カテゴリー「おじさんの聖書」の記事

2018年1月 2日 (火)

善いサマリヤ人

マタイの福音書22章37節にイエスが最も重要な掟とされた言葉があります。

それは、「心を尽くし、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』です。

この聖句は、イエス自身が膨大な旧約聖書の内容をまとめられたものと思います。

この聖句そのものの解説は、「最も重要な掟」(カテゴリーは共観福音書を読む)として別に投稿します。

今日はこの聖句の『隣人を自分のように愛しなさい。』について考えてみたいと思います。

そうすると、神がわたしたちに求める愛がどのようなものであるかが見えてくると思うからです。

この「自分のように」とは、一言でいえば、自分がしてほしいと思うことを相手にしてあげなさいということだと思います。

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2017年3月 2日 (木)

イエスの非暴力

イエスの教えの中の非暴力のみ言葉をマタイとルカの福音書からひらってみました。イエスは弟子に迫害する者、敵対する者の多いこの世の生き方を教えられたのです。

まず、ルカの福音書6章27節から28節です。

●27節.「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

●28節.悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

27節の「しかし」は、世の人たちの普通の考え方や生き方(とくに周囲のユダヤ教社会の常識)と比べて、それとは違う生き方を言おうとされているのでしょう。

「わたしの言葉を聞いて」、すなわち、イエスの言葉を聞いて、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」ですが、「言葉を聞いて」と「しなさい」の間には条件が入ります。

人間の努力では敵を愛するとか、自分の不利益を及ぼす者に親切にはできません。

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イエスの受難の意義

「イエスの十字架の理由」は別の投稿文で、各福音書を比較して考えてみましたが、ここでは、イエスの十字架の死の意義を各福音書がどのように取り上げているかも見てみたいと思います。

聖霊降臨(信徒言行録2章)が、福音宣教活動の始まりとされていますが、福音宣教において弟子たちは、イエスの十字架の意味をどのように理解し、意義づけるかが最大の問題であったことでしょう。

弟子たちはみなユダヤ人でしたから、当然その出来事を聖書(旧約聖書)の中から調べ、イザヤ書53章をはじめとするメシア受難の預言が実現したものと理解したと思います。

そこで、最初に理解されたのが、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」です(コリント一15章3節、紀元50年から62年の間に書かれた。)。

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イエスの十字架の理由

同じ出来事でもそれを見る人によって理解が少しずつ違います。共観福音書とヨハネの福音書を比較して考えてみたいと思います。

大祭司を頂点とする祭司長たちや最高法院が形成するユダヤ教指導層が、イエスの宣教内容を拒否して、イエスを殺すためにローマ総督に引き渡したのすが、ではなぜ彼らがイエスを拒否し憎んだのかという受難の理由になると、共観福音書とヨハネ福音書では微妙に違いが見られます。

マルコとルカの福音書は、イエスがユダヤ教神殿の境内で過激な行動をして、ユダヤ教指導層を批判したことが、イエスを殺そうとした直接の動機だとしています。

しかし、ヨハネの福音書では神殿でのイエスの過激な行動はイエス殺害の直接の動機ではなく、その行動がもとでイエスのガリラヤでの活動に監視がつくようになり、イエスの言動がユダヤ教指導層の知るところとなって、律法違反を唆す教師という疑いをかけられたのです。律法違反だけではなくそれを唆す教師は重罪です。

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クリスマス

キリストに属する者(クリスチャン)はクリスマスを祝いますが、それはキリストであるイエスの誕生を祝っているのは誰でもご存じでしょう。

イエスの誕生日が12月25日とは断定できないということですが、その様なことは、誕生日を祝う信仰には変わりありません。イエスが救い主であるという信仰によって祝うのですからね。

イエスという人物は、約2000年前にイスラエルのナザレで生まれた大工の息子イエスです。

何を祝うかですが、それは、神はキリストであるイエスの十字架によって、わたしたちを罪から救う働きを成し遂げてくださったという事実を祝うのです。

同時に十字架され死から復活されたイエスをキリストとして告白するのです。復活は神の御業だからです。

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霊の体

パウロは、第一コリントの信徒への手紙15章44節で出このように言っています。

「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

ここの意味は少し難しく、理解に苦しみました。

まず、「自然の命の体」と言うのは、この生まれ持っている肉体の体のことで、その肉体の体が、終わりの時に「霊の体」に変えられて復活するが、それはこの地上に生きている間に肉体の体に「霊の衣」を着る形で始まるということではないでしょうか。

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聖霊を冒涜する罪

今回は、非常に恐ろしいイエスの言葉を取り上げます。なぜ恐ろしかったかと言いますと、イエスの言葉を信じるか否かは非常に重要なことだと改めて認識したからです。

わが身を振り返って、洗礼を受けるのに、いい加減な考えで決断したのではないかと思ったからです。もちろん、洗礼後の罪意識にも敏感になりました。

後で知ったのですが、わたしでなくても、調べてみると、この聖句を読んで、自分が赦されない罪を犯したに違いないと思いこんで、自殺した人たちがいるそうです。

さて、本題に入ります。

マルコの福音書では、ユダヤ教の宗教指導者である律法学者は、このように神の霊によって神の業をしておられるイエスのことを、「汚れた霊に取りつかれている」と言っていると書いています。

マタイの福音書第12章

●同31節.「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊゛に対する冒涜は赦されない。

●同32節.人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

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悪霊憑きの病と悪魔について

今回はちょっと難しい聖句の解釈に挑んでみます。それは次の聖句です。

マタイの福音書第17章14から20節です。

●14節.一同が群衆のところに行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、

●15.言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々(たびたび)火の中や水の中に倒れるのです。

●16節.お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」

●17節.イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか、いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しな ければならないのか。その子をここにわたしのところに連れて来なさい。」

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2016年2月17日 (水)

聖書の神とユダヤ教の誕生

旧約聖書に記されているユダヤ教は、自分たちのメシア到来を待ち望み、ひたすら、その希望に集中して現在まで生き残ってきました。

それは他の宗教には見られないユダヤ教独特のものです。

他の宗教では、生きとし生きるものは、死と生を繰り返すという時の流れ(歴史)のなかで、圧倒的な力を持つ自然との対話という体験から生まれた宗教といえないでしょうか。

その神々は、宇宙に内在する神であり、時の流れの中で、繰り返す歴史の中で生まれ、支配する神として認識されるのは当然です。

それに対してユダヤ教では、神との対話という歴史の中で生まれた宗教です。

この宇宙は創造されたものとして、初めがあり、終わりがあるのです。ですから、神は天地を創造し、歴史を支配し、完成させる存在なのです。それが神の御計画で、神の言葉によってなされるのです。

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2016年2月16日 (火)

イエスの兄弟ヤコブ

イエスには兄弟として「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」(マルコ6章3節)があり、イエスは最初の子でヤコブやその後で生まれた兄弟はイエスの弟ということになります。

ヨセフとマリアは、イエス誕生後は普通の夫婦として、数人の息子と娘を産んだということです。

なお、父親であるヨセフは、イエスが公に活動を開始された時には、すでに亡くなっていたと考えられています。

というのは、福音書に周りの人がイエスのことを父親の名でなく母親の名「マリアの息子」(マルコの福音書6章3節)と呼んでいる個所があるからです。

ヤコブはイエスと同様、父親から家業である大工の技術を教えられたでしょうが、ヨセフは家業の技術だけでなく、忠実なユダヤ教徒として息子たちに律法(聖書)を熱心に教えたのでしょう。

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