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カテゴリー「イエス・キリストの預言」の記事

2023年11月 6日 (月)

イエス・キリストの預言(8)

<貧しい家庭で生まれる>
聖書の箇所は、イザヤ書11章1節から2節です。

 

●1節.エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
●2節.その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」

 

「若枝が育ちその上に主の霊がとどまる」ですが、主の霊が若枝の上に留まる、すなわち、若枝はメシアを表し、「若枝が育ち」ということは、その前に切り倒された枯れた株があるということですから、それはメシアの出自の低さを表していると言えるのでしょう。

 

「エッサイの株」というのは、メシアがダビデの子孫から生まれると預言されているのですが、そのダビデの父親の名前が「エッサイ」です。
エッサイの家は元々ベツレヘムの貧困家庭であったのですが、ダビデがイスラエルの王となったことによって、王家へと引き上げられたのです。

 

 

 

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イエス・キリストの預言(7)

<お前の子孫と女の子孫> 
アダムとイブに「知識の木の実」食べさせるのにまんまと成功した蛇(悪の勢力の主体)に対して、神は「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(創世記第3章15節)と言われました。

 

この聖句の、「お前の子孫」でこのお前は悪魔(悪の勢力の主体)だということは前後から明らかです。
「女の子孫」は普通イエスと解釈されています。それについては、後から書きます。

 

お前の子孫とありますが、悪魔は霊です。
霊が子供を産むのでしょうか。産みません。だから遺伝的な子孫はありません。

 

 

 

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2023年11月 2日 (木)

イエス・キリストの預言(6)

<イエス・キリスト復活の預言>
聖書の箇所は、イザヤ書53章10節と詩編16章10節です。
●イザヤ書53章10節.「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。

 

主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。」
「病に苦しむこの人」は当然「彼」を指し、「彼は」主の僕イエス・キリストということでしょう。ですから、この「病」は、人類の罪のことでしょう。

 

ということは、「病に苦しむ」主の僕を「打ち砕く」ことを主は望んでおられるということになります。
「打ち砕く」は、主の僕であるイエスを人類の罪過のための「償いの献げ物」にすることを指し、そうすれば、イエスの「子孫が末永く続く」

 

と預言されて、それが、彼(イエス)の「手によって成し遂げられる。」ことを主は望んでおられる、ということでしょう。

 

 

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イエス・キリストの預言(5)

<イエス・キリストの十字架の預言>
聖書箇所は.イザヤ書52章2節から11節、詩編22編16節から19節です。
末尾にイザヤ書53章1節から12節「苦難の僕」の聖句を記しておきます。

 

主はイスラエルの民の救いと回復を一人の「僕」を選ばれてなされます。
そして、その一人の「僕」が、後の新約聖書、とくにヨハネの黙示録を読むと、明らかにイエス・キリストを預言しているので、そのようの読むと神の歴史は完結するのです。

 

 

 

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2023年10月23日 (月)

イエス・キリストの預言(4)

<イエスの弟子ユダの裏切りの預言>
イエスは、弟子ユダによって銀30シュケルで裏切られ鋳物師に投げ与えられます。
聖書の箇所は、ゼカリヤ書11章12節から13節です。

 

●12節.わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。

 

「わたしに賃金を支払え」ですが、羊が羊飼いに賃金を払うというのは、腑に落ちません。賃金を払うのは、「好意」という杖が折られた後、即ち契約を無効にした後に賃金を支払うということですから、契約違約金(解雇金)のことでしょうか。

 

 

 

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イエス・キリストの預言(3)

<メシヤは処女から生まれる>
聖書箇所は、イザヤ書7章14節です。
●14節.それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

新約聖書では、キリストは処女マリアから生まれたとされています。
事実かどうか争われているそうですが、事実ならば、まさに奇跡です。

 

その預言は旧約聖書で上記14節のように預言されていました。
イザヤはキリスト生誕の700年前にこの預言をしました。

 

