、伝えようとしている本筋(文脈)をつかんでから解釈する必要があると思うのです。
聖書の一つの解釈は入り口にすぎず、また違う時に読めば別の解釈ができるかも知れない。なぜなら、読む人が生きている時代が、文化が違えば解釈が違っても当たり前だと思うのです。
それに読む人の心の状態は、求めているものはその時々で違います。
聖霊は読む人のいろいろな事情を活用して、その人のその時の心の状態に沿ったかたちで、聖書の言葉を通して必要なことを教えようとして働かれると思うからです。
2000年前の社会状況に合わせて解釈されても現在人にはピンときません。その解釈は、自分とは関係のないたんなる昔の物語にすぎないと思うのです。2000年前に出来事が、現在の自分における現実のことだということを分からせて下さるのが聖霊の働きだと思うのです。
聖書を調べていくことによって知識が増え、それが信頼をさらに深めていく。そして、もっと知りたくなる。信仰というのはそういうものだと思うのです。
もちろん、聖書の魅力は知識が増えてさめてしまうのではなく、益々その深遠さの虜になってしまう。
聖書はそういうもので、決して期待を裏切らないと思います。
本物とはそういうものでしょう。偽物ならばすぐにすたれてしまうものです。
そういう意味で聖書は、キリスト教のみならずすべての宗教をも包み込む普遍的な性質を持ち、当然、遍在的な性質をも持っていると思うのです。
聖書の言葉が神の言葉なら創造主の言葉ですから真理ですから、それは当然のことだと思います。
<言葉の働き>
人間が使っている言葉と聖書の言葉についてもう少し考えてみたいと思います。言葉の役割は、といいますか言葉には中身があると思うのです。
言葉を発すると同時にその言葉は言葉を発した人の思いが込められていると思うのです。
それに、発せられた言葉を受け取った人の理解の仕方が、同じ言葉でも違うことがたびたびあります。
なぜなら、言葉の理解は、受け取る人のその時に興味を持っていることとか知識とか過去の経験などに影響されると思うからです。
言葉には、それを発する人の思いが含まれています。
それが言葉の中身だと思いますが、だからその思いが発する言葉と共に相手に正確に伝わることによって目的を達せられる。
これが記された文字となると、目の前に言葉を発した人がそこにいるわけではないから発した人のその時の雰囲気も分からない。
だから普通は、書かれた言葉の意味とか、いろいろ書かれた時の状況とかを推測し、書かれた目的に沿って解釈することになると思うのです。受け取り方はいろいろだから解釈も色々となるいわけです。
聖書に記された言葉はイエスの言葉だと言われています。
なぜならば、聖書は、聖霊が著者に働かれて書かれたものだとする前提があるからでしょう。
だから、聖書の言葉は記されたものですからイエスが発せられた時の状況、あるいは記された時の記者の置かれた状況をいろいろ推測して解釈することになるのですが、聖書はそれだけではなくて、それを読むときに読む者にイエスの復活の御霊、聖霊が働かれるという不思議が起こるのです。
その聖霊の働きが、あたかも人間が言葉を発した時に発せられる思いと同じものが聖書の言葉の雰囲気を形成して、読む者にイエスの発する言葉の真意が伝わると思うのです。
もちろん、聖霊の働きは言葉を受け取る方の霊的状態により、つまり、霊感豊かな人とそうでない人、あるいは信仰により違うと思うのです。
つまり、受信者側の状態により違うと思うのです。
このように、聖書の言葉は受信する人の状態によりますが、人間の発する言葉は、そこに思いが含まれていなかったら、つまり直接言葉を発する人間を前にして言葉を聞かない限り、雰囲気として伝わるものがない、同じように聖書の言葉にしても聖霊が働かれなかったら、文字の意味を伝えるだけの空虚な言葉となります。ビジネス文書などはその典型的なものだと思います。
文書として記された言葉でも、文書の持つ表現力で、その言葉が発せられときの雰囲気というか発した人の思いが分かるときもありますが、それはわたしたちが文書を読んでいて、その言葉が発せられた時の状況を色々推測して、書かれた言葉の真意がわかったときと言えるでしょう。
聖書を読むときは、その手助けを聖霊がされると思うのです。
聖書の言葉を読むときも、その言葉の真意を知ることが大切だと思うのです。真意を知って、言葉を理解したと言えるし、信頼できると思うのです。
新約聖書は、イエスを信じる人達によって、聖霊に導かれて、信仰により書かれたと言うことです。といえば、完全な形で真理を受信し、記録したかと言えば、それも疑問符が残るのです。人間はどこまで行っても人間で、不完全です。
また、言葉を発する人が完全であっても、言葉を受信して人間の言葉で完全に記録することが出来るかと言えば出来ないと思います。
記載された言葉には言葉を発する人の真意を伝える手段としては限界があると思うのです。
そこは読む人にも聖霊が働かれて言葉の真意を伝えると言うことになると思うのです。
聖霊が働かれて言葉の真意が分かっても、その言葉を信じる人と、否定する人もあります。
聖書の場合は、書いてあることが余りにも奇想天外なことだから、嘘だと思う人もあるでしょう。
しかし、どうも真実らしいから徹底的に調べてみようとする人もいる。一発で疑いもなく信じてしまう人もいる。
わたしは最初、否定も肯定もしないで、どうも真実らしいから調べてみようから始まりました。
こうして考えると、文字を読むとき、聞くときには、発せられた言葉自体の意味も大切ですが、それ以上に言葉の持つ雰囲気、発す人の思いの方が大切だと思うのです。
そういう意味で、文脈を無視する、聖書の字面だけを観る、ファンダメンタリズム的な解釈ではいけないと思うのです。
もちろん、聖書が絶対に変えることのできない方法で神様が直接書かれたものならば、解釈なんて必要はなくなると思いますが。
人間同士の意思伝達手段としてはそのようなものはありません。
こうして書くと、絶対に信頼できる真理なんてこの世にあるのかと言われそうですが、この世に真理なんてないから何を言おうが何をしようが関係ないとなると、生き方の基準が無くなります。人生に希望が無くなります。
そもそも宗教的なものを求めるというのは、プラス思考を持って、真理を求めて人生を送りたいと願うからではないでしょうか。
世捨て人、虚無主義者のような人生を送りたいのであれば何も信仰をもつ必要はないと思います。
聖書の内容は、神が不完全な人間である預言者や使徒たちに啓示したものですが、それを読む者に聖霊が働くことにより聖句への信頼が生まれるということです。字面は、それを探求するための手がかりにすぎないと思います。
聖句の字面そのものを絶対とすると、聖書の解釈は必要ではなくなりますから聖書を読む者に自由がなくなります。聖霊の働く場もなくなると思うのです。
すると聖書の権威に縛られて、恐怖にとらわれて「真理はあなたを自由にする」(ヨハネの福音書第8章32節)という聖句と矛盾してくると思うのです。
だからいろいろな解釈があってもよいと思うのです。いろいろな解釈と言っても、もちろん聖書が伝えようとしている本筋は外れては困りますがね。聖書が伝えようとすることは一つです。
先にも記しましたが、何度も書きますが、それは、2000年前にイスラエルのナザレで生まれたイエスが十字架に架けられて殺された。それは、全人類の罪を贖うためであったと言うこと。それは神の恩恵で、その恩恵を受けるために神の元に帰れと言うメッセージです。
信仰とは、絶対真理があるだろうと信じて求めることとも言えませんか。聖書に真理があると思って聖書探究に入る。そうすると知識が増えてますます信頼が深まる。聖書はそのような要求に応えてくれると思います。
もちろん、キリスト教は道徳教ではありませんから、聖書を探究、解釈する中において聖霊が働いていることを信じる、つまりそのように信じて聖書を読む必要があると思うのです。
まず、イエスの言葉を信じることから始まり、行いは第二次的な問題になります。
第三章.新約聖書
<新約聖書の成立>
聖書は、キリスト教の聖典でイエス・キリストを証する書物です。
旧約聖書は1000年余りにわたってイスラエルの多数の預言者の手で書かれました。
預言者と言うのは、神の言葉を預かり告げる人ということで、未来を予言する予言者ではありません。
新約聖書の著者は、イエスの使徒や彼らに伝道されイエスの弟子となった信仰者たちで、一世紀に生きた人々です。
福音とは、メシアであるところのイエス・キリストの言葉を信じると罪の中から救われるという、キリスト教の教えを言います。
もちろん、それは、人間は生まれながら原罪を持っているという前提です。
そして、そのイエスのたった三年間(実際は二年に満たないとも言われています。)の地上での公生涯の事実が、福音の根本で、福音はこれから切り離されてはありえないと思います。
ということは、その三年間のイエスの公生涯で起こった出来事が嘘であれば、福音はそれこそ作り話となり,イエス死亡により速やかに消えてしまうものだと言うことです。
イエスはその三年の間に言葉と行いを持って福音を告知されたのです。
そうです、わずか三年の間での地上でのイエスがなされた出来事とか教えが、その後、今日まで約2000年間の人類の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。そして、これからも及ぼし続けるでしょう。
これには誰も異論はないと思います。これはすごいことです。
聖書のとくに福音書の真偽を問題にされる方がおられますが、この現実の前に果たして否定できるでしょうか。
2000年前のイスラエルで生まれた新しい信仰運動である神の国運動のイエス死後の担い手は、ペトロを代表とするイエスの直弟子たち十二人、すなわち、イエスが地上で活動されたとき、イエスに選ばれ、教えを受け、弟子としてイエスと寝食を共にし、イエスの十字架死と死からの復活の顕現を体験した人たちです。
そして、その神の国運動はイエスの死で一旦中断し、消えてしまったと思われましたが、イエスの復活顕現と聖霊降臨により再び復活しました。
聖霊降臨(使徒言行録2-1以降)の後、聖霊に満たされてペトロが説教(使徒言行録2章14節)を始めますが、この説教が神の国運動の復活、同時に福音宣教の始まりということでしょう。
イエスの直弟子たち十二人は使徒と呼ばれ、主イエスから遣わされた者として、福音を宣べ伝え、信者を集め指導しました。
彼らは当然自分の目で見た生前のイエスの働きや、イエスの身に起こった出来事、イエスから直接聞いた教えを用いて指導しました。
彼らが伝えたイエスの働きや教えの言葉は、各地の信徒の間で受け入れられ、伝えられ、細心の注意を持って保持されました。
それは口から口へと伝えられ、信徒たちの間で言い伝え、伝承として定着していきました。
イエスが十字架で死に、10年ほどが経ち、紀元40年から50年にかけて、生前のイエスに伝わる「復活物語」、「イエスの言葉集」、「奇跡物語」、「受難物語」など、後に福音書の資料となる重要な伝承が口伝として形成され、のちに文書化されました。
それらを参考にして、イエス死後二十年以上経て50年代に最初の福音書マルコの福音書が編纂されました。
60年代にマタイの福音書とルカの福音書が編纂されました。
以上三福音書を共観福音書といい、そこには生前のイエスの働きや生涯の出来事、イエスの教えが書かれています。
といいましても、福音書は歴史書ではないのですから、福音書著者が自分の信仰体験とか生前のイエスの出来事とか教えを用いて、イエスを証するために自分の信仰を告白したものです。
もちろん、そこには神の御霊、聖霊の働きが活発であったと思います。
ヨハネの福音書が編纂されたのは、ずっとあとで85年以降とされています。
ヨハネの福音書の内容は、共観福音書とは違い、イエスについての著者の記憶、著者の見方、著者の神学と言うようなものが書かれています。
一般にイエスの出来事の意味が書かれていると言われています。
イエスは、書いたものは何も残されなかったし、弟子に記録の要請もされませんでした。
すべてを自分の死後に降臨する聖霊の働きに委ねられました。
それにこれらの福音書の原本は残っていません。すべて写本です。
なぜ二十年も経てから福音書が書かれたのかを考えてみますと、一言でいえば、最初の頃は生前のイエスに直接教えを受けた使徒の権威が強かったから、イエスの言葉を文書化するのが遅れたのだと思います。
当時は文字で書かれた文書など一般には普及していなかったでしょうから、文書よりも言葉が力を持っていたのでしょう。
福音書が書かれた理由は、生前のイエスに直接教えを受けた弟子が高齢になりあるいは殉教により亡くなり、後世にイエスの生前の言行を残す必要に迫られたのが第一だと思います。
パウロの手紙類を含めて今のような新約聖書に編纂されるのに200年以上の年月を要した(紀元397年のカルタゴ公会議で正典聖書が成立しています)ということです。
聖書の正典は、信徒が増えていき、イエスの教えにも色々と意見が出てきて、異端と言える教えまででてきて、あるいは、教団が大きくなり教義の確立に迫られ文書化する必要に迫られたからでしょう。
使徒たちは、聖霊に満たされて、多くのしるしと不思議な業を行い(使徒言行録第5章12節以下)、復活のイエスに出会い、聖霊降臨(使徒言行録第2章1節以下)を体験しました。
弟子たちのそれらの体験から出てくる言葉は、自信に満ち(使徒言行録第4章8節他)ていて人を魅了する力がありました。
使徒言行録はルカが書いたものですが、内容は、聖霊がイエスの生前の約束通り信徒たちに降ったこと。
原始教会の生い立ち、主にペトロとパウロに焦点を合わせてイスラエルからローマに至る伝道の姿が書かれています。
この書では、キリスト教会の成立と福音の伝播を知ることができます。
キリスト教の勃興期で、最も大切なときで、聖霊が最も活発に働かれた時代ではないかと思います。
最初のころの教会は、イエスの生前の出来事とか言葉に重点を置くグループと、イエスの十字架死と復活に重点を置くグループの二つのイエス伝道が並行して行われていたということです。
前者は主に生前のイエスに直接教えを受けた弟子たち、後者は復活のイエスに出会いユダヤ教から回心したパウロを中心とするグループであると思います。
さて、福音書ですが、福音書全編にわたって書かれていることの内容は、イエスの教えと、教えを神からのものと証するための奇跡とかしるし、そして、それらのすべてはイエスの十字架と復活に焦点が合わされています。
イエスの十字架と復活の出来事を説明するために旧約聖書の預言も総動員されて書かれています。
もちろん、それは、イエスの十字架と復活がいかに弟子たちに大きな衝撃を与えたかを示しています。
そういう意味で、十字架と復活がなければキリスト教はあり得ません。
キリスト教の異邦人(非ユダヤ人)伝道に大きく貢献した使徒パウロは、イエスの弟子を、信徒を迫害する急先鋒であったのに、復活のイエスとの劇的な出会いでユダヤ教から回心したのですから、生前のイエスから直接教えを受けた使徒とは立場が違います。
したがって、パウロの福音は復活のイエスとの出会いから始まっています。
福音書には、イエスがなされた奇跡とかしるしが書かれています。
奇跡の最大の出来事がイエスの死からの復活です。
わたしは当初、そのような福音書をそのまま信じて良いのか随分迷いましたが、次のような理由で、いまでは福音書に書かれたことをほとんどそのまま(一字一句ではないですよ)信じています。
たとえ、書いてあることに一部問題があったとしても結論としてわたしの信仰は変わらないからです。
第一イエスがなされた奇跡が信じられないのならば、最大の奇跡である復活も信じることができません。
復活は信じるが他の奇跡は信じられない、という選択はあり得ません。
それに復活が事実でなければ、キリスト教は成り立ちません。
よく考えると、原始共同体の教えや書き物が少しでも真実から離れてしまっていたならば、とっくに、イエスの神の国運動は他の新興宗教と同じように消えてしまっていたと思うのです。
なぜなら、弟子たちの宣教運動が始まったころ、福音書が出来たころのパレスチナには、生前のイエスを知っていた人がまだたくさん生きており、イエスについての作り事は、どんなものでもすぐに嘘であることがばれてしまったはずです。
ましてや、その人たちの指導者層はイエスを憎んでいたので、あらさがしをしていたと思います。
信徒たちが伝えるイエスの出来事が嘘なら喜んで言いふらしたはずです。
イエスの生前の教えや、イエスに起こった出来事が嘘だとわかれば、弟子たちは笑い物になりその段階で神の国運動は消え去っています。
さらに驚くべきことは、ユダヤ人はイエスを神への冒涜の罪で十字架にかけて殺しました。
ということは、イエス死後十年の経ずに、生前のイエスを知っている人たちが生きているうちに、イエスを神の子と認めて、ユダヤ人の間でイエスが神格化されているということです。
キリスト信徒たちの周りには、イエスを知り憎んでいた人たちが大勢いて、イエスを迫害したのと同じように信徒たちを迫害しょうとしていたのです。
そのような敵意を持った人たちが周りに多くいた状況下で、弟子たちが伝えているイエスの復活が嘘であれば、何度も書きますが、弟子たちは笑い物になりその段階で神の国運動は消え去っています。
イエスの神格化などとんでもないことです。
<各福音書の食い違い>
さて福音書に話を戻しますが、四福音書を比べてみると、四福音書も同じイエスの生前の言葉とか出来事を書いたものですが、四福音書間に食い違いや不一致、つまり、表現方法が違っていたり、イエスの言葉とか出来事の用い方が違っていたりするところがあります。
これは何を意味するかを考えますと、それは四人の福音書著者が書いたそれぞれのイエスの生前の出来事とかイエスの言葉が修正とか改ざんされずにそのまま大切に保管されていたと言うことではないでしょうか。
それほど、福音書は大切に保管され、注意深く継承されたと言うことになります。
本来なら、後から書く著者は、前のが間違っていると思えば訂正して、改訂版として作成すれば良いのです。
前に書かれたものを書き変えてもよかったのです。
四福音書とも違っていれば一本にまとめてもよいのです。
