フォト
2026年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

聖霊の働き

聖霊の働き

目次

第一章.霊

第二章.働く神の霊、聖霊

<聖霊とは>

<聖霊の働き>

<キリストの復活は聖霊の働き>

<十字架死をイエスは預言されていた>

第三章.聖霊を冒涜する罪

第四章.人間の新生

<完全な者となりなさい>

<クリスチャン>

<復活は人間の新生を証しする>

第五章.歴史の背後に

<創造の目的>

<創造主の意志と人間>

<創造主の真意>

 

 

本文

第一章.霊

人は、とくに信仰を持っていない人は、衣食住に満たされないうちは、あるいは、この世の価値、財産とか地位とか、名誉とかに対する欲求が強いうちは、「自分は何のために存在しているか」なんて考える余裕などないと思います。

 

それは、自己を主張することに、つまり人と比べることに、人との競争のために動物的本能が前面に出ている状態だと思います。

そのようなときは、今特に問題となっていないことを(少なくとも本人はそのように思っている)意識できないのかもしれません。

 

そのようなことよりも、人に勝つことが、明日どうして生きていくかの方が問題だからです。

だがそれらが一応充たされると、衣食住足って礼節を知る、といいますが、人の意識は、本性的に持っている自己の存在の意味に目を向けるようになると思うのです。

 

自己の存在の空しさへの意識が頭をもたげてくる。人間はそういう風に出来ていると思うのです。

なぜこのように申しますかといいますと、人間は霊と肉体によってできているという前提でものをいっているからです。そして、人間の本体は霊だと思うからです。

 

聖書には、いろいろな霊が出てきます。まず神の霊である聖霊、神に背いた天使の霊である悪霊(サタンとその配下の霊)、そして人間の霊があります。

いま日本は、空前のスピリチュアルブームで、健康ブームということです。衣食住が足りて、競争も一段落してふと気がつくと何だか心が満たされない。

 

生活には困らないし、そこそこ楽しい。だから、健康でいたい、長生きしたい、できたら死にたくない。だけど、いつかは必ず死ぬ。

そのときには、今持っているものは全部置いていかなければならない。そうであるなら、なぜ俺はこんなに苦労しているのだろう・・・・。

そう思うと、今まで意味がある、価値があると思ってしてきたことが何だか無意味に思えてくる。人生って何だろう。生甲斐ってなんだろう・・・。

 

そのようにして、先のスピリチュアルブームとか健康ブームがおこるのではないでしょうか。

生活が裕福であればあるほど、財産を多くもてば持つほど人間の意識は、それらを守ることに、またより多く手に入れることに捉われて、自己の人生が有限であることを意識するようになると思うのです。

 

歴史を見てみると、権力をもったそのような人間がどれほどあらわれたことか。何時まででも今の状態を保ちたい

という気持ちが、どうせ死んでおしまいじゃないか、という否定的な意識に強く脅されるようになっていく。

心は空しさを増し、生きている意味を求めるようになる。永遠に生きるのが無駄だと分かっていても、無駄な抵抗をする人もいる。

 

そのような人たちに霊の話をすると、いろいろ神秘現象をバカにしていた人が、霊って本当にいるかも知れない、と思えるようになる。

そこに何か心を充足するものがあるかも知れないと思うようになるかもしれない。

 

そういう人でも、宗教の話になると敬遠し、軽い方が何だか安全でとっつきやすいのか、スピリチュアルとか新興宗教のほうに興味を持ち、ブームになる。

キリストを信じるものが増えないのは、小難しい聖書の話なんか聞いていられない、というのが本音でしょうか。とっつきにくいのでしょうね。

それともキリスト教会が悪いのかな。だけど、わたしはそう言う人に言いたいです。キリスト教は、昨日や今日生まれたそんじょそこらの宗教とは違う。

 

2000年という歴史を生き抜いてきた、世界人口の約三分の一以上が信じているというその重みが違う。そこに何か本物があると思いませんか。新興宗教などで、権威付の為に聖書の良いとこをとっているところもあるように聞きます。

 

人は霊能力者の霊能力を見て、それは凄いとか、不思議だと思いますが、ただそれだけです。

スピリチュアルカウンセラーといわれる方も、良いことを言われますが、それを聞いて生きる意味が分かったでしょうか。

たとえ分かったような気になっても、せいぜい一時の自己満足で何も変わらないと思います。素晴らしい教えを聞いただけで、人は簡単に変われるものではありません。そういう宗教を道徳教と言うのですね。

 

霊の存在論も、おそらく上っ面だけだけだと思います。ところが、キリスト教には、霊とか神の存在論があります。

そして、教祖のイエスの教えが真実であることをイエスは身を持って(十字架による死とか復活)証しされました。本物なのです。嘘だと思われるなら、だまされたと思って信じてみると、本物だと確信できると思います。

 

イエスは、人間は肉体と霊体とからなっている、と教えました。こういうと、霊的なことに興味がない人は、おそらく殆どの日本人は、怪訝な顔をして「あ、そう」で終わるのではないかと思います。

 

まあ、見えない世界のことについては、物事考えようだからね。人生、思いようひとつ。それで、幸せならば、そう思っていればいいのじゃない。とまあ、こういうふうに・・・。

 

スピリチュアルブームにのっている人でも、聖書とか言い出すと遠ざかってしまう。いわゆる重たいのは嫌なのですね、軽いのがいいのですね。

読みやすくて楽しくなるのがいいのですね。霊の世界のことは、本当はそんなに簡単なものではないのですがね。重大なことなのですが。

 

「スピリチュアル」で辞書を引いてみると、「霊的な、精神的な」と言う意味の形容詞で、とくにキリスト教における神の啓示、預言などを表し、極めて神聖な意味を持つ。

となっていますのにキリスト教に興味がないなんておかしいね。スピリチュアルブームに乗っている人なんか一番に聖書に興味を持っても良いのにね。

 

現代では、人の霊が存在することは、科学的に確かめられています。西欧では19世紀の半ばから心霊科学(スピリチュアリズム)がスタート、つまり心霊現象を科学的に究明しようという研究です。科学的にというのは、経験的に確かめられるように、と言うことです。

興味がある人は本を紹介します。「オーラル・ロバーツ『第4の人』」、これはオーラル・ロバーツの悪霊との戦いの実例記録です。

 

「迷える霊との対話」。これはキリスト教とは特に関係はないのですが、精神科医が自分の妻女に迷える霊を憑依させてその霊と会話しながらその霊の迷いを取り除き行くべきところに導き治療した30年にわたる実例記録です。

 

この本の前書きを引用しますと、「本書を世に出すに当たって、著者の私には主義・主張や信仰上の説を広めようとする意図はさらさらない。三十有余年にわたって正常・異常の両方の心理学を実験・研究してきた成果と、そこから引き出される見解を披露しょうとするものである。

 

それが、とかく曖昧である死後の生命と、それが現実の生活に関わっている側面に光を当てることにあると思うからであり、良識ある人ならばきっと、その重大性を認識されるものと確信する。」

これらの本に書かれていることがすべて真実かどうかは知りませんが、霊が存在することは事実だと十分確信できると思います。

 

聖書を本格的に勉強する前に霊の存在についは、いろいろ勉強しましたので、わたしの頭の中は、人には肉体だけでなく、霊が存在するというのは、もうほとんど常識になっています。

 

もし、霊が存在しなかったら、わたしのこの十年間の聖書の勉強とその結果、信仰が無意味になってしまいます。わたしの聖書解釈は、信仰は霊の存在がなければ成り立たないのです。

 

第二章.働く神の霊、聖霊

キリスト信仰の一番大切なこと、聖霊について書いてみます。

また、ヨハネの福音書では聖霊の働きを知らなければ理解できない箇所も多々あると思います。

上手く書けるかどうかは分かりませんが、聖霊が働いてくださることを信じて書きます。

なお、「神」と「創造主」は同一です。聖霊は、三位一体の神の三位格である聖霊のことです。一般に言われている「霊」ではありません。

<聖霊とは>

  • ヨハネの福音書第1章1節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

 

「初めに」は、この宇宙の森羅万象の存在の初めのこと。「言があった」、「言」は全存在の根源としての「ロゴス」を指しています。

「ことば」と読み永遠の神の御言葉を意味するのだと思います。

「ロゴス」は、イエス・キリストを指しています。その意味は次の14節で書きます。

「言は神と共にあった」これは父なる神と御子イエス・キリストの一体が示唆されているのでしょう。

「言は神であった」、イエス・キリストが神性をもつことを述べているのだと思います。

 

  • ヨハネの福音書第1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」

 

「言は肉となって」は、イエスは神であるロゴス(神の言葉)が受肉(人間になった)した存在だと言っているのでしょう。

したがって、イエスが語られたこと、イエスの身に起こったこと、なされたことすべては神がなされた事になります。言い換えれば、神とイエスは神の言葉を共有して一体であると言えます。

