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カテゴリー「コリントの信徒への手紙二を読む」の記事

2019年6月26日 (水)

結びの言葉(13章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二13章1節から13節です。

 

コリントの信徒への手紙第二もいよいよ最終章にきました。ここでパウは、自分に与えられた主からの権威がどのようなものであるかをコリント人たちに話します。

 

●1節.わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。

 

●2節.以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。

 

パウロは、再度自分がコリントの教会への訪問が三度目であることを強調しています。

 

そして、申命記19章15節 の聖句「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」を引用します。

 

 

 

 

 

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コリントの教会に対するパウロの心遣い(12章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二12章11節から21節です。

 

●11節.わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。

 

パウロは愚かな議論をしているコリントの人たちのために、仕方なく自分も愚かになって、宣教旅行の途上において自分の身に起こった苦難の出来事を、弱さを誇るという形で、誇って語ってきましたが、もう、自分を愚かにするのを終わりにします、と言っています。

 

パウロのことを最もよく知っているのは、他でもないコリントの人たちなのです。パウロがコリントの集会を立ち上げたのですから当然です。

 

であれば、わたしが自己推薦するのではなく、本来は「あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。」と、パウロは言っています。

 

パウロはまた、「あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかった」、すなわち、エルサレムの教会の十二使徒(実際はユダを除き11人)たちに劣ることはない、と言っています。

 

 

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2019年6月24日 (月)

主から示されたこと(12章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二12章1節から10節です。

 

●1節.わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
パウロは11章で、自分を愚かにして誇ってみましたが、その誇りが愚かである事もよく自覚していました。

 

12章で注目すべきことは、「弱さを誇る」ことです。

 

そのためにパウロは、自分が宣教旅行において弱さゆえに体験した患難を列挙しました。

 

それは成功談ではなく、いかに自分が弱かったのかを語り誇ってみせることでした。

 

そして、12章ではその弱さについて話していきます。けれども、その前に、自分が受けた幻と啓示について話します。

 

 

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2019年6月22日 (土)

使徒としてのパウロの労苦(11章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二11章16節から33節です。

 

●16節.もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。

 

●17節.わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。

 

17節の背景には、「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。」(箴言26章5節)があるのでしょう。

 

自分が正しいことを話しても、コリントの人たちは外から来た偽使徒の影響を受けて、愚かな議論の中の渦中にありますから、パウロの言っていることが耳に入りません。

 

解説には、コリントの人々は、パウロがどのような人物なのか、その信用証明書のようなものが、どうしてもほしかったのではということです。

 

いわゆる、学歴とか、社会的地位とか、神学校を出ているとか、ここで言えばエルサレム共同体の使徒の証明書を持っているかでしょうか、その様なことでしょう。

 

パウロにとって、そのようなことはどうでもよかったのでしょう。

 

もし、その様なものが使徒として必要ならば、主にあって誇るのではなく、肉によって誇ることになるからです。

 

しかし、コリントの人たちが、彼らが判断する基準で、使徒としてどのような資格をパウロが持っているかを知れば、そのことによって彼らがキリストの福音から離れないで済むならば、すなわち、「もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。」(16節)と言って、自分のことを話します。

 

●18節.多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。

 

●19節.賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。

 

かなり皮肉を込めた言い方です。

 

パウロは自分を愚か者として、偽使徒たちに影響されたコリントの人々を賢い者として、闇に高慢な態度を指摘しています。

 

●20節.実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。

 

パウロは、またまたコリントの人々に皮肉をこめて言います。

 

しかし、「奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、」(20節)というのは、偽使徒たちがコリントの人たちに行ったことをそのまま言っているのでしょう。

 

彼らは信徒たちを奴隷のように酷使し、金を巻き上げ、横柄な態度で、暴力を振るいます。

 

パウロはコリントの人たちに、それでも「我慢している。」と皮肉をこめて言っているのです。

 

●21節.言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。

 

「わたしたちの態度は弱すぎたのです。」とパウロは言っています。

 

そして、「愚か者になったつもりで・・・誇ろう。」です。

 

今まで自分の態度が弱すぎたから「わたしもあえて誇ろう」、つまり、自慢話をしょうということです。

 