ところがそうしなかったのは、誰もそうすることが出来なかった。
それほどイエスの言葉とか出来事の記録をそのままの状態で保存、維持することが重要なことだったのだと言えます。
言い換えれば、生前のイエスの言葉と行いが、何よりも神聖で権威があったのです。
もちろん、先に書いたように、四福音書とも書かれてあることの信ぴょう性は、信徒はもちろん周りのユダヤ人も、誰も疑わなかったと言うことになります。
福音書は先に作成されていたイエスの語録集とかしるし集などをもとに書かれていますから、それらについても同じことが言えると思います。
福音書などの写本を作るときには、人間が膨大な文字を一字一字写していくのだから細かい過ちは当然起こります。
写しをとった人の識字能力も問われます。
翻訳するときは、翻訳能力も問われます。
さらに、おなじイエスの生前の出来事を語った共観福音書の内容は、小説や物語り風でもなく、驚くべき出来事である奇跡を書くときも事務的な語調で、他の部分と同じようにさらりと語られているのです。
全般にわたって修飾したところが全くないのです。
飾り気のない新聞記事と言いますか、偏見も誇張もなく日常の言葉で書かれています。
とても、想像の産物とは思えないのです。
想像の産物ならば、書くことが驚くべきことですから、脚色したり誇張したりするものです。
そして思ったのです。
いろいろ思うところがあるが、福音書は、全部をそのまま丸ごと受け入れるか、全く受け入れないかのどちらかだと・・・。
そうでしょう、ここのところはおそらく間違いがないから信じよう、ここはおかしいから信じないでおこう、などと決めても確かな根拠もないことです。
福音書全体を一つとして福音告知しているのですから、その様な対応はおかしいと思うのです。
福音書著者は、ひょっとしたら信仰の勢いで、また時代の要請により何かを付け足したり、削除したり、言い方を変えたりしたかも知れませんが、信じる心が変わらなければ、そのまま丸ごと受け入れるのが、福音書の著者の意思にも適ったことだと思うのです。
イエスの直弟子でない異邦人宣教のパウロも、イエスから直に教えを受けた弟子たちの言葉を最大限尊重し、自分の言っていることがそれに一致しているということに気を使っています。
書かれたことの真偽の分析などしていません。
イエスの誕生と公に宣教を始めた時との間、つまり、イエスの少年時代のことは、たった一か所、ルカの福音書2章41節に記載があるのみです。
これは福音書を書いた目的のためには、イエスの少年時代とか成長過程は重要ではなかったからだと思います。
また、福音書完成後の教会においても、食い違いや不一致に、色々と抗議、その食い違いや不一致が原因での異端、分裂騒動、神学論争などもあったでしょう。
教会は福音書のその様な食い違いをなくそうと思えば出来たのにそうしないで、今日までそのまま代々引き継いできました。
それは、福音書が教会指導者にも変えられない神聖なものであったということでしょう。
聖書に記載されたことの真偽についても、この2000年間その時代の優秀な頭脳を持った人々が聖書に疑問を持ちその内容の真偽を研究してきましたが、聖書はそれに耐え、誰も記載されたことを否定できず、逆にその魅力というか、聖書のもつ不思議な力にとらわれて研究者が信仰を持つようになった例は幾らでもあると聞きます。
また、聖書を読みイエスの約束の言葉を信じるようになった人が数限りなく起こされたのも事実なのです。
今も世界のあちらこちらで聖書を読み信仰に入った人、人生を変えられた人が次から次と起こされているのも事実なのです。
聖書のイエスの言葉の一節を読んで人生が変えられた人も大勢おられると聞きます。
それらの事実を知ると、聖書が編成されたことに意味があり、内容が真実であり、そして聖書の言葉に不思議な力がある、つまり神に霊、聖霊が働いていると思うのです。
わたしは最初、聖書は全く間違いがない神の御言葉であり、聖書の言葉一字一句それ自体が聖霊の霊感によりもたらされたものだと考えていたので、いやそのように教えられていたので、聖書は字義どおり解釈すべきだと思っていましたが、今は、文脈と行間を読み書かれたときの時代背景を考慮して、著者の意思(イエスの意思)を読み取ろうと努めています。
いろいろと書物を調べてみますと、長年の調査研究の結果、現在われわれが手にしている聖書は当時のものとほとんど変わらないということです。
聖書の中の歴史的出来事も、歴史的事実として裏付けられているということです。
今のわたしは、聖書にかかれた出来事については、すべてそのまま事実であると信じています。
よく考えると、神が自分の言葉をそのまま伝えるために聖書を人間に書かせたとしたら、あるいは神が人間の手による改竄とか改変を望まれないのなら、神は奇蹟によってその言葉を改竄などができないようにされるはずです。
人間の言葉は、時代を超えて思いを伝えるには限界があります。
伝えたいと思うことを文字にするといろいろと解釈が生まれるのは当然のことです。
そして、人間には意志を伝える方法として文字しかありません。
神はそのようなことはすべてご存じであると思います。
全く改竄、改変が不可能な方法で御言葉を残されなかったということは、それだけの意味があると考えるのが正解だと思うのです。
神は伝道を人間の手に委ねられたのです。
そして、聖書によれば神の霊、聖霊がその伝道を助けて下さるのです。
したがって、聖書は聖霊が働かれる中で読む限りにおいて、その解釈は正解だと言えます。
不完全な聖書も聖霊の働きの中で完全になるのだと思います。
<聖書の編成と聖霊>
神が聖書の編成を人間の手にゆだねられたということは、神は自分の意志を人間に伝えるのに、まことに人間らしい方法を取られたということではないでしょうか。
人間らしい方法と言えば、キリスト教の福音伝道も同じです。
個人から個人に神の言葉を伝えていくという誠に手間のかかる方法です。
神は自分の意志を伝えるのにこのような方法をあえてとられたのです。
それは御言葉(聖書の言葉)を聞く者が、その人の意識とか知識とか信仰の状態にあった形で理解することができるということだと思います。
同じ御言葉を聞いてもいろいろと解釈できる、人によって受け取り方が違うということは、そこに神の霊、聖霊が働かれる余地があると言えます。
神が直接絶対に変更できない方法で神の言葉を残されたのなら、その言葉は絶対真理ですから解釈は生まれません。
人間の自由意志も尊重されずに人間は神の言葉に従うだけのロボットになってしまいます。
もちろん、聖霊が働く余地がないことになります。
命令通りきっちりと動かなくてはならないのですから、人間が人間でなくなります。
また、そうであれば、神の存在を疑いなく認識できるのですから信仰も必要がないということになります。
神が伝道を人間の手に委ねられたということは、信仰は疑いの中から生まれ、育まれるということも本当だと思います。
新約聖書の著者とか聖書の写しをとった人、翻訳をした人は、たしかに不完全で間違いの多い人間です。
けれども、その人はイエスの教えを信じ、キリスト教の救済のメッセージを学び、これらを後代に伝えようとした人であることには間違いないのです。
新約聖書の著者自身も、口頭伝承を文字にする時、その人に、その人の識字能力、信仰状態とか時代背景などが大きく影響したと思いますが、その人は文字にする時に人から聞いたままの言葉でなく、自分の中で理解し消化した自分自身の言葉を使ったと思います。
その言葉は、彼らがそれを書いている時、書いている場所、書く目的となる聴衆にとって、もっとも適切な言葉を選んだはずです。
著者は、復活のイエスに出会い、現実に今起こっている色々な出来事の中で、生前のイエスの言葉を思い出し、その言葉が実現していることを体験し、その結果である信仰告白を聖書に顕したのではなかろうかと思います。
言葉は聞く者に伝えようとする者の真意が伝わらなければ意味がないのです。だから、福音書はイエスの出来事を物語っていると思うのです。
福音書は、そういう意味でイエスの史実を記録したものではなく、生前のイエスの活動を語っているのです。十字架を語っているのです。復活を語っているのです。
復活のイエスと出会い、現実の出来事の中で得た信仰体験を語っているのです。
出来上がった福音書の写しをとった人と、今のわたしが聖書を読むとき、自分の言葉で、自分の信仰知識で読み解釈するのと違うところは、わたしは自分の知識で、ここはこうゆう意味で書いてあるのだろうと解釈して納得するだけですが、その人はそれを自分の言葉で理解し消化し文字にして写本を作ったのだと思います。
違いはそれだけなのです。
ある意味、わたし達も聖書を読むときは、解釈しているのですから、頭の中では聖書を改変、改竄しているといえると思います。
けれども、聖霊は聖書の言葉を通して、聖書を書く者に働かれます。
聖書を読む者に働かれます。聖書を写す者に働かれます。
言葉による伝道の場合は、聖書の言葉を語ることによって聞く者に働かれます。その聖霊は同じ聖霊です。
だから聖書の言葉は真実なのです。
このように今われわれが手にしている新約聖書の成立過程には、いろいろ問題があることを指摘しましたが、そのことは必ずしも信仰を妨げるものでないことは確かだと思います。
聖書はイエスを信じる者が霊感を持って書かれました。
一字一句神が言葉を発してそのまま書くとか、人間の手を借りて神が自分で書くように書かれたものではないのです。
信仰を抜きにしても、なにしろ、聖書ほど人類の歴史に大きな影響を与えた書物、またこれからも人類の歴史が続く限り影響を与え続ける書物はないでしょう。
わたしはこれだけでも人類の宝として聖書を読んでおく価値があると思うのです。
このような書物は、人類の歴史に二度と生まれないでしょう。
聖書は神の霊、聖霊が働く信仰書であって道徳を教える書物でもないし、科学書でも、また文学書でもないということです。
したがって聖書は字義通り解釈していては、真理は見えないと思うのです。
わたしは聖書を読むときは、御言葉により導かれる良心に従って御言葉が何を伝えようとしているのかを考えます。
聖霊の声を聞くように、浮かんできた解釈が自分の内面で本当に納得しているかをいつも問うようにしています。
いつもみ言葉を思っていると、あるときふと全く違う解釈に出会うこともたびたびです。
先人の書かれた聖書講解を読みましても、解釈はいろいろです。
でもその中には自分の思いにピッタリとあった講解もあります。
だから、わたしは投稿文などを作成するときは、その方の講解を参考にしています。
この十年間、多くの聖書関係の本を読みました。
そして、それらの本から得た知識を消化して、わたしが自分の良心に従って最も納得できる自分なりの解釈を得ることに努めました。
でも、これだけは言えます。どんな解釈であっても、わたしの良心に照らして納得できなければ自分の意見を優先しています。
人の意見を拝借する場合でも、自分が納得しなければ拝借しません。
聖書解釈は、この2000年間どれほどの人がされてきたか。
だから言い換えれば、本当は自分だけのオリジナルな解釈なんてないのかも知れません。
いやいやそのようなことよりも、聖書を読むのは解釈が目的ではないのです。真理を知ることが目的なのです。
聖霊に触れることが目的なのです。
解釈はあくまでそのための手段と言えます。
ルカによる福音書第21章33節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
最後に、ほかの宗教とキリスト教の違いを書いておきたいと思います。
一口に言えば、キリスト教は命の宗教と言えます。
現世の利益のみを求め、自分が不利になると逃げ出す、わたしたちの代表のような弱い弟子たち。
その弟子たちは、イエスがユダヤ教指導者らに捕まった時にも巻き添えを恐れてイエスを見捨てて逃げてしまいました。
イエスが十字架に架けられたときには、誰もイエスのそばにはいなかったのです。
使徒言行録によるとそのような弟子が一変し、人間が変わったように堂々と立ち上がり、伝承と歴史が証明するように迫害と殉教のただ中におかれた初代キリスト教会の中心として活躍するのです。
これは、イエスの復活を体験し、聖霊降臨を体験したからだと言われています。
聖書はそれを復活信仰と主張します。
この現実は証明できないけれども弟子たちは「主はよみがえった」と主張するのです。
弟子たちを奮い立たせたのは聖霊の力だともいわれています。
したがって、キリスト教の信仰の中心は、イエスの十字架と復活と聖霊降臨(使徒言行録第2章)にあると言えます。
その三つの出来事の一つでも欠けたら、キリスト信仰は成り立ちません。
イエスの教えとかなされた奇跡にあるのではないのです。
キリスト教は、倫理とか道徳を学んで感激し、心打たれて満足する宗教ではないのです。
キリスト教は人間の命の根本を変えてしまう力を持っているのです。
他の宗教に、人間の生きざまを根本から変えるような力はあるのでしょうか。
第四章.神話と聖書
聖書はあるいみ歴史に裏付けられた神話だと思います。
では、聖書を生んだイスラエル以外の世界中にある神話は無知な未開の人々の単なる何の根拠もない作り話なのでしょうか。
両者をつなぐといいますか、共通する部分はないのでしょうか。
また、その面から旧約聖書とイエスの出現はどのようにつながるのか、とかねてからわたしは疑問に思っていました。
ここでは、そういうことを知り得た範囲でまとめてみたいと思います。
神話の対象は日常の習慣から国家のことまで多岐にわたり、世界中の民族はそれぞれ独自の神話をもっています。
系統的にかかわりのある民族においては、神話にも多くの共通要素があるということです。
また、神話は、かつては、それぞれの民族、共同体の社会で宗教、信仰の対象として機能していたと思います。
辞書の説明を簡単にまとめてみると、自然物や自然現象または民族や文化・文明など様々な事象を創造神など超自然的・形而上的な存在や英雄になどとむすびつけた物語、あるいは諸事象の起源や存在理由を語る説話でもある、と書いてあります。
詩や寓話や祭儀などの中に象徴・表象・隠喩を用いて語られているのもあるということです。
また、聖書も例外ではなく他国の神話の影響を受けているということを知りました。
たとえば、聖書学者によると、シュメール神話をはじめ、古代の世界の創造神話の多くが,「万物が言葉によって存在するようになった。名づけられることによって創造された。」とあり、まさに聖書と共通するところがあるということです。
そのように考えると、世界中にある神話はキリスト教を信じるうえにおいて無視してもよいと、簡単に割り切れないと思うのです。
イエスがガリラヤに現れて神の福音を宣べ伝えられた時、その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でありました(マルコの福音書第1章15節)。
それは、人類を罪の中から救い上げたいという神のご計画が熟して、神の時が到来したということもあるでしょうが、何よりも、イエスご自身がそのことを次のように語っておられます。
ナザレのユダヤ教会堂で、旧約聖書の中の預言者イザヤの言葉を示して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と言われたのです(ルカの福音書第4章21節)。
すなわち、イエスはご自分の出現は旧約聖書が預言していたことの成就である、といわれたのです。
もちろん、これはイエスの生涯の細かい個々の出来事すべてが預言の成就というよりも、イエスの十字架と復活が旧約聖書全体の預言の成就である、という意味であると思います。
十字架につけられて死に、三日目に復活したナザレのイエスの出来事こそ、アブラハムからイエスに至る全旧約聖書の歴史が目指した目標であり、実現であり、完成なのです。
第一コリントの信徒への手紙第15章3節から4節に次のように書かれています。「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと・・・・・」。
この天と地と、そこに生きる人間を含めた全被造物を神が創造されたとしたら、神はイスラエルの歴史以前から、つまり全被造物をこの世に創造するにつき、創造にご計画があり、人間がご自分を求めるように造られたと思うし、被造物の中に創造主の意思を見ることができると思うし、また、人間の歴史に何らかの方法で介入しょうとされると思うのです。わたしたちは神を完全に知ることはできないけれども、被造物の中に、その範囲で知ることができると思うのです。神話もその表れのひとつだと思うのです。
人間の命の元は神の霊です。人間は霊的存在ですから、神の霊を十分に受け取っているかぎり永遠に生きるものであります。
神は人間に創造した目的に沿ってご自分とともに生きることを望んでおられます。
そのためには、人間がいつもご自分のほうを向き、ご自分と霊的に交流している必要があるのです。創造の目的、つまり神のご計画は、神と共に生きることができる新しい人間の創造だと思います。
そして、神は新しい人間の創造のために、また、真の意味で人間に愛されたいがために人間に自由意志を認めながらも(自由意志の上で愛さなければ愛しているとはいえない)、唯一善悪の判断のみご自分に委ねることを望まれました。
そして、人間に永遠を思う心をお与えになりました。これは、来世を、神を求めるこころです。
使徒パウロは言っています。ローマの信徒への手紙第1章20節 「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」と。
被造物の中で人間は創造主である神とコンタクトがとれる能力を持つおそらく唯一の存在だと思うのです。
それはどの時代においても、人間は神を求め、永遠(未知なるもの、恐れる者、つまり神とか死後のこと)を求めてきたのは事実であり、そこから神話が生まれたのだと思うのです。
それらのことが、自分では気がついていなくても人間が被造物であるということを現していると思うのです。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」とパウロが言うように、人間は古代から知らず知らずのうちに神を求めていたから、いや、求めるように造られているから神話が生まれたと思うのです。
