フォト
2026年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

人類の創造と堕落、そして救済から新生へ

人類の創造と堕落、そして救済から新生へ
(聖書から読み解く)
目 次
第一章 なぜこの世界があるのか
<創造主がおられる>
<希望と試練>
<試練はなぜ必要か>
<悪魔(悪霊)の存在>
<人生の艱難辛苦と救い>
<ヨブ記でみた神様と悪魔>
<聖書の死生観>
<死について>
<死後について>
<神(創造主)に会う備え>

第二章 創造神の存在と御業 
<創造論と進化論>
<イエスは創造神>
<キリスト教は宗教か>
<聖書が描く人類救済史の全体像>
<キリストの(空中・地上)再臨と目的>

第三章 宇宙の創造から終末
<創造のはじめ>
<天地創造>
<エデンの園>
<人間の神からの離反と堕落>
<神から離反した人間のその後>
<ノアの箱舟と大洪水>
<バベルの塔>
<アブラハムとイスラエル民族>
<出エジプトと十戒(律法)>
<旧約聖書の成立>
<イエス誕生の預言とその後>
<新約時代>
<キリストの十字架死と教会時代>
<イエス・キリストの空中再臨と空中携挙>
<7年の大艱難時代>
<ハルマゲドン>
<イエス・キリストの地上再臨>
<千年王国の時代>
<悪魔の解放と敗北>
<最後の裁き>
<裁きを逃れる者>
<聖書は不公平か>
<新しい天と新しい地>
<終わりの日>

第四章 創造主の意志と法則 
<被造物は法則に従って生きている>
<人間は法則に逆らって生きている>

第五章 神の民の歩みと聖霊
<神の民の歩み>
<聖霊の保証と営み>

第六章 人間の新生
<完全な者となりなさい>
<愛の実践>
<愛の実践と聖霊の働き>
<新しい人間と古い人間>
<使徒パウロの言葉>

 

 

本 文
第一章.なぜこの世界があるのか
<創造主がおられる>
ヨハネの黙示録は、21章の新しい天地の創造(そこに住む新しい人間の創造)で終わっています。
わたしは、その新しい天地に住む新しい人間の創造のためにこの世界があると思っています。

 

そういう意味で、聖書が告知するキリストの福音は、神の新しい人間の創造のご計画の中での罪から離反した人間の救済の言葉となります。
新しい天地に住む新しい人間の創造の目的に沿った人間は、人間の自由意志が守られたうえでの神への帰依(愛)が必要なのです。
本当の愛は、誰からも邪魔されないで、自由意志のもとに自ら愛することだといえます。

 

最初に記しておきますが、創造主である神がおられるから、この世界に希望がある。創造主がおられなければ裁きはありませんが、来世はなく、希望はなく、死ねば終りですから、この世界はやりたい放題、弱肉強食の世界、秩序なき世界になります。

 

今の世界は、神を知らない人とか知っていても敬わない人が多いので、そのような状態に近いのです。
進化論者が言われるように、万物は偶然に発生し、人間も長い年月を経てアメーバーから進化して現在のようになった言う仮説の世界はそういう世界です。
そこには神の摂理(創造主である神による被創造物への計画・配慮)も良心もない、自己愛はあるが隣人愛はない。

 

もちろん、正義もないから希望もない生きるための本能むきだしの弱肉強食の世界です。
進化論者のいう適者生存で進化(変化)してきた世界がそのような世界なのです。

 

神の摂理とか良心とか隣人愛(隣人を自分のように愛する愛)は、創造主がいなくてどうして生まれるのか知りたいと思います。
創造主の存在は、人間を含めたこの天地万物を見て、それが摂理によって見事
に運行されているのをみれば疑う余地はありません。

 

背景に知的な存在がいなければ、そのようなことは成り立ちません。
例えば、詳しくは書きませんが、自己修復能力を持ち、80年以上も生きるこのような見事にバランスの取れている精巧な人体が自然にできるでしょうか。
色々な種類の食べ物の味をどうやって区別できるのでしょうか。

 

心臓と脳細胞は生涯再生しないし、皮膚細胞は一年もすれば再生するそうですが、それらは人間が生きていくことに必要があってのこと、誰がこの人体の仕組みを考えたのでしょうか。
その疑問をこの自然界、宇宙全体に広げてみても同じです。その美しさに驚嘆するのです。命がみなぎっています。私のキリスト信仰の原点です。

 

それでよく問題になるのが、創造主がおられるのならば、この世を生きるのになぜ試練があるのか、ということです。
聖書は、創造神を愛の神とし、御子イエスは人間の罪を七の七十倍(いわゆる無制限に)許しなさいとも言っておられます。

 

いろいろ疑問が浮かびます。
試練と自由意思との関係は、悪魔との関係は、そして、何でもありの世界と神が悪を放置されている理由を考え、最後にヨブ記を読んでみたいと思います。

 

<希望と試練>
聖書は、この宇宙には悪魔とか悪霊という存在が跋扈していることを教えます。それも神がそのようにされたのです。
その悪魔らの働きもあって、人間がさまざまな試練を経験するのは、それを神さまがご承知の上でのことならば、それが新しい人間の創造のために必要な存在であるからという見方が成り立ちます。

 

それに試練ですが、その試練の原因が本人に原因がある場合はまだよいのですが、先天的病気、精神障害、いや、障害にいたらなくても精神的にその試練に耐えられない人の場合もあります。
差別とか迫害、無慈悲な殺人もある。その上この世界は、不条理で不公平極まりない。これなどは誰も否定する方はおられないでしょう。

 

試練の原因は、生まれ育った国、家族など本人の責任によらない原因による不幸、とても試練とは受けとれない人的あるいは自然災害などがあります。
時には自殺に至るような絶望の淵に立たされることもあります。
それらは人によりまちまちで、どのように考えればよいのでしょうか。

 

わたしたちは、それらの試練に耐えるために、絶望しないために根拠のない希望を持ち、試練にはさまざまな理由をつけて必死に立ち向かい生きています。
でも、この世界の艱難辛苦が、試練でしたらその背景には神がおられるのですから、希望があります。

 

艱難辛苦が試練であるためには、この世界の創造主の存在を認める必要があるのではないでしょうか。
そう、この世界は創造主の創造のご計画のもとにすべてが成り立っているとい
う意味です。

 

もし、この世界の創造主がいないのならば、秩序はなく、どのよう生き方をしても責任を問われないのですから世界は不条理が極まり、そこには希望はない。
死んでしまえばすべてが終わるのですから、この世界は、やったもん勝ち、それこそ地獄です。

 

そうですね、神の摂理(創造主である神による被創造物への計画・配慮)もないのですから、無秩序な世界になります。
もちろん、そこには夢も希望もありません。

 

なお、創造主がおられるとしても、あまりに試練が厳しければ絶望に追いやられ、二度と立ち直れない場合もありますが、そのような場合は、この世の艱難辛苦は試練だと言っても何の意味もありません。

 

創造主がおられるならば、人間が移動に便利なように車を作るように目的がなく、ご計画がなく人間を創造することなど考えられません。
ですから、人間を含めた万物の創造には、目的があって計画的に作られていると考えるのは当然です。
だからこの世界の艱難辛苦は試練であり、また希望なのです。

 

しかし、争、虐待、自然災害、パンデミック、その他ありとあらゆる本人の責任によらない苦しみは、苦しみの理由としては決して納得いくものではありません。理不尽であることには間違いありません。
わたしはこの世を生きるうえでの患難辛苦は創造主による試練だと思っています。だからそこに希望があるのです。

 

<試練はなぜ必要か>
さて、聖書は、神は人間に自由意志を与えたと書いています。
神は人間に自由意志を与えたが、人間はその自由意志を濫用して、わたしから離れて自己中心に生きている、その結果がこの悲惨な現状を生んだと言っているのです。
反面、聖書はそれらの試練をわたしたちの益にして新しい人間の創造のために用いるとしています。

 

神はこの世界が終わった後に新しい天地を創造し、そこで生きることができる新しい人間を創造するために人間を、この世界を造ったのです。
そういうことであれば、この世界で起こっていることのすべては神の創造のご計画の中での出来事と言えます。

 

自由意志が人間に与えられているのは、新しい人間を創造するのに必要であるからでしょう。
言い方を変えれば、神は人間を愛されているからと言えます。
本当の愛が育まれるためには、強制された愛ではだめ、そのような愛は神が求
めておられる愛ではないのです。

 

神が求めておられる愛は自由意志の中ではぐくまれたご自分を求める愛なのです。神はロボットを求めておられません。
つまり、神は自由意志の中で愛のある関係を人間と育むことを求めておられるのです。
だから神はご自分に似せて人間を創造されたのです。神と交流ができる霊的な存在として創造されたのです。

 

また、人間は不完全で自由意志をもって生きていますが、希望をもって生きるように設計されていますから、失敗とか過ちを繰り返し少しずつ成長すると思うのですが、ヨハネの黙示録などを読むと、人間は自分の力ではなんともできないで、最終的に神の介入によって救済され新しい天地と共に新しい人間に造り変えられることになっています。

 

この世界が神のご計画と目的をもって創造されたのならば、神は万能のお方で
すから、必ずご計画通りになるはずです。
神は決して、目的があって計画に沿って造ったものが滅びることを望んでおら
れるとは思いません。

 

神は創造のご計画を成就させるために御子イエスをこの地上世界に送り、御子イエスの命をもって人間の罪を贖い、御子イエスの福音を信じた者に三位一体の三位格である聖霊を助け手として内住させその者を導き、ご自分との交流を回復し、創造の本来の目的である永遠に生きる存在にすると言っておられます。御子イエスを十字架にかけてまで人間の罪を贖うなど、神の創造の意気込みが伝わります。

 

人間に与えられた自由意志によって、当然ですが、人間は神のように万能ではありませんから、悪魔がそこに付け込み誘惑し、そのことで苦しむこともあります。
でも、そのことも神のご計画の中で、そのような事態を用いてその人間のためになる、すなわち益としてくださるのです。
そして、それは愛をはぐくむための糧ともなります。

 

キリスト信仰でよく問題になるのが、原罪(的外れとも言います。神からの離反)です。
原罪も自由意志がなせる業です。
人間は悪魔にそそのかされて、その与えられた自由を誤った用い方(神から離反して自己中心に生きることを選んだ)をしたので、人間社会は今のような悲惨な状態
になったのだと思いますが、しかし、それでもその人の責任によらない試練とかその人の責任を超えた理不尽な試練はどうなのか、もう一つ納得できません。
なお、人間に与えられた試練の理由で、もう一つ付け加えたいのは、悪魔を含めた被造物の罪を神の忍耐の限界まで至らせることが目的なのではという見方です。

 

試練は、神が目的とされる新しい人間の創造に不可欠で、そのためには人間の罪が創造の目的を達するに必要な段階まで満ちるのを待っておられると言うことです。
聖書は、神の人類救済計画を告知しています。

 

そして、最後の最後に人間の救いに介入されるのでしょう。
と言っても、神は正義の神、義の神ですから、人間の罪をそのまま放置して許
してはいただけません。
キリストの十字架で、人間の罪(原罪)を赦しておいて、この世の終わりに現世の行いの罪の裁きを、最後の審判としてなされます(ヨハネの福音書20章)。

 

ヘブライ人への手紙9章27節には最後の審判について「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」とあります。
この言葉は、「人間には」ですから、全人類(キリスト教徒もそうでない人も)に対して言っているのでしょう。

 

<悪魔(悪霊)の存在>
わたしたち人間は目に見えることしかその存在を信じないところがありますが、聖書は、霊界があり霊的存在がいることを当然として書かれています。
そして、人類救済史を語るには、霊的存在は欠かせません。
悪魔・天使・悪霊・人間も霊的存在で、この肉体を持った人間の体は仮の住まいです。
もちろん、創造主である神も霊的存在です。
この目に見える世界の外に霊界があり、その霊界がこの世界の本体なのです。

 

それでは、聖書が描く世界観を見てみたいと思いますが、その前に念を押しておきますが、悪魔とか悪霊は天使が堕落した存在ですが、その存在を神は新しい人間の創造のために必要があって許されていると受け止めたいと思います。なぜならば、神は悪魔とか悪霊の牢獄であるこの宇宙に人間を置きましたが、人間に悪影響を及ぼすことをご存じなのに自由にさせておられるからです。

 

また、悪魔とか悪霊は天使ですから、人間のように自由意志がないので神の許しがなければ何もできません。
悪魔も悪霊ももとは人間と同じように神が創造された被造物です。

 

悪魔は天使が変質した存在と書きましたが、神は天の中に、自らを賛美する存在として天使を造ります。天使は創造主である神の命令にしたがって神のため
に働く奴隷的な立場として作られた存在です。

 

彼らには、個人的な自由意志による行動は許されていません。
彼らの組織は軍隊状で、上位者の命令には絶対服従する存在として造られてい
ます。

 

天使は自由意志がなく不自由ですが、人間にはない素晴らしい能力を持ってい
ます。それは、人の姿をとって人間の前に現れたり、火になったり風になったりすることもできます。新約聖書ヘブル人1章7節に「神は天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする。」とあります。

 

天使は神の名にしたがってさまざまな仕事をしますが、もっとも基本的な仕事は、天に置かれた神の名を賛美することです。天使には奇跡を起こす能力もあります。天使には自由意志は無く神の命令によってのみ働きます。

 

もちろん、悪魔は天使が変質した存在ですから、悪魔も、自由意志は無く神の命令によってのみ働きます。

 

また、聖書には、天では戦いがあると書いてあります。
ヨハネの黙示録12章7節・8節「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所はなかった」です。

 

神の御使いであるミカエルとその御使たちが、竜と戦っているのです。
竜は、9節で「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」とありますから、竜は悪魔とかサタンとか呼ばれるものを指していて、この地上(宇宙)に投げ落とさたことがわかります。

 

神はこの地上に「悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者」を投げ落とし、その中にエデンの園を造り、人間を創造し、何も知らない無垢な状態のままの人間を置いたのです。

 

それでは、悪魔(悪霊)とは何者でしょうか。
まず、悪霊(悪魔は天使長)誕生の経緯ですが、神は悪霊(悪魔)を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありません。

 

悪魔は天使長でその配下の天使が悪霊だと思いますが、両方とも天使ですから、神に逆らえない(神に逆らって何もできない)のですが、天使長が、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい。そういう自分の国がほしい。」と思うようになり、部下の天使に命じて自分の王国を造ろうとしたのです。

 

それで神との交信が途絶え神の霊、聖霊を受けることができなくなり、天使の
長が変質して悪魔になったのです。悪魔になった天使の長は天使の内三分の一
を配下に置きました(旧約聖書イザヤ書14章12-15に「お前は、天から
落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、・・雲の頂に登っていと高きもののようになろう。」と。しかし、お前は陰府に落された、墓穴の底に。」)と記されています。

 

この聖句で、暁の子、明けの明星とは、前身が天使である悪魔のことだと思います。「お前は地に投げ落とされた。」の地は地球のことだと思います。
「もろもろの国を倒した者よ」とは、その配下に軍団をしたがわせて一時的にせよ自分の配下でない天使の一部に打ち勝ち、神の国に自分の王国を築こうとしたもの、となるのではないのでしょうか。地は創生前の宇宙、いと高きかたは創造神すなわち神の名です。陰府とは、暗いところ,この場合宇宙です。墓穴の底も同様でしょう。

 

変質し悪魔になった天使長の配下の天使も「天の諸々の悪霊」に変質し、悪魔軍団ができたのです。といっても悪魔は、自由意志がない天使の変質した存在ですから、神に反逆はできません。
神の許しがなければ何もできない存在であることは変わりありません。

 

悪魔らは創造主である神との戦いに敗れ、まだ人間が生まれる前の暗闇の存在であるこの宇宙に投げ落とされ、今も人間の潜在意識に影響を及ぼしています。もともとこのようにしてこの地球は悪魔が支配していたのですが、約2000年前にイエスが来られてこの地球は神の支配(既にわたしは世に勝っているとイエスは言われています。)に移ったのです。それでも、悪魔の活動は活発です。現在人間世界に起こっているもろもろの悪とか病はこのサタンと支配されている悪霊の仕業かもしれません。

 

悪魔となった天使には人間のように自由意志がないから悔い改めの機会も無い。サタン(悪魔)のことを、新約聖書ヨハネによる福音書第8章の44節に、「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。・・悪魔が偽りを言うときは、本性からそういっている。」と書いてあります。

 

<人生の艱難辛苦と救い>
聖書を読めば、神は私たちが自分の子供を愛するように人間を愛しておられま
す。ご自分が創造した人間ですから、それは当然のことだと思います。
何かを創造する場合、そこには必ず目的があります。

 

神は目的あってわたしたちを創造し、このような世界を造られた、いや、このような世界になることを創造の前からご承知のはずです。
神が被造物である人間に自由に生きる権利を与え、もちろん、自己中心に生き
る自由も与えています。

 

ということは、それを許された神ご自身の自由がその分逆に制限されることになりますが、神は人間を愛するゆえに必要があって、目的があってそのようにされたのです。

 

もちろん、神は人間に自由に生きる権利を与え、自己中心に生きる自由も与え生きるようにされているが、神は同時に人間に良心を与え、良心に従い生きるようにもされているのです。

 

その中で葛藤しながら生きることが、神が求める人間の創造には必要なのでしょう。
良心でもって生きる上の指針というか、同時に何が大切かも教えておられるのです。
しかし、人間は良心を持っていると言っても、自己中心に、自由に生きることの誘惑には勝てないのです。

 

おそらくそのことも神はご存じで、創造の目的の一環なのでしょう。
人間は自由を制限する良心より、(欲)思いのまま自由に生きることを望みます。

 

もし、人間が良心に従い、聖書に書かれた神の言葉を完全に守るならば、この世界はもっと素晴らしい世になっていることでしょう。

 

しかし、神はそのような人間社会を望んではおられないようです。
人間には(自由意志とか、自己中心的な思いから派生する)悪い心も備わっていますから、理想的な世界になるとは思いません。
理想的な世界を求めるならば、やはり神(創造主)と共に生きる人の心が必要
でしょう。

 

以上を鑑みると、神は愛するがゆえに、創造の目的ゆえに、必要があってご自分の力の行使や活動の範囲を制限されることをも容認されていると言えます。
それは神が人間を創造した目的を達成するために必要であり、それは人間を愛するゆえであります。

 

聖書は最終的に悪魔の自由な行動を容認された中での人間の経験を益にして私たちのために用いてくださると言っています。
もちろん、そのために人間は神に立ち返る必要があります。

 

でも、神は悪魔の働きをもう少し制限してくだされば、もう少し良い社会を私たちは築けたかもしれません。
悪魔も神の被造物ですから、神の承諾がなければ何もできないのです。
だから、悪魔の働きをもう少し制限することができるはずです。

 

悪魔と自由意志、その必要性について、もう少し付け加えたいと思います。
悪魔には、自由意志はあるのかですが、悪魔は天使(自由意志はない)が変質した存在ですから、自由意思はないと思います。神の許しのもとでしか何もできない存在です。

 

神はその悪魔の働きを止めないで、自由にさせておられる。
悪魔が人間の自由意志を利用して神から離れて自分に従うように誘惑するが、それによって、人間はますます神から離れて、何が真実かもわからず罪の中をさまよう。この世は人間が神から離れることによって、派生する行いの罪が蔓延するようになる。

 

そのような現状を見ても、神は悪魔の働きを止めようとはなさらない。・・・
それはなぜか、
神が悪魔の働きを妨げない理由として考えられるのは、一つは、それが「人間に与えた自由意志を侵害する」ことになるからでしょう。

 

神が人間を創造され、人間が、テモテへの第一の手紙2章4節では、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあり、同時に、他の箇所では救われない人もいると述べています。
ヨハネの福音書3章18節には「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」です。

 

「裁かれている」ですから、神が何もしなくてもその人は自分で自分をすでに裁いている、最終的な死後の行き先を決めているということでしょう。
つまり、神は「すべての人を救いたい」という強い思いをお持ちですが、ご自分を信じないでご自分から(自由意志で)離反している人は救えないのです。

 

神を信じない人というのは、ご自分と繋がっていない、ご自分を拒否する人間のことで、そういう人は救いたくても救えない。
つまり、ご自分と繋がっていない人間は命の霊を注げないから神にはどうしょうもないのです。

 

また、神の働き手である聖霊をその人に内住させようと思っても、神を拒否する人には聖霊を内住させることができないので、その人を救いようがないのです。そして、その人は悪魔とか悪霊に影響されて生きることになり、ますます、罪を犯すことになります。

 

そういう人は神の創造のご計画の外で生きている、すなわち、自分の死後の行き先(地獄行き)を自分で決めていることになりますから、すでに裁かれているのです。

 

聖書には「神にできないことは何一つない。」とも書いてありますから、その神の恩恵に与るためには、そういう人を含めて、神の思いであるすべての人が救われるためには何が足らないのか。

 

それはすべての人が自由意志で神を求めるようになることなのです。
人間が自分の意思で神を知り、神と繋がり、神を愛するようになることです。
そうすることで、神の御霊聖霊がその神を信じる人に内住され、その人は新しい人間に造り変えられ、神の願いは成就するのです。

 

そう、新しい天地に住む新しい人間の創造です。
神は全能ですから、無理やり人間を救うことができますが、もしそれをしたならば、神と人は本当の愛の関係にならないから神は望んでおられない。
それでは、人間はロボットと同じ存在になり、そうすると、神が人間を造った
創造の目的が達成できなくなるのでしょう。
そういう人間は、神が望んでおられる創造のご計画から自ら離れてしまっているのです。

 

神は、人間が一人も滅びることなく、すべての者が自由意志でご自分を愛し、悔い改めに至ることを望み、この世においてもあの世(陰府)においても、何度も機会を与え忍耐して待っておられるのでしょう。

 

