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カテゴリー「ガラテヤの信徒への手紙を読む」の記事

2019年7月20日 (土)

結びの言葉(6章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙6章11節から18節です。

●11節.このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。

 

パウロは手紙の結びに入ります

「大きな字で」と書いていますから、パウロは目が悪かったのでしょうか。

 

「自分の手で」とわざわざ書いていますから、おそらくここまでは口述筆記で他者に書かせてきたのでしょう。

それに、書かせたことが自分の真意に間違いないことを保証する意味もあって、ここは直筆で書いたのではないでしょうか。

 

 

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信仰に基づいて助けたい(6章)

聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙6章1節から10節です。 

ガラテヤ書の最後の章です。もう少しで終わります。

このガラテア書は苦労しました。二カ月を要しました。

ここはキリストに結ばれた者、クリスチャンの生き方です。

 

●1節.兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

●2節.互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 

パウロは「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」(1節)と切り出しますが、なにやらガラテヤの集会の紛争を暗に心配しているようです。

 

パウロは霊的な人間と自称しながら、肉の働きに陥っている未熟なガラテヤの人を立てて、「“霊”に導かれて生きているあなたがた」(1節)と語りかけます。

 

 

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2019年7月18日 (木)

霊の実と肉の業(5章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙5章16節から25節です。

パウロは、隣人愛に生きる生き方を勧めました。

 

それは御霊にあって、自由であることによって築かれるものでした。

そして、自由と隣人愛はキリストを受け入れる者に働かれる聖霊の働きそのものでした。

 

●16節.わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

●17節.肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分がしたいと思うことができないのです。

 

パウロは、色々と言ったが実際の歩みについて「わたしが言いたいのは、こういうことです」(16節)と、結論を語ります。

 

それは、「肉の欲望を満足させる」(16節)ことではなく、「霊の導きに従って」(16節)歩むことだと説きます。

 

 

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キリスト者の自由(5章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙5章2節から15節です。

 

●2節.ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。

●3節.割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。

●4節.律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

 

「もし割礼を受けるなら」(2節)と言うのは、律法の行ないによって義と認められようとするなら、キリストは自分にとって何の役にも立たない方になるということでしょう。

 

ここでパウロは、割礼を受けてモーセ律法を守る立場とキリスト信仰は両立しない二者択一の関係であることを明確にしているのでしょう。
割礼を受けるということは、モーセ律法を守ることになるから、「律法全体を行う義務があるのです。」(3節)。

 

律法を守ろうとするのはその人の努力とか能力によるのですから、それは義とされる方である神との関係を人間の努力とか能力で定めようとしていることになります。

 

 

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2019年7月16日 (火)

二人の女のたとえ(4章)

聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙4章21節から5章1節までです。

偽教師と呼ぶユダヤ主義者たちは、モーセ律法を用いて異邦人信徒を説得しようとしました。

それに対抗してパウロも、割礼を受けてモーセ律法の下に生きたいと思っている者たちに、そのモーセ律法を論拠にして思いとどまらせようとします。

 

●21節.わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

●22節.アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

●23節.ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

 

「律法の言うことに耳を貸さないのですか。」(21節)と言ってパウロは、創世記のアブラハムと二人の息子の物語を語り始めます。
創世紀がモーセ五書の一つですから、創世記も律法です。

 

 

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2019年7月15日 (月)

キリストがあなたがたの内に形づくられるまで(4章)

聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙4章8節から20節です。

パウロは、異邦人信徒に割礼を求めるユダヤ主義者たちに対し、「割礼なしの福音」を論駁するのに用いたのは、聖書(旧約)です。

 

このようなユダヤ主義者の主張に、聖書を知らない異邦人信徒は抗弁する術をもたなかったでしょう。

この二つの聖書を論拠とするユダヤ主義者の主張に対して、パウロはガラテヤ書3章1節~4章7節を用いて反論します。

 