それは全民族に言えることだと思います。
人間が人間らしくあるために、神は人間に自由意志を与えましたが、それが仇となり人間(アダム)はエデンの園において神から離反し神との交流が途絶えました。
そのために、アダムの子孫であるわたしたちはその性質を受け継ぎました。ゆえにわたしたちは背後で刻々と命を生み、わたしたちを保つために働かれている神とのコンタクトができない状態にあるわけです。霊的能力が衰えて、本当の神の存在が人間には見えなくなっているのです。
それでも、人間は本能的に神なるものを求めて被造物の背後に、その神性と永遠の力をもつ何者かの存在を感知し、それが神話の形で語り継がれて、また信仰として受け継がれてきたことが、一民族であるイスラエル民族の歴史の中で事実となったと思うのです。
それでは、歴史的な真実と神話の区別をどのようにつけるのでしょうか。
キリスト神話の主役は、約2000年前にイスラエルのナザレで生まれたイエスという実在の人物であり、そのイエスが教えた言葉、行為あるいはその思想にかぎらず、イエスが実在したということ自体に根拠を持ちます。
だから、キリスト神話が他の神話と違うところは、イエスの出現とイエスにまつわる出来事という事実から生まれているということです。
それがすべてであり、また、唯一だということです。ほかに根拠はありません。
その出来事は、神と個人との出会いを通じて、神がイスラエル民族という共同体全体に働きかける啓示と預言、そして、過去(罪を悔い改めて造り変える)と未来(来世での復活の希望)とを結ぶ契約のかたちで成り立っている独特なものです。
いわば、イエスの出来事は、神話化されることで旧約聖書の人類救済史の構造に組み込まれて旧約聖書の預言が成就したといえます。
聖書が歴史の事実に裏付けられているように、世界中の神話も単なる作り話ではなく、その背後に神への、絶対者への思いがあるということです。
もちろん、神を直接語っていなくても、象徴・表象・隠喩などの形でも表現されていることもあると思います。
神話はある意味その神話を持つ共同体の意思で、その民族が語り継いできたものであり、共同体の歴史を造っていったという面もあるのではないでしょうか。
自然の背後におられる神は、あらゆる民族とか国家に古代からいろいろな方法で働かれていたのだと思います。その働きは神秘な存在としてとらえられて神話などを生みましたが、その神秘な何者かが、世界中からひとりの信仰深いアブラハムを選び、その一人の人から一つの民族イスラエルが生まれ、その民族は、約1500年にわたり浄化され、繰り返し試され、ついに、ユダヤ教という世界にまれな、特異な宗教をもった集団になったとわたしは考えたいのです。
神がイスラエル人を人類救済のためのメッセージを託す民にふさわしくするために、律法を与え罪のなんたるかを教えたのだと思うのです。何が罪であるかが分からないと、罪の悔い改めができないし、罪からの救いもないからです。つまり、イエスの贖いの十字架のための準備だったということです。
神がイスラエル民族に臨まれるまでは、人類には罪とは何かとか神の存在を具体的に語った宗教はなかったと聞いています。
だからイエスは福音をまずイスラエルの民に語られました。イエスの福音を信じたイスラエルの民は、イエスが来られた時罪の中に沈んでいました。救い主を求める声が満ちていました。
その当時のイスラエルは、ローマ帝国の属国で、一部の律法学者など特権階級に支配され、罪が満ち、不法、不条理が満ちていました。世界を見ると、人間社会は、相変わらずあらゆる種類の暴虐や隷属がはびこっていました。愛は冷え、神をも恐れぬ傲慢がはびこっていました。
いかなる存在も、自分の資質だけでは生きられないのは、自然の宇宙の法則です。だれでも、生きていくためには不可欠と言えるほど自分以外のものを必要としています。人間はそういう社会性をもつ生物だということを忘れて、自己の利益のみを追求する存在になってしまったのです。
人類のはるか古代からの思いは、旧約聖書によって歴史化され、イエスの受肉によって集約され完成したと思います。
また、ある意味、旧約聖書以前の神話は、何千年と今日まで語り継がれてきたその普遍性をみると、それはもう、それをもつ民族の歴史の一部とも言えないでしょうか。その背後には神の意志、真理があると思うのです。
たとえば神話が現実化、具現化した聖書が、この2000年間において、欧米の歴史を形づくってきたと思います。そういう意味で、聖書は欧米の歴史を造ってきたともいえるのではないでしょか。それは神話が歴史化されたと言えるのではないでしょうか。
聖書は、おそらくこれからも人類の歴史に大いなる影響を与え、新たな歴史を造っていくでしょう。その影響は、決して廃れることはありません。
キリスト教は、人類の心に詩や祭儀などの形で最初から存在し続けてきた何者か、つまり創造者の意思の完成であり、現実化であり、具現化であると思います。
わたしは聖書も他国の神話の影響を受けて、他国の神話と共通のものがあることを知り、旧約聖書は純粋に、単純に神とイスラエル民族の歴史だと信じていましたのでちょっと戸惑ったのですが、この天と地と人間を含めた宇宙の創造の初めから創造主が働かれていることを知ることによってその矛盾は氷解しました。
最後に、ナルニア国物語の著者C・Sルイスの言葉を紹介しておきます。C・Sルイスはキリスト信仰をもった理由を次の通り述べています。
「わたしが、キリスト教徒になった大きな理由は、キリスト教が、人類の心に最初から存在し続けてきた何ものかの完成であり、現実化であり、具現化であると気づいたからなのです。」といっておられます。
わたしは自分が到達した結論と同じことをC・Sルイスも言っておられることを知りキリスト信仰に確信をもつことができました。
ルイスはまた、イエスの受肉、キリストの処女降誕、十字架、復活、奇跡も歴史となった、現実化した(事実となった)神話なのですと言っておられます。
さらに、死んでは生き返る神の古い神話が、想像力の世界からイエスの復活という出来事で人間社会の歴史になったのです。
イエスの復活は、現実に起こったこと、ある一定の場所ではっきりと示し得る歴史的結果を伴って起こったことであるといっておられます。
したがって、聖書の神話の部分は理解するのではなく味わうもので、想像力で丸ごと受け止め読むべきだとも言っておられます。
他に聖書の個所で、神話と思われるものを何箇所か上げますと、創世記の第11章まで、エゼキエル書37章7節から10節の「枯れた骨の生き返り」は神話だと思いますが、それはイエスの復活で現実化したといえます。
創世記2章7節の人間創造物語「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」は、これに類似する話は、古代のバビロニアにも、古代エジプトにも、ギリシア神話にも、アジアの神話にも見られるということです。
神はいつもわたしたちと共にあり、摂理により刻々と命を創造し、わたしたちを導き支え保っておられると思うのです。
パウロは言っています。
ローマの信徒への手紙第1章20節・21節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」の通りです。
創造主である神は約3500年前にアブラハムを選び、つまり特定の人間を選び人類を罪の中から救済し、新しい人間と新しい天地を創造するご計画を実行に移されました。
そういう意味で、現在アブラハムと同じ神を信じるわたしたちにとって、アブラハムは信仰の父と言えます。
わたしは、もし創造主がおられるならば、人間を無目的に(計画もなく)創造されるとはとても思えないのです。創造しておいて後はほっておくということも考えられません。
そうであれば、神はその創造のご計画を完成させるために、ご自分を啓示し、人類の歴史に介入されるのは当たりまえだと思うのです。
その具体的な現れが、旧約・新約聖書であり、約2000年前にこの地上におられたナザレのイエス・キリストなのです。
第五章.霊感で聖書を
わたしは時々考えるのですが、聖書は世界のベストテラーといいますが、本当に読まれているのだろうかと疑問に思います。
たしかに聖書は、聖書に関する知識が全くない者でも文字が読めれば読んでまったく分からないということはありません。
それに、なぜかこれほど人の興味を引き、また権威をもっている書物もありません。だからクリスチャン以外の人でも興味本位で買ってしまう。
購入して、さて読んで見るとこれがまた難しい。
そして、本棚の奥で埃かぶる。聖書の内容を全部読んで理解している人はどれほどいるだろうか疑問に思います。
旧約・新約聖書は、イスラエル民族の歴史の中で、作られるのに何百年、何千年もの時間を要し、完成するまでに多くの人が関わってきた現実は、そんなに単純なものではなく、簡単に理解できるものではないと考えるべきだと思います。
完成した後でも、2000年の間にその時代の優秀な頭脳がどれほど人生をかけて聖書の真否を研究してきたか。それでも未だに完全に理解できたとはいえない、このような書物は、ほかにあるでしょうか。
聖書は、一見読みやすそうですが読み込むのにはこれほど難解で根気がいる書物も少ないと思います。このように思うのはわたしだけでしょうか。
文盲の人は読めないし、字が読めても時代背景も分からない2000年前に書かれた難解な大部の聖書の全ページを読むのに要する労力は大変なものです。
苦労して読んでも内容がわかったかといえば、やはり十分にはわからない。
著者である福音書記者が最初に書いた原本はなく、多数の写本が在り、多数の翻訳された聖書があり、その都度人の手が加えられています。
内容にまとまりはなく、書いてあることは奇蹟とかしるしの連続。このような書物をだれが信じますか。
それでもこの書物を聖典とするキリスト教は世界で一番多くの人に信じられている宗教なのです。これは現実です。
この2000年間、この聖書を読んで、イエスの言葉を信じてどれほどの人が洗礼を受けてきたか。
そして、人類の歴史にどれほど影響を及ぼしたことか。
もし、聖書を、全部読み込み、理解できないと信仰がもてないのなら、キリスト教はここまで広がっていないでしょう。
とっくの昔に歴史の中に消えていたと思います。
これらのことはすべて聖霊の働きを認めなければ理解できないことだと思います。科学書とか小説では起こり得ないことだと思います。
なお、聖霊とか霊感といますと分かりにくいですが、霊感をインスピレーシヨンともいいます。とすると、なんだか受け入れやすいと思います。
キリスト教会に行くと、聖書を読むには、聖霊の働きを求め祈り求めなさいとよく言われます。
聖書は知識で読んでも一応理解できると思いますが、生きた御言葉を体験しょうと、その御言葉の真理を理解しようと思えば確かに聖霊の働きが必要だと思います。
わたしが、聖書を読んでいて、霊感を感じたのは数えるほどです。
いや、働かれていても自覚していなかったのかもしれませんが、それほど、霊的に鈍感なわたしです。
わずかな経験でも、聖霊の働きを体験できたのは、わたしにとっては、大変なことです。
その体験は、聖書のある場所を読んでいたときに、突然わたしの心が躍動し、イエスの言葉が生きてわたしに迫ってきたとか、インスピレーシヨンが与えられた時もあります。
そして、読んだところの真理を、一瞬に理解させてくれました。
聖書の言葉が生きているのです。そうです、旧約聖書と新約聖書で2000ページにもなる聖書全部を読まなくてもいいのです。
一章でも一節でも読めば、いいえ人から聞いてもよい、そのときにその人が出会った聖句を通して、神はその人に働かれるのです。アーメン
大部で難解な書物を、無理して全部読まなくても、読んだ聖句に神は働かれる。そして、信仰が生まれるのです。
聖書は人間が書いたもので、原本はなく、写しをとるときとか、翻訳には間違いが多くそれで神の言葉といえるのかといわれそうですが、
神が人間にアプローチされるのになにも完全なものはいらないのです。
書いてある文字はただの文字ですが、それを用いられるのは、神の霊、聖霊なのです。聖霊が働いている限り読み理解した解釈は真実なのです。
聖書の喩え話は、イエスが天国のことを語られる時が殆どだと思います。
それは、説明しょうとすることをそのまま書いても読む人が理解できないからだと思います。
喩えを読むときは、言っていることの意味が分からなくても、その言葉に何か真理があると信じて読むことが必要だと思います。
聖書の言葉を真に理解するには、神の霊、聖霊の導きが必要だと書きましたが、だからまず、わたしたちの周りを聖霊が飛び交っていると信じなさいとある牧師が言われていました。
その飛び回っている聖霊を受け止めるには、つねに意識を神の方に向けていることが必要で、意識がよそを向いていたら、聖霊が読む者には働くことができない。聞く耳をもたない者に分からせようがない。
では、聖霊の助けを得るのは人間の方にはどんな能力が必要かというと、霊には霊感ということになると思います。
聖霊が言わんとすることを受信するためには霊感を働かせることが必要となる。
神との交信は祈りによりますから、人間の方も、常日頃から、大いに祈って霊感を豊かにしておく、そして、聖書を読むときは聖霊の働きを願って読むということでしょうか。
聖書の聖句は、小説のように読む者を引き付けるためになされる表現のテクニックとか文書の美しさなどは問題ではなく、聖書に書かれたイエスの御言葉を通して聖霊が働かれる場所、媒体ということなのでしょう。
だから聖書を読むときは、書かれていることを本当だと思って、聖霊の働きを期待して読む必要があるのです。
わたしたちは、読むだけでは、聞くだけではなかなか信じることが出来ない、見ないと信じられない、触らないと信じられないという弱さを持っています。けれども、神はわたしたちに、神の言葉を聞くだけで、読むだけで、その行為の中から信じるという霊的な感覚を与えておられるのではないでしょうか。
見えない世界を信じてみると、人生の見方が大きく変わると思います。現に、世界中の多くの人が神を見ないで、難解な聖書を読んで信じています。
この事実は非常に重大だと思います。
新約聖書ヨハネによる福音書20章29節、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」。
福音書の内容は統一されていません。それはおそらく著者が、自分の信仰体験とか現在置かれている状況に照らして、イエスの生前の教えを持ってきて自分の言葉で書いているからではないでしょうか。またその福音書を用いる対象により書かれ方も違ってくるのは当たり前だと思います。
逆にいえば、四福音書とも違うから信憑性があるといえます。
福音書はイエスの伝記を書いたものではなく、著者の信仰体験の書です。
著者の信仰体験をイエスの出来事と言葉に照らして書かれたのだと思います。作文ならこのようにならないでもっと整然と書かれているはずです。
生前のイエスから直接教えを受けた十二使徒はイエスと共に歩んだ三年間に教えられたことの真理をすべて最初から理解していたわけではありません。
事実、使徒はイエスが十字架にかけられ聖霊が弟子に降るまではイエスの言われたことの真理が理解、またイエスの教えに確信を持つことができなかったのです。
ということは、聖書を読む者が聖書に書いてあることの真理を理解するには、聖霊の助けが必要であるということになります。
聖霊は御言葉を読む者に、聞く者に働かれるので、キリスト教の真理は御言葉(イエスの言葉)にあるといえます。
したがって、聖書を正確に読もうとすれば、どうしても聖書の文面の背後ある複雑な伝承の歴史と時代背景と福音書記者の意図を知ることを無視することはできません。
福音書記者は自分が生きている時代から、今の自分の体験とか経験に合わせて聖霊の働きを借りて生前のイエスの言動を思い出して自分の言葉に置き換えて書いているのだと思います。
この姿勢は、今のわたしたちが福音書を読む時の姿勢であるとも言えます。
わたしたちも聖書の言葉を今の自分の言葉に置き換えて、読んで、また理解しているからです。
プロテスタント教会では、祈りながら、聖霊の助けを求めながら読む者が、聖書を解釈すれば、その解釈は真理であって、神が語っておられることとして受け取ることが必要だとされていると思います。
キリスト教会がいろいろな教派に分かれているのを不思議に思っておられる方もおられると思いますが、聖書を読む者が、その背景に働く聖霊を信じ、またイエス・キリストを証すると言う目的の下に読む限りどの解釈もどの教派も正当であるといえると思います。
イエスの中に働いた聖霊と、使徒や初代の信徒たちの中でイエスの教えを述べ伝える力となり、伝承を保持して福音書を生んだ聖霊と、その福音書を今信じる者に働かれている聖霊は同じ霊です。
それぞれ時代は違い、状況は異なりますが、同じ聖霊が一貫していて働いている限りそれは信仰を揺るがすものではなく、歴史におけるその時代との相違を超えて神を信じるための助けとなります。それは神の創造の御業といえるのではないでしょうか。
だから聖霊の働きがなければ、わたし達には、聖書がそのまま神の言葉であると言うことが分からない、ということになるのではないでしょうか。
聖書の真偽について、ある西洋人科学者の名言がある、「このような「嘘」が人間に書けるはずがない」。
聖書著者とか写しをとった人の目的で聖書は訂正・付加されていたり、写し間違い、翻訳間違いなどで、今手元にある聖書はイエスの生前の言葉をそのまま一字一句間違いなく書き写したものでもない。
おそらく、神はそのことを良くご存知で、また意図してそのようになされたのでしょう。つまり御言葉の伝道を人間の手に委ねられたのです。
このように考えると、神は聖書の文字そのもので持ってご自分の意志を伝えようとされているのではなく、聖書の御言葉を媒体としての聖霊の働きによる信仰を求めておられると思うのです。
ということは、書かれた目的にそって、今の自分に語りかけておられるという信仰を持って聖書を読むことの必要性が求められているのではないでしょうか。
聖書には、読むものを捉えて離さない不思議な力があります。
