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カテゴリー「聖書のよもやま話」の記事

2022年1月 1日 (土)

聖書のよもやま話(1)

第一回目は、<前置き><旧約聖書の疑問><使い捨ての命><救いについて><誰でもが疑問に思うこと><旧約聖書の時代の信仰者は、すべて「陰府」に行った><「陰府」とは>です。

 

<前置き>
二十年以上自己流で聖書を学び思ったことを纏めてみたいと思います。
内容は、聖職者の方のお叱りを受けるところがあると思いますが、未熟者のたわごとと思いお許しください。
聖書の疑問については、今まで何度かカテゴリー「聖書の疑問いろいろ」に投稿してきましたが、ここまで聖書を読んできて大切だと思うところを順不同で思いつくまま書いてみました。

 

書き始めると、長くなりましたので、投稿文を十回に分けてました。
もちろん、内容は自己流で、思いつくままですから、他の投稿文と何度も重なっているところがありますが、ご容赦ください。

 

自分を振り返ってみると、わたしはクリスチャンと言うより、聖書に取りつかれた求道者と言った方が正確かも知れません。
まだまだ分からないことばかりです。
誰かが言いました、あの世に行けばすべてわかりますよ、と・・・。

 

 

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聖書のよもやま話(2)

第二回目は、<セカンドチャンスと「金持ちとラザロ 」><残りの者と全人類の救い><預言書を読んで><神が愛ならば><再記述の法則>です。

 

<セカンドチャンスと「金持ちとラザロ 」>
引き続き「金持ちとラザロ」の話ですが、
「 金持ちとラザロ 」 (ルカの福音書第16章19-31節)のたとえ話で死んだ人が行く場所として、生前貧しかった人が行く「アブラハムのすぐそば」と、生前贅沢に暮らしていた人が行く陰府の「炎の中でもだえ苦しむ」場所があることがわかります。

 

「アブラハムのすぐそば」というのは、アブラハムは信仰の父とも言われますから、信仰をもって死んだ人が行く場所でしょう。
この二か所は、旧約聖書の信仰者はすべて「陰府」に行っていますから、どちらも「陰府」だと思います。

 

「炎の中でもだえ苦しむ」場所に行った金持ちは、こんな苦しい場所、と言っていますが、「アブラハムのすぐそば」に行った人は慰められています。

 

その違いは、生前の行いだとします。
そして、両者の間には大きな淵があって渡ることが出来ないのです。

 

このたとえ話をもって、私たちが受けることが出来る救いは、生前中のことだけで、死んでしまったら、そのチャンスはないと教えている方がおられます。

 

 

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聖書のよもやま話(3)

三回目は、<新しい人間の創造><律法の成就と神殿礼拝の廃止><復活と聖霊降臨><神は本当におられるのか><罪と悲惨な世界>です。

 

<新しい人間の創造>
さて、神は、イスラエルの民を選び律法を与え、教育し全人類の救済のために用いようとされましたが、イスラエルの民は、真の神(創造主)を離れて、偶像礼拝に陥り、約2000年前にイスラエルのベツレヘムで誕生されたナザレのイエスを、かねてから預言されていたメシアであることを否定し殺してしまいました。

 

そのために、神はイスラエルに託していた全人類救済の役目を断念し、終わりの日までキリスト者にその役目を委ねました。
全人類救済の役目を引き継いだキリスト者は、マルコの福音書16章15節の「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(延べ伝えるだけで説得せよとは書いていない)と言う命令に従い、2000年前から今日までキリスト者の世界伝道が続いています。
そして、イスラエルは、終わりの日には残りの者が真の神に立ち返りキリスト者の役目を担うことになっています。

 

なお、「終わりの日」と言うのは、大艱難時代とも言われ、神のこの地上における人類救済計画(新しい人類創造)の最後の仕上げのときと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

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聖書のよもやま話(4)

第四回目は、<神は生きて働いておられる。><良心について><宗教と聖書><人間の宗教心><宗教には近寄りたくない><御子イエス・キリストの降臨>です。

 

