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カテゴリー「ガラテヤの信徒への手紙を読む」の記事

2019年7月 1日 (月)

前置き(ガラテヤの信徒への手紙)

この手紙はパウロが書いたのでしょう。

 

内容は、パウロ個人の伝記と初代教団の緊迫した問題について書かれており、そのことを当事者であるパウロ自身が証言し、資料を提供していることから、後世のキリスト教の歴史にも少なからず影響を及ぼしたということで、重要な文書だとされています。

 

さて、ガラテヤ人というのは、この手紙の著者パウロの生まれたタルソス(古代ローマ帝国の属州キリキアの首都)の北方で、今のトルコのアンカラ地方に住んでいた人たちを指しているのでしょう。

 

パウロはイエスの使徒とされてから、ユダヤ人以外の異邦人、つまり、ギリシア人やローマ人などにキリストの福音を伝えました。

 

当時ローマは世界最大の帝国ですから、ローマに福音を伝えることは、全世界に伝えることと同じことでした。

 

ユダヤ人以外の諸民族である異邦人には、まだキリストの福音を受け入れた人は少なく、パウロはパレスチナの北方にあるアンティオケアという大都市のキリスト教徒の集会を拠点として、そこから異邦諸民族にキリストの福音を伝えるべく小アジア(地中海と黒海に挟まれた半島)へ宣教旅行に出かけました。

 

 

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挨拶(1章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙1章1節から5節です。

 

●1節.人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、

 

「使徒」と言うのは、本来「(遣わされた)使者」という意味ですから、誰から遣わされ、誰を代表するかが使者のもっとも重要な問題となります。

 

「人々(複数)からでもなく、人(単数)を通してでもなく、」と、パウロはまず自分は人々から遣わされた使者ではないと断言します。

 

この「人々」は、エルサレム集会の使徒たちを指しているのか、一般的な意味で、いわゆる人間的な制度を指しているのかは不明です。

 

つぎにパウロは、誰に使徒とされたかを語ります。

 

パウロが使徒とされたのは、いわゆる人間的な力とか権威によるものではなく、復活されたイエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父なる神から直接使徒とされたとします。

 

こうして、パウロはこの手紙の初めで、自分が直接、復活したイエス・キリストによって立てられた、復活したキリストを代表する使者であることを宣言します。

 

 

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ほかの福音はない(1章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙1章6節から10節です。

 

●6節.キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

 

パウロはガラテアの人々の状態を見て、「キリストの恵みへ招いてくださった方から」「離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていること」だとして「あきれ果てています。」

 

「ほかの福音」というのは、後にも書きますが、ユダヤ主義者たちの信仰で、それは、パウロが宣べ伝えた十字架され復活されたキリストを否定したのではなく、 ただ、そのパウロの信仰に割礼とユダヤ教律法の遵守を付け加えるように求めただけのものではなかったのかと思うのです。

 

彼らはそうすることが真の福音であると主張したのでしょう。

 

 

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2019年7月 3日 (水)

パウロが使徒として選ばれた次第(1章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙1章11節から24節です。

 

パウロは、エルサレムで、ガマリエルというユダヤ教の教師のもとで律法を学びましたので神学の専門知識を持っています。

 

一方12使徒の筆頭であるペトロは、生まれも育ちもガリラヤ出身のユダヤ人で、職業は漁師でした。

 

パウロが生まれ育ったのは、 ギリシア文化の盛んな異邦人の土地タルソスです。

 

パウロはそこからエルサレムへ留学していました。

 

二人ともユダヤ人キリスト教徒ですが、ペトロはエルサレム教会に所属して、主としてユダヤ人にイエスの福音を伝えていました。

 

パウロは、最初にできた子教会であるアンティオケアの教会に所属して、異邦人に福音を伝えていました。

 

 

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2019年7月 5日 (金)

使徒たち、パウロを受け入れる(2章)

聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙2章1節から10節です。

 

最初に、エルサレム教会とアンティオキア教会とバルナバの関係をまとめておきます。

 

イエス・キリストの福音は、紀元30年代から40年代に、シリア州を中心に広まっていきました。

 

アンティオキアの教会はシリア州の北に位置し、エルサレムの教会は南に位置します。

 

北をシリア・キリキア地方、南はパレスチナの諸地方、すなわち、ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ、地中海沿岸地方です。