ですから、この人生の艱難辛苦は、創造の目的を達成するに必要なことであると同時に、そのことで、人間が神を知り、神を愛するようになることを期待しておられるのでしょう。そう、忍耐強く、何度もチャンスを与えて待っておられるのです。

 

もちろん、生前においても死後においても何度も救いのチャンスを与え忍耐強く私たちがご自分の方を向くのを待っておられると思います。

 

わたしは永遠の命のなかのたかが80年そこそこの不公平極まりないこの地上人生での行いで、その人の人生のすべてが決まるとは到底思えないのです。

 

ペトロの第二の手紙3章9節に「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」とあります。

 

わたしたちは被造物です。だから創造主である神のことは分からないし、神に教えてもらわなければ、わたしたちはどこから来て、なぜ存在するのか、なぜ生きているのか、死ねばどうなるのか、何もわからないのです。

 

それに被造物であれば、創造主の創造の目的に沿って生きることが最も幸いであるはずです。
テレビは人間の被造物ですから、テレビは創造の目的に沿って人間のために働かなければ何ら存在する意味がないのとおなじです。

 

もし、その創造主である神の存在を認めなかったら、わたしたちは、この世界
の真理も知らず、神の言葉である福音も知らず、神の創造のご計画から外れた
まま生きることになり、そのような人間で構成された社会は、愛が廃れ、自己中心に生きることが優先され、不条理がまかり通る社会です。そこには夢も希望もありません。

 

まさに今の世界はそのような世界で、神を知らない又は否定する人間と神を認めていても自分を優先する人間が神を認め神の言葉を守り生きている人間より
はるかに多いので、このような世界になっているのでしょう。
人間は何も知らないで自己中心的性格の上に自由意志を与えられて生きていますからそのようになるのは当然だと思います。
だから、神はすべてをご存じの上で人類救済計画を立てておられるはずです。

 

そのような人間社会に神は悪魔を自由に泳がせ放置されているのです。悪魔は、人間を唆し神から離し、自己中心に生きるように誘導しています。
ですから、その結果は決まっています。

 

このように人間は、悪魔のように根っからの悪ではありません。
悪魔も神の被造物ですから、人間と同じです。そして、悪魔も同じこの世界で神に背いて生きています。

 

違うところは、悪魔は本質的に、すなわち、神が創造されたこの人間世界を自分の支配下に置こうとしているが、人間は悪魔に神から離反することが何たることかを知らないでそそのかされて本来の自己中心的な性質もあり、自由意志も備わっているので自己中心に生きることを選んで多くの人は神の存在を否定、あるいは知らないで生きているのです。

 

しかし、人間は本質的に悪(確信犯)でないから、そこに救いのチャンスがあるということです。
人間は、悪魔と違って根っから悪ではありません。悪魔に騙されているだけなのです。

 

神は人間が悪魔にそそのかされて今のような悲惨な状態になるのをご存じで、つまり、このようになることは創造のご計画の中に組み込まれていることとなります。
言い換えれば、悪魔も新しい人間の創造という神のご計画にとって必要だから放置されているのです。
それはすべて万能の神のご計画ですから、この世界で人間が体験すること、なすことのすべてが新しい人間の創造に必要なことだと言えないでしょうか。
どのような無駄に思えることでも、神は益として新しい人間の創造に用いてくださると思うのです。だからそこに希望があるのです。

 

<ヨブ記でみた神様と悪魔>
ここで新しい人間の創造に大きな役目を、影響を与える悪魔その者について、そして、神と人間との関係について考えてみます。
最初、サタン(悪魔)はルシファーという天使であったと聖書は言っています。

 

エゼキエル章28章15節で、神は悪魔のことを「お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見出されるようになった。」と言っています。

 

なお、悪霊(悪魔は天使長)誕生の経緯は、前の<悪魔(悪霊)の存在>のところに詳しく書いていますが、神は悪霊(悪魔)を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありませんし、悪魔となった天使長は天使ですから、神に逆らえない(神に逆らって何もできない)のですが、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい」と思うようになり、部下の天使に命じて王国を造ろうとしたのです。

 

悪魔は、神の創造のご計画を無視し、同じ神の被造物である人間を言葉巧みに唆し、神から離反させ、罪(神から離れて自己中心に生きること)へと誘ったのです。

 

悪魔は人間に神の真を違って教え、罪にさそい、今もその働きは続いています。
神は、そのような悪魔をすぐには処罰しないで泳がせておられます。

 

2000年前のイエスの十字架刑の背景には悪魔の働きがあったのですが、その出来事でもって悪魔の罪状は明らかなのですが、それからも神が悪魔を自由にさせておられるのは、悪魔にも自由意志があるからと言えますが、やはり、その悪魔の働きが新しい人間の創造にとって必要なことなのでしょう。

 

このように神は悪魔に人間社会の中で自由にふるまうことを許されたのですが、一定の制限も設けられています。それはヨブ記にあります。

 

ヨブ記1章12節には「主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。」です。

 

この12節の前に、ヨブ記1書11節には、悪魔の「ひとつこの辺で、御手を
伸ばして彼の財産に触れて(ヨブの財産を失わせる)ごらんなさい。面と向か
ってあなたを呪うに違いありません。」という神に対する主張に対して、神はその主張を退け、12節の言葉となるのです。
神は、「彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」と、制限を設けて悪魔の活動を許されたのです。

 

なお、わたしはここで悪魔とか天使の存在を当然のように書いていますが、わたしは事実悪魔とか悪霊、天使が存在すると思っています。

 

天使とか悪魔・悪霊は、通常は人間の目には見えませんが、ときにはいろいろな姿で人間の前に現れるそうです。
創造主とか霊界(来世)の存在を信じるならば、それらの存在を否定する理由はありません。
それにこの世界には理解できない不思議な現象が多すぎます。
この世界、人間を含めた天地万物も、信じられないほど細部にわたり見事に秩序だった世界です。見事です。

 

このような仕組みは、適者生存という進化論では、絶対にできません。背景に、人間の能力をはるかに超えた存在がおられ、創造されたとしか思えません。

 

全知全能の神は、ご自分の創造のご計画の中で人間には試練が必要とされている。そして、ヨハネの黙示録22章12節で御子イエスは、「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。」と宣言され、そしてご自分のことを、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」と告知されています。

 

<聖書の死生観>
人間は、肉体と霊とが合わさって、一つの生命となっているので、(創世記2章7節)、肉体が死んでも霊体の意識は残り続けます。
したがって、人間の死は肉体と霊の分離を指し、死んだ人間は、霊体の状態で、陰府に行くことになります。天国とか地獄はその後の問題です。

 

参考の聖書箇所は、ヘブライ人への手紙9章27節
「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように。」です。

 

聖書の死生観は、ほかの宗教とは全く異なっています。
聖書は、わたしたちの死後について上記の通り記しています。
天とは神の住まいであり、イエスのおられる所です。パラダイスとも呼ばれて
います。
ですからキリスト者は。死ねば天国、すなわちそのパラダイスに行くことになっています。
だからキリスト者にとっては、その天国が国籍でこの世は仮の住まいなのです。

 

この聖句は、おそらくキリスト者を含めすべての人間について語っているのでしょう。この世に生まれ死んだら、すべての人はやはりこの世での行いにつき清算する必要があるのです。創世記20章の「最後の裁き」の箇所です。
また、それは、この人間を含む自然界は神の被造物、すなわち、神がおられ、神によって創造された被造世界だと言っているのです。

 

被造物は創造の目的に沿って生きることを求められていますから、この「行いの清算」というのは、その目的に対してどのように生きたかの清算となります。

 

なお、上記ヘブライ人への手紙9章27節の聖句の裁きの対象はすべての人間について語っていますが、キリストの福音をこの地上で生きている間に受け入れた者は、楽園(第二コリント12章4節; 黙示録2章7節)に直行とも書いてある箇所もあります。

 

この聖句は、黙示録20章の「最後の裁き」のことを言っていると思うのですが、同12節に「もう一つの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」とありますから、キリスト者の名もこの「命の書」に記されているでしょうから(楽園に行くことは間違いありませんが)生前の行いをやはり清算する必要があるようにも思うのですが、生前の行いを裁かれないのは、それは、キリストの福音を受け入れた者は、聖霊がその者に内住すると聖書にはありますから、その聖霊の働きによりその者は聖化されるからと受け止めたいと思います。

 

重要なイエスの言葉を紹介します。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネの福音書11章25節から26節)

 

<死について>
全ての人は一度死にます。
仏教は、輪廻転生を教えますが、聖書は輪廻転生を肯定も否定もしていません。
確かなことは、聖書は福音を受け入れた者が死ねば天国に行くことを約束していることで、(この世でキリストを受け入れた)キリスト者は輪廻転生することはなく天国に行くのでしょう。

 

聖書は、人は霊が本体と教え、死とは霊が肉体から分離することだと教えますから、人が死に肉体が滅んでも、人の本体である霊は生きていて、霊には意識もありますから、すべての人は死んで終わりではなく、人は死んだら無に帰するのでもありません。

 

キリスト教では、死ぬということは分離(神との)することと教え、そして、死には霊的な死と肉体の死と、永遠の死があると教えます。
霊的な死とは消滅ではなく神との人格的な、霊的な分離を言います。肉体的な死とは、人間は魂と体からなっていて体が滅びて魂が分離することをいいます。

 

永遠の死とは、神の恵みからの永遠に分離されることをいいます。その状態が地獄だと思います。地獄も被造世界ですから、神はおられるが、神の恵みからもっとも遠いところとわたしは理解しています。

 

霊的に死んだ状態というのを具体的に書きますと、それは、肉の欲・目の欲・暮らし向きの欲に支配されて生きることだと思います。

 

「肉の欲」とはいわゆる肉欲すなわち性的欲望を指すと思いますが、もっと広い意
味でこの世の快楽一般といってよいと思います。
生活が快楽主義的で欲望の赴くままに、安楽に溺れることだと思います。
「目の欲」とは目で見たことに動かされること。あの人のように金持ちになりたい、あの人の物よりもっと良い物がほしい、あれを持てたらもっといい暮らし
ができるかもなどなどです。
「暮らし向きの欲」とは、自分が人から認められて、人に注目されるようになる欲望のこと。見せかけの虚栄心に支配され、自分を高く見せようとすることだと思います。

 

しかし世は過ぎ去っていくのです。人生に死があるように、世界にも終わりがあるのです。キリスト者はそうした時の流れの中にあって自分の欲望のままに生きるのでなく、新しい命の中で、神の御旨を行い、兄弟姉妹を愛する。そのように神の光の中を生きることを永遠の祝福の中を生きると教えています。

 

パウロはそのことを、「信仰と愛と希望」に生きると言っています。神様を信じて、隣人を自分のように愛し、来世での復活に希望を持ってこの世を生きることを言っていると思います。
肉の欲、目の欲、生活の自慢は過ぎ去って行くもの、人生には死があり、世界にも終わりの時が来る。本当に大切なのはその後のことなのですね。

 

なお、命を捨てるといいますと、殉教者を思い出します。キリストの殉教者は自分の古い命を捨てることによって新しい命、永遠の霊の命を得ることができることを知っていたのだと思います。
殉教者は病気や自殺で死ぬのではなく殺されたのです。だから捨てたのです。

 

そうでしょう。殉教者は、もしもその気になれば、いつでも信仰を捨てて、自分の古い命を救うことができるのにそうしなかったのです。それはほんとうの自分の命、新しい命に生きるためだと思うのです。

 

だから殉教というのは、死ぬことではなく、殺されることによって本当の自分に生きることを言うのだと思います。
これは信仰に裏付けられた来世への希望ですね。この2000年間多くのキリスト者がその道を歩みました。

 

<死後について>
人の霊は陰府(黄泉、よみ)に下ります。陰府とは、一般的に死から最後の審判、復活までの期間だけ死者を受け入れる中間的な場所と考えます。
また、陰府は人が地上に生きている間の行いに応じて神の裁きを待つところとも言えます。

 

「アブラハムのすぐそば」という言葉がありますが、聖書で一度だけ、ラザロと裕福な男の物語の中で用いられています(ルカ16章19から31節)。
この言葉はタルムードの中で天国の同義語として使われているそうです。
「よみ」という言葉は「黄泉」とか「陰府」と書きますが、「死後の世界」とか「死んだ人々のたましいの場所」を意味しています。
ヘブル語の旧約聖書では、死後の世界を指した言葉は「よみ」です。楽園という概念もありません。

 

ですから、キリストが来られるまで(旧約の時代)は、死んだ人はすべて「よみ」に行っているのでしょう。
新約の時代になって初めて、キリストによる救いが告知され、人間は神を信じ福音を受け入れたら天国に行けるようになったのですが、それはキリストの福音を受け入れて死んだ人だけで、そうでない人はやはり陰府に生くのでしょう。そこでセカンドチャンスを待つのでしょう。

 

また、ハデスという言葉もありますが、新約聖書のギリシア語で地獄と訳されているそうです。「死者の世界」を指しています。
ゲヘナというギリシャ語の単語も地獄を指しています。
この言葉はヘブル語のヒノムからきています。新約聖書の他の箇所ではよみとハデスは不信者のたましいが一時的に行く場所であり、そこで大いなる白い御座での裁きを待ちまちます。(黙示録20章11節)

 

そのさばきは、「もう一つの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(同12節)です。

 

<神(創造主)に会う備え>
私たちは死んだ後、創造主である神の前に立ち、その審判を受けなければならないのです。
生前の罪を清算しなければ、天国(神のもと)に行けないのです。
天国に行くためには、今まで犯してきた行いの罪を清算し、キリストの福音を受け入れる必要があります。

 

ところが私たちは、自分の力で自分の罪の清算をすることができません。
そうでしょう、わたしたちは神の被造物ですから、罪は神に対して負っているので、罪を赦す権限は神にあるからです。

 

だから、私たちに代わって罪の清算をして下さった方がいるのです。その方が御子イエス・キリストです。

 

イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために十字架にかかり、わたしたちの身代わりとして死なれたのです。そして、三日目に復活されました。
イエス・キリストは、死の直前に十字架上で「完了した」と叫ばれました。つまり罪の清算が完了したという意味でしょう。
わたしはキリストの十字架死に全人類救済の神の強い思いが込められていると信じます。
コロサイ書2章14節に「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」とあります。

 

聖書は、だから私たちがなすべきことは、創造主である神を信じ、この御子イエス・キリストを私たちの救い主として受け入れることです。
そうすればその人に聖霊を内住させて、新しい人間の創造のご計画を進められる。人間が神を拒否し、キリストの福音を受け入れなければ、神は人間との交流、聖霊を内住させることができないので、神のマスタープランを完成させることはできません。

 

神の国である天国には、神を拒否する人間は住めないし、不要なのです。
聖書は天国を次のように表現しています。
「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21章4節)
「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、」(黙示録22章3節)
「御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」(黙示録22章4節)
「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(黙示録22章5節)

 

また、聖書は地獄を次のように表現しています。
「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」(黙示録20章10節)

 

最後に神は宣言されます。
黙⽰録 21章6節「また⾔われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである、渇いている者には、命の水の泉から、価なしに飲ませよう。」

 

第二章 創造神の存在と御業
<創造論と進化論>
進化論とは、全ての生物種が共通の祖先から長い時間を経て、「突然変異」と「自然選択」を通して進化しているという理論です。もちろん仮説です。
進化論にしたがえば、人間はサルから進化したことになります。
創造論とは、旧約聖書の「創世記」に書かれたとおり、宇宙や生命が生まれたとする教えです。つまり、神が人間を作ったという考えです。

 

日本では、一般的に進化論が主流です。
日本の学校は「進化論」のみを教え、人々はほぼ全員進化論を信じていますが、アメリカでは進化論を信じない人が40%以上だと言うことです。
万物は唯一の神によって創造されたという創造論は例外的な説です。
私の経験から思うことは、進化論を主張している方も、本心は創造主(神)を認めておられる方が多いように思います。

 

創造主の存在を認めざるを得ないというのが本音ではないでしょうか。
なぜ、創造主を認めざるを得ないかと言いますと、わたしが得た結論を書いて
おきます。

 

この世界の生き物はすべて同一の一つの細胞からなっている。
この世界の化学の基本法則とか物理の法則はだれが作ったのか。知恵ある者に
しかできない。すべての被造物は、一定の法則のもとにできているのです。

 

ビッグバンからの宇宙の形成はわかる。
しかし、天地万物の最初はだれが作ったのかはだれも説明できない。人間でないのは確かです。
そして、それは信じられないほど見事で、美しく調和がとれている。

 

進化論者が言っておられましたが、生命体と土は人間には作れない。人間が作れないのならば、誰が作ったのか。・・聖書には、「土の塵で人を形つくり」と書いてあります。

 

なお、折衷案で、有神論的進化論という考えもあることを記しておきます。
この説は、万物の創造もその後の進化(変化)も創造神の御業ととらえています。
有神論的進化論が創造神を認めるのは、進化論では、人間が持つ利他的愛とか事の善悪、つまり、道徳律は進化になじまないからということです。

 

人間が自然発生的にまれ変化(適者生存)したという進化論の考えでは、人間が持つ利他的愛とか事の善悪、つまり、道徳律は生まれないということです。

 

聖書が語る人類の歴史を書くにあたり欠かせないのが、この世界は、神、いわゆる人間を含めたこの自然界を創造された方がおられる、つまり、創造論の世界です。
ちょっと、見方を変えれば明白な事実として見えてきます。

 

ここで言っている「神」は、日本で言われているやおよろずの神ではなく、天地万物の創造主です。

 

また、日本では、一般的に進化論(生物は共通の祖先から長い時間を経て徐々に変化し、新たな種が形成されるという科学的理論)が主流です。
万物は唯一の神によって創造されたという創造論は例外的な仮説です。
ただし、有神論的進化論という考えもあります。創造もその後の進化(変化)も創造神の御業という意味だと思います。
創造神を認める理由は、利他的愛とか事の善悪、つまり、道徳律は進化になじまないからということです。

 

私の経験から思うことは、進化論を主張している方も、本心は創造主(神)を認めておられる方が多いように思います。
創造主の存在を認めざるを得ないというのが本音ではないでしょうか。
なぜ、創造主を認めざるを得ないかと言いますと、わたしが得た結論を書いておきます。

 

パウロが次のように言っています。
ローマの信徒への手紙1章20節・21節「世界が造られたときから、目に見
えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」

 

また、聖書の神はご自分の存在を明らかにするために、自己宣言されています。
出エジプト3章14節で神はご自分を「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
神はご自分を「わたしはある」と言っておられます。何々から生れた(または、産まれた)のではなく「ある」方なのです。

 

黙⽰録22章13節「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」
「アルファ」は、初め=最初=創始者、 「オメガ」は、=終わり=最後=完成者です。

 

参考にフランスの比較解剖学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンチレールを評した言葉を記しておきます。
副題を「神は細部に宿る」とし、ジョフロワは、「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られると考えました。
ゆえに自然は新しい器官を作ったりしないのです。すべては基本形の修飾によって生じます。これを言い換えれば、第一にあらゆる生物は、同種の構成要素からなること、第二にこれらの要素の組み合わせ方、つまり設計は同じだということです。・・・」
「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られる」ということは、唯一の創造主がおられるということでしょう。

 

DNAですが、それは、一人のヒト・一匹の動物・一本の植物など一つの個体では、どの細胞にもまったく同一のDNAが入っているということです。つまり、まったく同じゲノムが含まれています。
例えば、筋肉の細胞・神経の細胞・皮膚の細胞では、見た目も機能も全く違いますが、その中にある遺伝子はすべて共通しているということです。
ジョフロワの言葉は、明らかに唯一の創造主がおられることを表しています。
人間を含めた天地万物は、自然発生的に偶然に生まれたのではないのです。

 

わたしが創造主の存在を信じることになったきっかけは、森の中を歩いているときに突然感動を思えたのです。それは、生命はこの地球の隅々まで満ちている、なんと美しい、という心が躍動する感動ですが、同時に、見事に秩序だった自然界を見て、その背後には、これを創造された方がきっとおられる、と確信を持ったからです。
それからそのことを証しする書物を探し、読みましたが、そのことを証ししているのは、聖書のみだと思うようになりました。

 

このように、DNA一つとっても、そこには統一された法則があります。
背景に、その法則を創造された知的存在、すなわち、神がおられて、その方は唯一だということが読み取れます。
DNAのようなものが、知的存在としての創造者なくして自然発生的にできるわけがありません。

 

<イエスは創造神>
ここでは、「創造神の御業」を描いてみます。そして、第三章では神の御業の全体像を、聖書に沿って人類救済史の視点から描いてみたいと思います。
第一章と重複するところがあるかもしれませんがご容赦ください。

 

人間の歴史は創造神が展開する一連のドラマだと思います。聖書の関連個所からそのドラマを想像たくましく書いてみたいと思います。
聖書から導き出されるわたしの勝手な推理ですから、余り信用しないでください。
ただし、神の御業の歴史は存在し、それは当然すべて神が計画したものであり、その展開は必然であり、かつ、決して変更されることがないのです。
そして、出来事はすべて神が言葉(ロゴス、下記に詳しく書きます)を発することにより起こります。
そして、今わたしたちが住んでいるこの宇宙と地球と、そして人間は神の御子イエスによって造られたことを逝去は告知します。

 

つまり、この宇宙の創造からこの宇宙が消滅するまでの神の歴史はすべて創造主であり霊的存在であるイエスのなされることです。ヨハネによる福音書第1
章はそのことを告知しています。

 

そして、イエスは永遠におられる方です。
黙示録第22章13節でイエスは御自分のことを「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」と言っておられます。

 

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、
初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書第1章1節から5節)

 

この「初めに」という言葉は、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された。」に対応していると思います。そして、時間の始めではなく、この宇宙の森羅万象の存在の初めを指すと思います。

 