その前にパウロは、4章8節から5章12節で、ガラテヤの信徒たちに訴えたい重要なことを、キリストを知る前と知ってからの状態を対比して取り上げます。

4章12節から20節では、自分が立ち上げたガラテヤの信徒たちに、彼らを生んだ親としての立場から、親子の絆と情に訴えます。

 

●8節.ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。

 

「あなたがたはかつて、神を知らず」と言うことですから、パウロは、以前異教徒であったガラテヤ人に対して語っているのでしょう。

 

 

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2019年7月13日 (土)

奴隷でなく神の子である(2)(3章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙3章21節から29節,4章1節から7節の4章1節から7節です。

 

●4章1節.つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、
「未成年である間」と言うのは、律法の中で生きていたイスラエルの人々を指しているのでしょう。

 

「つまり、こういうことです」と言って、パウロはこれまでに述べたことを要約します。

まず、キリストに出会うまでの人間の状況を描きます。

 

キリストに結ばれて生きる者は「全財産の相続人」(1節)であっても、「未成年である間」(キリストに出会うまでの間、すなわち、父親が定めた期日までは)は「後見人や管理人の監督の下」(2節)(前の比喩では律法とか神殿祭儀の支配下)に置かれているのです。

 

キリストに結ばれて生きる者は全財産の相続人で、父親のものを後々受け継ぐことができますが、「僕(シモベ)と何ら変わるところがなく、」ですから、ある一定の歳にならなければ、その財産を自由にすることができないということでしょう。

名目上全財産の所有者であっても僕と変わらないと言うことでしょう。

 

●2節.父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。

●3節.同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。

 

 

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奴隷でなく神の子である(1)(3章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙3章21節から29節,4章1節から7節の3章29節です。

 

●21節.それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

 

パウロは、律法は直接アブラハムに与えられた祝福の約束に後から付け加えられたもので、仲介者を通して間接的に神から与えられたものだと述べましたが、これは律法をないがしろにすることになりますから、当然ユダヤ人たちから「律法は神の約束に反するものなのでしょうか」という批判がでます。

 

パウロはその批判を先取りして、自らその問を提起し、それに対して 「決してそうではない」と答えます。

 

「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。」とパウロは自分で問いかけて、律法は「人を生かすことができる律法」、すなわち、罪を明らかにするだけではなく、守り行うことができる律法であれば、「律法によって義」ですから、罪が赦されて新しい命を得ることができる(救われる)、と言っています。

問題はわたしたちが律法を守り行なうことができないと言うことだと述べます。

 

●22節.しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 

「すべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」ですが、これは律法が与えられた目的は、わたしたちがいかに罪深いかを明らかにするところにあると言っているのでしょう。

 

 

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律法と約束(3章)

聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙3章15節から20節です。

 

パウロは、ユダヤ人たちが、律法の行ないによって得られると思っていた祝福は、実はキリスト信仰によって得られると、アブラハムの例を用いて教えています。次に、パウロは、この祝福の基になっている「約束」について話し始めます。

 

●15節.兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。

 

パウロは、「兄弟たち」と、信徒に親しみをこめて呼びかけます。

なんとか分かってほしいという気持ちが伝わります。

 

「分かりやすく説明しましょう」と、人間社会一般にみられる誰でもが周知していること、すなわち、人間社会の習慣としての「遺言」を例に説明します。

 

 

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2019年7月11日 (木)

律法によるか、信仰によるか(2)(3章)

投稿は二回に分けまして、(2)での聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙3章1節から14節の内10節から14節までとします。


●10節.律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

 

凄い言葉が出てきました。

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」です。

 

律法の行ないには、呪いの約束がともなっているのです。

それでは、「すべての事を絶えず守らない」とはどういうことでしょうか。

 

律法の一部を守るのではなく、すべてを守らなければ、その人は呪いのもとに置かれるということでしょうか。

そうすると、一つの法律を破れば、他の律法を守っていても、そのことによって裁かれるということになります。

これでは、現実的に律法によって神の前に義と認められる者は誰もいないことは明らかです。

 

 

 

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