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カテゴリー「ヨハネの手紙を読む」の記事

2020年1月 1日 (水)

命の言葉(1章)

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
さて、ヨハネの手紙一から読み始めたいと思います。

 

この手紙は使徒ヨハネが長老として彼の共同体の信徒に対し、集会で読まれることを目的に書かれた勧告ないし説教であると言われています。
この手紙は、長老の事実上人生最後の言葉となったので、遺訓だといわれています。ヨハネの人生の集大成なのでしょう。

 

長老ヨハネは、ヨハネの福音書を著したヨハネで、キリスト証言の最初期の一人としての証人です。

 

つまり、生前のイエスとの出会い、十字架死、復活、聖霊降臨、御霊の働きを実際に体験した中から得たものを自分の命をかけて守ろうとする証言だと言えます。

 

「ヨハネの手紙一」は、年代的に「ヨハネの福音書」よりも後に書かれたということです。

 

読んでみて、ヨハネ独特のイエスの捉え方に興味を持ちました。

 

ここではイエスを成ったものでなく初めからあったもの、つまり、被造物ではなく創造主、神であると証しています。

 

ヨハネは地上におられたときのイエスとの関わりをもって、生前のイエスを知るほかの弟子とともにそれが真実であると証していると思います。

 

それでは読み始めたいと思います。

 

聖書の箇所は、「第一ヨハネの手紙」第1章1節から4節です。

 

●1節.初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。・・

 

「初めからあったもの」とは、イエス・キリストを指します。

 

ヨハネの福音書第1章1節の最初の言葉、「初めに言があった」に対応すると思います。

 

「言」は「ことば」と読みイエス・キリストを指します。

 

 

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2020年1月 3日 (金)

神は愛(1)(4章)

聖書の箇所は、「第一ヨハネの手紙」第4章7節から21節ですが、二回に分けまして、ここでは前半部分の7節から13節を読みます。
神の御子イエスがこの世にこられたのは、罪の中に死ぬべき運命にあったわれわれを罪から贖うためで、これは我々に対する神の愛で、無償の愛です。

 

だから、ここで語られる神の愛はすべてアガペーの愛(見返りを求めない無償の愛)のことです。

 

ヨハネ共同体は分裂の危機に際し、長老ヨハネの互いに愛する愛の重要性の訴えが頂点に達します。

 

伝えたいことは色々在るけれども、ただ一点、「神は愛であるから、神に属する者は互いに愛すべきである」を新しい掟として、その性格と共に繰り返しています。

 

●7節.愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

 

「第一ヨハネの手紙」の第1章3節で、長老ヨハネは、イエスの御言葉を信じる者が、また御言葉に導かれて集まった者が交わりを持つこと、これは「命の言葉」(命の言葉はイエスのことを指します。よって、イエスが言った言葉、聖書のことを言います。詳しくは、別に投稿した「命の言葉」を参照してください。)のことを伝える為に集まるということだと言っています。

 

イエスの言葉を信じる者が集まりキリストの共同体を形成していること自体が、イエスの復活の御霊、聖霊の働き、導きだと言う意味のことだと思いますが、それを受けて、この7節でヨハネは、イエスを信じる者の共同体、すなわち教会に集った信者に対して、「互いに愛し合いましょう」と呼びかけています。

 

 

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神は愛(2)(4章)

聖書箇所は、「第一ヨハネの手紙」第4章7節から21節です。

 

ここでは後半部分の14節から21節を取り上げます。

 

前半では、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」愛する者たち、互いに愛し合いましょう、ということでしたが、後半は、「愛に恐れはない」ということで締め括られています。

 

●14節.わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

 

即ち、わたしたちはイエスが人類を罪から救うために、贖い主として父なる神から贈られた御子であること、また、十字架死の贖いの御業と死からの復活を見てきて、そのような出来事が、父なる神のわたしたちに対する愛の顕れであることを証ししていますと述べています。

 

それが、父なる神がわたしたちを通じてこの世の人々に神の愛を証する方法だということでしょう。

 

そうすると、イエスが救い主としてこの世に来られたのだということが、初めてわたしにも人々にも見えてくるということでしょう。

 

そのようあ出来事により、神の愛を証することができるということだと思います。

 

●15節.イエスが神の子であることを公に言い表わす人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。

 