もし、聖霊の働きが無ければ、聖書はただの古典として読まれているだけの書物としかいえません。単なる古典なら人類の歴史にこれほど大きな影響を及ぼしていないと思います。
ちょっと理屈っぽくなりましたが、また重複するところも多々ありますが、いろいろ関係する書物を読んで見て、わたしは聖書というものを以上のように理解するようになりました。
今日の聖句、新約聖書ヨハネによる福音書第14章15節、26節「わたしは父にお願いしょう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」
第六章.聖書の魅力
聖書を研究対象とする読み方があります。
聖書研究というと、聖書の御言葉から受ける霊感を重視しているクリスチャンからは聖書は研究するものではないとお叱りを受けそうです。
わたしは聖書もやはり研究対象と思っています。
文脈とか行間を読むことはもちろん、旧約聖書と新約聖書の比較、各福音書の比較、新約がかかれた時代の原始教会の状況、歴史的背景、福音書記者のおかれた背景などを調べた上御言葉の真意を考えるのも必要かと思います。
内村鑑三先生は次のように言っておられます。
「聖書の研究は困難なる事業である。その研究の結果、かぎりなき生命の泉をくむを得るも、ここに達するまでには大いなる努力を要する。・・これを採堀するは容易ならざる事業である。聖書の一言一句をその前後の関係に照合して穿鑿し、注意に注意をかさねてその意義を探求しなければならない。
しかしながら、困難といえども最も貴き事業である。聖書研究の困難を解せず、またその意義を解せざるものは、ややもすればこれをもって伝導事業と別視するものがある。
しかしながら聖書研究にまさるの伝道はないのである。」と
わたしみたいに、霊感の乏しい人間にとっては内村先生の言葉はまことに力づけられる思いであります。
しかし、聖書研究は何と根気の要る事業であろうか。毎日少しずつ、一節でもいいから進めていくしかない。
先を見れば途方もない樹海が広がっていて気がなえてしまう。
始めてしまったら、次から次へと疑問がわいてきます。
そして、その疑問の意味が知りたくなり、いってもたってもいられなくなる。寝ても起きてもそのことばかり考えています。
解答などないのではと言われますが、それが不思議にあるのです。
びっくりするような回答にであうと、それがまた聖書の全く別の個所につながっているのです。
そのような調子で、最後まで、この世の命が尽きるまで続ける。
そこに聖書の真理というか神の意志というか、何かが見えるのを期待しつつ一歩一歩進めていくしかないと思っています。
聖書を樹海に喩える方もいますが、少し面白さが分かると、人の心を捉えてしまうところがあります。いったん捉われたら止めようと思っても止められないのです。どんどん深みにはまっていく、このような方は多いと思います。
学者が聖書の嘘を暴こうと思って研究をはじめたが、その魅力に捉われてしま
って信仰を持ったという話はよく聞く話です。
わたしには、その学者の気持ちがわかります。この2000年間、世界でどれほどの人が聖書に捉われて信仰をもったでしょう。数え切れませんね。それも、聖書のたった1節の言葉に人生を変えられることもあるのです。わたしもその一人です。
今も世界のどこかで、聖書に捉われてイエスを信じる者が起こされています。生涯をかけて研究している人もたくさんいます。不思議な書物です。たたかれてもたたかれても捨てられることがない書物です。
このように、聖書を読み人生を変えられた人は今までにどれほど起こされたか、その人たちがキリスト教の歴史を形成してきたと言えます。
これがキリスト教の命ではなかろうか。
このことなくして、何のイエス、何の聖書、何のキリスト教であろうか。聖書など無用の長物にすぎないと思います。
聖書研究を、人生のライフワークにしている人もいますが、これほど意義のあるライフワークはないと思うのです。
書いてあることが本当だと、信じて読めば一番いいのでしょうけれども、最初は疑って読んでも、徐々に真剣に読むようになることもあります。
とりあえず、どのような動機であろうが、読むことが大切だと思います。
聖書は、分けがわからなくても信じて読む人、疑って読む人、研究対象として読む人などいろいろです。しかし、最後には、つかまってしまう人が多いといわれています。そういう不思議な書物です。
聖書を胡散臭いものと思わずに、まず飛び込んでみることが必要だと思います。わたしもそうしました。
そうしたら、つかまってしまって三十年近くなるのに未だに読んでいます。迷うのも、受身も大切だけど、どこかで決断が必要かと思います。
新約聖書ヨハネの黙示録第3章20節、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だからわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。
神様のたたいておられる戸を開けるのは、人間の仕事。これは神様がわたしの言葉に意識を向けなさい、心を開きなさいといわれている聖句です。
といっても、神様はけっして強制はされない。どうするかは人間側に選択する自由があるということでしょう。
まったく教会と縁が無い人は、戸を開けるための最初の一歩は、この分厚い聖書を読むことになるのですが、わたしは、最初は、創世記とか、新約聖書の福音書がいいなと思います。気が向くところから導かれるところから読んでいけばいいと思います。それこそ、分かっても分からなくても読むことが大切だと思います。そして、いつか聖霊が働かれた聖書の言葉に出会い真実を知るのです。その時は、神が決められます。
創世記第1章第1節「初めに、神は天地を創造された。」・・この言葉に興味を持ち、読んでみたいと思いませんか。このような厳かな言葉で始まる聖書、その言葉の中に神秘が隠されています。
「聞く耳がある人は聞きなさい」というイエスの言葉がありますが、これは世間には聞く耳をもつ者が必ずしも多くないことを示しているし、御言葉を聞く気がないと、聖霊が働かれないので聞いてもわからないことを示していると思います。
聖書は、そう言う意味で、自分に語られているとして読まなければ意味がないということです。
なぜ神は人間に、まず自分のほうを向くことを求めておられるかといえば、エデンの園で人類の先祖であるアダムとエバは、サタンのそそのかしに乗り神から離反し、自分で罪を犯した。神は2000年前に、その罪から人間を救いだすために、この世の支配権をサタンから奪うために御子イエスをこの世に送られたが、罪を犯した人間がその救いに与るためには条件をつけられた。
それは、人間のほうからまず神の方を向き、罪を悔い改め、イエスの御言葉を信じること。
聖書の言葉は、神に心が向いていなかったら、サタンの影響の下にいる人間には理解できないのです。
わたしはある著名な知人に、聖書を研究しているのです、と言いますと、その知人は、聖書を信じているのか、と問いました。・・わたしは、否定できないのですと応えました。するとその知人は、「否定できないのは当たり前。
否定できるようではキリストイ教は今ごろ存続していないよ」、といわれました。ご名答です。
最後に「新約聖書研究入門」を書かれた加藤隆氏の言葉を紹介しておきます。
「聖書は読むに値する書物である。では聖書はどうして読むに値するか。聖書は単にその内容が優れているから読むに値するのではない。
つまるところ、聖書は単に「読んで役に立つ本」であるだけでなく、「読むべき本」だからだと述べるべきだろう。
「読むべき」と言うと、「読む」ことが一つの「義務」とされているということになる。義務は常に何らかの権威によって根拠づけられている。
この場合の義務において根拠になっているのは、どんな権威なのか。それは究極的には神なのだが、では神とは何なのか、どこに見出されるのか。こうした問題の答えを見つける早道は、聖書を読むことだと言うことが出来る。」
第七章.聖書と奇跡
奇跡とは何でしょう。まず、最初に辞書を引いてみましょう。
ウィキペディアには、「(奇蹟、きせき、とは、人間の力や自然現象を超えたできごと。神の力などとされ宗教と結びついていることが多い。
旧約聖書でもモーセはさまざまな奇跡を行ったと記述されている。
キリスト教のうち、正教会、カトリック教会、さらに聖公会・プロテスタントの内の福音主義は、キリストの処女降誕、キリストの肉体的復活など、キリストの生涯における出来事を超自然的な奇跡が起きたとする。
それに対し自由主義神学系の聖書学者は、それら奇跡を認めず、信仰上のイエス・キリストと史的イエスとを分離するアプローチを可としている。)」
旧約聖書にも新約聖書にも多くの奇跡が出てきます。
「奇跡、そうなんだ、神様がおられるから奇跡があってもおかしくはない。」で済ませれば一番良いのですが、わたしの気持ちはそれで済まないのです。
やはり本当にあったかどうか知りたいと思うのが人情です。自分なりに落とし所を探ってみたいと思います。
旧約新約とも奇跡のオンパレードです。
病を癒す、嵐を静める、水の上を歩く、死んだ人間を生き返らせる、大きな川の流れをせき止める他多数の奇跡が記されています。
もちろん、究極の奇跡はイエスの復活です。
自然の力を支配した人の話は、ギリシア・ローマ、あるいは東洋の神話や伝説にもあります。
だから、これらの出来事は、現実に起こったことではなくて、後からイエスの復活を信じた教会が神話や伝説をもってきて、こしらえたものだという見方があるということも承知しています。
聖書学者の方にも、旧約聖書には古代エジプトやバビロニア、あるいはギリシア・ローマの神話や伝承が組み込まれていると発表されている方もおられます。
ただ言えることは、イエスも福音書の記者たちも、旧約聖書に記されていることを全て信じていたということです。
これは信じるけれど、これは信じないと言うことは無いのです。
世界の神話や伝承が、わたしたちが今手にしている聖書の背後にあるということです。
また、どこで読んだか忘れましたが、その神話や伝承も何かの事実としての出来事があってそういうものが長い時間をかけて現在の形に作られたと聖書学者が書いていました。神話や伝承もまるっきり嘘ではないと言うことですね。
そして、驚くことに、そうして出来上がった旧約聖書(モーセの律法と預言者の書と詩編)が、イエスの出来事、十字架と復活を預言しているのです。
ということは、イエスの出来事、十字架と復活が事実なら、そのために旧約聖書が書かれたと言うことですから、新約聖書も旧約聖書も事実だということです。
わたしは思うのです。人類の誕生以降今日に至るまでのすべての出来事、人類の歩みに背後には神の働きがあると思うのです。
創造者である神がおられるならば、その神は被造世界であるこの世界の背後でこの世界を創造した目的を達成するために働いておられると考えても可笑しくありません。その働きは、未知の力の働きですから、私たちの目には不思議であり、驚きであり、奇跡であるのは当たり前です。
聖書は、その働きは、イエスの御霊、神の知恵の働きだと言っているのです。
その中で、アブラハムから約2000年にわたるイスラエル民族を用いてのイエスの十字架と復活と聖霊降臨に至るまでの神の働きは全人類の救済の働きだと思うのです。
イスラエル民族は、その神の働きを神の知恵としてしっかりと受け止めて、旧約聖書の中で知恵文学(ヨブ記、箴言、伝道者の書、詩篇の一部)として発展させています。
聖書によれば、この世は神が自然法則を用いて支配されています。
そして、奇跡も神の御業ととらえています。
イエスも、父なる神の力を持って奇跡(業)を起こされています。
旧約聖書は約1000年以上をかけて作られ、その著者は多数に上ります。
各書の著者は、時代が違い場所が違いお互いに連絡を取り合えることもできないのに内容は一つのことを指しているのです。
そうイエスの十字架と復活を指しているのです。
もし、旧約聖書の著者をあえて一人上げるならば、何千年と言う時代を超えて見渡せる神しかおられないと言えます。
そして、絶対的に言えることは、その流れの終着点であるイエスの十字架と復活と聖霊降臨がなければ、いまのキリスト教は存在しないと言うことです。
キリスト教が存在しなければ、この近代社会、すなわち、欧米文化は存在しないということです。
だから、この三つの出来事はイエス・キリストを信じる者が起こされている限り事実だといえます。
それに、イエスを信じた、あるいは信じている民が(もちろん、イエスの言われた言葉も、なされた出来事もすべて)世界人口の三分の一以上いるのです。この2000年間に命をかけてキリストの福音を信じて死んでいった人も大勢いるのです。
復活のイエスに会ったと言う方もおられます。
マザーテレサは走る列車の中で復活のキリストの声を聞いたのです。
その声は、「マザー、人生の落後者の中に入って神に仕えることを通して神を発見せよ。」です。
その後、その声に一度の疑いも持たずに生涯をキリストにささげられたのです。もちろん、マザーの生涯には、キリストが共におられ支えておられたのは明らかです。
その人たちは、少なくともイエスを神と信じて洗礼を受けたのです。
この現実は、聖書に記載されていることが荒唐無稽と笑って無視できるほど簡単なことではありません。
あなたは、その何十億と言う民の信仰はたわごとで、無意味なことを信じた愚か者と言い切れるでしょうか。
そういう事実があるから、聖書の言葉が今でも現実に働いているといえるのです。もし、それらがすべてたわごとだというならば、この世界の何が真実なのでしょうか。
イエスの霊は、旧約聖書の真の著者である神の霊と同じです。
イエスは「聖書(旧約)は実現しなければならない/必ず実現する。」と言われました。
また、その旧約聖書に書かれた預言通り行動され、その通りに実現しました。そして、奇跡(業)を見せて、ヨハネの福音書第10章37節「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。」、同38節「しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と言われたのです。
イエスは、奇跡は(業は)神から来るものだから、その奇跡(業)を行うわたしの言っていることを信じなさいと言っておられるのです。
だから、奇跡(業)が作り話ならば、イエスの言葉も嘘になります。そうであれば、キリスト教は成り立ちません。
イエスが復活される前は、弟子たちは互いに「この人はいったい、だれだろう?」と言い合っていました。
彼らはイエスを通じて行なわれる出来事を見て恐れました。
弟子たちはイエスといつも一緒にいるのに、「まだ信仰がないのか?」とイエスに叱られました。
それは、イエスと共に働いている神の霊、聖霊を見ること、イエスの真実の姿を見通すことができなかったのです。
イエスの内に働く聖霊の働きが、弟子たちを始め人間に認知されるのは十字架と復活以後のことになります。
聖霊の働きが弟子達に認知されたから、新約聖書が出来上がり、キリスト教が成立し広まったのです。
キリスト教は言葉の宗教であり聖霊の宗教です。神の言葉は実現すると言う信仰を持っています。
だから、問題は聖書の御言葉が現実に今もなお働いているのかと言うことがカギとなります。聖書の言葉が今でも現実に働いているのならば、聖書(旧約も新約も)は真実神の言葉だと言うことになります。
でもね、事の真偽は、学問的には否定もできなければ、肯定もできないと思うのです。それらの出来事が日常の常識に反しているからという理由だけで否定はできないのです。
なぜなら、現在でも現実にわたしたちの常識に反する出来事がいくらでも起こっているからです。
イエスは言いまいた。ヨハネの福音書第14章6節「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
この聖句を読むと、キリスト教とはイエス自身のことであると言えます。
このようなことは、ほかのどのような既成宗教にも見られないと思います。
まねもできません。他の宗教は儀式や教義に基づいていますが、キリスト教は永遠にわれわれと共にいる生きるキリスト御自身に基づいているのです。これこそ、まことの奇跡と言えないでしょうか。
イエスは、自分で書いたものを一切残されませんでした。
それは、イエスの御霊がわたしたちと共に、わたしたちの内にいてわたしたちを通して働き続けられるからと言えます。
イエスは、言われました。
マタイの福音書第28章20節「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」・・このようなことを言えるのは、神のみです。
最後に、ほかの宗教にも奇跡がありますが、キリスト教と違うところは、ほかの宗教は信仰があって奇跡があるのです。
キリスト教は復活も含めて奇跡があって信仰があるということです。
したがって、ほかの宗教は奇跡が無くても成り立ちますが、キリスト教は奇跡がなければ成り立ちません。
<続・奇跡について>
長くなりますが奇跡について、もう少し書きます。
それでは、イエスが生前盛んになされた奇跡はどのような仕組みになっているのでしょうか。
イエスが行う数々の奇跡は、聖書の論理では、それはイエスの父なる神への信仰によってなされたと思います。
イエスと神は聖霊によってその意識が一体の時、イエスが発する言葉により奇跡が行われたといえます。
その力は、父なる神から来ている。
前にも書きましたが、言葉には発する人の思いがこもっていますから、思いは力と言う意味で、神の言葉が奇跡を起こす力となるのだと思います。
イエスはよく祈って神との意識の一体化に努めておられました(ルカの福音書第6章12節他)。
つまり、奇跡とは、その祈りがもたらす信仰状態、聖霊の働きを通じて、全能の父なる神の力がその人に現れたもの、ということができるかと思います。
そのことを示している次の聖句があります。
「はっきり言っておく。子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父のなさることは何でもその通りにする。」(ヨハネの福音書第5章19節。)
「わたしを信じなくても、その業(奇跡)を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(ヨハネの福音書第10章34節)。
