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カテゴリー「エゼキエル書を読む」の記事

2022年1月11日 (火)

偶像礼拝の山(6章)

聖書の箇所は、6章1節から14節です。
この箇所の主題は、「わたしが主であることを知るようになる。」でしょう。
エゼキエルは、1,000kmも離れたイスラエルの山に向かって預言することを主に命じられます。人々がその山々で偶像礼拝の罪を犯していました。

 

山ではバアル礼拝が、谷ではモレク礼拝がおこなわれていました。
祭壇ではわが子を犠牲にするという忌まわしいことが行われていました。

 

そのことが主の怒りを買うことをイスラエルは自覚していなかったのです。
そこに主による裁き、エルサレム破壊の根本的な理由があるのです。

 

主の裁きにより、町が破壊され、人々が死に、捕囚の民として散らされるのですが、それによって真の神を知るようになることを神は期待されているのです。
そのために少数の者を残されました。

 

 

 

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2021年7月17日 (土)

嗣業の割り当て(2)(48章)

聖書の箇所は、48章1節から35節です。

 

●1節.部族の名は次のとおりである。「北の限界は、ヘトロンの道からレボ・ハマトを経てハツァル・エナンに至る。これがダマスコとの国境である。その北側にハマトがある。その東の端から海までがダン族のものである。これが一部族。
●2節.ダン族の境界線に沿って、東の端から西の端までがアシェル族のものである。これが一部族。
筆頭にダン部族の名があります。

 

歴代誌の系図にダン族の名が記されていません。
歴代誌は、ユダ族がバビロンから帰還した後に書かれていますから、この頃のダン族はイスラエルの十二部族から除外されていたということになります。

 

理由はいろいろと述べられていますが、いずれにしても、十二部族の中で最も神さまから遠い存在になったダン族です。
彼らは千年王国の始まりの時には十二部族の筆頭としてその名前が再び刻まれているのです。
神は見捨てておられなかったのですね。

 

 

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嗣業の割り当て(1)(47章)

聖書の箇所は、47章13節から23節です。
いま、エゼキエルが見ているのは、主がかつてアブラハムに与えられた土地の約束、「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、」(創世記15章18節)が実現する幻です。

 

エゼキエル書最後の瞑想は、千年王国において回復(霊的にも)されたイスラエルの12部族に対する土地の配分です。
ダビデ・ソロモン王国の時代は、イスラエルは一つでした。

 

ソロモン以降イスラエルは南北二つに分裂しました。南ユダはバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還し、神殿を建てますが、紀元70年に、神殿はローマ軍によって破壊され、それによってユダヤ人は全世界に散らされました。

 

しかし、千年王国前にはソロモン時代のようにイスラエルは再び世界各地から集められ、ソロモンにまさる王である主イエスによって統治されます。つまり、メシアの王国の誕生です。

 

そのときに各部族に配分される土地の領域は、かつてソロモン王が支配した地域です。

 

 

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2021年7月10日 (土)

命の水(47章)

聖書の箇所は、47章1節から12節です。

 

●1節.彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
●2節.彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。

 

エゼキエルは、主に「神殿の入り口」に連れ戻されました。
「水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。」とあります。

 

「神殿の敷居の下」からで、本堂の玄関の敷居のところから湧き上がっているのです。
「神殿の正面は東に向いていた。」ですから、本堂の玄関を向かいにして立つと、西に向かって立っているので「水は祭壇の南側から」ですから、左側から水が出て「南壁の下を流れていた。」のです。

 

 

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2021年7月 3日 (土)

新しい神殿の幻(40章)

聖書の箇所は、40章1節から49節です。
ここ40章から48章は、祭司エゼキエルが見た新しい神殿の幻です。

 

時期は1節に、第一次捕囚から25年、神殿崩壊から14年、紀元前573年の時です。
内容は新しく再建される神殿の詳細な設計図ですが、彼は祭司でしたから、主が彼に新しい神殿の幻を見せられたのでしょう。

 

イスラエルに神の栄光が戻ってきます。
驚くべき、新しい神殿の構造の幻から始まり、祭司によるいけにえの制度の回復、君主の入城、エルサレムの町、相続地と事細かに主はエゼキエルに、将来の回復した姿をお見せになります。

 

●1節. 我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。

 

紀元前573年のことでした。
エゼキエルが捕囚の民としてここに連れて来られたのが597年で、神殿が破壊されたのが586年です。
そして、「その年の初めの月の十日、」とあります。

 

ユダヤ人の宗教的な暦では「新年」で、過越の祭りの時です。
捕囚となったユダヤ人は、バビロンのケバル川のほとりで共同体をなして住んでいました。
エゼキエルは、主によってエルサレムの方へ<2節)連れて行かれます。

 

●2節.神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。
●3節.主がわたしをそこへ連れて行くと、その姿が青銅のように輝いている一人の人が門の傍らに立っており、手には麻縄と測り竿を持っていた。

 

 

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2021年6月26日 (土)

マゴグのゴグに対して(2)(39章)

聖書の箇所は、39章1節から29節です。
終末における艱難の7年が始まる前、艱難時には自然界の異変(豪雨、雹、火と硫黄が降る、大地震など)があります。こうした出来事はいったい何を物語っているのでしょうか。

 

ここ39章は38章の続きで、ゴグを主が徹底的に叩かれます。
それは、このことを通して、ご自分の聖なる名を現し、諸国民が、そしてイスラエル自身が、この方こそ主であることを知るためだと言われています。

 

そう、なぜこのような艱難をもって主はわたしたちにご自分の存在を知らしめようとされるのか。
それはわたしたちに自分の方を向いてほしいから。愛してほしいから。それは最終的にはすべての被造物を救いたい、という強いお気持ちからではないでしょうか。

