聖書のよもやま話
聖書のよもやま話
目次
第一章.<前置き><旧約聖書の疑問><使い捨ての命><救いについて><誰でもが疑問に思うこと><旧約聖書の時代の信仰者は、すべて「陰府」に行った><「陰府」とは>
第二章.<セカンドチャンスと「金持ちとラザロ 」><残りの者と全人類の救い><預言書を読んで><神が愛ならば><再記述の法則>です。
第三章.<新しい人間の創造><律法の成就と神殿礼拝の廃止><復活と聖霊降臨><神は本当におられるのか><罪と悲惨な世界>
第四章.<神は生きて働いておられる。><良心について><宗教と聖書><人間の宗教心><宗教には近寄りたくない><御子イエス・キリストの降臨>
第五章.<キリストの十字架><摂理について>
第六章.<エクレシア><主イエス・キリストとキリスト・イエス><原罪とは><天とその高き極みと地><天使の役割と性質><父なる創造神とイエスの関係><人間の構造><奇跡とは>
第七章.<罪と裁き><天国には創造主の家がある><地獄について><信仰とは>
第八章.<福音を宣べ伝える><キリストの「陰府」下りと死者に対する福音><一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。><今こそこの世が裁かれる時><天使・悪魔・悪霊・汚れた霊><わたしの掟(命令)を受け入れそれを守る人はわたしを愛する者である。>
第九章.<摂理><神様が望まれている生き方>
第十章.<キリストの十字架死>
第十一章.<デキレース>
第十二章.<千年王国と新しい天地に住む者><永遠の命について><残りの者と艱難時代>
第十三章.<地獄に送られる人間><神の国は正義><日本人と宗教>
第十四章.<旧約聖書の編纂><旧約聖書の成立過程><旧約聖書のユダヤ教での聖典化><旧約聖書と新約聖書>
第十五章.<新約の神と旧約の神との違いと関係><神と人との契約><宗教><人間が子供を産むという奇跡と処女降誕><キリストがなされた奇跡>
第十六章.<神話><物質の悪化と無秩序化の法則><受肉の意味><イエス・キリストのすごい言葉>
本文
第一章.<前置き><旧約聖書の疑問><使い捨ての命><救いについて><誰でもが疑問に思うこと><旧約聖書の時代の信仰者は、すべて「陰府」に行った><「陰府」とは>
<前置き>
二十年以上自己流で聖書を学び思ったことを纏めてみたいと思います。
内容は、聖職者の方のお叱りを受けるところがあると思いますが、未熟者のたわごとと思いお許しください。
聖書の疑問については、今まで何度かカテゴリー「聖書の疑問いろいろ」に投稿してきましたが、ここまで聖書を読んできて大切だと思うところを順不同で思いつくまま書いてみました。
書き始めると、長くなりましたので、投稿文を十回に分けました。
もちろん、内容は自己流で、思いつくままですから、他の投稿文と何度も重なっているところがありますが、ご容赦ください。
自分を振り返ってみると、わたしはクリスチャンと言うより、聖書に取りつかれた求道者と言った方が正確かも知れません。
まだまだ分からないことばかりです。
誰かが言いました、あの世に行けばすべてわかりますよ、と・・・。
<旧約聖書の疑問>
旧約聖書は「預言の書と神話と歴史書と諸書」はわけて考える必要があると思います。
すべてが神の言葉とは思いません。
神話とか預言書は別にしまして、歴史書の残酷な場面ですが、いくら神の名のもとになされているとしても、すべて神がそのようにせよと支持されたとは言えないと思うのです。
なぜならば、歴史書には人間の思い、国王の思いが多いに影響していると思うからです。
たしかに預言書では、神はわたしが戦うとは言われていますが、実際に起こった残虐な方法で戦うとは書いていません。
十字軍とか魔女狩りが神の名の下でなされたのと同じだと思うのです。
旧約聖書の歴史書の執筆者は、国王の側近にいて国家と言うか国王のために記録を残したはずです。
当然、国王も神の名をもって自分のしたことを正当化することを考えるでしょう。
たとえそれが、預言者の言葉と矛盾していてもです。
事実国王の意に添わなかった預言者のほとんどは、不幸な死に方をしています。
戦いの中で、権力者の気ままで、名も知れず虫けらのように死んでいった人々は、来世ではどのようになるのだろうかと、ふと、疑問に思うことがあります。
そのことを次の<使い捨てに命>で触れてみます。
<使い捨ての命>
旧約聖書で、預言されたイスラエルの民にかかわる戦いなどで亡くなった人々を、使い捨ての命を言っておられる若者がいました。
イスラエルを救うために捨て石になった命を指します。
私は、その若者に、この世は神がご計画をもって造られ、この世で起こっていることは、すべて神はご存じだと言いたいと思います。
無駄な命など一つもないと答えたいと思います。
神は、人間を造っておいて後は知らないではなく、ご計画に沿って維持管理されているのも事実でしょう。
イエスがこの世に来られてからの出来事が記されている新約聖書では、とみにそのことが明確です。
だから、私たちが使い捨ての命と思っている命も、神にとってはそうでないのかもしれません。
使い捨てと思われる命も神のご計画の中で死んだ命ですから、その人はその人の役目があって死んだのですから、救いがあるのは当然だと思うのです。
そのことは、わたしたち異邦人の救いにも通じることだと思うのです。
この地上に生きている間にイエスの言葉(福音)を受け入れた者のみ救われ、後の人は地獄に行くと言われる方がおられますが、わたしは納得できません。
たかが80年程度のこの世で、生まれた時代も生まれ育った環境も全く違うのに、その人の責任でもないのに、たまたま神を知る機会がなかったとか、機会があってもたまたま人間的な事情で信じるには至らなかったと言うこともあるでしょう。
前提となる諸条件がすべて違うのに、この地上の命で、神を知り信じた者のみが救われ、永遠の命を得るならば、これほどの不公平はありません。
その不公平が事実ならば、裁かれる神は、愛と正義と公平を重んじられる神とは思えません。
神は、どんな命も地獄へ送るために創造されるようなことはされないと思います。
ましてや使い捨ての命などあってはならないことです。
「あなたは価高く、貴く」と言われた神、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と言われたイエスの言葉をわたしは信じたいと思います。
イザヤ書43章4節「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」
私の好きな新約聖書の言葉を上げておきます。
ルカの福音書12章6節から7節「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
ルカの福音書12章27節から28節「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
このことは、聖書を読むにおいて最大のテーマですから、他の箇所でも、何度も触れることになります。
どちらにしても、旧約聖書が語るイスラエルの民を厳しくしつけられ、そのために異邦人は利用され、見向きもされない神と新約聖書が語る全人類に対する愛と正義の神の違いを理解するには、この地上の世界と霊界と過去・現在・未来の出来事を一体的にとらえて、その中で、神は新しい人間の創造と言うご計画をもってこの地上の世界を造られ、今もそのご計画のために働いておられると信じて、すべての出来事は、その中で起こっていることだと言うように理解しなければ、一つ一つのことを取り上げて疑問に思っても分からないと思うのです。いかがでしょうか。
<救いについて>
罪が神から離反し自己中心に的外れに生きる事ならば、救いの権限を持つのは神であり、「救い」は、離反に対する神の怒りから救われるということになります。
私たちの自己中心的な生き方によって、神と私たちの間には深い淵ができています。
それは私たちに、「神との分離」と(霊的な)「死」をもたらしました。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ人への手紙6:23)と言う言葉がありますが、この「死」は霊的な死を指します。
人間は霊的な存在として作られていますので、神との関係なくして生きていく(肉体の命でなく霊的な永遠の命を指す)ことはできません。
ですから、人間は、目に見える肉体と目に見えない霊によって生かされているのです。
人間は神から離反することで、人間に備わっている神と共に永遠に生きることが出来る霊が、神から命を頂くことが出来なくなり、生きる命に限界がある死霊となっているのです。
その私たちのために、神は救いの道を用意されました。
「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ人への手紙5章9節)とある通りです。
この聖句から分かるのは、
①私たちはキリストの血によって義と認められました。
つまり、キリストの十字架死は、全人類の罪を贖うための死であって、それによって、私たち全人類の罪が赦されたと言うことです。
②義と認められるとは、神の怒りから救われるということです。
わたしたちは、神に義と認められることによって神との交流が始まり、死霊となっていた私たちの内にある霊は、活き霊(永遠の命が備わった霊)となるのです。
<誰でもが疑問に思うこと>
旧約聖書の預言の書は、終わりの日には、イスラエルの残りの者だけが救われる様に強調していますが、もし、それまでに死んだ大多数のイスラエルの民が救われないのならばその救いに何の意味があるのでしょう。
異邦人(イスラエル人以外の民族)についても同じことが言えます。
この世で救われたほんの一部の人のみが救われて、大多数の人が救われないのならば、そこに何の意味があるのでしょう。
それも生まれた国、生まれた時代、育った環境、教育などに大きく影響され、たまたま神を知る機会がなかったというだけで救われない、その人には何の責任もないのにです。
この地上で生きているときにのみ救いのチャンスがあり、この世に生きているときに救われなければ地獄に行くと信じている人がいるそうですが、それにはわたしは同意しかねます。
新約聖書には、この世でキリストを信じなくて死んだ者が来世に行けば、生前の行いにより裁く」となっていますが、地獄に送るとはどこにも書いていません。聖句は次の通りです。
ヨハネの黙示録を読むところ、地獄はサタンにのみ用意された場所のように思います。
- ローマの信徒への手紙2章6節から8節「神はおのおのの行いによってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」
- ヨハネの黙示録20章12節「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
キリストを信じないで、あるいは、知らないでなくなった人は行いによって裁かれるのですが、その結果が地獄のみでしたら、本来裁きは更生のための手段ですから、裁きの必要はありません。
それに、生前に福音を受け入れなければ救われないのならば、その人は死んだ時点で地獄に送れば済む話で、行いによる裁きも必要ありません。
それに、イエスが七の七十倍まで赦しなさい(マタイの福音書18章22節)、隣人を自分のように愛し合いなさい(マタイの福音書19章19節)と言われた言葉とは矛盾すると思います。
なにより、イエスの十字架死が全人類の罪を贖うためになされたのです。
そこにはすべての人類を救いたいと言う神の強い意志があります。
だから神は全人類が救われるのを、忍耐をもってまたれ、今世でも来世においても、何度も公平に誰にでもチャンスを与えられると思うのです。
この世で救われた人は、選ばれて救われたと思われる個所もありますが、それは、その人に委ねられたこの世での仕事があるから救われたのだと思います。
信仰は神からの賜物と言いますが、そのように考えると、矛盾しません。
私は神を目の前にしてあくまで神を否定し、神に取って変わろうとするような存在でない、普通に生きているすべての人はすべて救われると信じています。
キリストを知らないで、または否定してあの世にいっても、あの世では直接神と対峙するわけですから、神を否定しようがなく、自分の過ちに気が付き、その人は悔い改めるでしょう。
それにこの世でキリストを信じたとしても、普通の人と同じ暮らしをしていて、また、死ぬ間際でもキリストを受け入れれば救われると言いますので、神を受け入れるのが、死んだ後と生きているときとどれほどの違いがあるのでしょうか。
その人がもつ神の子としての永遠の命を左右するほどの違いがあるとはとても思えません。
第一、神は地獄に送るために人間を、創造されません。
イエスが神の子ならば、人間も神から命を頂いた命を預かる神の子です。
わが子は誰でもかわいいものです。
ヨハネの黙示録によると、悪魔はイエスの十字架死で地獄行きが決定していますが、それは、悪魔は神を目の前にして神に代わって人間を支配しょうとし、反省のかけらもなく、人間を神から離反させようと今もたくらみ行動していますので、救われる余地がないからでしょう。
そのような悪魔を地獄に隔離しなければ、神の創造のご計画が台無しになります。
<旧約聖書の時代の信仰者は、すべて「陰府」に行った>
旧約時代の人たちは、すべての人たちが、死んだら、「陰府」に下っていきました。
信仰をもって死んだ者が、天国に迎え入れられるということは、旧約聖書には出てきません。
「息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」(創世記37章35節 )とあります。
信仰の父アブラハムも ・ ヤコブも ・ モーセも ・ ダビデも ・・・みんな神を信じていましたが、死んだあとは、「天国」 に行ったのではなく、「陰府」に下りました。
そのような状態が、「イエス・キリストの復活」 によって、変わってきます。
<「陰府」とは>
「陰府」のことを考えるのには、新約聖書の「金持ちとラザロ」(ルカの福音書第16章19-31節)の箇所がよいと思います。
これはたとえ話ですから、本筋を離れないように、訴えようとするポイントは何かを考えてみます。
死後、二人の状況は生前とは全く逆転しています。
金持ちは「陰府」で苦しんでいますが、貧乏人であったラザロは「アブラハムのすぐそば」で慰めを受けています。
そして、「陰府」と「アブラハムのすぐそば」の間には「大きな淵」があり、それを越えることはできません。
また「陰府」からも、「アブラハムのすぐそば」からも生きている人間のところに行くことはできません。
このたとえ話は「金の好きなファリサイ人」に語られました。
たとえ話に登場する「ある金持ち」は、生前は多くの良いものが与えられていましたが、自分の側にいる貧乏人に対しては全く無関心でした。
ラザロの場合はどうであったかは何も書いていませんので、焦点は「ある金持ち」に当てられているのでしょう。
「神にも仕え、また富にも仕えるということはできない」と言われたイエスの言葉がありますので、自己の生存の保障を神に置くのか、金銭に置くのかと言うことでしょう。
それでは、わたしたちが死んだあとはどうなるのかですが、その前に「金持ちとラザロ」のたとえ話と、イエスが十字架の上で悔い改めた強盗に対して語った言葉、すなわち「あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる。」(ルカの福音書23章43節)との関連性について考えてみます。
十字架上で強盗がイエスに対して語った「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカの福音書23章42節)の御国)に対し、イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に(御国ではない)楽園にいる。」と言われていますのでイエスに招かれた人はイエスと一緒の楽園に行くのですから、その人は死んだ後の待合所「陰府」の必要はなくなると思うのですが、そうすると、この楽園と「陰府」にある「アブラハムの側」とは、同じなのか別なのかははっきりしません。
なお、「楽園」は、ギリシャ語では「パラダイス」で、ヘブル語訳では「エデンの園」と訳されているそうです。
ということで、ルカの福音書23章43節の「楽園」(パラダイス)は、エデンの園であって御国(天国か)ではないと思います。
ですから、まだこの時点では、天国も地獄もないのかも知れません。
第二章.<セカンドチャンスと「金持ちとラザロ 」><残りの者と全人類の救い><預言書を読んで><神が愛ならば><再記述の法則>です。
<セカンドチャンスと「金持ちとラザロ 」>
<セカンドチャンスと「金持ちとラザロ 」>
「 金持ちとラザロ 」 (ルカの福音書第16章19-31節)のたとえ話で死んだ人が行く場所として、生前貧しかった人が行く「アブラハムのすぐそば」と、生前贅沢に暮らしていた人が行く陰府の「炎の中でもだえ苦しむ」場所があることがわかります。
「アブラハムのすぐそば」というのは、アブラハムは信仰の父とも言われますから、信仰をもって死んだ人が行く場所でしょう。
この二か所は、旧約聖書の信仰者はすべて「陰府」に行っていますから、どちらも「陰府」だと思います。
「炎の中でもだえ苦しむ」場所に行った金持ちは、こんな苦しい場所、と言っていますが、「アブラハムのすぐそば」に行った人は慰められています。
その違いは、生前の行いだとします。
そして、両者の間には大きな淵があって渡ることが出来ないのです。
このたとえ話をもって、私たちが受けることが出来る救いは、生前中のことだけで、死んでしまったら、そのチャンスはないと教えている方がおられます。
しかし、よく考えると、アブラハムのいるところ(信仰を持った人が行くところ)は、天国とは書いていないし、旧約聖書の信仰をもって死んだ人はすべて「陰府」に行っていますので、金持ちが行ったのも「陰府」であって、地獄ではないのです。
旧約聖書では、天国も地獄も明らかにしていませんから、天国とか地獄がないのならば、両者が行ったところは、裁きまでの一時的な場所、すなわち「陰府」になります。
そして、「陰府」は、生前の生き方に応じていくところ、苦しみの場所と慰めの場所があると言うことでしょう。
と言うことは、まだこの段階では天国も地獄もなく、私たちが死ねば、その一時的な場所で、死者の魂が最後の復活と裁きを待つのです。
裁きが行われるまで、「陰府」で待機すると言うことになります。
纏めてみると、地獄(火の池)は、あくまでも神に反逆し、神にとって代わろうとする存在の者が、永遠、かつ最終的な裁きを受けるための場所です。
地獄は、どちらかと言えば悪魔のために作られる場所とも言えます。
ただし、地獄は、白い御座の裁きのあとに、実行される(今はない)未来の領域です。(黙示録20章11-15節)
「陰府」は、二つの部分に分かれている領域で、参考箇所は、使徒言行録2章27-31節ですが、救われた人と救われてない人が別々に住む二つの場所です。
救われた人の住む場所は「パラダイス」(楽園、エデンの園とも)とか「アブラハムのすぐそば」と呼ばれています。
救われた人の住む場所と救われてない人の住む場所は「大きな淵」によって分かれていて(ルカ16章26節)、互いに行き来できません。
互いに行き来できないのは、まだ裁きは終わっていないのですから、当然でしょう。
エフェソ書4章8節のキリストが「高い所に昇るとき、捕らわれた人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた。」ですが、この箇所は、高い所に上られた…キリストの昇天の箇所です。
この箇所は、「陰府」の(アブラハムのすぐそば)に捕らわれていた神を信じて亡くなった人々の魂を、キリストは昇天の時に連れて行き、第三の天のパラダイスまで引き揚げられたことを言っていると思うのです。
これはキリスト以前の神を信じて亡くなった人のことでしょうから、キリスト以降の神を信じて亡くなった人は、直接パラダイスに行くのでしょう。
ですから、救われてない人(キリストを信じないで、あるいは知らないで死んだ人)はそのまま「陰府」に残っています。
即ち、、救われていない人は、死んだら「陰府」に行って未来に来る復活と最後の審判(生前の行いにより裁かれる)を待つのですが、地獄に行くとはどこにも書いていません。
<残りの者と全人類の救い>
終わりの日に主が再び地上に戻ってこられ(キリストの再臨)、世界中からユダヤ人が帰還しますが、その時には彼らの心は悔い改めてキリストを受け入れています。
今現在イスラエルは国家を樹立し、世界中からユダヤ人が帰還していますが、人々はまだキリストを受け入れていません。
終わりの日にはすべてのユダヤ人(残りの者)がキリストを受け入れて霊的に回復し、世界にむけてキリストを伝える使者になります。
その時まで、神の民イスラエルの心は頑ななままなのです。
このように、「終わりの日」(艱難時代とキリストの地上再臨、千年王国の誕生)には、ユダヤ民族の残りの者がキリストに立ち返り救われるのですが、それでは、イスラエルと言う国家は復活しても、それまでに死んだ大多数のユダヤの民(異邦人の民も同じですが)は救われないのかと言う問題があります。
わたしは、普通の人、ほとんどの人は最終的には救われると信じる者ですが、こうしてみると、「残りの者」の救いの預言は、ユダヤ人個人でなくイスラエル国家の救いを言っているのだと思うのです。
そうすると、残りの者以外の大多数のユダヤ人(アブラハムから終わりの日までに死んだ)とか異邦人(今までにキリストを知らないで、または無関心、あるいは否定して死んだ大多数の異邦人を含む)は、個人の悔い改めと救いを問題としているということになると思います。
そして、その人たちにも救いの機会が与えられなければ、あまりにも不公平だと思います。
愛と公平を旨とされる神ならば、どのように出来が悪くてもご自分の方を向いてくれることを忍耐して待ち、何度もチャンスを与えられるのは旧約聖書のユダヤ人に対する対応から見ても当然のことだと思います。
そして、神はもともと全人類を罪の中から救い上げるための器としてイスラエルの民を選ばれたのですから、その民族の残りの者は、終わりの日に、また、すでに救われたキリスト者と共に、残りの全人類を救うために選ばれた民と言えないでしょうか。
最後に、神の御心が人類全員の救いであるならば、自由意思は崩壊すると言われている方もおられますが、救われないで亡くなった人は、何もすぐに地獄に行くのではなく、生前の行いによる裁きがあると聖書は明らかにしています。
神から離反して、自己中心に自由意思でこの世を生きてきたから、裁きがあるのです。
救われないで死ねば地獄に行くならば、裁きの必要はありません。
自由意思は新しい人間を創造するために、この世において必要とされていることだと思うのです。
裁きにしても、私たちの刑法による裁きと同じように、地獄と天国だけでなく、その中でもいろいろ段階があると思います。
裁きは、この世でも警告と、罰を与え、罪を反省し立ち直させるためにあるのですから、世の終わりの裁きも同じでしょう。
地獄は、悪魔のように、自分が神に取って代わりたいと言う欲望と傲慢を悔い改めない者に対して存在するのです。
救われて亡くなった人も、天国に行くのは当然としても、生前の行いに対し、報いがあるとされています。
<預言書を読んで>
預言者自身が神から啓示されて語っている言葉は、預言者自身がすべて理解しているとは限らないと思うのです。
