カテゴリー「聖書の疑問いろいろ」の記事

2017年8月24日 (木)

新約聖書が生まれた経緯

わたしは聖書のことをあれこれ書いていますが、その知識は、わたしが聖書を読み研究者の書かれた本を読み得たものです。

わたしは神学者でもなく、聖職者でもありませんから知識は浅いものです。

でも、普通の人が初めて福音書を読むに際し、理解する為の手助けになれる程度にはまとめられるかなと思っています。

ですから、参考程度に読んでいただければ幸いです。

まず、福音書とは、一言で言えば、イエスの福音をまとめたもの、証するものだと思います。

それでは、福音とはなんぞやですが、一言で言うと、福音とは、復活されたイエスを神の右(神の次に権威ある地位)に上げられた主キリストとして告げ知らせる良き知らせと言うことでしょう。

そう、キリストがこの地上にお生まれになったことは神からいただいた祝福なのです。

その良き知らせは、イエスの地上での出来事、語られたことが歴史上の出来事としての背景を持って証されます。それが福音の根本と言えます。

だから、福音は生前のイエスの出来事とか語録から切り離されては存立できないということです。

ということは、そのイエスの言葉とか復活、なされた奇跡が嘘であれば、福音はそれこそ作り話となりイエス死亡により速やかに消えてしまいます。

したがって、福音書著者が生前のイエスの出来事を文字にして語ることは、今日に至るまで、この2000年間の人類の全歴史にとって、いや、未来の人類の全歴史にとっても非常に重要な位置をしめることになります。

イエス死後、イエスが起こしたこの新しい信仰運動の担い手はペトロを代表とするイエスの直弟子たち、すなわち、イエスが地上で活動されたときイエスから直接召命を受けた十二人の弟子(実際には裏切ったユダを除き十一人)、イエスの復活の顕現に接した者たちでありました。

実際は十二人よりも多くの弟子がいたと思われます。

彼らは「使徒」と呼ばれ、主イエスから遣わされた者として、福音を宣べ伝え、信徒を指導しました。

その際、彼らは当然自分の目で見たイエスの働きや生涯の出来事、直接聞いたイエスの言葉や教えを用いました。

彼らが伝えたイエスの出来事や教えの言葉は、各地の信徒の間で尊ばれ、熱心に伝えられ、注意深く保持されました。

そのことは福音書を読めばわかります。

イエスの出来事や教えの言葉は、口から口へと伝えられ、信徒たちの間で言い伝え、伝承として定着していきました。

イエス逮捕におびえて故郷に逃げ帰っていた弟子たちが再びエルサレムに集まり力強く信仰運動を始めた原動力は、何よりも復活のイエスに出会ったこととだと思います。

そして、イエスが生前に予告していた聖霊降臨(使徒言行録2章)という出来事が実現したことだと思います。

本格的な宣教運動は聖霊降臨の後ペトロが大衆の前で始めた説教がはじまりでしょう。

イエスが生前に弟子たちに語られた教えは、イエスにあった出来事はイエスの死後口伝えで始まりました。

そして、時とともに必要により文書化されました。

おそらく、奇跡集とか言葉集など項目ごとに文書化されたのでしょう。

最初は、イエスの直弟子たちの口頭での教えが絶対の権威を持っていたので、文書化はできなかったでしょう。

しかし、イエス死後三十年以上を経て、イエスから直接教えを受けた直弟子も年を取り、あるいは、殉教に遭遇し、人数が減って、生前のイエスのことを知っているものが少なくなってきます。

そうすると、イエス伝承を口頭で伝えていた十二弟子たちの権威も薄れていきます。

そうすると、当然、イエス伝承を後世に残す必要に迫られるようになります。

それに信徒が急速に増えましたので、イエスの弟子の弟子が、またその弟子を中心にした教団が思い思いに文書を作成し、多数のイエスのことを伝える文書が生まれました。

写本も多く造られました。

信徒はそれらの文書を教材として学んでいたのでしょう。

もちろん、現在みたいに信徒一人ひとりが一冊ずつ聖書を持っているような状態ではなかったでしょうから、指導する者が教え導いていたのでしょう。

それらの文書は、余りに数が多く、原本はどれか分からなくなりました。

中には、本来の教えに混ぜものが入って、どれが真実を伝えるのか分からなくなったかもしれません。

この写本の数は5000以上になるということです。

この数は他の書物に比べると異例中の異例であります。

それだけイエスという人物の存在が、残された言葉の影響が大きかったといえるでしょう。

イエスという存在に関心を持つ人が多かったということです。

しかも、死後のことです。

生きているカリスマを持った指導者が多数の弟子を持つことは分かりますが、死んだあとの方が生前よりはるかに世間に大きな影響力を持つ指導者は果たしておられるのでしょうか。

そこで、キリスト教団で、それをなんとかしょうという動きが出てきたのです。

今から見ると異端と思われる意見も多く表れたでしょう。

そのままほっておいたら、何が本当のイエスの教えか分からなくなってしまうと言う危機感もあったと思います。

もちろん、人間的な思いで信徒の組織運営手段として必要であったのも事実でしょう。

そのような中から新約聖書が生まれたのですが、新約聖書の編集には、現在のカトリック教団の前身があたり、紀元後200年ころから(イエスが十字架に架かり亡くなったのは紀元30年ころです)200年もの歳月を費やして、正典ができあがったということです。

その間いくども公会議がもたれたでしょう。

その際、個々の書物について、どこがどのようにイエスを証言しているかの検討が逐一なされたはずです。

その検討されたことの記録は残っていないそうですが、編集者は、指導的地位の僧職者で同時に神学者でありました。

彼らは、その時代の学者であり、叡智の全てを集めた人々といってよいと思います。

当時は、神学、聖書学が学問の全てであったから今日的に言えば、そうですねその時代の一流の聖書学者が全員集まって、真偽を検討し編集したことになります。

しかも200年もかけてその真偽を検討しました。

そうして出来上がった (現在のような形の) 聖書は、現在まで千数百年にわたってその時代の学者(聖書学者とか考古学者など)により何度もその信憑性を確かめられてきました。

今現在ある聖書がそれに耐えてきたという事実は大変なことではないでしょうか。

ただの作り話といいますか、物語の寄せ集めとはみなされなかったのです。

他の宗教の経典で、これほどたたかれ調べ上げられ、それでも生き残った聖典は無いでしょう。

なお、聖書に収録されている文書間には細かい相違点が沢山ありますが、聖書は科学書ではないので相違点があってもおかしくないのです。
それは逆に聖書の信憑性を増すことになると思います。

そうでしょう、作り話なら小説のように最初から最後まで矛盾は無いと思います。

福音書はイエスが十字架で殺されてから30年以上を経てから生まれました。

福音書は何も生前のイエスの言葉を一字一句間違わないように筆記することを目的として作成されたのでもありません。

そういう意味で、四つの福音書はすべて正しいのです。

四つの福音書を読んで初めてイエスの実像に近づけると言うことでしょう。

福音書はイエスの忠実な伝記を伝えるために書かれた文書ではありません。

福音書は、イエス伝承(イエスの言動を語り伝える伝承)を用いて復活者イエス・キ リストの福音を世界に告知しようとする文書です。

従って、福音を告知するためという目的から全体の構成が決められ、その配列や個々の記述にその目的から生まれる意義づけや表現が用いられるのは当然です。

そこには福音書を生み出した共同体の状況(歴史的背景とか文化的背景)と著者の福音理解が色濃く反映することになります。

しかも、イエスの言動を伝える素材のイエス伝承そのものも、イエスの言動を目撃者が客観的に記述した文書資料ではなく、口頭で語り伝えられた口伝伝承ですから、どうしてもその担い手の状況(思想とか能力)が反映することになります。

このように福音書は、それを書いた著者の福音理解、それを生み出した共同体の状況、素材となったイエス伝承に刻み込まれた口伝伝承の担い手たちの状況といういくつもの状況の影響を受けて構成された文書だと言えます。

このように、福音書にあるイエスの言葉は著者が所属する共同体の状況を反映して生みだされたとすると、聖書の霊感と権威を否定しているように聞こえますが、決してそうではないと思います。