「言があった」のこの「言」はことばと読みます。全存在の根源としての「ロゴス」を指しています。おそらく日本語に訳するときに、「言葉」という語に「葉」をとり、「言」という漢字を当てて日常の言葉と区別して表現したのだと思います。
「ロゴス」(ギリシヤ語で言葉・理性の意)は、後で明らかになるように、キリストという人格を指していると思います。
「言は神と共にあった」、「言」はイエスですから、ここに父なる神と御子イエスの一体が示唆されています。「言(ことば)は神であった」、はイエスが神性をもつことを述べています。イエスは神と共にあり、神の言葉だということだと思います。神の言葉、なぜ言葉かと言いますと、言葉には言葉を発する人の思いが込められているから、神の思いもエネルギーとなり、無から有を生じさせる力となる。

 

「万物」、というのは、すべての存在だけでなく、すべての現象、すべての出来事を指すと思います。「言によって成った」、というのは、宇宙の創造、歴史上の出来事、キリストの出来事、人間救済、神の啓示、これらはすべて神の働き、神の言葉によって起こった事であるということ。「言」は神の御子イエスであるから、それらは御子を通して造られたということになるから、イエスが父なる神の神的力を受けて自ら創造したということになると思います。

 

「言によらずに成ったものは何一つなかった。」というのは、この宇宙の万物はすべてイエスによって成ったということです。イエスによらずに成ったものは一つもないと言うことだと思います。
「言の内に命があった」というのは、言葉は神の思いであり意識です。
その言葉がイエスですから、イエスこそ人間にとって本当の命(永遠の命、神と共にある命)であるということだと思います。

 

「命は人間を照らす光であった」、というのは、イエスにおいて成った救済(人間を罪の中から贖い永遠の命を与えること)の出来事によって与えられる命こそ、人間に真理を悟らせる光である。人間はこの命に生きてはじめて、永遠に生きる命を体験する。

 

この文は、イエス・キリストこそ永遠の命であり、世の光であるという、このヨハネの福音書の主題を指し示していると思います。
「暗闇」というのは、われわれの住む地球のことだと思います。
この地球は、悪魔と悪霊が神に追放されて閉じ込められたところであります。

 

神がその地球に、神が支配する光の領域であるエデンの園を造り人間を住まわせましたが、人間は神から離れて自己中心的に生きる道を選び(これを原罪といっています)ましたので、人間は神にエデンの園からサタンの支配する神がおられない空間に追放されました。神がおられないところは暗闇で地球を指すと思います。

 

その悪魔が支配する暗闇である地球に、約2000年前に光であるイエスがこられて、人間を罪の中から救い上げる神の御業が始まりました。
つまり、神の御心を実現するためにイエスはこの世に来られて福音を述べられたが、人間は理解せずイエスを十字架にかけて殺してしまいました。

 

福音とは、人間を罪の中から救い上げて天国(神と共に生きる永遠の命に)に
導く神の御業をいうのですが、その救いの御業にあずかるには、闇から光の中に移るにはイエスの約束の言葉を信じるしかないのです。そのことが真実であることを神はイエスを死から復活させることで証されました。

 

<キリスト教は宗教か>
キリスト教は、聖書の神は創造神であり三位一体の神(父なる神・子なるイエス・そして聖霊)で、それは唯一の創造神だと告知します。
ですから、キリスト教は宗教ですが、経典とする聖書は神の言葉ですから真理です。

 

宗教と真理の違いは、宗教は、人間が大いなるものの存在を思い、真理を求めて、自分の思想から導き出した教え(だから祭儀とか行いが重要視される)を教祖と言われる人間が語っているのに対し、聖書は、唯一の創造神がおられることを証しし、その創造神が人となり被造物である人間にこの世界の真理を人の言葉で告知したのを書き留めた書物です。

 

ですから、キリスト教は宗教ですが、イエス・キリストは、キリスト教という宗教の教祖ではありません。イエスは一度もキリスト教の教祖と呼ばれたことはありません。

 

キリスト教の中世での間違いを指摘する人がいますが、あれは聖書を聖典とするキリスト教という宗教を時の権力者が用いて、聖書を統治に都合よく解釈して国を統治し、国を、国民を間違った方向に導いたのです。
これも通常の宗教とは違うところですが、唯一神がおられるからあり得るのですが、キリスト信仰を語るに重要なのは、聖霊の存在です。
聖霊は、聖書が教える三位一体の神のお一人で、神の本性において、父なる神とまったく同じ方です。

 

つまり、霊であること、無限性(永遠性、遍在性)、全能性、自存性、不変性、唯一性、人格性を持ち、聖、義と公平、憐れみと慈しみ、愛、善、真実であられることにおいて、父なる神と同じだということです。
また、聖霊は、使徒言行録2章が告知する聖霊降臨によって、父なる神の働き手としてこの世界に降り遍在されておられます。

 

ですから、この世界に遍在されている聖霊の本籍は「天」で、働きは、第一ペトロ1章12節で「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなた方に告げ知らせた人たちが、今、あなた方に告げ知らせており、・・」とありますが、その聖霊の働きは、創造神の働き手としてさまざまな姿に変化し、いろいろな働きをします。
働く姿とか働き方は、ワンパターンではないようです。

 

なお、宗教とか信仰と言いますと、私たちは集金宗教とか怖いという印象を持ちますが、人間が自分たちは何者で、どこから来てどこへ行くのかわからない、また、天地万物の存在もこのようなすごいものがなぜできたのかわからない、つまり、人間には自分たちの存在を含めてこの世界のことは何もわかっていないのですから、それらが未知である限り宗教心とか信仰心が生まれるのは当然であると思います。

 

キリストの福音は、世界中の人口の40%以上の方が信じています。それに世界の歴史に与えた影響は計り知れません。決して無視できるものではありません。
聖書の神は、言葉をもってご自分を現わされます。
この神の言葉は、聖書ではロゴス(言)とも言い、イエス・キリストを指します。

 

イエス・キリストは、神の言葉そのものなのです。それはヨハネの黙示録1章1節に「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。・・。」とあるからです。
つまり、聖書が記している神とは、あるいはキリストとは、私たちと言葉で直接コミュニケーションをはかられるお方であるということでしょう。

 

ロゴスなる神は、仏さんのように平安で慈悲深いお顔立ちをして、高い所に鎮
座して、ただ黙って見ているだけの物言わぬ像とは違うのです。
実に、私たちに語りかけ、交わり、私たちの祈りの言葉に耳を傾けてくださるお方なのです。その働きをしているのが、聖霊です。

 

<聖書が描く人類救済史の全体像>
聖書は、この世界は、霊的な領域と、物質的な領域に分かれていると教えています。
神は、新しい天地とそこに住む新しい人間を創造するためにこの人間を含む自然界全体を造られ、約2000年前に御子イエスキリストを堕落した人間を救済するためにこの地上に送り、創造の目的を成就するために人類救済計画を開始されました
神の御業の歴史は、そのほとんどは人類救済史だといえます。

 

それは、創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された。」から始まった天地万物の創造から「新しい天地、新しい人類」の創造に至る神のマスタープランで、その流れは、エデンの園における人類の堕罪、神の人類救済の担い手としてイスラエルの選民、キリストの初臨と全人類の罪の贖いのための十字架死と復活から教会時代(現在)を経て、キリストの空中再臨、7年の艱難時代、キリストの地上再臨、ハルマゲドン、千年王国、最後の裁き、新しい天地の創造とそこに住む新しい人間の創造に至る壮大な計画です。

 

なお、キリストの初臨は、約2000年前のイエス・キリストを、教会時代はキリストの福音宣教時代を指し、未来に、つまり、7年の艱難時代の前に来るキリストの空中再臨はこの地上にいるキリスト者の空中携挙で、7年の艱難時代は、堕落した人類社会の終わりに必然的に訪れる時代で、神はその艱難時代をイスラエルの残りの者を用いて、この人類社会の終わりに際し、最後の最後まで一人でも多くの人間を救済しょうとされるのです。
私の感想では、ほとんどすべての人々が救われることと思っています。

 

7年の艱難時代を経て千年王国ですが、千年王国の統治者はイエス・キリストと殉教者で、住民はキリスト者のみとなります。
そして、千年を経てから悪魔が解放され、反キリストが復活し、最後の裁きを経て、黙示録21章1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」で、神の人類救済史ンは終わります。

 

創造主の存在を証しする聖書が語るこの被造世界の「歴史」とは、創造神(聖書の神は日本において呼ばれている神とは根本的に違いますので、この様に呼びます)が展開する被造物全体を含めて宇宙の誕生から終わりまでの一連のマスタープランです。

 

その歴史は未来も含めて最初から終わりまで全能の存在である創造神が計画したものであり、その展開は必然であり、かつ、創造神があらかじめご計画の中で認められていること(悪魔の行動など)以外は、決して変更されることがないのです。

 

前置きはこのくらいで、それでは、神の御業の歴史のドラマを神の人類救済史の観点から聖書にそって想像たくましく描いてみたいと思います。
まずイエスが出現される前の天の状態からです。

 

われわれが住むこの宇宙を含む天は、もともと神である創造神だけが存在する無限の世界でした。
その神は、唯一絶対の神であり、万物の創造主であります。神は、霊であり人格(神格)を持ち、無形で目に見えない存在です。永遠から永遠に存在される方です。もちろん、この神は聖書の神ですけれどもね。

 

その無限の世界には、旧約聖書ネヘミヤ9章6節によれば、「・・天とその高き極みを、そのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものをあなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方。」とありますから複数の天があることになります。

 

この聖句では、天の上に「高き極み」があることになっています。普通その「高き極み」が天国ということになると思います。
そうすればパラダイスはその下だから天にあるということになります。
地と海は地球のことでしょう。創造主である神は無限者であり目には見えませんから場所は特定できません。「有りてあるもの」です。そうです、初めがなく終わりもない、存在そのものです。

 

イエスの使徒パウロの手紙で、新約聖書第二コリント信徒への手紙第12章2節の「・・第三の天まで引き上げられたのです。」とあるのは、宇宙に三つの天があることを示します。第三の天は天国だと思います。

 

パウロがいう第三の天である天国に神は神の名を置きました。それはどういうことかと言いますと、天国は神が創造した有限な被造空間です。対して父なる神は創造主で無限の存在です。無限者は有限な空間、被造物の世界に入れないので、神の御名(新約聖書黙示録13章6節「・・神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」)を被造空間である天国に置いた。御名とは神に代わるもので神その者をいうのでしょうね。

 

つまり、創造主と被造物は絶対に相いれないのです。被造物である人間は、共に生きることはできるが、絶対に創造主である神にはなれないのです。これは当たり前のことですが、大切なことです。

 

被造物は有限の存在ですから無限の存在である創造神を見ることはできません。たとえ天国へ行ってもです。天国も被造空間ですから有限の世界だと思います。時間があるのかないのかどのような有限空間かは分かりません。

 

われわれは被造物ですから有限の世界に生きています。
だから、われわれは死んで天国へ行ってもやはり有限な存在です。無限の存在は神である創造主だけです。

 

天国に行く人は永遠の命をもらえると言うことですが、この永遠という表現は時間の永遠を指すようにとれますが、わたしは天国も被造世界ですから有限の世界だと思いますので、時間があっても時間を感じない世界かも知れません。
天国での命は神と共に生きる命ですからそのように表現したのかもしれません。
聖霊は存在する神の一面です。キリスト教では、父なる神と、聖霊と、神の御子イエスを三位一体の神といっています。

 

聖霊は、イエスが天に昇られた後、残された弟子たちの助け主としてこの地上に送られます。そして、目にはみえないがわたしたちが住むこの世界で、イエスに代わり今も偏在され働いておられます。
この地上でさまざまな働きをしますが、天国からきたのだと思います(新約聖書ペトロの手紙第1の1章12節に「天から使わされた聖霊」と書いてあります。)。

 

さて、いよいよイエスの出現です。霊であるイエスは、悪魔になった天使が神に対抗したとき、天の側、すなわち無限の神の懐に出現します。
そう、出現です。霊であるイエス(肉体をもったイエスは仮の姿です。肉体は地球にいているときだけの姿です。本来の姿は霊的存在です。)には明確な役割があります。それらのことは、次の聖句に書いてあります。

 

「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。・・この人は神から生まれたので罪を犯すことができません。」(新約聖書ヨハネの手紙1第3章8節)。

 

宇宙は暗闇でした。そこに創造神は悪霊たち、悪魔軍団を封じ込め(新約聖書ユダの手紙6節)ました。
さて、そのようなこの宇宙の中に神は霊であるイエスによってこの人間が住む天地を創造されたのです。

 

創世記は、「初めに神は天地を創造された。」で始まります。聖書はこの壮大にして深遠な信仰告白で始まります。
そして、天地創造の物語が続きます。
創造主であり霊であるイエスの「光よあれ」という言葉によって光りを造り、そして、大空よ水の間にあれ、水と水との間に区別があるように、という言葉をもって、宇宙を膨張させ、次に地球を造り、海を造り、植物を造り、人間を造っていき
ました。

 

それらのことを神はイエスによって六日間で、天と地と、その中にある一切のものを創造し、最後に人を創造されました。
そして、すべて造られたものを見てよしとされ、七日目に休まれた、とあります。このように、すべての被造物は人間のために造られたと言うことです。 

 

この壮大な天地創造のドラマはどういう形で造られたかは知りませんが、この言葉は、創造主である神が存在し、天地の実在と人類の存在そのものが神のはじめの業であることを啓示しています。

 

創造の御業の頂点は人の創造であります。神は人だけを神のかたちに創造されました。それは、人を御自身との霊的な交わりのできる対象とされたということを意味すると思います。

 

人の体は土の塵で造られていますが、神の命の息、すなわち神の霊を吹き込まれて生きた者になった。この霊によって、人は神と交わることができる、神と同じ生命に生きる存在となった。現在の人類は、そこから始まっていて、その子孫であります。

 

ところが、人は悪魔の化身である蛇にそそのかされて、「それを食べると必ず死ぬ」と言われていた善悪を知る木の実を食べてしまいました。
それは、神に敵対する悪魔の誘惑に負けて、自ら神であろうとする高ぶりに陥り、己の創造主から離反すると言う根元的な罪を犯したのです。

 

その結果、神との交わりは断たれ、命の元である神との交流が無くなったので、その霊は死ぬものとなり、自らを恥じて神の前から隠れるようになってしまいました。
 
この人の創造と神からの離反は、神話的な形式で語られていますが、これは現実の人間そのものの姿を啓示する言葉であると思います。
この創造物語で「人」と訳されているヘブライ語原語が「アダム」ということです。本来アダムとは人自身のことですから、アダムの姿は人間そのものの姿なのです。そして、わたし自身の姿でもあります。

 

人は背神により、生まれながら持っている霊は、命のもとである神の霊、聖霊と交わりが途絶え、常に人間に注がれていた聖霊は途絶え、神のはじめの業である天地の万物も死の影を宿し、滅びにむかうものとなったのです。

 

つまり、アダムの子孫であるわれわれは自分を造った創造主を知らない状態で生まれ生きている、ということになります。
この状態がキリスト教の言う原罪だと思います。神の人間救済の御業の歴史はすべてこの事実から始まります。

 

この死と滅びの中から、人類と天地万物を救い出して、神の栄光(創造時の御心の達成)にあずかるものとして完成すること、これが神の人間救済史の究極目標になると思います。
つまりそれがイエス・キリストの十字架と復活による救いのみ業ということです。その救いの御業は、今もキリスト伝道の中に永遠と続いています。この働きはこの世が終わるまで続くと思います。

 

凄いドラマです。壮大なドラマです。神の歴史である壮大なこのドラマは、新約聖書黙示録にあるように今あるこの天地の滅びと神の裁きで終わります。創造が始まりなら必ず終わりが来るのは当たり前です。

 

そして、罪を犯した人間はすべて裁かれるのです。死んだらお終いでないのです。わたしたち神から離反した人間は、一度死ぬことと、死んだあと裁かれることが決まっているのです。もちろん、同じ被造物である天使には自由意志がありませんから裁かれることはありません。

 

「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。」(黙示録第22章12節)
そして、最後に、新約聖書黙示録第21章5節に「みよ、わたしは万物を新しくする」とあり、今わたしたちが住んでいるこの地球は滅んで、サタンがいない罪のない新しい人間が住む新しい天と地が創造されます。
今まで書いた壮大な神の歴史は、その新しい天地に住む人間を造るための神の御業でした。

 

<キリストの(空中・地上)再臨と目的>
キリストは、約2000年前に地上に来臨されました。初臨と言います。
この出来事も神の御業であり、人類救済史の中の根幹となる出来事です。
そう、この出来事なくして神の人類救済史はありえないし、キリスト信仰もありません。

 

十字架刑で亡くなられた御子イエス・キリストは、それは全人類の罪(原罪)を負い、その罪の贖いの供え物としてご自身のいのちを十字架の上で父なる神にささげたと告知します。
そのイエスの十字架死は、ユダヤ教の指導者が決定して、ローマのユダヤ総督であるピラトが執行を命じたのですが、その背景には、悪魔の働きがありました。ですから、キリストの十字架刑も悪魔のなせる業だということです。
そして、三日後に死から復活されて悪魔に勝利したことを証しされました。


イエスの復活は、父なる神の御業ですから、そのことで全人類の罪が贖われたことが証しされたことになり、その罪の贖いの現実を全人類に告知するためにイエスは弟子たちにそのことを福音として宣べ伝えるように命令し、天に昇られますが、イエスの代わりに働く聖霊をこの世界に降臨させます。
このことで、教会時代が始まります。

 

今はその教会時代ですが、イエスは、7年の艱難時代が始まる前に再び来られます。このときは地上に降りてこられませんから、これを空中再臨と言っています。

 

その時には、すでに死んでいるキリストの福音を受け入れた人の霊は、朽ちることのない復活の体をいただきます。
同時にまだ地上にいる信徒たちも瞬時に復活の体をいただいて、天に引き上げられてすでに天に召されている兄弟姉妹と再会し一つの群れとなります。
この事によって、この時に地上にいるキリスト者はこれから起こる艱難時代の苦しみを免れることができます。

 

また、7年の艱難時代にキリストを受け入れて、艱難時代を生き抜いたキリスト者と共に千年王国の住民となります。そして、殉教者は、キリストと共に千年王国を統治します。
また、千年王国の前にキリストは、今度は地上再臨されます。

 

千年王国の前にキリスト地上再臨の目的は、
神に逆らう反キリストを打ち破るため御子イエス(黙示録では「小羊」)が、サタンのひとり子、獣と言われる「反キリスト」の軍勢を打ち滅ぼすために天から「すべての聖徒たち」を従えて地上(エルサレムの東にあるオリーブ山)に来られるのです。

 

千年王国において催される、主の真実を記念する食卓(晩餐会)のため千年王国において、地上で小羊の婚宴が催されるとき、そこに艱難時代を通過して救われた異邦人とイスラエルの民とが加わるのです。

 

イエスがかつて最後の晩餐の席で語られたことば、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(ルカの福音書22章18節)

 

このイエスの言葉は、キリストの地上再臨によって、聖徒達が再び、主の食卓を囲むようになることを意味しているのでしょう。(黙示録22章、19章「小羊の婚宴」)
19章9節の「それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている
者たちは幸いだ。と言い、また、これは、神の真実の言葉である。」の「この婚宴に招かれた者」とは、艱難時代に、あるいは、キリストの地上再臨の直前に、イエ
スをメシアとして信じた異邦人とイスラエルの民のことでしょう。

 

「神の真実の言葉」とは、小羊の婚宴に招かれた者は神の真実のことばのあかしであるという意味でしょう。

 

キリストが統治される千年王国が始まる前に悪魔がキリストによって「底なしの淵」に閉じ込める(黙示録20章1節)のです。

 

千円王国の直前にキリスト地上再臨され、神に逆らう反キリストを滅ぼされますが、これはハルマゲドンの戦いと言われていますが、このあとキリストはご自分の王国、千年王国を創設し、殉教者と共に統治します。
千年王国の住民は、栄光の体の者と肉体の体の者が混在しますが、すべてキリスト者となります。詳しいことは、該当の投稿文をお読みください。

 

なお、千年王国の住民は下記の通りだと思います。
艱難時代の前に空中携挙された信者(教会時代の信者も含まれます)、栄光体を持った人たち。
艱難時代に殉教した信者で栄光体を持った人たち。地上の体(肉体)を持った人たち、つまり、福音を受け入れて艱難時代を生き抜いた人たちと、地上の体を持った人たちの子孫です。

 

その他の死者は千年王国が終わるまでは生き返ることなく、千年王国の終わりに神の行いの裁きのためによみがえります。

 

第三章.宇宙の創造から終末
<創造のはじめ>
ここでは神の創造の御業を人類救済史の観点から聖書に沿って記してみます。
創造霊だけの無限界・・神の名は、「在って在るもの」ですが、「在って在るもの」は神の名ではなく、「私はある(私はいる)」を意味し固有名詞です。初めがないのです。
天国の創造・・天国も被造世界です。
創造神は被造世界である天国に入れないから、天国に「神の御名」を置く。
「神の御名」は、どこまでも(人間と)共におられるという神の本質を意味します。

 

神は人間と共におられるという神の本質は、イザヤ書7章14節、同8章8節の「インマヌエル」(固有名詞)という名前で表されています。
イザヤ書7章14節には「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名を
インマヌエルと呼ぶ」とあります。
インマヌエル」の誕生(イエス・キリストの誕生)を預言しています。

 

なお、イエス・キリストが、なぜインマヌエルかは、マタイの福音書1章23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」とあるからです。
インマヌエルは二つの言葉、インマヌ(われらとともにいる)と、エル(神)を組み合わせた名前(固有名詞)で、「神は我々と共におられる」の意味で
す。

 

次に、「神の御名」についてですが、天国は被造世界ですから有限です。無限の神は入れませんから聖書では、天国で神として崇められているのは、唯一の創造神ではなく神の御名(黙示録3章12節、13章6節、16章9節、22章4節他)です。
このように「神の御名」とは、「神さまご自身(実体、本質)」を表します。