「わたしたちの間に」は、わたしたち人間世界の中にということでしょう。「宿られた」は、神は人としてのイエスに宿り、イエスによってわたしたち人間に語りかけられた。

人間の歴史の中に出現されたことになる。それによって、神はご自分を人間にお示しになったということでしょう。それは、神がわたしたちと同じ同質の人間になったのですから、誰にでもわかる方法として唯一有効な方法でした。

 

「わたしたちはその栄光を見た」の「わたしたちは」は、複数だからイエスの言葉を信じる者たちの共同体。「その栄光」の「その」は、「肉となったロゴス」、すなわちイエスを指していると思います。「栄光」と言うのは、イエスの十字架死と復活のことでしょう。

「見た」は、イエスによって体験し、認識したことを指すのでしょう。

1節で神の言葉としてのイエスが「あった」のです。14節でその神の言葉としてのイエスが受肉して人間に「なって」わたしたちの間に宿られたのです。

 

言葉には言葉を発する人の思いが込められています。神の言葉は神の思いが込められていますから、その思いが人間イエスになったのです。神の言葉が物質化したのです。イエスはそういう存在だということでしょう。

 

「イエス」は名前です。「キリスト」は名字ではない。これはギリシア語で「救い主」のことですから、「イエス・キリスト」は「救い主イエス」のことです。

イエスは、紀元前4年頃にお生まれになって、十字架でお亡くなりになったのは、多分紀元後30年くらいといわれています。だからおよそ33年の生涯です。


神の言葉であるイエス・キリストが「あった」、その神の言葉であるイエス・キリストが肉体をまとって人間に「なった」のです。その間に深い神の思いが込められている。

 

では、神の言葉であるイエス・キリストが肉となった、つまり人間に「なった」というのは、いったいどういうことだろうか。

それは、お釈迦さんは人間のままで「悟った」のですが、イエスは「言が人間になった」のですから、神(神の言葉)が肉体をまとって人間になったのです。

 

このイエスに宿った霊を「聖霊」と言います。聖霊は神の霊の別名です。「聖霊」は人間や妖精のような「精霊」ではありません。

先のヨハネによる福音書1節と14節が言わんとすることは、神の霊、聖霊が肉となってわたしたちの間に宿ることでイエスが「できた」ということです。

 

赤ちゃんができたと同じ意味で、「生じた」「生まれた」のです。

処女降誕はここから来ています。

処女降誕が事実かどうかは証明できませんが、当時それを命をかけて事実だと信じた人が多くいたのは事実です。

 

イエスの生誕から生きざまを見て当時の人はそのように信じたのです。

イエスはこのことを、「わたしが父の内におり、父がわたしの内おられると、わたしが言うのを信じなさい」といっておられます(ヨハネの福音書第14章11節)。

 

でも現代では、「人間イエス」と言って、イエスは人間にすぎないと考える人たちも多くいると聞きます。この人たちはイエスを人間の偉い人として尊敬します。

信仰の対象としてのイエスは、イエスを信頼とか尊敬するという、それだけでは不十分なのです。

 

なぜなら、信頼とか尊敬とかは人間のレベルでイエスを見ていることになり、そのイエスという人間の内に神の聖霊が宿っていることを見ていないからです。

聖書を知識として勉強して信頼とか尊敬とか知識をもっても、その見方のままでは、その人の内にイエスの御霊が働いているわけではないのです。

人間としてのイエスを研究している間は、その人に聖霊は働かない。

 

ではどうすれば神の聖霊がその人に働くかと考えますと、まずイエスの教えを信じようと決心する。そして、いつもイエスの御言葉(聖書の言葉)を心に留めていると、最善の時に聖霊が働き、分からせてくださる、としか言いようがない。

 

信仰を持つのも神様の恵みだから、イエスの教えを信じることができたら聖霊が働かれていると言えるのではないだろうか。信じていると思うけれども、イエスを求めて何十年という方も信じていると言えるのではないでしょうか。

 

神の霊、聖霊がわたしたちの間に肉体をまとって宿ることでイエスが「できた」、それが「恵みであり真理である」ことを弟子たちは観たのです。

聖霊は神の霊といいますが「神」とは、こう問われても説明できません。

 

が、神の霊、聖霊が、どんな風に「働くか」ということ、これについては語ることができます。そうすれば神という方が見えてくるのではないでしょうか。これは次回に書きます。

<聖霊の働き>
わたしにも聖霊が何なのかは言葉では説明できません。なにしろ目に見えないのですからね。でも何らかの現象があり、これはきっと聖霊が働かれている、と分かるときがあります。

 

ここでは、クリスチャンとしてまだまだ未熟なわたしですが、自分を納得させるつもりで、キリスト信仰について最も大切な「復活の御霊」、つまり聖霊について思うところを書いてみたいと思います。

 

さて、イエスは「わたしの父は今も働いておられる。だからわたしも働く」と言っておられます(ヨハネの福音書第5章17節)。

なにも「わたしの父はこういう方だと」説明されているのではありません。イエスは父が「働いておられる」と言っています。

もちろん、父とは神のことです。神は霊ですから霊が働いておられるということになります。


命とは何か、こう聞かれてもわたしには答えることができません。でも、命がどんなふうに「働くか」、こう聞かれればわたしでも答えることができます。そうです。聖霊と同じです。どちらも目に見えないものですからね。

自分の命は、心臓は鼓動しているし、心の働きとか、肉体の働きを見れば命があり生きていることが分かります。

 

他者のことでも同じです。その人の命の働き方が表に現れていれば、わたしたちにも分かります。

このように、わたしたちの命の「表に出ている働き」は五感で捉えることができる限り、答えることができます。何かという説明はできなくても働きは分かるのです。

聖書の神は、論理的に、科学的に理解できません。「有って有る者」なのです。そして、霊ですから見えなくても、常に働いておられるのです。

 

また、聖書の神は、創造する神です。常に創り出し続けておられる。休みなく働いて、命を創り出し、そして、造ったものを何時も支えておられるのです。

ですから、神の霊が肉体をもったイエスがなさるしるしとか奇蹟とか話される事は、イエスを通して父なる神の霊、聖霊が働いておられるということになります。

 

イエスは神の言葉であり神の御霊が肉体を持って顕われたことになります。だから、神そのものは目には見えませんが、神の存在とか、神がどのような方だとか、どのような働きをされているかなどはイエスを通して分かるのです。

イエスはご自分のことを次のように言っています。

 

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。・・」(ヨハネの福音書第14章9節)

どうして目の前にいる大工の息子イエスが神なのか、弟子であるフィリポにも、そのわけはなかなか分からなかったのです。

 

このつながりを説明できないけれども、何が起こったのかはイエスの働きを見れば分かります。イエスという人間を通して、神の霊、聖霊が働かれているから、イエスを見れば神とは何物かはわかるのです。

 

イエスの地上生活の時になされた、悪霊の追い出し、しるしとか奇蹟とか予言はその神の霊の働きなのです。イエスはその働きをみて信じなさい、信じることができるといわれています。

 

福音書が伝えているのはこのことだと思います。もちろん、今は、イエスはこの地上に肉体をもっておられませんが、その代わりに聖霊が降られ聖書の御言葉を通して読む者、聞く者に働かれているから、聖書を読めば父なる神のことが分かると言っておられると思います。

 

人間イエスに神の聖霊が働くのですから、イエスの精神と肉体の両方を通じて、神の聖霊が顕われることです。これをイエスの「霊性」と呼んでいると思います。

 

ですから「霊性」には、その人の肉体と精神が両方とも含まれます。イエスは、神の聖霊が宿る神殿なのです。

だからイエスは、ご自分の「からだ」をエルサレムの神殿にたとえられました(ヨハネの福音書2章21節)。

 

人間となったイエスを通して神が働いたこと、聖霊が働いたこと、このことが理解できて信じることができる人、そのような人がクリスチャンだと思います。

 

それはクリスチャンの内に聖霊が内住(ヨハネの福音書13章23節)しておられるからといえます。

逆に言えば、クリスチャンかどうかは、その人のうちに聖霊が内住されているかどうかで決まります。そのほかのことはどうでもいいのです。

 

教会へ行っているか、いないか。洗礼を受けているかいないか。異言を語るか、語らないか。どの宗派、どの教団に属しているか。どれだけ知識があるか。何年信じているか。どの民族か。こいうことはどうでもいいのです。

 

ただし、その人に聖霊が内住しているかどうかは、客観的に証明できません。ただ、異言は客観的に誰にでもわかりますので、異言を語る人はその人に聖霊が内住していると言えるでしょう。

 

どうして聖霊の働きにそんなにこだわるのですかと、問われそうですが、それは、画家なら、小説家なら、科学者なら死んだらその人の才能はそこで終わりです。

もちろん、その人たちの絵や書いたものや発明したことなど業績は後世に遺ります。

 

これが普通の人間としての「偉い人」のすることです。でも死ねばその人の才能はそこでなくなります。生前の業績が人の参考にはなって役立っても、その人が新たな業績を生みだすことはありません。

 

それではイエスはどうでしょうか。イエスは十字架につけられて死にましたが、人間でありながらその内に神の聖霊が宿って(内住ともいいます)いました。人間でありながら神の子であったから、神はイエスを復活させてキリストとされました。

