イエスの出来事は本当か
誰でもがつまずく新約聖書の奇跡やしるしが事実かどうかいについて考えてみたいと思います。
この問題は誰でもが聖書を読むうえで考えることだと思います。
たとえば、ルカの福音書第7章11節以下で、ナインのやもめの息子が死から生き返ったというのは、ほんとうの出来事でしょうか。
これは一つの例ですが、こういうことをどのようにとらえるかは、四観福音書全体を読む上で、最も大事な問題点だと思います。
もちろん、わたしはこの出来事は本当にあったものと信じています。
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誰でもがつまずく新約聖書の奇跡やしるしが事実かどうかいについて考えてみたいと思います。
この問題は誰でもが聖書を読むうえで考えることだと思います。
たとえば、ルカの福音書第7章11節以下で、ナインのやもめの息子が死から生き返ったというのは、ほんとうの出来事でしょうか。
これは一つの例ですが、こういうことをどのようにとらえるかは、四観福音書全体を読む上で、最も大事な問題点だと思います。
もちろん、わたしはこの出来事は本当にあったものと信じています。
「天国」を言いかえれば、「御国」とか「天の王国」といいます。
「天の王国」は、言葉通り王が統治される領国。
王は創造者である全知全能の神ですから、神が統治される王国です。
イエスはその神の独り子で、神の右の座に座られて、王国の相続人でもあります。
イエスは、人間の罪を贖うために十字架に架けられました。
それは、過去・現在・未来の全人類の罪を贖うためでした。
罪の贖いは神からの一方的な恵みですから、その恩恵を受けるためにはイエスの言葉を信じて、人間が神の方に意識を向ける必要があるのです。
イエスの教えを信じて神との交流を可能にする必要がある。
そうでなければ聖霊を受け取ることができないから助けようがないということでしょう。
創造者である神が、人間を罪から救いあげるために、イスラエルの父祖と言われるアブラハムを選び、その子孫であるイスラエル民族に律法を与え、つまり行動規範を与え、守るように命令しました。
律法の内容はなかなか厳しく、その戒めを守るには強い意志の力が必要です。
ところが、この世は悪魔が支配していますから、誘惑も多く、とても自らの意志の力で律法を守ることには無理があったようです。
律法の限界であり同時に預言者の時代が終わったのです。
そこのところの詳しいことは投稿文「罪と律法」を参考にしてください。
しかし、イスラエル民族に起こった出来事を振り返ってみると、すべてイエスの出現のための準備であったと思うのです。
クリスチャンに罪とはどういうことですかと問えばきっと「的はずれ」という答えが返ってくると思います。
聖書が言う罪は世の中で言う犯罪の罪とは違います。
両者の意味は重なっていて重なっていない。
英語では、言葉を分けているそうです。
聖書で言う罪にはSINを、世の中の犯罪にはCRIMEなどを当てているそうです。
日本でも、翻訳するときに思案されたと思いますが、結局適当な言葉が見つからなかったので、世の犯罪と同じ「罪」という語を訳語にしたのでしょうか。
聖書の神をやはり「神」と訳したのもそういうことではないでしょうか。
創世記第3章15節を投稿文「女の子孫と悪魔の子」に書いたように解釈すると、イエスが「女の子孫」としてこの地上に現れて、悪魔が心を支配する世の人々に理由もなく憎まれて十字架にかけられ殺されるということも、創世記の時にもう決まっていたことになります。
だからそれらの出来事はすべて神の計画だと言える、で終わりましたが、ここでは、そこから十字架の意味を類推してみたいと思います。
イエスは約2000年前に心を悪魔に支配された人類を救い出すためにこの世に来られましたが、それは神から離反した罪を赦し永遠の命を与えることが目的でした。
イエスは神の支配が始まったことを明らかにし、人類の悲惨な状態は、神から離反していることにそもそもの原因があると言うことです。
人類の悲惨な状態は、悪魔に心が支配されているからで、イエスは約2000年前にこの世に来られて、このままでは死ぬしかないということと、そのような状態から救われる方法を教えました。
アダムとイブに「知識の木の実」食べさせるのにまんまと成功した蛇(悪の勢力の主体)に対して、神は「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(創世記第3章15節)と言われました。
この聖句の、「お前の子孫」でこのお前は悪魔(悪の勢力の主体)だということは前後から明らかです。
「女の子孫」は普通イエスと解釈されています。それについては、後から書きます。
お前の子孫とありますが、悪魔は霊です。
霊が子供を産むのでしょうか。産みません。だから遺伝的な子孫はありません。
もう一つは「女の子孫」についてですが、これはイエスを指すのですが、聖書では、霊は、血は男親を通して伝わるという思想です。
宗教一般の教えは、人を縛ります。
それは宗教と言うのは教えを信じることから成り立っているからでしょう。
人が何かを信じればそれに縛られるのは当たり前のことです。
縛られないのならば信じているとは言えません。
宗教の持つ意味の一つには、真の生き方を教え、間違った人生を送らないようにという目的もあるのでしょう。
とくに、新興宗教の中には道徳教といわれるものもあります。
社会問題を起こす宗教団体は、その教えを教祖の支配欲、金銭欲あるいは色欲の達成に利用しょうとするところから来るのでしょう。
教祖も、最初は何らかの霊的な自覚があってその道に入られたのでしょうが、途中から我欲に目覚め間違った道に入ることもあるのでしょう。
聖書の教えを探求しようとする人をキリスト教活動では求道者といいます。
通常この言葉は、洗礼を受ける前の人をそのように呼んでいます。
しかし、わたしは洗礼を受けた人でも、聖書に基づいてその教えを探求しようとしている限り、やはり求道者だと思います。
洗礼を受けたからと言ってイエスの教えをすべて理解しているとは言えないと思います。
わたしなど、洗礼を受けて十数年がたつのに未だに求道者をやっています。
洗礼は、イエスの教えを信じることができる程度まで理解でき、そこに真理があるかも、もっとイエスのことが知りたい、と思い決心したから受けるのだと思います。
キリスト信仰の出発点に立ったということだと思います。
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