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カテゴリー「イザヤ書を読む」の記事

2022年7月 4日 (月)

イザヤ書前置き

イザヤ書は66章からなる壮大な預言書です。
分量的にも、また内容においても、偉大な書であると言われています。

 

今まで私は、この書だけは手に負えないと思って真に向き合うのを避けてきましたが、人生も終わりに近づき、思い切って取り組むことを通して、御霊の助けで神の救いのご計画の全貌をもっと深く知りたいと思い、挑戦してみたいと思いました。

 

さて、著者は、アモツの子イザヤです。イザヤは、南ユダ王国で四代の王に使えました。結婚して二人の息子がいました。
イザヤと言う名の意味は、「ヤハウェは救い」です。

 

量は膨大なので、著者は複数かとおもいましたが、分かりません。
ただ言えることは、文脈から見ると編集者は一人だと思います。

 

即ち、イザヤ自身が記したもの第一イザヤ(1~39章)と第二イザヤ(40~66章)を一つにまとめてイザヤ書とした編集者がいると言うことです。
自分のことを三人称で表現しているからです。

 

 

 

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2022年7月 8日 (金)

ユダの審判

聖書の箇所は、イザヤ書1章1節から20節です。
●1節.アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。

 

第一イザヤ(1章から39章)の活動期は、ちょうどアッシリア帝国の興隆期です。
アッシリアは、紀元前732年にシリア、722年に北イスラエルを征服し、712年にはペリシテに遠征、701年にエジプト軍を撃破、そして南ユダに攻め込み、あと一歩で首都エルサレムを陥落させるところまで来ました。

 

このアッシリアによる南ユダ王国への攻撃を、イザヤは神の裁きと考えて、南ユダの民に悔い改めを説いています。
イザヤの父アモツについては、不明です。

 

6章の「イザヤの召命」に「神殿」が出てきますが、イザヤが神殿にいたということは、彼が神殿にかかわる何か役割を担う存在であったのでしょうが、詳細は不明です。

 

「ユダとエルサレムについて見た幻」ですが、イザヤは、南北に別れたイスラエルの南ユダ王国、その首都エルサレムを活動場所とする預言者ということでしょう。
そして、「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ」は、ダビデの子孫、ダビデ家に連なる南ユダの歴代の王たちです。

 

 

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2022年7月11日 (月)

シオンの審判と救い(1章)

聖書の箇所は、イザヤ書1章21節から31節です。
●21節.どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ。

 

「どうして、遊女に」ですが、遊女はエルサレムの町を指すのでしょう。
今度は、主に忠実であった堕落した都エルサレムの町そのものに対する主の宣告でしょう。

 

主がエルサレムに対して持っておられる気持ちは、「どうして、遊女になってしまったのか」と言いう嘆きの言葉に現れています。
主はエルサレムを、「公平が満ち、正義が宿っていた」忠信の都として造られましたが、その時代はダビデとソロモンの時代のことを言っているのでしょう。

 

それにもかかわらず彼らは、遊女となってしまったのです。
つまり、イスラエルが主から与えられた契約に背いて、不従順、不信仰になってしまい、偶像に心を移すようになったのをご覧になって、「どうして、遊女になったのか」と嘆いておられるのでしょう。

 

 

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2022年7月20日 (水)

終末の平和(2章)

聖書の箇所は、イザヤ書2章1節から5節です。
2章1節から5節は、「終わりの日」のメシア王国(千年王国)において実現する主にある平和についての預言が記されています。
これとほぼ同じ内容の預言がミカ書4章1-3節にもありますが、どちらが先に預言されたかは不明です。

 

●1節.アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

 

イザヤが見た幻は、1章1節の「幻」と同じで、いずれも「ユダとエルサレム」についてこれから起こる出来事です。
「幻に見たこと」ですから、イザヤは神からの啓示を肉体的な目と耳ではなく、霊的な心の目、すなわち、幻で見たと言うことでしょう。
「見たこと」は、預言的完了形と言うことですから、やがて必ず実現することなのです。

 

その幻は、「これから起こる出来事」ですから、静止画ではなく、動画で見たのではないでしょうか。
そのような預言者を、予見者または先見者と言うそうですが、重要な言葉なので、ここで改めてその意味を調べてみたいと思います。
「預言者」は、神と特別な関係をもって呼び出された者、召された者を意味します。

 

 

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高ぶる者に対する審判(2章)

聖書の箇所は、イザヤ書2章6節から22節です。
この箇所には、神に従わない神の民に対するさばきと警告が記されています。

 

●6節.あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。この民がペリシテ人のように/東方の占い師と魔術師を国に満たし/異国の子らと手を結んだからだ。

 