 

イエスはここで終わったのでしょうか。イエスに宿るのは「神の霊」なのです。小説家とか画家の才能ではないのです。だからイエスの働きは、その十字架による死で終わらなかったのです。もし、イエスが十字架で死なれ、その後何もなければ今のキリスト教は生まれていなかったと思います。次回に、イエスの復活とその神の霊、聖霊の働きについて書いてみます。

 

<キリストの復活は聖霊の働き

ここでは、イエスの復活は神の計画であることと聖霊の働きを書きたいと思います。

創造主である神の存在を信じるなら、この地上に何千年か何万年前か知らないが人間は生まれたのは、偶然ではないと思うのは当たり前だと思います。何物も造られたのならば造られた目的があるということです。

神の存在を信じないのなら、人間の存在は偶然かもしれません。

 

理由もなくこの地上に突然命が生まれ、その命は自分の存在意味もわからず生きている。そして、何処へ行くのかもわからない。そうであれば、人は誰に責任を問われることもありませんから、この世は何をしょうが好きなように生きれば良いのです。

 

本能のまま生きればよいのですから、それこそ、弱肉強食の世界で、正義もくそもないですね。

生きるうえの不公平とか不条理は、いや生きることに意味がなければそのようなことはどうでもいいことです。子孫を残すために、強いものが残ればよいことで、そのように考えるのは当たり前です。

 

でも、創造主である神を、神の聖霊の働きを認めるなら話が全く変わってきます。どちらを信じるかは、わたしたち人間の11人の自由だと思います。

さて、それでは神の存在を、聖霊の働きを、イエスは神の霊が宿られる神殿であったことを認めて話を始めます。そうでないと話は進みませんから。

 

神の霊はイエスを復活させました。死んだ人が息を吹き返す蘇りではありません。

それはイエスに働く神の霊、聖霊が、今度はわたしたち一人一人にも働くための神のご計画であったからです。イエス一人に宿られていた聖霊が、イエスが亡くなられることにより、この人間世界にあまねく存在されるためでもあるわけです。

 

イエスは十字架に架けられる前に、次のような遺言を残されました。残された遺言の内容も凄いものですが、その遺言がすべて実現したのはもっと凄いことです。

キリスト教が現在の様に世界宗教になった、2000年間消えずに存続してきた原動力がそこにあるといえます。

 

  • ヨハネの福音書第12章24節「時がきた。はっきり言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
  • ヨハネの福音書第14章16節「わたしは父にお願いしょう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる。このかたは真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることはできない。しかしあなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」。

 

ここで、「時がきた・・一粒の実が地に落ちて・・死ねば」というのは、イエスが自分が十字架に架けられて死ぬ時がきたことを予告されているのです。

「別の弁護者」とか「真理の霊」というのは、聖霊のことです。これは父なる創造主から出た創造主である神の霊と同質の霊です。

 

その聖霊は、イエスの肉体が滅んでなくなったら「あなたがた」、つまり当時の弟子とイエスの信仰を受け継ぐ今にいたるまでの代々の弟子たちに弁護者(助け主)として遣わされると言われています。

その方法は、聖霊は、イエスを信じるすべてのクリスチャンと共にいる。つまりイエスの言葉を信じた者に内住すると言われています。

 

このようなクリスチャンがどんどん増えることを、「豊かに実を結ぶ」と予め言われているのです。現実に今も、世界中のあちこちで、イエスの言葉が実現して、このようなクリスチャンが世界中でどんどん増えて、豊かな実を結んでいます。

 

これが、イエスが成し遂げてくださった、わたしたちのための十字架による罪の贖い、恵みの御業の結果なのです。

地上で生きていたイエスなら、1人の人間だから影響を及ぼしてもせいぜい行動する範囲の周りの人間だけです。

 

ところが肉体のイエスが死んで復活した聖霊として働かれると、その影響は全人類にくまなく及ぶことになるのです。

聖霊は同時に複数の場所で働けます。聖霊は偏在します。これは弟子にとって益になります。

 

  • ヨハネの福音書第16章7節「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者があなたがたのところに来ないからである。わたしがいけば弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。

 

「罪について」は、イエスは父なる神の教えを伝えにこの世に来られたが、イエスは何が罪であるかを教え、その罪から逃れる方法も教えに来られた。

 

父なる神の教えに沿わない(神から離れる)のは罪である、つまり、創造主の創造の目的に沿わない生き方は罪だと言っておられます。そのことを解決する唯一の方法がイエスの言葉を信じ心に留めることだと教えておられます。

 

ところが、人々はわたしの言葉を信じない。聖霊がくれば、イエスの言葉をもって、聖霊の働きにより何が真理かを悟らせる。そうすれば、人々は、罪とは何かを知ることになる、ということでしょう。

 

「義について」は、イエスが人間の罪の贖い(過去・原罪・将来の罪の贖い)のために生贄となって十字架に架けられ死に、三日後に復活して父のもとに行くことをさしています。

これらのことが義であることを聖霊が証しするので、そのイエスを信じなさいと言っておられます。

 

「裁きについて」は、この世の支配者(悪魔)が断罪されること。悪魔はユダヤ教の指導者をそそのかしイエスを十字架で殺してしまいました。

でも、神の子イエスは復活し、天に上がり神の右に坐しておられます。こうして、神の子イエスは悪魔に勝利しました。

 

  • ヨハネの福音書第16章12・13節「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊がくると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。
  • ヨハネの福音書第16章14節「そのかたはわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。

 

13節では、真理の御霊である聖霊が降る理由が説明される。すなわち、今までわたしが教えたことが今理解できなかったとしても、真理の聖霊があなた方に降ると、これらの教えがすべて真理であることをあなたがたに悟らせる。

 

イエスが語られた福音が書かれている聖書は、神のことを書いた書であるが神ではない。だから聖書を本当に知ろうとすれば、聖霊の働きが必要です。

 

また、聖書に書いてないことも神はわれわれの心に告げられることがあります。聖霊の導きをもって、祈りを持って聖書の言葉(神の言葉)を受け止めないなら、わたしたちは、聖書は単なる文字の羅列で神の言葉であるということが分からない、ということでしょう。

 

14節では、将来その聖霊はイエスがキリストであること、父なる神の御子であることをあなた方に悟らせる。それが、イエスが栄光を得るということ。

これらは、証しの御霊としての聖霊の働きだということでしょう。

 

凄いでしょう。イエスは十字架にかかる前にこれらのことを弟子に告げられました。

もちろん、この福音書を書いている著者ヨハネは、そのイエスの予告が実現したことを身を持って体験し、真実であることを確信して書いているのです。

 

そのようなことはすべて偶然の産物といわれるかもしれませんが、イエスが亡くなられてからこの2000年間に数えきれない人がイエスの言葉を信じたがゆえに命をなくしています。これは紛れもない事実です。その中には世界的に一流の学者も大勢おられます。

 

あなたはそういう人たちを偶然の産物のために、何ら意味のないことに命を捨てたバカ者と言いきれますか。わたしならそこに何かがあると信じる方にかけますね。

 

聖霊の働きにより、今もイエスを神の子と信じるクリスチャンが次から次へと起こされているので現在進行形でもあります。わたしが聖書を読んでいて、もっとも凄いと思ったか箇所はここなのです。

 

<十字架死をイエスは預言されていた>

先にイエスは、十字架に架けられる前に、自分の死後父である神から送られる聖霊に関することを述べられたのでそれを書きましたが、今回は、そのことが実現したことをもう少し詳しく書きます。

起こった出来事は、神の御言葉イエス・キリストが人間となる、イエスの十字架の死、イエスの復活、聖霊による人間の救い、この順番です。でもわたしたちが聖霊によって罪から救われるのは、ちょうどこれと逆の順序です。

 

聖霊の働きによって、自己の罪を自覚する、罪を悔改める、イエスの復活を知る、そこから十字架によるイエスの罪の贖いと愛を知る。そして、イエスのからだを通して働いた神の霊、聖霊の内住を知る。後になって先のことが分かるということです。

 

イエスの弟子は、イエスが十字架で死んだ後、聖霊が弟子の中に内住してから、イエスが生前に教えられたことの意味を知ったのです。それまではイエスの教えの意味を真に理解していませんでした。

 

聖霊が働かない聖書の言葉など、人間として歴史に残る偉大な人物の言葉、つまり、孟子や孔子や釈迦などの言葉と同じです。

生前のイエスもそのことを知りながら教えていました。自分の死後、聖霊があなたたち(弟子)に降るとすべてを理解すると、教えていました。

 

イエスが死んで聖霊が弟子に降ったから、疑い深くて卑怯で弱い人間が命をもいとわないでイエスの教えが本物だということを人々に大胆に伝え始めたのです。そこでイエスが神であることに確信を持ったのです。

 

ヨハネの福音書第14章26節で「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたに話したことを、ことごとく想い起こさせる」とあるのはこのことだと思います。


今を生きるわたしたちには、イエスの言葉を通してイエスの御霊、聖霊は、わたしたちに働かれるのです。知恵を与え物事の真理を教え、新しい人間を創造する働きなのです。

 

