聖書が語る人類の歴史
聖書が語る人類の歴史
目 次
第一章.聖書が語る人類の歴史
<創造論と進化論>
<神のマスタープラン>
<人間の神からの離反と堕落>
<キリストの(空中・地上)再臨と目的>
<最後の裁き>
<新しい天と新しい地>
第二章.聖書の死生観
<聖書の死生観>
<死について>
<死後について>
<神(創造主)に会う備え>
第三章.聖書の描く宇宙史
<創造神がおられる>
<創造のはじめ>
<天地創造>
<エデンの園>
<神から離反した人間のその後>
<ノアの箱舟と大洪水>
<バベルの塔>
<アブラハムとイスラエル民族>
<出エジプトと十戒(律法)>
<旧約聖書の成立>
<イエス誕生の預言とその後>
<新約時代>
<イエス・キリストの空中再臨と空中携挙>
<7年の大艱難時代>
<ハルマゲドン>
<イエス・キリストの地上再臨>
<千年王国の時代>
<サタンの解放と敗北>
<最後の裁き>
<裁きを逃れる者>
<聖書は不公平か>
<終わりの日>
第四章.神の民の歩みと聖霊
<神の民の歩み>
<聖霊の保証と営み>
本 文
第一章.聖書が語る人類の歴史
<創造論と進化論>
聖書が語る人類の歴史を書くにあたり欠かせないのが、この世界は、神、いわゆる人間を含めたこの自然界を創造された方がおられるということです。
ちょっと、見方を変えれば明白な事実として見えてきます。
ここで言っている「神」は、日本で言われているやおよろずの神ではなく、万物の創造主です。
また、日本では、一般的に進化論(生物は共通の祖先から長い時間を経て徐々に変化し、新たな種が形成されるという科学的理論)が主流です。
万物は唯一の神によって創造されたという創造論は例外的な説です。
ただし、有神論的進化論という考えもあります。創造もその後の進化(変化)も創造神の御業という意味だと思いますがね。
創造神を認めるのは、利他的愛とか事の善悪、つまり、道徳律は進化になじまないからということです。
私の経験から思うことは、進化論を主張している方も、本心は創造主(神)を認めておられる方が多いように思います。
創造主の存在を認めざるを得ないというのが本音ではないでしょうか。
なぜ、創造主を認めざるを得ないかと言いますと、わたしが得た結論を書いておきます。
⑴ この世界の生き物はすべて同一の一つの細胞からなっている。
⑵ この世界の化学の基本法則とか物理の法則はだれが作ったのか。知恵ある者にしかできない。それは、人間を含む自然界全般に言えます。
それは、信じられないほど美しく調和がとれているのです。
⑶ ビッグバンからの宇宙の形成はわかる。しかし、天地万物の最初はだれが作ったのかはだれも説明できない。人間でないのは確かです。
⑷ 進化論者が言っておられましたが、生命体と土は人間には作れない。人間が作れないのならば、誰が作ったのか。・・聖書には、「土の塵で人を形つくり」と書いてあります。
パウロが次のように言っています。
ローマの信徒への手紙1章20節・21節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」
次に、神の自己宣言です。
黙⽰録22章13節「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にし
て、最後の者。初めであり、終わりである。」
「アルファ」=初め=最初=創始者、 「オメガ」 =終わり=最後=完成者
参考にフランスの比較解剖学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンチレールを評した言葉を記しておきます。
副題を「神は細部に宿る」とし、ジョフロワは、「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られると考えました。ゆえに自然は新しい器官を作ったりしないのです。すべては基本形の修飾によって生じます。
これを言い換えれば、第一にあらゆる生物は、同種の構成要素からなること、
第二にこれらの要素の組み合わせ方、つまり設計は同じだということです。・・・」
「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られる」ということは、唯一の創造主がおられるということでしょう。
人間を含めた天地万物は、自然発生的に偶然に生まれたのではないのです。
わたしがこの文書を読んで最初の感想は、生命はこの地球の隅々まで満ちている。なんと美しい。世界は輝き、心が躍動するのを覚えました。
この感覚が、私のキリスト信仰の原点です。
なお、折衷案で、有神論的進化論という考えもあることを記しておきます。
この説は、万物の創造もその後の進化(変化)も創造神の御業ととらえています。
有神論的進化論が創造神を認めるのは、進化論では、人間が持つ利他的愛とか事の善悪、つまり、道徳律は進化になじまないからということです。
<神のマスタープラン>
聖書は、この世界は、霊的な領域と、物質的な領域に分かれていると教えています。
神は、新しい天地とそこに住む新しい人間を創造するためにこの人間を含む自然界全体を造られ、約2000年前に御子イエスキリストを堕落した人間を救済するためにこの地上に送り、創造の目的を成就するために人類救済計画を開始されました。
それは、創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された。」から始まった天地万物の創造から「新しい天地、新しい人類」の創造に至る神のマスタープランで、その流れは、エデンの園における人類の堕罪、神の人類救済の担い手としてイスラエルの選民、キリストの初臨と全人類の罪の贖いのための十字架死と復活から教会時代(現在)を経て、キリストの空中再臨、7年の艱難時代、キリストの地上再臨、ハルマゲドン、千年王国、最後の裁き、新しい天地の創造とそこに住む新しい人間の創造に至る壮大な計画です。
なお、キリストの初臨は、約2000年前のイエス・キリストを、教会時代はキリストの福音宣教時代、キリストの空中再臨はこの地上にいるキリスト者の空中携挙、7年の艱難時代は、堕落した人類社会の終わりに必然的に訪れる時代で、神はその艱難時代をイスラエルの残りの者を用いて、この人類社会の終わりに際し、最後の最後まで一人でも多くの人間を救済しょうとされるのです。
7年の艱難時代を経て千年王国ですが、千年王国の統治者はイエスキリストと殉教者で、住民はキリスト者のみとなります。
そして、千年を経てから悪魔が解放され、反キリストが復活し、最後の裁きを経て、黙示録21章1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」で、神のマスタープランは終わります。
各項目の詳しいことは、別の投稿文にゆだね、ここでは、神のマスタープランの全体を簡単に記し、その中での聖書の死生観、人間の堕落と救いを中心に書いてみたいと思います。
<人間の神からの離反と堕落>
人間は創造に際し自由意志を持つことを許されました。それは新しい人類の創造に必要であったのでしょう。
その自由意志に付けこみ悪魔は人間を唆して神から離反して自分に従うように活動しています。
そのために神から離れて堕落した人間社会ですが、それは神が悪魔をこの地(宇宙)に落とされその中にエデンの園を置き無垢な人間を置かれたことによります。
悪魔にとって、赤子のような人間を騙すのは簡単です。悪魔は、人間を神の手から離し、自分の支配下に置こうとしているのです。
人間が堕落したのは、悪魔の唆しによるのが原因ですが、人間に悪魔を選ぶか神を選ぶかの自由があったからです。
創造主である神が、人間に自由意志を与えらなければ堕落はありえなかったと言えます。
そうであれば、よく考えれば、人間の堕落は神の新しい人類の創造計画のなかで予定されていたとも言えます。
だから、神は創造の目的に必要であったから人間に自由意志を与えたと言えないでしょうか。
神は、人間が一時的に神から離れて歩むことを許された。しかし、御子キリストの初臨、再臨によって、新しい人類の創造計画は完成に向かうのです。
最終的に人間は、「神の御国」と「地獄」のどちらに行くか振り分けられます。
でも、神はすべての人間が、神の国、天国に入ることを望んでおられます。
人間は、新しい天地に生きる新しい人間に創造されるために生まれたので、地獄に送るために創造されたのではありません。
悪魔の存在も、自由意志も、堕落した人間も、救済計画も、神は創造の目的を成就するためには必要なことなのだと言えないでしょうか。
<キリストの十字架死と教会時代>
聖書は堕落した人間の現実を延べ、同時にその状態からの救いを告知します。
約2000年前にこの地上に来られ、十字架刑で亡くなられた御子イエスキリストは、全人類の罪(原罪)を負い、その罪の贖いの供え物としてご自身のいのちを十字架の上で父なる神にささげられました。
そして、神は、自分の過ち、罪を素直に認め、イエスを自分の罪の身代わりになってくださった救い主だと信じる者はだれでもみな罪のない者とみなすと約束されています。もちろん、死ねば天国へ直行です。
そして、そのキリストの出来事(福音)を全世界の人間に伝える伝道活動が弟子たちによって始まります。その時代を教会時代と言っています。
ちなみに、「教会」とは、建物があって教職者がいて信徒に教えを述べることではなく、教会とはギリシア語の「エクレシア(ἐκκλησία=国のために召集された集会)」の訳語で、「人々の集い」の意味から転じ、キリスト教においては神の呼びかけで人が集まるという意味だそうです。
もちろん、教会という言葉には、「教」が入っていますが「宗教」の意味はないということです。
イエスは、キリスト者が二人いればそこにわたしはいる、と言われています。
「福音」とは、ギリシア語で「喜ばしい知らせ」という意味です。英語では、Gospelです。
それは、「イエス・キリストによって、堕落した人類を罪と死から永遠に救い出す神の約束」です。
その約束が真実であることを、キリストの十字架と復活によって実現し、立証されたのです。
福音の三要素という言葉がありますが、それは下記の通りです。
その福音を本当のことだと信じて受け入れた者は④にある通り、永遠の命を得て天国に行けるのです。
⑴ イエスキリストは私たち人間の罪のために死なれた
⑵ その後、葬(ほうむ)られた
⑶ 3 日目に蘇(よみがえ)られた
⑷ 上 記の事実を受け入れ、イエスを救い主だと信じる者は永遠の命を得て天国に行ける
イエスはこの福音を全人類に延べ伝えるために弟子たちを派遣します。(大宣教命令)
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」(マタイの福音書28章19から20節)
簡単に言えば、キリストを宣べ伝える(語ったこと、なしたこと)ことであり、キリストの証人となることです。
<キリストの(空中・地上)再臨と目的>
キリストは、約2000年前に地上に来臨されました。
7年の艱難時代が始まる前に再び来られますが、このときは地上に降りてこられませんから、これを空中再臨と言っています。
その時には、すでに死んでいるキリストの福音を受け入れた人の霊は、朽ちることのない復活の体をいただきます。
同時にまだ地上にいる信徒たちも瞬時に復活の体をいただいて、天に引き上げられてすでに天に召されている兄弟姉妹と再会し一つの群れとなります。
この事によって、この時に地上にいるキリスト者はこれから起こる艱難時代の苦しみを免れることができます。
また、7年の艱難時代を生き抜いたキリスト者と共に千年王国の住民となります。そして、殉教者は、キリストと共に千年王国を統治します。
また、千年王国の前にキリストは、今度は地上再臨されます。
キリスト地上再臨の目的は、
(1) 神に逆らう反キリストを打ち破るため御子イエス(黙示録では「小羊」)が、サタンのひとり子、獣と言われる「反キリスト」の軍勢を打ち滅ぼすために天から「すべての聖徒たち」を従えて地上(エルサレムの東にあるオリーブ山)に来られるのです。
(2) 千年王国において催される、主の真実を記念する食卓(晩餐会)のため
千年王国において、地上で小羊の婚宴が催されるとき、そこに艱難時代を通過して救われた異邦人とイスラエルの民とが加わるのです。
イエスがかつて最後の晩餐の席で語られたことば、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(ルカの福音書22章18節)
このイエスの言葉は、キリストの地上再臨によって、聖徒達が再び、主の食卓を囲むようになることを意味しているのでしょう。(黙示録22章、19章「小羊の婚宴」)
19章9節の「それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ。と言い、また、これは、神の真実の言葉である。」の「この婚宴に招かれた者」とは、艱難時代に、あるいは、キリストの地上再臨の直前に、イエスをメシアとして信じた異邦人とイスラエルの民のことでしょう。
「神の真実の言葉」とは、小羊の婚宴に招かれた者は神の真実のことばのあかしであるという意味でしょう。
⑶ キリストが統治される千年王国が始まる前に悪魔がキリストによって「底なしの淵」に閉じ込める。(黙示録20章1節)
⑴はハルマゲドンの戦いと言われていますが、このあとキリストはご自分の王国、千年王国を創設し、殉教者と共に統治します。
千年王国の住民は、栄光の体の者と肉体の体の者が混在しますが、すべてキリスト者となります。詳しいことは、該当の投稿文をお読みください。
なお、千年王国の住民は下記の通りだと思います。
⑴ 艱難時代の前に空中携挙された信者(教会時代の信者も含まれます)、栄光体を持った人たち
⑵ 艱難時代に殉教した信者、栄光体を持った人たち
⑶ 地上の体(肉体)を持った人たち。つまり、福音を受け入れて艱難時代を生き抜いた人たちです。
⑷ 上の体を持った人たちの子孫
その他の死者は千年王国が終わるまでは生き返ることなく、千年王国の終わりに神の行いの裁きのためによみがえります。
<最後の裁き>
さて、いよいよ人類社会は終わりに近づきます。
被造物は、その生きてきた行いを清算する必要に迫られます。
キリストが統治される千年王国(メシア王国)が終わると、千年王国の始まる前に「底なしの淵」に閉じ込められた悪魔が解放されます(黙示録20章7節)
同時に千年の間眠っていた反キリストも復活します。
悪魔に唆された反キリストが「聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだとき」、「天から火が下ってきて」、彼らは焼きつくされ、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれます。そこには、「あの獣と偽預言者」がいます。