なぜなら、イエスご自身が聖霊によって神の言葉を語られたように、聖霊は信じる者のうちに働かれるので、福音書を生みだした共同体にもイエスに働かれた聖霊と同じ聖霊がその働きの中で、つまり、聖霊そのものがイエス・キリストですから、聖霊との交わりの中で、「主イエス・キリスト」の語り掛けを聞き(著者は少なくともそのように受け取ったのです。)、それを著者は「主は言われた」として伝えたのでしょう。

ですから、イエスが語られた言葉を伝える伝承のイエス語録を引用するときも、自分たちが復活者したイエスから聴いている言葉を伝えるときも、同じ聖霊の働きの中の出来事ですから、同じ主イエスの言葉として伝えていることになります。

ということで、今を生きるわたしたちも、当時の共同体の人々も、実際のイエスの言葉も、福音書の言葉も、同じ権威をもつイエスの言葉であると言えます。

従って、わたしたちが福音書を読むとき、どれが実際に地上のイエスの口から出た言葉で、どれが最初期共同体の状況から出た言葉であるのかを厳密に区別することは、(歴史学にとっては必要ですが)信仰にとっては必要ではないと思います。

信仰は、地上のイエスの出来事と復活者イエスの働きを証言する最初期共同体の告知の全体を、そこで神が最終的で決定的な救いを成し遂げられた出来事として信じ、その全体が聖霊の働きの結果であるとして、その出来事の中から 生み出された文書(新約聖書の諸文書)を信仰の拠り所として、その聖書で告知された出来事を現実として、信じることだと思います。

ただし、イエスの時代の社会情勢と最初期共同体の状況は、現在を生きる我々の状況とは違います。

とくに福音書とか手紙類が生まれた時代、すなわち、共同体がヘレニズム世界に進出して異邦人を多く含む共同体となってからは、すでにユダヤ人の間で活動されたイエスがおられた時の状況とは大きく違ってきているでしょう。

その状況(歴史的文化的背景)の違いを認識して、イエスから出たとされる言葉の(その状況における)意義を確認することは必要だと思います。

このように、福音の言葉は永遠の真理の言葉ですが、決して一字一句間違っていないというような硬直したものではなく、歴史的状況に即して、読む者の状況に即して、語りかけるものとして理解したいと思います。

次に聖書は神話だとする方がおられますので、確かに聖書には神話なところがあるかもしれません。

しかし、聖書に神話や伝説が入り込んでいても、それが聖書の御言葉が偽りだという意味ではないと思うのです。

なぜならば、神話や伝説それ自体も決して「偽り」ではないからです。

事実日本でも伝わっている神話とか伝説は、それらがすべて作り話ではなく、その話が生まれた背景があるから生まれたのだと思うのです。

聖書の場合は、その生まれた背景を見ると、神話や伝説が取り込まれているのならばそのこと自体が聖霊の働きによると受け取るべきです。

だから神話とか伝説を作り話として否定するのではなく、その背景に隠された意味を読むべきだと思うのです。

もちろん、福音告知の働き手である三位一体の神の三位格である聖霊の存在を否定されるならば、このような話は論外ですね。

語録集も四福音書も、先にイエスの御言葉やみ業について、話し言葉で伝えられてきたもの、すなわち口伝伝承ですが、これが文書化されるのは、早ければ(語録集の場合)40年代に始まって、70~90年代に福音書という文書になったと言われています。

わたしたちが見聞きしたことを人々に口頭で伝える場合には、当然伝える人によって少しずつ形が変えられるのは日常よく経験することです。

ましてや、イエス死後三十年以上の時間があれば、その間イエス伝承は口頭伝承により語り伝えられましたから、実際にイエスが語られた言葉、とくに単語の意味のとり方などは変えられていてもおかしくはありません。

それに、イエスの教えだとか、譬えだとか、癒しの奇跡などを整理する場合、イエスが語られたり出来事が起こったりする順番通りに整理されるものではなく、教えと譬えと奇跡とが、それぞれに(言葉集とか奇跡集として)分類されて、別々にまとめられて整理、保存されて伝わると思うのです。

だから、共観福音書では、イエスのいろいろな出来事とか教えが、出来事が起こった順番通りでなく種類ごとにまとまって書かれているのでしょう。

また、作者が伝えたいと思うことに合わせて、奇跡を用いてその話の中に組み入れることなどがあってもおかしくはないと思います。

最後に一言、聖書を読まれる方は、聖書は事実をありのまま伝える新聞記事とか歴史書ではなく、信仰者が聖霊に満たされた中での信仰告白として書いたものであるということです。

それも各文書の著者はお互いに連絡を取り合って、申し合わせをして書いたのではないのです。

聖書を書いた著者は、自分の命をかけて後世に自分が信じたことを伝えようとしたということは、忘れたくないものです。

著者は評論家のように間違っていれば知らん顔していればよいのではないのです。

小説のように読者の関心を引こうと物語を面白く書く必要もないのです。

聖書は、1000年以上の歴史の中から生まれ、歴史に裏付けられた書物です。

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2017年8月20日 (日)

イエスが生きておられた時代

聖書を読むについて参考になると思いますので、2000年前のイエスがこの世に生きておられた時代のイスラエルの社会状況を垣間見てみたいと思います。

調べましたので、簡単にまとめておきます。

間違っているかもしれませんが、ご容赦ください。

聖書、特に新約聖書を読むに、当時の時代背景を知っておくのは決して無駄ではないと思うのです。

当時のイスラエルの社会(ユダヤ人社会=ユダヤ教を信じる人々の社会)は神権社会でした。

従って、権威ある最高の存在は神でした。

神と神の民の社会です。

その神と神の民の関係は、律法と神殿祭儀により保証されていました。

「律法」には、旧約聖書の最初の五書、いわゆるモーセ律法と口頭伝承によって伝えられているものがありました。

この「口頭伝承」は、ラビと呼ばれる律法の教師が学校とかシナゴーグ等の集会でモーセ律法を繰り返し組織的に解説していましたので、その中から必要により生まれた細則ではないかと思います。

その細則は、モーセ律法に準ずる権威があったそうです。

たとえば、モーセ律法には、安息日を守りなさいと書いてあるから、これを絶対と見なして、日常生活の中で具体的に守ろうとするとなるといろいろと支障が出てきますから、そのために当然日常に合わせていろいろと細かな規則を作ることになるということです。

ところで、モーセ律法の数はどれほどあるかを調べてみましたら、旧約聖書の「モーセ五書」の中に248の命令と365の禁令、合計613の律法があるそうです。

律法もそれだけ数多くあれば、時代の変化に伴い具体的な律法の適用に問題が出てきて、応用というか管理する人も必要となります。
その役目を律法学者が負っていたのでしょう。

個々の場合について専門の律法学者たちが研究し、議論し、到達した成果が、口頭伝承として、師から弟子へと相伝され蓄積され民衆に教えられました。

このように口頭伝承されたモーセ律法の解釈とか具体的適用の細則は「ハラカ(歩み)」と呼ばれました。

もちろん、この細則は先にも書きましたが、人間が時代の変化に合わせて作られるものですから、当然、社会情勢も変わりますから時代を経るに従い、複雑で膨大なものになっていきます。

そのハラカは後に文書化されモーセ五書と同じ権威を持つものとされました。

そうした膨大な数になった口頭伝承を含む律法にイスラエルの人たちは縛られていたのです。

そう、ハラカも含めて律法は神から守るように与えられたものであり、救いは律法を守ることによって得られるとされたのですからユダヤ人は律法を守ることに人生最大の価値を置いていたと思います。」

ある意味、人生を、命を懸けていたと思います。

イエスは、その様な律法の縛りからの解放を宣言されたのです。

イエスはそのためにユダヤ教指導者層に十字架で殺されたのですが、パウロは、律法はイエスによって廃止されたのではなく成就されたと言っています。

聖書の言う「罪人」とは、神との関係が正常な状態にないことを言います。

つまり、神から離反している状態、神に背いている状態です。律法は、神から与えられた戒めですから、律法を守らないことは、罪に当たるわけです。

この時代のユダヤ社会では、昔モーセが神から授かった規定に違反すれば罪人でありました。

もちろん、細則であるハカラも含みます。

律法の厳守を強調すると、当然、守れない者が出てきてその者を差別するようになります。

貧しい者は生活のために働くことが優先されて、律法を守れない者になります。

この生活のために働くことが優先されてというのは、たとえば、奴隷とか雇われ人は、安息日には何もしてはいけないと言われていても、毎日しなくてはならないこと、たとえば、(雇い主の)家畜に餌や水をやるような仕事はしなければなりません。