これが御霊の働きで、これが命なのです。精神ではないのです。人間の全存在に働くわたしたちの創り主である神の聖霊なのです。説明できないのです。分けが分からないのです。でも働いておられるのは事実なのです。

 

クリスチャンはよく願っていることを祈ります。それには確かな根拠があるのです。その根拠は下記の通りです。それも聖霊の働きの一つなのです。

 

  • ヨハネの福音書第1章3節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」

 

「万物」とは、すべての存在だけでなくすべての現象すべての出来事を指します。

「言によって成った」とは、創造、歴史上の出来事、キリストの出来事、救済、啓示、これらはすべて神の働きによって起こった事。これはイエスが父なる神の神的力を受けて万物を自ら創造した、ということだと思います。

 

「言によらずに成ったものは何一つなかった」とは、この宇宙の万物は神の言葉が受肉したイエスによってなったということでしょう。

この宇宙の天地万物はイエスによってなったのです。

 

だから、イエスの言葉を信じて、イエスに委ねていれば、わたしたちがどんな状態になっても、大丈夫と言っておられると思います。なにしろイエスは万物の創造主で愛の神さまですから。

 

創造主である神との連絡方法は、唯一祈りです。祈るときは、創造主に対して祈ります。正確に言えば、イエスのみ名により創造主である神に祈るのです。

 

  • ヨハネの福音書第14章13節「 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」
  • 同第14章14節「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」とイエスはいっておられます。

 

ただし、願って叶えてもらえるのは、聖霊が内住しているクリスチャンの願いだけなのです。やはり聖霊が内住していなかったら、祈る人の思いが父なる神の霊と呼応しないから叶えようがないのでしょうか。

 

たとえクリスチャンの願いでも、願えばなんでも直ぐに叶えてもらえるかは別で、その願いが神さまの御心に適い神さまの決められた時にということでしょう。現実に願って叶えられた体験を持つクリスチャンは多いのですよ。

あなたの髪の毛の数さえご存じの方です。だからわたしたちの調子がいいとか悪いとか、わたしたちが人間的にどうだとかこうだとか、そういうことは御霊の働きには関係がないと思います。

 

極端に言えば、どこに御霊が働いていてくださるのか、さっぱり分からない。こういう人でも、ちゃんと御霊は支えて下さっていると思うのです。信じていると意識するのもいいが、意識しなくても聖霊は働いてくださると思います。

 

御霊が心に働く時には、罪を自覚させます。聖霊は聖なる方ですから、わたしたちに自分では気がつかない罪、自分の内に潜んでいる罪が見えてくるのです。

 

聖霊の働き、神の働きは、強すぎてもいけない。神は、一人一人に応じて適度に働いてくださる。これが神の「恵み」だと思います。

聖霊と言うけれども、ぼんやりとしていて、なんだかよく分からない。

 

でも、ぼんやりでもそのように思えるのは聖霊が働かれている証拠だと思います。

神をぼんやりと知ることも恵みです。強烈な恵みを貰ったら、疑いは生まれませんから信仰も生まれません。だから、神を求めることもしなくなり、人間怠けてしまいます。恵みはほどほどがいいと思います。信仰は懐疑に中に育つというのは真実だと思います。

 

信仰は懐疑の中に育つと書きましたが、生まれつき霊的に敏感で、そういう懐疑もなくしっかりとした信仰に入れる人もおられるので、羨ましく思うことがあるのですが、でも、わたしは懐疑があるからこうして聖書を学ぶ機会が与えられているともいえますので、感謝したいと思います。

 

神は、この宇宙を造ってあとはほったらかしではなく、今でもちゃんと働いて、支えて下さっている。それは、何万年か知らないけれども、最初に造られた宇宙の仕組みはすこしの狂いもなく現在も運行しているのですからも明らかです。

 

第三章.聖霊を冒涜する罪

ここでは非常に恐ろしいイエスの言葉を取り上げます。

なぜ恐ろしかったかと言いますと、イエスの言葉を信じるか否かは非常に重要なことだと改めて認識したからです。

 

わが身を振り返って、洗礼を受けるのに、いい加減な考えで決断したのではないかと思ったからです。もちろん、洗礼後の罪意識にも敏感になりました。

 

後で知ったのですが、わたしでなくても、調べてみると、この聖句を読んで、自分が赦されない罪を犯したに違いないと思いこんで、自殺した人たちがいるそうです。

 

さて、本題に入ります。

マルコの福音書では、ユダヤ教の宗教指導者である律法学者は、このように神の霊によって神の業をしておられるイエスのことを、「汚れた霊に取りつかれている」と言っていると書いています。

 

マタイの福音書第12章

  • 同31節.「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊゛に対する冒涜は赦されない。
  • 同32節.人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

ルカの福音書12章10節

  • 同10節. 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。

 

イエスは、これを聖霊に対する冒涜として、この31節と32節の厳しい言葉で断罪されました。

人の子と言うのはイエスのことだから、イエスに逆らうことと聖霊に逆らうことを対比していると思います。

 

したがって、地上のイエスに反抗したことは、(イエスの十字架にかけたのを含めて)赦される。それに対して、復活後の宣教運動で、聖霊の働きに直面しながらイエスがキリストであることを拒否する者は、神の最終的な救いの業を拒否するのであるから、もはや赦しはありえないとする。

 

神はイエスを十字架にかけることによって、過去・現在・未来の人間の一切の罪を贖い赦されました。

そして、その赦しの恩恵を受けるにはイエスの言葉を信じることが必要なのですが、十字架以降イエスの言葉(福音)を聖霊(イエスの御霊とも言います)の導きの中で聞く者に対し、それは終末における最終的な赦される機会なのにそれを拒む者はもはや赦される機会がないと言われていると考えます。

 

その機会は、終末はすでに到来していて新しい命と新しい天地の創造の過程にあるとすれば、終末の終わり、つまり裁き[最後の審判]の時までとなるのではないでしょうか。

 

この個所の厳しい言葉には、マタイの共同体が聖霊に導かれて宣べ伝えているイエスの言葉、福音に対するユダヤ教会堂側の反抗を厳しく断罪している背景があると考えます。

地上のイエスに逆らって死に至らせたことは赦される。しかし、聖霊によって復活されたイエスに逆らうことは赦されないという宣言であると思います。

 

もちろん、この言葉は現在を生きるわたしたちに対する言葉であり、当時のイスラエルに対する最後の救いの呼びかけでもあると思います。

それでは、聖霊を冒涜するとはどのような場合を言うのでしょうか。

 

マタイの福音書第12章32節とかルカの福音書12章10節を読むと、聖霊の悪口を言ったり、逆らうことだと思われます。

イエスは、神の霊の働きによる言葉が「良いもの」(マタイの福音書12章33節)であるとし、イエスを拒否(不信仰)する者たちを「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(同34節)と決めつけて、本性が悪であるから悪いものしか出てこないのだと断罪します。

 

信仰とか不信仰は、イエスに対する告白の言葉で決められています。

悪い人が悪い言葉(イエスへの非難と拒否)を語るのは、その本性が神に逆らう悪であるからだと言っているのだと思います。

これは口から出る言葉は、その人の思いが、心のなかのものが表に出てくるのであって、心と口(言葉)を一体として扱っています(同37節)

 

どちらにしても、悪しき言葉(イエスに対する非難の言葉)が神の裁きの日に責任を問われる(同36節)とし、その言葉によって義とされたり罪と定められるのですね。

それでは、わたしが信仰をもつことに恐怖をもった「赦されない罪」について考えてみたいと思います。

 

先にこのイエスの言葉を読んで、信仰に恐怖をもった人がおられると書きましたが。それはどういうことかといいますと、洗礼を受けて教会のメンバー になったら、それ以後に犯す罪は「赦されない罪」になるとか、聖職者の言葉は聖霊の言葉だから絶対で逆らってはいけないとかこれに類する様々な解釈がこの聖句について言われてきたようです。

 

悪用すれば、信徒の心に脅迫観念を持たせて信徒を自分に都合よく誘導することもできることになりので、非常に恐ろしい結果を生むこともありえます。

 

わたしたちも、自分勝手な思いこみを「聖霊が示された」のだと勘違いして、これを自分だけでなく人に押しつけるようなことがないように気をつけたいと思います。

 

とくに、重荷を負っている方の心は弱いものです。思っている限りはあまり問題は無いと思うのですが、その思いを言葉に出すと他者に影響を及ぼし、時にはその人の人生を狂わすこともあり得ますから、特に気をつけなければと思います。

 

わたしたちの世界は相対的な世界です。それは宗教としてのキリスト教も免れません。だから、今のキリスト教会の姿が(イエスの言葉ではありません)絶対に正しいとは言えないと思います。

 

キリスト教も含めて、人類の歴史は神が新しい天地と新しい人類を創造する為に導いておられます。現在のキリスト教も完成した姿とは思いません。神は、人類もキリスト教会を神の似姿に導いて終末に至ると考えています。

 