<神は生きて働いておられる。>
さて、次に人間そのものを見てみます。
ずいぶん前にお医者さんであるキリスト者の方が、人体のすばらしさ、神の存在と摂理に圧倒されて、信じたと証されていました。
私たち人間を観察すると、その素晴らしさに圧倒されます。

 

いろいろと調べましたが、二点だけ上げておきます。
私たち一人一人の血管の長さは、毛細血管まで含めて全部足すと、何と96000Kmもあり、その長さは地球2周半近くにもなるそうです。
髪の毛1本だって、素晴らしく精巧に作られています。

 

毎日、何本も生え変わる私たちの髪の毛ですが、その一本一本の毛根は皆7層、あるいは、8層から成っていて、とにかく見事に丁寧に作られているそうです。

 

 

 

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聖書のよもやま話(5)

五回目は、<キリストの十字架><摂理について>です。
<キリストの十字架>
また同じようなことを書くと思いますが、ご容赦ください。
さて。人間を罪の中から救い出し永遠の命を与えるために父なる神は御子イエスを十字架に架け復活させたのならそこにはどのような意味があるのだろうか。

 

なぜそのような方法をとらねばならなかったのだろうか。
他に方法がなかったのだろうか。
わたしは最近改めてこのようなことを考えています。

 

同じことに何度も疑問を持つ、そして、その都度何か新しい発見がないものかと期待するのです。聖書を再認識して感心することもたびたびあります。

 

人間が創造されたものなら必ず目的があって造られています。
悪魔が閉じ込められたこの宇宙にエデンの園を造り自由意志を持った無垢な人間を置けば、人間は悪魔に誘惑されて罪を犯すのは自明の理です。

 

 

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聖書のよもやま話(6)

六回目は、<エクレシア><主イエス・キリストとキリスト・イエス><原罪とは><天とその高き極みと地><天使の役割と性質><父なる創造神とイエスの関係><人間の構造><奇跡とは>です。

 

<エクレシア>
新約聖書で、「教会」と訳されているのは、ギリシア語でエクレシアのことです。
その意味を調べてみると、エクレシアという語句は、もともと「エク」(~から)と「カレオー」(呼ぶ)から成り、「呼び出された(人たち)」という意味の語で、ヘレニズム世界では投票権をもつ自由な市民の集会を指す語として用いられていたと言うことです。

 

この語は、旧約聖書をギリシア語に翻訳するにあたって、神の民イスラエルの会衆を指すカーハールというヘブライ語の訳語として用いられたそうです。

 

そして、キリストの福音によって(この世から)「呼び出されて集められた民」を指す語として用いられるようになります。
訳としては、「集まり」とか「集会」、「会衆」とか「民」と訳されています。

 

ということで、ここで「教会」と訳されているエクレシアは、現在あるような教会、すなわち、特定の教義や祭儀や聖職組織をもつ制度的宗教団体とは少し意味合いが違うように思うのです。

 

そういう意味で、聖書に出てくる教会は、いっそうのこと、「神の集会」とか「キリストの共同体」と言った方がすっきりします。
他の宗教の教会と間違われるのを避けることが出来ます。

 

 

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聖書のよもやま話(7)

第七回目は、<罪と裁き><天国には創造主の家がある><地獄について><信仰とは>です。


<罪と裁き>
イエスはヨハネの福音書12章47節で、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」と言っています。
また、ヨハネの福音書9章39節は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり見える者は見えないようになる。」とも言っています。

 

これをどのように考えればよいのでしょうか。
39節は、見える見えないは、イエスの言葉の真意で、つまり、見えていないのに見えていると言い張って、見えていないことに自覚のない者には罪が残るのです。

 

逆に、イエスの言葉の真意がわかっていないという自覚があるならば罪はないのです。
と言うことでしょうか。

 

なお、この「見える」というのは、イエスの言葉の真意を悟って悔い改める可能性が少しでもある、その真意を悟れる、ということを指すのでしょう。

 