父は神のことですから「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」と言うことはイエスと神は一体だと言っていると思います。
逆にいえば、一体のときに奇跡が行われるのです。
何を持って一体かと言いますと、もちろん、み言葉に力があるのですから、み言葉、つまり神の言葉を共有することで一体となると言うことだと思います。イエスはその神の言葉であり、イエスは神の人間に対する意志だと言うことだと思います。
マルコの福音書第16章17節に「信じる者には次のしるしが伴う。・・・病人に手を置けば治る。」というイエスの弟子たちに対する約束の言葉があります。イエスを信じたら病気を癒すような奇跡も行えますと言っておられます。
イエスと神は一体だからイエスとイエスを信じる者が一体ならばイエスを信じる者も奇跡を行えるということでしょうか。
こうしてみると、癒しの奇跡ができるのは、イエスの約束の言葉を受け入れて、聖霊がその人に内住し、完全にその人を支配し、神との意識の一体化ができている状態のときといえるのではないでしょうか。
もちろん、この場合も、み言葉つまり神の言葉を共有することで一体となるということです。
詳しく書けば、み言葉は聖書の言葉{言い換えればイエス・キリストそのもののこと}ですから、聖書を読むと、読む者に聖霊が働かれて、み言葉の真理をその人に示し、読む者に働き、神と聖書を読む者は一体となるのです。
これはキリスト教の神秘です。
そんな馬鹿な、と言う方もおられるでしょうがこれは事実であるとわたしは思っています。
現在でも世界を見渡せば、キリスト者によりこのような病気のイエスのみ名による癒しの奇跡が現実に行われていると聞きます。
奇跡についてではないのですが、祈りについて次のようなみ言葉があります。
ヨハネの福音書第15章7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
言葉は、言葉を発する人の思いが込められています。
イエスの言葉が内に留まるというのは、その言葉の含むところのイエスの思いがその人に中に留まっている、ということになる。
そうすると、その人はイエスの意識でもって言動するようになる。
そうなったら、その人の望むものは何でも祈り求めたら与えられる、ということになる。
この聖句によれば、クリスチャンであれば誰でも祈り求めれば叶えられることになりますが、現実は、祈り求めても叶えられないことが多い。
その理由は、おそらく自己中心的な願いをしているか、イエスの言葉が十分にその人のうちに留まっていないか、願いをかなえる時ではないということになります。
つまり、御心に叶わない祈りは聞かれないということでしょう。
このような聖句もあります。
マルコの福音書第11章24節「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」
祈って御心に合っていれば既にかなえられたと信じなさい。ということは、神が決められたことは必ず成るということです。
ただ、時期が書いていないので祈りをかなえるにしても神の時があるのでしょう。
マルコの福音書第6章5節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」
マタイの福音書 第13章58節「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」
コリントの信徒への手紙一 第12章10節「ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」
これらの聖句を読むと、イエスでも奇跡を行えない場合があるのですが、それはマタイの福音書 第13章58節によれば、信仰のないところに奇跡は行えないと言うことです。
そうですね、神を信じていない人がいくら祈っても一方通行で御言葉を神と共有できていませんから、神の力と言いますか御言葉の力がその人に働かないと思いますので、奇跡は行われないのは当たり前ですね。
もちろん、祈りも聞かれないのは当たり前ですね。
また、コリントの信徒への手紙一 第12章10節によると、イエスを信じる人においても、奇跡を行える人と行えない人がある。
それは奇跡と言うものは信仰者個人に与えられた賜物だと言うことです。
だから、クリスチャンが祈って祈りが聞かれなくても、奇跡を行えなくても落胆する必要はないということです。少しは慰めになるかも知れません。
最後にC.Sルイスの奇跡についての言葉を紹介します。
「実際、奇跡を経験する為の条件は、ふたつあります。まず、われわれは、自然の正常な安定性を信じなくてはなりません。
つまり、感覚から与えられるデーターは規則的な形にしたがって繰り返される、という認識が必要なのです。
第二に、われわれは、自然を超えたところに何かが実在すると、信じなくてはなりません。その両方がそろったとき、初めて、・・・・。そのような超自然の実在に対する信仰は、経験によっては、正しいとも、誤っているとも証明することはできません。」
わたしたちには、経験において知識を得ます。
だから、超自然の出来事に対する知識はないと言えます。
したがって、自然を超えた存在(神)を信じなくては、つまり神を信じない無神論者には奇跡を経験できないということでしょう。
神を信じる者がこの出来事は奇跡だと言ったとしたら、それが本当に奇跡かどうかは経験では証明できないと言うことだと思います。
奇跡は、超自然現象は神がなさることです。
第八章.旧約聖書と新約聖書の関係
新約の神と旧約の神との違い、および、両書の関係の問題を考えてみたいと思います。
その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。
「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネの福音書第5章39節)
イエスは、旧約聖書という書物には、わたしのことが書いてあるといっているのです。
ところがこの旧約聖書にはイエスという名前はどこにも見あたりません。イエスのイの字もでてこないのです。
それでも、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で、たとえば比喩で現しているということになると思うのです。
だから、旧約聖書はそういう風に読む必要ではないかと思うのです。
新約聖書にはイエスのことが書いてあり、旧約聖書はそのイエスを証言している。となると、イエス以降の新しい時代を生きるクリスチャンにとっては、両聖書は一体的に扱うにしても、第一に新約聖書でその内容の信ぴょう性を補完するものとして旧約聖書があると考えるべきだと思うのです。
こうして考えると、両者間で矛盾することがあっても、旧約は新約の影絵と考えて、ある聖書学の先生はこのことを、「真理とは霊に関することです。
罪の真理も、霊に関することです。旧約で祝福として示される物的豊かさと健康は、霊の豊かさ、霊の健康をという真の祝福を示唆する影となる。
旧約は物的な富と健康でもって霊の祝福状態を影絵でもって示していることの多い書物である。」と言っておられました。
非常に分かりやすい説明かと思います。
つまり、神が人間を祝福する方法が旧約時代と新約時代は違うと言うことですね。
だからわたしたちが、そのような旧約聖書から学ぼうとすると、その知恵は、物的な富と健康を得るためのものになるのが道理です。
これは現世での処世の知恵と同じだと思います。
だから、現世でのなやみを解決する道しるべとしては、旧約は最適だと言えます。
新約聖書マルコの福音書第10章に「金持ちの男」の話がありますが、まさにこの男は、19節を読むと律法(殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え)を守ってきたと言っていますから、話の内容から推測すると、旧約聖書の時代を生きた男です。
そうすると、17節の「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」という問いかけの真意は、財産を、富をもっとほしいという延長線上で永遠の命を得るにはどうすれば良いのかとイエスに尋ねたと思われます。
イエスの教えは、永遠の命を得るのにはそういうものに頼らずにわたしについてきなさいと言うことですから、180度違います。
だから、イエスは金持ちの男に財産を売り払って貧しい人に施し、わたしについてきなさいと言われたのです。
この「財産を売り払い」と言うのは、現在では聖職者なら別ですが、そのようなことをすれば生活は成り立たないし、なかなか直ちには出来ることではありません。
だから、この「金持ちの男」の話は、何が一番大事かを求められていると思うのです。
それに、イエスは与えられた賜物を活用して経済活動をすることを否定されていませんから、ここは、財産に頼って生きている男にそのお金の使い方を、そして、イエスについていく決意を求められたのだと思います。
その上で、財産の使い道については、イエスの御霊の導きに委ねなさいと言うことだと思います。
男は悲しみながら去って行きました。時代が変わったことを理解できなかったのです。神の恩恵の時代を生きるには,まず、イエスの霊に従う決意が求められるのですね。
新約聖書はどこを読んでも霊のこと、霊の働きが中心です。
癒しとかしるしは神の支配がはじまったことを告げるためになされましたが、ダビデとかサムエルのように財産とか権力を祝福して与えられたところ(祈れば何でも叶えてあげる、とは言われていますが。)はないと思います。間違っていればごめんなさい。
次に罪の問題ですが、原罪と言う言葉は旧約聖書にも新約聖書にも確かなかったと思います。ということは、神学用語と言うことになります。
原罪というのは、源の罪だから、聖句で直接示されている罪とは別に、その源になっている罪、ということですね。
アダムとイブが禁断の知恵の実を神の戒めに逆らって食べたことによって生じたというのが原罪、神からの離反とか的外れと解説されています。
それは新約聖書によって明らかにされたことです。
旧約聖書での罪と言うのは、神がイスラエル民族に守るべき律法として与えた十戒を含むモーセ五書、内容は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記に定められた戒めを守らないことを罪としています。守れば祝福が与えられます。
代表的な聖句が「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記、20章6節)です。
この幾千代にも及ぶ慈しみは物質的恵みだと思います。具体的には肉体の健康と物的な富とか権力でしょう。
つまり、霊的な恵みではありません。霊的な恵みはあくまでも神を求める者個人が信仰によって得られるものだと思います。
預言者を見ればよくわかります。各人一人ひとりが信仰によって勝ち取るものです。
言い換えれば、神の戒めである律法を守るという行いの功績は、幾千代にも及ぶ慈しみですから先祖の功績で自動的に子孫に与えられるものなのですね。
さて、新約聖書の祝福を見てみますと、「悲しむものは幸いです。・・・」(マタイの福音書第5章4節)悲しむのは物的、健康的な祝福がないから悲しむのだとすると、これは旧約においては祝福されていない状態です。
イエスは旧約聖書において祝福されない人が幸いだと言われたのです。それは、価値観が180度変わったと言うことでしょう。
物的、健康的な祝福でない、正反対の祝福とは霊の恵みになると思うのですが、そうすると、物的、健康的恵みに恵まれていれば霊的恵みを得るのには、それが障害になると言うことでしょう。
このようにみると、クリスチャンでもよく健康とか物的な祝福を求めますがちょっと考えさせられます。
物的な恵みはこの世においては確かに必要なことですが、クリスチャンにとって一番大切なのは霊的な恵みを求めることになると思うのです。
いいかえると、イエスは、物的・健康の恵みは影の恵みで本物の恵みは霊の恵みだと言われていると思うのです。
原罪があり、旧約聖書は律法により行いの罪を示し、新約聖書は思いの罪をも含めたイエスの律法(山上の説教)を明らかにしています。
原罪は、行いの罪と思いの罪の源と言えますが、イエスは、更に新しい霊に生きる者の律法を示されたと思うのです。
内容は、人間の努力ではとても成就できないことばかりです。
イエスは、当時のユダヤ人に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消えることはない。」(マタイの福音書第5章17節)と言われています。
ということは、律法(行いの罪を罰するのは)はこの世においては必要なことであるが、天の国では不完全なものだということになります。
そうですね、天の国では思いの罪を含めた一段上のイエスの律法が求められると言うことだと思います。
新しいイエスの律法が成就すると、当然旧約の律法も成就することになる。
両方の律法に共通するのは隣人を自分のように愛する愛です。それが完成するということ。これで理屈は通ります。
要するに、従来ユダヤ人たちは、罪と言えば「行いの罪」だと学んできたということです。
そういうユダヤ人たちに、イエスは新しく思いの罪を含めた一段上のイエスの律法を語られたのです。
そして、それを完成させる働きをするのが聖霊の働きだとわたしは思うのです。
神はイスラエル民族を選んで、イスラエル民族を通して全人類を罪の中から救い上げようとなされたが、その選んだイスラエル民族が神の思いから外れてしまったので(その象徴的な出来事がイエスの十字架)、今度はイエスの言葉を信じるクリスチャン、その集まりである教会を通して全人類を罪の中から救い上げ天の国に引き寄せようとされていると思います。
そのためには律法の完成した姿、イエスの律法としての「山上の説教」が成就した姿が求められるのですね。その姿が、本来人間があるべき姿なのだと思います。
旧約聖書はイエスが来られるまでの時代。新約聖書はイエスが来られてから以降の時代。だから、今生きる者は新約聖書を一番に考えるべきだと思います。
新約聖書の神はすべての民族に神の支配が来たことを伝えようとされています。
その神の語りを受け取らないで拒否する人々、受け取るが語り手が誰だかわからないで受け取っている人々、曲解して受け取っている人々など色々おられるから、いろいろな宗教が生まれたり霊能力者が生まれたりするのだとわたしは思っています。
もちろん、中には悪霊の働きを神の働きと間違って信じておられる宗教もあると思います。
それでも、神の支配はすべての人々に及び、神はすべての人々を差別なく愛されています。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書第5章45節)
旧約聖書のイスラエルの信仰の父アブラハムは、イスラエル民族の信仰の父であるだけでなく、われわれクリスチャンの信仰の父でもあるわけです。パウロは言っています。
ローマの信徒への手紙第4章11節「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。
こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」
こういうわけで、アブラハムは、われわれ異邦人(ユダヤ人以外)の信仰の父でもあるわけです。
われわれ現在を生きるクリスチャンは、神の思いから外れてしまった2000年前のイスラエル民族と同じ罪を重ねることにならないように祈るばかりです。
最後に、わたしの旧約聖書のとらえ方ですが、創世記は神話(とくに前半は)だと思いますが、その意味するところは深く、旧約聖書と新約聖書を貫く思想が描かれています。
先にも書きましたが、創世記で原罪が明らかにされ、旧約聖書は律法により行いの罪を明らかにし、新約聖書は思いの罪をも含めたイエスの律法(山上の説教)を明らかにしています。
預言書は新約聖書を解釈するときに参考にして、ほかの文書、つまり、イスラエルの歴史書(史実に基づいた物語として見ています)とか随筆とか詩篇は、信仰を持って生きる生き方を学ぶための参考にしています。
新約聖書は福音書と使徒言行録を重視しています。
手紙類とか黙示録は福音書を理解するために読んでいます。
そして、黙示録は聖書全般が指し示している「人類の誕生から堕落、救罪から新生」に至る最後の章としてとらえています。
第九章.聖書が伝える「真理」とは
<聖書でいう真理>
聖書には、真理という言葉がよく出てきます。
重要な言葉なのですが、通常使っている意味での真理ではないように思いましたので、ちょっと調べてみました。
調べている内に、良心とか理性についても関係しているので書いておきます。
できるだけ分かりやすくと考えて、自分が理解できた範囲で書きました。
聖書で言う真理は、わたしたちが普段に言う科学的な意味での真理と必ずしも同じではないことがわかりました。
真理を辞書で引くと、「誠の道理」とか「物事のありのままの姿」と書いてありますが、そういう意味での真理ではないのです。
聖書でいう真理は、うそ偽りがない、信頼できる、変わらない、頼りがいがある、裏切らない、という意味に近いと思います。
この世には変わらないものなど一つもありませんから、それらをすべて満足させるものはこの世にはありません。
聖書では、変わらないものは、唯一天地万物の創造主である神のみであるということです。
イエスは神の子ですから、イエスの言葉(聖書の言葉)は真理だということです
ヨハネによる福音書第14章第10節のイエスの言葉「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」です。
このような真理は、相互の信頼関係、神(イエス)と人間との信頼関係によって成り立つと思いますから、真理を知るためには、イエスを信頼しょうと決心し、イエスが言われたことを、行われたことを理解し、共に歩むという方法で真理を知るということになるのでしょうか。
