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カテゴリー「おじさんの聖書」の記事

2023年10月 1日 (日)

終わりの日の約束(2)(ミカ書5章)

聖書箇所は、ミカ書5章1節から14節です。
ここ5章は、4章の続きであり、シオンの娘(エルサレム)が敵に対して圧倒的に打ち勝つことを神が約束してくださっています。けれどもその人物が、人ではなく、実に神が立てられた王、キリストによって実現します。

 

●1節.エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

 

4章14節と5章1節は、メシア(救い主)が生まれる場所である小さな村ベツレヘムと、包囲されて打たれ、滅ぼされて神のさばきを受けるエルサレムとを対照させるために並べてあると言われています。

 

 

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終わりの日の約束(1)(ミカ書4章)

聖書箇所は、ミカ書4章1節から14節です。
「終わりの日」についてイエスは次のように言われています。

 

マタイの福音書24章3節「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

 

4「イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
6「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
7節「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
他にルカの福音書21章7節から11節「終末の徴」の箇所です。

 

 

 

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2022年10月17日 (月)

神の世界審判(イザヤ24章)

聖書の箇所は、24章1節から23節です。
24章では、イザヤの預言は、周辺諸国にとどまらず全世界に及びます。
そうです、主が南ユダと周辺諸国に行なわれたことが、全世界の規模で同じように行なわれるのです。

 

そして、それは、「その日」、つまり、終わりの時に主が行なわれることです。
ですからこの24章から27章は「イザヤの黙示録」ともいわれている箇所です。
もう一度確認しますが、イザヤが「その日(には)」という語句をもって語る内容は、さほど遠くない将来から、歴史における「終わり」の時、つまり、終末に起こる出来事をも含んでいます。

 

 

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主の僕の召命(イザヤ42章)

聖書の箇所は、イザヤ書42章1節から9節です。
イザヤ書の四つの「主の僕の歌」の内、メシヤ、イエス・キリストの誕生を指す最初の歌です。
ここの特徴は、「預言者的しもべ」が強調されています。

 

●1節.見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。

 

イザヤ書40章以降、「僕」という語句がよく出てきますが、「彼」が単数形なので、
「わたしの僕」がイスラエルであれば、おかしくなります。

 

 

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2018年1月 2日 (火)

善いサマリヤ人

マタイの福音書22章37節にイエスが最も重要な掟とされた言葉があります。

 

それは、「心を尽くし、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』です。

 

この聖句は、イエス自身が膨大な旧約聖書の内容をまとめられたものと思います。

この聖句そのものの解説は、「最も重要な掟」(カテゴリーは共観福音書を読む)として別に投稿します。

 

今日はこの聖句の『隣人を自分のように愛しなさい。』について考えてみたいと思います。

そうすると、神がわたしたちに求める愛がどのようなものであるかが見えてくると思うからです。

この「自分のように」とは、一言でいえば、自分がしてほしいと思うことを相手にしてあげなさいということだと思います。

 

 

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2017年3月 2日 (木)

イエスの非暴力

イエスの教えの中の非暴力のみ言葉をマタイとルカの福音書からひらってみました。イエスは弟子に迫害する者、敵対する者の多いこの世の生き方を教えられたのです。

まず、ルカの福音書6章27節から28節です。

●27節.「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

●28節.悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

27節の「しかし」は、世の人たちの普通の考え方や生き方(とくに周囲のユダヤ教社会の常識)と比べて、それとは違う生き方を言おうとされているのでしょう。

「わたしの言葉を聞いて」、すなわち、イエスの言葉を聞いて、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」ですが、「言葉を聞いて」と「しなさい」の間には条件が入ります。

人間の努力では敵を愛するとか、自分の不利益を及ぼす者に親切にはできません。

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イエスの受難の意義

「イエスの十字架の理由」は別の投稿文で、各福音書を比較して考えてみましたが、ここでは、イエスの十字架の死の意義を各福音書がどのように取り上げているかも見てみたいと思います。

聖霊降臨(信徒言行録2章)が、福音宣教活動の始まりとされていますが、福音宣教において弟子たちは、イエスの十字架の意味をどのように理解し、意義づけるかが最大の問題であったことでしょう。

弟子たちはみなユダヤ人でしたから、当然その出来事を聖書(旧約聖書)の中から調べ、イザヤ書53章をはじめとするメシア受難の預言が実現したものと理解したと思います。

そこで、最初に理解されたのが、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」です(コリント一15章3節、紀元50年から62年の間に書かれた。)。

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イエスの十字架の理由

同じ出来事でもそれを見る人によって理解が少しずつ違います。共観福音書とヨハネの福音書を比較して考えてみたいと思います。

大祭司を頂点とする祭司長たちや最高法院が形成するユダヤ教指導層が、イエスの宣教内容を拒否して、イエスを殺すためにローマ総督に引き渡したのすが、ではなぜ彼らがイエスを拒否し憎んだのかという受難の理由になると、共観福音書とヨハネ福音書では微妙に違いが見られます。

マルコとルカの福音書は、イエスがユダヤ教神殿の境内で過激な行動をして、ユダヤ教指導層を批判したことが、イエスを殺そうとした直接の動機だとしています。

しかし、ヨハネの福音書では神殿でのイエスの過激な行動はイエス殺害の直接の動機ではなく、その行動がもとでイエスのガリラヤでの活動に監視がつくようになり、イエスの言動がユダヤ教指導層の知るところとなって、律法違反を唆す教師という疑いをかけられたのです。律法違反だけではなくそれを唆す教師は重罪です。

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クリスマス

キリストに属する者(クリスチャン)はクリスマスを祝いますが、それはキリストであるイエスの誕生を祝っているのは誰でもご存じでしょう。

イエスの誕生日が12月25日とは断定できないということですが、その様なことは、誕生日を祝う信仰には変わりありません。イエスが救い主であるという信仰によって祝うのですからね。

イエスという人物は、約2000年前にイスラエルのナザレで生まれた大工の息子イエスです。

何を祝うかですが、それは、神はキリストであるイエスの十字架によって、わたしたちを罪から救う働きを成し遂げてくださったという事実を祝うのです。

同時に十字架され死から復活されたイエスをキリストとして告白するのです。復活は神の御業だからです。

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霊の体

パウロは、第一コリントの信徒への手紙15章44節で出このように言っています。

「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

ここの意味は少し難しく、理解に苦しみました。

まず、「自然の命の体」と言うのは、この生まれ持っている肉体の体のことで、その肉体の体が、終わりの時に「霊の体」に変えられて復活するが、それはこの地上に生きている間に肉体の体に「霊の衣」を着る形で始まるということではないでしょうか。

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