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カテゴリー「コヘレトの言葉」の記事

2021年7月29日 (木)

コヘレトの言葉前置き

この書は紀元前3世紀頃に書かれたもので、知恵文学中一番短いものです。
「コヘレト」と言う言葉は、ヘブライ語ですが、意味は、「民を集めて語る人」で、それで伝道者とも訳されています。

 

1章2節の出だしには、「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」とありますが、人生のむなしさの奥には、神の支配があると教えています。

 

この書に流れている主な教えは、神、人間、知恵、一切は空であるということに要約できるのではないでしょうか。
コヘレトの言葉の特色は、人生の無常と虚無を強調することにあると思います。

 

それは神がおられるという前提で、もし、神がおられないならば、この世界はこのような虚無の世界だと言っているのだと思います。
この世のすべてが「空」ならば、神がいなければこの世は地獄です。

 

救いも希望もない世界です。
空は空でも、そこが仏教経典の「般若心経」と違うところです。

 

 

 

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コヘレトの言葉 第1章

聖書の箇所は、1章1節から18節です。
●1節.エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。

 

この言葉の通り、著者がエルサレムの王で、ダビデの子であるならば、彼はソロモンですが、バビロン捕囚後、紀元前250年頃にこの書は無名の著者によって書かれたと言われるようになりました。

 

その頃は、懐疑主義や悲観主義的な無常観が一般的になった時代だからです。
すなわち、著者が偉大な王ソロモンの名を借り、著書に信頼と権威を与えたと考えられています。

 

ソロモンの名を借りて、著者がその生涯の晩年に、イスラエルの民に語りたい言葉を残すべく、この書を書いたと言うことです。よって、著者不明です。

 

●2節.コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。
「空」は実体を欠くこと。

 

 

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2021年8月 7日 (土)

コヘレトの言葉 第2章

聖書の箇所は、2章1節から26節です。
●1節.わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。

 

●2節.笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。
●3節.わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。

 

「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」と言うことは、知恵や知識にこだわらず、この世の「快楽・愉悦」に浸ってみたが、「それすらも空しかった。」と言っているのです。

 

ただしコヘレトは、それも楽しむのではなく、そこに何か、例えば真理を探そうとしているのでしょう。
そのことは、3節の「わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。・・この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで」に現れています。

 

娯楽や芸人たちの「笑い」を求めたが、笑わせてくれるが、「狂気」であったのです。
「快楽」に身を任せたが「何になろう」ですから、空しく何にもならなかったのです。

 

それでもコヘレトは、「酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。」のです。
「笑い・酒、遇行」、これらは一時的に「空」を満たすのですが、人の魂を満たすことはできないで、むしろ空しさを増大させるだけであったのでしょう。

 

 

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コヘレトの言葉 第3章

聖書の箇所は、3章1節から22節です。

 

●1節.何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
●2節.生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時

 

人がこの世を生きていくうえで、三つの生き方があると言われています。
どの生き方をとっても、この地上での出来事には「定められた時が」あります。
一つ目は、他者を顧みない自己中心的な生き方です。

 

2章にあるような、快楽、笑い、酒、愚行、事業や財産に多くの側女など、自分の欲望のままに生きることです。
二つ目は、自分を殺し他者と妥協して、言い換えれば他者を配慮して生きる生き方です。

 

三つ目は、十字架に付かれたキリストと共に生きる生き方です。
永遠の神を基準に、神から受けた愛と隣人を愛をもって生きる生き方です。

 

コヘレトが、上の一つ目の生き方、すなわち、自己中心的に、知恵と知識と権力を用いありとあらゆることを行った結果に気付いたことは、「定められた時」があると言うことでした。

 

そして、定められた時、すなわち、「生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時」があると言うことは、「定めたお方がいる」ということに気が付いたのでしょう。

 

人生で一番大切な、「生まれる時・死ぬ時」も、自分では早めることも遅らせることもできません。
さらに、親や人種や性別や生まれる国も自分では選ぶこともできません。

 

これは、この地上に生まれ生きているすべての人に言えることです。
人の営みにも、「植える時、植えたものを抜く時」があるのと同じで定められた時があるのです。そう、定められた時に支配されているのです。

 

 

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2021年8月12日 (木)

コヘレトの言葉 第4章

聖書の箇所は、4章1節から17節です。
●1節.わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。

 

「太陽の下に行われる虐げ」ですが、人が集う所には必ず虐げがあります。
権力者が被支配者を虐げ、強者は弱者を虐げ、国は国を虐げ、民族が民族を虐げます。さらに、親が子を虐げ、子が成長して親を虐げるなど尽きません。

 