イエスに関する知識を積み重ねて知るのも否定はしませんが、信頼は、イエスを信頼しょうと決心して、その人と「共に歩む」ことによって初めて体得できるのではないでしょうか。
毎日の歩みの中で、聖書の言葉に生きる心構えこそ、イエスの言葉である聖書が真理であることを知る上で大切だと思うのです。
しかし、こういう真理の捉え方は、あくまでその人個人の歩みの中で実証され、証しされていくものですから、他者にはなかなか分かりづらいものがあります。
そういうことで、「信仰の歩み」とは、神のみ前にするものであって、人に見せるためではないというのは、このことを指していると思います。
神の前に歩むことが真理であっても、必ずしも人々に受け入れられるとはかぎりません。
過去の信仰者の歴史を見てみますと、むしろそうでない場合の方が多いと思います。旧約聖書の預言者もほとんど壮絶な最期を遂げています。
<良心>
自分が正しいと信じるところの良心は、生まれつき人間に備わったものであり、教育を受けて会得するものではないと思います。
その限りにおいて万人に共通するもので、神から与えられた人間の内面を律する規範だと思います。
つまり、神の創造の秩序を保ち継承していくために必要な手段だということになります。
結婚とか労働とか人間一人一人が持っている賜物と同じようにです。
ただし、聖書においては、この良心に神の霊、聖霊の働きが加わることによって、良心が、人間同士の変わりやすい価値基準に振り回されるのではなく、普遍性を帯びると思うのです。
そして、当人がそのことに気がついていようが、いまいがその良心が最後の審判では、神のイエスを知らない人々に対する、行いによる裁きのための律法になると思うのです。
そのような神の御霊に支配された良心は、人間社会で通用する正義の概念とは必ずしも一致しないと思います。
そのような良心は、人間社会の目先の正しさよりもはるか未来を、来世をも見通す高い次元の、神の価値基準に支えられていると思うからです。
このように、普遍なる神の御霊、聖霊が支配する、聖書的な良心に支えられることにより、その人の個性は普遍性を持ち、人間社会の価値基準に縛られず、自由を獲得します。
つまり、良心の呵責にさいなまれることが無くなるわけです。
聖書の言葉は、この意味において「良心の自由」を裏付けるものだと思います。
逆に、この聖書の言葉によらない、聖霊が働かない「良心」は、ゆがめられて、人間同士の取引の材料にされてしまい、その場限りの利害を代弁するものにすぎなくなり、その自由を真の意味で発揮することができなくなると思います。
良心の自由が発揮できないところでは、理性に基づく科学的な真理も育たないと思います。
理性は物事を正しく判断する能力ですから、それ自体では必ずしも真理を生み出しません。
それを生み出すのは、理性を真理に向かわせる人間の良心(良心は神の意志です)だということです。
つまり、神の介入が必要だということです。
ある事がほんとうに真理であるかどうかは、その人個人の霊的な良心によって認知されることが必要なのです。。
ここで霊的なというのは、イエスの言葉を信じる者の、つまり、聖霊が働く場において、その人が潜在意識において本当に納得しているという意味だと思います。神の意志は、潜在意識において表されるからです。
自分が良心にそっていると思っても、自己の潜在意識を見つめてみると意識の深いところでこだわりとか疑問をもっていることがよくありますからね。
つまり、聖霊、神の言葉に立たない良心は、意味のない不安とか目先の利害にゆがめられて表に出てくることがあるということです。
宗教的な意味で「真理を知る」というのは、神が真実であることを信じて歩むとことだと思いますが、その場合、神の真実をどのようにして知ったかというは大切だと思います。
第十章.旧約聖書
<旧約聖書の編纂>
口伝伝承が編集され文字化され、まとまりのあるものが最初に成立したのは前5世紀から前4世紀頃とされています。
その時代のユダヤ民族は、ペルシアの支配下にあった時期です。
バビロン捕囚からの帰還がおわり、第二神殿の再建も終わった頃でしょうか。
民族としてのアイデンテイテイが求められた時であったと思います。
ユダヤ教が民族宗教として成立したと言えるのは、紀元前13年の「出エジプト」の出来事の時でしょうから、それから聖書の最初の部分が生じるまで、800年から900年の時間を経ています。
<旧約聖書の成立過程>
旧約聖書の中で、最初に文字化され編纂されたのは「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五つの文書からなる、いわゆる「(モーセ)五書」でしょう。
これに預言書・諸書が加わって、タナハと言われるようになりました。
新約聖書で、イエス様が使っていた聖書は、このタナハと言われるものでしょう。
これらは聖書が文字で編纂される紀元前5世紀から4世紀ごろまで口伝で伝承されていたのでしょう。
なお、ここで注意が必要なのは、出来事とか掟が伝承されるのは、伝承された内容をそのまま伝承するのではなく、伝承する人が受け継いだ伝承にその人の新たな体験を加えて解釈し語り継いだと思うのです。
ですから、伝承の初めになかったことが、聖書編纂時の伝承に加わっていることも、また、修正されたこともあると思うのです。
それは伝承が体験と結びつくことで生じるのですが、伝承が体験と結びつかなければ、単なる言葉のままで終わるし、逆に体験が伝承に結びつくことがなければ、体験の意義を深めるというか、聖書の言葉が生きて受け入れられることはないと思うのです。
それにその時代の人々は、おそらく考古学も年代測定法もなく、学問的な研究もなされていなかったでしょうから、今起こっている事も千年前の事も同じ感覚で伝承を受け取っていたと思うのです。
千年前と現在と時代区分を自覚して伝承を解釈していたとは思いません。
このことは、わたしも聖書を読んでいて実感するところです。
聖書は、初めの頃はヘブライ語で書かれましたが、聖書の編纂が始まる前5世紀から前4世紀頃には、ヘブライ語は一部の知識人だけが使っていて、一般のユダヤ人はヘブライ語ではなく、アラム語を使っていたそうです。
丁度、ヘレニズム文化(アレキサンダー大王以降のギリシア文化、前4世紀後半以降)が支配的だった2世紀初めの時代です。
そして、ヘレニズム文化の一大中心地だったエジプトのアレキサンドリアで、ヘブライ語聖書のギリシア語訳が作られます。いわゆる、「七十人訳聖書」(「セプトゥアギンタ」)です。
ところが、最初からギリシア語で書かれた文書がギリシア語聖書の一部として「七十人訳聖書」には含まれることになって、聖書にどの文書が含まれるかという点で、異なった立場の聖書が併存することになりました。
この状態は後1世紀末に、終止符が打たれることになります。
「ヤムニア会議」と呼ばれるユダヤ教の知識人の集団があって、そこで「聖書はヘブライ語で書かれた三十九の文書で構成される」ということが決定され、この決定が定着します。
ユダヤ教では、この立場が、現在でも守られて、この決定以降は、「ユダヤ教の聖書は三十九の文書からなっている」ということになります。
キリスト教は、「ユダヤ教の聖書」を「旧約聖書」として受け継ぎました。
しかしキリスト教が受け継いだのは、ヤムニア会議以降の「三十九の文書からなるユダヤ教の聖書」ではなく、ヤムニア会議以前の状態の「ユダヤ教の聖書」でした。
結果として、キリスト教がユダヤ教から受け継いだ「ユダヤ教の聖書」は、この「七十人訳聖書」であるということになります。
つまりキリスト教の「旧約聖書」は、「七十人訳聖書」系統の「ユダヤ教の聖書」が支配的で、それは、「三十九の文書」以外の、最初からギリシア語で書かれた文書を含むものでした。
現代では、1.旧約聖書は三十九の文書からなる。2.旧約聖書の元の言語はヘブライ語である。というのが、キリスト教の聖書についての通念だと思います。
<旧約聖書のユダヤ教での聖典化>
旧約聖書の編集が始まったのは、前5世紀から前4世紀頃とされていますが、紀元70年のユダヤ戦争敗戦後にユダヤ教は再編され、1世紀の終わりごろのヤムニア会談で正典が確認されたと言うことです。
そして、ヘブライ語で書かれた本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書です。
<旧約聖書のキリスト教での聖典化>
紀元前5・4世紀に編纂されたタナハと言われた旧約聖書(律法・預言書・諸書)は、紀元前250年頃からギリシア語に翻訳され(七十人訳聖書)ました。
パウロを含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳です。
キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきました。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なるそうです。
東方教会も西方教会も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典とみなしてきました。
西方教会では、正教会が正典とみなす文書の一部を外典としました。
<旧約聖書と新約聖書>
最初にヘブライへの手紙1章1節と2節を書いておきます。
1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、」
この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」
2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
「かつて預言者たちによって」の「かつて」は、旧約聖書の時代を指します。それに対比して「この終わりの時代」は、イエスの十字架死以降の時代を指します。
さて、「この終わりの時代」は、「この日々の終わりに」とも訳されていますが、それは、「かつて」と対比して、人間が生きる日々がイエスの到来によってその姿を一新させたからと言えます。
しかしどちらも神が語った(旧約時代は預言者によって、新約時代はイエスと聖霊によって)と言う視点では同じですから、両時代の間に違いはなく、旧約聖書(古い契約)と新約聖書(新しい契約)は本質的に同じと言えます。
なお、キリストは旧約聖書(律法・預言書・諸書、いわゆるタナハ)を指して、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)、と述べられています。
<新約の神と旧約の神との違いと関係>
新約の神と旧約の神との違い、および、両者の関係の問題を考えてみたいと思います。
その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。
「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネの福音書第5章39節)
イエスは、旧約聖書という書物には、わたしのことが書いてあるといっているのです。
ところがこの書物にはイエスという名前はどこにも見あたりません。イエスのイの字もでてこないのです。
それでも、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で、たとえば比喩で現しているということになると思うのです。
だから、旧約聖書はそういう風に読む必要があるのではないかと思うのです。
新約聖書にはイエスのことが書いてあり、旧約聖書はそのイエスを証言しているといえます。
<神と人との契約>
契約には、双務契約と片務契約があります。この神と人との契約は、片務契約に近いものでしょう。神が一方的に人に対して約束しているからです。
先ほど、旧約聖書(古い契約)と新約聖書(新しい契約)と書きましたが、古い契約に該当するのは、神とアブラハムの間で交わされた契約、シナイ山で神のモーセとの間で交わされたシナイ契約でしょう。
古い契約は、神様のイスラエル民族に対する愛と思い(全人類を救済するために用いられた)が、新しい契約は、キリストの十字架と復活による全人類救済の御業です。
なお、神は旧約聖書では、十戒を代表とするモーセ律法を定め守るように行いを求め、新約聖書では第一に神を愛する信仰を求め、第二に隣人を自分のように愛する行いを求めています。
- ヘブライ人の手紙1章1節と2節
1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
「かつて」(旧約聖書「預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで語られた。」。
「この終わりの時代に」(新約聖書)、「御子によってわたしたちに語られました。」(キリストの十字架死と復活)
とある通りです。
<宗教>
キリスト教は、奇跡なくして成り立ちません。もし、聖書に書かれた奇跡が作文ならば、キリスト教は崩壊します。
しかし、奇跡といいますと、キリスト教は聖書が主張する奇跡がありますが、この約2000年の欧米の歴史は、キリスト教があっての歴史といえます。
それはまさに人類の歴史上の奇跡といえます。この奇跡は歴史上の厳然たる事実ですから誰が否定しえるでしょう。
そう、キリスト教会活動とかキリスト教を信じる個人信徒の言動も含めてです。
もちろん、人間のやることですから、間違っているものも正しいものも全部込みです。
世界の宗教は、キリスト教以外はみな自然宗教か、反自然宗教かのどちらかだと思います。
ヒンズー教などは反自然宗教に属するのではということです。
神道には、経典はないし、仏教は哲学ともいわれていますが、日本人は自然に神様が宿ると信じ、あがめるところがありますから、どちらかといえば、自然宗教なのでしょう。
しかし、キリスト教はそのどちらにも属しません。
堕罪の教義は、キリスト教以外の宗教にも、贖罪の儀式があるのを見れば、みられるのではないかと思います。
しかし、創造の教義はキリスト教以外には、見られないと思うのです。
私が聖書に惹かれるのも、そこにあります。
日本のように多神教の世界では、神々は、通常、既存の宇宙の産物です。
つまり、山とか海など自然の存在を、畏怖をもってあがめます。いわゆる、自然崇拝です。
神道のように人間を神としてあがめている場合もあります。
だから、そのような神々は、決して宇宙を、人間を作ったりしません。
2000年前に天地万物の創造主の御子がこの地上世界に降りてこられて、奇跡を見せ、御子自身が復活という奇跡を見せご自分が神の子であることを証し、この世界は神の御計画のもとに作られ、運営されている。
そして、わたしたちはどこからきてどこへ行くのか、どのように生きるのかを教えられ、神の言葉といわれる聖書を残し、目には見えない聖霊が今もわたしたちのために働かれていることを教え、聖書を残されました。
もし、このことが事実ならば、キリスト教は宗教というより、この世界の真理といたほうが良いかもしれません。
- 創世記/ 01章 01節
「初めに、神は天地を創造された。」のです。
そのいきさつを明確に示すのは、聖書のみです。
<預言書を読んで>
預言者自身が神から啓示されて語っている言葉は、預言者自身がすべて理解しているとは限らないと思うのです。
預言者は、神が啓示された言葉をそのまま訳が分からなくても、あるいは信仰により、そのようになると信じて語っているのです。
その多くは封印されたままで語っているというのが旧約の預言だと思います。
もちろん、それは神がそのようにされているからです。
それに、神は時間の中におられない方ですから、神の啓示は、わたしたちにとって1000年後の出来事も今の出来事も今起こっていることなのでしょう。
そして、そのことがこの地上では、時間を経るにしたがって、少しずつ啓示(預言)として明らかにされるのでしょう。
と言うことは、旧約聖書の時代より今日の私たちの方が、彼ら以上に、預言の封印が解かれていますので、その預言の意味を悟ることができると言えます。
そう、終わりの日も今もわたしたちにとっては時間の流れの中にあるのですが、神にとっては同じ時なのです。
聖書を読むと、神の言葉は、次の3つの場合で成り立っているようです。
①命令の言葉・・奇跡は命令の言葉で為されています。言葉をかけられた被造物は、即座にその言葉通りになります。
②約束の言葉・・一定の時間の後に、現実の展開が一致するようにと投げかけられた言葉。
つまり、預言です。
③条件付約束の言葉・・創世記12章3節の「あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。」他。
旧約聖書では、特に残りの者の預言を含め、イスラエルの民の預言は、預言された時代から、最後は一気にヨハネの黙示録にまで話が飛んでいますが、それは聖書が時間を越えてつながっているからといえるのでしょう。(実際は、その間にキリストの時代(教会時代)があるのですが・・。)
預言は、終わりの日の視点から語られていますので、その視点を踏まえて聖書を読む必要があるのでしょう。
それは、預言は天地万物を創造された創造主である主の目から見た言葉ですから、預言の出来事は人間にとっては時間の流れの中の出来事ですが、主にとってはそれらの出来事は今だからと言えるのでしょう。
神のご計画は終わりの日を見据えて今を語っておられると思うのです。
それは、人類の最初から終わりまでを神はご計画をもって運営されているのですから、当たり前だと思うのです。
そういう意味で、わたしたち人類の最後も、どのようになるかは既に決まっていると言えます。
第十一章.聖書は不完全か
聖書には、不明瞭なところがあります。
誰でもが聖書を読み始めて感じることです。
他の箇所とつじつまの合わないようなところもあります。
なぜそれが神の言葉か。人間が霊感を受けて書いたのなら、もっと正確であっても良いのではないか。
でも、よく考えると、霊感を受けて書いたというのは、神様が手とり足とり、人間の手を強制的に動かして、あるいは神が人間の言葉で話してそれを書き写したとかで一字一句神の意図することを正確に書いたのではなく、霊感を受けて人間が、そう、人間が書いたのですね。