 

創造神は人類救済計画を持っておられ、その計画を進めるに際し、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させるよう導きますが、その際ご自分がいつもともにいることを示すために「幕屋」を造らせます。

 

出エジプト25章8節・9節に「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。」です。

 

この幕屋とは、幕で外側を四角に囲った礼拝所ですが、黙示録13章6節で神を「神の名と神の幕屋」と表現しています。
つまり、幕屋は「神の御名」がおかれているところです。

 

神はこのように天国に「神の御名」を置いて、地上では幕屋に「神の御名」を置くと言っておられますから、幕屋にも本物である「天」に置かれている「神の名」がおかれているということになります。
その幕屋を地上に置き、そこで神を礼拝するようにモーゼに命じておられるのです(出エジプト25章)。

 

すなわち、地上の幕屋は天国の雛型であり、天国は、「創造主が設けられた真の幕屋」となるわけです。
人間は、形あるもの、目に見えるものに信頼を置く習性がありますからそのようにされたのでしょうか。

 

天国に置いた神の名を、地上の幕屋に置くのは、「創造主が被造物に(御自分が)認知可能な形で地上に臨む」、ということになります。
しかし、「神の名」を知るには人の目に見えない。信仰が求められます。
御子イエスの地上降臨も、神が人となり人の目に見える形で地上に降りてこら
れたのですから、同じです。
創造神は、偶像礼拝(神の代わりに像を作り拝むこと)を厳禁とされていますが、それは、創造神がわたしたちに思いを伝える方法は、像ではなく直接言葉によるからでしょう。

 

創造神とわたしたちの間に偶像はいらないのです。真の神は偶像などいらないのです。偽物の神ほど偶像を求めます。
日本では、神社からお地蔵さんまで偶像だらけですが、日本人の信仰心(未知なるものを求める)はゆるぎないものがあると思いますから、偶像を拝んでいるということは、真の神がおられることを知らないだけなのです。

 

いつかはわかりませんが、日本人もその真の神がおられることを知るときが来るのでしょう。
その時には、日本人の信仰心に火が付き一気に真の神を崇めるようになると思います。

 

創造神は、天(天国)にご自分の御名を置き、その天の中に天使を造り置きました。
天使は神を賛美する存在ですが、創造神の命により、この地上に降りてきて様々な姿で霊的なことを行います。いわゆる、神のこの地上での働き手です。

 

天使も神の被造物で人間に認められているような、個人的な自由意志は許されていませんから、創造神の命令には逆らえず、奴隷的な存在です。
彼らは、軍隊のように組織されていて、上位者の命令には絶対服従する存在として造られています。
このように、天使は自由を持たない創造神のロボットのような存在ですが、他面,天使は霊的な力ある存在です。

 

彼らは、いろいろな姿を持ち、さまざまな霊的な技をなすことができます。
人の姿をとって人間の前に現れることもできますし、また火になったり風になったりすることもできます(ヘブライ1章7節)。

 

また、天使には、奇跡を起こす権能があり、その権能を用いて創造神のために働きます。
権能は創造神から来ていますので、天使は、創造神の命令と力を受けて、働
くことになります。
と言っても、天使のもっとも基本的な仕事は、天に置かれた神の名を賛美することです。

 

聖書を読んでいると、天とは、天使が四六時中神の名を賛美している、そうゆう空間に思えます。
でも、地上においても様々な姿をして様々な働きをしていることが、聖書を読めばわかります。
天使と言えば、背中に羽が生えた小さな子供みたいな存在が宙を飛んでいる姿が目に浮かびますが、そうではありません。

 

悪魔(悪霊)
神は悪霊を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありません。
悪魔は悪霊の長、天使長ですが、天使長は天使ですから神の被造物ですが、自由意志がないので神に逆らって何もできないのです。

 

悪霊の長である天使長が、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい」と思うようになり、部下の天使に命じて自分の王国を造ろうとしたのが悪魔になった原因です。
つまり、神に逆らったのではなく天使自ら変質して悪魔とか悪霊になったのです。

 

天使も霊的存在ですから、神から離れると神からくるいのちの霊(命の息)を吸収することができなくなり、天使長とか天使は変質し、悪魔とか悪霊となったのです。
悪魔になった天使長は部下の天使の内三分の一を配下に置きました。その配下になった天使が悪霊と言われています。

 

イザヤ書14章12から15節には悪魔の顛末が、「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。

 

かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」と記されています。

 

人間も神から離れたのは天使と同じですが、堕落した原因は、天使と違って人間には自由意志を許されていますから、悪魔に唆されて自己中心的に生きることを(それがどのような結果をもたらすかもわからず)選んだからです。
人間は確信犯ではないから、まだ許されるのです。

 

人は創造神の御心から離れて、自己中心的に自由に生きるようになり、その結果、創造神との交流が途絶え、もらった命の息(霊的、創世記2章6節)も枯れていき死ぬ者となり、今のような悲惨な世界が出来上がったのです。
この聖句で、「明けの明星、曙の子」とは、前身が天使である「悪魔」のことでしょう。
「もろもろの国を倒した者」とは、その配下の天使の軍団を従わせて一時的にせよ神を賛美する天使の一部に打ち勝ち、神の国に自分の王国を築こうとしたのでしょう。

 

「地に投げ落とされた」の地は、創生前の宇宙(私たちの目に見えるこの宇宙)であって、「いと高き者」は創造神すなわち神の名です。

 

「陰府」とは、暗いところ,この場合宇宙です。「墓穴の底」も同様です。
キリストの福音を受け入れないまま死んだ人が行くところです。大いなる裁きまでの一時的な待機場所です。セカンドチャンスの場でもあります。

 

悪魔となった天使
天使はもともと自由意志がないので、神には逆らえないのですが、神から離れた天使は、神との交流ができなくなり力の源泉(命の息・霊的エネルギー)がなくなり、ますます神から離れて神に抵抗するようになります。

 

悪魔とか悪霊になった天使には、自由意志がないから悔い改めの機会も無いのです。
ということは、悪魔も悪霊も自由意志がないから神の許しがなければ何もできないということです。

 

悪魔が人間を唆して神から離反させ、自分に従わせようとすることも、逆に
考えれば、神が悪魔のそのような行動を許されているからできるのです。
ということは、この悲惨な現世は、その結果ですから、神さまの人類救済計画、新しい天地の創造とそこに住む新しい人類の創造というマスタープランの完成には必要なこと、予定されていることであるといえないでしょうか。

 

ヨハネの福音書8章44節では悪魔を「最初から人殺しであって真理をよりどころとしていない。」と言っています。
ですから、悪魔が偽りを言うときは、本性からそういっているのです
ユダの手紙6節には悪魔とか悪霊のことを、「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たち」としています。

 

霊イエスの登場
霊イエスは、天使が神に対抗したとき、天の側、すなわち無限の神の懐に出現します。

 

神によって作られたのではなく、出現するのです。そう、成るのです。
ですからイエスは神の被造物ではないのです。
イエスは、創造神の御子、神の御子ですから彼も創造霊で、永遠無限の過去
からの存在です。
霊イエスには明確な役割があります。
一つ目は「悪魔の働きを滅ぼすため」(ヨハネ1手紙3章8節)です。
二つ目は、「宇宙(暗闇)の創造と、悪霊たちの封じ込め」です。(ユダの手紙6節「大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。」)。

 

ユダの手紙6節の悪魔とか悪霊のことを、「自分の領分を守らないで」と言っていますが、この「自分の領分」とは、神の名を賛美することと神の命令に従って働くことでしょう。

同6節の「大いなる日の裁き」とは、この宇宙が火で焼かれ、被造物がすべて最後の裁きにかけられる日の裁きです(黙示録20章)。

三つ目は、ペトロ2手紙2章4節の「神は、罪をおかした天使達を容赦せず、暗闇(宇宙)という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。」です。

「罪をおかした天使達」は、悪魔とか悪霊をさします。
「暗闇(宇宙)」は、もちろん私たちが住んでいるこの宇宙です。

<天地創造>
前置きは終わりまして、ここからは天地の創造です。創世記1章1節です。
霊イエスは「光あれ」(創世記1章3節)という言葉によって光りを造り、そして、水の中に大空あれ、水と水を分けよ。」
という言葉をもって、宇宙を膨張させ、次に地球を造り、海を造り、植物を造り、人間を造っていきます。

 

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」。(創世記1章1と2節)
聖書はこの壮大にして深遠な信仰告白で始まります。
そして、天地創造の物語が続きます。

 

光あれ
霊イエスは「光あれ」(創世記1章3節)という言葉によって光りを造り、そして、「神は光と闇を分け」られた。(第一日目)。二日目は、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」(創世記1章7節)という言葉をもって、神は、大空の下と大空の上に水を分けさせられたのです。

 

万物の創造
三日目に、「天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所が現れよ」といわれ地ができます。そして、地に食物を芽生えさせます。
四日目には、太陽を造り、昼と夜を分け、星を造ります。
五日目には、水の中と大空のあらゆる生き物を造ります。そして、六日目に
「地は、それぞれの生き物を産み出せ、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ。」と言って、地の生き物を造ります。
そして、最後に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(同26節)といって人を造られます。

 

神は、こうして宇宙を膨張させ、次に地球を造り、海を造り、植物を造り、最
後に人間を造ります。
神は、六日間で天と地と、その中におく一切のものを創造し、最後に人を創造された。
そして、すべて造られたものを見てよしとされ、七日目に休まれた、とあります。

 

天地創造の細かいところとはわかりませんが、創造主である神が存在し、天地の実在と人類の存在そのものが神のはじめの業であることを聖書は啓示しています。
この「創世記」はモーセ五書の一つで、写本が残っているそうです。
モーセは、おそらく幻をもって啓示されたのでしょうが、神話というよりも信じる者にとっては事実を比喩的に表現したものだと思います。

 

この世界は、神の被造世界であることが明確に啓示されています。
そして、言えることは、神がどのような方かというと、それは人間を、天地万物を見ればわかるということです。造った方を知りたければ、造られた被造物を見ればわかります。

 

人間の創造
創造の御業の頂点は人の創造でしょう。だから最後に人が創造されます。
私は科学者でないので、詳しくはわかりませんが、被造世界すべて、あらゆる物の秩序というか法則を見ても人間の存在に最適に作られているように思います。

 

創世記1章26から27節「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」です。

 

神は人だけをご自分にかたどり、ご自分に似せて創造された。それは、人を御
自身との交わりの対象とされたということでしょう。
人の体は土の塵で造られているが、神の命の息、すなわち神の霊を吹き込まれて生きた者になったのです。(創世記2章7節)

 

人間の神との交わり
神の命の息、すなわち神の霊によって人は神と交わり、神と同じ生命に生きる存在であったのです。
現在の人類は、そこから始まっていて、その子孫です。
ところが、人は悪魔の化身である蛇にそそのかされて、「それを食べると必ず死ぬ」と言われていた善悪を知る木の実を食べてしまったのです。創造神の忠告に逆らったのです。

 

神に敵対する悪魔(霊的存在)の誘惑によって騙されたとは言え、背神という根元的な罪を犯してしまったのです。(創世記3章「蛇の誘惑」)

 

人間の離反(的外れ)
その結果、神との交わり(神の命の息、創世記2章6節)は断たれ、人間に内住する霊は活性を失い、自らを恥じて神の前から隠れるようになってしまったのです(創世記3章「蛇の誘惑」)。人間は神に似せて作られたので、もともと霊的存在ですからこのようになるのです。

 

この人間の創造と神からの離反は、預言ではなく神話的な形式で語られていますが、これは現実の人間そのものの姿を啓示する言葉であると思います。
この物語で「人」と訳されているヘブライ語原語が「アダム」です。
本来アダムとは人自身のことですから、アダムの姿は人間そのものの姿なのです。
そして、わたし自身の姿でもあります。

 

人の背神によって神は人と交信できなくなり、常に人間に注がれていた命の息は途絶え、神のはじめの業である天地の万物も死の影を宿し、滅びにむかうものとなったのです。

 

神の御業の歴史はすべてこの事実から始まります。
この死と滅びの中から人間と天地万物を救い出して、神の栄光に与るものとして完成すること、これが人類救済史の究極目標となる。
つまりそれがイエス・キリストの救いのみ業なのです。

 

もちろん、それが黙示録21章の「新しい天と新しい地」、そして、そこに住む新しい人間の創造につながるわけです。
そこに至る道筋が、神の人類救済のマスタープランであり、天地万物の創造、
ひいては人類の創造の御業が最終的に完成した姿だと思います。

 

宇宙は牢屋
聖書では、イエスが悪霊と化した天使達を閉じ込める暗闇を造ったことになっています。
そして、彼らをその暗闇に追い落としています。

 

ペトロ2手紙2章4節に「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。」とあります。
「暗闇」というのは、(この私たちが住んでいる世界も含めた)宇宙を指しますから、宇宙という牢屋の中に罪を犯した無数の悪霊たちが閉じ込められているのです。
そして、悪霊の親分悪魔は牢屋と化した宇宙の牢名主(ヨハネ14章30節の「世の支配者」)です。

 

その悪魔が支配する世である牢屋に、天における「創造霊」イエスは海を造り、空を造り、陸を造り、自然を造り、動物を造り、そしてその中に神と交信できる霊を入れた人間を造ります。

 

なぜそのような最悪の支配する環境の中に生まれたてのうぶな人間を置いたのか。・・それは黙示録21章の「新しい天と新しい地」、そして、そこに住む新しい人間の創造につながるのでしょう。

 

<エデンの園>
エデンの園はどのようなところか。ポイントだけ取り上げて書いておきます。
エデンの園は、自分で苦労して作らなくても、食べ物は豊富で産みの苦しみもない。気候もよく、死もない世界です。そこに住む人間アダムらは、自由意志はあるが、善悪の判断は神にゆだねられます。

 

アダム、イブ、エデンの園。
悪魔の牢屋と化した宇宙に、地を造り、神と交信できる霊を入れた人間を造り住まわせるために、その地にエデンという特別な庭園を造り、そこに人間アダムと、イブ゙を造り置きます。

 

人間アダムには神と交信できる霊を入れられます。
創世記1章26から27節「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」です。
現在の人類は、そこから始まっていて、その子孫です。

 

このように、神(イエス)は、悪霊が閉じ込められた宇宙という牢の中にエデンの園を造り、彼らがその園で暮らすようにされますが、二人は、肉体を着た
善良な人間で、何も知らないうぶな存在です。決して悪霊のように神に逆らっているわけではありません。

 

罪を犯したのも悪魔に唆されたからで、「善悪の木の実」をたべると、それが神に逆らうことになるとは思っていなかったでしょう。
このように二人は無知で善良なるがゆえに、巧妙な牢名主(悪魔)にだまされ罪を犯してしまいます。

 

二人は結局エデンの園を追い出され(創世記3章23節)悪霊たちと同じ罪人となって牢(宇宙)の中で、牢名主と彼の支配下の悪霊(堕落した天使)たちの影響下に置かれることになったのです。

 

宇宙という牢屋(悪魔と悪霊の牢屋、私達が住んでいるこの宇宙)の看守は、堕落した天使である悪魔ですが、イエスは、その天使を通じてアダムとイブに、いつも神を礼拝し神の判断にしたがって行動するように働きかけますが、看守はたまにしか見回りにこないので、その間を縫って、イブは神から「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない。」(3章2節)と警告されているのに、牢名主(悪魔)が「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ。」(創世記3章4節)と、木の実を食べるように誘いをかけます。
駄目だと言われれば、それをしたくなるのが人間です。

 

悪魔は天国で神に対抗して自分の王国を造ろうとして宇宙という牢に入れられた存在です。
そこで看守のこない間にそっと楽園にやってきてイブに自分の支配下に入る結果になるような行動をとるよう働きかけたのです。
いつまでも、神に従っていないで自分自身の判断で善悪を決めてやりなさいよ、楽しいよ、といって。あなたはそのような知恵もあるのですよ、とささやいたのでしょう。

 

でもね、悪魔は人間のように自由意志があるわけではないので、そのような人間に対する唆しも、神が許されているからできたといえます。
もちろんこのような事態になるのは、悪魔が閉じ込められている牢屋(宇宙)にエデンの園を置き、人間を創造し、うぶのままそこに置いたのですから、当然予測できたはずです。

 

それでイブは神の警告を無視して自分の判断で木の実を食べるのですが、イブはアダムにもその実を食べなさいといって勧めることになります。
イブを愛するアダムはイブがそうしたことを知って自分も食べます。
それで、イブらは神の警告を無視したのをきっかけに神の国、楽園であったエデンの園から追い出されます(創世記3章23節)。

 

神から離れた二人は、神の国であるエデンの園では暮らせません。
二人が楽園から追放(創世記3章23節)されたので、住民がいなくなった楽園は消滅します。

 

こうして楽園から追放された二人は、他の罪人(悪霊)達の住む、牢内(宇宙)の寒い空間で労苦して働き、苦しんで子供を産むことになります。
アダムとイブは、神から離れ、事の善悪は、自由意志と自己中心性の性質が支配するようになり、労苦して働き、子供を苦しんで生み子孫が増えていきます。

 

創造主である神の声は遠ざかるばかりですから、人間は自分がどこから来て、どこへ行くのか、なぜ生きているのかもわからないで、牢名主(悪魔)の誘いの声もあり、自己中心性の性質が前面に出て苦しみ生きていくことになります。
その子孫が現在の人類ですが、悪霊たちは今もこの宇宙で跋扈し、我々人類に影響を及ぼし続けています。

 

2000年前のキリストの十字架死と復活で、キリストは悪魔に勝利されましたが、悪魔らの活動はそのまま放置されています。
それで、今でも悪魔らは自分たちの思い通りに人間を従わせようと誘いをかけています。

 

人間には自由意志があり、自己中心性の性質があるので、悪魔はその弱みに誘いをかけるのです。
そのためか、私達が住むこの世界はこのような悲惨な世界になり、もはや自分たちだけでは創造神が望まれる世界は作れなくなっているのです。

 

人間はこのように、この世(宇宙・牢)の中で、創造神と牢名主(悪魔)の二つの声の中に生きている存在ということになります。
その中で、神の御子イエスはこの世に来られ、人間に神と共に生きるように、そして、福音(救われる道を)を告知し、最終的のどちらを選ぶか自分で決めるように宿題が与えられます。

 

すなわち、宇宙という牢の中でも創造主を賛美し、創造主に従うことを第一に
するなら、最終的に牢が火で焼却されても、その霊は天国に引き上げて天国に住まわせるといわれています。
逆に、あくまで創造主を否定し、牢名主(悪魔)の勢力に従って生きるならば、最後には彼らと共に永遠の火の海(地獄)に投げ込むといわれています。

 

エデンの園は神が直接統治されている国ですから、善悪判断は神の仕事です。
そのことを創世記は、善悪の知識の木から食べる(善悪を自分で判断する)と
罪だと教えています。

 

人間アダムとイブは、エデンの園で悪魔に騙されて、神の警告を無視して善悪の知識の木から食べたのです。
人間には自由意志がありますから、悪魔の言葉を選ぶか神の言葉を選ぶかは自由です。

 

しかし、自分で善悪の判断などできないのに、創造主の警告を無視して木の実を食べたい誘惑に負けたのか、悪魔の誘いに乗り自分で物事の善悪を判断して生きていく道を選んだのです。

 

もともと、人間には自由意志が与えられているのと、自己中心性の性質があるので、そのようになるのは当然のことと思われます。
つまり、このような結果になるのは、創造神は、すべてご存じであったということです。

 

<人間の神からの離反と堕落>
人間は創造に際し自由意志を持つことを許されました。それは新しい人類の創造に必要であったのでしょう。
その自由意志に付けこみ悪魔は人間を唆して神から離反して自分に従うように活動しています。

 

そのために神から離れて堕落した人間社会ですが、それは神が悪魔をこの地(宇宙)に落とされその中にエデンの園を置き無垢な人間を置かれたことによります。
悪魔にとって、赤子のような人間を騙すのは簡単です。悪魔は、人間を神の手から離し、自分の支配下に置こうとしているのです。

 

人間が堕落したのは、悪魔の唆しによるのが原因ですが、人間に悪魔を選ぶか神を選ぶかの自由があったからです。創造主である神が、人間に自由意志を与えらなければ堕落はありえなかったと言えます。

 

そうであれば、よく考えれば、人間の堕落は神の新しい人類の創造計画のなか
で予定されていたとも言えます。
だから、神は創造の目的に必要であったから人間に自由意志を与えたと言えないでしょうか。

 

神は、人間が一時的に神から離れて歩むことを許された。しかし、御子キリストの初臨、再臨によって、新しい人類の創造計画は完成に向かうのです。
最終的に人間は、「神の御国」と「地獄」のどちらに行くか振り分けられます。
でも、神はすべての人間が、神の国、天国に入ることを望んでおられます。

 

人間は、新しい天地に生きる新しい人間に創造されるために生まれたので、地獄に送るために創造されたのではありません。
悪魔の存在も、自由意志も、堕落した人間も、救済計画も、神は創造の目的を成就するためには必要なことなのだと言えないでしょうか。

 

<神から離反した人間のその後>
善悪を自分で判断するようになった人間ですが、もともと人間は自己中心的性格で,その上自由意志が与えられていますから、そのことが人間には喜びとなり、最初は創造神との交わりを気にしながら恐る恐る、そして、慣れてくれば神から離反して自己流で善悪判断をすることが多くなります(創世記3章2から5節)。

 

そのような状態が日常的になると、神とは疎遠になりますます神から離れて、とうとう神から受けているいのちのエネルギー(命の息)を吸収できなくなります。
こうして人間が神から離れて勝手に生きるようになり、自己中心性が表に出てきて、悪魔の影響もだんだん強くなりますので、神は、人間を神の国であるエデンの園から追放せざるを得なくなります。