したがって、ある信仰的な導きが、聖霊の働きか悪霊の働きによるかの判断に人間的な欠陥や誤謬が入らないとも限りません。人間は何を語っても主観が入るし、言葉を文字にすると色々な解釈が生まれるものですまらね。

 

このイエスの言葉の原因になった、イエスを非難した人たちは、マタイの福音書ではファリサイ派、マルコの福音書では律法学者、ルカの福音書では「ある人たち」とありますが、その人たちが、イエスの悪霊追放の出来事を判定し、公表し、その結果、イエスの悪霊追放が、「悪霊の頭による」ものとして断罪したのです。

 

神の聖霊を判定する資格と権威を持つ人たちこそ、実は、イエスから「赦されない罪」を犯す危険性があるので注意するように警告された人たちであると思うのです。

 

はたしてそういう資格と権威を持つ人と言うのはどのような人なのでしょうか。わたしは聖職者であってもそういう資格も権威も無いと思っていますが、誰であれ、自分で自分をそういう資格と権威がある者として主張する人はちょっと、問題があるでしょうね。

 

その罪の内容は、神の性質に反すること、つまり、神は創造の神であり、命を与える神ですから、「赦されない罪」というのは、イエス自身を攻撃し、神の創造を滅びとし、命を死とし、神を悪魔とすることではないでしょうか。

 

はっきり言いますと、「毒麦のたとえ」にあるように、何が聖霊の働きで、何が悪霊の働きなのか、これは、世の終わりの裁きの時まで分からないと思うのです。

 

事の真偽を裁くのは、神だけです。御霊とは、父なる神が、ご自分の御子イエスの名によってこの世にお遣わしになり、創造の御業を行なう方です。神の霊のことは、神だけが知ると思うのです(第一コリント2章11節)。

 

第四章.人間の新生

<完全な者となりなさい。>

マタイによる福音書第5章48節のイエスが弟子に言われた言葉、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

この聖句を文字通りにとれば、父なる神のように完全になりなさい、といっておられるように思います。

はたして人間は、神様のように完全なるものになれるのでしょうか。

 

そのように思って、もう一度この聖句の前後を読んでみますと、この聖句が置かれた場所は、つまり、敵を愛しなさいとイエスが弟子たちに言われた後に置かれているので、おそらく、完全とは絶対無条件の愛を意味しているのではなかろうかと思うのです。

 

すなわち、あなたがたが隣人を愛するとき、相手が敵だから悪をもって対抗するというように、相手によっては悪で応じるというようなことはあってはならない。あなたがたはいかなる場合にも、相手が誰であろうと無条件でその人を愛し、善を為さなければならない、という意味だと思ったのです。

 

完全の意味がそうであっても、この様な愛の実現は、現実の人間社会では、また神から離れて自己中心的で自分勝手に生きている人間には実現不可能です。

 

「あなたがたも・・神のように・・完全な者となりなさい。」それではこれを実現するためにはイエスはどうしろと言っておられるのでしょうか。不可能を可能にする方法、その方策がなければイエスも上記のような言葉を述べられません。

 

それでは、どのようにしてわれわれ人間を天の父(神)のように完全なものにしょうとされているのでしょうか。

 

もちろん「・・ように」ですから神になりなさいと言っておられるわけではないのはよくわかります。おそらく、そこには、われわれ人間を創造した神の目的があるのではなかろうかと思います。

 

人間の性格は、生まれ持ったもの、つまり遺伝とか育った環境で決まるといわれています。それに、肉体が病んでいたら性格もゆがみます。だから犯した罪の原因がどこにあるのかを確認する必要があります。原因が病であるなら治療が必要です。

 

殺人者の育った環境が最悪の場合、その人を気の毒にも思います。「罪を憎んで人を憎まず」の気持ちです。犯した罪は罰されるべきでしょうが、その人をできたら憎まない方が良い。イエスのいわれる敵をも愛しなさいというのはそういう意味だと思うのです。

 

被害者の身になってみろ、そのようなことができるか、と怒られそうですが、イエスはできると言われているのです。

肉体の病からくる性格のゆがみは、肉体が滅んで次の世へ行けばなくなります。そのときにその人の本当の姿(わたしは人間には表にあらわれている姿とは別に本体ともいえるものがあると思っています。)が表に出てきます。

 

この世では恐ろしい人間でも、その人の本当の姿はやさしい思いやりのある人間かもしれません。イエスがいわれた「敵を愛しなさい」とか「隣人を自分を愛するように愛しなさい」という戒めには、人の表に表れている性格とか行為だけを見てその人を判断してはいけない、表に表れている性格とか行為がその人の本当の姿とは限らないと言われていると思うのです。

 

あなた方にはその人の本当の姿は分からないからあなたがたには正しい裁きはできない。だから神があなた方を無条件で愛したようにあなたがたも無条件で人を愛しなさい。それがあなた方のためにもなる。といわれているのではないでしょうか。

 

神から見て問題は、表に表れている行為ではなくその人の本当の姿が醜く変質するのを恐れられていると思うのです。

憎しみは憎しみを増幅し、その人の本体を醜く変質させます。逆にいえば、善は善を増幅しその人の本体を神に近づけます。

 

聖書には、汝殺すなかれという言葉がよく出てきます。この殺すという言葉は「謀殺」を意味すると聞きます。そういえば、イエスは一度もローマ軍の兵士に殺人をやめろ、兵隊をやめろとは言っておられません。

憎しみを持って人を殺すのがいけないのです。憎しみは増幅し、その人の本体をゆがめるからだと思います。それは神の創造の目的に反することだからだと思います。

 

創造の目的は、おそらく神はわたしたちをこの世でも次の世でも神とともに生きる存在にしょうとされているのではないでしょうか。人間の罪がぬぐわれて、神とともに生きることができるほど魂が清められることが、イエスが言われた完全になりなさいという意味だと思うのです。それが神の創造の目的であり意志であると思います。

 

イエスは完全な者となりなさいと言われましたが、完全になる方法も用意されています。その方法が、御子イエスの教えを信じて、聖霊を受けることだと思います。ただ人間には自由意志があるのでイエスの教えを信じるように強制はされませんが、いつでも神様に心を向ければ救いの恵みが無条件でその人のものになると言われているのだと思います。「人間の新生(2)に続きます」

 

<クリスチャン>

イエスがこの世にこられた目的は、人間に完全になってほしいという御心を伝え、その方法を示すためでありました。それはまさしく、人間の新生といえるものだと思います。その途上の人間がクリスチャンということになります。

 

反逆していた人間の心を開き、神を信じるように導き、その人を造り変えようとされている。この世だけでは、造り変え、つまり新生は完成しないので次の世でもおそらく新生の努力は続くのではないでしょうか。

 

だから、死ぬのも新生の中の一つの段階と言えないでしょか。わたしは、死をそのようにとらえたいと思っています。

人間の新生の完成は、「敵を愛する愛」「隣人を自分のように愛する愛」が普遍的な法則となり支配している状態で、それが天国、神の国ということではないかと思います。

 

そのような愛の実践を求められるのは、たとえば、殺人の原因が、病んだ肉体であることも、育った環境であることも、遺伝であることもある。

 

だから、殺人者の罪は罰せなければならないが、その人を憎んではいけない、それはあなたの為でもある。と言われているように思います。罪を憎んで人を憎まずの精神です。

だから大切なのは、自分ではどうにもならない、持って生れた性格とか賜物ではなく、与えられた性格とか賜物をどのように用いるかということではないでしょうか。

 

憎んではいけないのは、人を憎めば憎しみが憎しみを産み最後には憎むことに快楽を覚えるようになる。そうなればその人の本体、つまり肉体を脱ぎ捨てた後のその人の本当の姿が醜くなる。そして、どんどん神から遠ざかってしまう。

 

肉体が滅び次の世へ行きその人の本体がもろに表に出るようになれば、もし本体が醜ければ神の前に出ることができません。

被害者に殺人事件の加害者を憎むなというのは、被害者の心情を思うとそれは余りにも辛いことです。でも、それでも神に助けを求めて、神の戒めを守ろうとしていれば、神は必ずどこかで傷ついた心を癒されるものと思います。

 

善も悪も憎しみと同じで複利で増殖すると思いませんか。そうすると、殺人という大きな事件でなくても、この世に生きている中で、わたしたちが毎日行う小さな決断が大切だということになります。小さな自己中心的な決断が数を重ねると何が善で何が悪か分からなくなり、その人の本当の姿を知らぬ間に醜くしてしまうという恐ろしい結果になるのではないでしょうか。

 

イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」といわれましたが、いくら聖霊が内住されていても、新生途上の未完成の状態ではその愛を実践するには強い意志が必要です。なぜなら、自分に不利益を及ぼす人を含め、すべての人を無条件で愛する必要があるからです。

 

人の好き嫌いは自然本能的なものだからどうしょうもありませんが、ちょっとした人の言葉に、無意識のうちに腹を立てたり軽蔑したりしている自分に気が付き驚くことがたびたびであります。そのときに一つ一つ反省していればよいのですが、反省もしないでいるとそのような状態が当たり前になり、しまいには自分が人を軽蔑していることに気づかなくなってしまうことがあります。気をつけなければと思っています。