預言者は、神が啓示された言葉をそのまま訳が分からなくても、あるいは信仰により、そのようになると信じて語っているのです。
その多くは封印されたままで語っているというのが旧約の預言だと思います。
もちろん、それは神がそのようにされているからです。
それに、神は時間の中におられない方ですから、神の啓示は、わたしたちにとって1000年後の出来事も今の出来事も今起こっていることなのでしょう。
そして、そのことがこの地上では、時間を経るにしたがって、少しずつ啓示(預言)として明らかにされるのでしょう。
と言うことは、旧約聖書の時代より今日の私たちの方が、彼ら以上に、預言の封印が解かれていますので、その預言の意味を悟ることができると言えます。
そう、終わりの日も今もわたしたちにとっては時間の流れの中にあるのですが、神にとっては同じ時なのです。
聖書を読むと、神の言葉は、次の3つの場合で成り立っているようです。
①命令の言葉・・奇跡は命令の言葉で為されています。言葉をかけられた被造物は、即座にその言葉通りになります。
②約束の言葉・・一定の時間の後に、現実の展開が一致するようにと投げかけられた言葉。
つまり、預言です。
③条件付約束の言葉・・創世記12章3節の「あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。」他。
旧約聖書では、特に残りの者の預言を含め、イスラエルの民の預言は、預言された時代から、最後は一気にヨハネの黙示録にまで話が飛んでいますが、それは聖書が時間を越えてつながっているからといえるのでしょう。(実際は、その間にキリストの時代(教会時代)があるのですが・・。)
預言は、終わりの日の視点から語られていますので、その視点を踏まえて聖書を読む必要があるのでしょう。
それは、預言は天地万物を創造された創造主である主の目から見た言葉ですから、預言の出来事は人間にとっては時間の流れの中の出来事ですが、主にとってはそれらの出来事は今だからと言えるのでしょう。
神のご計画は終わりの日を見据えて今を語っておられると思うのです。
それは、人類の最初から終わりまでを神はご計画をもって運営されているのですから、当たり前だと思うのです。
そういう意味で、わたしたち人類の最後も、どのようになるかは既に決まっていると言えます。
<神が愛ならば>
神が愛ならば、地獄のようなこの世界をなぜ捨て置かれるのかと聞かれたことがあるのですが、わたしは、神は正義で絶対愛をお持ちの方だと思うので、最後には必ず私たちにとって最善の方法で終わらせてくださると思うのです。
この地上で起こっている悲惨な事態は、わたしたち人間の思いとか行いに原因があると思います。
この世界の現状は、自由意思を与えられた人間が自己中心に生きた結果と言えないでしょうか。
そういう意味で、この世界はある意味、因果応報で動いている世界と言えます。
そして、神はそのような世界を捨てておられるのではなく、人間の自由意思を尊重されていますから、介入できないのでしょう。
自由意思をもって人間がこの地上世界を生きるのは、神のご計画の完成に欠かせないことであるからだと思うのです。
神はすべてをご存じです。親は子供のすることをハラハラしてみています。どうすればよいかは教えますが、介入すれば子供は自立できません。
親は、子供のしていることを見ればその結果はある程度分かります。
神はわたしたちの親で創造主です。神は永遠の方ですから、私たちがしていることの結果は、どのようになるかを予想ではなくご存じです。
ですから、それらはすべて最後には私たちのために益として、すなわち、新しい人間の創造のために用いられるものと信じます。
神はそれが出来る方です。
<再記述の法則>
中川健一先生の解説で知ったのですが、
聖書の解釈学の原則に「再記述の法則」と言うのがあるということです。
それは、最初は総論的に話をして、後で再び同じことを取り上げて、より詳しく説明するということです。
聖書の中には、この法則で書かれているところがいくつかあり、例えば、創世記11章1節から9節の内容(バベルの塔の事件)は、10章に書かれた「人類の全地への離散がどのようにして起こったかを詳細に記しています。
ということで、この創世記1章と2章の記事の違いも、その法則によって書かれているので、1章は総論的に、2章はその出来事をエデンの園での出来事として詳しく書いているということになります。
したがって、創世記1章と2章の記事は別の人が別のことを書いているのでも、間違っているのでもないということになります。
第三章.<新しい人間の創造><律法の成就と神殿礼拝の廃止><復活と聖霊降臨><神は本当におられるのか><罪と悲惨な世界>です。
<新しい人間の創造>
さて、神は、イスラエルの民を選び律法を与え、教育し全人類の救済のために用いようとされましたが、イスラエルの民は、真の神(創造主)を離れて、偶像礼拝に陥り、約2000年前にイスラエルのベツレヘムで誕生されたナザレのイエスを、かねてから預言されていたメシアであることを否定し殺してしまいました。
そのために、神はイスラエルに託していた全人類救済の役目を断念し、終わりの日までキリスト者にその役目を委ねました。
全人類救済の役目を引き継いだキリスト者は、マルコの福音書16章15節の「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(延べ伝えるだけで説得せよとは書いていない)と言う命令に従い、2000年前から今日までキリスト者の世界伝道が続いています。
そして、イスラエルは、終わりの日には残りの者が真の神に立ち返りキリスト者の役目を担うことになっています。
なお、「終わりの日」と言うのは、大艱難時代とも言われ、神のこの地上における人類救済計画(新しい人類創造)の最後の仕上げのときと言えるのではないでしょうか。
この壮大なる人類救済ドラマは、神がすべてをご存じの上で行われていると思います。
ですから、神は人間一人ひとりの自由意思を尊重されますが、行先は決まっていると思うのです。
この世界は地獄だとも言いますが、この世に起こっている幸不幸のすべては、人間に与えられた自由意思の用い方の結果、人間に(思いとか行為)原因があると思うのです。
神は決して意地悪でこのような世界を造られたわけではありません。
といいましても、神は、この世で起こっているすべての出来事を、最終的にはわたしたちの益にしてくださるのでしょう。
神は、この世界を、ご計画をもって(当然目的があって)造られ、この世で起こっていることのすべてをご存じで、容認しておられるのですから、それに何でもできる神ですから、すべての出来事をこの世界を造られた目的を完成させるために用いられるのでしょう。
こうしてみると、神は新しい人間の創造と言うご計画をお持ちなのだと思います。
そして、そのご計画には人間の自由意思と人間の手による(聖霊の助けを借りた)たゆまぬ伝道活動が重大な役目を担っているように思います。
なお、人間の手による神の言葉(福音)の伝道と言うめんどくさい方法に神は人間の救いを委ねました。
なぜ、そのようにされたかは、二つの理由があると思います。
一つは、神は人間に自由意思を持たせたから、それを尊重されている。二つ目は、神からの離反と言う罪を背負ったのは、悪魔の唆しもあるでしょうが、やはり、人間が自由意思をもって選んだ結果ですから、罪はイエスが十字架で贖って下さったので、せめて、その恩恵を受け入れるか否かは自分の自由意思のもとに判断する必要があるのでしょう。
<律法の成就と神殿礼拝の廃止>
イエスは、イスラエルの民に与えられたモーセ律法の役目を終わらせ、律法を成就したと言う形で新しい律法を与えました。
マタイの福音書5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するため(に来たの)ではなく、完成する(成就するとも訳せる)ためである。
後から聖霊降臨の箇所で書きますが、神の御霊、聖霊が神の言葉を信じる者に内住されますので、その者は内住された御霊に祈ることで神との関係を直接持ち、その者を真の神の子に造り変えることになります。このことを、新しい人類の創造と言っています。
よって、儀式として行われる捧げものを含む神殿礼拝は不要となりました。
新しい律法ですが、マタイの福音書22章36節から40節のイエスの言葉を搭載しておきます。
- 36節.「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
- 37節.イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
- 38節.これが最も重要な第一の掟である。
- 39節.第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
- 40節.律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
<復活と聖霊降臨>
イエスは、十字架死から三日目に復活されました。(マタイの福音書28章他)
復活を疑問に思う方もおられますが、当時のイエスのまわりの人々、敵対しているユダヤ教の指導者層は、復活に何ら疑問を持たないで、復活があったことを当然として物事が進んでいます。
イエスの死からの復活が事実なら、まぎれもなく神の手によるものですから、まさしくイエスは神の子であることを証していることになります。
聖霊降臨があったことは、使徒言行録2章で弟子たちが「異言を語る」不思議な出来事をもって詳しく証されています。
今でも、ペンテコストの教会では、当たり前にように異言が飛び交っています。
聖霊は、イエス様が天上に帰られたので、その代わりにこの地上に派遣された神の意志の担い手であるといえます。
聖霊は、神の働き手としてこの地上で、み言葉を信じる者に内住し、その者を造り変えます。
聖霊はキリスト者の信仰をささえ、み言葉の伝道のために知識を与え、導き助けますので、まさしくキリスト者の世界伝道の担い手であります。
<神は本当におられるのか>
私は何度も「神はおられるのか」と言う問題を自分に問いかけてきました。
現在の結論は、神がおられることを否定できないのです。
もし、神がおられないのならば、この世界の存在自体が説明できないのです。
日本社会では、学校教育からマスコミの報道内容まで、すべて神がいないことを前提にした進化論全盛社会です。
不思議です。天地万物を見ても、人間を見ても、その仕組みと言うか摂理と言うか、これほど複雑で精巧なものが果たして自然の進化でできるのでしょうか。
私には、そこには創造者がおられてその方の意志が、知恵が反映されていることを認めざるを得ないのです。
誰もこのことに疑問を持たないのが、不思議でなりません。
私はその思いから、キリスト社会に飛び込みました。24年前のことです。
なぜキリスト社会かと言いますと、妻がクリスチャンで、キリスト教と聖書の他にその疑問に応えてくれそうなものがないと思ったからです。
果たして、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。
もし神が本当におられるのなら、聖書が教える通り、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
しかし、神が存在しないのなら、存在しないものを存在するかのように信じて生きることになりますから、これほど愚かで馬鹿げたことはありません。
どちらにしても、この問題は私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかという重大なことにも関係することですから、存在するかしないかのどちらかで、どちらでもないということはあり得ません。
もちろん、わたしたちがどこから来たかと言うことも含めてです。
パウロは言っています。
ローマの信徒への手紙1章19節から21節。
- 19節「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」
- 20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」
- 21節「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」
つまり、この世の被造物を、天地万物を見れば神の存在がわかると言っているのです。
神の作品であるこの宇宙や自然は、作者である神の力や知恵、調和、美しさなど、神の性質を表しているのです。
だから、神がおられるならば、その神はどのような神かこの世界、宇宙、自然をよく観察すればわかるのです。
- 詩編19篇2は「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」
- ヨブ記12章7節から9節は「獣に尋ねるが良い、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけて見よ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らは皆知っている。主の御手が全てを造られたことを。」 と語ります。
- ガリレオ・ガリレイの言葉、「神は二つの書物を書かれた。その一つは聖書である。もう一つは自然そのものである。」「自然という書物の中に、神の計画を書き記した言葉が満ち溢れている。それを一語一語読んでいくことこそ、人間に与えられた大切な仕事である。」
この世界は不思議で満ちています。
天体や宇宙といったマクロの世界から、素粒子などのミクロの世界までの見事な調和や秩序で満ちています。
何故なのでしょうか、それは神が造られた、つまり、創造者が存在するからなのです。
それでは、神の痕跡を歴史の中で見てみます。
わたしは、もし、この人間を含め天地万物を造られた神がおられるならば、この人間の歴史にもその痕跡を残しておられると思います。
私にとってそれが、イスラエルの民であり、聖書なのです。
聖書は、神は世界を造られた後、放りっぱなしではなく、これを保ち、導き、歴史を支配しておられるという、いわゆる神の摂理を教えています。
神の摂理とは、それによって、またそれを通して宇宙のすべてを支配されるという意味です。
聖書の参考箇所は、全体としての宇宙(詩篇103篇19節)、物質的世界(マタイ5章45節)、各国の国事(詩篇66篇7節)、人間の生と運命(ガラテヤ1章15節)、人間の成功と失敗(ルカ1章52節)、そして神の民の守り(詩篇4篇8節)です。
<罪と悲惨な世界>
しかし、人間の歴史を見てみると、人類が神に背いた結果、罪がこの世に入り、人間は自己中心的に生きるようになりました。
その結果、この世には目を覆いたくなる残酷で非人間的なこと、動物界には見られない虐殺や報復などゾットする罪深いことが、人類の歴史に見られます。
歴史を振り返ると、人類は何故いつもこうも罪深いのか、なぜ歴史に学ばないのかと、溜め息が出ます。
人類は、古代から科学技術がいくら発達しても、やっていることは同じです。
人間は何一つ成長していないように思います。
人類は、いつ滅んでもおかしくない状態にあると思いますが、生存しています。いや、生存させられているのでしょう。
しかし、反面、歴史を振り返ると、悪が長く栄えた試しがないのも事実です。
確かに、一時は悪が栄え、悪人がのさばっていることがありますが、最後には必ず悪は滅んでいます。もちろん国家も同じです。
歴史はそれを証言しています。
聖書によると、神が愛と憐れみにより、なお、この世界を摂理でもって支配されておられるからです。
神がおられるならば、人間の罪と不信仰ゆえに、この世はひずみ、矛盾と不条理に満ち、「神がおられるなら、何故こんなことが」と疑問を呈したくなるような事態がたびたび起こるのは、どのように考えればよいのでしょうか。
神は、傲慢になった人間に、自分が被造物で、神の手の中で、創造の目的に沿ってしか生きられないことや、罪深さを徹底的に悟らせるために、敢えて一時、人間に好き勝手にさせられることもあると思うのです。
もちろん、これは人間に自由意思を与えられた目的でもあるのでしょう。
そして、それらのことは、新しい人間の創造のために用いてくださる、すなわち、すべて益にして下さると思うのです。
神のご計画のためにわたしたちは創造されたのです。だから、神は、なお憐れみに満ちた目をもってわたしたちに手を差し伸べ、良い物もいっぱい与えて、御自分を証ししておられます。
ですからルカは、使徒言行録14章16節と17節は、現実の矛盾や不条理を重々承知の上でこう語ります。
- 16節「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。」
- 17節「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
第四章.<神は生きて働いておられる。><良心について><宗教と聖書><人間の宗教心><宗教には近寄りたくない><御子イエス・キリストの降臨>です。
<神は生きて働いておられる。>
さて、次に人間そのものを見てみます。
ずいぶん前にお医者さんであるキリスト者の方が、人体のすばらしさ、神の存在と摂理に圧倒されて、信じたと証されていました。
私たち人間を観察すると、その素晴らしさに圧倒されます。
いろいろと調べましたが、二点だけ上げておきます。
私たち一人一人の血管の長さは、毛細血管まで含めて全部足すと、何と96000Kmもあり、その長さは地球2周半近くにもなるそうです。
髪の毛1本だって、素晴らしく精巧に作られています。
毎日、何本も生え変わる私たちの髪の毛ですが、その一本一本の毛根は皆7層、あるいは、8層から成っていて、とにかく見事に丁寧に作られているそうです。
また、こうして指を動かすことですが、手を握ろうと思えば、指を伸ばす神経とちじめる神経が同時にバランスよく、タイミングよく働く必要があるのです。
どちらかが早いとか遅くなれば、うまく手を握ることはできないし、物をつかめません。
さらに、DNAを調べてみると、DNAは、はしごをひねったような形をしていて、核の中の染色体の中に折りたたまれて入っています。
DNAを簡単に言うと、私たちの体を作る設計図と言えます。」とありましたが、この世界のすべての生物がこのDNAによって作られています。
「すべての生物に「DNAをもつ」といった共通性があることは,すべての生物が共通の 祖先から進化してきたことを示している。」とNHKは進化論をもって人類の成り立ちを説明していましたが、逆に考えると、同じ方法と言うか仕組みをもって造られていると言うことは、それを造った方が、そういう考えを持った唯一の方がおられると言うことをも証しているのではないでしょうか。
思想なくして秩序は生まれません。
つぎに、わたしたち人間の心ですが、古代から人間は、宗教から離れることはできませんでした。
もちろん、この宗教は、ご利益宗教などではなく、真に聖なるものを求めないではおれない崇高な宗教心のことを指します。
聖書ではそのことを、コヘレトの言葉3章11節で「神は永遠を思う心を人に与えられる」 とあります。
「永遠を思う心」とは、実は永遠者なる真の神を思う心、つまり、宗教心のことでしょう。
神はその宗教心でもって、人間の命は有限で、無限というか永遠ではないことを教え、同時に分からない無限の世界を思う心を人間に与えられたのです。
それでは、人は何故、無限とか永遠といった概念を持っているのでしょうか。
どこからそれを得たのでしょうか。不思議です。
聖書は、それは無限、永遠、不変の神が、ご自分を知ることが人間にできるように、ご自分と交わりを持てるように、と、人をご自身に似せて造られ、神を思い慕う心、つまり、宗教心を持つ者として造られたからだと教えます。
ある科学者の方が言っていました。
この宇宙は、人間が存在するために絶妙のバランスをもって造られている。
<良心について>
悪いことをすると、誰も見ていなくても、私たちの心は平安ではありません。
気持が重く、良心の呵責を覚えます。このことは、全人類に共通だと思います。
良心について、ローマ書2章15節は次のように教えます。
- 15節「真の神とその戒めを良く知らない人たちであっても、「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と語っています。
世界中の人々は、それぞれ異なった文化を持ち、物の価値観も違うのに、同じ良心を持っています。
そこで考えるのです。
一体、良心とは何なのでしょうか。何故こんなものが人間にはあるのでしょうか。
動物は悪いことをしても、良心の呵責に苦しむことは、おそらくないのでしょう。
人間が持つこの良心によって、わたしたち人間は共通の価値観を持ち、秩序だって生活することが出来るのです。
この世界の創造主がおられない進化論の世界では、このようなことは想像できません。
人間の、そして人間だけにあるこの良心とは、創造主であられる真の神が、私たちを御自分に似せて造られ、新しい人間の創造と言うご計画を成就する上で必要であるから、わたしたちに与えられた、道kらはずれないように警告する私たちの心の中の警報ブザーでもあると思います。
神は、私たち人間に普遍的に備えられた良心でもって、神のご計画、神の御心から外れた人間に罪や悪が何たるかを知らせ、告発し、それらを止めさせ、私たちを守ろうとされているのでしょう。ですから、良心は神の意志で、とても大切なものだと思います。
時に人は、自分の良心に猿ぐつわをはめて、良心の声を抹殺し、無感覚になろうとしますが、それは、自らの人間性をいよいよ低め、卑しめ、自らを永遠の地獄に滅ぼす自殺行為に他ならないと思います。
それは、この世界の最後の裁きの際にその行いによってその人は裁かれますから、裁きはその人の行いが神の御心に沿わないものとなるゆえ厳しいものとなるのでしょう。
もちろん、神がいなければ、創造主がいなければ、良心(神の意志)もなく、裁かれることもないのでしょうから、この世はやりたい放題で、何をしても許される世界になります。
創造主である神がおられないのならば、それは進化論の世界ですから、死ねば無ですから裁かれることもないので、やりたい放題で、強い者が勝つ世界です。
そのような世界を創造してください、ぞ、とします。
それこそ、神も仏もあるものかと叫びたくなります。
大切なことは、このようにおそらく動物にはない永遠を思う崇高な宗教心や良心が、何故私たちに備わっているか、です。
それは、神が私たち人間を愛し、新しい人間の創造と言うご計画(ヨハネの黙示録21章5節)をもっておられ、人を特別に造られたからなのだと思います。
<宗教と聖書>
天地万物を見て、神がおられることがなんとなくわかる、ここまでは誰でも納得できるでしょう。それでも、人間は古代からいろいろな宗教を作りますが、それはまだ神(創造主)の存在に疑問を持っていると言うか情報が不十分だからとも言えないでしょうか。
もし、神の存在が疑問の余地がないくらいはっきりしていれば、宗教など、つまり、キリスト教・仏教・イスラム教・その他もろもろの宗教は必要ありません。
わたしは、キリスト教と言う宗教と聖書と言うか、イエス様の言葉(聖書)は別だと思っているのです。
それは、宗教は人間が作ったものですが、イエス様の言葉は真理だからです。
聖書は、キリスト教の聖典ですが、聖書は神の子イエス・キリストを証言する神の言葉ですから真理です。
<人間の宗教心>
こうしてみると、人間に宗教心があるのは、聖書によると、それは、人が神に背を向け、罪が人の中に入り込んだため、正しい神認識能力を失ったからだとなります。
