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カテゴリー「ヨハネの福音書を読む」の記事

2018年7月24日 (火)

ヨハネの福音書を読む・・前置き

ヨハネの福音書を最初から学んでいきたいと思いますが、その前にヨハネの福音書の特徴をまとめてみました。    
ヨハネの福音書の著者は、おそらく十代かそこらでイエスの弟子になり、イエスと寝食を共にしてイエスの神の支配の教えを受け、力ある業を、イエスの十字架死と復活を身近で体験し、そして、天に昇られるのを見ていると思うのです。

その後、イエスが予告された聖霊体験(使徒言行録2章)を経て、イエスの教えを告知することによって受けるあらゆる苦難と迫害に会い、生前イエスが予告されていたことが現実に起こっていることを身をもって体験し、聖霊に導かれてこの福音書を著わしたのだと思うのです。

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2018年7月26日 (木)

言葉は肉となった(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章1節から18節です。

二回に分けて、(1)では10節までを読みます。

●1節.初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

「光よあれ」、という言葉が創世記第1章1節で発せられています。

すると光が出現する。

つまり神から出た言葉(思い)は、そのように現実、実在を伴うという思想がここにはあります。

この世はサタンが支配する闇の世界、そこにイエスは命の光、栄光をもって現れました。

この1節のはじめは、時間の始めではなく、全存在・全事象の根源としてのはじめをさしていると思います。全存在・全事象があっての時間とも言えます。

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言葉は肉となった(2)

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章1節から18節です。

二回に分けて、(2)は11節から読みます。

●11節.言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

「言は、自分の民」の民は、人類救済のために選ばれたイスラエルのことでしょう。

「自分の民のところへ来た」ですから、ロゴスであるイエスは、肉体で世に現れる前に、アブラハムを選ばれ、イスラエルの民の歴史の中で、律法や祭儀制度や出来事など、さまざまな形で働いていたということでしょう。

「民は受入れなかった」とは、イスラエルがさまざまな形で預言者を通して語りかけられる神の言葉に従わないで、そして、最後に送った神の言葉が受肉した御子イエスを拒否して殺してしまったことを指しているのでしょう。

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2018年7月28日 (土)

洗礼者ヨハネの証し

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章19節から29節です。

なお、よければ平成11年05月に投稿した「イエス、洗礼を受ける」(カテゴリーは共観福音書を読む)を参考にして下さればと思います。

●19節.さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、

「エルサレムのユダヤ人たち」とは、この文体から考えると、エルサレムの一般群衆を指すのではなく、エルサレムを本拠とする当時のユダヤ教指導者層を指すと思います。

「祭司たち」とは、神殿の祭儀をとり行う者たちのことで、ここではレビ人と組みになって律法の専門家として扱われています。

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神の子羊

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章29節から34節です。

●29節.その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

「神の小羊」ですが、旧約聖書にあるように、人を裁きや滅びから救うために身代わりとして捧げられる犠牲の羊や山羊を象徴として、洗礼者ヨハネはイエスのことを「小羊」といっているのでしょう。

これは明らかにイエスがメシアだと証言していることになります。

●30節.『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

「わたしよりも先におられたかた」というのは、もうすでにあなた方の中に来られているがあなた方が気づいていない方で、その方は「わたしにまさる」方として、イエスを指しているのでしょう。

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2018年7月29日 (日)

最初の弟子たち

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章35節から42節です。

●35節.その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。

●36節.そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

「その翌日」、洗礼者ヨハネは二人の弟子と一緒にいるときに、歩いておられるイエスを見て「見よ、神の小羊」と証言します。

なお、洗礼者ヨハネはイエスについて「神の小羊」という証言を繰り返しています。

すなわち、神の霊がその上にとどまる方として、イエスこそ「世の罪を負う神の小羊」であり、「聖霊によってバプテスマする方」であり、「神の子」であると証言しているのでしょう。

●37節.二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

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2018年8月 1日 (水)

フィリポとナタナエル、弟子となる

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章43節から51節です。

●43節.その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

今度はフィリポの召命です。

「その翌日」と簡潔な書き出しとなっていますが、マルコの福音書1章14節では同じ個所を「ヨハネが捕られた後」ガリラヤへとし、マタイの福音書4章12節は「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き」とし、洗礼者ヨハネの投獄をガリラヤ行きの前において、ガリラヤ行きの動機としています。

この場所は、「ヨルダン川の向こう側のベタニア」(28節)の周辺か、ガリラヤへの途上であると思います。

イエスは、そこでフィリポを見つけて、ついて来るように召されました。

おそらく、フィリポも彼の仲間のナタナエルも洗礼者ヨハネの弟子であったと思います。

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カナでの婚礼

聖書箇所は、ヨハネの福音書2章1節から12節です。

●Ⅰ節.三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

カナは新約聖書ではヨハネ福音書だけに出てくる地名で、その所在は現在では確定できていないそうです。
ガリラヤ湖から西へ約20キロのところにあったと見られています。

この奇跡はイエスがなされた奇跡で、初めてのものと言われています。

そうするとイエスの弟子になった人々は、この奇跡の後で弟子になったのですから、イエスの奇跡を見ないで弟子になったと言うことになります。

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2018年8月 6日 (月)

神殿から商人を追い出す

聖書箇所は、ヨハネの福音書2章13節から22節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章12節から13節、マルコの福音書11章15節から17節、ルカの福音書19章45節から46節です。

ここでは共観福音書と相違しているところに注意して読んでみたいと思います。

●13節.ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。

共観福音書と違ってヨハネの福音書では、「過越祭が近づいた」ことが三回(ここと6章4節と11章55節)書かれています。

ということは、イエスは三回過越しの祭りのときにエルサレムに行かれていると言うことです。

また、過越祭は年に一回ですから、公生涯は少なくとも二年から三年に及んだことを意味しています。

共観福音書は過越祭にエルサレムに行かれたのを最後の一回のみ書いているようです。

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イエスは人間の心を知っておられる

聖書箇所、ヨハネの福音書2章23節から25節です。

●23節.イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。

「過越祭の間エルサレムにおられた」ですから、この祭りの期間中は、巡礼のユダヤ人たちはエルサレムに留まることになっていたのです。

イエスもその様になさったのでしょう。

「しるしを見て・・信じた」とわざわざ書いているのは、教えの真意もわからないのにしるしのみで信じたということです。

この「しるし」と言う語句は複数形だと言うことですから、複数のしるしをお見せになったということです。

根の無い信仰はすぐにかれてしまいます。

奇跡とかしるしだけでは本物の信仰は育たないのでしょう。

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