雇人の命令ですし、餌や水をやらなければ家畜は死んでしまいますからね。

それに貧しい人は、働かなければ食べてはいけません。

外国人を雇うことができる人は良いが、それができない人は、律法違反になり罪びととして、差別されます。

一般的にお金持ちは(人を雇うことができますので)律法を守れますが、奴隷など貧しい人は守れません。

「神殿」は一つだけイスラエルにあり、神の住む場所とされていました。

「神殿」の主要な活動は、罪の許しを得るために神に犠牲をささげることでした。

大祭司を筆頭とする祭司集団が神殿の活動に携わっていました。

「レビ人」は下級祭司で、神殿の活動の実務的な面を担当していました。その人たちの生活は民の献金によって賄われていました。

こういう神殿祭儀という組織的な面以外に、神はイスラエル社会に介入されることもあると考えられていました。

その介入方法は、主に「預言者」を通して直接民に語りかけられる方法です。

イエスが来られるまではその神の語り掛けである預言も、旧約聖書に記載された最後の預言から400年近く止んでいました。

ローマ支配下で抑圧された人生を送るイスラエルの民のメシア待望(イスラエル民族をローマに支配されている状態から救ってくださる救い主、すなわち、神の介入)には強いものがあったと思います。

ローマの抑圧政治のもとで、信仰には疑義が生まれ、社会は混乱し、人々は希望を失いメシア待望には非常に強いものがあったと思います。

そういう状況にあったからこそイエスのような一介の大工の息子の宣教活動についても、ただちに排除するのではなく、さまざまな吟味がなされたのでしょう。
イエスもその時代に数多く生まれた「預言者」の一人とみられていたのでしょう。

「預言者」と呼ばれる人はこの時代イエス以外にも多くあらわれたと思います。

預言者には俄か預言者とか偽物もあったと思いますが、そういう預言者が出てきては消えていくと言う感じであったのでしょう。

預言の内容は、神はいつかイスラエル社会にメシア「救い主」を送って、イスラエルの民をローマ支配からの解放、すなわち、独立国家の樹立という政治的なことから、まったく新しい世界の創造という宇宙論的・終末的レベルのことまで様々でした。

さて、ユダヤ人社会の階層ですが、上から順番に書くとまず神(律法(聖書と伝承)と神殿によって人間とつながっている。)がおられて、次にユダヤ人当局指導者として、フワリサイ派・サドカイ派・エッセネ派・ゼロテ派・ヘロデ派などがあります。

その下に一般のユダヤ人(群衆とも呼ばれています。)です。

何処の社会もそうですが、さらにその下に被差別者として、罪人とか取税人・病人・悪霊憑きなどが存在しました。

言葉の説明を簡単にしますと、まず「サドカイ派」は、神殿勢力で祭司階級、民の十分の一税の収入で経済的に豊かでした。

「フワリサイ派」は、律法主義者、律法を厳格に守ることが神の前に正しく、救いに与る条件と考えていました。

知識人であるがそのためには経済的余裕が必要なのですが、中流階級であったと言うことです。

仕事としては、シナゴーグの活動を担い、集会や学校において律法をユダヤ人に教えていなした。いわゆる知識階級のエリート集団でした。
「エッセネ派」は、「フワリサイ派」より極端な宗教的エリート集団です。

「フワリサイ派」は町や村でそのほかの民と一緒に暮らしていましたが、彼らはそのほかの民と共に暮らすことを嫌って、荒野にのいて自分たちだけの共同体を作り生活をしていました。

「エッセネ派」は、独自の儀礼を用いていたので、神殿勢力であるサドカイ派と対立していました。

経済的な基盤は、「ヘロデ派」から支援を受けていたのではということです。

そうであれば、宗教に純粋で正しい在り方を求めているのに実際はローマの傀儡である「ヘロデ派」から支援を受けていたということですから、矛盾しています。

「ヘロデ派」は、ローマ帝国の力を背景にユダヤ人社会を支配している勢力です。

そのほか宗教的観点からみた勢力以外の勢力として「ヘロデ派=ヘロデ党」があります。

ヘロデ派は、ヘロデ大王とその子孫を中心とする勢力で、ローマ帝国の力を背景にユダヤ人社会を支配していました。
ヘロデ派は親ローマの代表と言えます。

「ゼロテ=熱心党」とは、フワリサイ派の中の過激派です。

熱心党は、律法を守ることだけで満足しないで、また、民が神以外の権威に屈することは許さなかったので、反ローマの中心勢力となっていました。

行動派で、ユダヤ民族の政治的独立を目指すユダヤ国粋主義者と言えます。

彼らはテロもよしとして、いつも短剣(シカ)を持ち歩いていたので「シカリ派」とも呼ばれていました。

紀元70年のユダヤ戦争は、この「ゼロテ党」の勢力が支配的になった結果と言われています。

「罪人」とは、キリスト教的に言えば、神との関係が然るべき状態にないことを言います。つまり、神から離反している状態ですが、この時代のユダヤ社会では、律法の規定に違反すれば罪人でありました。

売春婦は明らかに罪人で、被差別者ですが町や村で他のユダヤ人と共に暮らしていました。

「取税人」は、罪人ではないが、罪人と同様の扱いを受けていました。

ローマ当局は、役人に税金を徴収させるのではなく、支配している民族の中から取税人を選び、町や村単位で税金の総額を決めて徴収を請け負わせたそうです。

ところが、取税人は決められた税金を徴収するだけでは自身の収入がないので、定められた金額以上の額を集めていたようです。

そのように支配者の権威を背景に同民族から金を巻き上げて私腹を肥やしていたので嫌われていました。それで、取税人は罪びとと同じ扱いを受けていたということです。

聖書に出てくる「病人」とは、軽い病気ではなく重い病気の人で、とくにひどい皮膚病や、血や汚い液体が流れ出すような病気でなかなか癒されない病人は罪人ではないが、社会宗教的に差別されていました。

もちろん、病気が癒されれば、清めの儀式などを経て社会復帰することができました。

「悪霊憑き」とは、精神的に異常な状態にある者で、悪霊がついているとされる者を言います。

そう、「される者」ですから、その者が異常であるか正常なのかは当局の認定が必要でした。

社会的立場は、上記の病人と同じように扱われました。

悪霊が出ていき、つまり、精神異常が正常になれば然るべき手続きを経て社会復帰ができました。

「異邦人」とは、ユダヤ人以外の諸国の人々のことを言います。

ユダヤ人とはユダヤ教徒のことです。

ユダヤ人の子供は自動的にユダヤ人になります。

もちろん、生まれた時に割礼を受けます。

ユダヤ人は異邦人に対し差別意識があります。すべての民族は罪人ですが、ユダヤ人のみが神の民として救われるという認識です。

それは、ユダヤ人は神に選ばれた神の民であるとする選民意識が根底にあり、ユダヤ人以外の人々との交わりが制限されていました。

ユダヤ人は異邦人と結婚してはいけないとか、食事に同席してはいけないなどです。

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2017年8月18日 (金)