自分の今までの実績を何も語らないままならば、コリントの人々はパウロの使徒としての資格に不信感を持ったままだからでしょう。

 

パウロの本心は誇りたくないが、必要ならば、愚か者になったつもりで誇りますと言っているのでしょう。

 

●22節.彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。
偽使徒たちがヘブライ人であることを誇るなら、自分もそうである。

 

イスラエル人であることを誇るなら、自分もそうである。

 

アブラハムの子孫だと誇るならばわたしもそうである、とパウロは言っているのでしょう。

 

●23節.キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

 

パウロは、偽使徒たちがキリストに仕える者であることを誇るなら、自分は彼ら以上にそうなのだと、「気が変になったように言いますが」言わないではおれないのです。

 

ここからパウロは、伝道生活の生涯で体験した苦難を具体的にあげます。

 

なお、23節から25節はそれぞれの苦難体験の回数が数えられており、26節と28節は、出会った苦難の羅列です。

 

●24節.ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。

 

●25節.鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

 

●26節.しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、

 

●27節.苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 

彼ら偽使徒は、自分たちのことをキリストに仕える者と言っていました。

 

それに対しパウロは、自分が(彼ら以上に)どのようなことを行なってきたか、どのような目にあってきたかを強調します(27節まで)。

 

「気が変に」ですから、そのようなパウロの行動は、人々に気が変になったと受け止めたのでしょう。

 

●28節.このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。

 

パウロには、23節から27節で語ったこと以外に、「あらゆる教会についての心配事」がありました。

 

●29節.だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

 

パウロは、「あらゆる教会についての心配事」がありながらも、誰かが弱っている時には弱り、誰かが躓いているなら心を燃やさざるを得ないと言っています。

 

キリストのある兄弟姉妹と自分はいつも、どのような時にも共にいると言っているのです。

 

●30節.誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。

 

パウロは、誇ることがあるならば「弱さにかかわる事柄」を誇りましょうと言っています。

 

パウロが誇りとしていたのは、こうした弱さだったのです。それは、キリストと同じ道を歩むというものでした。

 

キリストの恵みは、弱さの中で最も発揮されるのです。パウロの根幹にあるのは、主にある喜びなのです。

 

●31節.主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。

 

●32節.ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、

 

●33節.わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。

 

23節では、「投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。」とあります。

 

この投獄は、もちろん、死刑を覚悟するような出来事でした。

 

それも何回もありました。

 

鞭打ちでも、ユダヤ教会堂による四十に一つ足りない鞭打ち刑(24節)が五度、ローマ法廷における鞭打ちが三度(25節)、石打ち刑が一度(25節)と具体的に列挙されています。

 

これらのことも多くは命を失うような危険な刑でした。

 

そのほか、伝道旅行においても色々な災難にあったことを羅列しています。

 

そして最後に、ダマスコにおいて、籠で城壁からつり降ろされて迫害を逃れた体験がつけ加えられています。

 

こうしてパウロは、キリストのゆえに受けた苦難の数々と大きさをあげて、自分がキリストの使徒であることの確かさを主張しているのです。

 

こうして見ると、パウロは偽使徒と比較するのに不思議な技や奇跡を誇らないで、苦しめられ痛めつけられた体験の大きさを誇っているのです。

 

そうです、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(30節、12章9節参照)といって、強さを誇らずに、キリストにあって死に至る迫害に遭った弱さを誇っているのです。

 

 

偽使徒たち(11章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二11章1節から15節です。

 

パウロは自分を批判する偽使徒たちについて、「彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」(10章12節)と言っています。

 

また、彼らはパウロと比較して、自分たちの優れた点を誇り、自分たちこそ真の使徒であると主張していました。

 

パウロはそれを「愚かなこと」と決めつけましたが、パウロは自分が使徒であることをコリントの人たちに受け入れてもらうために、自ら愚か者となり、彼らと比較して自分の使徒であることを 「誇」りました。

 

11章は、「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」(1節)との前置きで始まります。

 

「愚か者になったつもりで言いますが」(21節)といって、パウロが自ら愚か者になって、あえて誇ります。

 

●1節.わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。

 