ですから、人は神を求め、絶対なる存在を求めますが、真の神を知らないために、木や石や金属で作った偶像を拝む人もいれば、太陽を神とし、あるいは古い大木や高い山に神の霊が宿っているとか、死者の霊が神に変るとか、宇宙の真理と呼ぶ何か抽象的で偉大な存在(サムシング・グレイト)を宗教的対象とすることになります。
的外れと言うことでしょう。
どんな宗教も根本的には同じ(登り道は違うが目的地は同じと言う意味で)だなどと言われますが、それは違います。真理は一つです。
しかし、一神教の世界ですが、真の神は唯一で、永遠者・絶対者だとしても、一口に一神教と言っても、色々ですから、いさかいが絶えません。
日本人は、この一神教の世界でいさかいが絶えないことを非難し、比べて問題の少ない神概念のいい加減な日本の状態を好しとしていますが、ちょっと問題が違うのではないでしょうか。
人間が自分の都合で作った宗教と真の神を証しする聖書の真理は違うのです。
いま、一神教の世界でいさかいが絶えないのは、人間が自分の都合に合わせて作った宗教を信じているからと言えないでしょうか。
聖書には、今私たちが信じている宗教を捨てなくても真の神(イエス・キリスト)を信じれば救われると言っているような個所もあります。
それは、宗教は人間が作ったものですが、聖書が証する神は真の神で、真理だからです。
ですが聖書の神以外の神を拝する宗教は偶像礼拝になります。
<宗教には近寄りたくない>
私には何人か友達がいますが、宗教の話になると避ける傾向にあります。
背景には、宗教とは怖いものというか、不気味な感じを持つ人が多いようです。
近寄りたくないと言うことです。
それは、オウム真理教の事件とかイスラム国の止まない争いとか中世キリスト教の十字軍とか免罪符の事件を思い出すのでしょう。確かに、宗教の名による戦争とか争いが多いのは確かです。
宗教が怖いと言うのは、それは未知であって、日常的に起こることではないからでしょう。
昔から、「触らぬカミにたたり無し」といって、宗教を敬遠する向きが日本では多いようです。
確かに、宗教には通常の神経では理解不能、そうですね、とにかく非日常的なところがありますからね。
宗教は物質の世界でなく霊の世界を見るのですから、当然のことでしょう。
私たちが生きているこの世界は、目で見て手で触れることのできる世界ですから、自分で確認できますから安心できます。
その点、宗教(霊)の世界は、目に見えないし、さわれません。未知の世界ですから、不安です。
宗教は、そのような世界が、そう、霊の世界がこの世界の背景には存在すると言っています。
日常の裏にあって日常を支えている世界、こういうものが人間には必要だ、その世界が本当の世界だと言っているのです。
人間は、見たとおりの肉体だけの存在ではない、そうでしょう、私たちの内には見えない力を持つ心とか良心、いや、心とか良心でもどうしょうもない不思議な力があるのがわかります。そうですね、常識とか理屈で解決できない力が働いていると思うのです。
私たちはそれを、虫の知らせとか運がよかったで終わらせているようです。
それが霊と言うか霊の力というもので、こういうものによって支配されていると思うのです。
友達と話していて、もう少し目に見えない世界のこと、謎だらけのこの世界を、未知の世界を知りたいと思う心を持ってほしいと思うものです。
それはとりもなおさず、自分自身の存在理由を知ることになるのです。
それは、わたしたちは何者で、なぜ存在するのか、どこからきてどこへ行くのか。どのように生きるべきかです。
そのことを知ることは、やがてやってくる死と死んだ後の世界のことを教えてくれます
友達は、こういうことを話すと、ある程度、聞くことは聞いてくれる人もいることはいるのですが、深くは知りたがりません。
そのようなことにはまり込んだわたしは変わり者でしょうか。
なお、宗教と言いましたが、私はキリスト教と言う宗教と神の言葉、聖書のイエスの言葉を真理として分けて考えています。
皆様も聖書をキリスト教と言う宗教の聖典と言うより、この世界の真理が書いてあると思えば聖書に対し関心が持てるのではないでしょう。
<御子イエス・キリストの降臨>
パウロは、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神聖は被造物に現れており、これを通して神を知ることができる。」(ローマ書1章20節)と言っていますが、それでも不十分だから宗教の誕生となるのですが、実は、このような私たちのために、神は素晴らしい方法でご自分を示されました。
それは、ご自分の独り子を人間として世に遣わすという驚くべき方法です。
神はご自分の御子を人間イエスとして世に遣わされ、御子イエスによってご自分を必要十分に表されたのです。
ヨハネの福音書1章18節(ヨハネの言葉)と同12章45節(イエスの言葉)と同14章9節(イエスの言葉)にこのようにあります。
- 1章18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
- 12章45節「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」
- 14章9節「イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」
そして、ヨハネの福音書10章30節でイエスは、「わたしと父とは一つである。」と言っています。
イエスは父なる神と全く同じ神としての本質と性質を持っておられ、神とイエス・キリストは一つなのです。
従って、私たちは真の神を知ろうと思えば、聖書の証しするイエスをよく知ることが必要になります。
すなわち、イエス・キリストのその愛と憐れみに満ち、柔和で、きよく、義に満ちた人格、またマリアからの聖霊による誕生や、目の前の困っている人になされた様々な驚くべき力ある奇跡、また予告されていた通り、ユダヤ人の手によるご自分の十字架の死とそこからの復活などの御業を通して、神を知ることができるのです。
もちろん、旧約聖書で出現が預言されているメシア(救い主)が、ご自分であることを様々な方法で証されました。
ですから、本来、今や私たちは神を知るために、当てのない探究や複雑で難解な勉強や宗教が教える難行苦行をする必要などないのです。
ただし、神の存在を知っていても、その神を詳しく知ろうとする知的好奇心はおさえられませんが・・・。
このように私たちは、神そのものの存在を知ろうとする必要は全くないのですが、神の御言葉、聖書の証しするイエス・キリストの人格や性質、つまり、その知恵、力、きよさ、正しさ、愛、憐れみ深さ、柔和さ、真実などを知れば、それが神の真の御姿ですから、即、真の神を知ることになるのです。
以上を簡単に纏めてみます。
神はご自分の御子イエス・キリストにより、またその御子イエスを証しする聖書により、私たちが神について知る必要のあることは、必要にして十分に証されていると思いますので、わたしたちは、第一に自然をよく見つめ、第二に歴史から深く学び、第三に私たち人間を愛し、謙虚に見つめ、第四に特に聖書の証しするイエス・キリストにより、真の神を知り、祈ってその神に全てを委ね、その方の聖書の言葉に従い、来世における憐れみと救いを信じて、この世を謙虚に生きていきたいと思います。
わたしは、傲慢かもしれませんが、皆人間はあらゆるものと戦い、守るべきものを守りながら毎日一生懸命に生きている憐れみたくなる存在だと思うのです。
時には罪を犯し、強欲になり、傲慢になり、間違うこともありますが、実際は、なにも真実が見えず、明日のことも分からない状態で、希望を持ち、毎日の生活を支えるために、一生懸命に生きているかよわく憐れむべき、愛すべき存在だと思うのです。
神もきっと、そのような目で人間を見ておられると思います。
第五章.<キリストの十字架><摂理について>です。
<キリストの十字架>
また同じようなことを書くと思いますが、ご容赦ください。
さて。人間を罪の中から救い出し永遠の命を与えるために父なる神は御子イエスを十字架に架け復活させたのならそこにはどのような意味があるのだろうか。
なぜそのような方法をとらねばならなかったのだろうか。
他に方法がなかったのだろうか。
わたしは最近改めてこのようなことを考えています。
同じことに何度も疑問を持つ、そして、その都度何か新しい発見がないものかと期待するのです。聖書を再認識して感心することもたびたびあります。
人間が創造されたものなら必ず目的があって造られています。
悪魔が閉じ込められたこの宇宙にエデンの園を造り自由意志を持った無垢な人間を置けば、人間は悪魔に誘惑されて罪を犯すのは自明の理です。
それでも神はそのようにされたのです。わかって神はそのようにされたのです。
それとも、神は人間が悪魔に唆されてご自分から離反することを予測できなかったのだろうか。
わたしたちは自分が何者でどこから来てどこへ行くかもわからず、悪魔が支配しているこの宇宙で生きているのです。
また、神は、イエスの十字架の時に、イエスを殺したのは悪魔ですから、それを証拠に悪魔を滅ぼしておけばこのような状況は生まれなかったのです。
神は、終わりの日の最後の最後まで、悪魔を滅ぼすことなく自由に放任されているのですから、そこに何か神の意図が見えるような気がするのです。
もちろん、このドラマの主役は人間ですから、人間い関わる何かの意図があるはずです。
現実の人間の世界は不法と不条理に満ち、何が真理かもわかっていないので、自分の力では回復不能な状態にあります。
なぜなら、悪魔が支配していたこの宇宙の中ではその状態が当たり前ですから、その中で生まれて育った人間には、その環境がすべてで、何が罪かも、何が真理かもわからないのは当たり前です。
自分は何者でどこから来てどこへ行くのかわからないのは当たり前です。
悪魔は神に逆らい、神の御計画を妨害するのが仕事ですから、そのことを人間に知られないようにするでしょう。
人間に何が真理かを知られたら、悪魔は自分の思惑を、つまり人間を自分の支配下に置き、自分を神のようにあがめる存在にしたいという目的を達成できなくなるからです。
だから、悪魔は、わからないように人間の心を惑わし、人間に真理が何かをわからないようにしているのです。
自分が神(創造主)によって造られたものであるということもわからないように人間を惑わしているのです。
こうして神はこの世で人間に艱難を与え、忍耐することを教え、練達を教え、そこから希望を見出すことを望んでおられる。
そのために神は悪魔をこの地上に放任されているのでしょうか。
そのようにローマ5章4節にありますが、これは訓練の何者でもない。
そのようにしておいて、神は人間を罪の中から救い(ご自分から離反した人間を再びご自分の下に引き戻すこと)、自分が何者でどこから来てどこへ行くのか、教えようとされている。
そのためにイエスをこの世に送られた。
それも、神の一方的な力で一気に全人類を救うのではなく、十字架で事実上救いを完成されて、イエスの言葉を人間の手で伝道させ、救いの恵みを受けるかどうかの選択は、あくまで人間の自由意志に任せられた。
聖書を読んでいると、神は人間に自由意志を与え、人間に出来ることは人間にさせようとされているのは明らかです。
新しい人間の創造は、神と人間の共同作業で行われるのでしょう。
信仰をもっていない人がだれでもが思う疑問、たしかに創造主である神から離反することは罪だというのはわかるにしても、なぜ神は人間の罪を贖うために自分の子供をこの世に送られて十字架にかけるようなことをされたのか。それも、自分の愛する子供をです。
教会では、それだけ神は人間を愛しておられるというのが一般的な答えです。
他に方法はなかったのか。
聖書では、神とイエスは親子関係です。イエスとイエスを信じている人間とは兄弟です。
ここで創造主である神の目で人間を見てみますと、神は人間を創造されましたので、創造の目的があって人間を造られたわけですから、人間が自分から離反して、目的から外れて勝手に歩き出したら、それはかないません。
それに、人間が自分の罪を認めないのに一方的に許せばそれは単なる親バカになり、子供はロクな人間になりません。
そこには子供への愛はありません。自分勝手な行動をしている子供を放任しているだけです。親の意見も聞く耳を持たない子供が出来上がります。
やはり罪を許すためには、最低限、親と向き合い、親の言葉を聞こうと、理解しょうとする気持ちがなければ、親が何を言っても馬耳東風です。
だから神は御子イエスの十字架と言う象徴的で強烈なインパクトを持った方法で、ご自分から離反する過去・現在・未来のすべての人間の罪を無条件で赦したことを歴史の中で宣言されたのです。
そこには神の強烈な愛が込められているのです。
そして、現在、地上で生きている人間の中なら、新しい人間の創造というご計画に用いるために一部の人間をイスラエルの民に代わり選ばれ導かれているのでしょう。
それが今も全世界に向けて神の言葉を伝えるために活動しているキリスト者と言うことでしょう。
だからイエスは、神の言葉を全世界に伝えよとは言っていますが、信じるように説得しなさいとは言われていません。
それは、信仰は賜物ですから、神の御霊、聖霊の仕事なのでしょう。
だから、神が自らその力で人間全員にキリストの十字架の罪の贖いを教え、強制的に救いに導かなければ、この世で生きているうちに全員が救われるわけではないのです。
もし、この世で生きているうちにしか救われるチャンスがないのならば、既に過去に真の神を知らないで死んだ人、現在と未来にその人の責任でもないのに神を知らないで死んだ多くの人はどうなるのでしょうか。
十字架で全員の罪を赦された神の愛を知ると、あまりにも不公平で、あり得ないとことだと思います。
この世で真の神を知り救われた人は、御霊の働きによるのですから、その人は神がご計画のために用いようとされていると言うことは事実なのでしょう。
なお、イエスが神の子で神と一体ならば、自分が死んでも復活するのは分かっているだろうから十字架は出来レースではないかという見方がありますが、イエスが十字架で殺され苦しまれたのは事実で、また、聖書を読むとイエスが十字架上で亡くなられる前に神がイエスから離れられた記録があります(マタイの福音書27章46節他)ので、やはり人間として(本人には罪がないのに)全人類の罪を一手に背負って死なれたわけです。
だから贖いの死なのです。
それでないと、神の子イエスの十字架死は、人間の罪を贖うための死ではなくなります。
ただの十字架死での死であるならば、そのような人は世界中で数えきれないくらいおられるでしょう。
聖書では、ご自分のご計画に用いるために特定の人間を救いご自分の方に導こうとされていますが、その経緯は次の通りだと思います。
ヨハネの黙示録3章20節に次のようにあります。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 」です。
神との和解の最初の第一歩は神を認め、つまり自分は造られたもので創造主がおられることを認め、その創造主の御心から離れていたこと、つまり、罪を認め、その罪を悔い改めて、イエスの約束の言葉を信じる決心して創造主の下に帰ることが必要なのです。
そうして初めて、神の霊、聖霊もその人間に内住できるようになります。
そして、神と人間との交流が始まり、その人間に神の愛が注がれて、神はその人間を天国に導けるのでしょう。
そうして初めて、神のみ業がその人の上に実現するのでしょう。
いつまでも廃ることがない信仰と希望と愛が実現するのです。
信仰は神を信じること、希望は次の世での復活と天国への希望、愛は隣人を自分のように愛する愛をもつことです。
では、なぜイエスは自分が書いたものを残されなかったのでしょうか。
新約聖書は、イエスの弟子が神の霊感を受けて書かれたとされています。
なぜわかるかって、それは、最初に書かれたマルコの福音書は紀元70年ころです。
イエスが十字架で死なれたのは紀元30年ころです。
その間、40年近くの時が経っているのです。果たしてわたしたちは四十年も前に体験したこと、聞いたことを明確に詳しく覚えているでしょうか。
わたしなど昨日何をしたかもよく覚えていません。
福音書著者は、四十年も前の出来事を明確に覚えていて福音書を書いているわけです。
やはり、そこに神の霊、聖霊の働きがなければなしえないことです。
ただ、福音書は文字で書かれていますから、書いたものはどうしてもいろいろと解釈が生まれます。
そのために宗教としてのキリスト教は、多くの教派が生まれ戦争が起こったり争いがおこったり中には解釈を独占する人もでてきました。
人間が霊感を受け書くことにより、その解釈は、聖霊の働きにゆだねられ、すなわち、読むものに働かれるのです。
したがって、聖書を、イエスの約束の言葉を読む者が聖霊の導きにより、自分に語られていると受け取ることによりいろいろ解釈があってもよいのではなかろうかと思うのです。
あくまで信仰は個人と神の関係だと思うのです。
そこには仲介者など必要ありません。
人間を罪から救うみ業にしても一番簡単な方法は神の力により人間の心を強制的に自分に向けさせ一方的に救えばいいはずです。
しかし、それをしなかったのは、神は人間に自ずから自由意志の中でご自分を愛してくれることを望んでおられるからです。
強制してご自分の方を向けさせても、そこからは本当の愛は生まれません。
神の創造のみ業の達成には人間が自らご自分のほうを向き神に助けを求める必要があるのでしょう。
そうでなければ、人間を本当の意味で救えないし、人間を新しい人間に造り替えることもできないのです。
神は、人間と真の愛による交わりを求めておられるという見方もあります。
新しい人間の創造には、新しい命を与えるために聖霊の内住が必要なのですが、人間が自らの意志で神を選び神を求めなかったら聖霊はその人の中に内住できないのでしょう。
人間は生まれつき自由意志をもって生まれてきました。人間はロボットにはつくられなかったのです。
だから人間は自分で犯した過ちは自分で正すべきです。だから裁きがあるのでしょう。
罪が許されるためには、罪を自覚し、罪を悔い改めて、神に許しを求める必要があります。
そのようなことを強制すれば、人間はロボットになってしまう。
十字架はそのことをわからせるために衝撃的な方法をとる必要があったからなされたのでしょう。
また、自由に神を選ぶことができるようにイエスは弟子たちに神から預かった約束の言葉を伝えよといわれました。強要とか説得する必要はない。伝えるだけでよいのです。
その言葉を受けれるかどうかは、聞くものの自由意志に委ねられたのです。
自由意志で受け止めて、初めて神の霊、聖霊がその者に働くことが出きるのでしょう。
もし、次の世があるなら死を前にして人間は不安に襲われます。
現世への未練に襲われます。そういう意味で、罪は死への不安を生み出します。
なお、別の投稿文でイエスの十字架死を受難物語として、それが生まれた経緯を含めて詳しく書いてみたいと思います。
<摂理について>
摂理を辞書で引くと、1 自然界を支配している法則。2 キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこととあります。
原則としてこの世界は、さまざまな自然法則によって運行されています。
ただし、わたしたち神の存在を信じる者は、その法則も神によってつくられたものと信じています。
神は原則としてこの宇宙の運行は創造当初定められた自然の法則にゆだねられ、それを保っておられますが、この世界を創造された御計画(新しい人間の創造か)がありますから、その計画を達成するために自然の法則の中に介入されます。
その介入を私たちはものによっては奇跡として受け取ることになります。
それを神の摂理というのですが、神が人間の歴史に介入されるからと言って、何も世界の歴史におこるすべての事柄が神の直接的な支配のもとにあるとか、すべてが神にあやつられているという意味ではありません。
例えば、世界におこる出来事や事象のあるものは、天地創造以来の物理的化学的法則の当然の結果として起こっています。
人間について言えば、神から離反しているという原罪から派生して起こる(人間の本性が原因で起こる罪ともいえます)、人間のさまざまな罪の行為は、神の摂理によるものではありません。
それは神から離れて自己中心に生きる人間の思いが原因となり起こすものと思います。
それは因果の法則と言われるものなのでしょう。
ところが、歴史上のあるもの、すなわち、神の直接的な、ときには超自然的な介入によって起こったイエス・キリストの降誕や、その生涯は、神の直接的なご介入に起こったのですから神の摂理と言えます。私たちは奇跡として受け取ることになります。
イエス・キリストを来たらせるために起こされた様々の予型も、そうであるし、イスラエル民族が起こされたこと、彼らに様々の預言者が遣わされたこと、そうしたこともすべて神の介入で起こった出来事ですから神の摂理です。
神の摂理は、神の全知および全能の属性に基づき、創造の目的を成就するために遂行されます。
神の摂理(この世界を創造された目的)の最終目標は、イエス・キリストを通してご自身に立ち返る人々を地上に起こし、彼らによってご自身の王国「神の国」を建設することです。神はそのために、人類の歴史上に様々の摂理を展開して来られました。
その神が展開された歴史は、ある意味人間が神と出会う場でもあるわけです。
人類の歴史は、原罪の上になっていますから、人間の本性が刻まれています。
ですから、わたしたちは歴史を研究することによって、人間とは何か、人類とは何か、また人類の将来はどうなるのか、人間の幸福とは何か等について考えます。
その歴史の中に神はご自身の介入の足跡も刻まれています。
そういう意味で、歴史は100%人間の意志であるとともに、100%神の意志でもあるわけです。
神の摂理は、大きく二つに分けて考えることができます。
その二つとは"中心となる摂理"と"その周辺の摂理"です。
中心となる摂理は、聖書に記された神の人類救済のご計画による歴史への介入や、導きのことで、その周辺の摂理は、その他の周辺的な摂理、たとえば、クリスチャン一人ひとりの人生を祈りによって、御計画に沿って良い方向に導いて下さるのも神の摂理と言えるのでしょう。
第六章.<エクレシア><主イエス・キリストとキリスト・イエス><原罪とは><天とその高き極みと地><天使の役割と性質><父なる創造神とイエスの関係><人間の構造><奇跡とは>です。
<エクレシア>
新約聖書で、「教会」と訳されているのは、ギリシア語でエクレシアのことです。
その意味を調べてみると、エクレシアという語句は、もともと「エク」(~から)と「カレオー」(呼ぶ)から成り、「呼び出された(人たち)」という意味の語で、ヘレニズム世界では投票権をもつ自由な市民の集会を指す語として用いられていたと言うことです。
この語は、旧約聖書をギリシア語に翻訳するにあたって、神の民イスラエルの会衆を指すカーハールというヘブライ語の訳語として用いられたそうです。
そして、キリストの福音によって(この世から)「呼び出されて集められた民」を指す語として用いられるようになります。
訳としては、「集まり」とか「集会」、「会衆」とか「民」と訳されています。
ということで、ここで「教会」と訳されているエクレシアは、現在あるような教会、すなわち、特定の教義や祭儀や聖職組織をもつ制度的宗教団体とは少し意味合いが違うように思うのです。
そういう意味で、聖書に出てくる教会は、いっそうのこと、「神の集会」とか「キリストの共同体」と言った方がすっきりします。
他の宗教の教会と間違われるのを避けることが出来ます。
<主イエス・キリストとキリスト・イエス>
