カテゴリー「ヨハネの福音書を読む」の記事

2018年11月 9日 (金)

イエスとその愛する弟子

聖書の箇所は、ヨハネの福音書21章20節から25節です。

●20節.ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

ここを読むと、イエスの愛しておられた弟子は、やはりヨハネのことでしょう。ですから、この福音書はヨハネのイエス伝承をもとに著わしていると思います。

●21節.ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。

「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と、ペトロは「イエスの愛しておられる弟子」ヨハネを見てイエスにこのように言ったのですが、これはイエスがヨハネのことについて、「わたしがくるときまで彼が生きている」と言ったと言う噂があったので、それに対する問いかけでしょう。

なお、ペトロはイエスとほぼ同じ年代か少し若い年代で、イエスに召されたときは三〇歳代で、紀元六〇年代前半に殉教しましたので、そのときは六〇歳代ではと言われています。

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イエスとぺトロ

聖書箇所は、ヨハネの福音書21章15節から19節です。

●15節.食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

「この人たち以上にわたしを愛しているか」ですが、イエスはペトロに「ヨハネの子シモン」(ヘブライ語のフルネーム)とペトロの本名をユダヤ教社会の呼び方で呼びかけて、親しみを込めて語りかけられました。

マタイの福音書ではシモン・ペトロ(ギリシア語のニックネーム)とあります。

ペトロと言う名が「岩」を意味するところから、後の教会では、そのペトロと言う名で彼がキリストの民の土台となることが意義づけられています。

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2018年11月 7日 (水)

イエス、七人の弟子に現れる

聖書の箇所は、ヨハネの福音書21章1節から14節です。

前段でこの福音書は一応締めくくられていますが、その後に続く本章21章は、後で加えられたと言うことです。

調べてみると、21章は編集者による別系統の伝承、つまり、主が愛された弟子ヨハネの伝承以外の伝承に基づいてなされたのではということです。

その理由は、20章までのこの福音書の本体と21章の不可部分の内容に違いがあるからと言われています。

それは、福音書本体ではイエスの復活顕現はエルサレムに限られていて、十字架の後弟子たちがガリラヤへ帰ったこととか、ガリラヤでの復活顕現についてはいっさい触れられていません。

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本書の目的

聖書箇所は、ヨハネの福音書20章30節から31節です。

●30節.このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

イエスは生前に「多くのしるしをなさった」のですが、「しるし」とは奇跡とも言います。

しるしをなされた理由は、イエスが神から遣わされた方であることを明らかにするためです。

「多くのしるし・・この書に書かれていない。」ですが、イエスのなされた「しるし」はこの福音書に書かれているものだけではなく、もっと多くの「しるし」があったということでしょう。

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2018年11月 5日 (月)

イエスとトマス

聖書箇所は、ヨハネの福音書20章24節から29節です。

●24節.十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

わたしみたいに疑い深い十二弟子の一人トマスの登場です。

彼は、週の初めの日の夕方、復活されたイエスが他の弟子たちに現れたとき(ヨハネの福音書20章19節から23節)その場にいませんでした。

「ディデュモス」というのは双子を意味するギリシア語だそうです。

●25節.そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

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イエス、弟子たちに現れる

聖書箇所は、ヨハネの福音書20章19節から23節です。

●19節.その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「週の初めの日」は、安息日明けの一日目を指します。

弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、・・家の戸に鍵をかけていた」、つまり、外から入れないように戸はロックされていました。

弟子たちは、イエスが十字架の場で自分たちのことをばらしていないかと思って、いつ自分たちが逮捕されるのかと不安と恐れで震えていたのでしょう。

そのような外から入ることができない部屋にイエスが突然現れて、「あなたたちに平和があるように」と言われたのです。

この言葉は、「あなたにシャローム」というユダヤ人の日常的な挨拶だと言うことです。

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2018年11月 3日 (土)

イエス、マグダラのマリアに現れる

聖書の箇所は、ヨハネの福音書20章11節から18節です。

●11節.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

二人の弟子は「家に帰って行った」のですが、おそらく少し遅れて墓に来ていたマグダラのマリアは一緒に帰らずに墓の前で泣いていたのでしょう。

そして、二人の弟子から中の様子を聞き、恐る恐る墓の入り口で身をかがめて中を覗いたのでしょう。

●12節.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

身をかがめて墓の中をのぞいたマリアは、「白い衣を着た二人の天使」を認めます。

その二人の天使の一人は、「頭の方に」、もう一人は「足の方に」座っていました。

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復活する

聖書箇所は、ヨハネの福音書20章1節から10節です。

●1節.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

「週の初めの日」は、安息日明けの一日目ですから日曜日です。

イエスが死なれたのは、安息日の前の「過越の準備の日」でしたから、この日は死なれてから安息日をはさんで(ユダヤ人の数え方で)「三日目」ということになります。

最初に墓に行ったのはマグダラのマリア一人となっているのはヨハネの福音書だけで、マタイの福音書は「マグダラのマリアともう一人のマリア」で、マルコの福音書は、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」で、ルカの福音書は「婦人たち」となっています。

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墓に葬られる

聖書箇所は、ヨハネの福音書19章38節から42節です。

●38節.その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。

「アリマタヤ出身のヨセフ」のアリマタヤはエルサレムから北西へ40キロほどにある地中海近くの町だと言うことです。

ヨセフと言う人物は、ピラトに直接あって願い出ることができる立場の人物ですから最高法院を構成する階級である祭司長、長老、律法学者の中で地域を代表する「長老」階級の議員ではないかということです。

「隠していた」というのは、ユダヤ教指導層や会堂勢力のユダヤ人からの異端追及を恐れて、イエスの弟子であることを隠していたと言うことでしょう。

最高法院の中にもイエスの「隠れた弟子」が相当いたと言うことでしょう。

ほかに聖書に名前が出てくる人物でニコデモがそうであると思います。

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2018年11月 1日 (木)

イエスの脇腹を槍で突く

聖書箇所は、ヨハネの福音書19章31節から37節です。

●31節.その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。

「準備の日」とは、安息日とか大祭の祭儀の準備の日でしょう。

ヨハネの福音書によるとイエスが十字架につけられたのは金曜日の午後ですから、その日没から土曜日の安息日が始まります。

「翌日は特別の安息日であった」とは、調べてみると、過越祭の日付はニサンの月の14日ですから、その年はたまたまその日が安息日になっていたのではということです。

「十字架上に残さないため」は、律法(申命記21章22節から23節)では、木にかけられた者の死体はその日のうちに(すなわち日没までに)埋めるように命じているからでしょう。

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