フォト
2023年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

カテゴリー「ヨハネの黙示録を読む」の記事

2020年3月 1日 (日)

前置き(ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録は、ほとんど象徴的表現で、内容は謎に満ちています。

 

わたしは最も難解な文書だと思っています。

 

最初はこの黙示録を読み解釈することをあきらめていたのですが、黙示録を読み終終わらなければ新約聖書は完成しません。キリストの福音も完成しないのです。

 

このままほっておくのも心残りで、先人の助けを借りて、何とか挑戦してみたいと思って読み始めました。

 

黙示録は、創造主から与えられた幻を、そのまま記そうとした特殊なものです。

 

著者は、福音を伝えたかど(具体的には、ローマ皇帝を神として礼拝せよと命じられたからだと思うのですが)で流された先である、エーゲ海のパトモス島でこの文書を書いて(1章9節)います。

 

そして、この黙示録のあて先を「アジア州にある七つの教会」(1章4節)としています。

 

したがって、本書が流布した場所は、ローマ帝国のアジア州、すなわちエフェソを中心とする小アジア西岸の地域になると思います。

 

著者は、自分が神から黙示を受けたのは、「神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」ときとしています(1章9節以下)ので、ヨハネが幻を見たのはパトモス島なのでしょうが、パトモス島で本書が書かれたかどうかは分かりません。

 

 

続きを読む "前置き(ヨハネの黙示録" »

2020年3月 6日 (金)

黙示録全体の構成と概略

ヨハネの黙示録の著者は、自らを「ヨハネ」と名乗り、終末において起こるであろう出来事の幻を見て、その内容を現したのがこの黙示録です。

 

まず、1章3節で、「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」と宣言します。

 

なぜ幸いかと言いますと、神の時が近づいているので、何をすべきかを知るようになるからでしょう。

 

そして、1章19節で、「すぐにも起こるはずのこと、今後起ころうとしていること」、すなわち、終わりの日に地上に展開することになる出来事を、天上の視点から見て明らかにしょうとします。

 

この黙示録は、わたしたちには想像を絶する世界である天上の視点から描いていますから、

 

それは人間の言語では言い著すことが出来ないので、象徴的表現にならざるを得ないのでしょう。

 

したがって、内容は、ユダヤ教黙示文書と同じ系統に属する文書となっています。

 

ただし、著者は、事後預言を用いることなく、自分に与えられた幻をそのまま表現し、「これから起こることを」預言しています。


1章19節にこのような言葉があります。

 

「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」です。

 

 

続きを読む "黙示録全体の構成と概略" »

2020年3月10日 (火)

序文と挨拶(1章)

聖書の箇所は、ヨハネの黙示録1章1節から8節です。

 

●1節.イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。

 

このヨハネの黙示録の正式な名前は、ここに書いてあるように「イエス・キリストの黙示」です。

 

すなわち、イエス・キリストは十字架死の後、復活して栄光の座(神の右の座)におられ、その姿は地上の人間の目には隠されていますが、その覆いが取り除かれて、天上におられるイエス・キリストの姿を幻で啓示されているのです。

 

パトモスでのヨハネの御霊によるその幻の体験を書き記した文書がこの黙示録ということでしょう。

 

したがって、「イエス・キリストの黙示」とは、復活したイエス・キリストから与えられた啓示を指しますが、それは神が隠された奥義、すなわち黙示を御子イエス・キリストに与え、イエス・キリストが「天使を送って僕ヨハネ」に啓示した黙示を文書化したものであるということでしょう。

 

だから、ヨハネはこの黙示をキリストから直接受けたのではなく、「天使を通して」受けたのです。

 

「すぐにも起こるはずのこと」とは、そのことは、神の御旨である故に必ず直ぐに起こる定めになっている、ということでしょう。

 

天界または神の御旨の中に隠されている奥義が、天使によって神の僕に伝えられるというのは、旧約聖書の預言もそうです。
「黙示」という言葉の意味を辞書で調べると、次の通りです。

 

 

続きを読む "序文と挨拶(1章)" »

2020年3月15日 (日)

天上におられるキリストの姿(1章)

聖書の箇所は、ヨハネの黙示録1章9節から20節です。

 

●9節.わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。

 

著者ヨハネは自分のことを、「あなたがたの兄弟であり」と言っています。

 