イエス・キリストは、キリストは救い主と言う意味だから救い主イエスと言う意味ですが、パウロの時代にギリシアでこの名前が固有名詞のようになってしまい救い主の意味がぼやけてしまったので、区別する為にパウロは「キリスト・イエス」という呼び方をしたそうです。
この呼び方には、「キリストであるイエス」という意味を含んでいるのでしょう。
また異邦人社会でも「イエス・キリスト」が固有名詞となってしまって、イエスが救い主という意味がぼやけてしまったので、明確にする為に、身分を示す称号として頭に「主」を付けて、主キリスト・イエスと呼ばれるようになったということです。
<原罪とは>
善悪の判断を創造主に依存しないで、自分で善悪の判断をしょうとすることをいいます。
創造主と聖霊による交流が無くなれば、人間の霊に活力を与えるエネルギーは欠乏し、その霊は次第に活力を失い死んでしまいます。
ここでは人間の本体は霊にあるのですから、肉体の死は問題ではありません。
かくして「罪から来る報酬は死である」(ローマ6章23節)となります。
①原罪の周囲を思いの罪が囲いその回りを行いの罪が囲むことになります。
罪はよからぬ思いを派生させます。と言うことで、霊は意識体と言えます。
②十戒との関係は、人間は未熟な間は、教育のためにまず行いに関する律法(十戒)が示されます。
だがそれは背景にある原罪(神から離れて自己中心に生きること、的外れ)をカバーする一時的なもので、やがてその律法は、イエスの福音によって生きることで成就され、あたらしい律法が与えられます。(マタイの福音書第5章17節)。
新しい律法とは、ヨハネの福音書13章34節の「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。
原罪の本義は、「自分を造った創造主を思う心を意識の内に保持しない」状態を言います。
われわれ人間はアダム以降自分の創造主を意識しないで、真の神をℙ知らないで自己中心に生きていますので、人間は生まれながらにして罪びとです。
原罪のために人間は創造主との交流が断絶し、そのことによって人間の本体である霊は、永遠の命を失い死霊となったのです。
その霊に本来の創造の目的である永遠の命(神と共に生きる命、インマヌエルとも言っています)を与えようとしてこの世に来られたのがイエス・キリストです。
ですから、キリスト教の言う救いとは、神から離反して生きる人間に真の神がおられることを教え、その真の神との交流を復活させて、人間にもともと備わっている霊を活性化させて、創造主の人間創造の目的である新しい人間の創造を達成することなのです。
<天とその高き極みと地>
「天とその高き極み・・地」(ネヘミヤ9章6節)とあるので、この宇宙には複数の天があることになります。
高き極みは宇宙で、天が天国を差し、地は地球のことでしょう。
宇宙に三つの天があることを示していますが、パウロが第二コリント12章2節で三人称を使い、「第三の天にまで引き上げられた」と言っていますので、その第三の天は、楽園、すなわち、パラダイスのことで、その場所は「霊の領域」のどこかなのでしょう。
パウロと言う人間が、霊の領域に行けると言うことは、人間の本体は、やはり霊的存在なのです。
見方を変えると、天は①物質の天,②霊の領域,③高き極み,となります。
①の物質の天は、この地球の大気圏のことで、「太陽と月と星」が存在する宇宙空間をも意味するのでしょう。
②の霊の領域は、霊的な天,つまり霊の領域。それは物質宇宙の外にあり,物質宇宙より高度な存在領域のことでしょう。物質世界の本体は、霊界にあると言う考えだと思います。
この霊的な天には「霊」である神がおられ,神によって造られた霊の存在である天使たちもいます。ヨハネの福音書6章38節・・イエスがいたところでもあります。
③の高き極みは、支配する権威に関連し、高められた立場を表現しているのでしょう。・・神ご自身、神の王国のことでしょう。
<天使の役割と性質>
①御使いには、かしらがいて、上下の階級もあります。天使も被造霊で、その天使がいる天国は創造主を王とする霊の世界でもあります。
②天の軍勢とは、天使のことでしょう。天使は軍団のように組織化されていて、仕事は、神の手足として働き、天国にいて、神の名を拝し、賛美し、主を褒め称えることです。(詩篇148章1-2)。
③神の名とは、創造主は無限者であるから有限な空間である天国には入れないから天国には神の名を置くことになります。
<父なる創造神とイエスの関係>
①主というのは、創造主の主のことで、その創造主は、新しい天と新しい地と共に「見よ、わたしは万物を新しくする(新しい人間の創造)」(ヨハネの黙示録21章5節)と言う目的のために、人間を一方的にその用途を決めておいて創造し、教育し、訓練し、導き、ご計画によってこの世を運行されています。
②神とは、時間的無限者、空間的無限者、「有りてあるもの」です。
③偶像を描いてはならないとは、偶像とは形あるもの全てを指します。
創造主とは、絶対的に超越した唯一の存在だから、その方を置いといて、形あるほかのものを拝んでも、神を拝んだことにならないのです。
また、その形ある物を創造主として拝んだとしたら、創造主を被造物のレベルに引きずり下ろしたことになるので、それは神に対する侮辱になり、創造主である神はそういうのを赦されないのです。聖書の神は嫉妬心が強く自らの名誉を重んじる神です。
④聖霊とは、三位一体の神の三位格で、つくられたのではなく、成った存在です。
聖霊は霊ですから意識体で、創造主と同一の聖なる意識にみちた霊体です。
父なる神、イエス、聖霊は創造霊で合計三つとなりますが、質的には同じです。
創造主は、無限者であって霊ですから人には認知できませんが、聖書では、認知できない創造主が有限な被造物たる人間や天使に、認知可能な形で臨む、という展開になるので、それが人の子イエスです。
すなわち、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14章9節)とある通りです。
⑤言葉は常に思いを含んでいます。その思いとは意識です。
創造主からでる思い、意識は常に「聖なる」意識体であり、その行動体は聖霊です。
イエスはそういう、「聖なる霊体」として創造主から出た意識体そのもので、これが福音の核心でしょう。
⑥イエスは、ヨハネ1章1-2節によると、「初めに言葉(イエス)があった」ので、いない状態からあるとき出現したのです。
そして、その出現は、「初めに神と共にあった」のです。
イエスを「言葉」という理由は、イエスの口から出る言葉(ロゴス)は、人間に伝わる言葉ですが、その言葉は「霊であり、またいのち」ですから、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコの福音書13章31節)のです。
⑦イエスは創造主の具現体、すなわち、イエスは言う、「わたしはその方(父なる神)から聞いたことを、世に向かって話している。」(ヨハネの福音書8章26節)とあるからです。
⑧「万物は言葉によって成った。」(ヨハネの福音書1章3節)の「言葉」とは、イエスのことで、「万物」とは、この世、すなわち、宇宙とその全てのものを指します。
ただし、天という空間や天使たちは含まれていないと思いますので、それらは、父なる神が造ったことになります。
⑨「天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者は誰もいない。」(ヨハネの福音書3章13節)の天は、天国のことでしょう。
ですから、イエスの時代までに死んだ聖人たちの人の霊は第三の天、パラダイスにいるのです。したがって、パラダイスは天国ではない。パラダイスは、「陰府」の一領域だと思います
➉イエスと聖霊との違いは、第一に、イエスには天国を治める全権が与えられている。第二に、聖霊は「人の子の姿をとって現れたイエスが、神の子であること」を、しるし等をもって証しする働きをもつ「証しの御霊」です(ヨハネの福音書15章26節)。
<人間の構造>
人は肉体と霊からなりますから、死を迎えると、肉体はなくなり霊はぬけて存続しつづけるのです。
聖書では、その霊は父なる神と交流しながら、その肉体を支え生かしているのです。
だから、霊が肉体を離れて戻らないとその肉体は死ぬ(使徒言行録7章59-60、ルカの福音書8章53-55)のですから、その霊が身体にもどれば生き返るのです。
「その霊が体に戻れば生き返る」のですから、その霊は人間の生死を支配しているのです。
生死を支配する霊は、神と交流がなければ、イエスの言われる「死んでも生きる」とはいきませんから、やがて死ぬ死霊となるということでしょう。
ですから、神と交流のある霊によって生きる人間は、永遠の命を持つことになり、神と交流のない霊を持つ人間は、その命に限界があるのでしょう。
第一コリント2章11節に「人のうちにある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。」とあります。
この言葉は、その人のことは、その人のうちにある霊がすべて知っていると言うことでしょうから、人間の本体は肉体でなく霊にあることを明らかにしているのです。
それに、第二コリント12章2-4節(パウロが第三の天(楽園)にまで、意識を持ったまま引き上げられたところ)を読めば、わたしたちの意識の本体は霊にあることは明らかです。
私たちは肉体があるから生きているように思いますが、肉体はこの世を生きるために必要だから一時的に備えられたものと言えます。
<奇跡とは>
この世でイエスが行った数々の奇跡は、聖書では、それは彼の信仰(創造主との意識の一体化)によってであるとします。
人の子イエスは神と意識を一体化しているのですから、信仰において人を超越していたということになります。
人の子イエスの内にある霊は、聖霊であり、聖霊は三位一体の三位格の霊ですから創造主そのものです。
つまり、奇跡とは、その祈り(神との交流)がもたらす信仰(神との意識の一体)状態を通じて、全能の「父なる神」のエネルギーが現れたもの、ということになります。
そういう意味で、マルコの福音書16章18節に「信じる者には次のしるしが伴います。・・・病人に手を置けば癒されます。」というイエスの約束の言葉がありますが、この場合も、神を信じて、キリストの福音を受け入れた者で神と意識の一体化できた者は、と言うことでしょう。
第七章.<罪と裁き><天国には創造主の家がある><地獄について><信仰とは>です。
<罪と裁き>
イエスはヨハネの福音書12章47節で、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」と言っています。
また、ヨハネの福音書9章39節は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり見える者は見えないようになる。」とも言っています。
これをどのように考えればよいのでしょうか。
39節は、見える見えないは、イエスの言葉の真意で、つまり、見えていないのに見えていると言い張って、見えていないことに自覚のない者には罪が残るのです。
逆に、イエスの言葉の真意がわかっていないという自覚があるならば罪はないのです。
と言うことでしょうか。
なお、この「見える」というのは、イエスの言葉の真意を悟って悔い改める可能性が少しでもある、その真意を悟れる、ということを指すのでしょう。
「見えないようになる」というのは、その可能性がゼロということでしょう。
従って、イエスの言葉を信じた者はもう裁きはすんでいる、すなわち、天国へ行く裁きが住んでいることになります。
聖書では、ひとはみな、神に対する罪びととしてこの世に存在しています。
イエスはその罪人を救うためにこの世に来られたのです。
したがって、人はみな、罪を赦される可能性をもっていますが、赦されるのはこの世では罪を悔い改めることによってです。
罪を悔い改めないですでに死んだ人の行くところは、聖書では不明ですが、地獄でないことは確かです。
しかし、救いのチャンスと条件は、皆は機会均等の平等の中にあるのも確かでしょう。
救いにあずかるには罪を悔い改めが必要で、それにはイエスの言葉の真意がわかっていなければならないのですが、知的に恵まれない人とか幼子はどうなるのでしょうか。
また、その機会に恵まれなかった人は・・・。
彼らはイエスの言うことが知的に理解できない。イエスはそれでも、罪を赦される道があると明言しています。
それは、「自分はまだ教えが見えていないと、素直に自覚すること」でしょう。
すなわちそれは、イエスの教えに真理があると(霊的に)感じているということになります。
イエスは最初の段階で罪を赦すといっていますので、言葉の真意が、本当の意味で分からなくても、罪を悔いて、以後行動を改めるということでなくても赦されますので、イエスの言葉に真実がると思い学び続けるだけでも罪が赦されるのでしょう。
それからは聖霊がその者に働きかけて、信仰へと導くわけです。
イエスの教えに何かがあると感じた段階は、大人も幼子と同じ状態で、その時点でもって幼子と同じように罪は赦される(ルカの福音書18章16-17節、子供を祝福する。)のでしょう。
- 救われる者、救われない者を例示してみると、
①「信じて洗礼を受ける者」(マルコの福音書16章16節)は救われます。
②「わたしの言葉を聞いてそれを守らない者(信仰を表明しない者)がいても、わたしはその者を裁かない。」(ヨハネの福音書12章47節)と言われています。
つまり、「信じていて、行いがイエスの言葉に従っていない人」は裁かないのですから、創造主の家には入れないが。天国には入れると言うことでしょうか。
③「信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコの福音書16章16節)のですが、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」とあります。(ヨハネの福音書12章47節)
- 「わたしの言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネの福音書15章7節)とは、
イエスの言葉が内に留まるというのは、その言葉は神の意識体ですから、その意識が留まっている、ということは、つまり、その者にはイエス(神)の意識が十分に働いていると言うことでしょう。
そうなったら、その人の望むものは何でも、祈り求めたら与えられる、ということになります。祈り求めることが御心に沿っている必要はあるでしょう。
また、このイエスの言葉が留まると言うのは、その者が神の意識と一体の状態を指すのでしょう。
他に、「わたしの肉を食べ血を飲む者は永遠の命を得・・・」(ヨハネの福音書6章54節と56節)と言うイエスの言葉がありますが、それは、イエスの血と肉の実態は創造主の言葉、創造主の言葉がイエスの肉体になったと言うことでしょう。
ヨハネは1章14節で、「言葉は肉体となって、わたしたちに間に宿られた」とあるからです。
神の言葉が肉体となったのがイエスで、そのイエスがこの地上に誕生したのですから、そのイエスの言葉を受け入れた者は永遠の命を得るのです。
このように聖書では、人間は肉体と霊という意思体からなっていて、肉体は消滅するが、霊は永遠に存続することになっています。
ただし、永続の仕方には二つあり、一つは、宇宙が火で焼かれた直後に開かれる最後の審判で悪霊たちと一緒に火の池に投げ込まれて、以後熱さに苦しみながらの永続です。
人間はアダムが神から離反して以降そうした霊を受け継いでいるので、そのままではこの道しかないように見えますが、救われないで(キリストを受け入れないで)死んだ人は生前の行いにより裁くとなっていますので、一概には言えません。
そうでしょう、死んだ時点で救われていない人がすべて地獄に行くならば、裁く必要などありません。死んだ時点でその人は地獄行きが決定するのですからね。
もう一つは、救われて天国に入れられて、光と自由と喜びに満たされての永続です。
これにあずかれる方法は、イエスの言葉(福音)を、自らの心(霊)の内に受け入れて留める事(マルコの福音書13章31節)です。
<天国には創造主の家がある>
よく間違われるところですが、マタイの福音書22章婚宴のたとえ話ですが、天国には、創造主の家がある話です。
もちろん、この創造主の家は、天国にあります。
22章のたとえ話では、「招いておいた人々はふさわしくなかった。」(8節)のは、先に神に選ばれたユダヤ人でしょう。
「見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい」(9節)と言われて連れてきた「町の大通りで見かけた人」は、イエス以降のキリスト者で異邦人でしょう。異邦人がユダヤ人より先に宴会に(天国に)招かれているのはわかります。
王様は通りから来た人の中に礼服を着ないで(行いを伴わない福音を受け入れただけの者か)やってきた1人の客を見つけ、彼を宴の外(私の家の外)の闇に放り出します(13節)。
話の流れから見ると、「招いておいた人々」なのに放り出されたのですから、天国に入る資格があるのに放り出されたということですから、宴の外の暗闇とは、天国の中の創造主の家の外と考えたらつじつまが合います。
彼も町で招きを受けてやってきたから救われているのでしょうが、宴の外では同じ天国でもイエスの側ではありませんから、歯軋りもします。(22節)
天国に救われた人にもこのように場所の差異があるのです。
そうでしょうね。イエスに直接選ばれた12弟子と、私たちとはおのずから住まいは違うのは分かります。
<地獄について>
天国の正反対である地獄について思うところを書いておきます。
地獄は「すごくいい人なんだけど、あるいは、特別悪いところもないのに福音を受け入れなかった」人々が送り込まれる場所ではありません。
地獄に送られる条件の一番は、その創造主を無視して、自分が創造主に取って代わるように、永遠に世界の中心にいたがり、神を否定するという抵抗を止めない人々です。
現在、地獄行きが決まっているのは、悪魔だけです。
悪魔も人間と同じで神の支配下にあるのですが、自由意思を認められているゆえ、自己中心性を発揮し、自分が神のようになりたいと思い神に反逆しましたが、改めないので地獄に送られるのです。
もし、神が人間の自己中心性を気に留めないで、人間の明らかな反逆を前になにもされないのならば、その人物を地獄に送り隔離しなければ、神そのものの存在意義と言うか、そもそもこの人間世界を作られたご計画がダメになってしまいます。
また、人間が神から離れた罪は、悪魔に唆されたもので確信犯ではないこともあるからか、まだ救いの余地があるからか、聖書はその人間の罪の度合いは一様ではない(行いにより裁くとも)と言っています。
同じ罪でも行いにより裁くのですから、地獄に行かない人もいるでしょうし、地獄に行った人がすべて同じように苦しむかどうかは疑問です。
あくまでも神に反逆する自己中心的な罪人が他の人間を傷つけるのを防ごうとしたら、彼らを閉じ込める場所は地獄以外にありません。悪魔と同じようにです。
最後の審判のときは、この世の中で「神から不当な扱いを受けた」といえる人物は誰もいない。神が人々とこの世界とを裁く様子をみて、だれもがその中にある正義を見る。」のです。
この世の中では、常に正義が為されるとはいえないし、私たちは、毎日不正がはびこる様子を目のあたりにしています。
しかし、最後の日には、正義が為されるのでしょう。
そして、私たち全員にその正義が明らかにされますから、「これは不公平だ」と文句のいえる人間は誰もいなくなります。
ですから、この地上世界でキリストの福音を受け入れなければ、地獄に行くという教えは間違いです。別の箇所にも書きましたが、不公平極まりないからです。
<信仰とは>
①信仰とは、最初は半信半疑でいいが、それでも、イエスの言葉を意識に留めていると、後は創造主(聖霊)が時を見て真理だと悟らせてくださる。
聖書信仰というのは、そういうものだと思います。
ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」というのは、まだ実現していない「望んでいる事柄」で、また、現実となっていない「見えない事実」を、「確信し、確認する」というのは、具体的には、望んでいるがまだ現実になっていない事実をまるで現実化しているかのように「確信し、確認」するのが、信仰の核心となります。
人間には、現実にはないけれども、現実と変わらない事実として望んでいることを見る力が備わっているのです。
②信仰とは、約束の言葉(聖書)を自由意思の中で抱くことです。
聖書は、創造主(聖霊)からの啓示でかかれたもの、というのが大前提です。
だからそこに述べられていることは、神の言葉となります。
その上で、そのことを信じるか信じないかは自由です。
③天国に入れる条件は、選択の自由の中で、自由意志でもってキリストを受け入れるかどうかの決断を当人に任せる方法です。
ただし、自由意志活動の中で、真の神を期待し、祈りをもって求めた人に対しては、創造主(聖霊)はそれにいたる手助けをするようです。
④聖書における真理とは、神から出た言葉(約束の言葉、聖書)を指し、その言葉通りに100%なると確信して、約束の言葉を読み心に抱きとどめることが聖書における「信仰」の意味でしょう。
⑤信じるとは、イエスの十字架死が人類の罪を贖ったと言う約束の言葉を、「その通りです」と心に抱くことです。確信に至らせるのは、神の御霊・聖霊の仕事です。
それにそったよい行いは基本的には求められていません。
すなわち、自由意思の中での信仰により義と認められるのです。
救いとは、その人が持っている霊、神とのつながりがないゆえ死に定められている霊の救いのことですが、その救いは、信仰によるのであって行い(福音をのべ伝えること)ではないのですが、「行い」(福音をのべ伝えること)が救いの条件ではないといっても、聖書は行いを全く除外しているわけではなく、行いは天国に於いて報い(褒美)を受けられる条件になっています(マタイの福音書5章11-12)。
なお、その報い(褒美)がどのようなものかは書かれていません。
第八章.<福音を宣べ伝える><キリストの「陰府」下りと死者に対する福音><一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。><今こそこの世が裁かれる時><天使・悪魔・悪霊・汚れた霊><わたしの掟(命令)を受け入れそれを守る人はわたしを愛する者である。>です。
<福音を宣べ伝える>
ルカの福音書18章17節「幼子のように創造主の国を受入れる者でなければ・・・」の意味は、イエスの教えはつべこべ言わずに幼子のように受け入れる、つまり、何も疑問を持たないで盲目のまま信じなさいと言うことでしょうか。
しかし、わたしたち、特に自立した大人には知性がありますのでそうはいきません。
教えの内容を可能な限り理解しょうと務めるのは当たり前だし、そのように神は人間を造られたのです。
大人がまったく理屈ぬきにある教えを受け入れるならば、それは盲目的に受け入れることになり、まじないや呪術的宗教になってしまいます。神の本意でもないでしょう。
と言うことは、理解しょうと努力するのは良いが(神の言葉をすべて理解するのは人間には無理なので)どうしても理解できないところが残るので、そこは、上記の聖句の通り「幼子のように受け入れないと」信仰に至れないよ、と言うことでしょう。
すべてがわかれば、信仰など必要ありませんからね。分からないから信仰があるのです。
さて、マルコの福音書16章15節に「全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と言うイエスの言葉があります。
