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カテゴリー「キリスト教とは」の記事

2007年9月14日 (金)

キリスト教の救いと裁き

キリスト教の創造神は、愛の神であり裁きの神でもあります。ここでは、創造神の裁きについて考えてみます。
ヨハネによる福音書第12章47節に、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」

というイエスの言葉があります。またヨハネによる福音書第9章39節には、「わたしがこの世にきたのは、裁くためである。

こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」というイエスの言葉があります。この二つの聖句は矛盾しているようでしていないのです。

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2007年11月 3日 (土)

罪と救いの構造

聖書では、人間みんな罪人、となっています。これは原罪をもつからですが、信仰を持たない人には理解し難いことであります。一般的には、刑法に抵触して裁判所で有罪の判決を受けなければ罪人とは言いません。

しかし、聖書での罪の構造は、まず原罪がある、その周りに思っただけで罪となる思いの罪(裁き、盗み、殺し、姦淫などの思い)があり、更にその周りに行いの罪(思いが実際の行動につながる)があります。

このように三重構造になっていて、神様は全ての罪を罰せられる。刑法で裁く罪は、上のうち表から見える行いの罪だけであります。

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2008年3月 1日 (土)

神のまことを歩む

わたしが聖書に出会ったのは、たしか二十歳くらいの時ですが、本当に読み始めたのは五十過ぎでした。もう人生も後半になって、聖書を読み始めたのです。

それまでは、宗教には全く無縁な、毒にも薬のもならない、どちらかというとわが道を行く、自分の生き方にこだわる自己中のサラリーマンでした。

聖書を読み始めてからもう十年以上になります。聖書を読んでいて、御言葉に聖霊が働かれているという不思議な体験、その体験により、生きとし生けるものの命の一体感と命は輝くものだということを知りました。
そして、キリスト教のことがもっと知りたいという強い思いに惹かれました。

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2008年5月22日 (木)

キリスト教の不思議な生い立ち

皆さんも、ご存知だと思いますが、キリスト教の聖典である新約聖書は、イエスが書いたものではありません。イエスは現存中自ら書いたものを何も残されませんでした。

新約聖書に書いてあることは、イエスのことですが、書いたのは、イエスから直接教えを受けた者とかイエスの教えを信じる者、いわゆる弟子達で、イエスが死んでから20年以上も経てから書かれたものの寄せ集めです。

歴史的事実として確認されていることは、イエスという男が約2000年前にイスラエルのナザレの地で大工の父親の手伝いをしながら生きていたこと。
その男はローマの法律で裁かれ、十字架に架けられて死亡したことです。

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2009年4月 1日 (水)

キリスト教の伝道(1)

キリスト教の伝道とは、ほかの新興宗教のように自分の主張を世に知らせるために、いわゆる教祖と言われる人の人徳とかカリクマ性などをもって人を変え、大きな影響を与え、それによって信徒をつくるということではありません。

キリスト教の伝道とは、救い主イエス・キリストとの出会いの喜びの体験を世に証することなのです。

イエス・キリストとの出会いとは、イエスの約束の言葉、すなわち聖書の言葉を信じ、聖霊を受け入れることなのです。この聖霊の働きが欠かせないのです。

聖霊は目には見えませんが、外国であれ日本であれ殉教したキリスト教徒の歴史を調べると聖霊が存在し働かれていることを認めずには理解できません。

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2009年4月 2日 (木)

キリスト教の伝道(2)

キリスト教の伝道(1)からの続きです。
人間の罪の贖いのために十字架に架けられ死に、復活し、四十日間弟子たちの前に現われて天にのぼり、助け主であるイエスの復活の御霊、聖霊が弟子に降ることによって、はじめて弟子はイエスが生前に語られた教えの真理を理解できました。

イエスの死からの復活を体験して迫害にも負けずに伝道する力を得たのだと思います。

古代教会の伝道は、イエスの教えの言葉というよりも、イエスの十字架死と、復活が主であったと思います。それほどイエスの復活というものが当時の弟子たちに強烈であったのだと思います。

もちろん、このときには、まだ新約聖書はできていません。

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2009年5月 1日 (金)

キリスト教は不寛容か(1)

キリスト教の現在に至る歩みの中で、犯した誤りを調べてみました。それは大きく四回あるということです。簡単にまとめてみました。その原因は寛容と不寛容、あるいは正統と異端の問題と関わっているということです。

それはどのような状況かといいますと、キリスト教が確立していないとき、発展と衰退を繰り返す中で、ある時期に暫定的に要求された神学を別の状況の中で異端と断じる。
ところがまた暫くすると、先に異端とされた信仰が要求されるような状況が生じてくる。

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2009年5月 2日 (土)

キリスト教は不寛容か(2)

「キリスト教は不寛容か(1)」からの続きです。
最近アメリカのメソジストのクリスチャンと出会い、話をする機会がありました。

欧米のキリスト教は不寛容だと思っていたのですが、その方は、日本の仏教の葬式に列席するときには焼香もするということです。その国のしきたりも尊重するということです。アメリカ人のキリスト教徒でもいろいろな方がおられます。

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2009年5月12日 (火)

十字架と救いについて(1)

クリスチャンでなくても誰でも知っている十字架について、今日は考えてみます。十字架はまぎれもなくキリスト教の象徴です。十字架の横線は天と地、すなわち神と人間の断絶を意味しています。

縦線は、イエス・キリストが神と人間の和解の為に上から下に、この世に来られたことを意味しています。
イエスは神の一人子であり、人間の罪を贖うために約2000年前にこの世にこられ、ユダヤ教指導者層とローマ帝国の属領ユダヤの統治者ポンテオ・ピラトはイエスを十字架上に処刑しました。これは信仰の有無に関係なく歴史的事実です。

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2009年5月14日 (木)

十字架と救いについて(2)

「十字架と救いについて(1)」からの続きです。
イエスは十字架に架けられて死に、三日後に復活され、四十日間弟子の前に現れて、その後天に上り父なる神の右の座に着かれた。そしてイエスは、イエスを信じる者のために、父なる神にお願いして助け主として聖霊をこの世に遣わされた。

従って、聖霊はイエスの復活の御霊ともいわれ、この世にあまねく存在し、今も働いておられます。その働きは、未信者に罪を示し、真理へ導き、真理について教え、イエスを証しする者に力を与えます。これらは全て、聖書の言葉によってなされます。

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