カテゴリー「キリスト教とは」の記事

2017年3月 2日 (木)

エクレシアと制度的共同体

一般に教会とは、キリストの民の共同体で、規則をもち、信条と教義を掲げ、洗礼や聖餐の儀礼を行い、聖職者の組織をもつ制度と定義したいと思います。そして、そこで信じ表現されている宗教が「キリスト教」ということでしょう。

エクレシアとは、その中での御霊による交わりの集会(キリストを信じる人々の集まり)を指すのだと思います。パウロがよく使う「キリストにあって」とはそのことを指しているのでしょう。

したがって、制度的教会はエクレシアの容れものであって、エクレシアそのものではないと思います。

神の御霊に満たされたエクレシアは、キリストの充満体ですが、制度的教会は必要により歴史の流れの中で生まれた、制約された相対的な制度だと言えます。

キリストの充満体である(御霊に満たされた)エクレシアは絶対ですが、制度的教会は絶対ではなく相対です。
制度的教会は必要により生まれたものですから、成長しながら変遷し、キリストの再臨までの一時的、相対的なものです。

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2016年2月10日 (水)

キリスト信仰概観(2)

ここでは、聖書を読み誰でもが疑問に思うことをわたしなりに考えて書いてみたいと思います。

聖書には、病が癒される話、悪霊から人を解放する話、はては、死んだ人が生き返る話、いろいろと信じられないことが書いてあります。そして、極めつけはイエスの十字架死は全人類の罪を贖うための死だと教えます。

そして、それらの出来事は、神の人類救済の御計画の御業の一貫だと言っているのです。

ここで確認しておきたいのですが、信じるとは、それらを肯定的に読むことだと思っています。ですからこの投稿文を読まれる方は、聖書に書かれていることを(疑っても)肯定的に受け取っていただきたいのです。

頭から聖書を否定するのならば、読む必要はありません。疑いは否定ではありません。疑いを晴らすために肯定的に読むことも必要だと思うのです。

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2016年2月 9日 (火)

キリスト信仰概観(1)

聖書において神は、どこか遠い空で鎮座しておられるのではなく働きそのものです。
神はこの天地万物を存在させ、生命を生起させ、支えておられる働きそのものなのです。

神の働きの色々な面の一部の体験が世界中にある様々な宗教となったのだと思うのです。

日本の多神教も、日本人は自然を神秘なるものととらえますから、その自然を創造した神の働きが余りにも断片的で無数であるから、生まれたと言えます。

つまり、一つ一つの神の働きを一つの神としてとらえますから、八百万(やおよろず)の神々が生まれたのだと思います。

世界の宗教は多神教が殆どで、一神教は旧約聖書を正典とする、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教のみではないでしょうか。

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2014年3月 4日 (火)

キリスト教の福音

今回は、福音とは何かについて考えてみたいと思います。
その前に、キリスト教の罪について書いておきます。

わたしたちを罪の中から救済するとはどういうことかと言いますと、わたしたちは神に造られた存在です。だからわたしたちは造られた計画のもとに生きることが求められます。

ところが今のわたしたちはその神から離れて自分勝手に生きているのです。
それは明らかに神にとって人間は罪の中にあるわけです。

わたしたちの周りに起こっている悪いことは全てそこから派生して生まれていると言えます。

そういう異常な状態にある神と人間の状態を正常な状態にするための神は御子イエスをこの世に遣わされたのです。福音とは、そのために神が一方的にご計画されている人類救済のためのみ業と言えます。


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2012年6月 4日 (月)

キリスト教は教えの宗教ではない

2000年前にこの地上を生きておられたナザレのイエスが現在のわたしたちの罪の贖い主となる、と聖書は教えています。

これはいったいどういう意味なのでしょうか。今回はこのことを考えてみたいと思います。
キリスト教は2000年前この地上で生きていたナザレのイエスという男を神の子と信じる宗教です。

イエス・キリストのキリストとは救い主という意味ですから、ナザレで生まれた2000年前の男がわたしたちの救い主と崇めることです。

罪を贖うために死ぬということは、人身御供になるということです。人身御供になるためには、イエスはわたしたちと同じ人間であらねばなりません。

誰に対する罪かと言うと、神に対する罪です。だから神に全人類の罪の許しを願うためにイエスは代表して、生贄として十字架に架けられ殺されたのです。

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2011年10月22日 (土)

迫害の原因

この2000年間のキリスト教の歴史をみると、キリスト教は迫害の中を生き残ってきた宗教といえると思います。なぜキリスト教がこれほど迫害されるのかを今回は考えてみたいと思います。

聖書の神は人格の神です。自由と愛の神です。それは、ヨハネによる福音書第14章20節の「かの日には、わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたにも分かる。」と言われているように、

イエスは十字架により殺され復活し天に昇るがそのかわり聖霊(三位一体の神の三位格)を送りあなた方の内に一緒に住む、そしてあなた方を導くといわれました。 

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2011年10月 8日 (土)

キリスト教は外国の宗教

キリスト教はなぜ日本には定着しないのでしょうか。外国の宗教だからでしょうか。確かにキリスト教は外国の宗教です。聖書は翻訳されたものが伝わっています。

しかし、よく考えると、キリスト教はそもそものはじめから翻訳の宗教なのですね。キリスト教の聖典である聖書の生い立ちを調べてみますと、キリスト教のもととなる聖典はギリシア語で書かれていたということです。

キリスト教の最初の使徒とと呼ばれる人たちは、ユダヤ人でした。彼らは、ヘブライの神を父なる神とするイエス・キリストをギリシア語で伝えました。ユダヤ教の聖典はヘブライ語ということです。

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2011年3月 2日 (水)

キリスト教は聖霊の宗教(2)

新約聖書は、イエスの弟子が神の霊感を受けて書いたと言われています。では、なぜイエスは自分が書いたものを残されなかったのでしょうか。

なぜ、後のことをすべて弟子と聖霊の働きにゆだねられたのでしょうか。現在の新興宗教の教祖には、自らの行動は知りませんが、教えと言いますか自分の思想を書いた沢山の本を出版しお金儲けをしている方がおられますが、それとは大きく違います。

イエスが書いたものを残されなかったというのは、イエスは字が書けなかったとか、現在の紙のようなものがなかったので書き残すことは簡単なことではなかったとか、

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2011年3月 1日 (火)

キリスト教は聖霊の宗教(1)

イエスは十字架にかかられる前に弟子たちに語られました。ヨハネによる福音書第14章26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」。弁護者と言うのは、聖霊のことです。

したがって、聖霊のことを、イエスの御霊とも言い、肉イエスが地上でしょうとされていたことを世界中でなさんがために霊となられたイエスです。

ヨハネによる福音書第16章 4節「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」。

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2010年11月 2日 (火)

キリスト教とは(2)

さて、投稿文「キリスト教とは(1)」ではキリストに属する者とそうでない者を見分ける基準は、その人が聖霊のもつ性質をもつかどうかだと書きましたが、(1)に引き続きそのことを書いてみます。

投稿文「キリスト教とは(1)」では聖霊の三つの性質のうち、「信仰告白」を取り上げましたが、今回は、もう一つの聖霊の性質である復活について書きます。

復活というのは、いったん破滅した家庭とか国が、破滅した状態から再び立ち上がるとかをいうのではなく、神が自分を死者の中から復活させてくださるという来生への希望を言うのだと思います。これがイエスの言われる永遠の命をもつことだと思います。

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