 

キリストを信じれば、聖霊がその人に内住し、その人を神に似た者へと導き、死んだあとには新しい生命の内にあって神とともに生きることができるようにしてくださる。

 

そうですね、これをキリストにあって新しい生命、新しい種類の人間が生まれるということになるのだと思うのですが、キリストの十字架にあわせられて一度死んだ人間が造り変えられるのですから、新しい人間が出現するともいえると思います。

 

この生まれながら持つ自然の命は、今の人類の始祖アダムが、エデンの園において神から離反したので、その状態は子孫であるわれわれにも引き継がれました。神からの離反の結果、聖霊は人間に働きかけることができなくなりました。神の霊、聖霊はわれわれの命の元です。命の元を断たれた人間は肉体が滅びるのは当たり前ですが、神様からの恵みを受けられなくなり、霊的にも死ぬ者となりました。

 

キリストを信じたら聖霊がその人に内住し、その人を霊的に生きる者とし、その人が新しい生命に生まれ変わるように導きます。といいましても、その人は相変わらず現世を生きているわけですから、一時にではなく、いろいろな試練にあいながら徐々に導くわけです。本当に分からないくらいゆっくりとです。

 

そのような、新しい生命に生きるクリスチャンというものは、聖霊に導かれているとは言え、絶対に過ちを犯すことのない人間でなく、つまずくたびに悔い改め、再び立ち上がって始めからやり直すことのできる人のことを言うのだと思います。

 

キリストにある生命が彼の内にあって、彼をつねに修理する。だからクリスチャンは世間で善良であろうと努力している人たちとはちょっと違った立場にあります。

 

通常人が善良なことをするのは、他人によく見られたいとか、よい子であろうと思うから努力するものです。反面クリスチャンが善良なことをするのは、自分の内にあるキリストの生命、聖霊の働きからでたものと言えます。人の眼は関係ないのですね。自分がそのようにしたいからそうするのです。

 

イエスはいわれた、過去の罪を悔い改めて、自己をキリストの十字架とともに捨て、聖霊の働きにすべてを委ねて新しい人生を歩きなさい。わたしが創造の目的に沿うようにあなたを造り変えてあげよう。完全になりなさい。

 

そうです、イエスの約束の言葉を信じ、神の霊、聖霊を受け入れれば、聖霊があなたを誘導し完全なものに変えてくださる。人間の力で、人間の努力で出来ないことでも神にならできる。だから聖霊の導きにあなたの人生のすべてを委ねなさいと言っておられると思います。「人間の新生(3)」に続きます。

 

<復活は人間の新生を証しする>

先にわたしはクリスチャンは聖霊に導かれて完全に向かって歩む新しい人間というようなことを書きましたが、このようなことを書けば、なぜ世のクリスチャンといわれる方はすべて聖人ではないのですかと問われそうですが、それは聖霊を受けた新しい人間でも古い人間の性質をもったままですからクリスチャンの中には聖霊の働く新しい性質と生まれながらの古い性質が同居しています。

 

そして、この世は相変わらずサタンが活躍し、人間の自己中心的性格はそう簡単に改まるものではありません。

それにこの世は所有欲、権力欲、色欲に満ちて罪への誘惑も多い。

 

また、聖霊が内住して新しい人間に作り替えると言ってもそういう状態の中ですから変えられるのも一時にではなく少しずつ、本当に少しずつ本人も気がつかないうちに変えられていくことになるのだと思います。

 

そういうわけで、この世に生きている間に神の創造の目的に適うまで完成することは不可能です。罪と戦いながら、誘惑と戦いながら一歩一歩と前進するのです。罪を犯しては悔い改めをしながら成長していくのです。

 

おそらく新しい人間の創造にはそういう形での過程が必要なのだと思います。そういう意味で、死も新生のための過程の出来事の一つだと言えます。

 

このように人間をとらえると、もしわたしが進化論を認めるとしたら、キリストを信じる者の聖霊による新生が、進化による新しい人間の創造ではないかと思います。そういう意味では、人間の進化が既に始まっているといえます。

 

進化論か創造論かという論争がありますが、動物も人間もDNAというおなじ手段で遺伝情報を伝えていること、両者のDNAの違いはわずかだということから動物とか人間の創造が同じ法則により生かされていると思うし、そうであれば、その背後に同じ創造者が存在すると信じるのはおかしくはないと思うのです。

 

人間も動物も偶然の産物なら、存在するものの中に統一された法則などないはずです。

わたしたち人間は、一定の法則(道徳とか良心とか理性のこと)のもとに生きています。わたしは猫を飼っているのですが、最近思うのは、猫もやはり一定の法則のもとに生かされているということです。猫はわたしたちが思う以上に物事が分かっていると思うのです。

 

この世に創造者がいるなら造られたものの中に創造主の意志が働いていると思うのです。それがわたしのいう法則ということです。

イエスは創造者がいることと、創造者の意志と創造者(神)の支配がはじまったことを伝えました。

 

そのことが真実であることを、奇跡と死と復活を持って証明されました。

現実の世の中は、不法と不条理がはびこりある意味地獄です。

創造主は、その中から自分を信じる者を助けだし、その者とともに生きるために助け出した人間の新生を働き掛けておられると思うのです。

 

そのために、この世に創造者を信じる者のワールドを造ろうとされている、それがキリスト教会ということです。

 

最後に少し長いですけれども、それらのことを現している使徒パウロの言葉をあげておきます。ローマの信徒への手紙第8章18節から23節

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるものでなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

被造物だけでなく霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。・・・」

 

ここで、被造物というのは、人間以外の被造物(自然界)全体を指すと思います。神の子はクリスチャン、つまり新生途上にある新しい人間のこと。

虚無というのは、神から離れて罪に捕らわれて死ぬべき命に沈むこの世のこと。恒常的なものがない無常の姿。目的がない無意味さ、はかなさをいう。ただし、この虚無は、将来の解放という希望の下にある虚無であります。服従させた方はもちろん神。

 

希望は、虚無が克服されること。つまり、罪の体が贖われて、次の世で霊の体で復活し、永遠の命に与ること。それが神の計画によるものであることが示されている。

 

被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されてとは、イエス・キリストにおいて始まった人間の救済のための神の業が完成される終わりの日に、人間だけでなく被造物全体もまた神の救済の完成にあずかる希望の下にあるということ。

 

霊の初穂をいただいているわたしたちも、・・。とは、初穂は、復活されたキリストのこと。キリストは新しい人間の初穂です。ここでは、キリストを信じる者の心に注がれている聖霊を指すと思います。こうして、神に属する者が次の世で復活し、罪と死の支配から完全に解放されて神の栄光にあずかるようになる。

 

体が贖われるとは、自然の命の体でこの世に蒔かれて、次の世で霊の体で復活すること。

心の中でうめきながらとは、最終的な完成の前に全世界は大きな苦難の時代を体験するが、その苦難は新しい世界を生み出すための陣痛と表現されている。

 

人間救済の究極の目的は、キリストを信じる者を死者の中から復活させて、復活したキリストと同じ像にすることだと思います。コリントの信徒への手紙第一の15章の通りです。

 

そして、人間の霊は最後の最後にはどのようになるのでしょうか。旧約聖書コヘレトの言葉第12章7節にこのような聖句があります。「塵は元の大地に変えり、霊は与え主である神に帰る。」

 

第五章.歴史の背後に

<創造の目的>

もし、この天地と万物の創造主がおられるならば、創造主は創造してそのままほっておかなくて、被造物にかならずや何らかの関与をされると思いませんか。人間が物を造るときと同じで、何かを造るときは必ず何らかの目的があって造るものです。

 

この天地万物の中に、秩序と法則が組み込まれているのは誰も疑問はないと思います。そうすると、宇宙に法則があるように人間の歴史にも意味目的があってもおかしくはないと思います。

 

わたしはどのように考えても、余りにも精巧で、秩序正しく整然と造られているこの天地万物をみると、創造主はおられると思います。否定できないのです。

 

次にわたしは考えたのが、もし創造主がおられるならば、かならずやこの人間の歴史に何らかの関与をされているはずであると思ったのです。

そして、人類の歴史の中で大きな影響を与えた出来事を調べてみますと、イエス・キリストの十字架による死と復活(顕現)だと思ったのです。

 

それで、わたしはキリスト教のことを深く知りたくなりました。本当に初歩の初歩からいろいろとわたしのたらない頭でこの十三年間調べてみましたが、その思いはますます深く、また確信に近いものとなりました。

 

たしかに、自分を神だと主張した人間はイエスのほかにたくさんいると思います。十字架に架かって死んだ人間もごまんといます。だけど、死んだあと復活し顕現した人間はいないと思います。

それに死ぬ前に自分が死んだあとに起こる出来事を予告して、それがすべて実現したという人物もいないと思います。

 

わたしは、この二つのことが真実だと思うからキリスト教を信じるのです。そうであれば、イエスの言っておられることは真実だから、この人間の歴史の背後に創造主である神様がおられることも確かだと思うのです。

