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カテゴリー「コリントの信徒への手紙二を読む」の記事

2019年5月21日 (火)

前置き

このコリントの信徒への手紙二は、コリントの信徒への手紙一から三年ほどのち、紀元50年代半ばころに書かれた手紙だということです。

パウロはエフェソにいるときクロエの家の者から、コリントにある教会にいろいろと問題が生じていることを聞きました(コリントの信徒への手紙一1章11節)のでパウロは、彼らの過ちを正すために厳しい手紙をテモテに託し、テモテはコリントに持っていったようですが、問題は解決しなかったようです。

パウロは五旬節が終わってからコリントに出発する予定(コリントの信徒への手紙16章8節)でしたが、思いがけない事情で果たせなくなります。

それは次の二つの大きな問題を抱えていたからでしょう。

その一つは、エフェソの集会の問題。もう一つはコリントの集会の問題です。

問題の内容を調べてみますと、最初のエフェソの集会の問題は、パウロがエフェソにいたとき、パウロがテモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出すのですが、二人を送り出した後で、アルテミス神殿の銀細工師デメテリオの扇動によって「ただならぬ騒動が起こった」(使徒言行録19章21節から41節)ことが伝えられています。

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挨拶(1章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二1章1節から2節です。

●1節.神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。

●2節.わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

パウロは、この手紙で、自分の事を「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と明言しています。

ということは、パウロは自分を「神の御心によってキリスト・イエスの使徒」として、「コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。」語りかけているのです。


2019年5月24日 (金)

苦難と感謝(1章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二1章3節から11節です。

●3節.わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

パウロはこの手紙では、神への感謝ではなく、「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」として紹介しています。

その内容は次節以降です。

●4節.神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

神は「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」ですが、パウロのこの言葉は御霊によって生かされている自己の実体験から出た告白と言えます。

パウロはさまざまな苦しみにあいました。

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コリント訪問の延期(1章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙1章12節から2章4節です。

●12節.わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。

パウロは今、自分がマケドニヤからコリントに行かなかったことについて「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。」と、弁明しています。

何故弁明が必要なのかは、コリントにいる人たちの中には、はたから見るとパウロの行く先変更は、自分の都合で計画を変えているように見えて、不信感を持つ方もいたのでしょう。

確かにパウロが勝手に計画を変えたことは、一度自分から言ったことを変更する無責任な行動といえます。

パウロは、神の導きによって変更しているのですが、そのようなことは客観的には分かりませんから、何か自己の思惑があってそのような事をしたのかと疑われても仕方がないところもあります。

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2019年5月27日 (月)

違反者を赦す(2章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二2章5節から11節です。

パウロがコリント行きを遅らせているのは、悲しい思いをしたことを繰り返したくないという気持ちと、考える時間を与える、つまり、「あなたがたへの思いやりからです。」(1章23節)とした後、パウロは「悲しみの原因となった人」(2章5節)を赦すようにコリントの人たちに求めています。

●5節.悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。

「悲しみの原因となった人」とは、罪を犯した人を指すのでしょう。

そういう人がいれば、わたし、パウロを悲しませたと言うより「あなた方すべてを」ですから、集会に集うひとり一人を悲しませる原因にもなる、ということでしょう。

●6節.その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。

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パウロの不安と安心(2章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二2章12節から17節です。

●12節.わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、

●13節.兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。

パウロは、エフェソからトロアスに行き、そこでコリントの集会の様子の報告を受けるためにテトスを待っていましたが、彼はついに来ませんでした。
パウロ自身は、このトロアスの町でも福音を宣べ伝えました。

「主によってわたしのために門が開かれていました」ですから、トロアスでも福音を聞き入れる人々が主によって与えられたのでしょう。

パウロは、トロアスでテトスに会えなかったので、「不安の心を抱いたまま」マケドニヤ州に行きますが、コリントの集会の様子が分からなかったので、心の中は不安と焦燥感でいっぱいであったでしょう。