 

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2019年6月20日 (木)

パウロの誇り(10章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二10章1節から18節です。

 

ここで再びパウロは、この手紙の背景になっている、外から入ってきた偽教師の存在を取り上げています。

 

偽教師たちはパウロの留守中にコリントの集会にやってきて、パウロの信用を失墜するような誹謗中傷を言いふらしました。

 

そのために、パウロとコリントの信徒たちとの信頼関係がおかしくなってしまいました。

 

パウロの心は傷つき、その傷ついた心でパウロは自分の思いを手紙でコリントの人々に書き送りました。

 

それがこの第二の手紙でしょう。

 

そして、8章と9章で誤解が溶けて、再び彼らの信頼を経て、かねてからの課題であった、繊細な問題である献金について語りました。
パウロはこの10節で、事の核心である偽教師たちに強い姿勢で臨むよう言い伝えます。

 

●1節.さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。

 

「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度」というのは、コリントの集会の中にいる偽教師や偽教師に賛同している者たちが、パウロのことをそのように話しているのでしょう。

 

 

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エルサレムの信徒のための献金(9章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二9章1節から15節です。

 

この9章でパウロは募金(エルサレムの集会のための)について、「人は蒔くものを刈り取る」という格言を用いて、自発的な心で(喜んで)献げるように励まし(6節から10節)ています。

 

そして、惜しみなく施す奉仕の業が、キリストの福音の証となり神の栄光を現すとして、コリントの人々の信仰心に訴えています(11節から15節)。

 

●1節.聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。

 

「聖なる者たちへの奉仕」というのは、エルサレムの共同体にいる貧しい信徒たちを援助する奉仕のことでしょう。

 

8章からエルサレムの貧しい信徒への奉仕についてパウロは話してきましたが、そのことについて、これ以上書き送る必要はない、と言っています。

 

 

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2019年6月19日 (水)

諸教会の使者(8章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二8章16節から24節です。

 

●16節.あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。

 

パウロは、前もってテトスをコリントに送ろうと思っていたのですが、テトス自身がもともと、ぜひコリントに行きたいと願っていたのです。
パウロが思っている同じ熱心を、テトス自身も持っていたということでしょう。

 

なお、前にも書きましたが、「熱心」という言葉は、途中であきらめないことという意味だと思います。

 

その場の気持ちではなく、継続的に、しかし義務的にならず、主との交わりの中で喜びつつ慈善事業を勧めていく、ということでしょう。
そうでないと、続きませんからね。

 

何事も無理をすれば長続きしません。特に慈善事業とかボランテイアはね。

 

●17節.彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。

 

 

 

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2019年6月16日 (日)

自発的な施し(8章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二8章1節から15節です。

 

パウロは、コリントにある教会に対して、何通かの手紙を出しています。

 

その一つがコリント人への第一の手紙です。

 

手紙でパウロは、コリントの信者たちが犯していた過ちを指摘し、それを正すように促していました。

 

その手紙によってコリントの信者たちは当初のパウロの教えに戻り、罪を悲しみ、悔い改めました。

 

コリントはパウロが自分が立ち上げた教会でもあったので、コリントの人たちを愛していましたので、彼らとの間に信頼関係が回復して、深い慰めを得ます。

 

それは、7章の終わりのパウロの言葉、「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。」でよくわかります。

 

そして、8章と9章では、微妙な話題である献金のことについて話し始めます。

 

 

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2019年6月15日 (土)

教会の悔い改めを喜ぶ(7章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二7章1節から16節です。

 

●1節.愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

 

キリストに結ばれている者は、世にあっても「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者」として生きるように求められています。

 

「このような約束」とは6章17節と18節の約束、それは、「そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』ということでしょう。

 

約束を分類すると、「あなたがたを受け入れる」「父となる」「わたしの息子、娘となる」の三つのことでしょう。

 

なお、ここで「肉の汚れ」とは不品行の事で、「霊の汚れ」は偶像礼拝の事でしょう。

 

キリストにある者にとって大切なことは、世にあって、汚れの中に入り交わることによって、内にある神の宮、聖霊を悲しませることに対し恐れを持つことだと思うのです。

 

 

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