もちろん、この兄弟は、肉親の兄弟ではなくキリストにあって兄弟です。

 

著者は、巡回預言者で、グループの指導的人物と思われますが、キリストにある兄弟姉妹は、誰であろうと神のもとにすべて平等です。

 

「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。」とは、著者もキリストにある兄弟も共に苦難に会い、支配されながらも、キリストの再臨に希望を持ち忍耐していることを強調しているのでしょう。

 

●10節.ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。

 

この「主の日」についてですが、「ある」とあるから特定の日を指し、安息日ではないかという解釈がありますが、通常聖書では、「主の日」という言葉は、終わりのときに起こる、大患難のことを指します。

 

「ラッパ」は、神の顕現を表しますが、ここでは、復活のイエス・キリストの顕現を表しているのでしょう。

 

 

続きを読む "天上におられるキリストの姿(1章)" »

2020年3月19日 (木)

エフェソにある教会に宛てた手紙(2章)

聖書の箇所は、ヨハネの黙示録2章1節から7節です。

 

この2章と、次の3章で、19節で言っている「今あること」を啓示しています。

 

それは、キリストが七つの集会の現状を、御霊で天使によって預言者ヨハネに幻で語られる言葉を、各集会宛の手紙の形で書き送ります。
キリストの再臨を間近にして、初めにキリストの集会が裁かれます。

 

集会に集っている信徒と思われる人でも、本当に信仰を持っている人々と、そうでない人々とに振るい分けられるのです。

 

ですから、キリストの集会に通っている人々がみな、キリストの民であり、救いにあずかっているのではないということです。もちろん、聖職者も含めてです。

 

教会(集会)の天使とありますが、マタイの福音書18章10節にあるように、人間各自がそれぞれの守護天使を持っているように、キリストの集会もそれぞれに守護天使がついているのです。

 

その天使たちに書き送ることは、同時に集会に書き送ることを意味するのでしょう。

 

以下七つの手紙はすべて、「どこそこにある教会(集会)の天使にこう書き送れ」という語句で始まります。

 

七つの手紙の内容は、発信人であるキリストがどのような方か、どのような資格で語られるのか、そして、七つの各集会の特有の現状を見て、称賛と非難の言葉で警告します。

 

その後に、悔い改めの促しと、裁きが切迫していることを告げる言葉が来ます。

 

 

続きを読む "エフェソにある教会に宛てた手紙(2章)" »

2020年3月26日 (木)

スミルナにある教会に宛てた手紙(2章)

聖書の箇所、ヨハネの黙示録2章8節から11節です。

 

「スミルナ」という町の由来は、「没薬」から来ているそうです。

 

没薬は、死体を葬るときに使う香料ですが、解説では、スミルナの町は、キリストの御名のゆえに殺される殉教者が多かった町だったそうです。

 

当てはまる時代としては、迫害時代である紀元1世紀から4世紀の教会ではないでしょうか。

 

もちろん、現在も迫害にさらされている教会がありますが、その時代が、最も迫害が激しかった時代です。

 

迫害下にあるスミルナにある教会は信仰と霊性における豊かさが称賛されています。

 

●8節.スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。

 

「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」というのは、復活されたイエス・キリストが、歴史の最初をつかさどり、また歴史の終わりを支配するお方として、「最初の者にして、最後の者である方」とされているのでしょう。

 

「一度死んだが、また生きた方」も、イエス・キリストを指し、十字架上で亡くなられたが三日目に復活されたのでその様に表現しているのでしょう。

 

このように、イエス・キリストの十字架上の死と復活は、聖書の中心的な課題です。

 

 

続きを読む "スミルナにある教会に宛てた手紙(2章)" »

2020年3月28日 (土)

ベルガモンにある教会に宛てた手紙(2章)

聖書の箇所は、ヨハネの黙示録2章12節から17節です。

 

ペルガモンの教会は、異教的環境で仲間が殺されるという苦しい状況においても信仰を捨てなかった忍耐と勇気が称賛されています(13節)。

 

「ペルガモン」という語句は、結婚したという意味があるそうです。

 

結婚を国家と教会の結婚と捉えれば、ローマとの結婚が象徴的でありますから、当てはまる時代は、4世紀から5世紀の教会が考えられます。

 

●12節.ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。

 