しかし、現実的にすでに福音を知らないで亡くなった人もおれば、そういう環境にない人も世界には多くいます。公平に信仰を持つチャンスがすべての人に与えられるとは限らない。
と言うことは、このイエスの命令は、できるだけ多くの人に伝えなさいと言うことになります。
なお、誰が救われて誰が救われないかは、予め神によって予定されているという聖書解釈がありますが、この世で救われる人は、何かこの世でやるべき仕事があるから救われたのだと思います。
神の全人類救済のご計画の達成のために選ばれた人だと思います。
救われる人は、弱い者、貧しい者が多いのです。優秀だから救われるわけではないのです。
<キリストの「陰府」下りと死者に対する福音>
重大な問題ですが、イエスを知らないで亡くなった人の霊は、肉体を抜けた後でも、イエスを信じることはできるかと言う問題は、聖書には言及した所はないと思います。
これについての参考箇所は、第一ペトロの手紙3章19節に「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」、同3章20節、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」
そして、第一ペトロ4章6節は、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らは人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためです。」とあります。
と言うことは、キリストは捕らわれた霊のもとにいって御言葉を宣べ伝え、神のもとに導こうとされたのです。
そして、彼らは、3章20節で「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」としています。
こうしてみると、彼らは神の「箱舟に逃げ込むだけで洪水の裁きから救われる」と言う言葉に逆らい、また、キリストの福音も当然知らないのですから、「彼らは救いを受けていない人々」であることは明確です。
しかしこのような解釈に立てば、陰府でキリストがみことばを語られたのは、ノアの時代に不従順であった死者だけに限定されてしまいます。
それでは、キリストはいつ陰府で福音を語られたのかですが、使徒言行録は十字架で死なれたキリストは墓に葬られ3日後に復活されるまでに「陰府」(よみ)にまで降りてゆかれたと告白しています。
参考箇所は、使徒言行録2章31節とか、同32節、同10章40節です。
キリストが十字架にかけられ葬られるまでの三日間「陰府」に降られみ言葉を宣べ伝えられたのです。それから復活させられたのです。
ただし、聖書が「陰府」という場合、必ずしも「地獄」を指してはいません。
地獄は明らかに神から完全に見捨てられ祝福を失い永遠の審判が執行される場で、そこにはもはやなんの希望も救いもありません。
一方、「陰府」は旧約聖書の時代は、神を信じた人々も不信仰な人々も偶像礼拝者もすべての死者が行く死者の住む闇の世界と考えられていました。
しかし、新約聖書の時代になり、キリストがこの世に来られて、福音を宣べられ、福音を受け入れる者のみ救われる(永遠の命を得。救われる)となっていますが、キリストの十字架死は、過去・現在・未来の全人類が救われることを願い全人類の罪を贖うためであります。
したがって、キリストの福音が宣べ伝えられてからは、キリストの福音を受け入れた者のみ救われてパラダイス(楽園)に行くことになったのです。
しかし、キリストは十字架後復活までの三日間(この三日と言うのはこの世界での三日ですから、永遠の世界、時間のない世界の来世では文字通り三日とは限りませんし、過去・現在・未来すべての時間も入るのでしょう。)「陰府」に降り、福音を受け入れないで、あるいは知らないで死んだ人にも福音を宣べ伝えられたのです。
ですから、神と交流がなくて死んだ死霊も、福音を受け入れてその霊を活霊に転ずることもある、ということがわかります。
なお、上記ペトロの言葉では、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者。」のみにキリストは福音を宣べ伝えたことになりますが、十字架で全人類の罪を贖われたこと、愛と正義(公平)を旨とされるキリストならば、その中には、ノア以降の、キリスト以降の福音を受け入れていない死者すべてが含まれると解するのが自然だと思います。
そうでしょう、キリストが行かれたのは霊界(陰府)です。霊界は時間のない世界ですから、そこは過去・現在・未来のすべての出来事が一堂に会している場所ですからね。
<一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。>
ヨハネの福音書12章24節には、キリストを一粒の麦に喩えて、キリストが、「地に落ちて死ななければ」ですから、十字架で殺されなければ、一粒のままだが十字架で殺されれば、三日後に神は復活させて神はご自分と御子イエスが一体であることを証し、天の迎えキリストの代わりにあなたたちの助け手として聖霊をおくると言われているのです。
その結果、「多くの実を結ぶ。」、すなわち、キリストの福音を受け入れる者が多く起こされると言うことでしょう。
弟子たちの伝道によって福音を受け入れた全ての人々に聖霊が内住し、その者は永遠の命を得、その者は新しい人類に創造、造り変えられるのです。
そのことを達成するために、イエスの十字架死は必要であったのでしょう。
ヨハネの福音書12章32節のイエスの言葉、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」とある通りです。
キリストの十字架死は、今も世界中でその意味が語られ、信じ、受け入れる人が起こされています。
なお、キリストの福音伝道を弟子たちに委ねると言う面倒くさい方法を取らないで、何でもできる神ならば一気に人間を救いに導かれた方が合理的だ、と言う考えもありますが、それは、神の新しい人間の創造と言うご計画を成就するためには、人間の自由意思を尊重したうえで、人間を救いに導くことが絶対に必要なことであったのだと思います。
その説明は、一般的には神は人間との間を真の愛をもって築くことを望んでおられ、真の愛の関係を築くには、自由意思で、人間が自ら神との関係改善を求める必要があると言うものです。強制された関係に真の愛は生まれないと言うことです。
<今こそこの世が裁かれる時>
ヨハネの福音書12章31節のこの言葉には、この世は悪魔の支配下にあると言うことが前提としてあります。
悪魔はユダヤ人の意識に働きかけて、イエスを十字架で殺してしまいました。
そのことによって悪魔の神の子イエス殺しの罪は、言い訳できない状態になりました。
つまり、イエスを殺した時点でもって、悪魔の地獄行きの裁き(ヨハネの黙示録20章10節)は決定しました。
悪魔は、イエス殺しをするしかなくなって、そのように動くが、イエスはそれにあえて抵抗しないで、殺させて証拠をあげたのです。
だから「今(悪魔が支配する)この世が裁かれる時が来た」というわけです。
それで、ヨハネの福音書12章31節「今この世の支配者が追放される」となるわけです。
神は、悪魔の支配下にあるこの世界にイエスの支配する領域を作ろうとされているのです。
人間はイエスの名のある領域に入ることによって永遠の命を得て、真理と栄光の力に満たされるのです。
イエスの名のある領域に入るには、イエスの教え(福音)を受けいれて(罪からの)救いを信じるだけでよいのです。
こうして悪魔が支配するこの世界はキリストの福音伝道によりキリスト者が増え、徐々に悪魔が支配する領域が狭くなっていきます。
そして、最終的に悪魔はこの世界の終わりの日にヨハネの黙示録20章10節にあるように、地獄に放り込まれます。
いまや悪魔の武器は、人間にキリストの福音を受け入れさせないように人間をだますことしかないわけです。
イエスの十字架の死以来、悪魔が支配していたこの世はそういうものに変質したのです。
それは、闇の中に光の領域が、偽りの中に真理の領域が、死の中にいのちの領域ができると表現することもできます。
<天使・悪魔・悪霊・汚れた霊>
悪魔は、もと天使でした。天使であった悪魔は、自分も神のようになりたいと思い神から離反したとあります。
神は、その変質した天使をこの地上に落とされて閉じ込められたのです。
それで、この世界はもと天使であった悪魔が支配するようになったのです。
悪魔は天使が変質したものですが、聖書には、天使が人の身体に入ったという記述はありません。
なお、悪霊は悪魔になった天使について行った天使です。天使の三分の一が従ったと記載があります。(エゼキエル28章、ヨハネの黙示録12章)
天使が人の意識に影響を与える時は、いつでも外側から他の者を用いて影響を与えていますから、悪魔も人の内に入ることはないのでしょう。
ですから、人の内に入るのは「汚れた霊」と記されている存在だけで、それは、死んだ人の霊です。
それゆえ、「汚れた霊」と記されている存在は、悪魔にしたがって悪霊となった天使で、聖書に「天の諸々の悪霊」と記されている存在とは違います。
なお、神は変質した天使をこの地上に落とされて閉じ込められたのですが、その地上に神は自由意思を持った人間を置かれたのです。
だから、人間は悪魔に唆されて神から離反し、そのことから派生する罪でこの地上は罪がはびこり地獄のような状態になっています。
それは、悪魔が、人間が神を知ること、この世界の真理を知ることを妨害しているからと言うことです。
ですから、人間がこういう状態になることは神にはすべてご存じであったと言うことになります。
逆に言えば、神には、人間をこの地獄のような世界から救い出す義務があるのではと言いたくなります。
そのように考えれば、このような事態は、神にはわかっていたはずですから、新しい人間の創造と言うご計画には必要なことであるのでしょう。
<わたしの掟(命令)を受け入れそれを守る人はわたしを愛する者である>
この言葉は、ヨハネの福音書14章21節のイエスが語られた言葉です。
人の言葉を受け入れるのは、その言葉の内容を理解して、納得すればできます。
納得しなくても、知的に受け入れることもできます。
わからないとこはわからないでよい。それを子供のように、あるいは命令として受けて行うならば事態は変わるのです。
イエスは、わからない部分があっても、信頼して全て受け入れ従うならば、それはわたしを愛することだと言っています。
そういう人は、「わたしの父(神)に愛される。」とし、そして、「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と言われています。
霊的体験の根拠ですね。
また、同じ愛することでも、「互い愛し合いなさい、これはわたしの命令である(ヨハネの福音書15章17節)は、キリスト者同士のことを言っているのですが、この互いに愛し合いなさいという命令を守るためには、アガベーの愛がその人に内住している必要があります。
その愛は「互いに愛しなさい」という命令を守っていないと実現しないのでしょう。
イエスも父の命令を守ることによってその愛を内に抱くことが出来たのですから、聖霊という創造主の霊が信ずる者の内に入る、つまり聖霊のバプテスマを受けることによってアガベーの愛は注入されるのです。
それは、「キリストの命令を受け入れてそれを守る」、ですから、行うことにも通じるのでしょう。
だから救いは福音を受け入れるだけでよいのですが、愛されるためには、それを行うことが求められるのです。
もちろん、その行いは聖霊の働きによって実現するのです。
このように、信仰(福音を受け入れて信じること)の最終目標には、イエスの言葉が内に留まる、すなわち行いが伴う必要があるのです。
そうすれば、ヨハネの福音書15章7節にあるように、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」状態になるわけです。
第九章.<摂理><神様が望まれている生き方>
<摂理>
人間を罪(神から離反して自己中心に生きる)の中から救い出し永遠の命を与えるために神は御子イエスを十字架に架け復活させたのなら、そこにはどのような意味があるのだろう。なぜそのような方法をとらねばならなかったのだろうか。
聖書は、人間が創造されたものだとしています。
それならば必ず創造主がいて、その創造主のご計画と言うか、目的があって造られたはずです。
聖書は、神は人間を創造する前にこの地上世界に悪魔を閉じ込めたので、この地上世界は悪魔の支配するところとなったと言っています。
その地上世界にエデンの園を造り自由意志を持った人間を神は置かれたのですが、そうであれば、造られたばかりの何も知らない無垢な人間は、悪魔に神から離反するように言葉巧みに唆されたら、その気になるのは当たり前です。
そういう事態になることを神はわかっていてそのようにされたのです。
ヨハネの黙示録12章9節に、「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」とあります。
人間は、自分が何者でどこから来てどこへ行くかもわからずこの悪魔が支配しているこの地上で生きることになったのです。
行き先がわかればこの地上でどのように生きるかがわかるのだが、それも分からないのです。
この天地万物も宇宙も、なぜ存在するのか、どうして造られたのか、そして、自分は何者で、自分はどこからきてどこへ行くのか、何も分からないのです。
このように人間は、アダム以降神から離反した状態なので、自分を造ったものの存在も、その目的も分からないまま生きているのですが、その世界は、不法と不条理に満ち、自分の力では回復不能な状態にあります。
なぜなら、悪魔が支配しているこの宇宙の中では、人間が神を知ることを妨害する悪魔の働きがあり、人間は神から隠された状態にありますから、その中で生まれ育った人間には何が罪かも、何が真理かもわからないのは、また、自分は何者でどこから来てどこへ行くのかわからないのは当たり前です。
真理を人間に知られないようにする悪魔の思惑は、真理を知られたら、人間を自分の支配下に置き、自分を神のようにあがめる存在にしたいという目的を達成できなくなるから、盲目のままにしておきたいのでしょう。
悪魔は、わからないように人間の心を惑わし、人間に真理が何かをわからないようにしているのですから、自分が作られたものであるということもわからないように人間を惑わしているのです。
次に、神はすべてをご存じで、その上でこの地上世界に人間を置き、生きていくうえで人間に艱難を与え、忍耐することを教え、練達を教え、そこから希望を見出すことを教えようとされているのだと思います。
人間世界の最終段階を預言するヨハネの黙示録21章を読むと、この天地と人間を含む被造物を一新すると書いてあります。そう、新しい人間の創造です。
ローマ書5章3節と4節でパウロは「苦難を誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」と言っています。
この言葉は、この人生が訓練の何者でもないことを指しています。
そのようにしておいて、神は御子イエスをこの地上に送りこの世界の真理を教え、人間の罪(神に逆らって離反した)の贖いの御業としてイエスを十字架に架けて殺させ、復活させて人間を罪の中から救い、自分が何者でどこから来てどこへ行くのか、教えようとされている。
そのためにイエスをこの世に送られた。それも、神の一方的な力で一気に全人類を救うのではなく、救いの恵みを受けるかどうかの選択は、あくまで人間の自由意志に任せられたのだ。もちろん、福音の言葉を全人類に知らせるのも人間の手に委ねられたのです。
神の一方的な力で一気に全人類を救うのではなく、人間の手に委ねられたのは、新しい人間の創造と言う目的のためには、あくまでも人間は自由意思で神の下に帰る必要があるのでしょう。言い換えれば、自分が神から離反すると言う罪を犯したのならば、自分の意志で神の下に帰る必要があるとも言えます。
ここで、信仰をもっていない人がだれでもが思う疑問ですが、創造主がいることはわかる。たしかに創造主である神から離反することは罪だというのもわかるにしても、なぜ神は人間の罪を贖うために自分の子供をこの世に送られて十字架にかけるようなことをされたのか。自分の愛する子供をですよ。と問われる。
教会では、それだけ神は人間を愛しておられるというのが一般的な答えです。
他に方法はなかったのか・・・。
聖書では、神とイエスは親子関係です。イエスとイエスを信じている人間とは兄弟です。
神(創造主)から人間を見ると、もし子が自分の罪を認めないのに一方的に許せばそれは単なる親バカです。
そこには子供への愛はありません。自分勝手な行動をしている子供を放任しているだけです。
それではろくな子供にならないし、親の意見も聞く耳を持たない子供が出来上がります。
やはり罪を許すためには、最低限、親と向き合い、親の言葉を聞こうと、理解しょうとする気持ちが必要です。
その気持ちがなければ、親が何を言っても子供は馬耳東風です。それではその子の成長は望めません。
神は、人間がこちらを向くのを語りかけながら待ってはいるのです。
根気よく、侮辱されようがののしられようが、その子が自分の方を向くまで待っておられるのです。
そうです、人にはそれぞれその時があるということです。
神を知るのにもっともふさわしい時があるということです。
神との和解の最初の第一歩は神を認め、神の言葉である聖書を読み、神の言葉を心に留めると、聖霊が働かれて、信仰に導かれるのでしょう。
聖書では、「幼子のように信じなさい」、とありますから、聖書を読み、分からないところがあっても神に委ねれば、そのあとは聖霊が働き信仰を持たせてくださると思うのです。
聖書を読み、み言葉を心に留めれば、神の霊がその人に内住し、その人を信仰に導き、その人を新しい人間に造り変えてくださるのです。
聖霊がその人に内住して初めて、神と人間との交流が始まり、その人間に神の愛が注がれて、神はその人間を天国に導き、霊的成長も望めるようになるのです。
神のみ業(創造のご計画が)がその人の上に実現すると言うことでしょう。
パウロの言葉、いつまでも廃ることがない信仰と希望と愛(第一コリント13章13節)が実現するのです。
この信仰は神を信じること、希望は次の世での復活と天国への信仰をもつこと、愛は隣人を自分のように愛する愛をもつことです。
では、なぜイエスは自分が書いたものを残されなかったのでしょうか。
新約聖書は、イエスの弟子が神の霊感を受けて書きました。
書いたものはどうしてもいろいろと解釈が生まれます。
そのために多くの教派が生まれ、教派争いで、争いが絶えなくなり、中には解釈を独占する人もでてきます。
聖書は、人間が霊感を受け書くことにより、その解釈は、聖霊の働きにゆだねられることになる。
したがって、聖書を、イエスの約束の言葉を読む者が聖霊の導きにより、自分に語られていると受け取ることによりいろいろ解釈があってもよいのではなかろうか。
あくまで信仰は個人と神の関係だと思うのです。
そこには仲介者など必要ありません。
人間を罪から救うみ業にしても一番簡単な方法は神の力により人間の心を強制的に自分に向けさせ一方的に救えばいいはずです。
しかし、それを神がしなかったのは人間に自由意思を与えられたからで、人間を自由意志の元に作ったのは最初からの神の御心であったのです。
神のみ業の達成には人間が自ら、そう、強制されてではなく自ら神のほうを向き神に助けを求める必要がある。そうでなければ、人間を救えないのでしょう。
人間に新しい命を与えるため聖霊の内住が必要であるが、きっと、人間が自由意志で神を選び神に救いを求めなかったら聖霊はその人に内住できないし、神との交流ができないのではなかろうか。
人間は生まれつき自由意志をもって生まれてきた。そのように作られている。ロボットにはつくられなかった。
だから自分で犯した過ちは自分で正すべきです。
罪が許されるためには、罪を自覚し、罪を悔い改めて、神に許しを求める必要があります。
そのようなことを強制すれば、人間はロボットになってしまう。
イエスの十字架という、衝撃的な方法を取られたのは、人間にそのことをわからせるためであったというのも、一つに理由なのでしょう。その証拠に、今も全世界で十字架の意味が語られ、信じる人が起こされています。
また、自由に神を選ぶことができるようにイエスは、神から預かった約束の言葉を伝えよといわれました。強要とか説得する必要はない。伝えるだけでよいのです。
その言葉を受けいれるかどうかは、聞くものの自由意志なのです。
神の言葉を自由意志で受け入れて、初めて神の霊、聖霊がその者に働くことが出きるのでしょう。
もし、次の世があるなら死を前にして人間は不安に襲われます。現世への未練にも襲われます。そういう意味で、罪は(神を認めないなら)死への不安を生み出します。
<神様が望まれている生きかた>
私たちがこの世界で生きる生き方、すなわち、最後の審判での裁きの際の参考になる個所を紹介します。
マタイに福音書25章の「タラントン」(賜物)のたとえ、すなわち、神様から与えられた賜物を忠実に用いなさいというメッセージが込められているイエスのたとえ話ですが、私たちのこの世界での神が望まれている生き方が推測できます。
「タラントン」はその人に与えられた賜物を指すのですが、物語は、五タラント、二タラント、一タラントとそれぞれ賜った三人の人がどのように用いたかですが、五タラントと二タラントの人は倍の十タラント、あるいは、四タラントに増やしました。ところが一タラントの人は減らすのを恐れ、何の努力もしないで穴を掘ってかくして置きました。
神様は、五と二タラントの人には喜び「少しの物に忠実であった」という理由で、より多くの物を管理させます。一タラントを預かった僕には、「怠け者の悪い僕」とし、その一タラントンを取り上げ十タラントを持っている僕に分け与えます。
そして神様は、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ、そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう」と言われます。
第十章.<キリストの十字架死>です。
<キリストの十字架死>、
他の投稿文と重複するところがありますが、ご容赦ください。
キリストの十字架死は、キリストの受難物語とも言われますが、受難物語は実際に起こった出来事に基づいています。
そして、聖書は、受難物語が事実でも、これは単なる罪人の処刑ではなく、そこには意味があると言っています。
その意味(解釈)の根底となっている歴史観は、旧約聖書とそこに含まれる預言です。
福音書の記者たちは、旧約聖書の預言とこれの成就という歴史観に基づいて、イエスの十字架の出来事からその解釈(受難物語)を形成していったのです。
当然、イエスの出来事は、旧約聖書を離れて、聖書と違った意味で解釈することもできますが、その場合は、福音書の物語を福音書の意図とは違った視点から解釈する必要があるでしょう。
聖書を歴史書(又は小説)ではなく神の言葉として読む限り、旧約聖書から離れてキリストの十字架、また、福音書を正確に読み解くことはむつかしいでしょう。
でも現実に聖書はキリスト者だけでなく、いろいろな立場の方が自由に読まれていて、解釈の仕方もいろいろですが、わたしはそれでよいのだと思います。。
でも、やはり聖書を神の言葉として読むのならば、この出来事を聖書それ自体が意図する解釈に基づいて読む必要があるでしょう。
まず、最初の疑問ですが、福音書、特に受難物語に語られているのは、本当に起こった出来事ではないのでしょうか?