「公に言い表わす人はだれでも」とあるのは、まず、具体的に何を言い表すのかというと、聖書の言葉は神の言葉だから、聖書の言葉を公に言い表すことを指しているのでしょう。

 

では聖書の言葉は何を言っているかといえば、父なる神が、その独り子であるイエス・キリストをわたしたちが生きる現実の世の中にお遣わしになって、その独り子イエスを十字架に付けることにより、わたしたちの罪の赦しを成就してくださった。

 

そしてイエスは三日後に死から復活し、天に帰られたが、今は復活の御霊、聖霊となってわたしたちイエスを信じる者に現に内住してくださっている、ということだと思います。

 

そのことを信じていれば、神の霊、聖霊がその人に内住しているから、神の愛を知ることができ、誰でもそのことを公に言い表わすことができると言っているのでしょう。

 

 

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2020年1月 6日 (月)

神の子たち(1)(2章)

聖書箇所は、ヨハネの手紙一第2章28節から3章10節「神の子たち」の前半3章3節までです。

 

「御子」はイエス・キリストのことで、「子たち」とか「神の子」というのは信徒のことで、「御父」とは神のことです。

 

●ヨハネの手紙一第2章28節.さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。

 

長老ヨハネは、「御子の内にいつもとどまりなさい」といっています。

 

このいつも留まっているということは、イエスを信じ、イエスの御言葉をいつも心に抱き留めて、イエスを見つめて生きなさいということでしょう。

 

いつイエスが再び来られるかも知れないので、いつ来られてもいいように、そのときに備えていなさいということでしょう。

 

「いつイエスが来られるかも」というのは、イエスが再び来られる時は、裁きの時ですが、その日は何時かわからないので、わたしの言葉を心に抱き留めて、「恥じ入ること」がないようにですから、わたしの戒めをしっかりと守って神の子として恥じる事がないようにしていなさいということでしょう。

 

 

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神の子たち(2)(3章)

聖書の箇所は、第一ヨハネの手紙 第3章28節から3章10節「神の子たち」の後半3章4節から同10節です。

 

ここで長老は、共同体に残った信者に対し、共同体から出て行った人に反キリストを見て、終わりの日が来てきることを実感し、その日に備えるように説きます。

 

●第一ヨハネの手紙第3章4節.罪を犯す者は皆、法に背くのです。罪とは法に背くことです。

 

ここでは、罪の定義がなされます。

 

罪とは神の定めである法に違反することです。

 

つまり神から離反して自己中心的に生きることをいいます。

 

●同5節.あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子に罪がありません。

 

神の御子キリストがイエスとして世に現れたのは、人間の内に巣くって、世を支配している罪を取り除くためで、世の罪を負い(取り除かれることの意味)、十字架の死によって罪を贖うためにキリストは世に来られたのです。

 

その御子には罪がありません。

 

それはあなたがたも知っていることです。

 

●同6節.御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。

 

御子イエスのみ言葉の交わりの中で生きている者は、罪を犯さないということは、罪を犯す者はイエスの内にとどまっていない者のことになります。

 

 

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2020年1月 9日 (木)

キリストに似た者(3章)

聖書個所はヨハネの手紙第一3章2節です。

 

聖句は、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」です。

 

使徒である長老ヨハネは、キリスト共同体(当時は現在のような聖職者制度を持った教会は存在しなかったのでこの呼び方にしました。)の信徒に対し、「神の子」と「キリストに似た者」の意味を説明します。

 

今回は、「神の子」として生きる、「キリスト者」として生きるとも言いますが、それはどういうことなのか、「キリスト者」として死ぬとはどういうことなのか、について考えてみたいと思います。

 

まことの「神の子」はただ1人イエス・キリストだけですが、キリストの十字架で示された神の愛によって、イエスを信じる者は「神の子」と見なされました。

 

ローマの信徒への手紙5章6節から8節は、このことを明言しております。

 

読んでみます。

 

 

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2020年1月11日 (土)

弁護者キリスト(2章)

聖書の箇所は、第一ヨハネの手紙第2章1節から6節です。

 

この箇所は、次ぎのヨハネの福音書の言葉に対応しています。

 

ヨハネの福音書第14章16節で「わたしは父にお願いしょう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエスは言われました。

