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カテゴリー「エゼキエル書を読む」の記事

2020年12月13日 (日)

前置き(エゼキエル書を読む)

エゼキエルは、バビロン捕囚でダニエルと共に捕囚先で活躍した四人の若者の一人です。

 

エゼキエルの名前の意味ですが、エルは神という意味で、エゼキエルは「神は励ます」あるいは「神によって励まされた」という意味だそうです。

 

エゼキエルが神に召されたのは、エゼキエル書 1章1節に「第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。」とあります。

 

「第三十年」の意味については、注解書では「エゼキエルの年齢」だとされています。

そういえば、イエスも30歳で公生涯に入られました。

 

エゼキエルも30歳で召命を受けたとすれば、30歳は、エルサレムでは正規の意味で祭司としての働きが出来る年齢と言うことでしょうか。

エゼキエルは紀元前593から預言者としての活動を始めましたが、それはバビロンに連行されて4年後です。

 

その年は1章2節から3節によると、エホヤキンが捕囚となって連れて行かれてから5年目でした。そしてエゼキエルの活動は紀元前571年まで続きます。(エゼ29:17)

 

 

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2020年12月19日 (土)

エルサレム包囲のしるし(1)(4章)

聖書の箇所は、4章1節から17節です。4章から24章まではエルサレム滅亡の預言です。

 

エゼキエルがこの預言をしたときは、まだエルサレムは滅亡していませんでした。

 

エゼキエル4章では、エゼキエルは神から三つの預言的な象徴的行動を通して、神の言葉を民に訴えることが求められています。

 

●1節.人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを刻みなさい。

 

●2節.そして、これを包囲し、これに向かって堡塁を建て、塁を築き、陣営を敷き、破城槌を周囲に配備しなさい。

 

●3節.自ら鉄の板を取り、それを自分と都との間に鉄の壁とし、あなたの顔を都に向けなさい。こうして都は包囲される。あなたがそれを包囲するのだ。これはイスラエルの家に対するしるしである。

 

この1節から3節は、最初の預言で、それは、「れんが」(粘土板)に包囲されたエルサレムの町を刻むことでした。

 

その後、自分とこの「れんが」(粘土板)との間に「鉄の板を取り、それを自分と都との間に鉄の壁とし、」エゼキエルは顔をエルサレムの都に向けることでした。

 

 

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2020年12月25日 (金)

エルサレム包囲のしるし(2)(5章)

聖書の箇所は、5章1節から17節です。

 

4章に引き続いて、神から示されたもう一つの象徴的な行動です。

 

それはどのようにエルサレムが滅亡するかの予告でした。

 

そして、なぜ滅亡の運命を招くことになったのか、その理由が語られています。

 

●1節.人の子よ、あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげをそり、その毛を秤にかけて分けなさい。

 

「鋭い剣」とはエルサレムに対する神のさばきの破壊性を示しているのでしょう。

 

その様子は2節にあるように三つに区分されます。

 

レビ記21章によると、人が死んだ時にイスラエル人は頭の毛や髭を剃ったりしますが、祭司に対してはそれさえもしてはいけないと主はで命じ、更に主は、「髪の毛とひげをそり、その毛を秤にかけて分けなさい。」と命じておられます。

 

それは、おそらくエルサレムの住民が味わう究極の悲しみと嘆きを表すために、またバビロンの「鋭い剣」によって破壊されることを表すためにこのことを行なわせたのでしょう。

 

「その毛を秤にかけて分けなさい。」と言うのは、切った毛を2節のように等分に分けなさいということでしょう。

 

それはすなわち、これからたどるイスラエルの咎の裁きを表しているのです。

 

●2節.その三分の一は包囲の期間が終わったときに都の中で火で燃やし、ほかの三分の一は都の周りで剣で打ち、残り三分の一は風に乗せて散らしなさい。わたしは剣を抜いてその後を追う。

 

 

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2020年12月30日 (水)

主の怒りの日(7章)

聖書の箇所は、7章1節から27節です。

 

●1節.主の言葉がわたしに臨んだ。

 

●2節.「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。

 

「終わりが来る」とは神の裁きの言葉で、イスラエルの終末が今にも到来することを現す言葉でしょう。この後もこのような言葉が繰り返し使われています。

 

●3節.今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り/お前の行いに従って裁き/忌まわしいすべてのことをお前に報いる。

 

●4節.わたしは、お前に慈しみの目を注がず/憐れみをかけることもしない。お前の行いをわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは/わたしが主であることを知るようになる。

 

物事には、必ず終わりが来ます。

 

 

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2021年1月 6日 (水)

エルサレムの堕落(1)(8章)

聖書の箇所は、8章1節から18節です。

 

●1節.第六年の六月五日のことである。わたしは自分の家に座っており、ユダの長老たちがわたしの前に座っていた。そのとき、主なる神の御手がわたしの上に下った。

 

エゼキエルが預言を行なっていた場所は自分の家でした。

 

エゼキエルと共に捕囚でバビロンに連れてこられたユダの長老たちが、エゼキエルの家にやってきて、彼の預言を見たり聞いていたりしていたのです。

 

「主なる神の御手がわたしの上に下った。」とありますが、なんとも不気味な様相です。

 

●2節.わたしが見ていると、人の有様のような姿があるではないか。その腰のように見えるところから下は火であり、腰から上は琥珀金の輝きのように光輝に満ちた有様をしていた。

 

●3節.彼が手の形をしたものを差し伸べて、わたしの髪の毛の房をつかむと、霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。そこには、激怒を起こさせる像が収められていた。

 

現れた「人の有様のような姿」は、天使なのでしょう。

 

「下は火であり、腰から上は琥珀金の輝き」は、「下は火」ですから、神の裁きを表しているのでしょう。

 

