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カテゴリー「聖書と人生」の記事

2013年6月27日 (木)

わが人生を振り返る

わたしは道に迷ったら、自分の内心の意志に聞き導かれるところを進んでみることにしています。もし、その選択が神様のみ心に適っていないならば必ずダメになる。

それが分かった時に引き返せばよいと思う。無駄と思われる回り道も、神様は将来その経験を用いてわたしの益として下さる。

人生まじめに生きていればきっと神様は助けてくださる、その様に信じています。わたしは自分の歩んだ道を振り返ってみて、神様の摂理、配慮をそこに強く感じています。

少し、恥ずかしながらわたしが歩いてきた社会人としての道を書いてみたいと思います。参考にもならないと思いますが、

わたしの歩んできた道は、誰も関心を持たない、平凡な人生です。過去を振り返ってみて、まことにわたしらしい人生を送ったと思っています。もう一度やり直しても、やはりまた同じような人生を歩むのでしょうね。

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2013年6月26日 (水)

人生で道に迷ったら

わたしは神様の存在を信じる者です。その神様はこの世の万物を創造され、摂理(自然界を支配している法則)をもってこの世の万物と万象をつかさどっておられると思うのです。

ある科学者が言っておられました。
「その摂理、すなわち万物と万象には「調和」を感じる。存在するものにはすべて意味が付加されており、それらはすべて関連しあっている。あらゆる存在は奇跡としか思えないほど完全なシステムとして在る。」

科学者の目から見るとこの世の万物・万象は驚くほど精密で調和していると言うことです。そして、それらはすべて関連しあっている。

わたしたち個人の一生をみてみても、寿命の長短、人生の中で負う荷物の大小、不公平、不条理に思えることが多々あります。

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2011年9月19日 (月)

クリスチャンとして生きる

イエスを信じ洗礼を受けクリスチャンになっても、教会を離れていく人はたくさんいます。しかし、理性的に判断してイエスの教えを拒否して離れていく人はいないと思います。でも、教職者とか教会の過ちの歴史につまずいて離れていく人はおられます。

おそらく、そういう人は、神を見ずに教会とか教職者を見て信仰生活を送っておられたのだと思います。教職者も人間ですからイエスの教えを完全に実行できているとか限りません。

間違いも犯します。教職者も色々ですから、当然教会も色々です。だから、通常クリスチャンは自分の肌にあった教会に集うものです。したがって、人間を見て信仰生活を送ればつまずくことは当たり前です。

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2011年8月 4日 (木)

何が幸せか(2)

「何が幸せか(1)」からの続きです。
聖書には、マタイによる福音書第6章33節、34節を読みますと、神の義と神の国を求めたら、後のことはすべて与えられると書いてあります。

神の義と神の国とそれ以外のことには因果関係があるのですね。どのような因果関係でしょうか。それは心の状態ではないかと思います。

衣食住、健康、人間関係など外的環境的なものと心の喜び・平安とを取り上げてみたら、後者の心の状態が原因になって、ほかの外的なものがもたらされてくるという考え方です。

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2011年8月 1日 (月)

何が幸せか(1)

人間はこの世が終わればすべて終わりでしょうか。それならば何が幸せでしょうか。
財産を築いても、地位とか名誉を得ても、悪いことをしても死んだらお終い。善いことをしても何も報いはない。

したい放題に生きて死んだらお終い。そのような人生が幸せだろうか。それとも、来世への希望を持って生きていくことが幸せでしょうか。

聖書は、人間が幸せになるためには、神(創造主)とともに生きることだと書いてあります。その人生はこの世から始まり来世に至る生き方です。

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2011年4月27日 (水)

聖書と艱難

東日本大震災で被災時のエピソードが毎日のように新聞に書かれています。他者のために命を捨てられた方がなんと多いことでしょう。

たとえば、津波を知らせるために最後まで車で走りまわり、波にのまれた人、津波警報を呼びかけながら波にのまれた人、きっと、その時のその方々の心の中は、不安や死の恐怖はなく、ただ他人を助けなければという思いだけだったのでしょう。

多くの人が他者を助けようとして津波にのみ込まれて亡くなった人が多いということです。

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2011年3月28日 (月)

東日本大震災を思う

東北関東大震災、大変なことが起こりました。言葉も出ません。ただ頭を垂れて亡くなられたすべての人に神の祝福がありますように、と祈るのみです。

避難所においては、人の多くは家族や親しい人を失い、悲痛な思いで寒さとひもじさに耐えながら毎日を過ごされていることと思います。亡くなられた方のご遺族の心痛を思いますと言葉もありません。

この巨大地震は千年に一度の大地震ともいわれています。先に投稿しました「自然法則と信仰」と重複する部分もあると思いますが、ここでは今回の震災をどのように捉えるべきか、聖書から見てみたいと思います。

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2011年1月14日 (金)

オンリーワンの人生

人が目的と意味を持ってこの世に生まれたのなら、人は1人残らずこの世に存在する価値があるはずです。それは、その人が何かができるという能力以前の問題、存在そのものの価値の問題だと思います。

誰でもがこの世に存在する価値があるのなら、その価値を守ろうとするのが自尊心の原因でもあると思います。

この自尊心は決して傲慢とか自惚れではなく、人間が人間であるために、人間が生存するために必要とする健全な自尊心といえるものだと思います。平たく言えば、自分を大切に思う心と言えるのではないでしょうか。

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2011年1月 9日 (日)

自分探しの旅

聖書には、人は意味目的をもって創造主である神によって造られた作品である、と書いてあります。人は偶然この世に誕生したのではなく、創造主である神の意思によって意味と目的をもって造られた作品であるということです。

だから、その人と言う作品を完成させるのは、神でありその人であるということになります。神だけでも人だけでもないのです。

人生における色々の悩みの根底にあるものとして共通するのは、みんな生きたい、死にたくないという生きることへの欲望ではなかろうかと思います。

その欲望は、創造主の意思で、生きている人間は例外なくもっているものだと思います。

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2011年1月 1日 (土)

キリスト教徒と戦争(2)

キリスト教徒と戦争(1)からの続きです。
前回で書きました、聖書の毒麦のたとえ話は、キリスト教徒といわれる人の中にも、悪い者の子も混じっている。

だから、教会へ行っている人全員が真のキリスト教徒ではないし、キリスト教会は世の終わりまで、常に善人と悪人が混在する種々雑多な人々からなる集団として示されています。

この世の中も良い麦と毒麦が混在して育つ広大な畑であります。キリスト信徒だと主張する人々の中にも、御国の子どもたちと悪い者の子どもたちが入り混じって存在することを教えています。

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