「あなたは」ですから、主は、「ご自分の民、ヤコブの家(イスラエル民族)」ですから、イスラエルを捨てられたのです。
それは、ペリシテ人(カナンの地の先住民族、辞書には、古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群、とあります。)と同様に東方、つまりアッシリアの「占い師と魔術師」を招いて、「異国の子らと手を結んだ」、即ち、伺いを立てていたからです

 

 

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2022年7月25日 (月)

エルサレムの審判(3章)

聖書の箇所は、イザヤ書3章1節から4章1節です。
●1節.見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。

 

2章2~4節のメシア王国の預言が実現する前(そして、メシア・キリストの地上再臨の前)に起こることが、2章6節と、この箇所に記載されています。

 

それは、エルサレムとユダから「支えが除かれる」ことです。
1節から7節は、「エルサレムとユダ」が、戦争によりもたらされる飢饉と指導者たちが殺されるために無政府状態になることが預言されているのでしょう。

 

このような状態は、バビロン捕囚の前の状況、あるいは、獣と呼ばれる反キリストによる大艱難時代のイスラエルの状況を示しているのかもしれません。

 

 

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エルサレムの将来の栄光(4章)

聖書の箇所は、イザヤ書4章2節から6節です。
神は、不信仰、不従順、偶像礼拝で汚れたエルサレムをさばかれるだけでなく、イスラエルの残りの者を贖い、聖めることによって、エルサレムを神の都にふさわしくされます。

 

●2節.その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。

 

「生き残った者にとって主の若枝」となると、メシア預言なのでしょう。
この「若枝」ということばは、メシヤ(キリスト)の呼び名です。

 

ですから、前節までの預言は、終わりの日のメシア預言(主の再臨)と、ユダのバビロン捕囚の預言の両者を指していると思います。
ユダ王国の首都エルサレムがバビロンによって滅ぼされるだけでなく、世の終わりには世界の軍隊(反キリスト)によって滅ぼされそう(完全に滅ぼされない)になるのです。

 

 

 

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2022年7月27日 (水)

ぶどう畑の歌(5章)

聖書の箇所は、イザヤ書5章1節から7節です。
イザヤは、「愛の歌を歌おう」という言葉で、「エルサレムに住む人、ユダの人」をぶどう畑に例えて、全イスラエルを語っているのでしょう。

 

と言っても、北イスラエル王国はアッシリアの侵略と捕囚により滅び、その後回復することはないので、イスラエルは南ユダ王国のみとなります。

 

●1節.わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。

 

「わたしは歌おう」の私は、預言者イザヤ自身で「愛する者」は主のことでしょう。そして、「ぶどう畑」は、神の民イスラエル(「エルサレムに住む人、ユダの人」)のことでしょう。

 

 

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富める者の横暴(5章)

聖書の箇所は、5章8節から24節です。
●8節.災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。

 

7節の「見よ、叫喚(ツェアカ)」と嘆き悲しまれた理由ですが、「災いだ」と言う言葉で、始まります。(8節、11節、18節、20節、21節、22節です。)

 

一つ目の「災いだ」です。
「畑に畑を加える者・・この地を独り占めにしている。」ですから、他の人のことなど考慮しないで、自分のことだけを考えて、余地を残さぬまでに土地を買収し、自分の財産を増やそうとしている者のことでしょう。
つまり、貪欲の罪です。

 

レビ記25章23節・24節で主は、イスラエルの土地の売買を禁じられています。
23節「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。」24節「あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。」

 

彼らの土地は、主が彼らに与えられたのであって、本質的には彼らのものではなく、主のものだと言うことです。
そして、土地を売ってはならないというのは、主が各部族、各氏族、各家族に与えた土地は、代々相続し、失われることのないようにと言うことでしょう。

 

 

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遠くからの敵(5章)

聖書の箇所は、5章25節から30節です。
●25節.それゆえ、主はその民に対して怒りを発し/御手を伸ばし、彼らを打たれた。/山々は震え、彼らの死体は通りの真ん中に/ごみのように横たわっている。/それでもなお、主の怒りは去らず/その手は伸ばされたままだ。
●26節.主が遠くの国々に対して旗を揚げ/地の果てから口笛を吹いて呼ぶ。/すると見よ、彼らは速やかに駆けつけて来る。

 

24節に続き、主の「それゆえ」が続き、裁きの理由を語られます。
今度は、「山々は震え、彼らの死体は通りの真ん中に」ですから、主は自然災害というか大地震によって彼らを裁かれます。

 

「彼らの死体は通りの真ん中に/ごみのように横たわっている。」(25節)ですが、死体がゴミのように横たわって、すなわち、その辺にごろごろ散乱するようになるのです。

 

 

 

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