聖書という書物

聖書は小説のように、一人の作者が、一つの物語として全体的に一貫性をもって書いたものではありません。

たとえば、「創世紀」とか「イザヤ書」とか「マタイの福音書」とか「ヨハネの黙示録」などこれらはそれぞれ書かれた年代も成立状況も著者も違う独立したテキストです。

書いた人も場所も、著者の職業も教養も境遇も異なっていて、書かれた年代も違っているので著者が互いに連絡することもできない状況で書かれています。

登場人物には、羊飼いがあり、貧乏人があり、放浪者があり、国王があり、金持ちがあり、宮廷の大臣があり、罪人があり、奴隷や囚人もでてきます。

それに、最初の著者と最後の著者の年代は1000年以上も離れています。

しかし、それらの文書は一貫して主人公は唯一の神なのです。

唯一の神について語っているのです。

唯一の神のもとに旧約聖書と新約聖書全66の文書が統一されているのです。

旧約聖書には39の文書があり、新約聖書は27の文書があります。創世紀から黙示録まで計66の文書で構成されています。

そして、聖書の文書一つ一つだけでは意義をなさず、66の文書が寄せ集められて、まとめられたから意義が生まれたのです。

それに、例えば創世記の特定の箇所一つとってみても、その語句だけも読んでも何を意味するかさっぱり分からない箇所があるのです。

おそらく、作者も言葉とか幻で啓示を受けて書いたのでしょうが、自分で何を書いているのか分からなかったと思われ、神の言葉だから意訳せずそのまま残しておかねばということで残されたと思われるところが多々あるのです。

そのように啓示を受けた時には何を意味するのか分からなかった言葉も、時代を経て起こった出来事とか、時代を経て書かれたほかの聖書の箇所を読んで初めてその言葉の意味が分かるところがあるのです。

ただ、驚くべきことは、そのような文書でも、聖書にはそのまま残されているのです。

作者は、意味が分からなくても神の言葉として尊重し、残したのでしょう。

ですから、著者にとってはその文書が決していい加減なものではなかったのです。

言葉を伝えた預言者は、そのためにほとんど殺されていますからね。

受け取るほうも真剣でなくてはなりません。

「時代を経て起こる出来事」と書きましたが、その中には、キリストが現れることによって、ヨハネの黙示録が生まれたことによって、旧約聖書で隠されていたこと(何を意味するか分からないでも、そのまま神の言葉として残されていた文書の内容)が明らかになるということです。

ダニエル書に書かれていたことがヨハネの黙示録で明らかになり、その黙示録で語られていることも、時代を経て人類の歴史の中で実際の出来事として明らかにされるのでしょう。

聖書は時代を隔てて評価されていて、現実にこの2000年間人類の歴史に大きな影響を及ぼしてきました。アメリカを作り、ヨーロッパを変え、近代科学を生んだのです。

現在、全人類の三分の一がクリスチャンだということです。

そういう意味で、聖書は人類にとって大変価値のある書物だと思います。

そのような聖書であるから、この2000年間その信憑性を疑われて、徹底的に調べ上げられてきました。

それでも生き残ってきたのです。

その様な書物は他にあるでしょうか。

他の宗教の経典で、世界中の人々から信憑性を疑われて徹底的に調べ上げられたものはあるでしょうか。

もし、聖書と同じ書物をもう一度作るとしたら3000年以上の時間を費やし、ユダヤ人が体験した数千年にわたる奇跡的な宗教的、歴史的体験を持つ民族が存在して、聖書に書かれているような偶然とも言える奇跡的な出来事が起こる必要があります。

その様に考えると、これから先、聖書のような書物はもう二度と人類の歴史からは生まれないと思うのです。

そして何よりも、現在、世界人口の三分の一以上の人々がイエスを神として聖書を読み信じて洗礼を受けているのです。

これは紛れもない事実です。

このことからして、信仰を持つか否かは別にして、聖書は学んでみる価値は十分にあると思うのですがいかがでしょうか。

聖書は二つとない人類の財産だと思うのですが・・・。

このような聖書が、神話で作り話の寄せ集めで、その上で改竄されて価値がない書物と思っていられる方がおられますが、そういう方はまず読まれることです。

そのような方に質問したいのですが、人類の歴史の中に生まれ、歴史に大きな影響を及ぼしたそのような聖書が信頼できないで、価値を認めないで、人類にとって何が信頼できるのでしょうか。

何に価値があるのでしょうか。

聖書がそういうものであれば、聖書の一節に命をかける、人生をかける人、たとえば、誰でもが知っているガンジーとかマザーテレサみたいな人が生まれるのは、どのように考えればよいのでしょうか。

そういう人は無知で精神異常者なのでしょうか。

それとも、盲目的に信じていると思っておられるのでしょうか。

なにより人は、盲信の産物とか作り話に人生を、命をかけることはできません。

聖書には、歴史を変え、人を変える力があると思いませんか。

その様に思う方が自然ではないでしょうか。

確かに聖書は人類の歴史に間違いも犯しています。

しかし、それ以上の良い影響も及ぼしています。

その間違いも、聖書が悪いのではなく聖書を悪用した人間が悪いのです。

聖書は真理ですが、制度的キリスト教は、人間が作った宗教です。

その宗教が過ちを犯したのです。

書物に人の人生を良い方向に変える力があるならば、それだけで十分その書物には価値があると言えるのではないでしょうか。
聖書はそういう書物の最たるものです。

目に見えることだけが真実だとわたしたちは思いがちですが、決してそうではないことを聖書は教えます。

本当に創造者たる神がおられるならば、神は必ず被造物の歴史に痕跡を残しておられます。

わたしはそれが聖書でありユダヤ民族だと思うのです。

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2012年3月20日 (火)

福音書について(3)

「福音書について(2)」からです。最終です。

神が聖書の編成を人間の手にゆだねられたということは、神は自分の意志を人間に伝えるのに、まことに人間らしい方法を取られたということではないでしょうか。

人間らしい方法と言えば、キリスト教の福音伝道も同じです。

個人から個人に神の言葉を伝えていくという誠に手間のかかる方法です。

神は自分の意志を伝えるのにこのような方法をあえてとられたのです。

それは御言葉(聖書の言葉)を聞く者が、その人の意識とか知識とか信仰の状態にあった形で理解することができるということだと思います。

同じ御言葉を聞いてもいろいろと解釈できる、人によって受け取り方が違うということは、そこに神の霊、聖霊が働かれる余地があると言えます。

神が直接絶対に変更できない方法で神の言葉を残されたのなら、その言葉は絶対真理ですから解釈は生まれません。

人間の自由意志も尊重されずに人間は神の言葉に従うだけのロボットになってしまいます。

もちろん、聖霊が働く余地がないことになります。

命令通りきっちりと動かなくてはならないのですから、人間が人間でなくなります。

また、そうであれば、神の存在を疑いなく認識できるのですから信仰も必要がないということになります。
神が伝道を人間の手に委ねられたということは、信仰は疑いの中から生まれ、育まれるということも本当だと思います。

新約聖書の著者とか聖書の写しをとった人、翻訳をした人は、たしかに不完全で間違いの多い人間です。

けれども、その人はイエスの教えを信じ、キリスト教の救済のメッセージを学び、これらを後代に伝えようとした人であることには間違いないのです。

新約聖書の著者自身も、口頭伝承を文字にする時、その人に、その人の識字能力、信仰状態とか時代背景などが大きく影響したと思いますが、その人は文字にする時に人から聞いたままの言葉でなく、自分の中で理解し消化した自分自身の言葉を使ったと思います。

その言葉は、彼らがそれを書いている時、書いている場所、書く目的となる聴衆にとって、もっとも適切な言葉を選んだはずです。

著者は、復活のイエスに出会い、現実に今起こっている色々な出来事の中で、生前のイエスの言葉を思い出し、その言葉が実現していることを体験し、その結果である信仰告白を聖書に顕したのではなかろうかと思います。

言葉は聞く者に伝えようとする者の真意が伝わらなければ意味がないのです。だから、福音書はイエスの出来事を物語っていると思うのです。

福音書は、そういう意味でイエスの史実を記録したものではなく、生前のイエスの活動を語っているのです。

十字架を語っているのです。

復活を語っているのです。

復活のイエスと出会い、現実の出来事の中で得た信仰体験を語っているのです。

出来上がった福音書の写しをとった人と、今のわたしが聖書を読むとき、自分の言葉で、自分の信仰知識で読み解釈するのと違うところは、わたしは自分の知識で、ここはこうゆう意味で書いてあるのだろうと解釈して納得するだけですが、その人はそれを自分の言葉で理解し消化し文字にして写本を作ったのだと思います。