「見えないようになる」というのは、その可能性がゼロということでしょう。
従って、イエスの言葉を信じた者はもう裁きはすんでいる、すなわち、天国へ行く裁きが住んでいることになります。
聖書では、ひとはみな、神に対する罪びととしてこの世に存在しています。

 

 

 

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聖書のよもやま話(8)

第八回目は、<福音を宣べ伝える><キリストの「陰府」下りと死者に対する福音><一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。><今こそこの世が裁かれる時><天使・悪魔・悪霊・汚れた霊><わたしの掟(命令)を受け入れそれを守る人はわたしを愛する者である。>です。

 

<福音を宣べ伝える>
ルカの福音書18章17節「幼子のように創造主の国を受入れる者でなければ・・・」の意味は、イエスの教えはつべこべ言わずに幼子のように受け入れる、つまり、何も疑問を持たないで盲目のまま信じなさいと言うことでしょうか。

 

しかし、わたしたち、特に自立した大人には知性がありますのでそうはいきません。
教えの内容を可能な限り理解しょうと務めるのは当たり前だし、そのように神は人間を造られたのです。

 

大人がまったく理屈ぬきにある教えを受け入れるならば、それは盲目的に受け入れることになり、まじないや呪術的宗教になってしまいます。神の本意でもないでしょう。

 

と言うことは、理解しょうと努力するのは良いが(神の言葉をすべて理解するのは人間には無理なので)どうしても理解できないところが残るので、そこは、上記の聖句の通り「幼子のように受け入れないと」信仰に至れないよ、と言うことでしょう。

 

 

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聖書のよもやま話(9)

第九回目は、<摂理>です。
<摂理>
人間を罪(神から離反して自己中心に生きる)の中から救い出し永遠の命を与えるために神は御子イエスを十字架に架け復活させたのなら、そこにはどのような意味があるのだろう。なぜそのような方法をとらねばならなかったのだろうか。
聖書は、人間が創造されたものだとしています。

 

それならば必ず創造主がいて、その創造主のご計画と言うか、目的があって造られたはずです。

 

聖書は、神は人間を創造する前にこの地上世界に悪魔を閉じ込めたので、この地上世界は悪魔の支配するところとなったと言っています。
その地上世界にエデンの園を造り自由意志を持った人間を神は置かれたのですが、そうであれば、造られたばかりの何も知らない無垢な人間は、悪魔に神から離反するように言葉巧みに唆されたら、その気になるのは当たり前です。

 

そういう事態になることを神はわかっていてそのようにされたのです。
ヨハネの黙示録12章9節に、「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」とあります。

 

人間は、自分が何者でどこから来てどこへ行くかもわからずこの悪魔が支配しているこの地上で生きることになったのです。
行き先がわかればこの地上でどのように生きるかがわかるのだが、それも分からないのです。

 

 

 

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聖書のよもやま話(10)

第十回目は、<キリストの十字架死>です。
最後に、<キリストの十字架死>、すなわち受難物語を詳しく取り上げます。他の投稿文と重複するところがありますが、ご容赦ください。
キリストの十字架死は、キリストの受難物語とも言われますが、受難物語は実際に起こった出来事に基づいています。

 

そして、聖書は、受難物語が事実でも、これは単なる罪人の処刑ではなく、そこには意味があると言っています。
その意味(解釈)の根底となっている歴史観は、旧約聖書とそこに含まれる預言です。

 

福音書の記者たちは、旧約聖書の預言とこれの成就という歴史観に基づいて、イエスの十字架の出来事からその解釈(受難物語)を形成していったのです。

 

当然、イエスの出来事は、旧約聖書を離れて、聖書と違った意味で解釈することもできますが、その場合は、福音書の物語を福音書の意図とは違った視点から解釈する必要があるでしょう。

 

聖書を歴史書(又は小説)ではなく神の言葉として読む限り、旧約聖書から離れてキリストの十字架、また、福音書を正確に読み解くことはむつかしいでしょう。

 

でも現実に聖書はキリスト者だけでなく、いろいろな立場の方が自由に読まれていて、解釈の仕方もいろいろですが、わたしはそれでよいのだと思います。。

 

 

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