 

そのような、創造主をわたしは神と呼びます。もちろん、この宇宙と万物が、一定の法則のもとに秩序正しく造られているのを見ると、その神は唯一であると思います。

 

沢山の神がいて思い思い造られたのならこのような人間を含む被造物の世界にはならなかったと思うのです。

人間の歴史は、殺戮と戦争の歴史と言われています。人間個人の姿を見ても、嫉妬と傲慢が渦巻いています。

 

このような人類の歴史をみて、創造主は決して満足されているはずはないと思います。最初人間を創造された時には、極めて良かった、と言われた神様です。さぞがっかりされているでしょう。

 

それとも、これら人間の姿は創造の目的の中で、計算済みのことで、ちゃくちゃくと計画を進めておられるかもしれません。

なぜそのように思うのかといいますと、創造主である神様はこの地球に人間を造る前にこの地球をサタンの支配下に置かれているからです。だから、そのように考えなければ理解できません。

 

旧約聖書の創世記では、神様が、この宇宙を、人間を創造されたとあります。今の人類の最初の人間は、アダムとエバです。

聖書から判断すると、神様は、この創造した人間に、善悪の判断を自分に委ねて、交流が途切れることがなく、神様への感謝の内に毎日を暮らしてくれることを願っておられたと思うのです。

 

そして、多様な人生になるように、あるいは何らかの目的があってか、人間に自由意志を与えて造られました。

また、人間は霊的な存在として造られたと聖書にはあります。その霊の命の元は神様の聖霊で、聖霊が途絶えると人間の霊は死んでしまうのです。

 

ところが、人間は自分で善悪の判断をすることを、サタンの誘いに乗り、自由意志があるゆえに選択し、神様に反逆しました、それから以降どんどん人間は神様から遠ざかって行きました。

 

そのために人間世界は見るも無残な地獄のような姿になりました。

このように、神への背信から霊的に死ぬべき運命にある人間を、2000年前に罪の中から、地獄から救い上げるために神は独り子イエスをこの世に遣わされたのです。

 

イエスの復活は、まさに神が支配する新しい歴史の始まりといえます。新しい人間の誕生と言えます。

だから、イエス・キリストがこの世にこられたときを境にして人類は、以前をB.Cとし、英語では、Before Christ(「キリストより前」の意味)と書く。

 

年代計算は、西暦元年の前の年を、0年ではなく「紀元前1年」とし、年数を逆行させる。以後をA.Dとし、Anno Domini(「主の年に」の意)と書く。

 

年代計算は、キリストが誕生されたとした年を元年として具体的な年を続けるということと決めたのです。

これは人類の歴史が、イエスがこの世にこられた時を境に、この世の君サタンの支配から神の恩恵による支配に移ったことを示しているのです。

 

現在も神の恩恵による支配の時代ですが、サタンは滅ぼされずに人類に影響を与え続けています。

キリストはすでに死から復活したことによりサタンに勝っているのですが、サタンが生かされているのは、意味があってのことだと思います。

 

これについては、もう少し考えてみて、また別の機会に投稿します。聖書には何も書かれていないと思いますので、さてどうなるでしょうか。楽しみです。

 

人類の歴史にこれほど大きな影響を与えた人間が、かつていたであろうか。今もまたこれからも、おそらく人類の歴史が終わるまで影響を与え続けるであろうと思います。

 

わたしは、これらの出来事を神の人類の歴史への関与だと思います。創造主が関与された形跡は、やはりイエス・キリストをおいて他にわたしには思い浮かびません。

 

イエスは、十字架にかけられ死なれたが、聖霊がかわりに助け手として今も働いておられる。そして、次々と新しいイエスを信じる者を起こされている。

 

過去の歴史を見ると、イエスを信じる者は、迫害を受ければ受けるほど増え続けている。そしていまや、世界人口の三分の一はキリスト教徒です。これは歴史的事実です。ここに神の強い意思と聖霊の働きを感じます。

 

神の関与は、この20年ほどの歴史を見ても、1991年は、湾岸戦争で始まりソヴィエト連邦の解体という世紀の大事件がおこりました。この年はまさに歴史が音をたてて転換する年となりました。

 

歴史の大きな転換にともなって各地に紛争と混乱が引き起こされ、そのために多くの人々が傷つき殺され、故郷を追われて難民となり、生活の困窮に喘ぐようになりました。

 

わたしたちは、あまりに無力で、ただただ手を合わせて神の恵みを祈らねばと思うばかりです。

わたしはこの宇宙を宇宙たらしめている、この人間の歴史を歴史たらしめている力が、その背後にあることを信じています。

 

その存在を創造主といってもよいのですが、その力は、自己を示す手段として、われわれを一定の法則で行動するように導こうとする一つの影響力、もしくは命令としてわれわれを導こうとする。

 

導きは、人間に自由意志があるゆえに少し複雑かもしれません。その力がどのような存在かは、神は人を御自分に似た者として創造されたと聖書にはありますから、わたしたち自身を見ればある程度推測できるのではなかろうか。

 

<創造主の意志と人間>

最近は、テレビを見、新聞を読むたびに、もう嫌になる、心が暗くなる記事が多い。見たくも聞きたくもないと思います。世界のどこかでいつも戦争がおこっています。そのたびに大量の殺戮が正義のもとに行われ、膨大な難民と貧困層が発生します。

 

国内では、子が親を殺し、親が子を殺し、誰でもよかったという理由で人を殺す。本当にどうなっているのでしょうか。事実は知っておくべきでしょうけれど、無感動になっていく自分が怖いと思います。

 

その中に、我が身の無力さとともになぜもう少しなんとかならないかと思ういらだたしさと、無秩序が支配している世の中に、静かなれども力強いどうしょうもない歴史の流れといいますか、強い意思を感じる時があります。

 

それは、この世界の歴史を支配しておられる神の意思であると思うのです。

どこの国の人であろうと、人間個人に戦争を望んでいるかを聞いても、きっと望んでいる人間など殆どいないと思います。

 

集団になると、国家となるとなぜこうも戦争をしたくなるのでしょうか。国家となると、罪の意識も薄れるのでしょうか。そこにサタンも働きやすいのでしょうか。

 

人間個人の心の痛みは、全体には通じないのですね。もちろん、戦争を起こす人間の中には、富という偶像にとらわれた哀れな独裁者、殺戮者もいます。

 

その人たちの末路は、きっと惨めなものでしょう。いや、それは人間の願望で、イエスはそう言う人でも、本当に自分の罪を悔い改めたら罪が赦されて天国へ行けるといわれています。

 

問題はその人間の本当の姿はどうなのかということだと思います。

 

もしかしたら、その人を無慈悲な人間に育てたのは、教育であるのか、育った環境が悪かったのか、肉体の病が原因で心を病んでいるのか、それにサタンの働きを認めるならばそのせいかもしれません。

 

本当のその人はやさしくて思いやりのある良い人かもしれません。このように考えると、罪を憎んで人を憎まず、という考え方も分かる気がします。

国家の指導者も、個人としては、戦争などしたくはないと思っていても、変えられない大きな歴史の流れに流されている。

 

その歴史の流れの中に、政治や経済の背後に、神の支配が貫かれている、と思いませんか。

ソ連の激変の中で、あらわになったスターリン時代の「粛清」の事実を知り、その内容のすさまじさのゆえに改めて衝撃を受けました。

スターリンは権力を維持するために数千万人の国民を「粛清」したという。何の罪もない人々を殺し、シベリヤの抑留所で餓死凍死させたのでした。

 

このような血の上に立つ権力は存続できるはずがない、かならず滅びると思う。その滅びるとき、神の歴史への介入が顕わになるとわたしはとらえます。

イラクもしかり、中国の毛沢東もしかり、北朝鮮の金正日もしかりであります。神の怒りが満ちるとき歴史は大きく動くと思うのです。わたしは、そこに人間の力ではどうしょうもない歴史の流れを見るのです。神の歴史への関与を見るのです。

 

旧約聖書をみても、神は、罪の無い者の血を流すことを決して赦されない。その神が、歴史を支配しておられる。

この事実を認めることは人間にとって必要なことかもしれない。神は、謙虚になりなさいといわれている。

わたしたちの国も、先の大戦で多くの罪のない人の血を流した。

 

戦後の日本の繁栄はその罪への悔い改めの上に成立したのだと思う。現在の繁栄は、平和に徹して血を流すことを止めたことに対する神の祝福であるととらえるべきだと思う。

 

しかし、この繁栄で再びこころ高ぶり、国内国外の弱者の涙を放置し、声なき自然環境を破壊することを続けるならば、弱い者の味方である神は、決してその罪を見逃されないと思う。

 

神を畏れるとは、そのような神が歴史を支配しておられることを認め、謙虚になることだと思う。現在の日本は富という偶像を拝み、歴史を支配する神を恐れることがない。

 

ほとんどの人は神を知らないし、また、知ろうとしない。クリスチャン人口が全人口の1%に満たないという現実はどのように考えればよいのでしょうか。

 