福音書はイエスの弟子によって、それもユダヤ人の目で、旧約聖書の預言とこれの成就、この視点からイエスの出来事を解釈して、イエスの誕生から復活、天に昇られ、聖霊降臨にいたるまでの出来事が書かれています。
新約聖書は、弟子たちの信仰告白ですから、実際の出来事もイエスの語った言葉も含まれています。
それに聖書に書かれていない、イエスの出来事とか言葉も多くあるでしょう。
ひょっとしたら、福音書著者の信仰から生まれた言葉も含まれているかもしれません。
イエスの公生涯中の伝道活動は、家から家、町から町へと巡回して、集まってくる人たちと共に食事をし(当時はこれも宗教的な行為でした)、病気の人を祈りによって癒し、また教えを宣べ伝えました。
イエスは、その教えの中で、いろいろな譬えを用いて、わかりやすく、時には鋭い批判をこめて、神の国について教えられました。
一つ付け加えておかなければいけないのですが、イエスのこの伝道活動とか弟子たちとの交わりの中には聖霊が強く働かれていたと思うのです。
聖霊があまねく降るのは使徒言行録2章に記載されているように、イエスの十字架死、復活、昇天があったのちです。
しかし、聖霊の活動は、生前のイエスの言動の際に、イエスを通じて活発に働いていたのだと思います。
ですから、聖霊の臨在が、十字架以後にはじめて実現したのではないと思うのです。
聖霊は人間的な思いに関係なく、イエスの言葉を信じる者に働き、宗教的な禁止事項があったにもかかわらず、ユダヤ教指導者の反発にもかかわらず、イエスを通じて神の聖霊は片っ端からそれらを破って働いたのでしょう。
そして、多くのイエスの言葉を信じる人が起こされました。
だから、当時のユダヤ教の指導者たちはユダヤ教と言う宗教的な立場に危険を覚えイエスとの間に対立が生じたのでしょう。
宗教的なこだわりのないローマの官憲たちが、イエスの運動をはたしてどこまで危険視したのかは分かりませんが、反乱の可能性があると見たのは確かなようです。
それでイエスは捕らえられて、十字架刑に処せられました。
イエスはいなくなりユダヤ教指導者が一息ついたにもかかわらず、イエスの弟子たちの間に次のようなことが起こります。
こうして生前イエスの回りに集まっていた人々は、失望のためにどん底に落とされ、ユダ教指導者層の迫害に対する恐れもあったでしょう、彼らはいったんは離散し、故郷へ帰る者もあったのですが、イエスを忘れることが出来ないで、イエスの生前の約束を思い出し、再び、彼らがエルサレムに集まって祈っていると、その場にイエスが生きていた時と同じように神のご臨在が彼らの間に顕れたというか、イエスご自身が彼らと一緒にいてくださる、と言う感覚が、生前と同じように実感できたのでしょう。
このような事態は、神の聖霊の働きそのものです。
聖霊の臨在のなかで、イエスは死んではいない、生前の約束通り復活して再び自分たちと一緒にいてくださる、と強く信じるようになったのでしょう。
反面、弟子たちの間で聖書に通じている人が、イエスの誕生と十字架の意味を調べたのでしょう。
彼らは、イエスの死を旧約聖書の「イザヤ書」53章で語られている「苦難の僕」と結びつけました。
ユダヤ教では、この苦難の僕こそ、来るべきメシアを預言していると信じられていたからです。
彼らは、彼らの集まりに働く聖霊のご臨在の中で、祈り求めつつイエスの十字架の意味を探り求めました。
弟子たちは、イエスの受難の意味を旧約聖書をもって調べたのですが、自分勝手な思いつきで出来事と旧約聖書との結びつきを行なったのでは無いと思います。
イエスの生前の言動(癒しの奇跡とか言葉)は、旧約聖書に書かれていることにそっくりであったからでしょう。
こうして、イエスの十字架と復活、そしてこれに続く聖霊降臨の受難物語が生まれたと思います。
ですから、十字架の受難を含めて、イエスの受難物語を旧約のメシア預言と結びついた解釈は、一概にイエスの出来事と旧約の預言とを、人々が後で意図的に結びつけたのではなく、
私は、新約聖書が繰り返し証言しているように、旧約聖書をよく知る著者が、イエスの出来事があって、後になって旧約聖書にも同じ出来事があることを「思い出した」のだと思うのです。
福音書の著者は、ユダヤ教徒で、旧約聖書には詳しかったと思います。
なお、奇跡のことですが、聖霊が働くと、2000年前に書かれてある聖書の物語と同じことが現在でも起こっていると聞いています。
しかも人々がこのことを意図しても意識してもいない場合でも起こっているそうです。
聖霊と言う目に見えない霊的な次元の問題(癒しの奇跡とか異言)は、現在でも不思議な謎で、この謎はまだ学問的に解明されていないようです。
わたしは異言を間近で見聞きすると言う形で、そのような不思議な出来事があることを体験し確信しました。
イエスの受難物語の内容、即ち、キリスト教信仰の根拠ですが、それは、イエスが人類の罪を贖うために十字架にかかられたこと、3日目に甦られたこと、イエス信じる者は誰でも罪が赦されること、そしてその人の内に聖霊のご臨在が宿ることです。
それでは、なぜ、2000年前におられたイエスの生前の言動を信じる人が、世界人口の三分の一以上になるのか、それが奇跡です。
それは、イエスを通じて注がれる神のご臨在の体験が、現在に至るまで永続していることにあるのでしょう。
イエスの十字架、受難物語が、私たちに語る歴史とは、一口で言えば、贖罪、すなわち罪
(神から離反している)を犯した個人は、その罪を悔い改めることによって、イエスの十字架の贖いによってその罪が赦されると言うことです。
これは、個人の場合だけに限らず、民族も国家もイエスの十字架の贖いによって、犯した罪を「悔い改める」ことによって赦されるのです。
悔い改めるとは、自分の罪を自覚してこれを改める行為ですが、これを人間が自分の意志で行なうことはとても難しいことです。
悔い改めには、イエスの十字架の贖い、すなわち罪の赦しが、悔い改めに先立ってあって叶うことですが、その上で、個人でも民族でも自分の罪を自覚してこれを悔い改めようという気持ちが必要ですが、それは、人間の意思で得られるものではなく、イエスの聖霊が働くときに得られるものです。
神の霊、聖霊の働きはキリスト信仰の秘儀です。
最近ちょっと気になるのですが、キリスト教と言う宗教を否む人が多く見られます。
宗教一般に言えることですが、日本人は宗教を怖いものとして受け止めているのではないでしょうか。
宗教活動にまつわる、ヨーロッパの中世の十字軍とか宗教の名を借りた迫害とか、最近では オウム真理教事件、イスラム教国の絶えない戦争など残酷な出来事が多くあって、やむを得ないのですが、私は、キリスト教と言う宗教とイエスの教えである聖書の言葉(福音)を別にとらえているのです。
宗教は人間が作ったもので、イエスの言葉は真理だと捉えているのです。
事実、イエスはそのようなことを肯定されていないし、そのようにしなさいとも言われていません。
宗教は、人間が作ったものだから、それを利用して国の統治を図ろうと権力者はたくらみ、権力と欲望のために利用し、宗教は腐敗し、教理は曲げられるのです。
従って、宗教は、人間が悪用するのが悪いのですが、間違いを起こします。
過去の歴史を見れば、明らかです。
私はキリスト教を信じるクリスチャンと言うより、聖書に囚われた求道者と言った方が正確かも知れません。
第十一章.<デキレース>です。
<デキレース>
キリストの十字架死の意義とキリストは神の子とか神であるとか罪のない存在と表現しますが、まずそのことについて考えてみます。
人間はアダムの時代に神から離反し、その状態が今も続いています。
この神から離反している状態を聖書は(神に対する)罪といいます。
なぜ神に対する罪かと言いますと、人間の創造は創造主である神によってなされ、人間は自由意思を与えられ、神のご計画をもって新しい人類の創造という遠大な目標の下に人類の歴史は形成されています。
ヨハネの黙示録にそのことが預言されています。
ですから、人類がどのような歴史を歩もうが、人類の歴史の行き先は既に決まっているのです。
もちろん、人間には自由意思を与えられていますから、神の思惑通りに行かない場合もあるでしょうが、神はそれらをすべてご計画の貫徹のために用いてご計画を完成されるのです。
人間は神に罪を犯したと言いますが、私に言わせれば、神は、無垢な人間アダムをサタンが支配するこの地上の世界にエデンの園を作り置いたのですから、無垢な人間が悪魔に唆されて神から離反するのは当たり前です。
サタンは神から離反し自分の支配する世界を造りたい、人間を自分の支配下に置きたいと願っているのですから、アダムが悪魔に唆されて神から離反し、悪魔の支配下に堕ちるのは目に見えています。
それらのことは、神はすべてご存じですから、人間が神から離れた結果としての今のこの悲惨な人間世界は、神のデキレースとも言えます。
また、人間は罪にあると言いますが、人間は自分が神に逆らっていると意識していないのも事実です。いわゆる、確信犯ではないのです。
もちろん、キリストにあるクリスチャンと言われる人々は、真の神の存在を信じ、神の言葉とされる聖書を読んでいますから、何が罪なのか、この世界はなぜこのようになっているのか、将来はどのようになるのかを知っています。
しかし、クリスチャンと言われる人々以外の大多数の人々は、神から離れて、神を意識しないで、与えられた自由意思をもって、自分の生まれた意味も分からないで、どうして生きているのかも分からないで、死ねばどこに行くのかもわからないで、毎日を目先の損得というか地上の世界のことのみを考えて、生きているのです。猿山のサルと同じです。
その上で神は、そのような状態から、すなわち、人間を罪から救い出す(自分の手の中に戻す)ためにご自分の子イエス(神と霊的に一体化した存在)を十字架に架けてご自分の愛を示し、イエスを復活させてご自分のちからと、存在を明らかにし、人間をご自分の方に向けさせて罪から救い出そうとされています。
なお、イエスは、インマヌエル、すなわち神と共におられる方ですから、神と霊的に一体といえます。
人間を罪から救い出すためには、最小限、人間は神から離反したことを悔い改めて神を受け入れる必要があります。そうでなければ、人間と神の間で霊的な交流が出来ません。
神はわたしたち人間にも、イエスと同じように霊的に神と一体になってほしいのです。
そうでなければ、新しい人間の創造という目標を成就させることはできません。
神から見れば、人間、すなわち放蕩息子を悔い改めもなく、無条件に赦すことはできないので、イエス・キリストの罪の贖いの十字架死となるわけです。
なお、この罪を贖うための十字架死は、全人類のためになされました。
それは、神は、一人も残らず救われることを望んでおられるからです。
そうです、神は過去・現在・未来の死んだ者も生きている者もこれから生まれる者もすべて、全人類を罪から救いたいと願っておられるのです。
このように、この悲惨な世界も、キリストによる人間の救いも、すべて神のおぜん立ての上でなされているわけです。
なぜおぜん立てかといいますと、人間の創造もこの悲惨な世界もキリストによる贖いの御業もすべて神の遠大なご計画である新しい天地と新しい人類の創造に必要であるから起こっている出来事だと思うからです。
神がご自分から離反している人間の罪を赦せばよいだけで、なにもわが子イエスを十字架に架ける必要などないのではという考えもありますが、それは神が義なるがゆえにと説明されています。
先に書きましたが、人間の創造は人間に自由意思を与え、神のご計画をもって新しい人類の創造という遠大な目標の下になされていますから、そのためには、放蕩息子を悔い改めもなく、無条件に赦すことはできないのです。それは神の義であるわけです。
新しく創造される天地に生きる新しい人間社会は、何が義であるかもわからない放蕩息子の住むところではないのです。
念のために書いておきますが、この義は、人間の義ではなく神の義です。
次にイエスキリストの十字架死はなぜ必要か、神のデキレースであったのかについて考えます。
イエス・キリストが神の子、また神であるならば復活するのが分かったうえでの、神の一方的な御業となります。
そうであればわが子を十字架に架けることに神はどれほど悲しまれたのか、疑問に思います。
そのことを考えるにつき、参考になる新約聖書の箇所を三か所と、その箇所のカテゴリー「共観福音書を読む」の解説も同時に登載します。
その前に一言、この世界は神のご計画の下に新しい天地と新しい人間を創造するために造られた世界です。
神は、悪魔がぼっこするこの地上に無垢な人間を置かれたのですから、この悲惨な人間社会の状態は最初からこうなることが決まっていたといえます。
イエスの十字架死にしても、人間の誕生を語る創世記で預言されているのですから、それに時間のない世界のすべてを一時に見渡せる霊界に生きる万能の神ですから、デキレースと言っても過言ではないと思います。
それは人類の誕生を語る創世記において、すでにキリストの十字架が預言されていることからもうかがえます。
そうすると、人類のこのような悲惨な事態、キリストの十字架、そしてキリストの復活も新しい人類の創造には欠かせないことなのだと理解しなければ、理屈があいません。
悲惨な人類の歴史は、神の手の中で、ヨハネの黙示録で預言されている通り、終わりの日の7年間の艱難時代を経て、メシア王国である千年王国、キリストの地上再臨、すべての人類の裁き、新しい天地と新しい人類の創造によって完成するのでしょう。
神は、人間に自由意思を与え、神から離反するように誘惑する悪魔がぼっこする中に無垢のまま放り込み、(人間に取って)好きなようにさせておられますが、それらの出来事をすべて益にして新しい人類の創造のために用いられるのも確かです。
さて、デキレースか否かの答えですが、創世記から新しい天地と新しい人類の誕生までの人類の歴史、すなわち、神のご計画は、とても軽い気持ちでなされているとは思えません。
やはりここは、神の世界は霊の世界で、霊の世界は時間のない世界ですから、この時間の中を生きる人間社会のどの時代の出来事も今のことなのです。
聖書を読むと、その今を、神は一生懸命に全力で人類とかかわっておられることがわかります。
たとえ神は、人類がご自分の計画通りにならないにしても、それは人間に自由意思を与えられているから当然承知の上のことですから、人間の行動により、ご計画(最終目標は変わりませんが)を少し変更されることもあるのでしょう。
神は、愚かな人間のすべての出来事を最終の目的のために用いる方策も能力もお持ちですから、デキレースのように見えますが、ご自分のご計画のために、人類のその時その時の出来事に対し真剣に取り組んでおられることは、よくわかります。
過去・現在・未来の出来事を同時に関与されている神から見れば、イエスの十字架死も神にとっては、過去であり、また現在であり、未来の出来事なのでしょう。
そのように考えれば、わが子イエスを十字架に架けた神の思いは、悲しみでありご計画の完成という喜びでもあるのでしょう。
しかし、一時的に霊が離れて、全人類の罪の贖いの生贄として十字架刑を受けられたイエス様の思いはさぞ壮絶なものであったと思います。
新約聖書の参考箇所
<マタイによる福音書/26章38節>
「そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
この箇所は、イエスが十字架の前にゲッセマネの丘で弟子たちの前で祈られた箇所です。
十字架を前にしたイエスの死ぬほどの悲しみとはいったい何でしょうか。
何物をも恐れないイエス、権力者の脅しや律法学者たちの批判にいっさい動揺することなく活動された強いイエスです。
そのような神の子イエスが死ぬとか苦しむことなど考えられませんが、人間としてのイエスならば考えられます。
強いイエスは父なる神が共におられたからといえますが、そのイエスが死を前にして「ひどく恐れてもだえ始め」、「死ぬばかりに悲しい」と言われているのです。
しかし、この何物にも恐れない神と一体のイエスが死ぬことを恐れて苦悶されたとは考えられないのです。
これはやはり人として生まれ全人類の罪を背負い、神との断絶の中で人として十字架を背負われる苦悶なのでしょう。
そう、人間のあまりにも悲惨な状態に対する苦悶です。
イエスが、神の子であるならば、やはり、そうであるべきでしょう。
真実は誰にもわかりません。これは永遠の神秘です。
<マタイによる福音書/26章39節>
「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
「地にひれ伏して」イエスは祈られました。
いかに深刻な祈りであるかが窺われます。
祈りは、神との一対一の交わりです。他者が入ってくる余地はありません。
また、イエスはことに及んで逃げるような方ではありません。
したがって、この「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」というイエスの祈りは、「この杯」は、十字架の苦しみを指すと思いますので、それは、十字架から逃れたいという願いとか、背負いきれない人間の罪から逃れたいとなりますが、その上で、そういうご自分の心を神の願いに沿うように整えてくださいと言う祈りであったのではないかと推測します。
これはやはり人として生まれ全人類の罪を背負い、神との断絶の中で人として十字架を背負われる苦悶と推察すると理解できます。
十字架にかかることが苦しみで、そのことに意味があるのならば、十字架の苦しみはイエスだけの特別な死刑の方法ではなく、人間の歴史上多くの人が十字架で亡くなっていますから、イエスはただの人間になっています。
イエス・キリストの十字架死は、十字架死が目的ではなく、人間の罪を贖うための生贄としてのキリストの死に意味があるのです。
だから、この時イエスは、神の子ではなく、人間その者の状態に置かれ、その人間の重い罪を背負う苦しみを覚え、この39節の祈りとなったのではないでしょうか。
人間になりきり、その罪の重さを背負わなければ、たとえ十字架で死んでも罪を贖うための死とはなりません。
ですから、「この杯」というのは、「人間の罪を贖うための生贄としての死」を象徴しているのでしょう。
<マタイによる福音書/27章46節>
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
この聖句はアラム語で書かれていて、マルコはギリシャ語に訳して、その意味を説明しているということです。
男の弟子たちは逃げてその場にいなかったのですが、居合わせてその言葉を直接聞いた者たち(おそらく男より追及が緩かったので逃げないでイエスに没薬をまぜたぶどう酒を与えようとした女性たちだと思います。)から伝えられたイエスの最後の言葉だと思います。
いや、もしかすれば女性でなくヨハネかもしれません。ヨハネは当時まだ子供で当局の追及の網から逃れることが出来たでしょう。
この言葉を原始キリスト教会はもっとも重要なイエスの言葉として、大切な言葉だから原語のまま、つまりアラム語のまま残したのでしょう。
だから、この言葉もイエスの真実の言葉だと思います。
「なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスのこの言葉は、イエスが神の子ならこのような言葉を発しないのではという意見があります。
それで、この言葉はキリスト教批判者を喜ばし、教団には信仰のつまずきとなるような聖句と言えますが、逆に考えると、このような自分らに都合の悪い聖句を教団が創作して福音書に残したとは考えられないということです。
だから、わたしはこの様なことを言われたのは事実と見るべきだと思います。
ではどのように考えるべきでしょうか。
この聖句は詩編22編の冒頭の言葉と同じです。
この詩編は、人からも神からも見捨てられた悲痛な叫びで始まっていますが、神への信頼と賛美で終わります。
それで、イエスは最初の一句を叫ぶことでこの詩編全体を祈られたという説が有力です。
なぜならば、ユダヤでは作品全体を最初の一行で代表させる習慣があったからです。
ところがそうだとすると、イエスのゲッセマネの丘(オリーブ畑)での祈りと、十字架への決断の意味はどうなるのでしょうか。
ゲッセマネの丘では、血の汗を流すほどの苦しみの後で「わたしが願うことでなく、御心に適うことが行われますように」(マルコの福音書第14章36節)と心を定め祈られました。
であればこの34節の祈りと矛盾するのです。
この「杯」を取りのけてくださいと祈られた「杯」とは、神の子として父なる神と一体の中におられたイエスが、人類の罪に対する神の裁きを、言い換えれば、十字架死による肉体の苦痛もさることながら、罪の中でもがき苦しむわたしたちの苦悩のすべてを一身に背負うことによる地獄の苦しみを指しているのでしょう。
ゲッセマネの丘ではすべてを父なる神にゆだねられると心を定められたのに、ここ34節では、イエスは、できることなら十字架から逃れたい、苦しみを取りのけてくださいと祈られたのです。
そのイエスの願いはかなわず、その「杯」をいま十字架の上で現にイエスは飲み干しておられるのです。
マルコの福音書第14章34節でイエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい。・・」と言っておられます。
この「悲しい」は、イスラエルの人々の無理解、罪に沈む人類の哀れを表現しているイエスの悲痛な叫びだと思うのです。
御自分が殺されることを「悲しい」と表現したとは考えられません。
イエスは神を常に「アッバ、父よ」と呼んで、いつも子としての親しい交わりの中におられました。
そのイエスが生涯の最後において、神から見捨てられた思いで死なれる。
そしてこの時、イエスは父なる神を呼びかけるのに、はじめて「父よ」ではなく「わが神」と叫ばれました。
イエスがわが神といわれるのはこの箇所のみです。
「わが神」という呼び方は、人間として神に語り掛けている呼び方です。
ですから、神の子でありながら人の立場に立たれたということです。
神の霊が一瞬イエスを離れたと言うことでしょうか。
このイエスの思いは、苦しみは、旧約聖書イザヤ書第53章4節の予言がイエスの上に実現した苦しみでしょう。
「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。」
この時のイエスは、神の子でありながら神に見捨てられた神の子として、つまり、神の子でありながら人性のみの状態であったと思います。
わたしは神がそのようにされたのだと思うのです。
それは神がそう望み、人間としての最大の苦しみを科すためであったといえます。
なんとなくゲッセマネの丘での最後の言葉と、この34節の言葉が矛盾している意味がなんとなく見えてきました。
イエスの死が人類の罪の贖いのための死であるというためには人間としてそこまで追いつめられる必要があったのだと思います。
イエスは神の子でありながら人々を愛するゆえに一時的に人間として、人間が負わねばならないその苦しみを背負い死なれたのです。