最後の裁きは、キリストの福音を受け入れていない、死と陰府にいるすべての死者たちが裁かれるのですが、そのさばきは、「行いに応じて裁かれる」となっています。
行いは生前の行いで、わざわざ行いに応じてとなっていて、原罪は除かれていますが、それは、キリストの十字架死ですでに全人類の罪は贖われたからということでしょう。
わざわざ行いに応じてと特定されていますので、少し引っかかったのですが、普通に考えれば、人間の罪は、神から離反して自己中心に生きている罪とその結果起こる堕落、すなわちこの地上世界での行いの罪があります。
神から離反する罪、原罪はすでにキリストの十字架死で贖われ(キリストの福音を受け入れる必要がありますが)ていますから、あとは地上での行いの清算が求められることになります。
この世界の出来事は、すべて神の創造の目的に必要なことで、神はすべてをご存じだと前に書きましたが、そうであればなぜ裁くのかと言われそうですが、それは義である神には、たとえご計画の中の出来事だと言え、堕落した人間を裁かないで放置することはできないということでしょう。
それは、新しい人間の創造には必要なことなのでしょう。
この行いの清算は、福音を受け入れた者は、地上での命が終われば即天国に行きますので、この行いの裁きは、福音を受け入れていない人が対象になるように思えるのですが、先に書きました、ヘブライ人への手紙9章27節のパウロの言葉「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように。」では「人間には」となっていますから、そういう福音を受け入れている、受け入れていないにかかわらずすべての人の行いを裁くとも取れます。
福音を受け入れた人は「行いの罪」を裁かれないとすれば、福音を受け入れた者はその罪をも赦すということでしょうか。
ただ言えることは、福音を受け入れた者には、神の御霊・聖霊が内住しますから、そのことによってその人は、内から造り変えられるということになりますので、行いの裁きは必要ないとも受け取れます。
しかし、生前の罪の清算はすべての人に課されると思うのです。
行いを裁くと言っても行いには良い行いもありますから、報いと言った方がよいかもしれません。
ただ、陰府で何度チャンスを与えても、あくまでも神を拒否する人は、そういう人は、神の国では必要はないし、神の国に招かれても、さぞ、住みにくいことでしょう。
そういう人の名は、「命の書」(黙示録20章)に記されていないのでしょう。
福音を受け入れた者は、罪のない義人だと認められているので、つまり罪が赦されている(罪がなくなったのではない)ので、死後その人の霊は、キリストがおられる楽園(パラダイス=天国)とよばれるところに招かれます。
だから、キリスト者の国籍は天国にあるということでしょう。
<新しい天と新しい地>
いよいよ神のマスタープランの完成です。
黙示録21章に次のように記されています。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降ってくるのを見た。・・「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎさったからである。」」
第二章.聖書の死生観
聖書の死生観(死について、死後について)と神(創造主)に会う備え、という項目で簡単に記しておきます。
<聖書の死生観>
人間は、肉体と霊とが合わさって、一つの生命となっているので、(創世記2章7節)、肉体が死んでも霊体の意識は残り続けます。
したがって、人間の死は肉体と霊の分離を指し、死んだ人間は、霊体の状態で、陰府に行くことになります。天国とか地獄はその後の問題です。
●ヘブライ人への手紙9章27節
「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように。」
聖書の死生観は、ほかの宗教とは全く異なっています。
聖書は、わたしたちの死後について上記の通り記しています。
天とは神の住まいであり、イエスのおられる所です。パラダイスとも呼ばれています。
ですからキリスト者は。死ねば天国、すなわちそのパラダイスに行くことになっています。
だからキリスト者にとっては、その天国が国籍でこの世は仮の住まいなのです。
この聖句は、おそらくキリスト者を含めすべての人間について語っているのでしょう。この世に生まれ死んだら、すべての人はやはりこの世での行いにつき清算する必要があるのです。創世記20章の「最後の裁き」の箇所です。
また、それは、この人間を含む自然界は神の被造物、すなわち、神がおられ、神によって創造された被造世界だと言っているのです。
被造物は創造の目的に沿って生きることを求められていますから、この「行いの清算」というのは、その目的に対してどのように生きたかの清算となります。
なお、上記ヘブライ人への手紙9章27節の聖句の裁きの対象はすべての人間について語っていますが、キリストの福音をこの地上で生きている間に受け入れた者は、楽園(2コリント12:4; 黙示録2:7)に直行とも書いてある箇所もあります。
この聖句は、黙示録20章の「最後の裁き」のことを言っていると思うのですが、同12節に「もう一つの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」とありますから、キリスト者の名もこの「命の書」に記されているでしょうから(楽園に行くことは間違いありませんが)生前の行いをやはり清算する必要があるようにも思うのですが、生前の行いを裁かれないのは、それは、キリストの福音を受け入れた者は、聖霊がその者に内住すると聖書にはありますから、その聖霊の働きによりその者は聖化されるからと受け止めたいと思います。
●イエスの言葉を紹介します。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネの福音書11章25節から26節)
<死について>
全ての人は一度死にます。
仏教は、輪廻転生を教えますが、聖書は輪廻転生を肯定も否定もしていません。
確かなことは、聖書は福音を受け入れた者が死ねば天国に行くことを約束していることで、(この世でキリストを受け入れた)キリスト者は輪廻転生することはなく天国に行くのでしょう。
聖書は、人は霊が本体と教え、死とは霊が肉体から分離することだと教えますから、人が死に肉体が滅んでも、人の本体である霊は生きていて、霊には意識もありますから、すべての人は死んで終わりではなく、人は死んだら無に帰するのでもありません。
<死後について>
人の霊は陰府(黄泉、よみ)に下ります。陰府とは、一般的に死から最後の審判、復活までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所と考えます。
また、陰府は人が地上に生きている間の行いに応じて神の裁きを待つところとも言えます。
「アブラハムのすぐそば」という言葉がありますが、聖書で一度だけ、ラザロと裕福な男の物語の中で用いられています(ルカ16章19から31節)。
この言葉はタルムードの中で天国の同義語として使われているそうです。
「よみ」という言葉は「黄泉」とか「陰府」と書きますが、「死後の世界」とか「死んだ人々のたましいの場所」を意味しています。
ヘブル語の旧約聖書では、死後の世界を指した言葉は「よみ」です。楽園という概念もありません。
ですから、キリストが来られるまでは、死んだ人はすべて「よみ」に行っているのでしょう。
新約の時代になって初めて、キリストによる救いが告知され、人間は神を信じ福音を受け入れたら天国に行けることになったのです。
また、ハデスという言葉もありますが、新約聖書のギリシア語で地獄と訳されているそうです。「死者の世界」を指しています。
ゲヘナというギリシャ語の単語も地獄を指しています。
この言葉はヘブル語のヒノムからきています。新約聖書の他の箇所ではよみとハデスは不信者のたましいが一時的に行く場所であり、そこで大いなる白い御座での裁きを待ちまちます。(黙示録20章11節)
そのさばきは、「もう一つの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(同12節)です。
<神(創造主)に会う備え>
私たちは死んだ後、創造主である神の前に立ち、その審判を受けなければならないのです。
生前の罪を清算しなければ、天国(神のもと)に行けないのです。
天国に行くためには、今まで犯してきた行いの罪を清算し、キリストの福音を受け入れる必要があります。
ところが私たちは、自分の力で自分の罪の清算をすることができません。
そうでしょう、わたしたちは神の被造物ですから、罪は神に対して負っているので、罪を赦す権限は神にあるからです。
だから、私たちに代わって罪の清算をして下さった方がいるのです。その方が御子イエス・キリストです。
イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために十字架にかかり、わたしたちの身代わりとして死なれたのです。そして、三日目に復活されました。
イエス・キリストは、死の直前に十字架上で「完了した」と叫ばれました。つまり罪の清算が完了したという意味でしょう。
コロサイ書2章14節に「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」とあります。
聖書は、だから私たちがなすべきことは、創造主である神を信じ、この御子イエス・キリストを私たちの救い主として受け入れることです。
そうすればその人に聖霊を内住させて、新しい人間の創造のご計画を進められる。人間が神を拒否し、キリストの福音を受け入れなければ、神は人間との交流、聖霊を内住させることができないので、神のマスタープランを完成させることはできません。
神の国である天国には、神を拒否する人間は住めないし、不要なのです。
聖書は天国を次のように表現しています。
「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21章4節)
「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、」(黙示録22章3節)
「御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」(黙示録22章4節)
「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(黙示録22章5節)
また、聖書は地獄を次のように表現しています。
「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」(黙示録20章10節)
最後に神は宣言されます。
●黙⽰録 21章6節「また⾔われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである、渇いている者には、命の水の泉から、価なしに飲ませよう。」
第三章.聖書が描く宇宙史
<創造神がおられる>
聖書におけるこの被造世界の「歴史」とは、創造神(聖書の神は日本において呼ばれている神とは根本的に違いますので、この様に呼びます)が展開する被造物全体を含めて宇宙の誕生から終わりまでの一連のマスタープランで、新しい天地とそこに住む新しい人類の創造のご計画の一環だということです。
その歴史は未来も含めて最初から終わりまで全能の存在である創造神が計画したものであり、その展開は必然であり、かつ、創造神があらかじめご計画の中で認められていること(悪魔の行動など)以外は、決して変更されることがないのです。
悪魔も被造物ですから、神の許しなく何もできないのです。
それでは、創造神のご計画されているこの宇宙の創造の歴史を、順を追って記述してみたいと思いますが、その前に創造神のことですが、キリスト教は、聖書の神は創造神であり三位一体の神(父なる神・子なるイエス・そして聖霊)で、それは唯一の創造神だと告知します。
ですから、キリスト教は宗教ですが、経典とする聖書は神の言葉ですから真理です。
宗教と真理の違いは、宗教は、人間が大いなるものの存在を思い、真理を求めて、自分の思想から導き出した教え(だから祭儀とか行いが重要視される)を教祖と言われる人間が語っているのに対し、聖書は、唯一の創造神がおられることを証しし、その創造神が被造物である人間に真理を人の言葉で告知したのを書き留めた書物です。
ですから、キリスト教は宗教ですが、イエス・キリストは、キリスト教という宗教の教祖ではありません。イエスは一度もキリスト教の教祖と呼ばれたことはありません。
キリスト教の中世での間違いを指摘する人がいますが、あれは聖書を聖典とするキリスト教という宗教を時の権力者が用いて、聖書を統治に都合よく解釈して国を統治し、国を、国民を間違った方向に導いたのです。
これも通常の宗教とは違うところですが、唯一神がおられるからあり得るのですが、キリスト信仰を語るに重要なのは、聖霊の存在です。
聖霊は、聖書が教える三位一体の神のお一人で、神の本性において、父なる神とまったく同じ方です。
つまり、霊であること、無限性(永遠性、遍在性)、全能性、自存性、不変性、唯一性、人格性を持ち、聖、義と公平、憐れみと慈しみ、愛、善、真実であられることにおいて、父なる神と同じだということです。
また、聖霊は、使徒言行録2章が告知する聖霊降臨によって、父なる神の働き手としてこの世界に降り遍在されておられます。
ですから、この世界に遍在されている聖霊の本籍は「天」で、働きは、第一ペトロ1章12節で「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなた方に告げ知らせた人たちが、今、あなた方に告げ知らせており、・・」とありますが、その聖霊の働きは、創造神の働き手としてさまざまな姿に変化し、いろいろな働きをします。
働く姿とか働き方は、ワンパターンではないようです。
なお、聖書の神は自己宣言されています。
出エジプト3章14節で神はご自分を「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
神はご自分を「わたしはある」と言っておられます。何々から生れた(または、産まれた)のではなく「ある」方なのです。
<創造のはじめ>
この世界の創造を、聖書から順を追って記してみます。
⑴ 創造霊だけの無限界・・神の名は、「在って在るもの」ですが、「在って在るもの」は神の名ではなく、「私はある(私はいる)」を意味し固有名詞です。初めがないのです。
⑵ 天国の創造・・天国も被造世界です。
⑶ 創造神は被造世界である天国に入れないから、天国に「神の御名」を置 く。
「神の御名」は、どこまでも(人間と)共におられるという神の本質を意味します。
それがイザヤ書7章14節、同8章8節の「インマヌエル」(固有名詞)という名前で表されています。