霊感を受け取った人間が不完全だから、たとえ発信されたメッセージが完全であっても、不完全なものができあがる、と思いませんか。
書く人間の信仰状態とか文書の表現能力とかそのときの時代背景の影響を受けると思いませんか。
どうしても著者個人の思いが入るのは避けられないと思うのです。
そういうことを踏まえたうえで、このように言えないでしょか。
新約聖書に書かれたイエスの地上の出来事と働きは、それを目撃し体験した弟子たちによって語り伝えられましたが、その語りは、第三者として、客観的に見た事実を冷静に証言すると言うものではなく、生前のイエスの働きと教えから受けた強烈な衝撃と、その後の迫害をも恐れない弟子たちの生き方を見ると、想像を絶する、人生を根底から揺さぶられるほどの衝撃、それはおそらくイエスの復活と聖霊降臨の体験だと思いますが、その驚くべき体験から来る熱い告白の言葉、イエスを信じる心から発する信仰の言葉と言えるではないでしょうか。
もちろん、そこには復活の御霊の弟子たちへの活発な働きかけ、語りかけがある。
だから、弟子たちによって、生前のイエスが行ったと同じような、イエスの御名による奇跡とか癒しの御業が活発に行われたと思うのです。
弟子たちは、自分たちの驚くべき体験を知らせたくて仕方がない、語らざるを得ない気持ちを言葉で表現したといえるでしょう。
そのためには、旧約聖書の預言、生前のイエスの言葉とか行い、自分たちの信仰体験などすべてを屈指して書かれたと思います。
書かれたものは、いろいろ解釈が生まれるのは避けられません。
言葉は、人間の言語で、意志の伝達方法としては完全ではありません。
何か、時間を超えて直接意志を伝える方法があればよいのですが、今の人間にはそのような能力は与えられていません。
ましてや、読者である人間も不完全です。
二人が同じ文書を読んでもまったく違う意味に受け取っているということなど日常茶飯事です。
文字を持って完璧に神の心を人間に、いや人間の心でも他人に伝えるのは本来無理な話だと思います。
思いを文字で表現すれば、いろいろと解釈が生まれます。
だから聖書を読む者は、その不完全な聖句を手がかりにして、神がわれわれに伝えようとした真実を探求する、という仕事が残されることになる。
聖書で、神の思いを間違いなく完全に伝えることができれば、これほど聖書解釈に異論が出るはずもないし、いや、聖書がそのようなものならば信仰(信じること)も必要がないと思います。
疑いが全くなくて解釈の余地がないなら信じることよりも守るしか方法がないのですから。
そのように思いませんか。
神様がおられるかどうかなんて考える必要がないのです。
親がいるように当たり前のように神様もおられるのですから。
それに神はこの世の、この宇宙の真理のすべてを明かしてはおられません。
隠されているところが大きいと思います。
人間という受信機が、人間の言葉が少々不完全であっても、それも織り込み済みで、言わんとすることの真理が伝わればよい、その真理の理解は聖霊が補ってくださる、とわたしは思っています。
逆にいえば、聖書の言葉が不完全だから聖霊の働く余地がある。
だから、誰にでも読む者に神の御心を正確に伝えることができるという意味で完全なのです。
非常に柔軟性に富んでいる、聖書の言葉が生きているということです。
聖書を読むときは、そこに真理があるだろうと信じて、信頼して読むことが大切かと思います。
疑って読むときっと分からないといいますか、読み続けられないと思うのです。
わたしは聖書を読んでいて、疑問はいくらでも浮かびます。
でも、否定をしたことがありません。
わたしの聖書の読み方は、疑問が浮かべばどこに真理があるのだろうと考える、確認作業なのです。真理探究作業なのです。
もうひとつ言えることは、ある聖句の正解は、一つではないという言うことです。
正解はいくらでもあるのです。
なぜかといいますと、神は読む者一人ひとりに答えられるからです。
読む者はその者が生きている時代とか場所とか生活環境とか教育などは一人ひとり違います。
違うから受け取り方も違って当たり前だと考えます。
出発点では信頼を持って聖書を探求していく。調べていくことによって知識が増え、それが信頼をさらに深めていく。
信仰というのはそういうものであるとわたしは思っています。
信仰は、神がかりといいますか、トランス状態になってわけのわからない言葉を発するのが信仰ではないと思います。
若年の時から洗脳されて信じる、わけも分からずただ信じるような盲信でもないと思います。
信仰はこの世だけのものですけれども、信仰の完成は、人生のすべてをかけて、聖霊の導きの中に求めるものだと思います。
聖書は不完全か、という題をつけましたが、神の言葉は真理でも、受け取る人間が不完全でまた媒体となる言葉も不完全なら神の言葉を正確には伝わらない。
しかし、聖書には、完全に真理だといえるものはなにもない、ということにはならないと思うのです。
不完全な人間である預言者や使徒たちに啓示されたもの、神の言葉が完全な真理だと「信頼」することは、出来ると思うのです。
それはまさに先にも書くました聖霊の力です。
聖霊が読む者に働かれるのです。
文字は神の意志を探究するための手がかりにすぎないと考えます。
人間の方が不正確だから神の言葉も不正確、だから聖書なんて嘘っぱちだ、では困るのです。
聖書を読む者はそこに真理があると思い読む必要があると思います。
そうでないと、聖書を読む意味がないと思いますし、聖霊も働けないと思います。聖霊は信じる者の中にしか働けないからです。
たとえば、マタイによる福音書第5章29節の「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」
この聖句を単独で取り上げ、これが真理だとなったらえらいことになります。真理には従わなければならないのですから。
弟子もこの言葉を文字通り実行すべき要求と受け取ったのではないと思います。
もしそうであれば、教会は片目片手のない男で溢れたと思います。
また、片目片手を捨てたからといって、残った目で心の中の姦淫を犯さなくなる保証はない。
当然、この言葉は象徴的に理解されたと思います。
すなわち、心の中での姦淫の罪を犯すのを止めるには、片目を捨てるほどの覚悟がいる。
しかし、覚悟があってもかわいい女の人を見るとみだらな思いを起こすのが人間です。
では、イエスはわたしたち男に出来ないことを求められたのでしょうか。
そうではなく、片目を捨てるほどの覚悟で持ってわたしを信じなさい、ということではないでしょうか。
こうして、本筋を読めば聖書は一つも矛盾していません。
見事に言っているし、ことの筋が通っているのです。
イエスは、思いの罪も罪だと言われました。
それは本来の人間の有るべき姿なのでしょう。
覚悟してわたしを信じ、わたしについてきたらあなたをそのように作り変えてあげると言われていると思います。
このように、イエスのこの言葉は解読が必要ということになります。
解読をするというのは、聖句の文字それ自体を、字面を絶対真理とするのではない、ということです。
イエスは「わたしの言葉は霊であり、また、いのちである」と言われました。
この言葉はまさに、イエスの言葉には神の思いが霊として働いている、ということではないでしょうか。
聖書の言葉は聖霊が働かれる場なのですね。
聖霊が働かれる中で解釈されて初めて完全なのですね。
あ、そうそう、いろいろ理屈をこねましたが、これは私のめったにない経験ですが、最後に聖書を読んでいて読んでいる聖句とは直接関係がない驚くべき解釈が示され、これは真理だ、すごいと思う時があります。
これは聖霊が働かれたのでしょうね。
そのように理屈なんて関係なく示される場合もあります。
第十二章.イエスが生きておられた時代
聖書を読むについて参考になると思いますので、2000年前のイエスがこの世に生きておられた時代のイスラエルの社会状況を垣間見てみたいと思います。
調べましたので、簡単にまとめておきます。
間違っているかもしれませんが、ご容赦ください。
聖書、特に新約聖書を読むに、当時の時代背景を知っておくのは決して無駄ではないと思うのです。
当時のイスラエルの社会(ユダヤ人社会=ユダヤ教を信じる人々の社会)は神権社会でした。
従って、権威ある最高の存在は神でした。
神と神の民の社会です。
その神と神の民の関係は、律法と神殿祭儀により保証されていました。
「律法」には、旧約聖書の最初の五書、いわゆるモーセ律法と口頭伝承によって伝えられているものがありました。
この「口頭伝承」は、ラビと呼ばれる律法の教師が学校とかシナゴーグ等の集会でモーセ律法を繰り返し組織的に解説していましたので、その中から必要により生まれた細則ではないかと思います。
その細則は、モーセ律法に準ずる権威があったそうです。
たとえば、モーセ律法には、安息日を守りなさいと書いてあるから、これを絶対と見なして、日常生活の中で具体的に守ろうとするとなるといろいろと支障が出てきますから、そのために当然日常に合わせていろいろと細かな規則を作ることになるということです。
ところで、モーセ律法の数はどれほどあるかを調べてみましたら、旧約聖書の「モーセ五書」の中に248の命令と365の禁令、合計613の律法があるそうです。
律法もそれだけ数多くあれば、時代の変化に伴い具体的な律法の適用に問題が出てきて、応用というか管理する人も必要となります。
その役目を律法学者が負っていたのでしょう。
個々の場合について専門の律法学者たちが研究し、議論し、到達した成果が、口頭伝承として、師から弟子へと相伝され蓄積され民衆に教えられました。
このように口頭伝承されたモーセ律法の解釈とか具体的適用の細則は「ハラカ(歩み)」と呼ばれました。
もちろん、この細則は先にも書きましたが、人間が時代の変化に合わせて作られるものですから、当然、社会情勢も変わりますから時代を経るに従い、複雑で膨大なものになっていきます。
そのハラカは後に文書化されモーセ五書と同じ権威を持つものとされました。
そうした膨大な数になった口頭伝承を含む律法にイスラエルの人たちは縛られていたのです。
そう、ハラカも含めて律法は神から守るように与えられたものであり、救いは律法を守ることによって得られるとされたのですからユダヤ人は律法を守ることに人生最大の価値を置いていたと思います。」
ある意味、人生を、命を懸けていたと思います。
イエスは、その様な律法の縛りからの解放を宣言されたのです。
イエスはそのためにユダヤ教指導者層に十字架で殺されたのですが、パウロは、律法はイエスによって廃止されたのではなく成就されたと言っています。
聖書の言う「罪人」とは、神との関係が正常な状態にないことを言います。
つまり、神から離反している状態、神に背いている状態です。
律法は、神から与えられた戒めですから、律法を守らないことは、罪に当たるわけです。
この時代のユダヤ社会では、昔モーセが神から授かった規定に違反すれば罪人でありました。
もちろん、細則であるハカラも含みます。
律法の厳守を強調すると、当然、守れない者が出てきてその者を差別するようになります。
貧しい者は生活のために働くことが優先されて、律法を守れない者になります。
この生活のために働くことが優先されてというのは、たとえば、奴隷とか雇われ人は、安息日には何もしてはいけないと言われていても、毎日しなくてはならないこと、たとえば、(雇い主の)家畜に餌や水をやるような仕事はしなければなりません。
雇人の命令ですし、餌や水をやらなければ家畜は死んでしまいますからね。
それに貧しい人は、働かなければ食べてはいけません。
外国人を雇うことができる人は良いが、それができない人は、律法違反になり罪びととして、差別されます。
一般的にお金持ちは(人を雇うことができますので)律法を守れますが、奴隷など貧しい人は守れません。
「神殿」は一つだけイスラエルにあり、神の住む場所とされていました。
「神殿」の主要な活動は、罪の許しを得るために神に犠牲をささげることでした。
大祭司を筆頭とする祭司集団が神殿の活動に携わっていました。
「レビ人」は下級祭司で、神殿の活動の実務的な面を担当していました。その人たちの生活は民の献金によって賄われていました。
こういう神殿祭儀という組織的な面以外に、神はイスラエル社会に介入されることもあると考えられていました。
その介入方法は、主に「預言者」を通して直接民に語りかけられる方法です。
イエスが来られるまではその神の語り掛けである預言も、旧約聖書に記載された最後の預言から400年近く止んでいました。
ローマ支配下で抑圧された人生を送るイスラエルの民のメシア待望(イスラエル民族をローマに支配されている状態から救ってくださる救い主、すなわち、神の介入)には強いものがあったと思います。
ローマの抑圧政治のもとで、信仰には疑義が生まれ、社会は混乱し、人々は希望を失いメシア待望には非常に強いものがあったと思います。
そういう状況にあったからこそイエスのような一介の大工の息子の宣教活動についても、ただちに排除するのではなく、さまざまな吟味がなされたのでしょう。
イエスもその時代に数多く生まれた「預言者」の一人とみられていたのでしょう。
「預言者」と呼ばれる人はこの時代イエス以外にも多くあらわれたと思います。
預言者には俄か預言者とか偽物もあったと思いますが、そういう預言者が出てきては消えていくと言う感じであったのでしょう。
預言の内容は、神はいつかイスラエル社会にメシア「救い主」を送って、イスラエルの民をローマ支配からの解放、すなわち、独立国家の樹立という政治的なことから、まったく新しい世界の創造という宇宙論的・終末的レベルのことまで様々でした。
さて、ユダヤ人社会の階層ですが、上から順番に書くとまず神(律法(聖書と伝承)と神殿によって人間とつながっている。)がおられて、次にユダヤ人当局指導者として、フワリサイ派・サドカイ派・エッセネ派・ゼロテ派・ヘロデ派などがあります。
その下に一般のユダヤ人(群衆とも呼ばれています。)です。
何処の社会もそうですが、さらにその下に被差別者として、罪人とか取税人・病人・悪霊憑きなどが存在しました。
言葉の説明を簡単にしますと、まず「サドカイ派」は、神殿勢力で祭司階級、民の十分の一税の収入で経済的に豊かでした。
「フワリサイ派」は、律法主義者、律法を厳格に守ることが神の前に正しく、救いに与る条件と考えていました。
知識人であるがそのためには経済的余裕が必要なのですが、中流階級であったと言うことです。
仕事としては、シナゴーグの活動を担い、集会や学校において律法をユダヤ人に教えていなした。いわゆる知識階級のエリート集団でした。
「エッセネ派」は、「フワリサイ派」より極端な宗教的エリート集団です。
「フワリサイ派」は町や村でそのほかの民と一緒に暮らしていましたが、彼らはそのほかの民と共に暮らすことを嫌って、荒野にのいて自分たちだけの共同体を作り生活をしていました。
「エッセネ派」は、独自の儀礼を用いていたので、神殿勢力であるサドカイ派と対立していました。
経済的な基盤は、「ヘロデ派」から支援を受けていたのではということです。
そうであれば、宗教に純粋で正しい在り方を求めているのに実際はローマの傀儡である「ヘロデ派」から支援を受けていたということですから、矛盾しています。
「ヘロデ派」は、ローマ帝国の力を背景にユダヤ人社会を支配している勢力です。
そのほか宗教的観点からみた勢力以外の勢力として「ヘロデ派=ヘロデ党」があります。
ヘロデ派は、ヘロデ大王とその子孫を中心とする勢力で、ローマ帝国の力を背景にユダヤ人社会を支配していました。
ヘロデ派は親ローマの代表と言えます。
「ゼロテ=熱心党」とは、フワリサイ派の中の過激派です。
熱心党は、律法を守ることだけで満足しないで、また、民が神以外の権威に屈することは許さなかったので、反ローマの中心勢力となっていました。
行動派で、ユダヤ民族の政治的独立を目指すユダヤ国粋主義者と言えます。
彼らはテロもよしとして、いつも短剣(シカ)を持ち歩いていたので「シカリ派」とも呼ばれていました。
紀元70年のユダヤ戦争は、この「ゼロテ党」の勢力が支配的になった結果と言われています。
「罪人」とは、キリスト教的に言えば、神との関係が然るべき状態にないことを言います。つまり、神から離反している状態ですが、この時代のユダヤ社会では、律法の規定に違反すれば罪人でありました。
売春婦は明らかに罪人で、被差別者ですが町や村で他のユダヤ人と共に暮らしていました。
「取税人」は、罪人ではないが、罪人と同様の扱いを受けていました。
ローマ当局は、役人に税金を徴収させるのではなく、支配している民族の中から取税人を選び、町や村単位で税金の総額を決めて徴収を請け負わせたそうです。
ところが、取税人は決められた税金を徴収するだけでは自身の収入がないので、定められた金額以上の額を集めていたようです。
そのように支配者の権威を背景に同民族から金を巻き上げて私腹を肥やしていたので嫌われていました。それで、取税人は罪びとと同じ扱いを受けていたということです。
聖書に出てくる「病人」とは、軽い病気ではなく重い病気の人で、とくにひどい皮膚病や、血や汚い液体が流れ出すような病気でなかなか癒されない病人は罪人ではないが、社会宗教的に差別されていました。
もちろん、病気が癒されれば、清めの儀式などを経て社会復帰することができました。
「悪霊憑き」とは、精神的に異常な状態にある者で、悪霊がついているとされる者を言います。
そう、「される者」ですから、その者が異常であるか正常なのかは当局の認定が必要でした。
社会的立場は、上記の病人と同じように扱われました。
悪霊が出ていき、つまり、精神異常が正常になれば然るべき手続きを経て社会復帰ができました。
「異邦人」とは、ユダヤ人以外の諸国の人々のことを言います。
ユダヤ人とはユダヤ教徒のことです。
ユダヤ人の子供は自動的にユダヤ人になります。
もちろん、生まれた時に割礼を受けます。
ユダヤ人は異邦人に対し差別意識があります。すべての民族は罪人ですが、ユダヤ人のみが神の民として救われるという認識です。
それは、ユダヤ人は神に選ばれた神の民であるとする選民意識が根底にあり、ユダヤ人以外の人々との交わりが制限されていました。
ユダヤ人は異邦人と結婚してはいけないとか、食事に同席してはいけないなどです.