違いはそれだけなのです。

ある意味、わたし達も聖書を読むときは、解釈しているのですから、頭の中では聖書を改変、改竄しているといえると思います。

けれども、聖霊は聖書の言葉を通して、聖書を書く者に働かれます。

聖書を読む者に働かれます。

聖書を写す者に働かれます。

言葉による伝道の場合は、聖書の言葉を語ることによって聞く者に働かれます。その聖霊は同じ聖霊です。

だから聖書の言葉は真実なのです。

このように今われわれが手にしている新約聖書の成立過程には、いろいろ問題があることを指摘しましたが、そのことは必ずしも信仰を妨げるものでないことは確かだと思います。

聖書はイエスを信じる者が霊感を持って書かれました。

一字一句神が言葉を発してそのまま書くとか、人間の手を借りて神が自分で書くように書かれたものではないのです。

信仰を抜きにしても、なにしろ、聖書ほど人類の歴史に大きな影響を与えた書物、またこれからも人類の歴史が続く限り影響を与え続ける書物はないでしょう。

わたしはこれだけでも人類の宝として聖書を読んでおく価値があると思うのです。

このような書物は、人類の歴史に二度と生まれないでしょう。

聖書は神の霊、聖霊が働く信仰書であって道徳を教える書物でもないし、科学書でも、また文学書でもないということです。

したがって聖書は字義通り解釈していては、真理は見えないと思うのです。

わたしは聖書を読むときは、御言葉により導かれる良心に従って御言葉が何を伝えようとしているのかを考えます。

聖霊の声を聞くように、浮かんできた解釈が自分の内面で本当に納得しているかをいつも問うようにしています。

いつもみ言葉を思っていると、あるときふと全く違う解釈に出会うこともたびたびです。

先人の書かれた聖書講解を読みましても、解釈はいろいろです。

でもその中には自分の思いにピッタリとあった講解もあります。

だから、わたしは投稿文などを作成するときは、その方の講解を参考にしています。

この十年間、多くの聖書関係の本を読みました。

そして、それらの本から得た知識を消化して、わたしが自分の良心に従って最も納得できる自分なりの解釈を得ることに努めました。

でも、これだけは言えます。どんな解釈であっても、わたしの良心に照らして納得できなければ自分の意見を優先しています。

人の意見を拝借する場合でも、自分が納得しなければ拝借しません。

聖書解釈は、この2000年間どれほどの人がされてきたか。

だから言い換えれば、本当は自分だけのオリジナルな解釈なんてないのかも知れません。

いやいやそのようなことよりも、聖書を読むのは解釈が目的ではないのです。真理を知ることが目的なのです。

聖霊に触れることが目的なのです。

解釈はあくまでそのための手段と言えます。

ルカによる福音書第21章33節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

最後に、ほかの宗教とキリスト教の違いを書いておきたいと思います。

一口に言えば、キリスト教は命の宗教と言えます。

現世の利益のみを求め、自分が不利になると逃げ出す、わたしたちの代表のような弱い弟子たち。

その弟子たちは、イエスがユダヤ教指導者らに捕まった時にも巻き添えを恐れてイエスを見捨てて逃げてしまいました。

イエスが十字架に架けられたときには、誰もイエスのそばにはいなかったのです。

使徒言行録によるとそのような弟子が一変し、人間が変わったように堂々と立ち上がり、伝承と歴史が証明するように迫害と殉教のただ中におかれた初代キリスト教会の中心として活躍するのです。

これは、イエスの復活を体験し、聖霊降臨を体験したからだと言われています。

聖書はそれを復活信仰と主張します。

この現実は証明できないけれども弟子たちは「主はよみがえった」と主張するのです。

弟子たちを奮い立たせたのは聖霊の力だともいわれています。

したがって、キリスト教の信仰の中心は、イエスの十字架と復活と聖霊降臨(使徒言行録第2章)にあると言えます。

その三つの出来事の一つでも欠けたら、キリスト信仰は成り立ちません。

イエスの教えとかなされた奇跡にあるのではないのです。

キリスト教は、倫理とか道徳を学んで感激し、心打たれて満足する宗教ではないのです。

キリスト教は人間の命の根本を変えてしまう力を持っているのです。

他の宗教に、人間の生きざまを根本から変えるような力はあるのでしょうか。

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2012年3月17日 (土)

福音書について(2)

「福音書について(1)」からの続きです。

さて福音書に話を戻しますが、四福音書を比べてみると、四福音書も同じイエスの生前の言葉とか出来事を書いたものですが、四福音書間に食い違いや不一致、つまり、表現方法が違っていたり、イエスの言葉とか出来事の用い方が違っていたりするところがあります。

これは何を意味するかを考えますと、それは四人の福音書著者が書いたそれぞれのイエスの生前の出来事とかイエスの言葉が修正とか改ざんされずにそのまま大切に保管されていたと言うことではないでしょうか。

それほど、福音書は大切に保管され、注意深く継承されたと言うことになります。

本来なら、後から書く著者は、前のが間違っていると思えば訂正して、改訂版として作成すれば良いのです。

前に書かれたものを書き変えてもよかったのです。

四福音書とも違っていれば一本にまとめてもよいのです。

ところがそうしなかったのは、誰もそうすることが出来なかった。

それほどイエスの言葉とか出来事の記録をそのままの状態で保存、維持することが重要なことだったのだと言えます。

言い換えれば、生前のイエスの言葉と行いが、何よりも神聖で権威があったのです。

もちろん、先に書いたように、四福音書とも書かれてあることの信ぴょう性は、信徒はもちろん周りのユダヤ人も、誰も疑わなかったと言うことになります。

福音書は先に作成されていたイエスの語録集とかしるし集などをもとに書かれていますから、それらについても同じことが言えると思います。

福音書などの写本を作るときには、人間が膨大な文字を一字一字写していくのだから細かい過ちは当然起こります。

写しをとった人の識字能力も問われます。

翻訳するときは、翻訳能力も問われます。

さらに、おなじイエスの生前の出来事を語った共観福音書の内容は、小説や物語り風でもなく、驚くべき出来事である奇跡を書くときも事務的な語調で、他の部分と同じようにさらりと語られているのです。

全般にわたって修飾したところが全くないのです。

飾り気のない新聞記事と言いますか、偏見も誇張もなく日常の言葉で書かれています。

とても、想像の産物とは思えないのです。

想像の産物ならば、書くことが驚くべきことですから、脚色したり誇張したりするものです。

そして思ったのです。

いろいろ思うところがあるが、福音書は、全部をそのまま丸ごと受け入れるか、全く受け入れないかのどちらかだと・・・。

そうでしょう、ここのところはおそらく間違いがないから信じよう、ここはおかしいから信じないでおこう、などと決めても確かな根拠もないことです。

福音書全体を一つとして福音告知しているのですから、その様な対応はおかしいと思うのです。

福音書著者は、ひょっとしたら信仰の勢いで、また時代の要請により何かを付け足したり、削除したり、言い方を変えたりしたかも知れませんが、信じる心が変わらなければ、そのまま丸ごと受け入れるのが、福音書の著者の意思にも適ったことだと思うのです。

イエスの直弟子でない異邦人宣教のパウロも、イエスから直に教えを受けた弟子たちの言葉を最大限尊重し、自分の言っていることがそれに一致しているということに気を使っています。

書かれたことの真偽の分析などしていません。

イエスの誕生と公に宣教を始めた時との間、つまり、イエスの少年時代のことは、たった一か所、ルカの福音書2章41節に記載があるのみです。

これは福音書を書いた目的のためには、イエスの少年時代とか成長過程は重要ではなかったからだと思います。

また、福音書完成後の教会においても、食い違いや不一致に、色々と抗議、その食い違いや不一致が原因での異端、分裂騒動、神学論争などもあったでしょう。

教会は福音書のその様な食い違いをなくそうと思えば出来たのにそうしないで、今日までそのまま代々引き継いできました。

それは、福音書が教会指導者にも変えられない神聖なものであったということでしょう。

聖書に記載されたことの真偽についても、この2000年間その時代の優秀な頭脳を持った人々が聖書に疑問を持ちその内容の真偽を研究してきましたが、聖書はそれに耐え、誰も記載されたことを否定できず、逆にその魅力というか、聖書のもつ不思議な力にとらわれて研究者が信仰を持つようになった例は幾らでもあると聞きます。