イザヤ書7章14節に「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ」とあり、「インマヌエル」の誕生(イエス・キリストの誕生)を預言しています。
なお、イエス・キリストが、なぜインマヌエルかは、マタイの福音書1章23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」とあるからです。
インマヌエルは二つの言葉、インマヌ(われらとともにいる)と、エル(神)を組み合わせた名前(固有名詞)で、「神は我々と共におられる」の意味です。
天国は被造世界ですから有限です。無限の神は入れませんから聖書では、天国で神として崇められているのは、唯一の創造神ではなく神の御名(黙示録3章12節、13章6節、16章9節、22章4節他)です。
このように「神の御名」とは、「神さまご自身(実体、本質)」を表します。
創造神は人類救済計画を持っておられ、その計画を進めるに際し、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させるよう導きますが、その際ご自分がいつもともにいることを示すために「幕屋」を造らせます。
出エジプト25章8節・9節に「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。」です。
この幕屋とは、幕で外側を四角に囲った礼拝所ですが、黙示録13章6節で神を「神の名と神の幕屋」と表現しています。つまり、幕屋は「神の御名」がおかれているところです。
神はこのように天国に「神の御名」を置いて、地上では幕屋に「神の御名」を置くと言っておられますから、幕屋にも本物である「天」に置かれている「神の名」がおかれているということになります。
その幕屋を地上に置き、そこで神を礼拝するようにモーゼに命じておられるのです(出エジプト25章)。
すなわち、地上の幕屋は天国の雛型であり、天国は、「創造主が設けられた真の幕屋」となるわけです。
人間は、形あるもの、目に見えるものに信頼を置く習性がありますからそのようにされたのでしょうか。
天国に置いた神の名を、地上の幕屋に置くのは、「創造主が被造物に(御自分が)認知可能な形で地上に臨む」、ということになります。
しかし、「神の名」を知るには人の目に見えない。信仰が求められます。
御子イエスの地上降臨も、神が人となり人の目に見える形で地上に降りてこられたのですから、同じです。
創造神は、偶像礼拝(神の代わりに像を作り拝むこと)を厳禁とされていますが、それは、創造神がわたしたちに思いを伝える方法は、像ではなく直接言葉によるからでしょう。創造神とわたしたちの間に偶像はいらないのです。真の神は偶像などいらないのです。偽物の神ほど偶像を求めます。
日本では、神社からお地蔵さんまで偶像だらけですが、日本人の信仰心(未知なるものを求める)はゆるぎないものがあると思いますから、偶像を拝んでいるということは、真の神がおられることを知らないだけなのです。
いつかはわかりませんが、日本人もその真の神がおられることを知るときが来るのでしょう。
聖書の神は、言葉をもってご自分を現わされます。
この神の言葉は、聖書ではロゴス(言)とも言い、イエス・キリストを指します。
イエス・キリストは、神の言葉そのものなのです。それはヨハネの黙示録1章1節に「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。・・。」とあるからです。
つまり、聖書が記している神とは、あるいはキリストとは、私たちと言葉で直接コミュニケーションをはかられるお方であるということでしょう。
ロゴスなる神は、仏さんのように平安で慈悲深いお顔立ちをして、高い所に鎮座して、ただ黙って見ているだけの物言わぬ像とは違うのです。
実に、私たちに語りかけ、交わり、私たちの祈りの言葉に耳を傾けてくださるお方なのです。その働きをしているのが、聖霊です。
創造神は、天(天国)にご自分の御名を置き、その天の中に天使を造り置きました。
天使は神を賛美する存在ですが、創造神の命により、この地上に降りてきて様々な姿で霊的なことを行います。いわゆる、神のこの地上での働き手です。
天使も神の被造物で人間に認められているような、個人的な自由意志は許されていませんから、創造神の命令には逆らえず、奴隷的な存在です。
彼らは、軍隊のように組織されていて、上位者の命令には絶対服従する存在として造られています。
このように、天使は自由を持たない創造神のロボットのような存在ですが、他面,天使は霊的な力ある存在です。
彼らは、いろいろな姿を持ち、さまざまな霊的な技をなすことができます。
人の姿をとって人間の前に現れることもできますし、また火になったり風になったりすることもできます(ヘブライ1章7節)。
また、天使には、奇跡を起こす権能があり、その権能を用いて創造神のために働きます。
権能は創造神から来ていますので、天使は、創造神の命令と力を受けて、働くことになります。
と言っても、天使のもっとも基本的な仕事は、天に置かれた神の名を賛美することです。
聖書を読んでいると、天とは、天使が四六時中神の名を賛美している、そうゆう空間に思えます。
でも、地上においても様々な姿をして様々な働きをしていることが、聖書を読めばわかります。
天使と言えば、背中に羽が生えた小さな子供みたいな存在が宙を飛んでいる姿が目に浮かびますが、そうではありません。
⑷ 悪魔(悪霊)
神は悪霊を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありません。
悪魔は悪霊の長、天使長ですが、天使長は天使ですから神の被造物ですが、自由意志がないので神に逆らって何もできないのです。
悪霊の長である天使長が、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい」と思うようになり、部下の天使に命じて自分の王国を造ろうとしたのが悪魔になった原因です。
つまり、神に逆らったのではなく天使自ら変質して悪魔とか悪霊になったのです。
天使も霊的存在ですから、神から離れると神からくるいのちの霊(命の息)を吸収することができなくなり、天使長とか天使は変質し、悪魔とか悪霊となったのです。
悪魔になった天使長は部下の天使の内三分の一を配下に置きました。
イザヤ書14章12から15節には悪魔の顛末が、「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」と記されています。
人間も神から離れたのは天使と同じですが、堕落した原因は、天使と違って人間には自由意志を許されていますから、悪魔に唆されて自己中心的に生きることを(それがどのような結果をもたらすかもわからず)選んだからです。
人間は確信犯ではないから、まだ許されるのです。
人は創造神の御心から離れて、自己中心的に自由に生きるようになり、その結果、創造神との交流が途絶え、もらった命の息(霊的、創世記2章6節)も枯れていき死ぬ者となり、今のような悲惨な世界が出来上がったのです。
この聖句で、「明けの明星、曙の子」とは、前身が天使である「悪魔」のことでしょう。
「もろもろの国を倒した者」とは、その配下の天使の軍団を従わせて一時的にせよ神を賛美する天使の一部に打ち勝ち、神の国に自分の王国を築こうとしたのでしょう。
「地に投げ落とされた」の地は、創生前の宇宙(私たちの目に見えるこの宇宙)であって、「いと高き者」は創造神すなわち神の名です。
「陰府」とは、暗いところ,この場合宇宙です。「墓穴の底」も同様です。
キリストの福音を受け入れないまま死んだ人が行くところです。大いなる裁きまでの一時的な待機場所です。セカンドチャンスの場でもあります。
⑸ 悪魔となった天使
天使はもともと自由意志がないので、神には逆らえないのですが、神から離れた天使は、神との交流ができなくなり力の源泉(命の息・霊的エネルギー)がなくなり、ますます神から離れて神に抵抗するようになります。
そして、悪魔とか悪霊になった天使には、自由意志がないから悔い改めの機会も無いのです。
そして、大切なことですが、悪魔も悪霊も自由意志がないと書きましたが、それで神の許しがなければ何もできないのです。
悪魔が人間を唆して神から離反させ、自分に従わせようとすることも、逆に考えれば、神が悪魔のそのような行動を許されているからできるのです。
ということは、この悲惨な現世は、その結果ですから、神さまの人類救済計画、新しい天地の創造とそこに住む新しい人類の創造というマスタープランの完成には必要なこと、予定されていることであるといえないでしょうか。
ヨハネの福音書8章44節では悪魔を「最初から人殺しであって真理をよりどころとしていない。」と言っています。
ですから、悪魔が偽りを言うときは、本性からそういっているのです
ユダの手紙6節には悪魔とか悪霊のことを、「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たち」としています。
⑹ 霊イエスの登場
霊イエスは、天使が神に対抗したとき、天の側、すなわち無限の神の懐に出現します。
神によって作られたのではなく、出現するのです。そう、成るのです。
ですからイエスは神の被造物ではないのです。
イエスは、創造神の御子、神の御子ですから彼も創造霊で、永遠無限の過去からの存在です。
霊イエスには明確な役割があります。
一つ目は「悪魔の働きを滅ぼすため」(ヨハネ1手紙3章8節)です。
二つ目は、「宇宙(暗闇)の創造と、悪霊たちの封じ込め」です。
(ユダの手紙6節「大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。」)
。
ユダの手紙6節の悪魔とか悪霊のことを、「自分の領分を守らないで」と言っていますが、この「自分の領分」とは、神の名を賛美することと神の命令に従って働くことです。
同6節の「大いなる日の裁き」とは、この宇宙が火で焼かれ、被造物がすべて最後の裁きにかけられる日の裁きです(黙示録20章)。
三つ目は、ペトロ2手紙2章4節の「神は、罪をおかした天使達を容赦せず、暗闇(宇宙)という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。」です。
「罪をおかした天使達」は、悪魔とか悪霊をさします。
「暗闇(宇宙)」は、もちろん私たちが住んでいるこの宇宙です。
<天地創造>
前置きは終わりまして、ここからは天地の創造です。創世記1章1節です。
霊イエスは「光あれ」(創世記1章3節)という言葉によって光りを造り、そして、水の中に大空あれ、水と水を分けよ。」
という言葉をもって、宇宙を膨張させ、次に地球を造り、海を造り、植物を造り、人間を造っていきます。
⑴ 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあ
り、神の霊が水の面を動いていた。」。(創世記1章1と2節)
聖書はこの壮大にして深遠な信仰告白で始まります。
そして、天地創造の物語が続きます。
⑵ 光あれ
霊イエスは「光あれ」(創世記1章3節)という言葉によって光りを造り、そして、「神は光と闇を分け」られた。(第一日目)。二日目は、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」(創世記1章7節)という言葉をもって、神は、大空の下と大空の上に水を分けさせられたのです。
⑶ 万物の創造
三日目に、「天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所が現れよ」といわれ地ができます。そして、地に食物を芽生えさせます。
四日目には、太陽を造り、昼と夜を分け、星を造ります。
五日目には、水の中と大空のあらゆる生き物を造ります。そして、六日目に「地は、それぞれの生き物を産み出せ、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ。」と言って、地の生き物を造ります。そして、最後に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(同26節)といって人を造られます。
神は、こうして宇宙を膨張させ、次に地球を造り、海を造り、植物を造り、最後に人間を造ります。
神は、六日間で天と地と、その中におく一切のものを創造し、最後に人を創造された。
そして、すべて造られたものを見てよしとされ、七日目に休まれた、とあります。
天地創造の細かいところとはわかりませんが、創造主である神が存在し、天地の実在と人類の存在そのものが神のはじめの業であることを聖書は啓示しています。
この「創世記」はモーセ五書の一つで、写本が残っているそうです。
モーセは、おそらく幻をもって啓示されたのでしょうが、神話というよりも信じる者にとっては事実を比喩的に表現したものだと思います。
この世界は、神の被造世界であることが明確に啓示されています。
そして、言えることは、神がどのような方かというと、それは人間を、天地万物を見ればわかるということです。造った方を知りたければ、造られた被造物を見ればわかります。
⑷ 人間の創造
創造の御業の頂点は人の創造でしょう。だから最後に人が創造されます。
私は科学者でないので、詳しくはわかりませんが、被造世界すべて、あらゆる物の秩序というか法則を見ても人間の存在に最適に作られているように思います。
創世記1章26から27節「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」です。
神は人だけをご自分にかたどり、ご自分に似せて創造された。それは、人を御自身との交わりの対象とされたということでしょう。
人の体は土の塵で造られているが、神の命の息、すなわち神の霊を吹き込まれて生きた者になったのです。(創世記2章7節)
⑸ 人間の神との交わり
神の命の息、すなわち神の霊によって人は神と交わり、神と同じ生命に生きる存在であったのです。
現在の人類は、そこから始まっていて、その子孫です。
ところが、人は悪魔の化身である蛇にそそのかされて、「それを食べると必ず死ぬ」と言われていた善悪を知る木の実を食べてしまったのです。創造神の忠告に逆らったのです。
神に敵対する悪魔(霊的存在)の誘惑によって騙されたとは言え、背神という根元的な罪を犯してしまったのです。(創世記3章「蛇の誘惑」)
⑹ 人間の離反(的外れ)
その結果、神との交わり(神の命の息、創世記2章6節)は断たれ、人間に内住する霊は活性を失い、自らを恥じて神の前から隠れるようになってしまったのです(創世記3章「蛇の誘惑」)。人間は神に似せて作られたので、もともと霊的存在ですからこのようになるのです。
この人間の創造と神からの離反は、預言ではなく神話的な形式で語られていますが、これは現実の人間そのものの姿を啓示する言葉であると思います。
