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カテゴリー「ヘブライ人への手紙を読む」の記事

2019年11月 9日 (土)

神に喜ばれる奉仕(13章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙13章1節から25節です。

 

●1節.兄弟としていつも愛し合いなさい。

 

著者は、ここから18節まで、神に喜ばれるように仕える道を、実際的な訓戒で示します。

 

「兄弟愛」というのは、人は困難な中においては、つまり、迫害の中においては、主にある一体感が増します。

 

その中で、キリストにある者は互いに励ましあい助け合うことが求められているのでしょう。

 

●2節.旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。

 

1節から3節は、迫害下の中における勧めでしょう。

 

「気づかずに天使たちをもてなしました。」とあるのは、創世記24章のアブラハムの物語で、アブラハムは三人の人を家に迎えもてなしましたが、その三人は天使であると気が付かないでもてなしたのです。

 

その話を例として、旅人であるからといって粗末に軽くあしらわないで、むしろ、主が送ってきてくださった方として、もてなすことが大事なのだと勧告します。

 

ということは、主にあるキリストの兄弟姉妹ではない人々にも同じように兄弟愛を示しなさいということでしょう。

 

●3節.自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。

 

 

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キリスト者にふさわしい生活の勧告(12章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙12章14節から29節です。

 

●14節.すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
「すべての人との平和を、また聖なる生活」を追い求めるように勧告します。

 

そのために、苦難によってもたらされた汚れた思いが取り除かれるように、御霊によって聖くされなさいということでしょう。
聖くなければ、主を見ることができないのです。

 

●15節.神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。

 

「苦い根が現れてあなたがたを悩まし、」とあるのは、わたしたちは、苦難の中にあるときは、苦難がその人の心をむしばむどころか、人格にも影響を及ぼし、多くの人が(不品行に)汚されることがありますので、「苦い根が現れて」というのはそのことを言っているのでしょう。

 

●16節.また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。

 

●17節.あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

 

著者は、15節までの勧告の例として、聖書に出てくる、一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウの例をあげて、世俗の欲に埋没して、「長子の権利を譲り渡したエサウ」、のように神の恩恵から落ちることのないようにと警告しているのでしょう。

 

 

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2019年11月 5日 (火)

主による鍛錬(12章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙12章1節から13節です。

 

●1節.こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

 

「こういうわけで、」というのは「わたしたち(キリストに属する者)を除いては、彼らは完全な状態に達しなかった」(40節)ことを指し、そのわたしたちの生涯を著者は、競走競技にたとえているのでしょう。(1節から3節)。

 

競技で走る者はできるだけ身軽になろうと、すべての重荷を捨てて走ります。

 

そのようにわたしたちも罪の重荷をかなぐり捨て、信仰の創始者であり完成者であるイエスを模範として、忍耐強く最後まで走るように、著者は励ましているのでしょう。

 

「おびただしい証人」とは、11章2節以降に書かれている聖書の「昔の人たち」のことですが、彼らは、信仰によって、キリストの証人となった人々です。

 

彼らは神の言葉に忠実に生きたのですが、自分が生きているうちに神の約束が実現するのを見ることができませんでした。

 

むしろ、苦しみ、虐げ、そしり、窮乏、拷問など、祝福とは正反対のことが彼らの生活にふりかかりました。

 

こうした報われないで死んでいった「証人の群れ」がおびただしい数になっています。

 

キリスト者の歴史は、迫害と殉教の歴史です。

 

●2節.信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

 

 

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2019年11月 3日 (日)

信仰(2)(11章)

聖書の箇所は、ヘブライの信徒への手紙11章1節から40節の(2)は20節から40節です。

 

●20節.信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。

 

●21節.信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。

 

●22節.信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

 

20節から22節は、創世記のアブラハムの物語で、子孫であるイサクとヤコブとヨセフの信仰の証のことを言っているのでしょう。詳細は省略します。

 

イサクは、目が不自由な故、間違って弟ヤコブに祝福を与えたので、兄エサウには「もう祝福は残されていない」と言って、エサウの子孫がこれからどうなるのか、その未来を預言しました。

 