 

地獄に送ってお終いなら、ほっておけば良いことです。

 

●1節.人の子よ、あなたはゴグに向かい預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ。わたしはお前に立ち向かう。
●2節.わたしはお前を立ち帰らせ、お前を導いて北の果てから連れ上り、イスラエルの山々に来させる。
●3節.そして、お前の左手から弓を叩き落とし、右手から矢を落とさせる。

 

主は38章と同じ言葉を繰り返されています。
2節と3節を読めば、「わたしは・・・させる」という言葉を使いご自分がこれらのことを全て行なっていると言われています。
ゴグが行なっていることは全て、初めから主が注意深くそうさせておられた、ということです。

 

全ての出来事は主の御手の中にあります。主が支配を受けない領域というのは存在しません。
だから、わたしたち個人の生活のなかで、どんなことが起こっても、それは主が起こしておられることなのだ、と認めることができるのです。

 

 

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マゴグのゴグに対して(1)(38章)

聖書の箇所は、38章1節から23節です。
33章から始まるエゼキエルの預言の時期は、エルサレムの町がバビロンによって破壊されたことをエゼキエルが知った直後だと思います。
主によるイスラエルの復興は、36章1から15節で、「土地の回復」の預言、同16節から37節で、イスラエルの全家の内的回復の預言です。

 

37章15節から28節で、二つの王国(ユダとイスラエル)を象徴行為によって再統合する「国の回復」の預言、と進み、ここ38章と39章では、そのイスラエルに対し、終わりの日にゴグを筆頭とする多くの国々が雲のように攻め上ってくる預言です。

 

ただし、36章で語られている回復の預言は、バビロンからの帰還としての回復のことではありません。ずっと後のことの預言です。
なぜならば、イスラエルの民が全世界に離散していたわけではなく、民の帰還も一部であるからです。

 

36章の回復の預言は、土地の回復がシオニズム運動、すなわち、19世紀末から始まったユダヤ人国家を建設しようという運動によってその一部が1948年のイスラエル建国によって一部実現しました。
それが37章の二つの国家の再統合「国の回復」の預言の実現でしょう。

 

しかし、肝心の霊的な部分がまだ復興していないのです。真の神の姿を知らない人々がイスラエルには大勢いるのです。
この奇跡的な土地の回復をもってしても、また奇跡的な国の復興を見ても、なお主を認められない人々がイスラエルには大勢いるのです。

 

そこで主は、豊かで安全だとされる地に、絶体絶命の危機を、ゴグを通して与えられ、そしてゴグを打ち砕かれることによって、イスラエルの民、また諸国の民が、この方こそまことの神、まことの主であることを認めるように仕向けられるのです。それが37章の預言です。

 

 

 

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2021年6月19日 (土)

一つとなる神の民(37章)

聖書の箇所は、37章15節から28節です。
●15節.主の言葉がわたしに臨んだ。
●16節.「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。
●17節.それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。


主は、「二つの杖が一本の杖につなぐ」(16節と17節)という預言者の象徴的行為によって現わすようにエゼキエルに命じました。それは「イスラエルの全家のために」です。

 

具体的には、一つの杖は「ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために」、もう一本の杖は「エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために」で、その両方をつないで、エゼキエルの手の中でこれらを一本の杖とするという行為です。

 

●18節.あなたの民の子らがあなたに向かって、『これらはあなたにとって何を意味するのか告げてくれないか』と言うとき、
●19節.彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはエフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらはわたしの手の中で一つとなる。

 

主は、一本の杖とする意味を「エフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらはわたしの手の中で一つとなる」と言われる。

 

 

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枯れた骨の復活(37章)

聖書の箇所は、37章1節から14節です。
●1節.主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
●2節.主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
●3節.そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」

 

主は、エゼキエルを幻の中である谷に導きます。
「連れ出され、」ですから、強引に導かれたのでしょう。連れ出されたのが、「ある谷の真ん中」でしたが、そこには多くの枯れた骨がありました。

 

腐乱が始まっているどころか「多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。」と言うことですから、完全に死んでしまった状態を指しているのでしょう。復活などとても不可能な状態です。

 

このときエゼキエルは、エルサレム滅亡後、帰る場所を失ったバビロンの捕囚民の絶望を見て、彼らはもう死んでしまった。生き返ることはないと、失意の中にいたのでしょう。

 

そのような状態をエゼキエルに見せて主は「これらの骨は生き返ることができるか。」と言われる。
これは、通常では不可能な状態であることを、主はエゼキエルに強く意識させるために言われたのでしょう。
そしてエゼキエルが、「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」と答えます。

 

 

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2021年6月12日 (土)

イスラエルの山々に向かって(2)(36賞

聖書の箇所は、36章16節から38節です。
預言の相手、預言の対象である「イスラエルの山々」が、16節から、「イスラエルの家」すなわちイスラエルの人々に対する預言になります。

 

●16節.主の言葉がわたしに臨んだ。
●17節.「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みは、わたしの前で生理中の女の汚れのようであった。
●18節.それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである。


主が、ご自分の所有とされた地を最初に汚したのはイスラエルの民自身でした。

「生理中の女の汚れのようであった。」(17節)と言うのは、レビ記15章に女の生理によって、その期間汚れるという規定があるからでしょう。

 

つまり、血がたくさん流されるということなのですが、それは、偶像による流血、すなわち、単なる偶像礼拝ではなく、偶像の前で淫らなことを行ない、それで望まない妊娠をします。

 

その子が産まれたら、モレクの偶像に捧げて火で燃やすのです。

 

 

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