この物語で「人」と訳されているヘブライ語原語が「アダム」です。
本来アダムとは人自身のことですから、アダムの姿は人間そのものの姿なのです。
そして、わたし自身の姿でもあります。
人の背神によって神は人と交信できなくなり、常に人間に注がれていた命の息は途絶え、神のはじめの業である天地の万物も死の影を宿し、滅びにむかうものとなったのです。
神の御業の歴史はすべてこの事実から始まります。
この死と滅びの中から人間と天地万物を救い出して、神の栄光に与るものとして完成すること、これが人類救済史の究極目標となる。
つまりそれがイエス・キリストの救いのみ業なのです。
もちろん、それが黙示録21章の「新しい天と新しい地」、そして、そこに住む新しい人間の創造につながるわけです。
そこに至る道筋が、神の人類救済のマスタープランであり、天地万物の創造、ひいては人類の創造の御業が最終的に完成した姿だと思います。
⑺ 宇宙は牢屋
聖書では、イエスが悪霊と化した天使達を閉じ込める暗闇を造ったことになっています。
そして、彼らをその暗闇に追い落としています。
ペトロ2手紙2章4節に「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。」とあります。
「暗闇」というのは、(この私たちが住んでいる世界も含めた)宇宙を指しますから、宇宙という牢屋の中に罪を犯した無数の悪霊たちが閉じ込められているのです。
そして、悪霊の親分悪魔は牢屋と化した宇宙の牢名主(ヨハネ14章30節の「世の支配者」)です。
その悪魔が支配する世である牢屋に、天における「創造霊」イエスは海を造り、空を造り、陸を造り、自然を造り、動物を造り、そしてその中に神と交信できる霊を入れた人間を造ります。
なぜそのような最悪の支配する環境の中に生まれたてのうぶな人間を置いたのか。・・それは黙示録21章の「新しい天と新しい地」、そして、そこに住む新しい人間の創造につながるのでしょう。
<エデンの園>
エデンの園はどのようなところか。ポイントだけ取り上げて書いておきます。
エデンの園は、自分で苦労して作らなくても、食べ物は豊富で産みの苦しみもない。気候もよく、死もない世界です。そこに住む人間アダムらは、自由意志はあるが、善悪の判断は神にゆだねられます。
⑴ アダム、イブ、エデンの園。
悪魔の牢屋と化した宇宙に、地を造り、神と交信できる霊を入れた人間を造り住まわせるために、その地にエデンという特別な庭園を造り、そこに人間アダムと、イブ゙を造り置きます。
人間アダムには神と交信できる霊を入れられます。
創世記1章26から27節「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」です。
現在の人類は、そこから始まっていて、その子孫です。
このように、神(イエス)は、悪霊が閉じ込められた宇宙という牢の中にエデンの園を造り、彼らがその園で暮らすようにされますが、二人は、肉体を着た善良な人間で、何も知らないうぶな存在です。決して悪霊のように神に逆らっているわけではありません。
罪を犯したのも悪魔に唆されたからで、「善悪の木の実」をたべると、それが神に逆らうことになるとは思っていなかったでしょう。
このように二人は無知で善良なるがゆえに、巧妙な牢名主(悪魔)にだまされ罪を犯してしまいます。
二人は結局エデンの園を追い出され(創世記3章23節)悪霊たちと同じ罪人となって牢(宇宙)の中で、牢名主と彼の支配下の悪霊(堕落した天使)たちの影響下に置かれることになったのです。
宇宙という牢屋(悪魔と悪霊の牢屋、私達が住んでいるこの宇宙)の看守は、堕落した天使である悪魔ですが、イエスは、その天使を通じてアダムとイブに、いつも神を礼拝し神の判断にしたがって行動するように働きかけますが、看守はたまにしか見回りにこないので、その間を縫って、イブは神から「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない。」(3章2節)と警告されているのに、牢名主(悪魔)が「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ。」(創世記3章4節)と、木の実を食べるように誘いをかけます。
駄目だと言われれば、それをしたくなるのが人間です。
悪魔は天国で神に対抗して自分の王国を造ろうとして宇宙という牢に入れられた存在です。
そこで看守のこない間にそっと楽園にやってきてイブに自分の支配下に入る結果になるような行動をとるよう働きかけたのです。
いつまでも、神に従っていないで自分自身の判断で善悪を決めてやりなさいよ、楽しいよ、といって。あなたはそのような知恵もあるのですよ、とささやいたのでしょう。
でもね、悪魔は人間のように自由意志があるわけではないので、そのような人間に対する唆しも、神が許されているからできたといえます。
もちろんこのような事態になるのは、悪魔が閉じ込められている牢屋(宇宙)にエデンの園を置き、人間を創造し、うぶのままそこに置いたのですから、当然予測できたはずです。
それでイブは神の警告を無視して自分の判断で木の実を食べるのですが、イブはアダムにもその実を食べなさいといって勧めることになります。
イブを愛するアダムはイブがそうしたことを知って自分も食べます。
それで、イブらは神の警告を無視したのをきっかけに神の国、楽園であったエデンの園から追い出されます(創世記3章23節)。
神から離れた二人は、神の国であるエデンの園では暮らせません。
二人が楽園から追放(創世記3章23節)されたので、住民がいなくなった楽園は消滅します。
こうして楽園から追放された二人は、他の罪人(悪霊)達の住む、牢内(宇宙)の寒い空間で労苦して働き、苦しんで子供を産むことになります。
アダムとイブは、神から離れ、事の善悪は、自由意志と自己中心性の性質が支配するようになり、労苦して働き、子供を苦しんで生み子孫が増えていきます。
創造主である神の声は遠ざかるばかりですから、人間は自分がどこから来て、どこへ行くのか、なぜ生きているのかもわからないで、牢名主(悪魔)の誘いの声もあり、自己中心性の性質が前面に出て苦しみ生きていくことになります。
その子孫が現在の人類ですが、悪霊たちは今もこの宇宙で跋扈し、我々人類に影響を及ぼし続けています。
2000年前のキリストの十字架死と復活で、キリストは悪魔に勝利されましたが、悪魔らの活動はそのまま放置されています。それで、今でも悪魔らは自分たちの思い通りに人間を従わせようと誘いをかけています。
人間には自由意志があり、自己中心性の性質があるので、悪魔はその弱みに誘いをかけるのです。
そのためか、私達が住むこの世界はこのような悲惨な世界になり、もはや自分たちだけでは創造神が望まれる世界は作れなくなっているのです。
人間はこのように、この世(宇宙・牢)の中で、創造神と牢名主(悪魔)の二つの声の中に生きている存在ということになります。
その中で、神の御子イエスはこの世に来られ、人間に神と共に生きるように、そして、福音(救われる道を)を告知し、最終的のどちらを選ぶか自分で決めるように宿題が与えられます。
すなわち、宇宙という牢の中でも創造主を賛美し、創造主に従うことを第一にするなら、最終的に牢が火で焼却されても、その霊は天国に引き上げて天国に住まわせるといわれています。
逆に、あくまで創造主を否定し、牢名主(悪魔)の勢力に従って生きるならば、最後には彼らと共に永遠の火の海(地獄)に投げ込むといわれています。
⑵ エデンの園は神が直接統治されている国ですから、善悪判断は神の仕事です。
そのことを創世記は、善悪の知識の木から食べる(善悪を自分で判断する)と罪だと教えています。
人間アダムとイブは、エデンの園で悪魔に騙されて、神の警告を無視して善悪の知識の木から食べたのです。
人間には自由意志がありますから、悪魔の言葉を選ぶか神の言葉を選ぶかは自由です。
しかし、自分で善悪の判断などできないのに、創造主の警告を無視して木の実を食べたい誘惑に負けたのか、悪魔の誘いに乗り自分で物事の善悪を判断して生きていく道を選んだのです。
もともと、人間には自由意志が与えられているのと、自己中心性の性質があるので、そのようになるのは当然のことと思われます。
つまり、このような結果になるのは、創造神は、すべてご存じであったということです。
<神から離反した人間のその後>
善悪を自分で判断するようになった人間ですが、もともと人間は自己中心的性格で,その上自由意志が与えられていますから、そのことが人間には喜びとなり、最初は創造神との交わりを気にしながら恐る恐る、そして、慣れてくれば神から離反して自己流で善悪判断をすることが多くなります(創世記3章2から5節)。
そのような状態が日常的になると、神とは疎遠になりますます神から離れて、とうとう神から受けているいのちのエネルギー(命の息)を吸収できなくなります。
こうして人間が神から離れて勝手に生きるようになり、自己中心性が表に出てきて、悪魔の影響もだんだん強くなりますので、神は、人間を神の国であるエデンの園から追放せざるを得なくなります。
神の国では、善悪の判断は神の仕事だということは、善悪の判断は生きていくうえで常に必要なことで、且つ重大なことだということでしょう。
人間は神に創造されたのですから、神と同じように霊的存在です。だから、常に神と交流し「命の息」(創世記2章7節)を吸収しなければ生きていけない存在です。
善悪の判断も常に神に伺う必要がありますが、人間アダムとイブの霊は、その善悪の判断を自分でするようになり、神との交流が遠くなり、命の息を十全に吸収できなくなります。それによって、彼らの霊は、不全に陥ります。
それで、彼らの霊は、活霊であったのに死霊となり、死んだあと永遠の世界である神の国(天国)には行けなくなったのです。この地上世界だけの命になったのです。
だから、旧約時代の死者はすべて、そして、新約時代の福音を受け入れないで死んだ人々も天国に行かないで陰府(よみ)に行っています。
ここで重要なのは、「命の息」ですが、調べましたのまとめておきます。
「命の息」の原語は「ネフェシュ・ハッヤー」、七十人訳では「プシュケー・ゾーエー」と訳されているそうです。直訳は「生きている魂」です。
この「ネフェシュ・ハッヤー」は、人間特有のものではなく、いのちある者、生けるものすべての者ということです。
「ネフェシュ・ハッヤー」は、創世記2章21節の「肉」 と共に、人間を構成する重要な要素で、「息、たましい、いのち、自身、願望、望み、喉」という意味をもつ非物質の部分を指します。
「願望」「喉」という意味も持っているのですが、「喉」は身体的機能を持つ喉を表すだけでなく、飢え渇く存在、必要の塊、切望、欲望、旺盛な食欲、外から何かを得ることなしには生きられない存在、満たされることを常に求める存在を表わしているのではとされています。
つまり、すべての「ネフェシュ・ハッヤー」は、神のように自存できない存在、常に創造神に依存しなければ生きられない存在として造られているということだということです。
特に人間の場合は、すべての必要が神によって与えられて初めて生きる者とされたということで、他の被造物と決定的に異なります。
そのことを指し示しているのが、神が人の鼻に「命の息を吹き入れられた。」(創世記2章7節)という事実でしょう。
アダムとイブはなぜ腰の覆いを作ったか(創世記3章7節)。
原罪が入る前の二人は、裸であっても恥ずかしくなかったので腰の覆いをつけなくてもよかった。
「二人の目は開け」というのは、自分が裸であるのを意識する状態になった、ということでしょう。、裸であることを意識し、恥ずかしくなるのは、神から離反して、自意識(自我)が芽生えたということでしょう。
人の意識には潜在意識と顕在意識とがありますが、潜在意識が「霊の思い」で、顕在意識が自我で「知性の思い」となるのでしょう。
そして、その顕在意識に善悪の指針を示しているのが、これも神から与えられた「良心」なのでしょう。
顕在意識(知性)が愛せよと言っても潜在意識(霊)が憎しみの意識であれば、愛せない。
人間は潜在意識に支配されていますから、顕在意識が潜在意識を無視して別のことをしょうとすると、その人は葛藤にさいなまれ人格的に破綻します。
神の意識との交流の結果は、潜在意識(霊)ですから、その潜在意識である霊の健康状態は、神の命の息(いのちのエネルギーの充電度)によって左右されるということになります。
命の息(いのちのエネルギー)は、潜在意識が神の思いで、また霊ですから聖霊の意識となるわけです。
聖霊の与える意識は、ガラテヤ5章22から23節に「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」とあります。
ですから、「霊の結ぶ実」とは、その霊が人の霊(精神)に影響してもたらされる思いや行いのことでしょう。
だからこの潜在意識(霊の思い)に反する顕在意識(自我・欲望)が生まれれば人間は葛藤するのです。
このように人間は、通常、この二つの意識に影響されながら生きているといえますが、神につながっていない人間は、主に顕在意識に従って生きているといえるのでしょう。
聖霊は三位一体の神の三位格で、創造神から送られますから創造神と同一の神の霊です。
なお、意識と良心について考えてみますと、人の意識には、自分自身に対する意識と周りの世界に対する意識があります。
また、神様から授かっている良心は、この社会を生きていくために、何が正しくて何が間違っているのかを区別する能力です。
意識は私というものの存在、人間社会における私の場所を知るために必要ですが、「良心」は、私が、この世界で道徳的かつ社会的に受け入れられる方法で行動できるように導きます。
創世記のアダムとイブの腰の覆いで考えてみると、罪を犯す前のアダムとイブにおいても本能、つまり、性意識とか食意識は肉体を持っている以上存在していたのでしょうが、神の意識と潜在意識(霊)が完全に同化しているならば、アダムとイブの意識は神の意識(御霊の実)に完全に従属しているのですから、肉体を持って生きているアダムとイブでありますから性欲が発露するのは当然ですが、激しいものではなく、きっと穏やかなものであったのでしょう。
最初、腰の覆いは、「いちじくの葉」でしたが、神は二人をエデンの園から追い出す際に、「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」のです(創世記3章21節)。
「皮の衣」ですから、肉体から生まれる動物の欲望(本能)が表面に出るということを表しているのでしょう。
神との交流がなくなるので、神からの命の息が、だんだん薄れてきて、人間の動物的本能が表に出てくることを指しているのでしょう。