 

これは、イエスがこの世から去るに際して、弟子達に、ご自分の代わりに別の弁護者を父なる神にお願いして遣わすと約束された言葉です。
この別の弁護者というのは、イエス復活の御霊、聖霊のことでしょう。

 

どのような働きをされるかというと、弟子を助け慰めいつもそばにいて支えになってくださる。悲しみや苦しみにあっても信仰が揺るがないようにしっかりと支えて希望を持たせてくださる。

 

そして、未信者に対しては、罪について、義について、裁きについてその誤りを明らかにされます。

 

罪については、イエスを信じないこと、義については、イエスが十字架にかかり父なる神の元にいかれること、裁きについては、この世の支配者サタンが断罪されることです。

 

聖霊はこの世に偏在されています。

 

 

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2020年1月13日 (月)

新しい掟(2章)

聖書の箇所は、第一ヨハネの手紙第2章7節から17節です。

 

長老ヨハネは自分の共同体の信徒に対して、今自分が語っている掟がどのような性格の掟であるかを語ります。

 

ヨハネの福音書第13章31~35節にも同じ「新しい掟」という副題があります。

 

福音書では、イエスが十字架にかけられこの世を去っていかれることが、イエスの十二人の弟子の中の一人であるユダの裏切りにより決ったことを予告されましたが、多くの証人の前で、実際に十字架にかけられて殺され、十字架から三日後に復活され、父なる神のそばにいかれます。

 

その代わりに弟子の助け主として聖霊がこの世に遣わされますが、そのことにより始まる新しい愛を「新しい掟」として述べられます。

 

それは、ヨハネの福音書13章34節の「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。

 

イエスは、この「新しい掟」によって、自分がこの世からいなくなった後に形成される信徒の交わり、教会の組織を維持するよう命令されるのです。

 

この手紙が書かれた時代には、その様に語られたイエスはもういません。

 

長老ヨハネは今その聖霊の働きの真っただ中にいる者として、そのイエスの言葉を踏まえて、今自分が語っている掟を新しい掟としてヨハネの共同体の信徒たちに語っているのでしょう。

 

 

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2020年1月17日 (金)

反キリスト(2章)

聖書の箇所は、第一ヨハネの手紙2章18から27節です。

 

ヨハネ共同体を出て行った信者を反キリストとして批判し、そのことを指して終わりのときが来ているとしています。

 

この時代は、まだ今わたしたちが持っているような聖書は確立していなかった時代であることを覚えておく必要があると思います。

 

●18節.子供たちよ。終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。

 

紀元2世紀の初め頃からキリスト共同体の中からイエス直属の弟子である十二使徒から受け継がれてきた教えと違った教えを語る「偽教師」が現れました。

 

ここで「反キリスト」というのは、十二使徒から受け継がれてきた教えと違った教えを伝える偽の教師のことを言っているのでしょう。

 

彼らはクリスチャンと呼ばれ、同じ共同体の中にいた人たちでした。

 

●19節.彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。

 

18節の反キリストと言われる、つまりヨハネ共同体を去って行った、かつては仲間であった人たちのことを書いているのでしょう。
キリスト教と呼ばれる宗派の中にもいろいろな考えの人がいるということでしょう。

 

みんなが必ずしも正しい福音を信じているとは限らないということだと思います。

 

 

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2020年1月19日 (日)

互いに愛し合いなさい(3章)

聖書の箇所は、ヨハネの手紙第一第3章11節から第3章18節です。

 

ここで長老ヨハネは、自分の兄弟(肉親の兄弟ではなく信徒仲間のこと)を愛さない者は、義を行わない者と同じく神から出た者ではなく悪魔に属する者であると言っています。

 

●11節、なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。

 

神の子と悪魔の子の区別を10節で明らかにして、義を行わない者、自分の兄弟を愛さない者は神から出た者ではないと結論します。

 

互いに愛し合うというのは、イエスが信者に求めておられる最も基本的な誡めですから、それに背くことは深刻な意味で義を行わないことになる。

 

そうです、愛するのには行いが伴わないと意味がないのです。

 

●12節.カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く兄弟の行いが正しかったからです。

 

ここではカインの例がでてきます。

 

なぜカインは弟アベルを殺したのでしょうか(創世記4章8節)。

 

 

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