 

したがって、信徒はシリア州の各地に広がって存在したということです。

 

その中に十二弟子によって最初に立て上げられたキリスト集会であるエルサレム教会とアンティオキアの教会があり、両教会は兄弟教会として、福音の担い手として中心的な、かつ、重要な位置を占めることになります。

 

 

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2019年7月 6日 (土)

パウロ、ペトロを非難する(2章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙2章11節から14節です。

 

●11節.さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。

 

●12節.なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。

 

ここはペトロ(ケファのこと)がアンティオキアの教会に来た時のことを話しているのでしょう。

 

しかしペトロは、この時にはすでにユダヤ人の食物規定を捨てていたはずです。

 

それは使徒言行録11章5節から11節にあるのですが、彼がヨッパにいるときに、天からふろしきのようなものが降りてきて、そこにある(ユダヤ教で汚れたものとされている)動物を「ペトロよ、身を起こして,屠って食べなさい」(7節)、という声を聞きました。

 

ペトロは、『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』(8節)と言いますと、「すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。」(9節)

 

その様なことが三度あった、と書いてあります。

 

 

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2019年7月 8日 (月)

すべての人は信仰によって義とされる(2章)

聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙2章15節から21節です。

 

●15節.わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

 

パウロは「わたしたち」といって、自分を含めてペトロとかユダヤ主義者と同じユダヤ人であることを強調して、つまり、同じ立場に置いて語ります。

 

「異邦人のような罪人ではありません。」と言うのは、異邦人信徒との食卓の交わりから身を引いたペトロも、異邦人信徒に割礼を受けることを要求した「ユダヤ主義者」たちも、神の救いの約束にあずかる同じユダヤ人であるが、異邦人は神と関わりのない罪人であるから神の救いの約束に与れない、というユダヤ人優越思想のことを言っているのでしょう。

 

パウロは、このように自分を彼らと同じユダヤ人の立場におくことで、自分がキリスト信仰を受け入れて180度転換したことを根拠に、ユダヤ教律法を救いの根拠とするユダヤ人のユダヤ人優越思想を粉砕しようとしているのでしょう。

 

 

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2019年7月11日 (木)

律法によるか、信仰によるか(1)(3章)

投稿は二回に分けまして、(1)の聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙3章1節から14節の内1節から9節までとします。

 

パウロは、信仰による義を主張していますが、この教えを直接この手紙の読者であるガラテヤの人たちにぶつけます。

 

パウロのいう恵みの福音は、人によって教えられたものではなく神からのものであり、それは、御霊によって生けるイエス・キリストに出会うことによって与えられます。

 

そして、パウロは、2章の後半部分で、信仰による義について語りました。

 

それは、律法を行うことが神の前で人を義とするのではなく、人を義とするのは、キリストを信じる信仰によるということです。

 

この段落の最後の14節で、約束された御霊は信仰によって受けるとして終わっています。

 

 

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律法によるか、信仰によるか(2)(3章)

投稿は二回に分けまして、(2)での聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙3章1節から14節の内10節から14節までとします。


●10節.律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

 

凄い言葉が出てきました。

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」です。

 

律法の行ないには、呪いの約束がともなっているのです。

それでは、「すべての事を絶えず守らない」とはどういうことでしょうか。

 

律法の一部を守るのではなく、すべてを守らなければ、その人は呪いのもとに置かれるということでしょうか。

そうすると、一つの法律を破れば、他の律法を守っていても、そのことによって裁かれるということになります。

これでは、現実的に律法によって神の前に義と認められる者は誰もいないことは明らかです。

 

 

 

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2019年7月13日 (土)

律法と約束(3章)

聖書の箇所は、ガラテアの信徒への手紙3章15節から20節です。

 

パウロは、ユダヤ人たちが、律法の行ないによって得られると思っていた祝福は、実はキリスト信仰によって得られると、アブラハムの例を用いて教えています。次に、パウロは、この祝福の基になっている「約束」について話し始めます。

 

●15節.兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。

 

パウロは、「兄弟たち」と、信徒に親しみをこめて呼びかけます。

なんとか分かってほしいという気持ちが伝わります。

 

「分かりやすく説明しましょう」と、人間社会一般にみられる誰でもが周知していること、すなわち、人間社会の習慣としての「遺言」を例に説明します。

 

 

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