 

神の国では、善悪の判断は神の仕事だということは、善悪の判断は生きていくうえで常に必要なことで、且つ重大なことだということでしょう。

 

人間は神に創造されたのですから、神と同じように霊的存在です。
だから、常に神と交流し「命の息」(創世記2章7節)を吸収しなければ生きていけない存在です。

 

善悪の判断も常に神に伺う必要がありますが、人間アダムとイブの霊は、その善悪の判断を自分でするようになり、神との交流が遠くなり、命の息を十全に吸収できなくなります。それによって、彼らの霊は、不全に陥ります。

 

それで、彼らの霊は、活霊であったのに死霊となり、死んだあと永遠の世界である神の国(天国)には行けなくなったのです。この地上世界だけの命になったのです。
だから、旧約時代の死者はすべて、そして、新約時代の福音を受け入れないで死んだ人々も天国に行かないで陰府(よみ)に行っています。

 

ここで重要なのは、「命の息」ですが、調べましたのまとめておきます。
「命の息」の原語は「ネフェシュ・ハッヤー」、七十人訳では「プシュケー・ゾーエー」と訳されているそうです。直訳は「生きている魂」です。

 

この「ネフェシュ・ハッヤー」は、人間特有のものではなく、いのちある者、生けるものすべての者ということです。

 

「ネフェシュ・ハッヤー」は、創世記2章21節の「肉」 と共に、人間を構成する重要な要素で、「息、たましい、いのち、自身、願望、望み、喉」という意味をもつ非物質の部分を指します。
「願望」「喉」という意味も持っているのですが、「喉」は身体的機能を持つ喉を表
すだけでなく、飢え渇く存在、必要の塊、切望、欲望、旺盛な食欲、外から何かを
得ることなしには生きられない存在、満たされることを常に求める存在を表わしているのではとされています。
つまり、すべての「ネフェシュ・ハッヤー」は、神のように自存できない存在、常に創造神に依存しなければ生きられない存在として造られているということだということです。

 

特に人間の場合は、すべての必要が神によって与えられて初めて生きる者とされたということで、他の被造物と決定的に異なります。
そのことを指し示しているのが、神が人の鼻に「命の息を吹き入れられた。」(創世記2章7節)という事実でしょう。

 

アダムとイブはなぜ腰の覆いを作ったか(創世記3章7節)。
原罪が入る前の二人は、裸であっても恥ずかしくなかったので腰の覆いをつけなくてもよかった。

 

「二人の目は開け」というのは、自分が裸であるのを意識する状態になった、ということでしょう。、裸であることを意識し、恥ずかしくなるのは、神から離反して、自意識(自我)が芽生えたということでしょう。

 

人の意識には潜在意識と顕在意識とがありますが、潜在意識が「霊の思い」で、顕在意識が自我で「知性の思い」となるのでしょう。
そして、その顕在意識に善悪の指針を示しているのが、これも神から与えられた「良心」なのでしょう。

 

顕在意識(知性)が愛せよと言っても潜在意識(霊)が憎しみの意識であれば、愛せない。
人間は潜在意識に支配されていますから、顕在意識が潜在意識を無視して別のことをしょうとすると、その人は葛藤にさいなまれ人格的に破綻します。

 

神の意識との交流の結果は、潜在意識(霊)ですから、その潜在意識である霊の健康状態は、神の命の息(いのちのエネルギーの充電度)によって左右されるということになります。

 

命の息(いのちのエネルギー)は、潜在意識が神の思いで、また霊ですから聖霊の意識となるわけです。
聖霊の与える意識は、ガラテヤ5章22から23節に「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」とあります。


ですから、「霊の結ぶ実」とは、その霊が人の霊(精神)に影響してもたらされ
る思いや行いのことでしょう。
だからこの潜在意識(霊の思い)に反する顕在意識(自我・欲望)が生まれれば人間は葛藤するのです。

 

このように人間は、通常、この二つの意識に影響されながら生きているといえますが、神につながっていない人間は、主に顕在意識に従って生きているといえるのでしょう。
聖霊は三位一体の神の三位格で、創造神から送られますから創造神と同一の
神の霊です。

 

なお、意識と良心について考えてみますと、人の意識には、自分自身に対する意識と周りの世界に対する意識があります。
また、神様から授かっている良心は、この社会を生きていくために、何が正しくて何が間違っているのかを区別する能力です。

 

意識は私というものの存在、人間社会における私の場所を知るために必要ですが、「良心」は、私が、この世界で道徳的かつ社会的に受け入れられる方法で行動できるように導きます。

 

創世記のアダムとイブの腰の覆いで考えてみると、罪を犯す前のアダムとイブにおいても本能、つまり、性意識とか食意識は肉体を持っている以上存在していたのでしょうが、神の意識と潜在意識(霊)が完全に同化しているならば、アダムとイブの意識は神の意識(御霊の実)に完全に従属しているのですから、肉体を持って生きているアダムとイブでありますから性欲が発露するのは当然ですが、激しいものではなく、きっと穏やかなものであったのでしょう。

 

最初、腰の覆いは、「いちじくの葉」でしたが、神は二人をエデンの園から追い出す際に、「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」のです(創世記3章21節)。

 

「皮の衣」ですから、肉体から生まれる動物の欲望(本能)が表面に出るということを表しているのでしょう。
神との交流がなくなるので、神からの命の息が、だんだん薄れてきて、人間の動物的本能が表に出てくることを指しているのでしょう。

 

創世記3章15節「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」とは、その前に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」とありますから、これを受けているので、「わたし」は神で、「お前」は(悪魔の入った蛇)で「女」はイブですから、悪魔の入った蛇とイブとの間に敵意、同時に「お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」ですから、お前(蛇)の子孫(悪魔の入った子孫)と女(イブ)の子孫(イエス)との間に、敵意を置くとなります。
ということで、「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」とは、女の子孫(彼・イエス)は、お前(悪魔の入ったアダムの子孫)の頭を砕き、おまえは、彼(イエス)のかかとを砕く、となります。

 

イエスが女(イブ)の子孫というのは、人間の霊は男親を通じて伝えられる(創世記2章7節で、「命の息」はアダムに吹き込まれた)から、イエスがアダムの霊の資質を受け継ぐ子孫ではないということでしょうか。

 

彼(イエス)は、「お前」(悪魔)の頭を砕き、悪魔は彼(イエス)のかかとを砕くのですから、頭を砕かれた方は致命傷になりますが、かかとを砕かれた方はそれ程ではありません。
この預言は、イエスの十字架上において成就しています。

この預言のすごいのは、この預言を授かった人は、その時にはこの預言の言葉が何を意味するか分かっていなかったと思うのです。

それでも重要な預言だと思って、きっと、そのまま(意味が分からない言葉のままで)残されたのでしょう。イエスの時代になって初めて、その意味するところが分かったのでしょう。

もちろん、イエスと悪魔の戦いですから、イエスを十字架死に追いやった人間(ユダヤ教僧侶ら)の背後に悪魔が働いているということです。

また、黙示録の最後の審判の時に、悪魔と偽預言者と獣(反キリスト)は地獄に送られるのは決まっていますが、そのほかの人間は「彼らの行いに応じて裁かれた。」となっています。

 

これは、そもそも人間が罪を犯したのは悪魔に誘惑されてのことで、人間は無垢であったので悪魔に唆されたのですから、確信犯ではありません。

 

人間は、神から離反して自己中心で生きるようになったので、人間は常に充填される「命の息」が不十分となり、死ぬものとなったのですが、これはイエスの十字架死でその罪が贖われて、イエスの福音を信じる者には常に充填されることになり、生きるものとなったのです。

 

被造物である人間の神からの離反は、神に対しての罪ですから、イエスの十字架でその罪が贖われたということです。
イエス(神は)は、全人類の原罪を、ご自分をささげることによって贖ってくださったのです。

 

もちろん、その恵みを授かるには、神との交流が自由意志のもとで回復されることが必要ですから、このことを真理と受け入れた人間についてのみ、永遠の命を与えるとされています。

 

このことで、悪魔は人間に手をだせなくなるので、これが「頭を噛み砕かれる」に対応するのでしょう。
でもね、現状は、イエスの十字架死と復活で、イエスは人間の原罪を贖い、悪魔に勝利しましたが、滅ぼさないで、おそらく必要だから、そのまま放置されています。

 

黙示録によると、終わりの日の千年王国が終わった後にすべての人々に対し「最後の裁き」があるのですが、その前にサタンは獣(反キリスト)と偽預言者と共に地獄に送られます(黙示録20章「サタンの敗北」)。

 

<ノアの箱舟と大洪水>
われわれ人間は、創世記のアダムとイブの子孫ですが、アダムとイブが悪魔に騙されて、(その意味も分からないで)神との離反の道を選んだので、神の「命の息」が途絶えたためその潜在意識(霊)は不完全なものとなりました。

 

神が直接統治されるエデンの園ですから、神と交信出来なくなったその霊は楽園を去らざるをえなくなります。
天国の雛形であるエデンの園は、本物の天国と同じように、罪が無い者、罪が赦された者しか入れないということになっているからです。

 

原罪(神から離反、的外れ)を負ってエデンの園から放り出されたアダムとイブの子孫は、その後、神から離れて自我と自己中心に生きることになり、その状態で、ますます増え広がります。神から離反し自我と自己中心に生きている人間は、堕落し、罪は蔓延し、神はその人間の姿を見て嘆き、神はご自分の創造時のマスタープランの成就が、あきらめきれなかったのでしょうか、神の言葉に耳を傾け神を信じ生きているノアの家族を残して皆滅ぼしてしまわれます。(ノアの洪水創世記6章「洪水」)
神はノアの家族に希望を託されたのでしょう。

神は、ノアに船を造らせ、そこに彼の家族と、全ての種類の動植物をひとつがいづつ入れさせ、大洪水を起こしてノアの家族以外のすべての人間を滅ぼしてしまわれたのです。
その後ノアの家族は増え広がり、その子孫が今の人類を構成することになります。

<バベルの塔>
創世記の11章です。有名なバベルの塔の話です。
この11章で創世記の最初の部分、歴史が始まる前の神話的記述の部分が終わります。
12章からはイスラエル民族の父、アブラハムという具体的な人物と神との関わりについて記していくという所に入っていきます。イスラエルの歴史に入っていくわけです。

 

さて、このバベルの塔の話ですが、ここまでは、どちらかと言うと人間の罪ということに関して、個人的と申しますか、その人が神に対してどういう関わり方をするのか、神は人間に対してどの様な関わり方をするのかといったことについて述べられてきたと思います。

 

しかし、このバベルの塔の話は、人の名前は一人も出てきません。
また、このバベルの塔の話は、これから人類の歴史が始まる前の段階に置かれています。この物語は、そこに何か大きな意味があると思います。
人類救済史が始まる前に、人類の歴史を総括するようにバベルの塔の話があります。

 

人間の罪は、単に個人の生き方、信仰の問題ということだけでなく、人間が集まって生活すればそこに社会が生まれ、文化が生まれる。その社会あるいは文化というものの中にも罪があるということでしょうか。

 

わたしたちは自分で意識することなく、自分が生まれ育った社会とか文化、環境に決定的な影響を受けています。
その社会なり文化なりが罪に染まっていれば、そこで生まれ育った人間は必然的に、罪を罪と思わなくて罪を犯す、ということもありえます。

 

それらが積み重なって罪にまみれた人間社会は作られた。神から見れば、目的
があって創造し、そのために人間に自由意志を与えたが、それで、人間は自分から離反し自己中心に生きて、人間社会は罪に満ちることになった。そして自分で修復不可能な状態になった。

 

「バベルの塔」の物語は、もともと人間は同一の言葉を話し、統一された集団でしたが、そのために傲慢になり、神をも畏れぬ存在となります。
人間の傲慢を砕くために創造神は人間の言葉を分散しますが、言葉が分散された人間は、当然、同じ言葉の人間が集まりますので、多くの国を生むことになります。多くの国に分散すれば、その力は分散され巨大な悪は生まれないのですが・・。
では、文化に潜む罪とは何なのか。

 

創世記第11章3,4節「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」ので
す。
4節には、「彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。」とあります。
このバベルの塔の話が想定している場所は、メソポタミアで、現在のイラクのあたりだということです。

 

このバベルという言葉も、9節で混乱させるという言葉、バーラルから来ているとされていますが、多くの学者は、これはバビロンを指していると言っています。
バビロンには、大きな石を切り出せる所がありません。
しかし、チグリス川、ユーフラテス川によってもたらされた粘土には事欠きません。

 

調べていて知ったのですが、イラクとかサウジアラビアとか、ペルシャ湾の周りでは、石油がちょろちょろと自然に湧いていて、揮発成分が蒸発して真っ黒なアスファルトの池が出来ている所があるのだそうです。
人々はそれを焼いてレンガを作り、豊富な建築資材を手に入れたのです。

 

この新しい建築材料を手に入れて、彼らは何をしたか。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」(創世記第11章4節)としたのです。
しかし、「天まで届く塔」を立てて有名になる、ですから、それが、当時の社会の風潮であったのでしょう。
レンガとアスファルトを手に入れた人々は、天にまで届く塔を造ろうとしました。

 

そこには、素晴らしい建築資材を手に入れたので、それを使って高い塔を建てて力を見せ付けて、「有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」としたのです。

 

この言葉を読むと、「驕り」とか「傲慢」という言葉が浮かびます。人間の本性にはそういうところがあると思います。高い塔を建てて、自分の力を神に見せつけるのでしょう。

 

人間は、そのもつ傲慢性ゆえに、神になろうとした支配者が何人も生まれたことは歴史が示しています。
統一された言葉をもった人間は巨大な国を、巨大な権力を持つ支配者を持つよ51
うになる。それは傲慢へとつながり、敵がいなければ、神を求めて、自分を神とし、自分の創造神をもおろそかにするようになるのです。
「驕り」とか「傲慢」が行き過ぎると、人間は自分を神のように崇めることを求めます。

 

神は、そのようになるのを防ぐために、いろいろな言葉に分散し、互いの言葉が通じない様にされた。それが、色々な民族、色々な言語が生まれ、多くの国家が生まれた理由だということです。
統一された巨大な独裁国家の支配者は、敵はいませんから、あとは神を求めるしかないのでしょう。そして、自分を神として崇めるように強制するようになる。
言葉が統一された巨大な独裁国家のままでは、人間はますます神から離反し、罪のなかを歩み、やがて修復困難は状態、悲惨な状態を招くのは必然でした。

 

言葉の分散は、確かに、神の裁きでありますが、この裁きは、神が人間を愛する故に、大きな罪(神が介入しても修復不可能な状態)を犯すのを未然に防ぐためになされましたとも言えます。

 

そのようになれば、創造神は創造のご計画を達成できなくなるので、人間社会に介入されたのでしょう。
言葉というものは、単に情報を伝えるだけの手段ではなく、情報と共に、その人の思い、意志を伝える面があります。

 

言葉が通じないというのは、心が通じないということになります。
それは、人間が持つ本性である自己中心のなせることだと思います。
相手を支配し、自分の思いを通そうという思いからだと思います。人間の欲望には、切りがありません。

統一された巨大な独裁国家の支配者は、驕り「神のようになりたい」、と思うようになるのは、必然ではないでしょうか。

これは、個人だけの問題ではなくて、国と国、民族と民族、そういう単位においても同じです。つまり、言葉が乱され、多くの国と多くの民族ができても、人間の本性は変わりません。神は言葉を分散して巨大な悪が生まれないように願いますが、神の思惑が外れて、その後の人類は、悲惨な歴史を歩みます。

 

今でも、無慈悲な殺戮者が生まれています。そういう国家が生まれているのです。
人間をウジ虫に例えて踏み殺すと言っている独裁者もいます。
それで、人間を罪の奴隷から解放するために神は究極の手段をとりました。
それが、神の御子イエスの十字架による、全人類を罪から贖うための御業なのです。

 

言葉が分散されたので、色々な民族、色々な言語が生まれましたが、統一され
た国家の民族よりいろいろな民族・国家に分割された社会の方がキリストの福音、救いの御業の伝道には、よりベターなのかもしれません。

 

すなわち、御子イエスの十字架死と復活、そう福音を延べ伝えることによる救いの御業である福音伝道は、国家から国家ではなくあくまで個人から個人への宣教によってなされるからです。信仰はあくまで個人から個人に言葉によって伝えられるも
のです。決して国家とか一宗教団体ではないのです。
なお、11章1節に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」
とありますが、バベルの塔で人間が散らされたということは、それ以前は単一民族で、単一の言語であったはずですが、その民族はノアの子孫であり、言語はヘブライ語ではないかと思います。

 

<アブラハムとイスラエル民族>
神はアブラム(イスラエルの父祖)を選び、彼とその子孫(イスラエル民族)を通して罪に沈む全人類を救おうとされました。神の全人類救済計画の始まりです。

 

神はそのアブラハム(アブラムを改名)に対し、その子孫を「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(創世記22章17節)と約束をされます。その子孫がイスラエルです。

 

そして、この子孫が形成する民族イスラエルを、以後神の人類へのメッセージの受け皿とするのですが、このメッセージの記録(律法、預言書と歴史書など)を編集したものが旧約聖書ということです。

 

なお、アブラハムの時代は族長時代で、聖書ではアブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されています(創世記12章から36章)。
イスラエル民族はヤコブの子孫になります。

 

イスラエル民族は、奴隷となっていたエジプトから神の導きによって脱出するのですが、その経緯は、族長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されています。(創世記37-50)。

 

ヤコブの末っ子ヨセフは、兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛
ばされながら、夢の解き明かしと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登
りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて飢饉から救います。

 

ヤコブの末っ子ヨセフの一族は、エジプトの地で増え広がりますが、奴隷の身分であったので民の不満は満ち、やがて、王朝が変わったのを機に出エジプトとなります。
その子孫がイスラエル民族となります。
創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記18章20節から19章28節)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32章23から33節)が有名です。

 

<出エジプトと十戒(律法)>
ヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエルの民は、ヨセフが死に、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになります(出エジプト1章1から14節)。

 

そこに、エジプト王室の一族として教育を受けたイスラエル人であるモーセ(出エジプト2章1から10節)が、神から召命を受けて立ち上がり(出エジプト3章1節から4章17節)イスラエルの民を率いてエジプトを脱出し(出エジプト5章1節から15章21節)、神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間荒野のシナイ半島を放浪します(出エジプト15章22節から40章38節)。

 

この40年間の荒野の放浪は、出エジプト時のイスラエルの民がすべて死んでしまう期間ですから、民の罪を清める期間でもあるのでしょう。
これらはすべて神の御心であったとされています。

 

出エジプトの際、エジプト王はイスラエルの民がエジプトを出ていくのを拒否したので、神はモーセをもって数々の奇跡でエジプト王を威嚇し(出エジプト7章8節から11章10節)、イスラエルの民の出エジプトを実行します。

 

それでも必要に追いかけてくるエジプト軍の追跡を逃れるために神は海を二つ
に割ってイスラエルの民を逃がし、追いかけてくるエジプト軍が二つに割った海を渡るときに二つに割った海を元に戻し全滅させるなど(出エジプト13章17節から30節)数々の奇跡で導かれます。荒野では、神は「火の柱、雲の柱」をもってイスラエルの民を導きます。

 

また、荒れ野では民の空腹による食べ物の苦情には、「マナ」を降らせることにより助けられた。
現在も続くユダヤ教の行事、過越祭/除酵祭、仮庵祭などはこの荒野放浪時代の故事にちなむものとされてます。

 

荒野放浪の際、シナイ山でモーセとイスラエルの民は、神から律法の中心的な戒である十戒を授かり(出エジプト20章1から16節)、他にも律法規定として様々な祭儀規定や倫理規定、法律などを授かります(出エジプト19章1節から34章35節)。

 

十戒は偶像崇拝の禁止とか殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定しています。
この十戒を基にして神はイスラエルの民と契約を結びます。このシナイ山での
契約は、シナイ契約と呼ばれユダヤ教の根幹をなします。
神がイスラエルに民に十戒(律法)を与えられたのは、神が人に被造物としての在り方を提示すると同時に、律法(律法)を守ることのできない罪人であることを明確にするためでしょう。

 

それゆえ私たちには救い主が必要なのだということです。
つまり、神は私たちに祭儀でご自分の存在を常に意識させ、律法(律法)で何が正しくて何が罪かを教え、自分が罪びとであることを自覚させ、そして、そのために
やがてこられるメシアキリストを預言し準備するものといえます。

 

ですから、祭儀とか律法の有効期間は「約束を受けたこの子孫が来られるときまで」です。
この「子孫」はキリストで、預言は、キリストは長子、律法では男の長子『初子』を神にささげてなければならない(清めの期間7日が過ぎてから、実際は代わりの小羊、または山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽をささげた。申命記15章19節から23節)とあり、これはキリストの十字架の預言とされています。

 

なお、律法は、御使いたちを通して仲介者の手で定められました。
ガラテヤ書3章17節に「それから四百三十年後にできた律法が無効にして」
は「約束を受けたこの子孫が来られるときまで(到来が約束されている子孫=キ
リストのこと)」とあるように、律法の果たすべき役割には有効期限が設けられています。

 

イスラエル民族に対する神のメッセージは、イスラエル民族の中から特定の人物が選び預言者とし、その者が神の言葉を預かる形で進みます。
出エジプトで活躍したモーセも預言者で、同人を通して神はイスラエル民族に十戒(律法)が与えられました(出エジプト記20章)
それはイスラエルの民に神の民としての自覚と、規律とまとまりを持たせるためでしょうか。。

 

イスラエルの民は出エジプト後、神がイスラエルに与えると約束されたカナンの地に至るまで荒野を四十年にわたり放浪するのですが、放浪の中でイスラエルは、この預言者によって統率され、民族としてのまとまりをもつようになります。