また、聖書を読みイエスの約束の言葉を信じるようになった人が数限りなく起こされたのも事実なのです。

今も世界のあちらこちらで聖書を読み信仰に入った人、人生を変えられた人が次から次と起こされているのも事実なのです。

聖書のイエスの言葉の一節を読んで人生が変えられた人も大勢おられると聞きます。

それらの事実を知ると、聖書が編成されたことに意味があり、内容が真実であり、そして聖書の言葉に不思議な力がある、つまり神に霊、聖霊が働いていると思うのです。

わたしは最初、聖書は全く間違いがない神の御言葉であり、聖書の言葉一字一句それ自体が聖霊の霊感によりもたらされたものだと考えていたので、いやそのように教えられていたので、聖書は字義どおり解釈すべきだと思っていましたが、今は、文脈と行間を読み書かれたときの時代背景を考慮して、著者の意思(イエスの意思)を読み取ろうと努めています。

いろいろと書物を調べてみますと、長年の調査研究の結果、現在われわれが手にしている聖書は当時のものとほとんど変わらないということです。

聖書の中の歴史的出来事も、歴史的事実として裏付けられているということです。

今のわたしは、聖書にかかれた出来事については、すべてそのまま事実であると信じています。

よく考えると、神が自分の言葉をそのまま伝えるために聖書を人間に書かせたとしたら、あるいは神が人間の手による改竄とか改変を望まれないのなら、神は奇蹟によってその言葉を改竄などができないようにされるはずです。

人間お言葉は、時代を超えて思いを伝えるには限界があります。

伝えたいと思うことを文字にするといろいろと解釈が生まれるのは当然のことです。

そして、人間には意志を伝える方法として文字しかありません。

神はそのようなことはすべてご存じであると思います。

全く改竄、改変が不可能な方法で御言葉を残されなかったということは、それだけの意味があると考えるのが正解だと思うのです。
神は伝道を人間の手に委ねられたのです。

そして、聖書によれば神の霊、聖霊がその伝道を助けて下さるのです。

したがって、聖書は聖霊が働かれる中で読む限りにおいて、その解釈は正解だと言えます。

不完全な聖書も聖霊の働きの中で完全になるのだと思います。

「福音書について(3)」に続きます。

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2012年3月14日 (水)

福音書について(1)

三回に分けて福音書の内容の真偽につき、わたしが思うところを簡単にまとめてみました。


聖書は、キリスト教の聖典でイエス・キリストを証する書物です。


旧約聖書は1000年余りにわたってイスラエルの多数の預言者の手で書かれました。


預言者と言うのは、神の言葉を預かり告げる人ということで、未来を予言する予言者ではありません。


新約聖書の著者は、イエスの使徒や彼らに伝道されイエスの弟子となった信仰者たちで、一世紀に生きた人々です。 


福音とは、メシアであるところのイエス・キリストの言葉を信じると罪の中から救われるという、キリスト教の教えを言います。
もちろん、それは、人間は生まれながら原罪を持っているという前提です。


そして、そのイエスのたった三年間(実際は二年に満たないとも言われています。)の地上での公生涯の事実が、福音の根本で、福音はこれから切り離されてはありえないと思います。


ということは、その三年間のイエスの公生涯で起こった出来事が嘘であれば、福音はそれこそ作り話となり,イエス死亡により速やかに消えてしまうものだと言うことです。


イエスはその三年の間に言葉と行いを持って福音を告知されたのです。


そうです、わずか三年の間での地上でのイエスがなされた出来事とか教えが、その後、今日まで約2000年間の人類の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。そして、これからも及ぼし続けるでしょう。


これには誰も異論はないと思います。これはすごいことです。


聖書のとくに福音書の真偽を問題にされる方がおられますが、この現実の前に果たして否定できるでしょうか。


2000年前のイスラエルで生まれた新しい信仰運動である神の国運動のイエス死後の担い手は、ペトロを代表とするイエスの直弟子たち十二人、すなわち、イエスが地上で活動されたとき、イエスに選ばれ、教えを受け、弟子としてイエスと寝食を共にし、イエスの十字架死と死からの復活の顕現を体験した人たちです。


そして、その神の国運動はイエスの死で一旦中断し、消えてしまったと思われましたが、イエスの復活顕現と聖霊降臨により再び復活しました。


聖霊降臨(使徒言行録2-1以降)の後、聖霊に満たされてペトロが説教(使徒言行録2章14節)を始めますが、この説教が神の国運動の復活、同時に福音宣教の始まりということでしょう。


イエスの直弟子たち十二人は使徒と呼ばれ、主イエスから遣わされた者として、福音を宣べ伝え、信者を集め指導しました。


彼らは当然自分の目で見た生前のイエスの働きや、イエスの身に起こった出来事、イエスから直接聞いた教えを用いて指導しました。


彼らが伝えたイエスの働きや教えの言葉は、各地の信徒の間で受け入れられ、伝えられ、細心の注意を持って保持されました。


それは口から口へと伝えられ、信徒たちの間で言い伝え、伝承として定着していきました。


イエスが十字架で死に、10年ほどが経ち、紀元40年から50年にかけて、生前のイエスに伝わる「復活物語」、「イエスの言葉集」、「奇跡物語」、「受難物語」など、後に福音書の資料となる重要な伝承が口伝として形成され、のちに文書化されました。


それらを参考にして、イエス死後二十年以上経て50年代に最初の福音書マルコの福音書が編纂されました。


60年代にマタイの福音書とルカの福音書が編纂されました。


以上三福音書を共観福音書といい、そこには生前のイエスの働きや生涯の出来事、イエスの教えが書かれています。


といいましても、福音書は歴史書ではないのですから、福音書著者が自分の信仰体験とか生前のイエスの出来事とか教えを用いて、イエスを証するために自分の信仰を告白したものです。


もちろん、そこには神の御霊、聖霊の働きが活発であったと思います。


ヨハネの福音書が編纂されたのは、ずっとあとで85年以降とされています。


ヨハネの福音書の内容は、共観福音書とは違い、イエスについての著者の記憶、著者の見方、著者の神学と言うようなものが書かれています。


一般にイエスの出来事の意味が書かれていると言われています。


イエスは、書いたものは何も残されなかったし、弟子に記録の要請もされませんでした。


すべてを自分の死後に降臨する聖霊の働きに委ねられました。


それにこれらの福音書の原本は残っていません。すべて写本です。


なぜ二十年も経てから福音書が書かれたのかを考えてみますと、一言でいえば、最初の頃は生前のイエスに直接教えを受けた使徒の権威が強かったから、イエスの言葉を文書化するのが遅れたのだと思います。


当時は文字で書かれた文書など一般には普及していなかったでしょうから、文書よりも言葉が力を持っていたのでしょう。


福音書が書かれた理由は、生前のイエスに直接教えを受けた弟子が高齢になりあるいは殉教により亡くなり、後世にイエスの生前の言行を残す必要に迫られたのが第一だと思います。


パウロの手紙類を含めて今のような新約聖書に編纂されるのに200年以上の年月を要した(紀元397年のカルタゴ公会議で正典聖書が成立しています)ということです。


聖書の正典は、信徒が増えていき、イエスの教えにも色々と意見が出てきて、異端と言える教えまででてきて、あるいは、教団が大きくなり教義の確立に迫られ文書化する必要に迫られたからでしょう。


使徒たちは、聖霊に満たされて、多くのしるしと不思議な業を行い(使徒言行録第5章12節以下)、復活のイエスに出会い、聖霊降臨(使徒言行録第2章1節以下)を体験しました。
弟子たちのそれらの体験から出てくる言葉は、自信に満ち(使徒言行録第4章8節他)ていて人を魅了する力がありました。


使徒言行録はルカが書いたものですが、内容は、聖霊がイエスの生前の約束通り信徒たちに降ったこと。


原始教会の生い立ち、主にペトロとパウロに焦点を合わせてイスラエルからローマに至る伝道の姿が書かれています。


この書では、キリスト教会の成立と福音の伝播を知ることができます。


キリスト教の勃興期で、最も大切なときで、聖霊が最も活発に働かれた時代ではないかと思います。


最初のころの教会は、イエスの生前の出来事とか言葉に重点を置くグループと、イエスの十字架死と復活に重点を置くグループの二つのイエス伝道が並行して行われていたということです。