創世記3章15節「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」とは、その前の「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」とありますから、これを受けているので、「わたし」は神で、「お前」は(悪魔の入った蛇)で「女」はイブですから、悪魔の入った蛇とイブとの間に敵意、同時に「お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」ですから、お前(蛇)の子孫(悪魔の入った子孫)と女(イブ)の子孫(イエス)との間に、敵意を置くとなります。
ということで、「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」とは、女の子孫(彼・イエス)は、お前(悪魔の入ったアダムの子孫)の頭を砕き、おまえは、彼(イエス)のかかとを砕く、となります。
イエスが女(イブ)の子孫というのは、人間の霊は男親を通じて伝えられる(創世記2章7節で、「命の息」はアダムに吹き込まれた)から、イエスがアダムの霊の資質を受け継ぐ子孫ではないということでしょうか。
彼(イエス)は、「お前」(悪魔)の頭を砕き、悪魔は彼(イエス)のかかとを砕くのですから、頭を砕かれた方は致命傷になりますが、かかとを砕かれた方はそれ程ではありません。
この預言は、イエスの十字架上において成就しています。
この預言のすごいのは、この預言を授かった人は、その時にはこの預言の言葉が何を意味するか分かっていなかったと思うのです。
それでも重要な預言だと思って、きっと、そのまま(意味が分からない言葉のままで)残されたのでしょう。イエスの時代になって初めて、その意味するところが分かったのでしょう。
もちろん、イエスと悪魔の戦いですから、イエスを十字架死に追いやった人間(ユダヤ教僧侶ら)の背後に悪魔が働いているということです。
また、黙示録の最後の審判の時に、悪魔と偽預言者と獣(反キリスト)は地獄に送られるのは決まっていますが、そのほかの人間は「彼らの行いに応じて裁かれた。」となっています。
これは、そもそも人間が罪を犯したのは悪魔に誘惑されてのことで、人間は無垢であったので悪魔に唆されたのですから、確信犯ではありません。
人間は、神から離反して自己中心で生きるようになったので、人間は常に充填される「命の息」が不十分となり、死ぬものとなったのですが、これはイエスの十字架死でその罪が贖われて、イエスの福音を信じる者には常に充填されることになり、生きるものとなったのです。
被造物である人間の神からの離反は、神に対しての罪ですから、イエスの十字架でその罪が贖われたということです。
イエス(神は)は、全人類の原罪を、ご自分をささげることによって贖ってくださったのです。
もちろん、その恵みを授かるには、神との交流が自由意志のもとで回復されることが必要ですから、このことを真理と受け入れた人間についてのみ、永遠の命を与えるとされています。
このことで、悪魔は人間に手をだせなくなるので、これが「頭を噛み砕かれる」に対応するのでしょう。
でもね、現状は、イエスの十字架死と復活で、イエスは人間の原罪を贖い、悪魔に勝利しましたが、滅ぼさないで、おそらく必要だから、そのまま放置されています。
黙示録によると、終わりの日の千年王国が終わった後にすべての人々に対し「最後の裁き」があるのですが、その前にサタンは獣(反キリスト)と偽預言者と共に地獄に送られます(黙示録20章「サタンの敗北」)。
<ノアの箱舟と大洪水>
われわれ人間は、創世記のアダムとイブの子孫ですが、アダムとイブが悪魔に騙されて、(その意味も分からないで)神との離反の道を選んだので、神の「命の息」が途絶えたためその潜在意識(霊)は不完全なものとなりました。
神が直接統治されるエデンの園ですから、神と交信出来なくなったその霊は楽園を去らざるをえなくなります。
天国の雛形であるエデンの園は、本物の天国と同じように、罪が無い者、罪が赦された者しか入れないということになっているからです。
原罪(神から離反、的外れ)を負ってエデンの園から放り出されたアダムとイブの子孫は、その後、神から離れて自我と自己中心に生きることになり、その状態で、ますます増え広がります。
神から離反し自我と自己中心に生きている人間は、堕落し、罪は蔓延し、神はその人間の姿を見て嘆き、神はご自分の創造時のマスタープランの成就が、あきらめきれなかったのでしょうか、神の言葉に耳を傾け神を信じ生きているノアの家族を残して皆滅ぼしてしまわれます。(ノアの洪水創世記6章「洪水」)
ノアの家族に希望を託されたのでしょう。
神は、ノアに船を造らせ、そこに彼の家族と、全ての種類の動植物をひとつがいづつ入れさせ、大洪水を起こしてノアの家族以外のすべての人間を滅ぼしてしまわれたのです。
その後ノアの家族は増え広がり、その子孫が今の人類を構成することになります。
<バベルの塔>
創世記の11章です。有名なバベルの塔の話です。
この11章で創世記の最初の部分、歴史が始まる前の神話的記述の部分が終わります。
12章からはイスラエル民族の父、アブラハムという具体的な人物と神との関わりについて記していくという所に入っていきます。イスラエルの歴史に入っていくわけです。
さて、このバベルの塔の話ですが、ここまでは、どちらかと言うと人間の罪ということに関して、個人的と申しますか、その人が神に対してどういう関わり方をするのか、神は人間に対してどの様な関わり方をするのかといったことについて述べられてきたと思います。
しかし、このバベルの塔の話は、人の名前は一人も出てきません。
また、このバベルの塔の話は、これから人類の歴史が始まる前の段階に置かれています。この物語は、そこに何か大きな意味があると思います。
人類救済史が始まる前に、人類の歴史を総括するようにバベルの塔の話があります。
人間の罪は、単に個人の生き方、信仰の問題ということだけでなく、人間が集まって生活すればそこに社会が生まれ、文化が生まれる。その社会あるいは文化というものの中にも罪があるということでしょうか。
わたしたちは自分で意識することなく、自分が生まれ育った社会とか文化、環境に決定的な影響を受けています。
その社会なり文化なりが罪に染まっていれば、そこで生まれ育った人間は必然的に、罪を罪と思わなくて罪を犯す、ということもありえます。
それらが積み重なって罪にまみれた人間社会は作られた。神から見れば、目的があって創造し、そのために人間に自由意志を与えたが、それで、人間は自分から離反し自己中心に生きて、人間社会は罪に満ちることになった。そして自分で修復不可能な状態になった。
「バベルの塔」の物語は、もともと人間は同一の言葉を話し、統一された集団でしたが、そのために傲慢になり、神をも畏れぬ存在となります。
人間の傲慢を砕くために創造神は人間の言葉を分散しますが、言葉が分散された人間は、当然、同じ言葉の人間が集まりますので、多くの国を生むことになります。多くの国に分散すれば、その力は分散され巨大な悪は生まれないのですが・・。
では、文化に潜む罪とは何なのか。
創世記第11章3,4節「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」のです。
4節には、「彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。」とあります。
このバベルの塔の話が想定している場所は、メソポタミアで、現在のイラクのあたりだということです。
このバベルという言葉も、9節で混乱させるという言葉、バーラルから来ているとされていますが、多くの学者は、これはバビロンを指していると言っています。
バビロンには、大きな石を切り出せる所がありません。
しかし、チグリス川、ユーフラテス川によってもたらされた粘土には事欠きません。
調べていて知ったのですが、イラクとかサウジアラビアとか、ペルシャ湾の周りでは、石油がちょろちょろと自然に湧いていて、揮発成分が蒸発して真っ黒なアスファルトの池が出来ている所があるのだそうです。
人々はそれを焼いてレンガを作り、豊富な建築資材を手に入れたのです。
この新しい建築材料を手に入れて、彼らは何をしたか。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」(創世記第11章4節)としたのです。
しかし、「天まで届く塔」を立てて有名になる、ですから、それが、当時の社会の風潮であったのでしょう。
レンガとアスファルトを手に入れた人々は、天にまで届く塔を造ろうとしました。
そこには、素晴らしい建築資材を手に入れたので、それを使って高い塔を建てて力を見せ付けて、「有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」としたのです。
この言葉を読むと、「驕り」とか「傲慢」という言葉が浮かびます。人間の本性にはそういうところがあると思います。高い塔を建てて、自分の力を神に見せつけるのでしょう。
人間は、そのもつ傲慢性ゆえに、神になろうとした支配者が何人も生まれたことは歴史が示しています。
統一された言葉をもった人間は巨大な国を、巨大な権力を持つ支配者を持つようになる。それは傲慢へとつながり、敵がいなければ、神を求めて、自分を神とし、自分の創造神をもおろそかにするようになるのです。
「驕り」とか「傲慢」が行き過ぎると、人間は自分を神のように崇めることを求めます。
神は、そのようになるのを防ぐために、いろいろな言葉に分散し、互いの言葉が通じない様にされた。それが、色々な民族、色々な言語が生まれ、多くの国家が生まれた理由だということです。
統一された巨大な独裁国家の支配者は、敵はいませんから、あとは神を求めるしかないのでしょう。そして、自分を神として崇めるように強制するようになる。
言葉が統一された巨大な独裁国家のままでは、人間はますます神から離反し、罪のなかを歩み、やがて修復困難は状態、悲惨な状態を招くのは必然でした。
言葉の分散は、確かに、神の裁きでありますが、この裁きは、神が人間を愛する故に、大きな罪(神が介入しても修復不可能な状態)を犯すのを未然に防ぐためになされましたとも言えます。
そのようになれば、創造神は創造のご計画を達成できなくなるので、人間社会に介入されたのでしょう。
言葉というものは、単に情報を伝えるだけの手段ではなく、情報と共に、その人の思い、意志を伝える面があります。
言葉が通じないというのは、心が通じないということになります。
それは、人間が持つ本性である自己中心のなせることだと思います。
相手を支配し、自分の思いを通そうという思いからだと思います。人間の欲望には、切りがありません。
統一された巨大な独裁国家の支配者は、驕り「神のようになりたい」、と思うようになるのは、必然ではないでしょうか。
これは、個人だけの問題ではなくて、国と国、民族と民族、そういう単位においても同じです。つまり、言葉が乱され、多くの国と多くの民族ができても、人間の本性は変わりません。神は言葉を分散して巨大な悪が生まれないように願いますが、神の思惑が外れて、その後の人類は、悲惨な歴史を歩みます。
今でも、無慈悲な殺戮者が生まれています。そういう国家が生まれているのです。
人間をウジ虫に例えて踏み殺すと言っている独裁者もいます。
それで、人間を罪の奴隷から解放するために神は究極の手段をとりました。
それが、神の御子イエスの十字架による、全人類を罪から贖うための御業なのです。
言葉が分散されたので、色々な民族、色々な言語が生まれましたが、統一された国家の民族よりいろいろな民族・国家に分割された社会の方がキリストの福音、救いの御業の伝道には、よりベターなのかもしれません。
すなわち、御子イエスの十字架死と復活、そう福音を延べ伝えることによる救いの御業である福音伝道は、国家から国家ではなくあくまで個人から個人への宣教によってなされるからです。信仰はあくまで個人から個人に言葉によって伝えられるものです。決して国家とか一宗教団体ではないのです。
なお、11章1節に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」とありますが、
バベルの塔で人間が散らされたということは、それ以前は単一民族で、単一の言語であったはずですが、その民族はノアの子孫であり、言語はヘブライ語ではないかと思います。
<アブラハムとイスラエル民族>
神はアブラム(イスラエルの父祖)を選び、彼とその子孫(イスラエル民族)を通して罪に沈む全人類を救おうとされました。神の全人類救済計画の始まりです。
神はそのアブラハム(アブラムを改名)に対し、その子孫を「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(創世記22章17節)と約束をされます。その子孫がイスラエルです。
そして、この子孫が形成する民族イスラエルを、以後神の人類へのメッセージの受け皿とするのですが、このメッセージの記録(律法、預言書と歴史書など)を編集したものが旧約聖書ということです。
なお、アブラハムの時代は族長時代で、聖書ではアブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されています(創世記12章から36章)。
イスラエル民族はヤコブの子孫になります。
イスラエル民族は、奴隷となっていたエジプトから神の導きによって脱出するのですが、その経緯は、族長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されています。(創世記37-50)。
ヤコブの末っ子ヨセフは、兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢の解き明かしと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて飢饉から救います。
ヤコブの末っ子ヨセフの一族は、エジプトの地で増え広がりますが、奴隷の身分であったので民の不満は満ち、やがて、王朝が変わったのを機に出エジプトとなります。
その子孫がイスラエル民族となります。
創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記18:20-19:28)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32章23から33節)が有名です。
<出エジプトと十戒(律法)>
ヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエルの民は、ヨセフが死に、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになります(出エジプト1章1から14節)。