民族の統率は、後に、士師という政治的・軍事的指導者がその役割を担うことになります。

なお、カナンの地の範囲ですが、北はダン (現在のテルダン)、南はベエルシェバ、東はヨルダン川、西は地中海です。
カナンの地に定着したイスラエル民族は、民の求めでやがて王制に進みます
が、その王の二人目の王ダビデは、王であると共に預言者でした。
そして、神はこのダビデの家系から救い主をだすという啓示を与えています(第二サムエル7章14節から16節)。

 

<旧約聖書の成立>
旧約聖書の成立過程を調べてみると、紀元前5世紀には、モーセ5書がユダヤ民族の根本的な成文律法とみなされるようになり、この規範に従って、日常生活・社会生活が営まれるようになったということです。

 

そして、モーセ5書(律法)は、紀元前300年には完全な形をとり、預言書もおそらく紀元前200年までにはおおよそ完成したのではということです。

 

問題は、諸書でしたが、ラビ(ユダヤ教の教師)たちによって西暦100年頃に、当時のユダヤ人の精神的中心地ヤブネで、正典が確立され、以後追加も削除もいっさい行われていないそうです。

 

ですから、時代区分では、旧約時代は、創世記からイエス初臨までの時代ですが、イエスがおられたときは、おそらく律法と預言の書が完成していたと
思われます。そのほかの書は未完成です。

 

旧約聖書の完成過程は、まず、神から預かった預言者(律法と預言の書)の言葉が書き留められ、かつ民に話し伝えられます。

 

その中で、言い伝えとか口伝律法が生まれ、それらが蓄積し、ユダヤ人の中に滞留し、その思想がユダヤ教を生み、ユダヤ人の宗教(ユダヤ教)の教典ということになったのでしょう。

 

先にも書きましたが、律法と預言の書は紀元前200年ころにはほぼ完成、そのほかの諸書は遅れて最終的に完成したのは、西暦100年頃です。

 

なお、ユダヤ人が神に対して過ちを犯したのは、祭祀など統治する人々が、モーセ律法より統治するに都合良く作成された言い伝えとか口伝律法を重視したことに問題があったのではと思います。

 

その流れの中でイエスが現れて新約時代が始まるのですが、イエスはこの旧約聖書(この時に完成していたのはモーセ五書と預言の書のみ)は、そもそもユダヤ人だけのものではなく、地の果てまで述べ伝えるべき、人類全体のメッセージであると教えられます。

 

また律法として、また預言の書として編纂されたこれらの書は、救い主が現れるという預言でもあり、そこで証言されている対象、すなわち救い主は私だとイエスは宣言されます。
そのためにイエスはメシアイエスを拒否する人々によって殺されますが、そ
の教えが旧約聖書として世界中に広まった結果、人類すべてに告知されるようになり、今日にいたっています。

 

<旧約聖書の神と新約聖書の神>
最初聖書読んで、誰もが思うことは、聖書の神でも旧約聖書の神と新約聖書の神は大きく違うことです。

 

旧約の神は、預言者という特定の人間を通してその意志を伝えていますが、残酷な神です。
よく聞くのが、旧約聖書の神は皆殺しの、無慈悲な神だ、新約聖書で語られる愛の
神はどこに行ったのだ、です。

 

神は、全人類を罪から救済のためにイスラエルの民を選び、イエスの誕生を予定する為にイスラエル民族を躾、育てるのですが、そのために神はユダヤ民族の純粋を守り、教育し、必要ならば人間(異邦人、イスラエル民族以外の人)を虫けらのごとく殺し、またそのように命じます。

 

時には皆殺しを命じられます。殺される人間一人一人に対する配慮などありません。本当に全人類を罪から救済しょうとされている愛の神かと疑いたくなります。

 

神はご自分に似せて私たちを造られたと創世記に記載されていますから、神がどのような方かを知りたければ、人間を含めたすべての被造物を見ればわかります。

 

神はそういう方なのでしょう。自然は残酷で無慈悲です。人間もある意味残酷な存在です。
誰かが言っていました。その殺された人間の命は使い捨ての命なのかと・・。
このように旧約聖書の神は、見たところ残酷で無慈悲です。新約聖書の愛の神と大違いです。同一の神とは、とても思えません。

 

しかし、よく考えると、殺された人間が使い捨ての命に見えるのは、人の目から見た見方です。
それでは、神の目から見た見方はどうなのでしょうか。
神の目で見れば、人間の死は、肉体の死であり、本体である霊は死んでいない
から大した問題ではないのかもしれません。

 

肉体は時間が来ればだれでも滅びる仮の住まいです。
人間の本籍は天国にあるという考えです。
しかし、殺され方が残酷であれば、さぞ苦しかったことでしょう。

 

でも、新約聖書で語られる愛の神が本当の神の姿ならば、次ぎの世で、きっとその人たちの魂を癒されているではなかろうか、と思いました。
人間のこの約80年の地上の人生は、永遠の命に生きる人間のほんの一過程に過ぎないのです。しかし、神の全人類救済計画、新しい人間の創造計画の中で必ず必要な過程なのでしょう。

 

黙示録の最後の審判で、人間はその行いで裁くとなっていますが、それは天国に入るためには、生前の行いは清算しておく必要があるからでしょう。

 

それに、「神を愛する者たち」の生前の行いは、ローマ人への手紙8章28節に「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあります。

 

「神を愛する者たち」にとっては、この地上の人生の出来事において、無駄なこのとは、何一つないのです。
参考にイエスの私たちに対する思いを延べた箇所がありますので、登載しておきます。

 

聖書の箇所は、マタイの福音書18章12節「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」です。

 

この聖句を読むと、たかだか80年の現世で(様々な事情があるのに配慮もなく)キリストを受け入れないで死ねば地獄に行くなどという考え方は、どこから来るのでしょう。

 

さまざまな事情のもとに人は産まれ、生き、死にます。
たまたまキリストの福音を知らないとか間違って福音を受け取っていても、その人の責任でない場合がほとんどでしょう。救いが運で決まるのならば、ケセラセラです。
キリストは、最後の一人が救われるまで、この世においても、来世(陰府か)においても何度でもチャンスを与え、忍耐強く待っておられます。

 

<イエス誕生の預言とその後>
イエス誕生の預言は、代表的なところを一つ記しておきます。
聖書の箇所は、イザヤ書53章1から6節です。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」です。

 

<新約時代>
新約聖書にはイエスがこの地上に来られてから、この宇宙が火で焼かれて最後の審判が行われ神の人類救済計画の終了し(創世記20章)、そして、人類社会の最終ゴールであ「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」の創造に至るまで記されています。(創世記21章)

 

新約時代は、神の御子イエス・キリストの初臨、すなわち、約2000年前にイエ
スが人の姿をとって人間社会に来られてから始まり、十字架で殺されましたが、三日後に復活されます。

 

復活を疑問に思う人もいますが、聖書を読んでみますと、新約聖書は「復活」があったことを当然として事態が進行していて、イエスに敵対している勢力も
それを当然のこととして受け止めています。

 

なお、聖書の証言は作文と言われる方は、弟子たちの変化、すなわち、弟子たちはイエス復活以降180度変わり、イエスが命令された福音の伝道活動に命を賭けて挑むことになります。ほとんどの使徒は、残酷な殺されたかたで殉教しているようです。

 

一瞬にして、人を一変させる力は、やはり、イエスの復活を目撃、いや、体験したからでしょう。それも生前に預言されていましたからね。
使徒時代以降にもそのような方が多く生まれています。

 

一瞬にして、人を一変させる力と言えばマザーテレサもそうですね。列車の中でイエスの声を聴き、召命を受け人生が変わったひとりです。
キリスト信仰は、復活なくしてあり得ません。

 

生前イエスは、自ら人間の言葉で、この世界の真理を語られます。
イエスは、人間の言葉でさまざまな教えを述べるだけでなく、自ら十字架に架けられ殺されることによって、人間の原罪の贖いと悪魔の束縛から解放する条件を整えることになります。

 

そのことを伝える言葉は「福音」と言われ、その内容は次の通りです。
聖書の箇所は、第一コリント15章3節から5節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

 

すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」

 

もう一か所は、新約聖書ローマの信徒への手紙1章16節「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力である。」です。

 

イエスの残した言葉(福音)を自由意志の元に受け入れれば祝福され、すなわち、神の国、天国に入れ、受け入れないのならば、神から離れた世界、すなわち、悪霊(悪魔)に支配された呪いの世界のもとで生き続けることになります。

 

今の私たちは、そういう二者択一の条件の下で生きているという思想です。
御子イエスの十字架の死により、すべての人間の神からの離反の罪(原罪・的外
れ)は神によって贖われ、神は人間との交流を望まれましたが、神との交流には聖
霊の内住が必要で、そのためにはその人は自らの自由意志で福音を受け入れるという条件があるのです。

 

神は、そのために使徒をもって忍耐強く個人から個人に時代を経て福音を宣べ伝え、時には裁きを行い私たちが神のもとに戻ってくるのを待っておられます。

 

ここでの問題は、このイエスの福音を受けいれる時期です。
一つは、この地上で生きているうちに受け入れる必要があるという説です。
もう一つは、陰府においても福音を受け入れるセカンドチャンスがあるという説です。

 

私は後者です。なぜ後者かと言いますと、一言で言いますと、その方がキリスト信仰を矛盾なく受け入れることができるからです。
そうでしょう。人間は神に似せて作られた永遠の存在です。その人間の命が、たがが80年のこの地上世界での行いで、それも不公平極まりない世界での行いで決まるのはあまりにも不公平です。

 

教会(あるいは、キリスト者)の仕事は、そのように福音を全世界の人々に延べ伝えることです。
ただし、この教会は牧師がいて、奉仕者がいて、立派な建物があって、厳かな雰囲気で礼拝をおこなっている一宗教法人の教会ではありません。
イエスは、わたしを信じる者が二人いれば、わたしはそこにいるといわれていますから、それが教会です。すなわち、エクレシアです。
マタイの福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。」とあります。
ですから、クリスチャンが二人あるいは三人いれば、それは教会なのです。

 

エクレシアをネットで調べると、「人々の集い」の意味から転じ、キリスト教においては神の呼びかけで人が集まるという意味(教会の字にある宗教の意味の「教え」は入っていない)となる、ということです。

 

今はその時代で、教会時代(信徒がキリストの福音を全世界に宣べ伝える時代)ともいわれています。
それは、この時代が終わる7年の大艱難時代まで続きますが、そこで問題になるのが、その7年の大艱難時代はいつ始まるのか、聖書はどのように預言しているのかを見てみたいと思います。

 

キリストの福音の伝道は、個人から個人ですから、今では教会でなくてもブログとかYouTubeなど多くの手段が用意されています。
事実、多くの牧師とか信徒がブログとかYouTubeで聖書の言葉を発信しています。

 

<キリストの十字架死と教会時代>
聖書は堕落した人間の現実を延べ、同時にその状態からの救いを告知します。
約2000年前にこの地上に来られ、十字架刑で亡くなられた御子イエスキリストは、全人類の罪(原罪)を負い、その罪の贖いの供え物としてご自身のいのちを十字架の上で父なる神にささげられました。

 

そして、神は、自分の過ち、罪を素直に認め、イエスを自分の罪の身代わりになってくださった救い主だと信じる者はだれでもみな罪のない者とみなすと約束されています。もちろん、死ねば天国へ直行です。

 

そして、そのキリストの出来事(福音)を全世界の人間に伝える伝道活動が弟子たちによって始まります。その時代を教会時代と言っています。

 

ちなみに、「教会」とは、建物があって教職者がいて信徒に教えを述べることではなく、教会とはギリシア語の「エクレシア(ἐκκλησία=国のために召集された集会)」の訳語で、「人々の集い」の意味から転じ、キリスト教においては神の呼びかけで人が集まるという意味だそうです。

 

もちろん、教会という言葉には、「教」が入っていますが「宗教」の意味はないということです。
イエスは、キリスト者が二人いればそこにわたしはいる、と言われています。
「福音」とは、ギリシア語で「喜ばしい知らせ」という意味です。英語では、Gospelです。
それは、「イエス・キリストによって、堕落した人類を罪と死から永遠に救い
出す神の約束」です。
その約束が真実であることを、キリストの十字架と復活によって実現し、立証されたのです。

 

福音の三要素という言葉がありますが、それは下記の通りです。
その福音を本当のことだと信じて受け入れた者は④にある通り、永遠の命を得て天国に行けるのです。

 

①イエスキリストは私たち人間の罪のために死なれた
②その後、葬(ほうむ)られた
③3日目に蘇(よみがえ)られた
④上記の事実を受け入れ、イエスを救い主だと信じる者は永遠の命を得て天国に行ける。

 

イエスはこの福音を全人類に延べ伝えるために弟子たちを派遣します。(大宣教命令)
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」です。(マタイの福音書28章19から20節)
簡単に言えば、キリストを宣べ伝える(語ったこと、なしたこと)ことであり、キリストの証人となることです。

 

<イエス・キリストの空中再臨と空中携挙>
7年の艱難時代が始まる前(艱難時代の終わりという説もあります。)にキリストは空中再臨されます。

 

聖書箇所マタイ24章30節には「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」とあります。

 

黙示録20章4節には、「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たち
は、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き
返って、キリストと共に千年の間統治した。」とありますから、その「多くの座」に座っている人は、イエスの空中再臨の際に引き上げられた人を指すので
しょう。

 

また「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂」とありますから、これは、殉教者と偶像礼拝しないで獣の刻印が押されなかった人が復活する
ことを指すのでしょう。
次の空中携挙と関係します。

 

さて、聖書箇所マタイ24章31節には、「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」とあります。いわゆる、空中携挙です。

 

イエスが空中再臨されますと、地上にいる人間のうちイエスの言葉を受け入れて、その霊の内に聖霊が入った人々(聖徒)の体が変容します。
そして、空中に引き上げられて、イエスとともに空中に留まります。

 

その際に地上にいる人々のうち「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(マタイ24章40と41節)。
つまり、二人がいると一人が残されるのです。
この文面から見ると、自称クリスチャンと言われる方でも、半分は神様から見れば似非(エセ)だということになります。

 

テサロニケ1の手紙4章16と17節には、「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られま
す。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」

 

<7年の大艱難時代>
終わりの日の終末に訪れる7年の大艱難をイエスの預言で見ると。
聖書の箇所は、マタイの福音書24章の「終末の徴」の箇所です。
マタイ24章3節はキリスト「再臨の時の前兆」で、マタイ24章5-7節の「終末の徴」の箇所です。

 

聖書の預言は、原則としてその受け皿はイスラエル民族ですが、ものによりその預言が誰を対象にしているかが問題になります。
その預言がイスラエルの民とその周辺に起きているかどうかが直接的な手がかりとなります。

 

・マタイ24章7節と8節「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」
・マタイ24章9から12節「そのとき、あなた方は苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」
・マタイ24章22節「神がその期間(苦難の期間)を縮めてくださらねければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めて下さるであろう。」
・マタイ24章14節「御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に延べ伝えられる。それから、終わりがくる。」。
・マタイ24章16節から20節「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にあるものを取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。」

 

7年の大艱難をダニエル書の預言で見ると。
聖書の箇所は、ダニエル書9章27節「彼(イスラエル)は一週(7年)の間、多くの者(国家)と同盟を固め」ますが、「半周(3年半)でいけにえと献げ物を廃止する(神への礼拝を国家権力で止めさせる)。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。」です。

 

「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすもの・・」の「憎むべきもの」とは、マタイ24章24節(偽預言者)と黙示録19章19-20節(獣はイエス信仰を迫害する連合国支配者、反キリスト。馬に乗った方は再臨のイエス)に対応するので
しょう。

 

偽預言者は悪霊の支援で働くのですが、悪霊も霊ですから、創造神が許された範囲という限界はありますが奇跡を起こすことができます。
ヨハネ1の手紙4章1節は、「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。」、つまり、霊だからといってみな信じてはいけないといっています。

 

7年の大艱難の発生時点におこること
大艱難の発生時点は、イエスが、「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」と言われています(マタイ24章36節)。

 

イエスが、「だれも知らない、ただ、父だけがご存じである」といったのは、ヨハネ17章5節でイエスが、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」とあるからです。

 

このみ言葉は、いま、イエスが地上にいますが、天国にいるときは、創造霊のまま
ですから全知全能ですが、この宇宙(地上)に人の子として肉体を持って来られた際には、その力はすべて天に置いてきているということでしょう。

 

だから父なる神からその力を受けなければこの地上では何もすることはできないのです。
なお、「栄光」ですが、何か創造神から放射されているエネルギーというか、光をイメージします。エネルギーとはすなわち力です。

 

大艱難時代は黙示録では6章から16章に記載されています。
裁きは、「七つの封印の裁き」、「七つのラッパの裁き」、「七つの鉢の裁き」と
三つの段階を経て進行します。
艱難時代は、前半の三年半と後半の大艱難とが合わさった7年間とされています。

 

艱難時代の目的は、神の怒りが満ちて、すべての民族に裁きが下ります。
人間社会が終わりを迎えるに際し、最後の裁きとなるのですが、中心となる目的は、神の民であるイスラエルが最終的に神に立ち返るためであり、そのためにどうしても必要な産みの苦しみなのです。
そう、その苦しみはすべての民族が救いに与るために与えられた産みの苦しみといえます。

 

神は最終的に全人類を罪から救われると思うのですが、その順番は、イスラエルの民が救われて異邦人の救いに導かれると思うのです。
もちろん、教会時代は、後の者が先になり先の者が後になるのですがね。(マタイ
の福音書20章1から16節「ぶどう園の労働者のたとえ」)

 

<ハルマゲドン>
聖書の箇所は黙示録16章14から16節ですが、ハルマゲドンは、戦いではなく「メギドの丘」を意味します。
ハルは丘、ハルメギドは「メギドの丘」という地名だそうです。
この丘に、「全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」(16章14節)と書いてあるだけで、ここで人類最終戦争が起きるとは書いていません。

 

この「全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼ら」の「彼ら」とは、「竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のように汚れた三
つの霊・・これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところに出ていった。」とありますから、悪霊・偽預言者・反キリストを指すのでしょう。

 

<イエス・キリストの地上再臨>
千年王国が始まる直前にキリストは艱難時代を終わらせ千年王国を築くために地上再臨されます。
地上再臨の徴は、聖書の箇所はマタイによる福音書24章29節と30節「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。
そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」です。

 

すでに死んでいる旧約時代の信者とか教会時代の信者、艱難時代の殉教者たち
は、、キリストの地上再臨後に復活します。

 

そして、同31節「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」ですが、この「四方から呼び集める」は、艱難時代を地上で生き残っている信者たちを指すのでしょう。

 

イエス・キリストが、天使たちと携挙されたすべての聖なる者たちを引きつれて、反キリストの攻撃を避けるためにイスラエルが非難したボツラの地に再臨されます。そして、反キリストとの戦いに挑まれます。

 

黙示録の聖書箇所は二か所あり1章7節と8節の「⾒よ、その⽅が雲に乗って来られる。すべての⼈の⽬が彼を仰ぎ⾒る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の 諸⺠族は皆、彼のために嘆き悲しむ。」です。

 

この「嘆き悲しむ。」には、それまでキリストを拒否していた人たちがキリストを目の前にして後悔し嘆き悲しむのでしょう。

 

<千年王国の時代>
聖書の箇所は、黙示録20章1から3節です。
千年王国が始まる前に、御使いがサタン(悪魔)を「底なしの淵」に閉じ込めてしまいます。

 

悪魔(悪魔は悪霊軍団の親分)は千年が終わるまで閉じ込められますが。
悪魔に従って神に逆らった天使である悪霊は、もともと自由意志が与えられていませんから、親分がいなくなれば、命令する者がいなくなるので、動けなく
なってしまいます。

 

人の思い(潜在意識)は、霊がもたらすので悪霊の働きがなくなれば、人はもう悪い思いを抱くことがなくなるのでしょう。

 

そうすると、人の霊は命の息を十全に受信できるようになり、充電度も飛躍的に増し霊は活性化し、病は肉体の病は残りますが、精神的なものはほとんどなくなり、地上に楽園がもたらされます。

 

この千年王国の統治者は、殉教者と7年の艱難のときにイエスの信仰を守って
殺された人たちが復活し、イエスとともに統治することになります。
そして、統治形態はイエス・キリストお一人を絶対権力者とする独裁政権国家です。

 

恐ろしくもありますが、私たちは神の被造物ですから、被造物は創造神の意志に従って生きるしかないのです。それが神の国の姿です。
黙示録20章4節の「多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。」は、艱難時代が始まる前に空中携挙された信仰者だと思いますが、その者も統治に参加するのでしょう。

 

なお、20章6節「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」の「彼ら」とは、イスラエルの⺠で、反キリストの⼤艱難の中で殉教した⼈たちで、
彼らは、祭司となって何らかの裁きを⾏う地位に着くとされています。

 

異邦⼈を多く含む「教会」も、同じく祭司としての務めを果たしますが、イスラエルの⺠とは統治エリヤが違うのでしょう。
イスラエルの民は、世界の中⼼であるエルサレムで、異邦人はそのほかの諸国なのでしょうか。

 

<悪魔の解放と敗北>
聖書の箇所は、黙示録20章7から9節(悪魔、つまりサタンの敗北)です。
キリストが統治する千年王国の千年が過ぎると、悪魔(サタン)はその牢「底知れぬ淵」から解放されます。

 

悪魔が解放され自由に活動することができるようになると、悪霊の命令系統が復活して悪霊軍団が再び地上に住む人たちを反キリストに誘い込む活動を開始することになります。

 

この悪魔と悪霊の解放は、地上の人に対するキリストの福音を受け入れるか否かの最後の試みとなるのでしょう。そう、悪魔の誘いに乗るか否かの試みですね。
なぜこのようなことが必要なのかですが、千年王国の居住者は全員キリスト者ですが、その中には艱難時代を生き残った人々がいます。その人々は肉体の体ですから子供を産みます。