この後パウロは、マケドニア州でテトスに再会してコリントの集会の「悔い改め」を知って喜びます(第二の手紙2章12節から13節、7章5節から7節。7章8節から12節参考)。

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2019年6月 1日 (土)

新しい契約の奉仕者(3章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二3章1節から18節です。

パウロは自分をキリストに結ばれた者として、キリストの勝利の行進に加えられた者として描いています。

キリストに結ばれた者は、この世を生きる上で任務を担っているのですが、その任務のすばらしさをここ3章において語っています。

それは霊に仕える務めであり、人に命を与え、自由を与えるところの務めであるとしています。

●1節.わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。

各地にあるキリストに結ばれた者の集会を巡る預言者や伝道者は、エルサレム集会の推薦状をもっていたそうです。それは、偽使徒や偽預言者、そして偽教師がはびこっていて、私利私欲のために宣教の働きをしている人たちがいたからでしょう。

パウロも自分の手紙には、手紙を受け取る集会が手紙を持っていく人を受け入れるように推薦しています。

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土の器に納めた宝(4章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二4章1節から15節です。

 

前の三章でパウロは、自分が神の霊、御霊によって新しい契約に仕える使徒であることを明らかにしました。

 

その務めを果たす資格は、自分自身とか人間にあるのではなく、神から来ていると言っています。

 

ここでは、その務めを果たすために与えられた「並外れて偉大な力」(7節)である神の力を宝に喩えて、担い手である自分の惨憺たる現状(おそらく、コリントの集会の問題や迫害で心が痛み、気弱になっている状態)を土の器に喩えて、「宝を土の器に納めています。」と、宝である御霊を内に宿して、その働きの中に自分が入れられていることをこのように表現しています。

 

●1節.こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。

 

パウロは、主の御霊に仕える新しい契約の使徒としての務めを担っている者としての自分の姿勢を「憐れみを受けた者」(1節)としています。

 

憐みですから、自分が何か霊的に資格があって、能力があって福音宣教の働きをするのではなく、神の憐みによって、福音を宣べ伝えているということです。

 

キリストにある者は、神の憐みに拠ってあるのです。

 

 

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2019年6月 3日 (月)

復活に生きる(4章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二4章16節から18節、5章1節から10節です。

●16節.だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

パウロは、前段の復活信仰の告白を受けて、今はまだ肉体と心の苦しみを身にまといながら生きていますが、再度自分に言い聞かせるように「落胆しません」と言っています。

「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒され」(8節)ても、また、今この命を失うことがあっても、落胆しないのは、キリストの御霊が、パウロのうちで脈づいている、キリストと共に生きているという実感があるからでしょう。

また、パウロがこのように言えるのも「イエスを復活させた神」が自分をも復活させてくださると心から信じているからです。

キリストに結ばれた者が将来の栄光(復活)を見つめるときに、わたしたちの「内なる人」、は日々新たにされますが、「外なる人」は衰えるのです。

この「外なる人」と「内なる人」の意味は、ちょっと分かりにくかったので調べてみますと、人間の外的・肉体的な側面と内的・精神的側面の区別ではなく、また、年月と共に衰える身体と日々新たにされて強くなる精神という意味でもないと言うことです。

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和解させる任務(1)(5章)

聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙二5章11節から21節です。

●11節.主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。

まず、ここでの「わたしたち」とは、キリストに属する者たちの在り方を代表して自分のことを語っているのでしょう。

「主に対する畏れを知っている」というのは、 地上での働きによって報われる終わりの日(10節)に起こるべきことを知っていると言うことでしょう。

主はわたしたちのすべてをご存知ですから、誤魔化したり隠したりできないと言うことでしょう。

パウロは改めて、自分たちを批判する者に対して、神はわたしたちを知っておられるとし、そのわたしたちを「あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思う。」(11節)と願います。

●12節.わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。

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