そこに、エジプト王室の一族として教育を受けたイスラエル人であるモーセ(出エジプト2章1から10節)が、神から召命を受けて立ち上がり(出エジプト3章1節から4章17節)イスラエルの民を率いてエジプトを脱出し(出エジプト5章1節から15章21節)、神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間荒野のシナイ半島を放浪します(出エジプト15章22節から40章38節)。
この40年間の荒野の放浪は、出エジプト時のイスラエルの民がすべて死んでしまう期間ですから、民の罪を清める期間でもあるのでしょう。
これらはすべて神の御心であったとされています。
出エジプトの際、エジプト王はイスラエルの民がエジプトを出ていくのを拒否したので、神はモーセをもって数々の奇跡でエジプト王を威嚇し(出エジプト7章8節から11章10節)、イスラエルの民の出エジプトを実行します。
それでも必要に追いかけてくるエジプト軍の追跡を逃れるために神は海を二つに割ってイスラエルの民を逃がし、追いかけてくるエジプト軍が二つに割った海を渡るときに二つに割った海を元に戻し全滅させるなど(出エジプト13章17節から30節)数々の奇跡で導かれます。荒野では、神は「火の柱、雲の柱」をもってイスラエルの民を導きます。
また、荒れ野では民の空腹による食べ物の苦情には、「マナ」を降らせることにより助けられた。
現在も続くユダヤ教の行事、過越祭/除酵祭、仮庵祭などはこの荒野放浪時代の故事にちなむものとされてます。
荒野放浪の際、シナイ山でモーセとイスラエルの民は、神から律法の中心的な戒である十戒を授かり(出エジプト20章1から16節)、他にも律法規定として様々な祭儀規定や倫理規定、法律などを授かります(出エジプト19章1節から34章35節)。
十戒は偶像崇拝の禁止とか殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定しています。
この十戒を基にして神はイスラエルの民と契約を結びます。このシナイ山での契約は、シナイ契約と呼ばれユダヤ教の根幹をなします。
神がイスラエルに民に十戒(律法)を与えられたのは、神が人に被造物としての在り方を提示すると同時に、律法(律法)を守ることのできない罪人であることを明確にするためでしょう。
それゆえ私たちには救い主が必要なのだということです。
つまり、神は私たちに祭儀でご自分の存在を常に意識させ、律法(律法)で何が正しくて何が罪かを教え、自分が罪びとであることを自覚させ、そして、そのためにやがてこられるメシアキリストを預言し準備するものといえます。
ですから、祭儀とか律法の有効期間は「約束を受けたこの子孫が来られるときまで」です。
この「子孫」はキリストで、預言は、キリストは長子、律法では男の長子『初子』を神にささげてなければならない(清めの期間7日が過ぎてから、実際は代わりの小羊、または山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽をささげた。申命記15章19節から23節)とあり、これはキリストの十字架の預言とされています。
なお、律法は、御使いたちを通して仲介者の手で定められました。
ガラテヤ書3章17節に「それから四百三十年後にできた律法が無効にして」は「約束を受けたこの子孫が来られるときまで(到来が約束されている子孫=キリストのこと)」とあるように、律法の果たすべき役割には有効期限が設けられています。
イスラエル民族に対する神のメッセージは、イスラエル民族の中から特定の人物が選び預言者とし、その者が神の言葉を預かる形で進みます。
出エジプトで活躍したモーセも預言者で、同人を通して神はイスラエル民族に十戒(律法)が与えられました(出エジプト記20章)
それはイスラエルの民に神の民としての自覚と、規律とまとまりを持たせるためでしょうか。。
イスラエルの民は出エジプト後、神がイスラエルに与えると約束されたカナンの地に至るまで荒野を四十年にわたり放浪するのですが、放浪の中でイスラエルは、この預言者によって統率され、民族としてのまとまりをもつようになります。
民族の統率は、後に、士師という政治的・軍事的指導者がその役割を担うことになります。
なお、カナンの地の範囲ですが、北はダン (現在のテルダン)、南はベエルシェバ、東はヨルダン川、西は地中海です。
カナンの地に定着したイスラエル民族は、民の求めでやがて王制に進みますが、その王の二人目の王ダビデは、王であると共に預言者でした。
そして、神はこのダビデの家系から救い主をだすという啓示を与えています(第二サムエル7章14節から16節)。
<旧約聖書の成立>
旧約聖書の成立過程を調べてみると、紀元前5世紀には、モーセ5書がユダヤ民族の根本的な成文律法とみなされるようになり、この規範に従って、日常生活・社会生活が営まれるようになったということです。
そして、モーセ5書(律法)は、紀元前300年には完全な形をとり、預言書もおそらく紀元前200年までにはおおよそ完成したのではということです。
問題は、諸書でしたが、ラビ(ユダヤ教の教師)たちによって西暦100年頃に、当時のユダヤ人の精神的中心地ヤブネで、正典が確立され、以後追加も削除もいっさい行われていないそうです。
ですから、時代区分では、旧約時代は、創世記からイエス初臨までの時代ですが、イエスがおられたときは、おそらく律法と預言の書が完成していたと思われます。そのほかの書は未完成です。
旧約聖書の完成過程は、まず、神から預かった預言者(律法と預言の書)の言葉が書き留められ、かつ民に話し伝えられます。
その中で、言い伝えとか口伝律法が生まれ、それらが蓄積し、ユダヤ人の中に滞留し、その思想がユダヤ教を生み、ユダヤ人の宗教(ユダヤ教)の教典ということになったのでしょう。
先にも書きましたが、律法と預言の書は紀元前200年ころにはほぼ完成、そのほかの諸書は遅れて最終的に完成したのは、西暦100年頃です。
なお、ユダヤ人が神に対して過ちを犯したのは、祭祀など統治する人々が、モーセ律法より統治するに都合良く作成された言い伝えとか口伝律法を重視したことに問題があったのではと思います。
その流れの中でイエスが現れて新約時代が始まるのですが、イエスはこの旧約聖書(この時に完成していたのはモーセ五書と預言の書のみ)は、そもそもユダヤ人だけのものではなく、地の果てまで述べ伝えるべき、人類全体のメッセージであると教えられます。
また律法として、また預言の書として編纂されたこれらの書は、救い主が現れるという預言でもあり、そこで証言されている対象、すなわち救い主は私だとイエスは宣言されます。
そのためにイエスはメシアイエスを拒否する人々によって殺されますが、その教えが旧約聖書として世界中に広まった結果、人類すべてに告知されるようになり、今日にいたっています。
<旧約聖書の神と新約聖書の神>
最初聖書読んで、誰もが思うことは、聖書の神でも旧約聖書の神と新約聖書の神は大きく違うことです。
旧約の神は、預言者という特定の人間を通してその意志を伝えていますが、残酷な神です。
よく聞くのが、旧約聖書の神は皆殺しの、無慈悲な神だ、新約聖書で語られる愛の神はどこに行ったのだ、です。
神は、全人類を罪から救済のためにイスラエルの民を選び、イエスの誕生を予定する為にイスラエル民族を躾、育てるのですが、そのために神はユダヤ民族の純粋を守り、教育し、必要ならば人間(異邦人、イスラエル民族以外の人)を虫けらのごとく殺し、またそのように命じます。
時には皆殺しを命じられます。殺される人間一人一人に対する配慮などありません。本当に全人類を罪から救済しょうとされている愛の神かと疑いたくなります。
神はご自分に似せて私たちを造られたと創世記に記載されていますから、神がどのような方かを知りたければ、人間を含めたすべての被造物を見ればわかります。
神はそういう方なのでしょう。自然は残酷で無慈悲です。人間もある意味残酷な存在です。
誰かが言っていました。その殺された人間の命は使い捨ての命なのかと・・。
このように旧約聖書の神は、見たところ残酷で無慈悲です。新約聖書の愛の神と大違いです。同一の神とは、とても思えません。
しかし、よく考えると、殺された人間が使い捨ての命に見えるのは、人の目から見た見方です。
それでは、神の目から見た見方はどうなのでしょうか。
神の目で見れば、人間の死は、肉体の死であり、本体である霊は死んでいないから大した問題ではないのかもしれません。
肉体は時間が来ればだれでも滅びる仮の住まいです。
人間の本籍は天国にあるという考えです。
しかし、殺され方が残酷であれば、さぞ苦しかったことでしょう。
でも、新約聖書で語られる愛の神が本当の神の姿ならば、次ぎの世で、きっとその人たちの魂を癒されているではなかろうか、と思いました。
人間のこの約80年の地上の人生は、永遠の命に生きる人間のほんの一過程に過ぎないのです。しかし、神の全人類救済計画、新しい人間の創造計画の中で必ず必要な過程なのでしょう。
黙示録の最後の審判で、人間はその行いで裁くとなっていますが、それは天国に入るためには、生前の行いは清算しておく必要があるからでしょう。
それに、「神を愛する者たち」の生前の行いは、ローマ人への手紙8章28節に「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあります。
「神を愛する者たち」にとっては、この地上の人生の出来事において、無駄なこのとは、何一つないのです。
参考にイエスの私たちに対する思いを延べた箇所がありますので、登載しておきます。
聖書の箇所は、マタイの福音書18章12節「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」です。
この聖句を読むと、たかだか80年の現世で(様々な事情があるのに配慮もなく)キリストを受け入れないで死ねば地獄に行くなどという考え方は、どこから来るのでしょう。
さまざまな事情のもとに人は産まれ、生き、死にます。
たまたまキリストの福音を知らないとか間違って福音を受け取っていても、その人の責任でない場合がほとんどでしょう。救いが運で決まるのならば、ケセラセラです。
キリストは、最後の一人が救われるまで、この世においても、来世(陰府か)においても何度でもチャンスを与え、忍耐強く待っておられます。
<イエス誕生の預言とその後>
イエス誕生の預言は、代表的なところを一つ記しておきます。
聖書の箇所は、イザヤ書53章1から6節です。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」です。
<新約時代>
新約聖書にはイエスがこの地上に来られてから、この宇宙が火で焼かれて最後の審判が行われ神の人類救済計画の終了し(創世記20章)、そして、人類社会の最終ゴールであ「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」の創造に至るまで記されています。(創世記21章)
新約時代は、神の御子イエス・キリストの初臨、すなわち、約2000年前にイエスが人の姿をとって人間社会に来られてから始まり、十字架で殺されましたが、三日後に復活されます。
復活を疑問に思う人もいますが、聖書を読んでみますと、新約聖書は「復活」があったことを当然として事態が進行していて、イエスに敵対している勢力もそれを当然のこととして受け止めています。
なお、聖書の証言は作文と言われる方は、弟子たちの変化、すなわち、弟子たちはイエス復活以降180度変わり、イエスが命令された福音の伝道活動に命を賭けて挑むことになります。ほとんどの使徒は、残酷な殺されたかたで殉教しているようです。
一瞬にして、人を一変させる力は、やはり、イエスの復活を目撃、いや、体験したからでしょう。それも生前に預言されていましたからね。
使徒時代以降にもそのような方が多く生まれています。
一瞬にして、人を一変させる力と言えばマザーテレサもそうですね。列車の中でイエスの声を聴き、召命を受け人生が変わったひとりです。
生前イエスは、自ら人間の言葉で、この世界の真理を語られます。
イエスは、人間の言葉でさまざまな教えを述べるだけでなく、自ら十字架に架けられ殺されることによって、人間の原罪の贖いと悪魔の束縛から解放する条件を整えることになります。
そのことを伝える言葉は「福音」と言われ、その内容は次の通りです。
聖書の箇所は、第一コリント15章3節から5節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」
もう一か所は、新約聖書ローマの信徒への手紙1章16節「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力である。」です。
⑴ イエスの残した言葉(福音)を自由意志の元に受け入れれば祝福され、す
なわち、神の国、天国に入れ、受け入れないのならば、神から離れた世界、すなわち、悪霊(悪魔)に支配された呪いの世界のもとで生き続けることになります。
今の私たちは、そういう二者択一の条件の下で生きているという思想です。
⑵ 御子イエスの十字架の死により、すべての人間の神からの離反の罪(原
罪・的外れ)は神によって贖われ、神は人間との交流を望まれましたが、神との交流には聖霊の内住が必要で、そのためにはその人は自らの自由意志で福音を受け入れるという条件があるのです。
神は、そのために使徒をもって忍耐強く個人から個人に時代を経て福音を宣べ伝え、時には裁きを行い私たちが神のもとに戻ってくるのを待っておられます。
ここでの問題は、このイエスの福音を受けいれる時期です。
一つは、この地上で生きているうちに受け入れる必要があるという説です。
もう一つは、陰府においても福音を受け入れるセカンドチャンスがあるという説です。
私は後者です。なぜ後者かと言いますと、一言で言いますと、その方がキリスト信仰を矛盾なく受け入れることができるからです。
そうでしょう。人間は神に似せて作られた永遠の存在です。その人間の命が、たがが80年のこの地上世界での行いで、それも不公平極まりない世界での行いで決まるのはあまりにも不公平です。
教会(あるいは、キリスト者)の仕事は、そのように福音を全世界の人々に延べ伝えることです。
ただし、この教会は牧師がいて、奉仕者がいて、立派な建物があって、厳かな雰囲気で礼拝をおこなっている一宗教法人の教会ではありません。
イエスは、わたしを信じる者が二人いれば、わたしはそこにいるといわれていますから、それが教会です。すなわち、エクレシアです。
マタイの福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである、。」とあります。
エクレシアをネットで調べると、
「人々の集い」の意味から転じ、キリスト教においては神の呼びかけで人が集まるという意味(教会の字にある宗教の意味の「教え」は入っていない)となる、ということです。
今はその時代で、教会時代(信徒がキリストの福音を全世界に宣べ伝える時代)ともいわれています。