 

産まれた子供は千年王国の統治者がキリストであってもキリスト信仰を当然に、正確に受け継ぐとは限らない、よからぬ思いを描き悪魔の誘いに乗って反キリストに走る者も出てきます。

 

千年王国時代に生まれてもその人は私たちと同じで肉体の体で、罪を犯す性質(自由意志と自我)を持っているのですから、十分に考えられます。
つまり、この最後の試みは、千年王国に肉体で住む者の(キリストの福音を受け入れるか否か、あるいは、真のキリスト者であるか否かの)試みだといえないでしょうか。

 

悪魔らが敗北する姿は、黙示録20章9から10節「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。
すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」

 

同11節「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。(宇宙の消滅)」。同21章1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。(新しい天と新しい地)」です。

 

<最後の裁き>
聖書の箇所は、ペトロ2手紙3章7節「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。」

 

つまり、この私たちが今見ている天と地は、やがて宇宙消滅の時、火で滅ぼされるのですが、その時には、地上で肉体のまま生活していた人間は、裁かれた後、その肉体が焼かれて死に、霊になります。

 

他方、それまでに死んだ人々の霊の内、イエスの空中再臨のときに復活した人(キリスト者)以外の霊は、霊のまま「陰府」にいます。

 

それで、最後の裁きが始まるのですが、それらの人々が復活の身体(どのような身体かは聖書には記載なし)を着て蘇って、裁きの場に出されます。
その裁きは、天国に行く者と火の池(地獄)に行く者との仕分けをする裁きです。

 

この裁きがなされる方式は、「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方(創造主)を信じる(すなわち創造主を知ること)者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(裁きの免除)。」(ヨハネの福音書5章24節)です。
これはイエスの言葉ですが、「わたしの言葉」はキリストの福音で、創造主を知るは、「わたしをお遣わしになった方」を知る、つまり、イエスを遣わされ
た方を知ること、すなわち、その方が「自分以外の万物を創造した存在」であることを銘記することです。

 

また、イエスの教えには、創造主とイエスが一体であることが含まれていますから、父なる神と子なるイエスのどちらを先に知ったらよいかという問題がありますが、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方(創造主)を信じる(すなわち創造主を知ること)者」ですから、イエスが先なのでしょう。

 

つまり、イエスの福音を聞いて創造主を知るのです。
でも私は創造主である神の存在を知りイエスを知りました。両者一体ですから、どちらが先でもよいのではないでしょうか。

 

さて、いよいよ人類社会は終わりに近づきます。
被造物は、その生きてきた行いを清算する必要に迫られます。
キリストが統治される千年王国(メシア王国)が終わると、千年王国の始まる前に「底なしの淵」に閉じ込められた悪魔が解放されます(黙示録20章7節)

 

同時に千年の間眠っていた反キリストも復活します。
悪魔に唆された反キリストが「聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだとき」、「天から火が下ってきて」、彼らは焼きつくされ、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれます。そこには、「あの獣と偽預言者」がいます。

 

最後の裁きは、キリストの福音を受け入れていない、死と陰府にいるすべての死者たちが裁かれるのですが、そのさばきは、「行いに応じて裁かれる」となっています。
行いは生前の行いで、わざわざ行いに応じてとなっていて、原罪は除かれていますが、それは、キリストの十字架死ですでに全人類の罪は贖われたからということでしょう。

 

わざわざ行いに応じてと特定されていますので、少し引っかかったのですが、普通に考えれば、人間の罪は、神から離反して自己中心に生きている罪とその結果起こる堕落、すなわちこの地上世界での行いの罪があります。

 

神から離反する罪、原罪はすでにキリストの十字架死で贖われ(キリストの福音を受け入れる必要がありますが)ていますから、あとは地上での行いの清算が求められることになります。

 

この世界の出来事は、すべて神の創造の目的に必要なことで、神はすべてをご存じだと前に書きましたが、そうであればなぜ裁くのかと言われそうですが、それは義である神には、たとえご計画の中の出来事だと言え、堕落した人間を裁かないで放置することはできないということでしょう。

 

それは、新しい人間の創造には必要なことなのでしょう。
この行いの清算は、福音を受け入れた者は、地上での命が終われば即天国に行きますので、この行いの裁きは、福音を受け入れていない人が対象になるように思えるのですが、先に書きました、ヘブライ人への手紙9章27節のパウロの言葉「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように。」では「人間には」となっていますから、そういう福音を受け入れている、受け入れていないにかかわらずすべての人の行いを裁くとも取れます。

 

福音を受け入れた人は「行いの罪」を裁かれないとすれば、福音を受け入れた者はその罪をも赦すということでしょうか。
ただ言えることは、福音を受け入れた者には、神の御霊・聖霊が内住しますから、そのことによってその人は、内から造り変えられるということになりますので、行いの裁きは必要ないとも受け取れます。

 

しかし、生前の罪の清算はすべての人に課されると思うのです。
行いを裁くと言っても行いには良い行いもありますから、報いと言った方がよいかもしれません。

 

ただ、陰府で何度チャンスを与えても、あくまでも神を拒否する人は、そういう人は、神の国では必要はないし、神の国に招かれても、さぞ、住みにくいこ
とでしょう。

 

そういう人の名は、「命の書」(黙示録20章)に記されていないのでしょう。
福音を受け入れた者は、罪のない義人だと認められているので、つまり罪が赦されている(罪がなくなったのではない)ので、死後その人の霊は、キリストがおられる楽園(パラダイス=天国)とよばれるところに招かれます。
だから、キリスト者の国籍は天国にあるということでしょう。

 

<裁かれない者>
聖書の箇所は、黙示録20章6節「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの
祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」です。

 

この「第一の復活にあずかる者」は、裁かれない者ですが、裁かれない者の一つは、「第一の復活にあずかる者」、すなわち、再臨のときに復活した人(黙示録20章4節)は第二の死は何の意味もない(黙示録20章6節)のです。

 

この第二の死とは、黙示録20章14節の最後の審判で「火の池(地獄)に投げ込まれる」ことです。
裁かれない者の二つ目は、悪魔、獣、偽預言者です。(黙示録20章10節)。
この三者は、地獄行きが決まっているので裁く必要がない。

 

悪魔は宇宙が消滅するとともに火の池(地獄)に投げ込まれるから裁きはない。獣と偽預言者は、千年王国が始まれる前にすでに火の池(地獄)に投げ込まれている(黙示録19章20節)。

 

裁かれない者の三つ目は、生前に福音を受け入れてイエスを信じた人(ヨハネ3章18節)です。

 

裁かれない者の四つ目は、イエスに直接福音を語られて信じなかった人は裁きがなく火の池(地獄)に直行(ヨハネ3章18と19節、ヨハネ12章47と48節(言葉が裁くとは裁きをパスすること))です。
「神の独り子の名を信じていないから」すでにその時点で「既に裁かれている。」のです。

 

<聖書は不公平か>
それでは、前節に書いた「裁かれない者」以外の人、つまり、福音を知らないで死んだ人です。
生まれた環境など何らかの事情で福音に出会う機会がなかった、伝え方が間違っていたとかで誤解していたとかで、キリストの福音を知らないまま死んだ人などは、どうなるのでしょうか。

 

そういう人は裁かれないとは書いていないので、みな裁きの場にだされるのでしょう。
それは、黙示録20章12節「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」の「死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。」に該当する人々でしょう。

 

そういう人たちは(生前の)行いに応じて裁かれるのです。
わざわざ裁くのですから、地獄に行くとは決まっていません。決まっているならば、悪魔のように裁く必要はなく、即、地獄に送れば良いのです。
その人の責任によらないで、また、キリストを知る機会がなく福音を知らないで死んでしまったのなら、行いを裁くしかありません。
人間が天国に入るのには、生前の行いを清算しておく必要があるのでしょう。

 

イエスの言葉を信じた人(命の書に名が記されている人)は救われて、残った人は、火の池直行便ではなく、生前の行いに応じて裁かれるのです。
どのような裁きになるかは不明(黙示録20章12から15節)です。
こういうわけで、私は地獄に行く人は、何度も救われるチャンスがあったのにあくまで拒否した人、つまり、確信犯だけだと思っています。

 

<新しい天と新しい地>
いよいよ神のマスタープランの完成です。
黙示録21章に次のように記されています。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降ってくるのを見た。・・「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎさったからである。」」

 

<終わりの日>
聖書の箇所は、コリント1の手紙15章24「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」です。

 

そして、同28節には「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」とあります。
すべての者は、最終的に神に帰るのです。

 

第四章.創造主の意志と法則
ここでは人類の歴史の全体像でなく、神様の意志、つまり法則について書いてみます。


<被造物は法則に従って生きている>
わたしが日常生活で思うことは、わたしの友人も知人も宗教というとなんだか敬遠するのですね。わたしがキリスト教を信じていると誰もが分かっていますが、キリスト教について誰も質問してきません。

 

きっと、誰もが宗教というだけでなんとなく信用できない怖いような、あるいは不気味な感じを持っているのではないでしょうか。できたら関わりたくないと思っているのでしょう。

 

事実、若い時のわたしがそうであったからです。宗教というと身構えて、何か恐ろしいものにでも触るように用心しましたね。何も分かっていないのに、何も分かろうとしないで先入観みたいなものがありました。どちらにしても別世界の、自分には関係のない世界だと思っていました。

 

それは、きっと、宗教には、非日常的なところ、つまり慣れ親しんだ日常からかけ離れたよく分からないところがあるからでしょう。それも中に入ってしまえば日常のようになってしまうのですがね。でも、これは当然です。だから宗教なのですから。現世を生きる人間にとって、非日常性がない宗教なんて宗教とは言えません。

 

非日常があるから日常がある。旅行は非日常です。旅行に出かけると気分が開放的になり、いつもと違う何かあるかも、という何か分からないけれども一種
の期待感をもつ。このように日常を破るものがなかったら、決まり切ったこと
の繰り返しである日常生活は今よりももっとつまらないものになるのではないでしょうか。

 

非日常である宗教がなぜあるのか、それは、自分がどこから来てどこへ行くのか、自分は何者で、何ゆえ今ここに存在しているのか、わたしたちは自分のことが何も分かっていないからではないでしょうか。それになぜわたしたちはそのようなことを考えるのでしょか。犬や猫はおそらくそのようなことは考えていないでしょう。

 

この世の真理を求める気持ちは人間であれば誰にでも具わっていると思うのです。それはわたしたちがそのように造られているからだと思うのです。

 

この世があるから来世もある。来世を思う心が与えられているから来世を考える、と思いませんか。人間は経験もしないこと、教えられもしないことは考えもしないはずです。この世に、あるいは自分の存在に意味目的を求めるのも、やはりこの世に、あるいは自分の存在に意味目的があるからだと思います。

 

人間は、見たところ肉体だけの存在です。わたしは、この肉体は不思議な力、これを「霊的生命体」と呼んでもいいのでしょうが、こういうものに支配されていると思っています。

 

そうでしょう。野菜とか肉とかを食べると、それが血となり肉となる。なぜそうなるのかその仕組みは誰も分からない。まさしく奇跡です。そうして形成された手や足や頭や臓器などの集まりがなぜ思考力を持ち心を持つひとりの統一した人間となって、いわゆる生きるものとなるのか。その意志というかエネルギーが生命力というならば、その生命力の源泉はなんだろう。霊的生命体ではないかと思っています。肉体をいくら集めても生きる者とはなりません。フランケンシュタインのようにです。

 

種を蒔けばなぜ成長して木となり実がなるのでしょうか。人間は、水をやり手入れをして世話をしているだけです。種を成長させて下さるのは・・・。
人間の肉体が形成されるのも奇跡ですが、肉体がなぜ人間として統一した生き物となるのでしょうか。そうでしょう。車を作ってもそのままではただの金属の塊です。ガソリンを入れて人間がエンジンをかけるから動くのです。肉体も一緒だと思います。

 

それに、なぜわたしたちの目には見えないのに霊的生命体があると思うのでしょうか。まさになぜなぜの連続です。誰も答えられないでしょう。
ひょっとするとわたしたちは井の中の蛙で、この宇宙にはわたしたちが知らな
い想像を絶する別世界があるのかもしれません。

 

食物連鎖にしても、宇宙の仕組みにしても、人体にしても余りにもよくできすぎています。それらのことに接するのは日常だから不思議には思わないけれども、よく考えると分からないことばかりです。

 

わたしは人間を含めすべての存在に一定の法則があると思うのです。この宇宙のすべての物体は重力の法則に支配されています。宇宙を宇宙ならしめている法則、つまり、物理定数というものがあるように我々の中にも我々を動かしている法則がある。それは誰でもが持っている、良心とか道徳、つまり人間性の法則と言われているものだと思います。地上に住むすべての人間は、ある特定の仕方で行動すべきという統一した考えをもっている、ということです。

 

そして、それらの法則で説明できないことは、わたしたちがまだ発見していない法則が存在していると言えないでしょうか。

 

なお、ここで道徳というのは、本能ではなく、諸本能を指揮して善行とか正しい行為をさせるものと考えています。
これらを不思議と思いませんか。法則の背景に何かの意志が働いていると思いませんか。もしすべてが自然発生的にできたものならば法則なんて無くてもよいのではないでしょうか。それらの法則は、人間を含めたこの宇宙を司るためにあると考えられないでしょか。その法則の背景にある意志を聖書では神といっています。

 

<人間は法則に逆らって生きている>
ここまでは、この世の人間を含めた被造物すべては何らかの法則によって存在していると書きましたが、もうひとつ言えば、人間以外の存在はすべて法則に従って存在していると思います。ところが人間のみその法則に逆らって生きていると思いませんか。

 

道を歩いていて、困っている人を見かけるとわたしたちは助けなければと思いますが、反面関わりたくないという思いもあります。ほとんどの人は見て見ぬふりして通り過ぎます。これは良心という法則に逆らっているのです。
こうすればよいと分かっているのにその通りにできない、それがわたしたちの日常です。それを聖書では罪(神との離反)の結果だといっています。

 

人間は重力の法則のように、ほかのものと共有している法則には従わざるを得ないが、人間は他の動物が持っていない固有の法則、つまり、良心とか道徳、つまり人間性の法則と言われているものについては従いたくなければ従わなくてもよい自由がある。
現実にはこの人間性の法則を完全に守っている人はこの世界に一人もいないと思います。

 

人間以外の存在には法則に従うか否かの選択権はないと思います。人間以外の存在は、造られたままに生きる、本能のみで生きていると思うのです。
おそらく人間のみ人間性の法則に従うか否かの選択権があると思います。
つまり、自由意志があるのです。それが人間を人間ならしめているものだと思います。
この人間性の法則(正邪の法則ともいいます。)は教えなくても誰でもが知っている。これも不思議ですね。教えなくても経験しなくても知っているのです。

 

それも世界中のすべての民族は共通したものをもっています。その法則を、わたしたちが好むと好まざるにかかわらず信じているのです。
そうでしょう。良心に違ったことをしたときに、そのことを誰かに指摘されると、たちまちわたしたちの心には言い訳が続々と無意識のうちに浮かび上がってくる、という現実があるのです。

 

その言い訳は、けっして筋が通っているとは言えなくてもです。それは、わたしたちが法則を好むと好まざるにかかわらず強く信じていることの裏付けとなります。

 

逆に、もしわたしたちが正しい行為というものを信じていないとしたら、間違った行為をしても平気でいられるはずなのになぜむきになって言い訳をするのでしょうか。

 

聖書では、人間は霊的存在とされています。つまり、霊的存在である神と交信できる存在です。人間は、もともと生れながら霊は持っているのですが、その霊は神と交流し、常に聖霊というエネルギーをいただかなければ死んでしまう存在です。霊は創造主である神から来るものですから、人間は神と常につながっていなければ生きてはいけないのです。

 

ところが、人間はアダムのときに神の命令に背き、神によりたのまず自分で生きるようになりました。神との交わりがなくなり、霊的エネルギーの注入が途絶えた人間はそのままでは死ぬべき運命となる。

 

その人間と神との関係を復活させ再び霊的生命体を人間に注入するためにこの世に来られたのがイエス・キリストなのです。
だから、イエス・キリストを知ることは、永遠の命を得ることなのです(ヨハネの福音書第17章3節)。来世での復活が約束されることなのです。

 

では、その霊的生命体である聖霊の働きはどんなふうに与えられるかと言いますと、聖霊は命の源泉でありますが、働きは、具体的には、聖書の言葉を耳で聞き、目で読みそして祈る人に働かれます(ルカの福音書第11章第9節以降)。
そして、聖霊は肉体の奥深くに内住し、その人の潜在意識を支配されます。

 

聖書の神は今も昔もこの宇宙ができた時からわたしたちの背景で休みなく働かれているのです。旧約聖書の時代は、預言者など選ばれた個人に対して、新約聖書の時代、つまり現在は全世界に遍在される聖霊を通じてすべての人に働かれているのです。

 

また、最終的にどのような創造の目的があるのかは知りませんが、神の創造の目的を実現するために、神は人間にこうあってほしいという法則を被造物であるわれわれの中に埋め込まれました。その法則に逆らったのが人間です。

 

その断絶した神と人間を和解させるために神の子イエス・キリストは人間となってこの世に来られたのです。
おそらく人間が法則に逆らうことは創造の初めから神はご存知だと思います。それもこれも神の御業の中でなされていることで、神から見れば織り込み済みのことだと思います。

 

この世で起こっていることはすべて神が許されていることです。それは、創造の目的を実現するための必要な段階だと言えます。
そういう意味で、神から見れば人類はいまだ未完成ということです。その答えは、来世にいかなければ分からない。聖書で開示されていることもありますが、隠されていることも大いにあると思います。

 

いろいろと書きましたが、それらのことを解決しょうとすれば、科学ではできないと思うのです。宗教しかないと思うのです。この投稿文に書いた不思議なことを理性で解決しょうと思えば、宗教、それもキリスト教しかないと思います。わたしは、他の宗教のことについては、無宗教の人達と同じ程度のことしか知りませんが、今までに聖書を学んだ上でそのように信じています。

 

第五章.神の民の歩みと聖霊
神の人類救済計画の中心となった神の民イスラエルの歩みと、神の救いの御業、キリストの十字架と復活、神の民の歩みとエクレシアを聖霊の働きと共に取り上げてみたいと思います。

 

<神の民の歩み>
最初に蛇足ですが、人間は、神に創造された被造物です。
ですから被造物は創造の目的に沿って生きることが求められています。それが一番幸いであるはずです。
ところが神と共に生きることを求められている人間は、悪魔の誘いに乗って神から離反して生きることになります。

 

人間には自由意志が与えられていますので、当然自己中心的性格を有しています。その結果、現在は派生し、ふくらみ人間社会は悲惨な状態にあるといえます。

 

そう、神から離反という原罪がありそこから派生して、あらゆる罪が生まれるという設定です。
でもね、この人間が住む地球を含むこの宇宙は、悪魔と悪霊の牢獄として神が閉じ込めたところなのです。そこにエデンの園を造り出来立ての何も知らない人間に自由意志と自我を持たせて置いたのですから、悪魔に騙されて悲惨な状態になるのは目に見えています。

 

神は、その人間をそういう状態から救済して新しい天地を創造し、そこに神と共に生きる新しい人間の創造を計画されています。
こういうわけですが、私はこの人類の堕罪と、救済計画、そして、新しい天地の創造と新しい人間の創造の計画を見ると、これらのことはすべて創造神の出来レースのような気がします。

 

新しい天地の創造とそこに住む新しい人間の創造のために必要であるから、堕罪があり、人類救済計画が計画されたのではないかと思うのです。
そして、人間に自由意志と自我を与えたのもそのために必要であったからだと思うのです。

 

そういう意味で、私達の本籍は霊界(天国)にあってこの地上世界は必要があって設けられた仮の世界だと思います。ですから、神の目から見れば両世界は一体です。

 

神の人類の救いの御業も、霊界だけとか現世だけの出来事だけをとらえて判断するのもおかしいと思うのです。
神の人類救済史は、最初、神がイスラエルの歴史の中で約束してこられたことですが、キリストにおいて成し遂げられます。

 

それは、約2000年前に神の御子イエスキリストは、イスラエルの地に人として生まれ、私達の罪を贖うために十字架で死に、彼に属する者たちの救いの御業の初穂として三日後に復活されました。
この出来事に裏で働いている勢力は悪魔で、イエスの十字架は、悪魔の人類救済計画の破壊、イエスの復活は、神と悪魔の戦いで神の勝利で、人類救済計画の完成と言えます。
このキリストにおける神の決定的な救いの御業と救いの約束を告知するのが福音です。

 

復活されたキリストは最初ユダヤ人の中から十二使徒を選び、その者と生活を共にし、福音を延べ伝え、聖霊の力を与えて復活の証人として全世界に遣わし、彼らによって全人類に福音を宣べ伝えるように命令されました。

 

その福音伝道は人から人へと時代を超えて受け継がれ、今日に至ります。
全世界の人々の三分の一がキリスト者で、聖書は世界のベストセラーです。福音を詳しくは知らなくても、聖書とキリストを知らない人はいないでしょう。

 

この福音を信じてキリストを告白する者に神は約束の聖霊を与え、御自身に属する者として証印し、その者をもって新しい神の民を地上に形成されます。これがエクレシアです。

 

このようにエクレシアとは、福音によって呼び集められた終末時のキリストの福音という真理を宣ベ伝える神の民の集まりです。
普通、教会と訳されていますが、皆様が街の中で見かける大きな教会堂に十字架が立ち、聖職者がいて奉仕者がいて毎週日曜日に礼拝が行われる教会堂ではなく、ただ、神の民の集まりを指します。

 

だからキリスト者の集まりは、キリスト教という宗教団体の集まりではないのです。そういう意味で、キリスト教は宗教ではありません。

 