イサクはエサウを祝福したかったのですが、信仰により自分の気持ちよりも神の言葉を優先し、神から与えられた啓示を語りました。

 

ヤコブは、彼は死ぬ間際にヨセフの息子二人を祝福し、また12人の息子に、終わりの日に起こることを預言しました。

 

彼は、杖によりかかって神を礼拝するほど体は弱っていたのですが、信仰により息子を祝福し、神を礼拝したのです。

 

ヨセフは、自分の死期が近づいたとき、遺体をエジプトから連れ出してカナンの地に葬ることを指図しました。

 

それは、彼は神を愛し、神が与えてくださったその土地に行きたいと強く願ったからでしょう。

 

カナンの地を与えるという神の約束は、自分が生きているうちに実現しないのですが、けれども、必ず実現すると信じていたからそのような行動をとったのでしょう。

 

●23節.信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。

 

 

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信仰(1)(11章)

聖書の箇所は、ヘブライの信徒への手紙11章1節から40節です。

 

二回に分けまして、(1)は1節から19節までとします。

 

●1節.信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 

この11章では、信仰の先人たちの事例を列挙していますが、その前に「信仰」とは何かを説明しています。

 

「望んでいる事柄」と「見えない事実」(共に複数形)は、両方とも神によって約束された終わりの日の栄光の事態を指しているのでしょう。
キリストの再臨の際に受けるキリストの民の報いのことを言っているのでしょう。

 

「確信」という言葉の原意は「根底にあって支えるもの」で、それは「確信、確証」という意味にも用いられているそうです。

 

したがって、この「確信」というのは、約束を裏付けするものですから、保証するということでしょう。

 

「見えない事実を確認」の確認は、確認、確証、非難などの意味で用いられていて、ここでは「検分済み確認書」という意味だそうです。

 

神から与えられる内的な確信で、神が約束されたことを必ず実行されるという「確信」ということでしょう。

 

どちらにしても、両者は同じような意味で、望んでいる事柄を確固たるものにするという意味があるのでしょう。

 

したがって、著者が言う信仰とは、神の約束によって終わりの時に与えられると望んでいる栄光、まだ見ていない終末的な栄光の事態を確かな現実として、現在を生きる生き方ということになると思います。

 

これは、パウロが希望と呼んだ信仰者の生き方と同じであると思います。

 

 

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2019年11月 2日 (土)

奨励と勧告(10章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙10章19節から39節です。

 

●19節.それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。

 

著者は「それで」という言葉で切り出し、内容を改めて書き始めます。

 

ここまでは、神の御子キリストは御使いよりもすぐれた方で、わたしたちの救いの道を備えられ、また聖書の言葉を用いて、アロンの祭司職よりも偉大なメルキゼデクの祭司(モーセ律法より前の時代のこと)となられたことについて書いてきました。

 

そして、モーセを通して与えられた神との古い契約(モーセ律法)は、キリストによる新しい契約(福音)によって取って代えられて、この新しい契約が古い契約よりも、すぐれたものであるとします。

 

ここからは、キリストがいかにすぐれた方であるかを知った人たちが、そのことに対しどのように応えていくかが問題になるのでしょう。
著者は、「聖所に入れると確信しています」と皆に自分の信仰を語っています。

 

聖所に入るということは、神に近づき、神の御許もとの中に留まることができるということでしょう。

 

あるいは、この世においては、神の霊、聖霊による神との親密で深い交わりの場に入れられるということになります。

 

著者は、わたしたちはイエスの血によって、完全に清められたのだから、確信をもって、自由に、大胆に神に近づくことができる、と信じていると言っているのでしょう。

 

そのような場に入るためには、「イエスの血に」よらなければならないのです。

 

 

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2019年10月29日 (火)

罪を贖う唯一のいけにえ(9章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙9章23節から28節、10章1節から18節です。

 

●23節.このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。

 

ここでは神の幕屋における清めの問題が語られています。

 

地上の聖所(地上の幕屋)は天の聖所(天の幕屋)の写しだとしています。

 