今年日本は大きな選択をしました。民主党政権の誕生です。わたしは民主党の政策に一抹の不安を持っています。しかし、このようなドラスチックな政権交代が実現したのは、その背後に神の摂理が働いていると思うのです。

 

だからわたしは民主党政権を信じるというより、神の摂理を信じたいと思います。神はこの国をどこへ持っていかれるのか時間の中を生きるわたしにはわかりませんが、神を信じ祈りたいと思います。

 

こうした神を知らない人々の中にも、神の摂理が働いているなら、必ず訪れる裁きに対する恐れるとともに、何事も無駄はなく益としてくださる神を信じたい。

 

それは、神を信じる者も知らない者も最終的には神の祝福をうけて救われることを願うものです。

宇宙創生時に、そして2000年前に光はこの世に来ました。神の言葉と共にきました。

 

混沌という無秩序に向かっているこの世界に、神は必ずや光となって三度こられる。こられるのは、明日かもしれないし1000年後かもしれない。その日は、誰も分からないから目をさましていなさいとイエスはいわれる。

 

こんな話、皆さんは信じますか、といっても、簡単に信じる人となかなか信じられない人が現実にはいます。

誰が信じるか分からないからクリスチャンは誰にでも手当たり次第にイエスの御言葉を伝えるのです。

 

聖書には、信仰をもつのは、神の霊、聖霊の働きによると書かれています。

だから、み言葉を聞いた人が、そのみ言葉に触れて信仰を持つとき、み言葉に聖霊が働かれて、その人が聖霊の働きを受け入れたということだと思います。

 

イエスは十二弟子に、御言葉を伝えることを命令されただけで説得するようには命令されていません。誰が信じるかは神のみぞ知る、ですね。

そして、チャンスは誰にでも与えられるが、イエスの御言葉を信じるか信じないかは、本人の自由意志に委ねられているのです。

 

さて、イスラエル民族の信仰の歴史を見てみると、イスラエル民族は、神との契約とか預言者を通して語られる預言という伝承を、歴史の中で、体験を持って一つ一つ確認してきました。

 

預言という伝承が体験をもって実現した時に、歴史は意義を持ち、ということは、体験を、神が関与されていると確信することができて、歴史の中に生きたものへと変貌したのだと思います。

 

だから、イスラエル民族は、歴史の背後というか、歴史上の出来事に神の働きというか、存在を見てきた、確認してきたといえるのではないでしょうか。

 

<創造主の真意>

人間を罪の中から救い出し永遠の命を与えるために神は御子イエスを十字架に架け復活させたのならそこにはどのような意味があるのだろう。なぜそのような方法をとらねばならなかったのだろうか。

 

人間が何かを造るときは必ず目的があって造ります。創造主である神も人間を創造するに際しなにか目的をもって創造されたと想像するのはおかしくはないと思います。

 

サタン(悪に導く力と言う意味で)が閉じ込められたこの宇宙にエデンの園を造り自由意志を持った人間を置けば、ムクで無防備であった人間はサタンに誘惑されて罪を犯すのは当たり前です。

それでも神はそのようにされたのです。わかって神はそのようにされたとしか考えられません。

 

人間はエデンの園でサタンにそそのかされて、善悪の判断はわたしに委ねなさいという神の戒めを無視し、自分で善悪の判断をして神のようになりたいと思って神から離反しました。

 

それがために神との交流が途絶えた人間は、神から命の源、聖霊を得ることができなくなり、霊的に死ぬものとなりました。

また、創造主である神の創造の目的、神の導きから離れていた人間は、自分が何者でどこから来てどこへ行くかもわからずこのサタンが支配しているこの宇宙で生きている。

 

神から遠ざかった人間世界は、不法と不条理に満ち、真理は何かもわからないので、自分の力では回復不能な状態にある。

なぜなら、サタンが支配しているこの宇宙の中ではその状態が当たり前ですから、その中で生まれ育った人間には何が罪かも、何が真理かもわからないのは当たり前です。

 

自分は何者でどこから来てどこへ行くのかわからないのは当たり前です。

そのことを人間に知られないようにするためにサタンは妨害します。

 

なぜなら、もじ、人間が己の真実の姿を知ったら、サタンは自分の思惑を、つまり人間を自分の支配下に置き、自分を神のようにあがめる存在にしたいという目的を達成できなくなるからです。

 

サタンは、人間の心を惑わし、人間に真理が何かをわからないようにしているのです。自分が作られたものであるということもわからないように、人間を惑わしているのです。

 

神はこの世で人間に艱難を与え、忍耐することを教え、練達を教え、そこから希望を見出すことを教えようとされている。(ローマ人への手紙第5章4節)

 

これは訓練の何者でもない。だれかが言いました。この世は、人間の霊的訓練のためにあると。

そのようにしておいて、神は人間を罪の中から救い、自分が何者でどこから来てどこへ行くのかを教えようとされている。

 

そのためにイエスをこの世に送られた。

それも、神の一方的な力で一気に全人類を救うのではなく、イエスの十字架で人間の罪は購ったが、救いの恵みを受けるかどうかの選択は、個人個人の意思に委ねられた。

 

神を選ぶかサタンを選ぶかの選択はあくまで人間の自由意志に任せられた。

信仰をもっていない人がだれでもが思う疑問、神様が人間を創造したのなら、神様から離反することは罪だというのはわかるにしても、なぜ神様は人間の罪を贖うために自分の子供をこの世に送られて十字架にかけるようなことをされたのか。自分の愛する子供をですよ。

教会では、それだけ神様は人間を愛しておられるというのが一般的な答えです。他に方法はなかったのか。

 

聖書では、神様とイエスは親子関係です。イエスとイエスを信じている弟子とは兄弟です。わたしは、十字架は以下のことを整えるためになされた御業と考えます。

 

創造主である神から人間を見ると。よく考えれば、もし自分の罪を認めないのに一方的に許せばそれは単なる親バカです。

そこには子供への愛はありません。自分勝手な行動をしている子供を放任しているだけです。

それではろくな子供にならないし、親の意見も聞く耳を持たない子供が出来上がります。やはり罪を許すためには、

 

最低限、親と向き合い、親の言葉を聞こうと、理解しょうとする気持ちがなければ、親が何を言っても無駄だと思うのです。それではその子の成長は望めません。

 

神様は、人間がこちらを向くのを語りかけながら待ってはおられるのですが、それも気の長い話でその人が死ぬまで待っておられます。根気よく。侮辱されようがののしられようがまっておられます。

そうです、人にはそれぞれその時があるということです。神様を知るのにもっともふさわしい時があるということです。

 

神との和解の最初の第一歩は神様を認め、つまり自分は作られたもので創造主がおられることを認め、その創造主から離れていたこと、つまり、罪を認め、その罪を悔い改めて、イエスの約束の言葉を信じる決心をすることが必要なのです。

 

そうすると、神の霊、聖霊もその人間に内住できるようになる。そして、神と人間との交流が始まり、その人間に神の愛が注がれて、神はその人間を新しい人間に造り変えて天国に導いて下さる。霊的成長も望める。

 

神の創造のみ業、つまり目的がその人の上に実現するのです。いつまでも廃ることがない、聖書の言葉、「信仰と希望と愛」が実現するのです。

この信仰は神を信じること、希望は次の世での復活と天国への信仰を、愛は隣人を自分のように愛する愛をもつことを言っていると思います。

 

では、なぜイエスは自分が書いたものを残されなかったのでしょうか。新約聖書は、イエスの弟子が神の霊感を受けて書いたと言われています。

 

人間が霊感を受け書くことによりその解釈は、聖霊の働きにゆだねることができるということになると思います。もし、聖書の言葉が、神様が書かれた絶対なものなら、解釈は生まれないし、聖霊の働きも必要ありません。

 

神様はそのような方法を取らずに、人間の手で人間の言葉でご自分の意思を伝えようとされているのです。

もちろん、人間の言葉が不完全であることもよくご存じであると思います。もともと意思を、思いを伝える手段としての人間の言葉は不完全です。

 

不完全でも、人間は文字という方法でしか自分の思いを伝える手段を持っていないのですからそれを選ばれたのはいたしかたないことだと思います。

 

神は意思伝達手段としての文字や言葉の不完全を補う手段として聖霊の働きに任せられたのではないでしょうか。だから、聖書はあくまでも聖霊が働く場として意味があると思うのです。

 

神はこのように人間世界にいろいろな方法で関与し、この宇宙の背後で、創造の目的を達成するために働いておられると思うのです。

神も仏もあるものか、と叫びたくなる時があっても、イエスの言葉を信頼しこれからも生きていけたらと思うのです。

 

この2000年間、聖書を読みイエスを信じる者がどれほど生まれてきたか。キリスト教の歴史をみると、イエスの言葉は決して作り話などではなく、言葉の背後には神の霊、聖霊が働いておられると信じざるを得ないのです。

 

世界人口の3分の1以上を占めるキリスト教徒に、あなたたちは間違っていると言える自身はわたしにはありません。

無料ブログはココログ

最近のトラックバック