神の命により神の真理、福音を宣ベ伝えるために神によって集められたキリスト者の集団です。

 

教会時代は、この新しい神の民によって、もはやイスラエルのユダヤ教の枠(律法)を超え、ユダヤ教徒と何の関係もない異教の諸民族(異邦人)によって形成されることになります。

 

神の人類救済のご計画は、イエスキリストがこの地上に来られてから、イスラエルの民からキリストの弟子である十二使徒、そして、その弟子に引き継がれ、最初は、ユダヤ教の一派として出発したキリスト者の団体はやがてユダヤ教から離れて、独立します。
イエスが預言されてきたメシアであることを否定して十字架につけた後のイスラエルの歴史は、それからも救済者メシアの出現を期待して、またローマへの武力反抗
が続き、ついに紀元70年にローマの軍勢によって聖都エルサレムと神殿が徹底的
に破壊され、ユダヤ人は全世界に離散します。

 

その後、紀元1948年にイスラエル国家が生まれるまで、ユダヤ人の国家はなかったのです。

 

エルサレムがローマにより崩壊するまでの約四十年のキリストの使徒(ユダヤ人)たちは、イエスの福音伝道命令に従い、福音をローマ世界に宣べ伝えて、やがてキリスト者がローマの人々の半数を超えて、ローマ帝国の国教となります。

 

このように、この四十年は、古い神の民イスラエルから新しい神の民エクレシア(キリスト者の集まり・教会)への人類救済計画の引継ぎの時期であったと言えます。
そして、救済史のバトンをイスラエルからエクレシアに渡したのは、選ばれたイスラエル人である使徒たちであり、中でも特に異邦人への使徒として選ばれたのがパウロです。

 

このように、キリストの出現を境として、救済史の担い手はイスラエルからエクレシアに引き継がれました。
神の御業は、神の栄光と恩恵はエクレシアの中で、そのエクレシアを通して世界に成し遂げられるのです。

 

神の人類救済史は、イスラエル民族に代わり異邦諸民族から成るエクレシアによって担われているのです。
これを聖書は「異邦人の時」と呼んでいます(ルカ21章24節)。
このように、キリスト教という宗教団体がエクレシアではないのです。

 

キリスト教という宗教団体が聖典としている聖書が告知する福音を信じる者の集合体がエクレシアなのです。

 

このように、イスラエル民族は、ローマとのユダヤ戦争で紀元70年にエルサレムは破壊され、民は世界に離散し国家を失った民族ですが、イスラエル民族に対する神の選びと真実は変わることなく、イスラエルが神の憐れみを受けて救われる時が必ず来ると聖書は告知します(ローマ書9章から11章)。

 

人類救済史は、イスラエルの時とエクレシアの時(異邦人の時・教会時代)を経て、最終的に神の憐れみと愛を得て、まずイスラエルに、そして全人類に完成するのです。

 

<聖霊の保証と営み>
神の人類救済計画の完成に欠かせないのが聖霊です。三位一体の神の三位格です。
イエスが天に昇られ代わりに聖霊がおりてこられて、この地上世界で御子キリスト
の代わりに働いておられます(使徒言行録2章「聖霊降臨」)。
エクレシア(キリスト者の集まり)を形成するのは福音の言葉と聖霊の力です。

 

宣べ伝えられた福音を信じ、主イエス・キリストの御名を告白する者に、神は御自身の霊、聖霊を注ぎ内住させ、御自身に属する者であると証印されます。
また神は、聖霊によって復活者キリストを啓示し、人々を信仰に導き(信仰は神の賜物と言われています)、福音を受け入れ、復活者キリストと結ばれて生きる者たちが形成する群れ、それがエクレシアです。

 

教会ではキリストの福音を受け入れた者は、水のバプテスマを授かりますが、水のバプテスマが人をエクレシアに加えるのではなく、復活の主キリスト御自身が授ける聖霊のバプテスマ(聖霊の働きの一つ)が、人をエクレシアの一員とするのです。

 

なお、聖霊は霊界の存在ですから、聖霊が働かれるとき、預言や異言が出たり、病気が癒されたり、不思議な現象を体験することがあります。
異次元の世界の存在の働きですから、初めての人はさぞ驚かれることでしょう。

 

教会によっては、それららのことは使徒時代の出来事で、今はそういうことは終わっているという理由で否定し、あるいは無視する教会がありますが、私は、そのような現象もエクレシアを形成するために必要なことで、今も現実に起こっていることだと信じています。

 

そういう現象は、使徒時代はもちろん、今も聖霊が働かれている証となります。
聖霊の働きは、キリストが復活された栄光の主(創造主)であることを啓示し、その十字架の死が万民の罪の贖いであることの奥義をキリスト者に啓示することです。

 

イエスが十字架死から三日後に復活されたと聖書は証言しますが、死者の復活など証拠や理論に訴えて説得できるような性質のものではなく、あるのは使徒とかその時に周りにいた人たちの証言だけです。
クリスチャンはその証言を聖書で読みあるいは聞き信仰に導かれるのですが、その際、聖霊はその者に働かれ、イエスの死からの復活が確かなものであることをその者の心に刻印されます。

 

キリスト者になるということは、その聖霊、すなわち、三位一体の神の三位格であり、最初イエスの中に宿り、力ある業をなし、死を滅ぼしイエスを復活させた聖霊が、キリストの福音を信じた者に宿るということです。
イエス復活の証言は聖霊により心に刻印され、そのために心の内にあふれ出るキリストへの思いが、証言となって表にあふれ出るのです。
それが福音伝道となって現実化するのです。これはキリストの福音の秘儀です。

 

聖霊がこの世にあまねく降り注ぎ(使徒言行録2章)、キリスト者に内住して、福
音伝道に導く力となるのですが、そのキリスト者に内住した聖霊は、イエスを復活させた方の霊ですから、キリストの福音が将来のキリスト者の復活の約束の保証(手付け)となるのです。

 

こうして、キリストに属する者は、この死すべき命と朽ちるべき体の中に、復
活に至る命を宿してこの現世を生きるのです。
この命の現実が、人間の理解と想像を超えた「死人の復活」を確かな希望とします。

 

そして、この希望は現実の世界を生きるうえで、死に定められた肉体の体の中にあって、またいずれ滅びにつながるこの世界の中で、(現実と希望のギャップで)深いうめきにならざるをえないのですが、その中で、聖霊がキリスト者に死からの復
活という見えざる将来を待ち望む力を与えてくださるのです。
 
まとめてみると、エクレシア(教会時代)は二つの復活の間に生きているとい
えます。
二つの復活の一つは、2000年前に既に起こった初穂なるキリストの復活、もう一つはやがて起こるキリストに属する者たちの復活です。
もちろん、そのキリストに属する者たちの復活は、艱難時代の前のキリストの空中再臨と千年王国の前のキリストの地上再臨によってもたらされます。

 

この二つの復活(キリストの復活とキリストに属する者たちの復活)は一体で、一方を否定して他方を肯定することはできないのです。
エクレシア(教会)は、この二つの復活という決定的なカイロスの間で、聖霊と共に復活の命を現実に生きることを通して、キリストの復活を告白・証言し、死人の復活という究極の神の約束を世界に告知するのです。

 

第六章.人間の新生
<完全な者となりなさい>
マタイによる福音書第5章48節のイエスが弟子に言われた言葉、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
この聖句を文字通りにとれば、父なる神のように完全になりなさい、といっておられるように思います。はたして人間は、神様のように完全なるものになれるのでしょうか。

 

そのように思って、もう一度この聖句の前後を読んでみますと、この聖句が置かれ
た場所は、つまり、敵を愛しなさいとイエスが弟子たちに言われた後に置
かれているので、おそらく、完全とは絶対無条件の愛を意味しているのではな
かろうかと思うのです。

 

すなわち、あなたがたが隣人を愛するとき、相手が敵だから悪をもって対抗するというように、相手によっては悪で応じるというようなことはあってはならない。あなたがたはいかなる場合にも、相手が誰であろうと無条件でその人を愛し、善を為さなければならない、という意味だと思ったのです。

 

完全の意味がそうであっても、この様な愛の実現は、現実の人間社会では、また神から離れて自己中心的で自分勝手に生きている人間には実現不可能です。
「あなたがたも・・神のように・・完全な者となりなさい。」。それではこれを実現するためにはイエスはどうしろと言っておられるのでしょうか。

 

不可能を可能にする方法、その方策がなければイエスも上記のような言葉を述べられません。

 

それでは、どのようにしてわれわれ人間を天の父(神)のように完全なものにしょうとされているのでしょうか。
もちろん「・・ように」ですから神になりなさいと言っておられるわけではないのはよくわかります。

 

おそらく、そこには、われわれ人間を創造した神の目的があるのではなかろうかと思います。
人間の性格は、生まれ持ったもの、つまり遺伝とか育った環境で決まるといわれています。それに、肉体が病んでいたら性格もゆがみます。だから犯した罪の原因がどこにあるのかを確認する必要があります。原因が病であるなら治療が必要です。

 

殺人者の育った環境が最悪の場合、その人を気の毒にも思います。
「罪を憎んで人を憎まず」の気持ちです。犯した罪は罰されるべきでしょうが、その人をできたら憎まない方が良い。イエスのいわれる敵をも愛しなさいというのはそういう意味だと思うのです。

 

被害者に身になってみろ、そのようなことができるか、と怒られそうですが、イエスはできると言われているのです。

 

肉体の病からくる性格のゆがみは、肉体が滅んで次の世へ行けばなくなります。そのときにその人の本当の姿(わたしは人間には表にあらわれている姿とは別に本体ともいえるものがあると思っています。)が表に出てきます。

 

この世では恐ろしい人間でも、その人の本当の姿はやさしい思いやりのある人間かもしれません。イエスがいわれた「敵を愛しなさい」とか「隣人を自分を愛するよ
うに愛しなさい」という戒めには、人の表に表れている性格とか行為だけを見てその人を判断してはいけない、表に表れている性格とか行為がその人の本当の姿とは限らないと言われていると思うのです。

 

あなた方にはその人の本当の姿は分からないからあなたがたには正しい裁きはできない。だから神があなた方を無条件で愛したようにあなたがたも無条件で人を愛しなさい。それがあなた方のためにもなる。といわれているのではないでしょうか。
神から見て問題は、表に表れている行為ではなくその人の本当の姿が醜く変質するのを恐れられていると思うのです。

 

憎しみは憎しみを増幅し、その人の本体を醜く変質させます。逆にいえば、善は善を増幅しその人の本体を神に近づけます。

 

聖書には、汝殺すなかれという言葉がよく出てきます。この殺すという言葉は「謀殺」を意味すると聞きます。
そういえば、イエスは一度もローマ軍の兵士に殺人をやめろ、兵隊をやめろとは言っておられません。

 

聖書で殺すというのは、憎しみを持って人を殺すのがいけないのです。
憎しみは増幅し、その人の本体をゆがめるからだと思います。それは神の創造の目的に反することだからだと思います。

 

創造の目的は、おそらく神はわたしたちをこの世でも次の世でも神とともに生きる存在にしょうとされているのではないでしょうか。
人間の罪がぬぐわれて、神とともに生きることができるほど魂が清められることが、イエスが言われた完全になりなさいという意味だと思うのです。
それが神の創造の目的であり意志であると思います。

 

イエスは完全な者となりなさいと言われましたが、完全になる方法も用意されています。
その方法が、御子イエスの教えを信じて、聖霊を受けることだと思います。
ただ人間には自由意志があるのでイエスの教えを信じるように強制はされませんが、いつでも神様に心を向ければ救いの恵みが無条件でその人のものになると言われているのだと思います。

 

<愛の実践>
イエスがこの世にこられた目的は、人間に完全になってほしいという御心を伝え、その方法を示すためでありました。
それはまさしく、人間の新生といえるものだと思います。その途上の人間がクリスチャンということになります。
反逆していた人間の心を開き、神を信じるように導き、その人を造り変えよう
とされている。

 

この世だけでは、造り変え、つまり新生は完成しないので次の世でもおそらく新生の努力は続くのではないでしょうか。
だから、死ぬのも新生の中の一つの段階と言えないでしょか。わたしは、死をそのようにとらえたいと思っています。

 

人間の新生の完成は、「敵を愛する愛」「隣人を自分のように愛する愛」が普遍的な法則となり支配している状態で、それが天国、神の国ということではないかと思います。

 

そのような愛の実践を求められるのは、たとえば、殺人の原因が、病んだ肉体であることも、育った環境であることも、遺伝であることもある。
だから、殺人者の罪は罰せなければならないが、その人を憎んではいけない、それはあなたの為でもある、と言われているように思います。
罪を憎んで人を憎まずの精神です。

 

だから大切なのは、自分ではどうにもならない、持って生れた性格とか賜物ではなく、与えられた性格とか賜物をどのように用いるかということではないでしょうか。

 

憎んではいけないのは、人を憎めば憎しみが憎しみを産み最後には憎むことに快楽を覚えるようになる。
そうなればその人の本体、つまり肉体を脱ぎ捨てた後のその人の本当の姿が醜
くなる。そして、どんどん神から遠ざかってしまう。
肉体が滅び次の世へ行きその人の本体がもろに表に出るようになれば、もし本体が醜ければ神の前に出ることができません。

 

被害者に殺人事件の加害者を憎むなというのは、被害者の心情を思うとそれは余りにも辛いことです。
でも、それでも神に助けを求めて、神の戒めを守ろうとしていれば、神は必ずどこかで傷ついた心を癒されるものと思います。

 

善も悪も憎しみと同じで複利で増殖すると思いませんか。そうすると、殺人という大きな事件でなくても、この世に生きている中で、わたしたちが毎日行う小さな決断が大切だということになります。小さな自己中心的な決断が数を重ねると何が善で何が悪か分からなくなり、その人の本当の姿を知らぬ間に醜くしてしまうという恐ろしい結果になるのではないでしょうか。

 

<愛の実践と聖霊の働き>
イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章39節)といわれましたが、いくら聖霊が内住されていても、新生途上の未完成の状態ではその愛を実践するには強い意志が必要です。
なぜなら、自分に不利益を及ぼす人を含め、すべての人を無条件で愛する必要があるからです。

 

人の好き嫌いは自然本能的なものだからどうしょうもありませんが、ちょっとした人の言葉に、無意識のうちに腹を立てたり軽蔑したりしている自分に気が付き驚くことがたびたびであります。

 

そのときに一つ一つ反省していればよいのですが、反省もしないでいるとそのような状態が当たり前になり、しまいには自分が人を軽蔑していることに気づかなくなってしまうことがありますので、気をつけなければと思っています。

 

キリストを信じれば、聖霊がその人に内住し、その人を神に似た者へと導き、死んだあとには新しい生命の内にあって神とともに生きることができるようにしてくださる。

 

そうですね、これをキリストにあって新しい生命、新しい種類の人間が生まれるということになるのだと思うのですが、キリストの十字架にあわせられて一度死んだ人間が造り変えられるのですから、新しい人間が出現するともいえると思います。

 

この生まれながら持つ自然の命は、今の人類の始祖アダムが、エデンの園において神から離反したので、その状態は子孫であるわれわれにも引き継がれました。神からの離反の結果、聖霊は人間に働きかけることができなくなりました。神の霊、聖霊はわれわれの命の元です。

 

命の元を断たれた人間は肉体が滅びるのは当たり前ですが、神様からの恵みを受けられなくなり、霊的にも死ぬ者となりました。
キリストを信じたら聖霊がその人に内住し、その人を霊的に生きる者とし、その人が新しい生命に生まれ変わるように導きます。

 

といいましても、その人は相変わらず現世を生きているわけですから、一時にではなく、いろいろな試練にあいながら徐々に導くわけです。
本当に分からないくらいゆっくりとです。

 

そのような、新しい生命に生きるクリスチャンというものは、聖霊に導かれているとは言え、絶対に過ちを犯すことのない人間でなく、つまずくたびに悔い改め、再び立ち上がって始めからやり直すことのできる人のことを言うのだと
思います。

 

キリストにある生命が彼の内にあって、彼をつねに修理する。だからクリスチャンは世間で善良であろうと努力している人たちとはちょっと違った立場にあります。

 

通常人が善良なことをするのは、他人によく見られたいとか、よい子であろうと思うから努力するものです。反面クリスチャンが善良なことをするのは、自分の内にあるキリストの生命、聖霊の働きからでたものと言えます。
人の眼は関係ないのですね。自分がそのようにしたいからそうするのです。

 

イエスはいわれた、過去の罪を悔い改めて、自己をキリストの十字架とともに捨て、聖霊の働きにすべてを委ねて新しい人生を歩きなさい。
わたしが創造の目的に沿うようにあなたを造り変えてあげよう。完全になりなさい。

 

そうです、イエスの約束の言葉を信じ、神の霊、聖霊を受け入れれば、聖霊があなたを誘導し完全なものに変えてくださる。
人間の力で、人間の努力で出来ないことでも神にならできる。だから聖霊の導きにあなたの人生のすべてを委ねなさいと言っておられると思います。

 

<新しい人間と古い人間>
ここまで私は、クリスチャンは聖霊に導かれて完全に向かって歩む新しい人間というようなことを書きましたが、このようなことを書けば、なぜ世のクリスチャンといわれる方はすべて聖人ではないのですかと問われそうですが、それは聖霊を受けた新しい人間でも古い人間の性質をもったままですからクリスチャンの中には聖霊の働く新しい性質と生まれながらの古い性質が同居しています。

 

そして、この世は相変わらずサタンが活躍し、人間の自己中心的性格はそう簡単に改まるものではありません。
それにこの世は所有欲、権力欲、色欲に満ちて罪への誘惑も多い。
また、聖霊が内住して新しい人間に作り替えると言ってもそういう状態の中ですから変えられるのも一時にではなく少しずつ、本当に少しずつ本人も気がつかないうちに変えられていくことになるのだと思います。

 

そういうわけで、この世に生きている間に神の創造の目的に適うまで完成することは不可能です。罪と戦いながら、誘惑と戦いながら一歩一歩と前進するのです。罪を犯しては悔い改めをしながら成長していくのです。おそらく新しい人間の創造にはそういう形での過程が必要なのだと思います。そういう意味で、死も新生のための過程の出来事の一つだと言えます。

 

このように人間をとらえると、もしわたしが進化論を認めるとしたら、キリストを信じる者の聖霊による新生が、進化による新しい人間の創造ではないかと思います。そういう意味では、人間の進化が既に始まっているといえます。

 

進化論か創造論かという論争がありますが、動物も人間もDNAというおなじ手段で遺伝情報を伝えていること、両者のDNAの違いはわずかだということから動物
とか人間の創造が同じ法則により生かされていると思うし、そうであれば、その背後に同じ創造者が存在すると信じるのはおかしくはないと思うのです。人間も動物も偶然の産物なら、存在するものの中に統一された法則などないはずです。

 

わたしたち人間は、一定の法則(道徳とか良心とか理性のこと)のもとに生きています。わたしは猫を飼っているのですが、最近思うのは、猫もやはり一定の法則のもとに生かされているということです。猫はわたしたちが思う以上に物事が分かっていると思うのです。

 

この世に創造者がいるなら造られたものの中に創造主の意志が働いていると思うのです。それがわたしのいう法則ということです。イエスは創造者がいることと、創造者の意志と創造者(神)の支配がはじまったことを伝えました。そのことが真実であることを、奇跡と死と復活を持って証明されました。

 

現実の世の中は、不法と不条理がはびこりある意味地獄です。創造主は、その中から自分を信じる者を助けだし、その者とともに生きるために助け出した人間の新生を働き掛けておられると思うのです。
そのために、この世に創造者を信じる者のワールドを造ろうとされている、それがキリスト教会ということでしょう。

 

<使徒パウロの言葉>
最後に少し長いですけれども、これらのことを記した使徒パウロの言葉をあげておきます。ローマの信徒への手紙第8章18節から23節です。

 

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるものでなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。・・・」

 

ここで、「被造物」というのは、人間以外の被造物(自然界)全体を指すと思います。
「神の子」はクリスチャン、つまり新生途上にある新しい人間のことでしょう。
「虚無」というのは、神から離れて罪に捕らわれて死ぬべき命に沈むこの世のこと。恒常的なものがない無常の姿。目的がない無意味さ、はかなさをいうのでしょう。

 

ただし、この虚無は、将来の解放という希望の下にある虚無であります。
「服従させた方」はもちろん神です。
「希望」は、虚無が克服されること。つまり、罪の体が贖われて、次の世で霊の体で復活し、永遠の命に与ること。それが神の計画によるものであることが示されているのでしょう。

 

「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて」とは、イエス・キリストにおいて始まった人間の救済のための神の業が完成される終わりの日に、人間だけでなく被造物全体もまた神の救済の完成にあずかる希望の下にあるというこ
とでしょう。

 

「霊の初穂をいただいているわたしたちも、・・。」とは、初穂は、復活されたキリストのこと。キリストは新しい人間の初穂です。
ここでは、キリストを信じる者の心に注がれている聖霊を指すと思います。
こうして、神に属する者が次の世で復活し、罪と死の支配から完全に解放されて神の栄光にあずかるようになるのです。

 

「体が贖われる」とは、自然の命の体でこの世に蒔かれて、次の世で霊の体で復活することでしょう。
「心の中でうめきながら」とは、最終的な完成の前に全世界は大きな苦難の時
代を体験するが、その苦難は新しい世界を生み出すための陣痛だと言っているのでしょう。

 

人間救済の究極の目的は、キリストを信じる者を死者の中から復活させて、復活したキリストと同じ像にすることだと思います。
コリントの信徒への手紙第一の15章の通りです。
そして、人間の霊は最後の最後にはどのようになるのでしょうか。

 

旧約聖書コヘレトの言葉第12章7節にこのような聖句があります。
「塵は元の大地に変えり、霊は与え主である神に帰る。」
以上

 

無料ブログはココログ

最近のトラックバック