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カテゴリー「ペトロの手紙一を読む」の記事

2019年12月18日 (水)

結びの言葉(5章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙一5章12節から14節です。

 

●12節.わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。

 

●13節.共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。

 

●14節. 愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。

 

「シルワノによって」(12節)は、手紙の執筆者ではなく手紙を届ける人物を指しているのでしょう。

 

シルワノは、使徒言行録に出てくるシラスのことでしょう。

 

また、挨拶を送る「バビロンにいる人々と、わたしの子マルコ」のマルコは福音書を書いたマルコのことでしょうが、わたしの子と言っているのは、信仰の上での愛弟子という意味でしょう。

 

年齢が大きく離れていて、よほど親しかったのでしょう。

 

「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。」は、ほかの手紙でも、パウロがよく用いている挨拶の言葉です。

 

本当に口づけするのではなく、親愛のしるしとしてこのように表現しているのでしょう。

 

 

長老たちへの勧め(5章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙一5章1節から11節です。

 

●1節.さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。

 

いよいよ最後の章に入りました。

 

「長老」というのは、信仰歴の長い年配の、集会を指導する立場の人たちのことでしょう。

 

ただし、この時代はまだ制度的教会は確立していませんでしたから、制度としてそういう役目があるのではなく、単にそういう役目を担っている人をそのように呼んでいたのでしょう。

 

ペトロは、キリストの民を導くべく立てられた「長老」の一人とされています。

 

著者はこの手紙を、ペトロを「キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者」として、この手紙をペトロからの勧告として書いています。

 

この手紙の著者は、おそらくペトロの弟子でしょう。

 

ペトロがすでに殉教したことを知っていますので、このような書き方になったのでしょう。

 

 

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キリスト者としての苦しみを受ける(4章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙一4章12節から19節です。

 

●12節.愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。

 

すでに迫害は始まっているのですね。

 

しかし、読めばまだ大きな迫害は来ていないようです。

 

この手紙は、その大きな迫害が起こる直前に書かれたのではないでしょぅか。

 

すでにその予兆があったでしょう。

 

これから、激しい迫害の試練が待っています。

 

そういう状況下で、キリストの名のゆえに受ける苦しみ、キリストの民としての苦しみについて励ましているのでしょう。

 

●13節.むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

 

著者は、その迫害がやってきても「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(12節)といって、「苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」と言っています。

 

 

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2019年12月15日 (日)

神の恵みの善い管理者(4章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙一4章1節から11節です。

 

罪を犯したために受ける苦しみならわかるのですが、正しいことを行なったのに苦しみを受けるのはどういうことか、それは不公平なことではないかという疑問に対して、ここではキリストの苦しみを例にしてその質問に答えています。

 

●1節.キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。

 

キリストが肉の苦しみをお受けになった事実を取り上げて、キリストの民も「同じ心構えで武装し」、この世を生きることを求めています。

 

そして、その理由を「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者」となるためであるとします。

 

「肉」ですが、パウロが肉というときは、神に敵対する、生まれながらの人間の本性という意味で用いていますが、ここでは、時間が入り、この生まれ持った身体で生きる人間の生涯という意味で用いられているのではということです。

 

肉における苦しみは、わたしたちに罪からの断絶、つまり、罪の奴隷から解放される事態をもたらすのです。

 

そうすれば、キリストの思いに自分が近づいていくことができるということでしょう。

 

 

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正しいことのために苦しむ(3章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙一3章8節から22節です。

 

●8節.終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。

 

前節までで、「家庭訓」を書き終えた著者は、「終わりに」と続けて、こんどは、集会での兄弟たちの交わりについて勧告します。

 

●9節.悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

 

神の民であるキリストの民は、神の御心に反するような悪とか侮辱は避けて、ただ相手にの祝福を祈るべきです。

 

そのためにキリストの民は召されてのですからね。

 

●10節.「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、

 

●11節.悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。

 

●12節.主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

 

ここは詩編34編13節から17節を、少し変えて引用しているのでしょう。

 

幸いな日々を過ごしたいならば、「追い求めよ」ですから、一心になりなさい、という勧めでしょう。

 

キリストにあって兄弟として愛するときも、誰かが悪いことをしたときも、「舌を制して、悪を言わず、」ですから、相手を許さないで、怒るとか、悪口を言うのではなく「善を行い、/平和を願って」これを追い求める(一心に祈る)ときに、人の心は一つになるということでしょうか。

 

もちろん、「追い求める」ですから、自分が神に召されたものであることを認識し、心高ぶらずに、謙遜であることが求められます。

 

12節の「主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。」ということは、わたしたちは、悪い心で祈っても祈りは聞かれないということでしょう。

 

 

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2019年12月11日 (水)

妻と夫(3章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙一3章1節から7節です。

 

●1節.同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。

 

前段で、キリストの民は社会制度に従い、召使い(家庭内奴隷)は主人に従うように勧めた著者は、ここでは、「同じように」妻は夫に従いなさいと勧めています。

 

たとえ夫が「御言葉を信じない人」(キリストを信じない人)であっても、妻は不満を言わないで服従しなさい、と言っています。

 