虐げを防ぐため、権力の歯止め、教育、経済格差、法整備など手を尽しますが決して無くなりません。 
虐げの根本原因は、人が自分を自分で救わねばならないからです。
「彼らを慰める者はない。」とコヘレトは言います。 

 

なぜ「彼らを慰める者はない」のか、それは、人は自分が虐げられないために自分を他者よりも上に置かねばなりませんから、そのためには他者を虐げることが必要になります。

 

そう、他者を虐げて自分を慰める際限のない自己満足の世界に陥ります。
その根本原因は、人が神から離れて生きる「罪」にあるのでしょう。

 

 

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コヘレトの言葉 第5章

聖書の箇所は、5章1節から19節です。
●1節.焦って口を開き、心せいて/神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。

 

「口を開き・・神の前に言葉を出す」とは、神の対する祈り方についての教えでしょう。
供え物については何も記していません。

 

祈りは、「供え物」ではなく神の声を「聞く」ことが大切なのです。
神は、死ぬほどわが身を犠牲にして、誰よりも多くの供え物をして、祈ることを求めておられません。

 

神が私たちに求めておられるのは、そのような犠牲ではなく、砕けた心をもってみ言葉を聞き従うことでしょう。

 

●2節.夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。

 

「夢を見るのは悩み事が多いから」とは、地に足を踏んでいない、浮ついた状態になっていて、これをしなければ、あれをしなければと夢想している状態も表しているのでしょう。

 

 

 

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2021年8月15日 (日)

コヘレトの言葉 第6章

聖書の箇所は、6章1節から12節です。
●1節.太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。
●2節.ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。

 

神は、ある人に「富、財宝、名誉を与え、」、その人は「望むところは何ひとつ欠けて」いませんでした。
富、財宝、名誉は相続とかその人の努力によって得たのでしょう。

 

人生の成功者そのものです。神はその人に大きな賜物を与えられたのです。
「彼がそれを自ら享受することを許されなかった」と言うのは、その人は苦労して「富、財宝、名誉」を得たが、神の御心によりそれを自ら享受できなかったのです。

 

他人が享受したのですから、事業をおこして成功したのちに買収されて取られたのか、騙されて取られたのかわかりませんが、他人の物になってしまったのです。

 

 

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2021年8月21日 (土)

コヘレトの言葉 第7章

聖書の箇所は、7章1節から29節です。
●1節.名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。
●2節.弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。

 

当時香油は高価な物でしたが、名声はその富よりも勝るが「死ぬ日は生まれる日にまさる。」ですから、その名声も終わりという限界があり、死の先に持って行けません。

 

だから、生まれて来て空しい人生を送るよりも、死ぬ日の方が勝るではないか、なぜならその日が苦しみを終える日となるから…と言うことでしょうか。

 

一般的には、人の誕生は祝いの日であり、死ぬ日は忌中と言って忌み嫌います。
しかし、「死ぬ日は生まれる日にまさる」とコヘレトは言います。

 

 

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コヘレトの言葉 第8章

聖書の箇所は、8章1節から17節です。

 

●1節.「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。
●2節.それは、わたしだ。すなわち、王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。

 

「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」、「・・この言葉の解釈ができるのは誰か。」と問い、「それは、わたしだ」と言います。
それでは、「人の知恵」とは何かですが、それは、「王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。」となるのでしょう。

 

ローマ書13章1節にも「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」と記しています。

 

王の言葉は、「神に対する誓いと同様」ですから、神の言葉です。
しかし、歴史上の災いは権力者によって引き起こされてきました。

 

それに、地上の王(権力者)の命令に従うのは、自分が生き栄えるためでもあります。
でもその王の言葉の背後には神がおられるのですから、神はわたしを信じて王の言葉に従いなさいと言われているのでしょう。
神の言葉に従うことは、命じた神に神の約束を成就していただくことです。

 

 

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2021年8月28日 (土)

コヘレトの言葉 第9章

聖書の箇所は、9章1節から18節です。
9章は、8章16節からの続きになります。

 

コヘレトは、神が正しい方であることを知っているはずです。
そして、「太陽の下」で起こることだけを見ていれば、悪者も、正しい人も、その行ないにふさわしい報いを受けていないことに気づいています。

 

それに、両者とも同じように死ぬ定めには変わりがないことにも気づいています。
その上で、自分が今、知恵を尽くして物事を探り出そうとしても、神のなされていることはそれを超えていて、悟ることはできない、と言っています。

 

ですから焦って、「これは、こうであるべきだ。ああであるべきだ。」と判断して、また拙速に動く必要がなく、分からないのだから主に任せよう、という姿勢が必要です。

 

●1節.わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち/善人、賢人、そして彼らの働きは/神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない。人間の前にあるすべてのことは

 

 

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