前者は主に生前のイエスに直接教えを受けた弟子たち、後者は復活のイエスに出会いユダヤ教から回心したパウロを中心とするグループであると思います。


さて、福音書ですが、福音書全編にわたって書かれていることの内容は、イエスの教えと、教えを神からのものと証するための奇跡とかしるし、そして、それらのすべてはイエスの十字架と復活に焦点が合わされています。


イエスの十字架と復活の出来事を説明するために旧約聖書の預言も総動員されて書かれています。


もちろん、それは、イエスの十字架と復活がいかに弟子たちに大きな衝撃を与えたかを示しています。


そういう意味で、十字架と復活がなければキリスト教はあり得ません。


キリスト教の異邦人(非ユダヤ人)伝道に大きく貢献した使徒パウロは、イエスの弟子を、信徒を迫害する急先鋒であったのに、復活のイエスとの劇的な出会いでユダヤ教から回心したのですから、生前のイエスから直接教えを受けた使徒とは立場が違います。


したがって、パウロの福音は復活のイエスとの出会いから始まっています。


福音書には、イエスがなされた奇跡とかしるしが書かれています。


奇跡の最大の出来事がイエスの死からの復活です。


わたしは当初、そのような福音書をそのまま信じて良いのか随分迷いましたが、次のような理由で、いまでは福音書に書かれたことをほとんどそのまま(一字一句ではないですよ)信じています。


たとえ、書いてあることに一部問題があったとしても結論としてわたしの信仰は変わらないからです。


第一イエスがなされた奇跡が信じられないのならば、最大の奇跡である復活も信じることができません。


復活は信じるが他の奇跡は信じられない、という選択はあり得ません。


それに復活が事実でなければ、キリスト教は成り立ちません。


よく考えると、原始共同体の教えや書き物が少しでも真実から離れてしまっていたならば、とっくに、イエスの神の国運動は他の新興宗教と同じように消えてしまっていたと思うのです。


なぜなら、弟子たちの宣教運動が始まったころ、福音書が出来たころのパレスチナには、生前のイエスを知っていた人がまだたくさん生きており、イエスについての作り事は、どんなものでもすぐに嘘であることがばれてしまったはずです。


ましてや、その人たちの指導者層はイエスを憎んでいたので、あらさがしをしていたと思います。


信徒たちが伝えるイエスの出来事が嘘なら喜んで言いふらしたはずです。


イエスの生前の教えや、イエスに起こった出来事が嘘だとわかれば、弟子たちは笑い物になりその段階で神の国運動は消え去っています。
さらに驚くべきことは、ユダヤ人はイエスを神への冒涜の罪で十字架にかけて殺しました。


ということは、イエス死後十年の経ずに、生前のイエスを知っている人たちが生きているうちに、イエスを神の子と認めて、ユダヤ人の間でイエスが神格化されているということです。


キリスト信徒たちの周りには、イエスを知り憎んでいた人たちが大勢いて、イエスを迫害したのと同じように信徒たちを迫害しょうとしていたのです。


そのような敵意を持った人たちが周りに多くいた状況下で、弟子たちが伝えているイエスの復活が嘘であれば、何度も書きますが、弟子たちは笑い物になりその段階で神の国運動は消え去っています。


イエスの神格化などとんでもないことです。


「福音書について(2)」に続きます。


 

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2012年2月20日 (月)

イエスの出来事は本当か

誰でもがつまずく新約聖書の奇跡やしるしが事実かどうかいについて考えてみたいと思います。


この問題は誰でもが聖書を読むうえで考えることだと思います。


たとえば、ルカの福音書第7章11節以下で、ナインのやもめの息子が死から生き返ったというのは、ほんとうの出来事でしょうか。


これは一つの例ですが、こういうことをどのようにとらえるかは、四観福音書全体を読む上で、最も大事な問題点だと思います。


もちろん、わたしはこの出来事は本当にあったものと信じています。


これは当たり前のことですが、結論として学問的な研究では聖書に記載された奇跡とかしるしの真偽について判定をくだすことはできないということです。


タイムスリップして当時に行って確かめることができるならば別ですが、それはとても無理な話です。


言えることは、イエスの言葉を伝えれるために、イエスに選ばれた十二使徒以降の代々の信仰者である信仰者たちが、聖書の真正を確信していたことは歴史的な事実であると言うことです。


また、この2000年間、聖書を読み、書いてある出来事を真実だと信じた人が数多く起こされて、いまもまた世界のどこかで信じる人が次から次へと起こされているのも事実だということです。


いわゆるクリスチャンと言われる人は、イエスから直接言葉を聞くことができなくても、聖書を読みあるいは聖書の言葉を聞くという行為だけで信じたのも事実です。


また、聖書の魅力に取りつかれて、否定が出来なくて聖書の言葉に何年も囚われている人がごまんといるのです。


そういう人もある意味イエスの言葉を信じていると言えると思います。


見方を変えれば、十二使徒以降の代々のクリスチャンと言える人種は、約2000年前にこの地上に生きたイスラエルのナザレのイエスと言う人物は、神の子として神の人類救済のご計画により、この地上に使わされ、神と神のみ心を顕し、神の支配の始まりを告知するために来られた。


そのイエスの十字架死と復活は、イエスの言葉を信じる者に、肉の体から新しい命へ移行する来世への希望を保証するものであると信じたのです。


その希望が現実に現世での迫害に耐える力となり、迫害に負けずに次から次に新しいクリスチャンが生まれたのも事実です。


もちろん、このような見方が、イエスの出来事が真実だと証明することにはなりません。


なぜなら、イエスと同時代に生き、目で確かめた人なら事実であると断言できますが、イエス以降を生きる信仰者にとってはあくまで「事実であると信じている、という表現になるのですね。


学問的にどこまで研究しても同じだと思います。


それ以上のことは言えません。


イエスの十字架死と言う出来事は歴史的に事実であると確認できても、イエスの復活が事実であるかどうかは、学問的には判定できません。
学問的に判定できるのは、イエスの死後、その弟子たちの間で、復活信仰が起こったと言うことだけです。


それは弟子たちは命をかけて復活を証言し、イエスを神の子だと信じイエスの言葉を語り伝えたのを見れば明らかです。


復活を体験した弟子たちの弟子たち、代々の弟子たちにはその復活を体験した弟子たちの言葉を信じて、イエスの復活を信じたのです。


そう、信じたのです。


イエスの復活が事実であるかどうかの証明は、信仰の世界、霊的な領域に属することになると思います。


信じる人にとっては事実であるし、信じない人にとっては作り話です。


もう一つ問題があります。


新約聖書は、当時のギリシヤ神話とか旧約聖書を取り上げているところが多くあるということです。


旧約聖書を取り上げるのは、イエスの出来事が旧約聖書の預言の成就という問題がありますから分かるのですが、ギリシヤ神話はどうでしょうか。


似ている場面があるのは事実だと思います。


それでは新約聖書のギリシヤ神話によく似た物語は、ギリシヤ神話を真似した作り話でしょうか。


このことも、学問的には、架空の作り話であるともないとも立証できません。


ただ言えることは、福音書を書いた人は、イエスは神の子で、旧約聖書で世の終末に来られると預言されていたメシア(救い主)はイエスだと信じていたということです。


そうであれば、福音書を書いた人は、自分がメシアだと信じたイエスをギリシヤ神話を取り入れてメシアに仕立て上げようとしたのでしょうか。


これも学問的には立証できません。


イエスの復活は、イエスの復活を実際に体験した人によって書かれました。


だから、その人たちは、イエスは神の子であると信じています。


そして、自分が見たこと体験したこと(第一ヨハネの手紙第1章1節)を、命をかけて証言し、守ったのです。


そのような弟子たちが書いた福音書は信頼できないと言えるでしょうか。


ルカが書いた使徒言行録には、ペトロとパウロが死者を生き返らせた話と言う話が出てきます(使徒言行録第9章36~43節/同20章7~12節)が、ペトロもパウロも「ナザレのイエスの名によって」このような奇跡を起こしたのです。