「これらのもの」とは、生贄である動物の血のことで、大祭司が神に近づくためには、地上の幕屋は清められなければいけないのですが、天の幕屋は、「これらよりもまさったいけにえによって、」清められねばならないということでしょう。

 

神がおられる天の聖所も、罪人をご自分のところに受け入れるには、それ相当のいけにえが必要です。

 

天におられる神に近づくには、動物のいけにえよりも「まさったいけにえ」でなければならないのです。

 

●24節.なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。

 

キリストはご自分の血を携えて、「人間の手で造られた聖所」ではなく、「天そのものに入り」神の御前に現われて、「今や」わたしたちのために執り成して下さっているのです。

 

 

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地上の聖所と天の聖所(9章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙9章1節から22節です。

 

●1節.さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。

 

「最初の契約」とありますが、これは8章に記されている契約、すなわち、モーセを通して与えられた律法のことで、古い契約のことでしょう。

 

こうした古い契約と新しい契約には大きな違いがあるのですが、古い契約においても「礼拝の規定と地上の聖所」についての説明があります。

 

●2節.すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。

 

●3節.また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。

 

●4節.そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、

 

●5節.また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。

 

著者はここ1節から5節で、最初の古い契約、すなわちモーセ契約において神を礼拝する場所の構造を(現実の神殿ではなく旧約聖書の幕屋に関する規定から)解説します。

 

このような詳しい解説は、この手紙の読者がユダヤ人ではないから必要であったのっでしょう。

 

 

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2019年10月27日 (日)

新しい、優れた約束の大祭司(8章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙8章1節から13節です。

 

7章で「メルキゼデクの位に等しい大祭司」としてのイエスの地位が、旧約聖書のアロンから受け継ぐ祭司制と比べていかに優れたものであるかが語られたのを受けて、ここ8章ではこの大祭司イエスが祭儀を行う場所がいかに優れたものであるかが論じられ、同時に大祭司イエスを仲介者として保証される神と民とを結びつける契約が、モーセ契約と比べていかに優れているかを論じます。

 

●1節.今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、
●2節.人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。

 

ここで聖所とか幕屋とイエスの関係について簡単にまとめておきます。

 

イエスは、「天におられる大いなる方の玉座の右の座」(1節)に着座されている方です。

 

右の座ということは、神に次ぎ権威をもっておられることを示しています。

 

地上において祭司が奉仕している幕屋は、後に神殿と呼ばれるものですが、人間が、幕屋の器具や祭具、板、幕などを作りますが、それらは、いつかは綻んでなくなってしまうものです。

 

地上の祭司は、その幕屋で日々、生贄を献げ、奉仕をして、まだ完成していない贖いを達成しようと、何度も同じことを行なっています。
ところが、イエスは「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で」仕えておられるのです。

 

 

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2019年10月26日 (土)

メルキゼデクの祭司職(7章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙7章1節から28節です。

 

メルキゼデクという名は、旧約聖書の中の創世記14章18節と、詩編110編4節の二か所に出てくるだけです。

 

著者は、そこで語られている僅かのことをもとに、語られていない多くのことを加えて、イエスが「メルキゼデクの位の大祭司」であるということの意味を、7章全体で説いています。

 

●1節.このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。

 

メルキデゼクは、創世記の初めに現れる人物です。

 

アブラハムとの出会いの流れを書いてみると、アブラハムは甥のロトと一緒に、神に示された土地カナンに移り住みました。

 

アブラハムもロトも放牧者で、羊や牛を飼っていましたが、羊や牛が増えて土地が狭くなってしまいました。

 

そのために二人が雇っている牧者たちの間でいざこざが起こるようになりました。

 

そこでアブラハムはロトに別れを告げるのです。

 

アブラハムはロトに「別れて住もう。あなたが右に行くなら、私は左に行き、あなたが左なら私は右に。」と言いました。

 

そして、ロトは、ヨルダンの低地全体を見下ろして、とてもよく潤っていたのを見て、そこを選びました。恵まれた土地を選んだのです。
けれども、そこにはソドムという町があり、神を恐れて生きる者には適さないところでしたが、ロトはソドムの近くに天幕をはって、住み始めました。

 

 

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