この苦しみというのは、人間の罪科とそこから生まれるあらゆる苦しみすべてを指しているのでしょう。
あまりの苦しみのゆえにイエスは神に見捨てられたと思った。
イエスの「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、父なる神を信頼していたからこそこの苦難に直面して反対の言葉が出たと言うことではないでしょうか。
わたしたちにもよくあることです。
父なる神は限りなく愛しておられる御子を見捨て、死に引き渡すことによって、御父も苦しんでおられるのです。イエスの苦しみは父なる神の苦しみでもあるわけです。
御子の苦しみを苦しみ、御子と共に苦しみを受けておられるのです。
イエスは、この瞬間に全人類の罪と苦しみの一切を負われました。
そして、わたしたちに代わりわたしたちの罪を贖われました。
なお、贖いというのは、イエスの命という代価を払ってわたしたちの罪が赦されたということだということです。それも全人類の罪を一人残らず赦されたのです。
第十二章.<千年王国と新しい天地に住む者><永遠の命について><残りの者と艱難時代>です。
<千年王国と新しい天地に住む者>
イザヤ書では、「終わりの日」「その日」「見よ」「ついには」という語句は、だいたいその内容が終末に起こることを預言しています。
ただ「その日」とあっても、近未来の場合もあるので注意を要しますが、全体のマスタープランの概要をもとに見るとわかります。
また、王が支配する王国というのは、メシア王国(千年王国)のことで、新しい人類が住む「新しい天と新しい地」のことではありません。
メシア王国(千年王国)を支配する王は、メシア・キリストです。
人類社会の究極の姿である新しい人類が住む「新しい天と新しい地」は、神が支配する世界です。
<イザヤ書32章1節>
見よ、正義によって一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。
「見よ」ですから、終わり墓碑の出来事の預言で、「正義によって」と対句である「公正によって」を指すのでしょう。
「正義によって一人の王が統治し」の一人の王は、イエス・キリストなのでしょう。
それは、ヨハネの黙示録によると、「その日」すなわち終わりの日に複数の高官たちが、公平をもって支配する世界が実現するのです。
いわゆる、メシア王国と言われる千年王国に実現する預言です。
主イエス・キリストがエルサレムのシオンの丘から世界を統治されるのです。
そして「公正によって高官たちが治める。」ですから、キリストの独裁政権でなく複数の人間に委託し、統治するのです。
なお、この正義は神の公平で、神と人との関係の中での愛と信頼を指すのでしょう。
神と人とが愛と信頼によって正しい関係を回復することは「救い」であり、「平安」が生まれます。
こにょうに、聖書の言う「正義」とは、単に、道徳・倫理概念ではなく、神と人との愛と信頼に基づく麗しいかかわりを意味していると言うことです。、
- 2節.彼らはそれぞれ、風の時の逃げ場/嵐の時の隠れ場のように/また、乾いた地にある水路のように/荒れ果てた地にある大きな岩陰のようになる。
イエス・キリストと複数の高官によって統治される千年王国は、憩うことができる、安心できる場になると言うことでしょう。
- 3節. 見る者は目をそらさず/聞く者は耳を澄ます。
- 4節.気短な心が知ることを得/もつれた舌が速やかにはっきりと語る。
見たり聞いたりするのは、主の声のことでしょう。
その主の声は、気の短い人でも、舌がもつれてはっきりと語れない人でも、主の声を聞くことが出来き、また主に対して自由に語ることができると言うことでしょう。
霊的に閉ざされていた人々が知恵を得て、自由に聞き語ることができるのです。
- 5節.もはや愚か者が高貴な人と呼ばれることはなく/ならず者が尊い人と言われることもない。
主イエス・キリストが、高官たちを用いて「公正によって」治めますから、実際に正義があらゆるところにまかり通ることを、表しているのでしょう。
- 6節.愚か者は愚かなことを語り/その心は悪事を行う。/神を敬うことなく/主について惑わせることを語る。/飢えている者を空腹のままにし/渇いている者に水を飲ませない。
- 7節.ならず者のやり方は悪質である。/彼は謀を巡らす。/たとえ貧しい者が正当な申し立てをしても/苦しむ者を偽りの言葉で破滅に陥れる。
- 8節. しかし、高貴な人は高貴なことを計画し/高貴なことを常に行う。
終りの日に千年王国は「正義によって一人の王が統治し/公正によって高官たちが治める。」のです。
この一人の王は、キリストを指すのでしょう。
そして、「愚か者が高貴な人と呼ばれることはなく/ならず者が尊い人と言われることもない。」のです。
8節には「高貴な人は高貴なことを計画し/高貴なことを常に行う。」ともあります。
纏めると、正しいことを正しいとする人が、高い地位に着き、報われる世界が実現するのです。
なお、千年王国(メシア王国)の住民は、死者から復活し、すでに朽ちないからだである霊の体を与えられている者とそうでない者が混然として存在している世界です。
ですからサタンが幽閉されていたとしても、罪を犯す可能性は朽ちるからだであるこの肉体をもった人々に、そうですね、艱難時代を悔い改めないで生き残った人々とかその子孫にはあるのです。
そのためにメシアは「鉄の杖」をもっています。
しかし段階である新しい天と地においては、メシアはその権威「鉄の杖」を御父に返還されます。
新しい地は罪が一切無くなり、正義のみが支配する世界、つまり永遠の愛と信頼をもって神を仰ぎ見る世界となるからです。
<永遠の命について>
時間の世界に生きる私たちは、死ねば永遠の世界に生きると言うと、なんと退屈な、本当にそのような世界があるのか疑問に思ってしまいます。
わたしたちの想像を絶する理屈を超えた世界ですから当然です。
永遠の命を考えてみますと、神の子とされるキリストのことをマタイの福音書1章23節には「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」とあります。
また、人間は神にかたどって創造された(罪が入る前の状態)のですから、本来(罪が入る前の)人間は神と共にあり永遠の存在であったと言えます。
それでは、神にかたどって創造された人間とは、創世記1章26,27節に「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。
神はもともと永遠の存在ですから、罪がない神の子キリストも、神にかたどって創造された罪が入る前の人間も霊的で永遠の存在と言えます。
永遠の存在である神にかたどって創造された人間、すなわち神と共にある(霊的なつながりのある)人間が永遠の命の状態にある人間を指すのでしょう。
けっして、時間的な感覚で永遠の命というわけではありません。
ちなみに、あの世は時間のない世界ですから、この世と同じように時間の中で物事を見るのはいかがかなと思います。
人間がその(霊的な)命が限りあるものとなったのは、罪、すなわち神との霊的なつながりが無くなったことによるからです。
ただし、この命はあくまで霊的な命で、私たちがこの肉体が動かなくなることを死と言っていますが、そういう肉体の死を指すのではありませんので、ねんのために。
このように、永遠の命の状態にある人間と言うのは、私たちの霊が神とつながっている状態にある人間と言えます。
しかし最初の人アダムが罪(神から離反)を犯したので、アダム以降の人類の子孫はこのいのちを失って(人間は神から離反し、神との霊的なつながりが無くなった状態)しまいました。
それで神は、イスラエルを選び全人類を罪から救い上げようとされましたが、イスラエルは放蕩息子のように神の手元から離反してしまいました。
しかし、神はそのひとり子イエスをこの世に遣わし、贖いの十字架と復活によってその罪を赦し、救いの御業を成就してくださったのです。
ですから、だれでもこのイエスを主として、救い主として信じるなら、すなわち、キリストと霊的につながることで神とも霊的につながるので、救われる、すなわち永遠の命を得るのです。
救われると言うことは、永遠のいのちをいただけると言う理屈になります。
神から離反したことが罪ですから、罪を赦す権限は神にあります。
それならば神がその罪を赦せばよいだけでなにもわが子イエスを十字架に架ける必要などないのではという考えもありますが、それは神が義なるがゆえにと説明されています。
人間の創造は人間に自由意思を与え、神のご計画をもって新しい人類の創造という遠大な目標の下になされていますから、そのためには、放蕩息子を悔い改めもなく、無条件に赦すことはできないのです。
これについては、別のところで考えてみたいと思います。
<残りの者と艱難時代>
- イザヤ書26章20節.「さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ/激しい憤りが過ぎ去るまで。」
「さあ、わが民」とはユダヤ人のことでしょう。
主は、「部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ」とイスラエルの残りの民に呼びかけておられるのでしょう。
ユダヤ人の残りの者とは、終わりの日の艱難時代を生きるユダヤ人で、悔い改めに導かれて救いにあずかり、世界伝道の先鋒となる人々です。
そのユダヤ人の残りの者に艱難時代をやり過ごす呼びかけでしょうか。
ユダヤ人のある者たちは、世の終わりの7年間の患難時代に悔い改めに導かれます。
彼らは主を信じて受け入れるようになります。
それでも激しい苦難の中を歩まなければならないのですが、主は「部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。」と言って、隠れ部屋を備えて、「激しい憤りが過ぎ去るまで」、つまり、艱難時代の裁きと言うか、主の憤りの御業が通り過ぎるまで彼らを守ってくださるのです。
ちょうど、イスラエルがエジプトから出てきた過越の時のように、神の民は贖いの主の血が塗られた家に入り、戸を閉じ、身を隠すようにと命じられたのと同じです。
このように、神の民イスラエルが救われるのは彼らの行いによるのではなく、過越の小羊がほふられ、その血の贖いによるのです。
艱難時代があるのは、人間がアダムの時代に神から離反して、神の新しい人類の創造というご計画に反し、自分勝手に生きるようになった結果(今のような地獄のような世界が出来上がった)なのです。
ですから、艱難時代は、ある意味創造主である神様の新しい人類の創造と悪魔との戦いの総仕上げの一環だと言えないでしょうか。
- 同21節.見よ、主はその御座を出て/地に住む者に、それぞれの罪を問われる。大地はそこに流された血をあらわに示し/殺された者をもはや隠そうとはしない。
「主はその御座を出て地に住む者に、それぞれの罪を問われる。」のです。
その結果、「流された血をあらわに示し/殺された者をもはや隠そうとはしない。」と言うことでしょう。
「罪を問われる」ですから、艱難時代があるのは、神から離反してあらゆる罪を犯してきた人類の罪を問うておられるのです。
それは、キリストの十字架死ですでに全人類の罪は贖われているわけですから、あとはその神の恵みの真実をその人たちに知らしめて悔い改める機会を与えておられるのでしょう。
それは、同時にすでに悔い改めることなくなくなっている人々にも地上の艱難時代と同様の機会が与えられることでしょう。
艱難時代は、裁きではないのです。
人間がアダムの時代に神から離反して、神の新しい人類の創造というご計画に反し、自分勝手に生きるようになった結果(今のような地獄のような世界が出来上がった)なのです。
- 同27章1節.その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。
「その日」、すなわち、終わりの日に、主が数々の裁きを地上に下されますが、「逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。」ですから、地上の罪悪の背後に常にいた悪魔が最後に滅ぼされるのです。
「レビヤタン」とありますが、レビヤタンは、ヨブ記の最後のところで神がヨブにお見せになった、火を噴く怪物(おそらく竜)のことでしょう。
そしてこの竜とか蛇の背後で働いている存在の正体は、黙示録12章に書かれていますが、悪魔です。
主は最後に、悪魔を縛り、底知れぬ所に閉じ込めることを黙示録20章のところで約束されています。
ではなぜ、罪の根源である悪魔をこの人類の歴史の最後の最後まで生きながらえさせられたのか。
確かに言えることは、あたらしい人類の創造に必要であったからと思うのです。
第十三章.<地獄に送られる人間><神の国は正義><日本人と宗教>です。
<地獄に送られる人間>
- ペトロ第二の手紙3章9節に「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を送らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」とあるように、神は、ひとりでも滅びることを望んでおられません。
神は、すべての人が救われることを願っておられるのです。
それに裁くと言いましても地獄に送るとはどこにも書いていません。
裁きイコール地獄ではありません。
もちろん、アダム以降に生まれた全人類の内、神を受け入れないで死んだ人はそのうちのほとんどですから、神は、すべての人が救われることを願っておられると言うのならば、救いのチャンスがこの世だけでしたらそれも不可能でしょうから、セカンドチャンスもあると思います。
また、キリストは生まれ変わりを否定していませんから、そういうことも考えられます。
なお、主が、私たちが悔い改めるのを忍耐してまっておられると言いますが、そうであればなおさら次々と生まれて死んでいく人間ですから、悔い改めの機会がこの世だけでは忍耐してまっている意味がありません。
もし、救いの機会がこの世だけならば、アダム以降の人類の歴史の中で生まれ死んでいく人間の中で、ご自分の全人類救済というご計画に必要な人材が予定の人数まで集まるのを忍耐して待っておられると言うように考えるしかありません。
黙示録20章10節によると地獄に送られるものは、偽預言者と獣(反キリスト)、そして悪魔となりますので、キリストを受け入れないで死んだ人が地獄へ行くと言うのは根拠がありません。
もちろん、人間でも悪魔のようにキリストに取って変わりたい、神にとって変わろうとする存在であるならば地獄に行くことも考えられますが、現実的にそのような人は人類の歴史上多くは存在しないと思います。
ですから、普通の常識的な人ならば決して地獄になど行かないと思います。
地獄行きが決まっている偽預言者と獣(反キリスト)、そして悪魔の共通項は、神に取って変わろうとする存在、キリストに取って変わろうとする存在です。
人間は確かに神から離反しましたが、それはうぶな人間が悪魔に唆された結果であって、自分が神に取って代わろうとしたわけではないのです。
悪魔の様な確信犯ではないのです。
<神の国は正義>
- イザヤ書32章17節. 正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。
- 同18節.わが民は、平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場に住まう。
神の国は正義、つまり、公平な国です。
神の正義が作り出すのは、平和があり、「とこしえに安らかな信頼」です。
世界の人々は誰でも平和を求めているのですが、一部の戦争が好きな国のために、人間社会に戦争が起こるのはやむを得ないと思っています。
しかし、よく考えればそうではなく、戦争を行っている国の人々も、<一部くるっている人もいるが)平和を願っているのです。
反面、人間には、戦争を喜び残虐な殺戮を喜ぶ人たちがいることも確かです。
口では平和を叫んでも、心の中では反対に戦争とか残虐を喜ぶ人もいます。
キリスト者の社会では、それは神から離反しているゆえ、背後で悪魔が人間を唆しているゆえと教えます。そういう意味で、人間は善悪の両面を持つ生き物と言えます。
この世界はアダム以降悪魔が支配する世界です。
だから悪魔の支配から逃れて、今までの離反の罪を悔い改めて神のもとに戻れと教えます。
「正義が造り出すものは平和」とありますから、正義がなければ平和がないと教えています。
その正義は、神からくるものです。神、つまり創造主の元に戻りましょう。
そう、神が正義の神ならば、公平な神ならば、神を知らないで、神を受け入れないでこの世を去ったほとんどの人も救いにあずかれなければ不公平この上ないと思います。
そうでしょう、どの時代に、どの国に、どの親の元に生まれるかは、本人に何の責任もありません。
どのように生きるかは、自由意思があらえられているゆえ本人の責任がないとは言えませんが、悪魔の存在を含めてこの世界のすべてを支配されている神の手の中で生きているのですから、すべてが本人の責任とは言えないし、与えられた環境から見ると決して公平とも言えないと思います。いや、これほど不公平な社会はありません。
それらの出来事は、すべて神の手の中にあり、神が支配されていると聖書は教えます。
だから神はそのような人々も、この地上で救いに預かった人々も、平等にその機会が与えられるものと信じます。最終的には、神の公平が実現することを祈ります。
でも、聖書を読めば神は人間社会がこのようになることを最初からご存じで、神のご計画の中での出来事としかとらえられないのも事実です。
<日本人と宗教>
宗教を分解すれば、教えと行いと信仰ですがその他に宗教文化と言うものがあります。
キリスト教は、信仰がまず求められ、教えと行いはその後です。
仏教は、まず教えがと行いが求められ、信仰はその後です。
神道は、行いだけがまず求められていると思うのですが、教えとか信仰はどうでしょう。
日本は仏教社会だと言われますが、日本人は仏教式で葬式をして、キリスト教式で結婚式を行い、クリスマスを祝いますが、仏教とかキリスト教の信仰を持っているのではありません。
神道も同じで、神社にお参りしたからと言って、信仰を持っているわけではありません。
それは、全部とは言いませんが、日本人の大多数にとって、仏教もキリスト教も神道も文化という面でとらえていると思うのです。
ですから、日本は本当の意味での宗教から見れば、そこには信仰はありませんから、多神教の社会ではないのです。
確かに、どの宗教にも宗教文化と言うものがありますからね。
宗教文化は、信仰がともなわないで教えとか行いから派生して出来上がったのだと思いますから、信仰と違って、宗教文化は人を拘束しませんから取り入れやすいものです。
そうして考えれば、日本は、無宗教社会とも言えますが、一部、本当に信仰を持っている方がおられるのも事実です。
そうであるからと言って、日本人は宗教(信仰)から遠い人種かといえば、そうではなく日本人は信仰深い人種だと思います。
というより、どの民族も信仰を持っています。土着信仰とも言いますね。
それは、自分は何者で、どこからきてどこへ行くのかもわからない人間ですから、信仰を持つのは当たり前です。面に見えない神を信じてすがるしか心を休める方法がないのです。
このようにほとんどの日本人は、信仰という面では何色にでも染まる白紙の状態だと思うのです。といっても、ご存じの通り日本は世界で有数の犯罪率の低い国です。無法者がぼっこする国ではありません。
このような国は珍しいと思いますが、わたしは神が働かれて日本をそのような国にされていると信じたい。
しかし、最近特に宗教を利用し弱みに付け込んだ犯罪が多く困ったものです。
だから日本人は、宗教と言うと怖いと言う思いがありますね。
第十四章.<旧約聖書の編纂><旧約聖書の成立過程><旧約聖書のユダヤ教での聖典化><旧約聖書と新約聖書>です。
<旧約聖書の編纂>
口伝伝承が編集され文字化され、まとまりのあるものが最初に成立したのは前5世紀から前4世紀頃とされています。
その時代のユダヤ民族は、ペルシアの支配下にあった時期です。
バビロン捕囚からの帰還がおわり、第二神殿の再建も終わった頃でしょうか。
民族としてのアイデンテイテイが求められた時であったと思います。
ユダヤ教が民族宗教として成立したと言えるのは、紀元前13年の「出エジプト」の出来事の時でしょうから、それから聖書の最初の部分が生じるまで、800年から900年の時間を経ています。
<旧約聖書の成立過程>
旧約聖書の中で、最初に文字化され編纂されたのは「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五つの文書からなる、いわゆる「(モーセ)五書」でしょう。
これに預言書・諸書が加わって、タナハと言われるようになりました。
新約聖書で、イエス様が使っていた聖書は、このタナハと言われるものでしょう。
これらは聖書が文字で編纂される紀元前5世紀から4世紀ごろまで口伝で伝承されていたのでしょう。
なお、ここで注意が必要なのは、出来事とか掟が伝承されるのは、伝承された内容をそのまま伝承するのではなく、伝承する人が受け継いだ伝承にその人の新たな体験を加えて解釈し語り継いだと思うのです。
ですから、伝承の初めになかったことが、聖書編纂時の伝承に加わっていることも、また、修正されたこともあると思うのです。
それは伝承が体験と結びつくことで生じるのですが、伝承が体験と結びつかなければ、単なる言葉のままで終わるし、逆に体験が伝承に結びつくことがなければ、体験の意義を深めるというか、聖書の言葉が生きて受け入れられることはないと思うのです。
それにその時代の人々は、おそらく考古学も年代測定法もなく、学問的な研究もなされていなかったでしょうから、今起こっている事も千年前の事も同じ感覚で伝承を受け取っていたと思うのです。
千年前と現在と時代区分を自覚して伝承を解釈していたとは思いません。
このことは、わたしも聖書を読んでいて実感するところです。
聖書は、初めの頃はヘブライ語で書かれましたが、聖書の編纂が始まる前5世紀から前4世紀頃には、ヘブライ語は一部の知識人だけが使っていて、一般のユダヤ人はヘブライ語ではなく、アラム語を使っていたそうです。
丁度、ヘレニズム文化(アレキサンダー大王以降のギリシア文化、前4世紀後半以降)が支配的だった2世紀初めの時代です。
そして、ヘレニズム文化の一大中心地だったエジプトのアレキサンドリアで、ヘブライ語聖書のギリシア語訳が作られます。いわゆる、「七十人訳聖書」(「セプトゥアギンタ」)です。
ところが、最初からギリシア語で書かれた文書がギリシア語聖書の一部として「七十人訳聖書」には含まれることになって、聖書にどの文書が含まれるかという点で、異なった立場の聖書が併存することになりました。