ペルガモンという町を調べてみると、ペルガモンはもともとアッタロス王朝の都でしたが、前133年に遺贈によってローマ帝国の属領となりました。

 

ペルガモンは、繁栄した大都市でした。

 

ギリシアの神々に献げられた多くの神殿とか、大劇場や大図書館などもあり、宗教と文化の一大中心地であったそうです。

 

この町には、前29年に初代ローマ皇帝アウグストゥス帝と女神ローマのための神殿も建てられていました。

 

 

続きを読む "ベルガモンにある教会に宛てた手紙(2章)" »

2020年4月 2日 (木)

ティアティラにある教会に宛てた手紙(2章)

聖書の箇所は、ヨハネの黙示録2章18節から29節です。

 

ティアティラの教会は、教会が愛、信仰、奉仕、忍耐において成長し、「近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」ことが賞賛されています(19節)。

 

ペルガモンとティアティラの教会は、賞賛されているのですが、それと共に、前に書きましたが、一部の者にニコライ派とかイゼベルというような間違った教えが入り込んでいることが警告されています。

 

「ティアティラ」という語句の意味は、結婚した犠牲と言うことですから、ローマと結婚したために起こる犠牲で、当てはまる時代は6世紀から15世紀の教会暗黒時代が考えられます。

 

●18節.ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。

 

ティアティラの町は、使徒言行録16章に出てきます。

 

ティアティラの町は、布の同業組合、またはギルドが盛んで、裕福であったとようです。

 

そして、同業組合の一員になるには、異教の祭りやいかがわしいことを行なわなければいけなかったようです。

 

「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように・・神の子」は、キリストを描いていて、ダニエル書10章6節の「体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。」が用いられているのでしょう。

 

「燃え盛る炎のような目」は、人間の隠れた心の奥底を見通すことを象徴しているのでしょう。

 

 

続きを読む "ティアティラにある教会に宛てた手紙(2章)" »

2020年4月 7日 (火)

サルディスにある教会にあてた手紙(3章)

聖書の箇所は、ヨハネの黙示録3章1節から6節です。

 

「サルディス」の意味は、残った者、逃れる者という意味だそうです。

 

対応する時代としては、16世紀から17世紀の宗教改革時代が考えられます。

 

カトリックから逃れるプロテスタントの時代でしょう。

 

「残った者」は、残されたカトリックの教会で、「逃れる者」は当然プロテスタントです。

 

●1節.サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

 

「サルディス」の町は、高原にある町で、ティアティラの町の南西にあり、古代ギリシアの城砦の町として知られていたということです。

 

そして、そこに入るには一つの道しかないので、難攻不落の町として知られていました。

 

「神の七つの霊と七つの星を持っている方」とは、七つの霊はその集会に使わされている天使のこと、七つの星は七つの教会のことで、それらを支配されている方(運命を握っておられる方)ですから、復活されたイエス・キリストを象徴的に表現しているのでしょう(七つの霊」は1章4節、「七つの星」は1章16節を参照)。

 

ですから、サルディスにある教会の運命はイエス・キリストが握っておられることを表しているのでしょう。

 

 

続きを読む "サルディスにある教会にあてた手紙(3章)" »

2020年4月13日 (月)

フィラデルフィアにある教会にあてた手紙(3章)

聖書の箇所は、ヨハネの黙示録3章7節から13節です。

 

フィラデルフィアの町は、主要な道路に通じているので、人の交流が多く、東アジアへのヘレニズム文化の普及に適した町であったのではとされています。

 

そのことから、このフィラデルフィアの教会も、キリストの救いの福音を全世界に伝えるための入り口としての役目が与えられていると捉えることが出来るということです。

 

なお、フィラデルフィアの教会については、叱責はなく、自分の力は弱いにもかかわらず、苦難の中で主の御名を言い表し続けたことが賞賛されています(8節)。

 

「フィラデルフィア」という語句は、この町を建設した人の名前で、兄弟愛という意味だそうです。

 

プロテスタントによる、18世紀から19世紀の大宣教時代(リバイバル時代)が考えられます。

 

●7節.フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。

 

フィラデルフィヤの町は、当時は交通・貿易の要所で、この町を通って、人々が東から西へ、西から東へ行きます。

 

 

続きを読む "フィラデルフィアにある教会にあてた手紙(3章)" »

より以前の記事一覧