それは、この時代が終わる7年の大艱難時代まで続きますが、そこで問題になるのが、その7年の大艱難時代はいつ始まるのか、聖書はどのように預言しているのかを見てみたいと思います。
キリストの福音の伝道は、個人から個人ですから、今では教会でなくてもブログとかYouTubeなど多くの手段が用意されています。
事実、多くの牧師とか信徒がブログとかYouTubeで聖書の言葉を発信しています。
<イエス・キリストの空中再臨と空中携挙>
7年の艱難時代が始まる前(艱難時代の終わりという説もあります。)にキリストは空中再臨されます。
聖書箇所マタイ24章30節には「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」とあります。
黙示録20章4節には、「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。」とありますから、その「多くの座」に座っている人は、イエスの空中再臨の際に引き上げられた人を指すのでしょう。
また「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂」とありますから、これは、殉教者と偶像礼拝しないで獣の刻印が押されなかった人が復活することを指すのでしょう。
次の空中携挙と関係します。
さて、聖書箇所マタイ24章31節には、「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」とあります。いわゆる、空中携挙です。
イエスが空中再臨されますと、地上にいる人間のうちイエスの言葉を受け入れて、その霊の内に聖霊が入った人々(聖徒)の体が変容します。
そして、空中に引き上げられて、イエスとともに空中に留まります。
その際に地上にいる人々のうち「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(マタイ24章40と41節)。つまり、二人がいると一人が残されるのです。
自称クリスチャンと言われる方でも、半分は神様から見れば似非だということです。
テサロニケ1の手紙4章16と17節には、「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」
<7年の大艱難時代>
⑴ 終わりの日の終末に訪れる7年の大艱難をイエスの預言で見ると。
聖書の箇所は、マタイの福音書24章の「終末の徴」の箇所です。
マタイ24章3節はキリスト「再臨の時の前兆」で、マタイ24章5-7節の「終末の徴」の箇所です。
聖書の預言は、原則としてその受け皿はイスラエル民族ですが、ものによりその預言が誰を対象にしているかが問題になります。
その預言がイスラエルの民とその周辺に起きているかどうかが直接的な手がかりとなります。
・マタイ24章7節と8節「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」
・マタイ24章9から12節「そのとき、あなた方は苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」
・マタイ24章22節「神がその期間(苦難の期間)を縮めてくださらねければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めて下さるであろう。」
・マタイ24章14節「御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に延べ伝えられる。それから、終わりがくる。」。
・マタイ24章16節から20節「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にあるものを取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。」
⑵ 7年の大艱難をダニエル書の預言で見ると。
聖書の箇所は、ダニエル書9章27節「彼(イスラエル)は一週(7年)の間、多くの者(国家)と同盟を固め」ますが、「半周(3年半)でいけにえと献げ物を廃止する(神への礼拝を国家権力で止めさせる)。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。」です。
「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすもの・・」の「憎むべきもの」とは、マタイ24章24節(偽預言者)と黙示録19章19-20節(獣はイエス信仰を迫害する連合国支配者、反キリスト。馬に乗った方は再臨のイエス)に対応するのでしょう。
偽預言者は悪霊の支援で働くのですが、悪霊も霊ですから、創造神が許された範囲という限界はありますが奇跡を起こすことができます。
ヨハネ1の手紙4章1節は、「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。」、つまり、霊だからといってみな信じてはいけないといっています。
⑶ 7年の大艱難の発生時点におこること
大艱難の発生時点は、イエスが、「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」と言われています(マタイ24章36節)。
イエスが、「だれも知らない、ただ、父だけがご存じである」といったのは、ヨハネ17章5節でイエスが、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」とあるからです。
このみ言葉は、いま、イエスが地上にいますが、天国にいるときは、創造霊のままですから全知全能ですが、この宇宙(地上)に人の子として肉体を持って来られた際には、その力はすべて天に置いてきているということでしょう。
だから父なる神からその力を受けなければこの地上では何もすることはできないのです。
なお、「栄光」ですが、何か創造神から放射されているエネルギーというか、光をイメージします。エネルギーとはすなわち力です。
⑷ 大艱難時代は黙示録では6章から16章に記載されています。
裁きは、「七つの封印の裁き」、「七つのラッパの裁き」、「七つの鉢の裁き」と三つの段階を経て進行します。
艱難時代は、前半の三年半と後半の大艱難とが合わさった7年間とされています。
艱難時代の目的は、神の怒りが満ちて、すべての民族に裁きが下ります。
人間社会が終わりを迎えるに際し、最後の裁きとなるのですが、中心となる目的は、神の民であるイスラエルが最終的に神に立ち返るためであり、そのためにどうしても必要な産みの苦しみなのです。
そう、その苦しみはすべての民族が救いに与るために与えられた産みの苦しみといえます。
神は最終的に全人類を罪から救われると思うのですが、その順番は、イスラエルの民が救われて異邦人の救いに導かれると思うのです。
もちろん、教会時代は、後の者が先になり先の者が後になるのですがね。(マタイの福音書20章1から16節「ぶどう園の労働者のたとえ」)
<ハルマゲドン>
聖書の箇所は黙示録16章14から16節ですが、ハルマゲドンは、戦いではなく「メギドの丘」を意味します。
ハルは丘、ハルメギドは「メギドの丘」という地名だそうです。
この丘に、「全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」(16章14節)と書いてあるだけで、ここで人類最終戦争が起きるとは書いていません。
この「全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼ら」の「彼ら」とは、「竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のように汚れた三つの霊・・これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところに出ていった。」とありますから、悪霊・偽預言者・反キリストを指すのでしょう。
<イエス・キリストの地上再臨>
千年王国が始まる直前にキリストは艱難時代を終わらせ千年王国を築くために地上再臨されます。
地上再臨の徴は、聖書の箇所はマタイによる福音書24章29節と30節「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」です。
すでに死んでいる旧約時代の信者とか教会時代の信者、艱難時代の殉教者たちは、、キリストの地上再臨後に復活します。
そして、同31節「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」ですが、この「四方から呼び集める」は、艱難時代を地上で生き残っている信者たちを指すのでしょう。
イエス・キリストが、天使たちと携挙されたすべての聖なる者たちを引きつれて、反キリストの攻撃を避けるためにイスラエルが非難したボツラの地に再臨されます。そして、反キリストとの戦いに挑まれます。
黙示録の聖書箇所は二か所あり1章7節と8節の「⾒よ、その⽅が雲に乗って来られる。すべての⼈の⽬が彼を仰ぎ⾒る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の 諸⺠族は皆、彼のために嘆き悲しむ。」です。
この「嘆き悲しむ。」には、それまでキリストを拒否していた人たちがキリストを目の前にして後悔し嘆き悲しむのでしょう。
それと22章12節の「然り、アーメン。神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる⽅、全能者がこう⾔われる。「わたしはアルファであり、 オメガである。」です。
<千年王国の時代>
聖書の箇所は、黙示録20章1から3節です。
千年王国が始まる前に、御使いがサタン(悪魔)を「底なしの淵」に閉じ込めてしまいます。
悪魔(悪魔は悪霊軍団の親分)は千年が終わるまで閉じ込められますが。
悪魔に従って神に逆らった天使である悪霊は、もともと自由意志が与えられていませんから、親分がいなくなれば、命令する者がいなくなるので、動けなくなってしまいます。
人の思い(潜在意識)は、霊がもたらすので悪霊の働きがなくなれば、人はもう悪い思いを抱くことがなくなるのでしょう。
そうすると、人の霊は命の息を十全に受信できるようになり、充電度も飛躍的に増し霊は活性化し、病は肉体の病は残りますが、精神的なものはほとんどなくなり、地上に楽園がもたらされます。
この千年王国の統治者は、殉教者と7年の艱難のときにイエスの信仰を守って殺された人たちが復活し、イエスとともに統治することになります。
そして、統治形態はイエス・キリストお一人を絶対権力者とする独裁政権国家です。
恐ろしくもありますが、私たちは神の被造物ですから、被造物は創造神の意志に従って生きるしかないのです。それが神の国の姿です。
黙示録20章4節の「多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。」は、艱難時代が始まる前に空中携挙された信仰者だと思いますが、その者も統治に参加するのでしょう。
なお、20章6節「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治す
る。」の「彼ら」とは、イスラエルの⺠で、反キリストの⼤艱難の中で殉教した⼈たちで、
彼らは、祭司となって何らかの裁きを⾏う地位に着くとされています。
異邦⼈を多く含む「教会」も、同じく祭司としての務めを果たしますが、イスラエルの⺠とは統治エリヤが違うのでしょう。
イスラエルの民は、世界の中⼼であるエルサレムで、異邦人はそのほかの諸国なのでしょうか。
<サタンの解放と敗北>
聖書の箇所は、黙示録20章7から9節(サタンの敗北)です。
キリストが統治する千年王国の千年が過ぎると、悪魔(サタン)はその牢「底知れぬ淵」から解放されます。
サタンが解放され自由に活動することができるようになると、悪霊の命令系統が復活して悪霊軍団が再び地上に住む人たちを反キリストに誘い込む活動を開始することになります。
この悪魔と悪霊の解放は、地上の人に対するキリストの福音を受け入れるか否かの最後の試みとなるのでしょう。そう、悪魔の誘いに乗るか否かの試みですね。
なぜこのようなことが必要なのかですが、千年王国の居住者は全員キリスト者ですが、その中には艱難時代を生き残った人々がいます。その人々は肉体の体ですから子供を産みます。
産まれた子供は千年王国の統治者がキリストであってもキリスト信仰を当然に、正確に受け継ぐとは限らない、よからぬ思いを描き悪魔の誘いに乗って反キリストに走る者も出てきます。
千年王国時代に生まれてもその人は私たちと同じで肉体の体で、罪を犯す性質(自由意志と自我)を持っているのですから、十分に考えられます。
つまり、この最後の試みは、千年王国に肉体で住む者の(キリストの福音を受け入れるか否か、あるいは、真のキリスト者であるか否かの)試みだといえないでしょうか。
サタンらが敗北する姿は、黙示録20章9から10節「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」
同11節「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。(宇宙の消滅)」。同21章1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。(新しい天と新しい地)」です。
<最後の裁き>
聖書の箇所は、ペトロ2手紙3章7節「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。」
つまり、この私たちが今見ている天と地は、やがて宇宙消滅の時、火で滅ぼされるのですが、その時には、地上で肉体のまま生活していた人間は、裁かれた後、その肉体が焼かれて死に、霊になります。
他方、それまでに死んだ人々の霊の内、イエスの空中再臨のときに復活した人(キリスト者)以外の霊は、霊のまま「陰府」にいます。
それで、最後の裁きが始まるのですが、それらの人々が復活の身体(どのような身体かは聖書には記載なし)を着て蘇って、裁きの場に出されます。
その裁きは、天国に行く者と火の池(地獄)に行く者との仕分けをする裁きです。
この裁きがなされる方式は、「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方(創造主)を信じる(すなわち創造主を知ること)者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(裁きの免除)。」(ヨハネの福音書5章24節)です。
これはイエスの言葉ですが、「わたしの言葉」はキリストの福音で、創造主を知るは、「わたしをお遣わしになった方」を知る、つまり、イエスを遣わされた方を知ること、すなわち、その方が「自分以外の万物を創造した存在」であることを銘記することです。