メシヤは、処女から生まれる、つまり、聖霊によって処女から生まれるのです。
「インマヌエル」とは、ヘブライ語で、「神我とともにあり[イム(with)アヌ(us)エル(God)]」という意味です。

 

 

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2023年10月 7日 (土)

イエス・キリストの預言(2)

<インマヌエル預言>
聖書の箇所は、イザヤ書7章1節から17節です。
7章は、南ユダ王国のアハズ王(在位:紀元前735年 - 紀元前715年)がアッシリアに頼ることを選択し、将来の破滅につながる結果を招いたこと明らかにしています。

 

すなわち、前735年のシリヤ・エフライム戦争を背景に語られています。
しかしそれでもなお、神が、生き残っている者となった民(4節)と共におられるという希望が語られています。

 

この希望は、イザヤの二人の子の名、即ちシェアル・ヤシュブ(3節、「残りのものは帰ってくる」)とインマヌエル(14節、「神は我らとともにおられる」)という名において示されています。

 

この話が9章5-6節まで繰り返され、新約に繋がる、来るべきメシヤ像を明らかにします。
新約聖書の預言の成就は、マタイの福音書1章23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」と記されています。

 

 

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イエス・キリストの預言(1)

イエス・キリストの預言を語る前に、最初に基本的なことのおさらいをして置きたいと思います。わたしはこうして何度もおさらいをして自分の記憶を確かめています。

 

<キリスト」の意味>
誰でもがご存じの「イエス・キリスト」、の「キリスト」というのは、苗字ではなく称号です。
「キリスト(クリストス)」は、もともとはヘブライ語の「メシア(マシーアハ)」のギリシャ語訳だということです。

 

ですから、キリストとメシアは同じ意味となります。
なお、「メシア」とは、旧約聖書の「油注がれた者」を表す言葉です。

 

旧約聖書では、神がイスラエルの王を立てた時、その人物に油を注ぎました。
旧約聖書のサムエル記第一16章には、預言者サムエルが、神に命じられてダビデに油を注ぎ、王として任命する場面があります。
エッサイとはダビデ王の父です。(サムエル記Ⅰ16章参照)

 

 

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2023年9月14日 (木)

主の僕の歌(4)(イザヤ書52章)

イザヤ書の四つの「主の僕の歌」のその四「主の僕の苦難の死」です。
聖書の箇所は、イザヤ書52章13節から53章12節です。

 

歌い手は、52章13~15節は「主」で、53章1~12節は「イザヤ」です。
主の僕の「苦難と死」が歌われており、主の僕は任務を成功させてあがめられると同時に(52章)、受難を受けねばならない真の理由は人々の罪のためであり(背いた者のためにとりなしをした。)、しかもそれは与えることを喜びとする主の愛に基づいていることが明らかにされています。

 

人の子として生まれた僕(49章1節)は、50章4節と6節「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」のです。

 

まさにその後の歴史上の出来事である新約聖書を読むと、この個所はイエス・キリストの誕生の預言となり、ほかには考えられません。

 

 

 

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主の僕の歌(3)(イザヤ書50章)

イザヤ書の四つの「主の僕の歌」のその三「侮辱を受けた弟子」です。
歌い手は、50章1から3節は主で、同4から11節はイザヤです。

 

主の僕は「耳を開かれた」(従順な)者として、受難をも引き受け、喜んで、主に従っていく者であるのです。
忍耐と苦しみの生涯を送らねばならない主の僕の姿が描かれています。まさにイエスキリストの姿そのものです。

 

1節から3節は、「主」ご自身のイスラエルへの語りかけです。
4節から9節は、「わたし」という存在の語りかけです。
10節は、イザヤの語りかけです。
11節は、主ご自身が、「このことをお前たち(イスラエル)に定めた」と語りかけています。

 

なお、4節から9節の「わたし」と語る語りかけですが、新共同訳には「主の僕の忍耐」と見出しがついていますので、この「わたし」は、イエス・キリストを示唆しているのではと思います。

 

 

 

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