第十三章.新約聖書が生まれた経緯
わたしは聖書のことをあれこれ書いていますが、その知識は、わたしが聖書を読み研究者の書かれた本を読み得たものです。
わたしは神学者でもなく、聖職者でもありませんから知識は浅いものです。
でも、普通の人が初めて福音書を読むに際し、理解する為の手助けになれる程度にはまとめられるかなと思っています。
ですから、参考程度に読んでいただければ幸いです。
まず、福音書とは、一言で言えば、イエスの福音をまとめたもの、証するものだと思います。
それでは、福音とはなんぞやですが、一言で言うと、福音とは、復活されたイエスを神の右(神の次に権威ある地位)に上げられた主キリストとして告げ知らせる良き知らせと言うことでしょう。
そう、キリストがこの地上にお生まれになったことは神からいただいた祝福なのです。
その良き知らせは、イエスの地上での出来事、語られたことが歴史上の出来事としての背景を持って証されます。それが福音の根本と言えます。
だから、福音は生前のイエスの出来事とか語録から切り離されては存立できないということです。
ということは、そのイエスの言葉とか復活、なされた奇跡が嘘であれば、福音はそれこそ作り話となりイエス死亡により速やかに消えてしまいます。
したがって、福音書著者が生前のイエスの出来事を文字にして語ることは、今日に至るまで、この2000年間の人類の全歴史にとって、いや、未来の人類の全歴史にとっても非常に重要な位置をしめることになります。
イエス死後、イエスが起こしたこの新しい信仰運動の担い手はペトロを代表とするイエスの直弟子たち、すなわち、イエスが地上で活動されたときイエスから直接召命を受けた十二人の弟子(実際には裏切ったユダを除き十一人)、イエスの復活の顕現に接した者たちでありました。
実際は十二人よりも多くの弟子がいたと思われます。
彼らは「使徒」と呼ばれ、主イエスから遣わされた者として、福音を宣べ伝え、信徒を指導しました。
その際、彼らは当然自分の目で見たイエスの働きや生涯の出来事、直接聞いたイエスの言葉や教えを用いました。
彼らが伝えたイエスの出来事や教えの言葉は、各地の信徒の間で尊ばれ、熱心に伝えられ、注意深く保持されました。
そのことは福音書を読めばわかります。
イエスの出来事や教えの言葉は、口から口へと伝えられ、信徒たちの間で言い伝え、伝承として定着していきました。
イエス逮捕におびえて故郷に逃げ帰っていた弟子たちが再びエルサレムに集まり力強く信仰運動を始めた原動力は、何よりも復活のイエスに出会ったこととだと思います。
そして、イエスが生前に予告していた聖霊降臨(使徒言行録2章)という出来事が実現したことだと思います。
本格的な宣教運動は聖霊降臨の後ペトロが大衆の前で始めた説教がはじまりでしょう。
イエスが生前に弟子たちに語られた教えは、イエスにあった出来事はイエスの死後口伝えで始まりました。
そして、時とともに必要により文書化されました。
おそらく、奇跡集とか言葉集など項目ごとに文書化されたのでしょう。
最初は、イエスの直弟子たちの口頭での教えが絶対の権威を持っていたので、文書化はできなかったでしょう。
しかし、イエス死後三十年以上を経て、イエスから直接教えを受けた直弟子も年を取り、あるいは、殉教に遭遇し、人数が減って、生前のイエスのことを知っているものが少なくなってきます。
そうすると、イエス伝承を口頭で伝えていた十二弟子たちの権威も薄れていきます。
そうすると、当然、イエス伝承を後世に残す必要に迫られるようになります。
それに信徒が急速に増えましたので、イエスの弟子の弟子が、またその弟子を中心にした教団が思い思いに文書を作成し、多数のイエスのことを伝える文書が生まれました。
写本も多く造られました。
信徒はそれらの文書を教材として学んでいたのでしょう。
もちろん、現在みたいに信徒一人ひとりが一冊ずつ聖書を持っているような状態ではなかったでしょうから、指導する者が教え導いていたのでしょう。
それらの文書は、余りに数が多く、原本はどれか分からなくなりました。
中には、本来の教えに混ぜものが入って、どれが真実を伝えるのか分からなくなったかもしれません。
この写本の数は5000以上になるということです。
この数は他の書物に比べると異例中の異例であります。
それだけイエスという人物の存在が、残された言葉の影響が大きかったといえるでしょう。
イエスという存在に関心を持つ人が多かったということです。
しかも、死後のことです。
生きているカリスマを持った指導者が多数の弟子を持つことは分かりますが、死んだあとの方が生前よりはるかに世間に大きな影響力を持つ指導者は果たしておられるのでしょうか。
そこで、キリスト教団で、それをなんとかしょうという動きが出てきたのです。
今から見ると異端と思われる意見も多く表れたでしょう。
そのままほっておいたら、何が本当のイエスの教えか分からなくなってしまうと言う危機感もあったと思います。
もちろん、人間的な思いで信徒の組織運営手段として必要であったのも事実でしょう。
そのような中から新約聖書が生まれたのですが、新約聖書の編集には、現在のカトリック教団の前身があたり、紀元後200年ころから(イエスが十字架に架かり亡くなったのは紀元30年ころです)200年もの歳月を費やして、正典ができあがったということです。
その間いくども公会議がもたれたでしょう。
その際、個々の書物について、どこがどのようにイエスを証言しているかの検討が逐一なされたはずです。
その検討されたことの記録は残っていないそうですが、編集者は、指導的地位の僧職者で同時に神学者でありました。
彼らは、その時代の学者であり、叡智の全てを集めた人々といってよいと思います。
当時は、神学、聖書学が学問の全てであったから今日的に言えば、そうですねその時代の一流の聖書学者が全員集まって、真偽を検討し編集したことになります。
しかも200年もかけてその真偽を検討しました。
そうして出来上がった (現在のような形の) 聖書は、現在まで千数百年にわたってその時代の学者(聖書学者とか考古学者など)により何度もその信憑性を確かめられてきました。
今現在ある聖書がそれに耐えてきたという事実は大変なことではないでしょうか。
ただの作り話といいますか、物語の寄せ集めとはみなされなかったのです。
他の宗教の経典で、これほどたたかれ調べ上げられ、それでも生き残った聖典は無いでしょう。
なお、聖書に収録されている文書間には細かい相違点が沢山ありますが、聖書は科学書ではないので相違点があってもおかしくないのです。
それは逆に聖書の信憑性を増すことになると思います。
そうでしょう、作り話なら小説のように最初から最後まで矛盾は無いと思います。
福音書はイエスが十字架で殺されてから30年以上を経てから生まれました。
福音書は何も生前のイエスの言葉を一字一句間違わないように筆記することを目的として作成されたのでもありません。
そういう意味で、四つの福音書はすべて正しいのです。
四つの福音書を読んで初めてイエスの実像に近づけると言うことでしょう。
福音書はイエスの忠実な伝記を伝えるために書かれた文書ではありません。
福音書は、イエス伝承(イエスの言動を語り伝える伝承)を用いて復活者イエス・キ リストの福音を世界に告知しようとする文書です。
従って、福音を告知するためという目的から全体の構成が決められ、その配列や個々の記述にその目的から生まれる意義づけや表現が用いられるのは当然です。
そこには福音書を生み出した共同体の状況(歴史的背景とか文化的背景)と著者の福音理解が色濃く反映することになります。
しかも、イエスの言動を伝える素材のイエス伝承そのものも、イエスの言動を目撃者が客観的に記述した文書資料ではなく、口頭で語り伝えられた口伝伝承ですから、どうしてもその担い手の状況(思想とか能力)が反映することになります。
このように福音書は、それを書いた著者の福音理解、それを生み出した共同体の状況、素材となったイエス伝承に刻み込まれた口伝伝承の担い手たちの状況といういくつもの状況の影響を受けて構成された文書だと言えます。
このように、福音書にあるイエスの言葉は著者が所属する共同体の状況を反映して生みだされたとすると、聖書の霊感と権威を否定しているように聞こえますが、決してそうではないと思います。
なぜなら、イエスご自身が聖霊によって神の言葉を語られたように、聖霊は信じる者のうちに働かれるので、福音書を生みだした共同体にもイエスに働かれた聖霊と同じ聖霊がその働きの中で、つまり、聖霊そのものがイエス・キリストですから、聖霊との交わりの中で、「主イエス・キリスト」の語り掛けを聞き(著者は少なくともそのように受け取ったのです。)、それを著者は「主は言われた」として伝えたのでしょう。
ですから、イエスが語られた言葉を伝える伝承のイエス語録を引用するときも、自分たちが復活者したイエスから聴いている言葉を伝えるときも、同じ聖霊の働きの中の出来事ですから、同じ主イエスの言葉として伝えていることになります。
ということで、今を生きるわたしたちも、当時の共同体の人々も、実際のイエスの言葉も、福音書の言葉も、同じ権威をもつイエスの言葉であると言えます。
従って、わたしたちが福音書を読むとき、どれが実際に地上のイエスの口から出た言葉で、どれが最初期共同体の状況から出た言葉であるのかを厳密に区別することは、(歴史学にとっては必要ですが)信仰にとっては必要ではないと思います。
信仰は、地上のイエスの出来事と復活者イエスの働きを証言する最初期共同体の告知の全体を、そこで神が最終的で決定的な救いを成し遂げられた出来事として信じ、その全体が聖霊の働きの結果であるとして、その出来事の中から 生み出された文書(新約聖書の諸文書)を信仰の拠り所として、その聖書で告知された出来事を現実として、信じることだと思います。
ただし、イエスの時代の社会情勢と最初期共同体の状況は、現在を生きる我々の状況とは違います。
とくに福音書とか手紙類が生まれた時代、すなわち、共同体がヘレニズム世界に進出して異邦人を多く含む共同体となってからは、すでにユダヤ人の間で活動されたイエスがおられた時の状況とは大きく違ってきているでしょう。
その状況(歴史的文化的背景)の違いを認識して、イエスから出たとされる言葉の(その状況における)意義を確認することは必要だと思います。
このように、福音の言葉は永遠の真理の言葉ですが、決して一字一句間違っていないというような硬直したものではなく、歴史的状況に即して、読む者の状況に即して、語りかけるものとして理解したいと思います。
次に聖書は神話だとする方がおられますので、確かに聖書には神話なところがあるかもしれません。
しかし、聖書に神話や伝説が入り込んでいても、それが聖書の御言葉が偽りだという意味ではないと思うのです。
なぜならば、神話や伝説それ自体も決して「偽り」ではないからです。
事実日本でも伝わっている神話とか伝説は、それらがすべて作り話ではなく、その話が生まれた背景があるから生まれたのだと思うのです。
聖書の場合は、その生まれた背景を見ると、神話や伝説が取り込まれているのならばそのこと自体が聖霊の働きによると受け取るべきです。
だから神話とか伝説を作り話として否定するのではなく、その背景に隠された意味を読むべきだと思うのです。
もちろん、福音告知の働き手である三位一体の神の三位格である聖霊の存在を否定されるならば、このような話は論外ですね。
語録集も四福音書も、先にイエスの御言葉やみ業について、話し言葉で伝えられてきたもの、すなわち口伝伝承ですが、これが文書化されるのは、早ければ(語録集の場合)40年代に始まって、70~90年代に福音書という文書になったと言われています。
わたしたちが見聞きしたことを人々に口頭で伝える場合には、当然伝える人によって少しずつ形が変えられるのは日常よく経験することです。
ましてや、イエス死後三十年以上の時間があれば、その間イエス伝承は口頭伝承により語り伝えられましたから、実際にイエスが語られた言葉、とくに単語の意味のとり方などは変えられていてもおかしくはありません。
それに、イエスの教えだとか、譬えだとか、癒しの奇跡などを整理する場合、イエスが語られたり出来事が起こったりする順番通りに整理されるものではなく、教えと譬えと奇跡とが、それぞれに(言葉集とか奇跡集として)分類されて、別々にまとめられて整理、保存されて伝わると思うのです。
だから、共観福音書では、イエスのいろいろな出来事とか教えが、出来事が起こった順番通りでなく種類ごとにまとまって書かれているのでしょう。
また、作者が伝えたいと思うことに合わせて、奇跡を用いてその話の中に組み入れることなどがあってもおかしくはないと思います。
最後に一言、聖書を読まれる方は、聖書は事実をありのまま伝える新聞記事とか歴史書ではなく、信仰者が聖霊に満たされた中での信仰告白として書いたものであるということです。
それも各文書の著者はお互いに連絡を取り合って、申し合わせをして書いたのではないのです。
聖書を書いた著者は、自分の命をかけて後世に自分が信じたことを伝えようとしたということは、忘れたくないものです。
著者は評論家のように間違っていれば知らん顔していればよいのではないのです。
小説のように読者の関心を引こうと物語を面白く書く必要もないのです。
聖書は、1000年以上の歴史の中から生まれ、歴史に裏付けられた書物です。


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