また、イエスの教えには、創造主とイエスが一体であることが含まれていますから、父なる神と子なるイエスのどちらを先に知ったらよいかという問題がありますが、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方(創造主)を信じる(すなわち創造主を知ること)者」ですから、イエスが先なのでしょう。
つまり、イエスの福音を聞いて創造主を知るのです。
でも私は創造主である神の存在を知りイエスを知りました。両者一体ですから、どちらが先でもよいのではないでしょうか。
<裁かれない者>
聖書の箇所は、黙示録20章6節「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」です。
この「第一の復活にあずかる者」は、裁かれない者ですが、裁かれない者の一つは、「第一の復活にあずかる者」、すなわち、再臨のときに復活した人(黙示録20章4節)は第二の死は何の意味もない(黙示録20章6節)のです。
この第二の死とは、黙示録20章14節の最後の審判で「火の池(地獄)に投げ込まれる」ことです。
裁かれない者の二つ目は、悪魔、獣、偽預言者です。(黙示録20章10節)。この三者は、地獄行きが決まっているので裁く必要がない。
悪魔は宇宙が消滅するとともに火の池(地獄)に投げ込まれるから裁きはない。獣と偽預言者は、千年王国が始まれる前にすでに火の池(地獄)に投げ込まれている(黙示録19章20節)。
裁かれない者の三つ目は、生前に福音を受け入れてイエスを信じた人(ヨハネ3章18節)です。
裁かれない者の四つ目は、イエスに直接福音を語られて信じなかった人は裁きがなく火の池(地獄)に直行(ヨハネ3章18と19節、ヨハネ12章47と48節(言葉が裁くとは裁きをパスすること))です。
「神の独り子の名を信じていないから」すでにその時点で「既に裁かれている。」のです。
<聖書は不公平か>
それでは、前節に書いた「裁かれない者」以外の人、つまり、福音を知らないで死んだ人です。
生まれた環境など何らかの事情で福音に出会う機会がなかった、伝え方が間違っていたとかで誤解していたとかで、キリストの福音を知らないまま死んだ人などは、どうなるのでしょうか。
そういう人は裁かれないとは書いていないので、みな裁きの場にだされるのでしょう。
それは、黙示録20章12節「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」の「死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。」に該当する人々でしょう。
そういう人たちは(生前の)行いに応じて裁かれるのです。
わざわざ裁くのですから、地獄に行くとは決まっていません。決まっているならば、悪魔のように裁く必要はなく、即、地獄に送れば良いのです。
その人の責任によらないで、また、キリストを知る機会がなく福音を知らないで死んでしまったのなら、行いを裁くしかありません。
人間が天国に入るのには、生前の行いを清算しておく必要があるのでしょう。
イエスの言葉を信じた人(命の書に名が記されている人)は救われて、残った人は、火の池直行便ではなく、生前の行いに応じて裁かれるのです。
どのような裁きになるかは不明(黙示録20章12から15節)です。
こういうわけで、私は地獄に行く人は、何度も救われるチャンスがあったのにあくまで拒否した人、つまり、確信犯だけだと思っています。
<終わりの日>
聖書の箇所は、コリント1の手紙15章24「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」です。
そして、同28節には「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」とあります。
すべての者は、最終的に神に帰るのです。
第四章.神の民の歩みと聖霊
神の人類救済計画の中心となった神の民イスラエルの歩みと、神の救いの御業、キリストの十字架と復活、神の民の歩みとエクレシアを聖霊の働きと共に取り上げてみたいと思います。
<神の民の歩み>
最初に蛇足ですが、人間は、神に創造された被造物です。
ですから被造物は創造の目的に沿って生きることが求められています。それが一番幸いであるはずです。
ところが神と共に生きることを求められている人間は、悪魔の誘いに乗って神から離反して生きることになります。
人間には自由意志が与えられていますので、当然自己中心的性格を有しています。その結果、現在は派生し、ふくらみ人間社会は悲惨な状態にあるといえます。
そう、神から離反という原罪がありそこから派生して、あらゆる罪が生まれるという設定です。
でもね、この人間が住む地球を含むこの宇宙は、悪魔と悪霊の牢獄として神が閉じ込めたところなのです。そこにエデンの園を造り出来立ての何も知らない人間に自由意志と自我を持たせて置いたのですから、悪魔に騙されて悲惨な状態になるのは目に見えています。
神は、その人間をそういう状態から救済して新しい天地を創造し、そこに神と共に生きる新しい人間の創造を計画されています。
こういうわけですが、私はこの人類の堕罪と、救済計画、そして、新しい天地の創造と新しい人間の創造の計画を見ると、これらのことはすべて創造神の出来レースのような気がします。
新しい天地の創造とそこに住む新しい人間の創造のために必要であるから、堕罪があり、人類救済計画が計画されたのではないかと思うのです。
そして、人間に自由意志と自我を与えたのもそのために必要であったからだと思うのです。
そういう意味で、私達の本籍は霊界(天国)にあってこの地上世界は必要があって設けられた仮の世界だと思います。ですから、神の目から見れば両世界は一体です。
神の人類の救いの御業も、霊界だけとか現世だけの出来事だけをとらえて判断するのもおかしいと思うのです。
神の人類救済史は、最初、神がイスラエルの歴史の中で約束してこられたことですが、キリストにおいて成し遂げられます。
それは、約2000年前に神の御子イエスキリストは、イスラエルの地に人として生まれ、私達の罪を贖うために十字架で死に、彼に属する者たちの救いの御業の初穂として三日後に復活されました。
この出来事に裏で働いている勢力は悪魔で、イエスの十字架は、悪魔の人類救済計画の破壊、イエスの復活は、神と悪魔の戦いで神の勝利で、人類救済計画の完成と言えます。
このキリストにおける神の決定的な救いの御業と救いの約束を告知するのが福音です。
復活されたキリストは最初ユダヤ人の中から十二使徒を選び、その者と生活を共にし、福音を延べ伝え、聖霊の力を与えて復活の証人として全世界に遣わし、彼らによって全人類に福音を宣べ伝えるように命令されました。
その福音伝道は人から人へと時代を超えて受け継がれ、今日に至ります。
全世界の人々の三分の一がキリスト者で、聖書は世界のベストセラーです。福音を詳しくは知らなくても、聖書とキリストを知らない人はいないでしょう。
この福音を信じてキリストを告白する者に神は約束の聖霊を与え、御自身に属する者として証印し、その者をもって新しい神の民を地上に形成されます。これがエクレシアです。
このようにエクレシアとは、福音によって呼び集められた終末時のキリストの福音という真理を宣ベ伝える神の民の集まりです。
普通、教会と訳されていますが、皆様が街の中で見かける大きな教会堂に十字架が立ち、聖職者がいて奉仕者がいて毎週日曜日に礼拝が行われる教会堂ではなく、ただ、神の民の集まりを指します。
だからキリスト者の集まりは、キリスト教という宗教団体の集まりではないのです。そういう意味で、キリスト教は宗教ではありません。
神の命により神の真理、福音を宣ベ伝えるために神によって集められたキリスト者の集団です。
教会時代は、この新しい神の民によって、もはやイスラエルのユダヤ教の枠(律法)を超え、ユダヤ教徒と何の関係もない異教の諸民族(異邦人)によって形成されることになります。
神の人類救済のご計画は、イエスキリストがこの地上に来られてから、イスラエルの民からキリストの弟子である十二使徒、そして、その弟子に引き継がれ、最初は、ユダヤ教の一派として出発したキリスト者の団体はやがてユダヤ教から離れて、独立します。
イエスが預言されてきたメシアであることを否定して十字架につけた後のイスラエルの歴史は、それからも救済者メシアの出現を期待して、またローマへの武力反抗が続き、ついに紀元70年にローマの軍勢によって聖都エルサレムと神殿が徹底的に破壊され、ユダヤ人は全世界に離散します。
その後、紀元1948年にイスラエル国家が生まれるまで、ユダヤ人の国家はなかったのです。
エルサレムがローマにより崩壊するまでの約四十年のキリストの使徒(ユダヤ人)たちは、イエスの福音伝道命令に従い、福音をローマ世界に宣べ伝えて、やがてキリスト者がローマの人々の半数を超えて、ローマ帝国の国教となります。
このように、この四十年は、古い神の民イスラエルから新しい神の民エクレシア(キリスト者の集まり・教会)への人類救済計画の引継ぎの時期であったと言えます。
そして、救済史のバトンをイスラエルからエクレシアに渡したのは、選ばれたイスラエル人である使徒たちであり、中でも特に異邦人への使徒として選ばれたのがパウロです。
このように、キリストの出現を境として、救済史の担い手はイスラエルからエクレシアに引き継がれました。
神の御業は、神の栄光と恩恵はエクレシアの中で、そのエクレシアを通して世界に成し遂げられるのです。
神の人類救済史は、イスラエル民族に代わり異邦諸民族から成るエクレシアによって担われているのです。
これを聖書は「異邦人の時」と呼んでいます(ルカ21章24節)。
このように、キリスト教という宗教団体がエクレシアではないのです。
キリスト教という宗教団体が聖典としている聖書が告知する福音を信じる者の集合体がエクレシアなのです。
このように、イスラエル民族は、ローマとのユダヤ戦争で紀元70年にエルサレムは破壊され、民は世界に離散し国家を失った民族ですが、イスラエル民族に対する神の選びと真実は変わることなく、イスラエルが神の憐れみを受けて救われる時が必ず来ると聖書は告知します(ローマ書9章から11章)。
このように人類救済史は、イスラエルの時とエクレシアの時(異邦人の時・教会時代)を経て、最終的に神の憐れみと愛を得て、まずイスラエルに、そして全人類に完成するのです。
<聖霊の保証と営み>
神の人類救済計画の完成に欠かせないのが聖霊です。三位一体の神の三位格です。
イエスが天に昇られ代わりに聖霊がおりてこられて、この地上世界で御子キリストの代わりに働いておられます(使徒言行録2章「聖霊降臨」)。
エクレシア(キリスト者の集まり)を形成するのは福音の言葉と聖霊の力です。
宣べ伝えられた福音を信じ、主イエス・キリストの御名を告白する者に、神は御自身の霊、聖霊を注ぎ内住させ、御自身に属する者であると証印されます。
また神は、聖霊によって復活者キリストを啓示し、人々を信仰に導き(信仰は神の賜物と言われています)、福音を受け入れ、復活者キリストと結ばれて生きる者たちが形成する群れ、それがエクレシアです。
教会ではキリストの福音を受け入れた者は、水のバプテスマを授かりますが、水のバプテスマが人をエクレシアに加えるのではなく、復活の主キリスト御自身が授ける聖霊のバプテスマ(聖霊の働きの一つ)が、人をエクレシアの一員とするのです。
なお、聖霊は霊界の存在ですから、聖霊が働かれるとき、預言や異言が出たり、病気が癒されたり、不思議な現象を体験することがあります。
異次元の世界の存在の働きですから、初めての人はさぞ驚かれることでしょう。
教会によっては、それららのことは使徒時代の出来事で、今はそういうことは終わっているという理由で否定し、あるいは無視する教会がありますが、私は、そのような現象もエクレシアを形成するために必要なことで、今も現実に起こっていることだと信じています。
そういう現象は、使徒時代はもちろん、今も聖霊様が働かれている証だと思います。
聖霊の働きは、キリストが復活された栄光の主(創造主)であることを啓示し、その十字架の死が万民の罪の贖いであることの奥義をキリスト者に啓示することです。
イエスが十字架死から三日後に復活されたと聖書は証言しますが、死者の復活など証拠や理論に訴えて説得できるような性質のものではなく、あるのは使徒とかその時に周りにいた人たちの証言だけです。
クリスチャンはその証言を聖書で読みあるいは聞き信仰に導かれるのですが、その際、聖霊はその者に働かれ、イエスの死からの復活が確かなものであることをその者の心に刻印されます。
キリスト者になるということは、その聖霊、すなわち、三位一体の神の三位格であり、最初イエスの中に宿り、力ある業をなし、死を滅ぼしイエスを復活させた聖霊が、キリストの福音を信じた者に宿るということです。
イエス復活の証言は聖霊により心に刻印され、そのために心の内にあふれ出るキリストへの思いが、証言となって表にあふれ出るのです。
それが福音伝道となって現実化するのです。これはキリストの福音の秘儀です。
聖霊がこの世にあまねく降り注ぎ(使徒言行録2章)、キリスト者に内住して、福音伝道に導く力となるのですが、そのキリスト者に内住した聖霊は、イエスを復活させた方の霊ですから、キリストの福音が将来のキリスト者の復活の約束の保証(手付け)となるのです。
こうして、キリストに属する者は、この死すべき命と朽ちるべき体の中に、復活に至る命を宿してこの現世を生きるのです。
この命の現実が、人間の理解と想像を超えた「死人の復活」を確かな希望とします。
そして、この希望は現実の世界を生きるうえで、死に定められた肉体の体の中にあって、またいずれ滅びにつながるこの世界の中で、(現実と希望のギャップで)深いうめきにならざるをえないのですが、その中で、聖霊がキリスト者に死からの復活という見えざる将来を待ち望む力を与えてくださるのです。
まとめてみると、エクレシア(教会時代)は二つの復活の間に生きているといえます。
二つの復活の一つは、2000年前に既に起こった初穂なるキリストの復活、もう一つはやがて起こるキリストに属する者たちの復活です。
もちろん、そのキリストに属する者たちの復活は、艱難時代の前のキリストの空中再臨と千年王国の前のキリストの地上再臨によってもたらされます。
この二つの復活(キリストの復活とキリストに属する者たちの復活)は一体で、一方を否定して他方を肯定することはできないのです。
エクレシア(教会)は、この二つの復活という決定的なカイロスの間で、聖霊と共に復活の命を現実に生きることを通して、キリストの復活を告白・証言し、死人の復活という究極の神の約束を世界に告知するのです。


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