この状態は後1世紀末に、終止符が打たれることになります。
「ヤムニア会議」と呼ばれるユダヤ教の知識人の集団があって、そこで「聖書はヘブライ語で書かれた三十九の文書で構成される」ということが決定され、この決定が定着します。
ユダヤ教では、この立場が、現在でも守られて、この決定以降は、「ユダヤ教の聖書は三十九の文書からなっている」ということになります。
キリスト教は、「ユダヤ教の聖書」を「旧約聖書」として受け継ぎました。
しかしキリスト教が受け継いだのは、ヤムニア会議以降の「三十九の文書からなるユダヤ教の聖書」ではなく、ヤムニア会議以前の状態の「ユダヤ教の聖書」でした。
結果として、キリスト教がユダヤ教から受け継いだ「ユダヤ教の聖書」は、この「七十人訳聖書」であるということになります。
つまりキリスト教の「旧約聖書」は、「七十人訳聖書」系統の「ユダヤ教の聖書」が支配的で、それは、「三十九の文書」以外の、最初からギリシア語で書かれた文書を含むものでした。
現代では、1.旧約聖書は三十九の文書からなる。2.旧約聖書の元の言語はヘブライ語である。というのが、キリスト教の聖書についての通念だと思います。
<旧約聖書のユダヤ教での聖典化>
旧約聖書の編集が始まったのは、前5世紀から前4世紀頃とされていますが、紀元70年のユダヤ戦争敗戦後にユダヤ教は再編され、1世紀の終わりごろのヤムニア会談で正典が確認されたと言うことです。
そして、ヘブライ語で書かれた本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書です。
<旧約聖書のキリスト教での聖典化>
紀元前5・4世紀に編纂されたタナハと言われた旧約聖書(律法・預言書・諸書)は、紀元前250年頃からギリシア語に翻訳され(七十人訳聖書)ました。
パウロを含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳です。
キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきました。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なるそうです。
東方教会も西方教会も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典とみなしてきました。
西方教会では、正教会が正典とみなす文書の一部を外典としました。
<旧約聖書と新約聖書>
最初にヘブライへの手紙1章1節と2節を書いておきます。
1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、」
この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」
2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
・・「かつて預言者たちによって」の「かつて」は、旧約聖書の時代を指します。それに対比して「この終わりの時代」は、イエスの十字架死以降の時代を指します。
さて、「この終わりの時代」は、「この日々の終わりに」とも訳されていますが、それは、「かつて」と対比して、人間が生きる日々がイエスの到来によってその姿を一新させたからと言えます。
しかしどちらも神が語った(旧約時代は預言者によって、新約時代はイエスと聖霊によって)と言う視点では同じですから、両時代の間に違いはなく、旧約聖書(古い契約)と新約聖書(新しい契約)は本質的に同じと言えます。
なお、キリストは旧約聖書(律法・預言書・諸書、いわゆるタナハ)を指して、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)、と述べられています。
第十五章.<新約の神と旧約の神との違いと関係><神と人との契約><宗教><人間が子供を産むという奇跡と処女降誕><キリストがなされた奇跡>です。
<新約の神と旧約の神との違いと関係>
新約の神と旧約の神との違い、および、両者の関係の問題を考えてみたいと思います。
その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。
「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネの福音書第5章39節)
イエスは、旧約聖書という書物には、わたしのことが書いてあるといっているのです。
ところがこの書物にはイエスという名前はどこにも見あたりません。イエスのイの字もでてこないのです。
それでも、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で、たとえば比喩で現しているということになると思うのです。
だから、旧約聖書はそういう風に読む必要があるのではないかと思うのです。
新約聖書にはイエスのことが書いてあり、旧約聖書はそのイエスを証言しているといえます。
<神と人との契約>
契約には、双務契約と片務契約があります。この神と人との契約は、片務契約に近いものでしょう。神が一方的に人に対して約束しているからです。
先ほど、旧約聖書(古い契約)と新約聖書(新しい契約)と書きましたが、古い契約に該当するのは、神とアブラハムの間で交わされた契約、シナイ山で神のモーセとの間で交わされたシナイ契約でしょう。
古い契約は、神様のイスラエル民族に対する愛と思い(全人類を救済するために用いられた)が、新しい契約は、キリストの十字架と復活による全人類救済の御業です。
なお、神は旧約聖書では、十戒を代表とするモーセ律法を定め守るように行いを求め、新約聖書では第一に神を愛する信仰を求め、第二に隣人を自分のように愛する行いを求めています。
- ヘブライ人の手紙1章1節と2節
1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
2節「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
「かつて」(旧約聖書「預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで語られた。」。
「この終わりの時代に」(新約聖書)、「御子によってわたしたちに語られました。」(キリストの十字架死と復活)
とある通りです。
<宗教>
キリスト教は、奇跡なくして成り立ちません。もし、聖書に書かれた奇跡が作文ならば、キリスト教は崩壊します。
しかし、奇跡といいますと、キリスト教は聖書が主張する奇跡がありますが、この約2000年の欧米の歴史は、キリスト教があっての歴史といえます。
それはまさに人類の歴史上の奇跡といえます。この奇跡は歴史上の厳然たる事実ですから誰が否定しえるでしょう。
そう、キリスト教会活動とかキリスト教を信じる個人信徒の言動も含めてです。
もちろん、人間のやることですから、間違っているものも正しいものも全部込みです。
世界の宗教は、キリスト教以外はみな自然宗教か、反自然宗教かのどちらかだと思います。
ヒンズー教などは反自然宗教に属するのではということです。
神道には、経典はないし、仏教は哲学ともいわれていますが、日本人は自然に神様が宿ると信じ、あがめるところがありますから、どちらかといえば、自然宗教なのでしょう。
しかし、キリスト教はそのどちらにも属しません。
堕罪の教義は、キリスト教以外の宗教にも、贖罪の儀式があるのを見れば、みられるのではないかと思います。
しかし、創造の教義はキリスト教以外には、見られないと思うのです。
私が聖書に惹かれるのも、そこにあります。
日本のように多神教の世界では、神々は、通常、既存の宇宙の産物です。
つまり、山とか海など自然の存在を、畏怖をもってあがめます。いわゆる、自然崇拝です。
神道のように人間を神としてあがめている場合もあります。
だから、そのような神々は、決して宇宙を、人間を作ったりしません。
2000年前に天地万物の創造主の御子がこの地上世界に降りてこられて、奇跡を見せ、御子自身が復活という奇跡を見せご自分が神の子であることを証し、この世界は神の御計画のもとに作られ、運営されている。
そして、わたしたちはどこからきてどこへ行くのか、どのように生きるのかを教えられ、神の言葉といわれる聖書を残し、目には見えない聖霊が今もわたしたちのために働かれていることを教え、聖書を残されました。
もし、このことが事実ならば、キリスト教は宗教というより、この世界の真理といたほうが良いかもしれません。
- 創世記/ 01章 01節
「初めに、神は天地を創造された。」のです。
そのいきさつを明確に示すのは、聖書のみです。
<人間が子供を産むという奇跡と処女降誕>
精子と卵子の背後には、過去の遺伝情報が刻まれてあり、子孫に承継されるが、その中には、おそらく未来の歴史も込められているのでしょう。
それは、神が人間を創造するやり方といえます。
それは、物質の創造から始まり誕生の瞬間の一秒、一粒にまで限定していく、何世代にもわたる過程です。
精子と卵子ができる課程は、それが伝わる何世紀の間に望ましからぬ沈殿物をため込んでいるかもしれません。
それとも、何代にもわたる遺伝情報の継承の中で、遺伝子に傷がついたのでしょうか。
キリストの処女降誕は、キリスト降誕に人間の精子を使わないで聖霊を使われたのは、その汚染の情報遺伝を避けるためであったのかもしれません。
しかし、聖霊により受精したということは、卵子はそのまま使用されているのです。どのような違いがあるのでしょうか。
キリストの処女降誕に疑義を挟む人がいますが、キリストの奇跡を、この地上世界でなされている神の創造の奇跡を信じるならば、処女降誕の奇跡も信じるべきです、
<キリストがなされた奇跡>
キリストの復活は、神が将来人間になさろうとされる御業といえます。
いつの日か、すべての人間、いや、人間以外のものも含めて死から蘇らせる予定なのでしょう。聖書を読めば、そのように思えます。
キリストがなされた奇跡は、復活した人間もその力を持つことになるのでしょう。
キリストの復活した体は、おそらく、死んだ体とまるで異なった関係に、その命も自然の生命とはまるで異なる条件下にあるのでしょう。
キリストが地上でなさった御業は、キリスト自身が「しるし」と言われていますので、われわれをその奇跡に向かわせ神の存在を、神の働きを知らしめるためなのでしょう。
神は、毎年少しの穀物を、種をまき育て増やすという方法で、たくさんの穀物に増やしておられます。
この不思議は、五千人の食事の奇跡でお見せになっています。
中間的な作業は省略されていますが、決して無から5000人のパンを作られたわけではありません。
それと同じ理屈なのでしょう。穀物を増やすには、人間には中間の作業が必要なのですが、神には必要ないのです。
カナの結婚式における水をぶどう酒に変えられた奇跡もそのほかの奇跡もすべて同じことです。
- マタイによる福音書16章4節他
よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
第十六章.<神話><物質の悪化と無秩序化の法則><受肉の意味><イエス・キリストのすごい言葉>です。
<神話>
神話をネットで調べると、「人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源や存在理由を語る説話でもある。
このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている。」とありました。
我々人類は、歴史の営みの中で膨大な神話を生み出しました。
種々雑多な根源が混ざり合って、すなわち、真実の歴史や寓話や祭儀や人間が物語の中で感じる喜びなどが混ざり合って、そこから生み出されたと思うのです。
ですから、神話は全くの創作でもなく、真実も込められています。
世界中には、無数の宗教が存在しますが、そういう神話の性質から見て当然のことでしょう。もちろん、この人類を含む宇宙は、人間にとって想像を絶する存在で、未知であり、神秘ですから、神話が生まれるのは当然ともいえます。
わたしは聖書(旧約聖書の創世記)の神を信じるのですが、そこには、この宇宙、天地万物の創造とか悪魔と神との両方の超自然的な源も神話として生み出され記されています。
もし、キリスト教が正しいならば、聖書(旧約聖書の創世記)の話は、おそらく、福音の先触れとなり、後にキリストの受肉に集約される出来事、つまり、キリストの物語で歴史化された真実を、詩や祭儀の形で暗示しているといえないでしょうか。
そして、聖書の神が本当におられて、聖書が本当に神の言葉であるならば、その聖書を経典としたキリスト教は宗教でも、聖書の言葉は、この世界の真理とも言えないでしょうか。新約聖書は、そのことを明らかにしていると思うのです。
ということは、聖書(旧約聖書・新約聖書)を経典とするキリスト教の教えが、人類の心に最初から存在し続けてきた何者か、いわゆる創造神の存在の完成であり、現実化であり、具現化であり、それに人類は気づいたから聖書がある、つまり、この2000年の人類の歴史の中にキリスト教が存続し、影響を及ぼし続けたといえます。
なお、聖書の奇跡の話は、一度だけのことで再現できませんから、科学で説明できません。科学で説明できなければ、神話になるのです。
ただし、科学で説明できないから、奇跡はなかったということではありません。
奇跡は天地万物を創造された創造主の御業(自然の法則に反すること)ですから、実験室では扱えないというだけです。
キリストの処女降誕、復活、奇跡が事実ならば、旧約聖書と新約聖書に記された事項は、事実を述べていると思います。
<物質の悪化と無秩序化の法則>
自然界の物資には、悪化と無秩序化の法則(エントロピー増大の法則)というものがあります。そうですね、人間はエントロピー増大の法則に反する最大の存在でしょう。
この法則が成り立つのは、この世界が悪化したり無秩序になったりするものであり、それは、自然の法則に逆行してそれを創造した何者かが存在するからといえます。
キリストの復活は、その法則に反するものです。だから奇跡なのです。
ということは、キリストは自然の法則に逆行してそれを創造した何者かであるか、キリストの背後にその何者かが働いておられるといえないでしょうか。
キリストの奇跡で最大のものはキリストの復活ですが、復活後現れた蘇りの体は、死んだ体とは異なり、その命は、自然の生命とはまるで異なる条件下にあるといえます。突然現れたり消えたりできるのですからね。
ただし、蘇りのキリストは幽霊ではありません。
なぜならば、キリストは蘇りの体で飲み食いをなさったからです。
このような存在を言い換えれば超自然の存在というのでしょうか。
そのような世界があるのです。その世界は、我々が今から行こうとする世界なのでしょう。
そこはきっとわれわれ人間の理解を超えた世界なのでしょう。
(エントロピー増大の法則を辞書で引くと)
すべての事物は、「それを自然のままにほっておくと、そのエントロピーは常に増大し続け、外から故意に仕事を加えてやらない限り、そのエントロピーを減らことはできない」ということになります。 これが、いわゆる『エントロピー増大の法則』です。
(自然の法則)
現実の出来事の成り行きは、人間の意志と物理的自然法則によるのでしょう。
宇宙の全歴史を通じて、自然の法則は、出来事が起こった時に従う法則といえます。自然法則が意思を持って、何かを起こすわけではありません。
なお、物事と出来事の違いは、物事は空間・時間・物質などを指し、それらがどうして存在するのかを言っているのではない。ということは、出来事は物事と物事の関係を言うのですね。
それでは、その出来事の源はどこにあるのでしょうか。
それは個々の出来事は先行する出来事に由来するといえるのでしょうが、その過程をさかのぼるとどうなるのか。
出来事に初めはあるのでしょうか。
もし、始めがあるならばそれは創造のはじめ、神とも言えます。
いま、私たちが見ているこの世界はどのようにしてできたのでしょうか。
ちょっと、考えれば、その背後に何者かが存在することは否定できません。
化学は進歩しましたが、それは現実に存在するものの現象というか仕組みを解明しているだけで、それを創造する方法は何一つわかっていません。
<受肉の意味>
- ヨハネの福音書5章19節
19節.「そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」
天地万物の創造全体を通じて神の御業は示されていますが、人間はそれを悟らずにいます。
そして、キリストがこの地上で人間として生きて、なさった奇跡は、速さと規模は違いますが、この創造と同じことをなさったのだと思います。
ですから、キリストがなされた奇跡を見て、この世界の創造全体の神の御業を悟りなさいということでしょう。もちろん、そこには予言の奇跡も含まれます。
19節は、そのことを物語っています。
このようにキリストの奇跡は、日常目にする自然界の現象というか摂理を知り、その背後には神がおられることも含めてキリストが神であると我々を納得させることになのです。
一つ例を上げると、病気の癒しは、薬とか手術にあるのではなく、患者の体に生まれつき備わっている回復する力にあるということです。それは創造主である紙が供えられたのですから、神の働きといえます。
医者は、体内の自然の機能を刺激するか、病のもとになっている障害を取り除いてやることが仕事なのです。
病気をいやすのは、病人本人に備わっている癒しの力なのです。
キリストの受肉を別の面から考えてみると、マリアが御子を宿したときに天地の創造、人類の誕生と救済、新しい人類の創造という偉大な神話が事実となったのです。
ですから、神話は思考を超越していますから、理解しょうとしても理解できるものではなく、そこに普遍的な原理が含まれていることを信じながら想像力で丸ごと受け止める味わうものなのかもしれません。
<イエス・キリストのすごい言葉>
イエス・キリストのすごい言葉二つを紹介します。
〇ヨハネの福音書14章6節
6節「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
このように、自分は神であなたたちの救い主だ。私を見れば、神を知ることになる。私を知らなければ神のもとに行けないよ。なんて、言った宗教の教祖はいますでしょうか。
そして、それが真実であることを証しするために、数々の奇跡をなされ、自らは十字架で殺され、三日後に死から復活されたのです。
「わたしは道であり・・」、この言葉は、先のトマスの「どうしてその道を知ることができましょうか」という問いかけに対するイエスの答えでしょう。
この「道」は、定冠詞つきの単数形ですから、唯一の道であることを語っていると言うことです。
復活者したイエス(聖霊)こそが、人間が神の国に行くことができる唯一の道だと宣言しているのです。
この「わたしが道」というのは、具体的に、人間は復活者したイエス(聖霊)の働きに自分を委ねて聖霊と共に生きるのでなければ、神を父として知り、父との交わりに生きるようになることはできない、という宣言です。
唯一ですから、ユダヤ教徒であろうが、異教徒であろうが、人は誰でもイエス・キリストに合わせられることによって聖霊を受け、その聖霊によって父との交わりに生きることが出来るのです。
ただし、そのことを自覚しているかどうかは別です。
自覚していなくても聖霊に導かれて生きておられる方もいると思います。
復活者したイエスが「道」であるならば、この復活者イエスは同時に「真理であり、命である」のは当然です。
人間一人ひとりの存在が神を父として永遠の命を生きるようになるには、復活者したイエス・キリストだけがそこに至る道なのです。
それがヨハネの福音書の主張であり、キリストの福音の宣言なのです。
その道はどのような道かと言いますと、イエスの言葉を信じ、イエスの言葉を(言葉は神の思いを含んでいる)心に抱き留めてこの世を生きることです。
そうすれば、神の御霊、聖霊がわたしたちに内住し、わたしたちを内から作り変えて、神の国に導いて下さるのです。
「真理」とは変わらないものをいいますが、ここでは、変わらないものはイエスの言葉だと言っています。
だから、イエスの言葉が真理なのです。
もちろん、イエスの言葉は聖書の言葉でもあります。
イエスの言葉は真理なのでイエスの言葉を信じることにより救われて永遠の命が得られるのです。
この方法しか神のもとに行くことができないのです。
父に至る道としての復活者したイエスが、同時に真理であり、命であるという、この福音書全体の主張がそこにあり、復活者したイエスについての包括的な宣言となっています。
そのことの立証は、イエスの十字架の刑と三日後の復活です。
「わたしを通らなければ」というのは、イエスだけが父に至る唯一の道であることが強調しているのでしょう。
- ヨハネの福音書14章7節
7節「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
「知ることになる」は未来形ですから、将来弟子たちが聖霊を受けて復活者したイエスを知るようになれば、「父をも知るようになる」ということでしょう。
「今からあなたたちは父を知る」と直前に未来形で言われたことが、ここでは現在形に言い直されています。
「今から」というのは、今、とこの後すぐに起ころうとしている聖霊の降臨という出来事と重なって、その出来事によって実現する「父を知る」ことが現在の事実(すでに起こったこと)として語られているのでしょう。
イエスは時間のない世界にお住まいですから、イエスにとって現在も未来も同じです。
それに、イエスの言葉は神の思いを込めた言葉ですから必ず実現するのです。
「いや、既に父を見ている」、「父を知る」というのを、強調して「父を見る」と表現される。
本来「父」は見ることができないはずですが、復活者したイエスを「見る」体験は「父を見る」ことになるのでしょう。
現在の私たちは、既にイエスは死んでいませんから、代わりに来られた聖霊を知ることで、イエスを知り、神を知ることになるのでしょう。
聖霊は、天に昇られたイエスに代わり、使徒言行録2章の聖霊降臨以降今もこの世で活動されておられるという考えです。
わたしがキリスト教というか聖書を真剣に学び始めたのは、天地万物とその摂理を知り背景に神がおられると確信が持てたので、また、そのことを語っている宗教はキリスト教であったからです。
そして、その聖書の言葉の中で、語られているイエスの言葉が真実だと信じたからです。
もちろん、なされた奇跡もすべてそのまま信じています。
そうでしょう、これは信じてこれは信じないという選択はないでしょう。


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