その天使(霊)が、「手の形をしたものを差し伸べて」エゼキエルの「髪の毛の房」をつかんで、「地と天の間に引き上げ、」、すなわち、空中に持ち上げて「エルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った」のです。

 

 

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2021年1月11日 (月)

エルサレムの堕落(2)(9章)

聖書の箇所は、9章1節から11節です。

 

●1節.彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」

 

●2節.すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。

 

「この都(ユダ)を罰する者たち」は、六人の武器を持つ人、そして亜麻布の衣を着て、腰に書記の筆入れを持っている人の合計7人です。
彼らは天使または天的な存在でしょう。

 

天使は、ヘブライ人への手紙1章14節に「奉仕する霊であって救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」とありますが、6人の武器をもった男たちともう1人の人(合わせて「7」という完全数になります)は、神のさばきを代行した天使たちでしょう。

 

「腰に書記の筆入れを着け」た天使は、書記の役割でしょうか。

 

「亜麻布」は神の輝きと清さと純粋さを表すのでしょう。

 

そして彼らが「青銅の祭壇」のそばに立っています。青銅の祭壇」は、神の裁きを表す祭壇です。

 

 

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2021年1月16日 (土)

主の栄光が神殿を去る(1)(10章)

聖書の箇所は、10章1節から11節です。

 

二つ目の預言です。ここは、エゼキエルが御霊によって引き上げられて、幻の中でエルサレムに連れて行かれます。

 

ケルビムの上におられる主の栄光からこの預言は始まり、主の栄光が去るところで終わります。

 

イスラエルの人々にとって、神の不在(沈黙)こそ最大の裁きとなるのでしょう。

 

神の支配する世界では、目に見える現実とその背後にある目に見えない霊界の姿が一つに結び合っているという現実があります。

 

ですから、預言者エゼキエルが見せられた幻によって、背後の霊界の現実を知ることが出来ます。

 

●1節.わたしが見ていると、ケルビムの頭上の大空の上に、サファイアの石のようで、形は王座のように見えるものがあるではないか。それはケルビムの上に見えた。

 

神の御座の幻です。ケルビムの上には「頭上の大空の上に、サファイアの石のようで、形は王座のように見えるもの」ですから、頭上の大空の上の方は真っ青なのです。

 

地の近くには神の裁きの火と聖さがありますが、その上は青いのです。

 

●2節.主は亜麻布をまとった者に向かって言われた。「ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ」と。彼は、わたしの目の前で入って行った。

 

 

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2021年1月21日 (木)

主の栄光が神殿を去る(2)(11章)

聖書の箇所は、11章1節から25節です。

 

11章は、真のイスラエル、「残りの者」は誰か、ということでしょう。
それは、エルサレムに残された民なのか、それとも捕囚の民とされた離散の民の中からなのか、という問題に答える形で、その預言と幻が示されています。

 

●1節.霊はまた、わたしを引き上げ、主の神殿の東に面する東の門へ運んで行った。門の入り口に二十五人の男がおり、その中に民の指導者であるアズルの子ヤアザンヤとベナヤの子ペラトヤがいるのをわたしは見た。

 

「門の入り口に二十五人の男」の25人は何者でしょうか。

 

8章の25人は祭司でしたが、この25人の男は祭司たちではないでしょう。

 

古代東方世界では、門は諸懸案を話し合い、処分を決める行政上の重要な場所であったということですから、この人たちは、町の行政的なことを行なう、政治や行政の指導者たちでしょう。

 

その指導者たちの中の人物として「アズルの子ヤアザンヤとベナヤの子ペラトヤ」という名が出てきました。

 

わざわざ「民の指導者」としていますから、民の指導者の中で要の位置にあって、それらの決定において重要な役割を果たしていたのでしょう。

 

 

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2021年1月26日 (火)

捕囚のしるし(12章)

聖書の箇所は、12章1節から28節です。

 

この12章では、主が強情で「反逆の家」となったイスラエルに対する預言的象徴行為が記されています。それはやがて訪れるエルサレムの陥落を預言するものでした。

 

エゼキエルは第一回の捕囚となった人々に対して預言しています。

 

内容は三つに分かれます。

 

三つの出来事は、時間的にも、語られたときの状況も同じではなかったそうですが、捕囚の原因を「民の反逆」にあることを明らかにする意図の下に編集されているのではと言うことです。

 

一つは、1-16節で、紀元前586年におけるバビロン捕囚を示す象徴行動とその意味を明らかにする言葉です。
二つ目は、17-20節で、破局後のエルサレムの荒廃について述べられています。
三つめは、21節以下で、エゼキエルを真の預言者であることを認めようとしない捕囚の民の反逆に対する、エゼキエルの反論が記されています。

 

エゼキエルは、示された幻の体験を捕囚の民に語りましたが、「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」(22節)といって、それを信じようとしない民の反逆にあいました.

 

 

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2021年2月 2日 (火)

偽りの預言者(13章)

聖書の箇所は、13章1節から23節です。

 

第一次捕囚後に、イスラエルの民の間でまん延していた楽観論は、おそらく、偽預言者によるものでしょう。
ここ13章は、その偽預言者の実態と、それに対する審判の預言になります。

 

偽預言者は、人々の願いに迎合して人気を得ようとするものです。
偽預言者の典型がエレミヤ28章のハナンヤでしょう。

 

捕囚地で楽観論を預言する偽預言者たちに対して、エゼキエルは痛烈に批判します。

 

●1節.主の言葉がわたしに臨んだ。
●2節.「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。
●3節.主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは。

 

「イスラエルの預言者たち」は、霊によってではなく「自分の心のままに」、大衆の希望にこたえる(大衆が喜ぶ)形で預言する偽預言者だと言っているのです。

 

 

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