なぜ従わなければいけないのかは、「妻の無言の行い」をみて、夫が信仰に導かれるようになるためです。

 

●2節.神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。

 

1節の「妻の無言の行い」の内容が、神を恐れる純真な生活だと説明しています。

 

無慈悲な主人をもつ召使い(家庭内奴隷)に誠意ある服従が「主のゆえに」求められたように、「御言葉を信じていない夫」からの辛い仕打ちにも「主のゆえに」黙って耐えて服従するように 求められているのです。

 

キリスト者である妻の無言の善い行いによって、未信者の夫がキリスト信仰に導かれて、「主のゆえに」キリストの民となるためであると説明しています。

 

 

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召使いたちへの勧め(2章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙2章18節から25節です。

 

●18節.召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。

 

「召し使いたち」に対して、「心からおそれ敬って主人に従いなさい。」と説きます。

 

この召使いという語は、いわゆる奴隷には変わりがないが、奴隷一般を指すのではなく「家内奴隷」を指す語と言うことです。

 

「無慈悲な主人にもそうしなさい。」ですから、著者は、2章11節から17節に書いたように、善を持って従いなさい、それが神の御心だと言うことでしょう。

 

無慈悲な主人というのは、自分の不利益になる人を指すのでしょうが、それでも従いなさいと言うことです。それがキリスト者のあり方です。

 

しかし、このような勧告を守ることは、現実には不可能です。それでもそれができるのは、神の御霊、聖霊がキリスト者と共におられるからと言えます。

 

●19節.不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。

 

ここから25節までは、召使いに対する勧告だけでなく、キリスト者一般の生き方に対する勧告と言えます。

 

 

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神の僕として生きる(2章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙2章11節から17節です。

 

著者は、福音の救いの働きとそれに伴う希望を提示し、聖なる歩みをするように呼びかけて、実際的な勧告を始めました。

 

ここから著者は、日常生活においての聖なる歩みの各論に入ります。

 

●11節.愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

 

神の民は、この地上では旅人であり、寄留者です。

 

「肉の欲」(すなわち、親から生まれたそのままの命に生きること。簡単にいえば、自己中心に生きること)を避けねばなりません。

 

「魂に戦いを挑む」とは、神の思い(神を愛し隣人を自分のように愛すること)と肉の欲は相反するものだから、心の中ではいつも両者の戦いがあるのです。

 

●12節.また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

 

「訪れの日」というのは、解説によると、一つは、イザヤ書(七十人訳ギリシア語聖書10章3節)の「刑罰の日」(最後の審判)を意味すると言う解釈と、新約聖書では「お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカの福音書19章44節)を、「神が救いの恵みをもって民を訪れてくださる時」という意味で用いられているということです。

 

 

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2019年12月 8日 (日)

生きた石、聖なる国民(2章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙2章1節から10節です。

 

●1節.だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、

 

「だから」、と、著者は神の永遠の言葉(福音)によって「新たに生まれた」という事実を受けて、まず、生まれながらの人間性で、深く染みついている「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」(1節)を「捨て去る」ように求めています。

 

捨て去るように求めているそれらは、暴力のような行動ではなく、言葉とか思いにかかわるものと思われます。

 

ということは、その人のすべての行為はその人の心から出てくると言う前提があるからでしょう。

 

●2節.生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
その心は生まれつき悪に染まっていて、自分で変えることは困難です。

 

そこで、「霊の乳を慕い求めなさい。」、そして、「飲んで成長し、救われる」、すなわち、それらの悪を捨て去って「救い」に与りなさいと勧告しているのでしょう。

 

わたしたちは御言葉によって「新たに生まれた」のですから、その生まれたばかりの命を養い育てるには栄養としての「乳」が必要です。

 

新しい命は神の言葉により生まれ、その乳は「混じりけのない霊の乳」で巣から、「霊の乳」は神の言葉を指しているのでしょう。

 

わたしたちの魂はそのような神の言葉を、慕い求めなければいけないのです。

 

 

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2019年12月 6日 (金)

聖なる生活をしょう(1章)

聖書の箇所は、ペトロの手紙一1章13節から25節です。

 

●13節.だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
「だから」と著者が指すのは、1章3節から12節で提示した、キリストにあって与えられている希望のことでしょう。

 

著者はその希望を根拠にして、あるいはそのような希望を持つことができるように救われている現実を根拠にして、実際の生き様について勧告します。

 

「心を引き締め、身を慎んで」 の心を引き締めとは、肉の欲望や、世の誘惑に惑わされないで、自分の意思をしっかりと持っていて、生活のあらゆる領域で、御霊の導きを意識し、神が願われている聖い生活を積極的に行っていくための心構えを言っているのでしょう。

 

終末を自覚しながら、その際にはすぐに行動できるような心構えで、キリストの顕現の日をひたすら待ち望んで暮らしなさいという勧告でしょう。

 

●14節.無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、

 

「無知であったころ」ということは、キリストを知らなかった(キリストの福音と恩恵を)頃の欲望のことでしょうから、肉の欲(生まれながらの神を知らない命のまま生きること)に、「引きずられ」ですから、身を任せて、自分の欲望のままに生きるような生き方はしないようにという勧告でしょう。

 

 

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