使徒言行録第4章30節「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」とある通りです。


したがって、福音書で語られた「ナザレのイエスの出来事」が偽りの作り話ならば、使徒言行録のこれらの話も同様の理由で作り話になります。


そうであれば、パウロが書いた手紙類の内容の真偽もおかしくなります。


すると今日までに起こされた全世界の何億というクリスチャンが証言することはなんであったかということになります。


パウロはペトロを含む十二使徒に福音という任務を働きかけられた方と同じ方(ナザレのイエス)が自分にも働きかけられたと述べているのです(ガラテヤ書第2章8節)。


したがって、使徒言行録のペトロやパウロに関する記述もそれなりの信憑性があり、同様にペトロの力ある業(ペトロの手紙二第1章4節、しるしとか癒しの奇跡、つまり神の業)にも信憑性があると認めるべきだと思います。


ペトロやパウロが、復活のイエスの力とみ名を信じることによって、このような神の業であるしるしとか癒しの奇跡が現実の出来事として起こったのであれば、生前のイエスにも、同様な神の霊の力が働いて、現実にイエスの身に起こった出来事とか、なされたしるしとか奇跡が事実であったと考えるべきだと思います。


生前のイエスはただの人間で、そのような力が無く、福音書の出来事は、イエスの復活信仰は架空の出来事にすぎなかったとすれば、そのイエスの名を信じたペトロやパウロにどうしてそのような不思議な出来事が現実のこととして生じるでしょうか? 


事実はそうではなく、生前のイエスに、神の御霊、聖霊の力が働いて、聖書に書かれている奇跡やしるしが現実のこととして起こったからこそ、イエスの死後においても、ペトロやパウロに同じイエスに働いた同じ聖霊が働いてイエスと同様のことが起こったと考えるほうが、よほど確かな推論だとわたしは思うのですが、いかがでしょうか。
確かに、聖書の記事の中には、明らかに神話を取り入れたと思われる個所や、旧約聖書の預言に影響された考え方や、イエスの復活以後に派生した伝承も含まれていると思います。さらにイエスの復活それ自体を証しする目的で語られた個所もあると思います。


だから、どの記事がどの程度、出来事として現実に起こったことなのか、言い換えると、どの程度、神話とか伝説的な部分が取りこまれているのか、これを確実に見分けるのは容易ではないと思います。これは聖書学者の話です。


現代の聖書学では、どれが本来のイエスの言葉なのか、これをなんとか見分けることはできるらしいのですが、それ以上のことは判断できないということです。


わたしは、新約聖書に神話や伝説や旧約聖書の預言の反映があったとしても、頭から嘘だと言って無視するのではなく、そのようなことが、なぜ記載されているのか、そこに含まれている宗教的、あるいは霊的な意味を知ることが大切かと思うのです。


福音書著者が福音書などにそのことを組み入れた意味目的を知る必要があるかと思うのです。


福音書著者が信じていることが本当だと説明するためにそれらのことを利用したのですから必ず意味目的があるはずです。


イエスに起こった出来事が、すべて作り事と言われる方は、現在でもキリスト教世界に起こっている不思議な現象、つまり、異言や預言、癒しやその他のしるしが信仰者を通して、イエス・キリストのみ名によって現実に起こっているのをどのように見るのでしょうか。


異言を語られる方などは現実にわたしの身近にも大勢おられます。


異言をそばで聞いていて意識的にまねて語ろうと思っても語れません。


不思議な霊的現象です。


そういうことが事実として現実に起こっているのを見ると、聖書の不思議な出来事も架空のことではないと思えるのです。


どちらにしても、この世での出来事には科学では説明できないこと、人間の目や耳で確認できないことなど不思議な出来事が多くあります。
所詮人間は被造物です。


被造物には創造主の世界のすべてを理解することは決して出来ないのではと思います。


 

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2012年2月10日 (金)

人間救済の意味(2)

人間救済の意味(1)からの続きです。

マタイの福音書第5章48節のイエスの言葉、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

このイエスの言葉によると、イエスは我々に完全になりなさいと言われています。

神が我々を導き始めたその目的地は、我々を神と共に生きることができる存在にすること。

それがイエスの言われる完全になりなさいと言う意味だと思うのです。

わたしたちが完全になるのは、おそらくこの世では無理なことで、来世のことだと思います。

われわれが完全なものになることは、神のご計画です。

自分自身を除けば全宇宙のいかなる力も、神が我々をその目的地に連れて行くことを妨げることはできない。

たとえ悪魔であってもです。神の思いは必ずなるのですから。

我々は、そのことをはっきりと心に銘記しなければならないと思うのです。

なぜ、心に銘記するかと言いますと、我々が完全になるためには、我々の努力とか能力では不可能だからです。神の霊、聖霊にすべてをゆだねる必要があるからです。

委ねるためには中途半端では聖霊も働きようがないと思うからです。

完全への道は、聖霊の働きによってこの世から始まっているのですね。

我々は被造物ですから、我々がそのことを望むか望まないかではなくて、問題は創造主である神が被造物である我々をどのようなものにしょうとされているのかの問題だと思うのです。

神の人間に対するご計画はこの世では完成されないと思います。

しかし神は我々が死ぬ前にできるだけ前に進ませておこうとしておられると思うのです。我々が人生行路で艱難辛苦にあうのもそのためであると思うのです。

神は、病や金の心配や、新しい誘惑などを用いて我々をいっそう高い段階に押し上げようとしておられると思うのです。

そうして、勇気と忍耐力と愛とを学ぶようにされている。

したがって、この世で起こることに不必要なことは一つも無いということです。人生におけるすべての体験をわたしたちのためになるように用いてくださると思うのです。

コリントの信徒への第一の手紙 第8章5節から6節「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰っていくのです。」

この聖句では、唯一の神は父なる神と呼ばれ、万物の創始者であり、万物が帰着する目標であるとされています。

万物の源である創造者は、世界の歴史の中でその支配と救済の働きを進め、終わりの日に世界を裁き、その働きを完成されると言っているのです。

使徒言行録第17章30節から31節「神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。

神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

イエスは悪魔に勝ったが悪魔を殺さなかった。

この世が終わるまで刑の執行は猶予されたのです。

この解釈は、これを悪魔中心に見るか人間中心に見るかで解釈が違ってくると思います。

ある解釈では、悪魔中心に見て、イエスは、人間を悪魔のわざを滅ぼす舞台装置として造ったという見方をしているというのがありましたが、わたしは逆に神は人間の中に御心を達成するために悪魔を利用したと思っています。

人間はもともと霊的存在です。

ここからは推測ですが、人間に肉体が与えられたのも、イエスの出来事も、悪魔の仕業も、すべて人間の霊的成長ためではなかろうかと思うのです。

そのように理解すれば、悪魔の刑の執行を猶予されたのも、人間にすぐに病になるような不完全な肉体を与えたのも、人間社会は不法と不条理が満ちて苦しんでいるのも、前にも書いたように、神と共に生きる存在に変えるために、霊的に成長を促すために、あるいはわたしたちを神の国の住民とするために必要なのだと信じたいと思うのです。

もし、それらのことが、何の意味もないことであれば、人間というものはなんと哀れな存在でしょう。

思わせぶりな聖句があります。

ローマの信徒への手紙第5章4節「忍耐は練達を、練達は希望を生む」。 

もう少し考えを進めていきます。

さて、悪魔がイエスを十字架刑で殺さざるを得なくなるようになっていくのが、創成記のころに決まっていたと言うことは、これに関わることもそれ以前に決まっていたことになります。

そして、人間はこの事件に不可欠なかかわりをもち、役割をはたしていきます。

悪魔は、なぜイエスを亡き者にせざるを得なかったでしょうか。

それは、イエスが人の子としてこの世にきて、人間に天国のことを教え、神から離反していること、そのことが罪であることを教え、人間に、あなたは何者でどこからきてどこへ行くのかを教え、天国に行く方法を教え、この世の支配権を悪魔から神に移し、この世に天国につながる空間を造ろうとされたからではなかろうか。

その空間というのは、イエスが福音を伝え、それを信じる人の群れ、神の霊、聖霊が働く場である教会などを指すのではなかろうか。

神はイエスの教えを、個人から個人への伝道という方法で伝えようとされている。

前にも書きましたが、そのような邪魔くさい方法をとられるのは、あくまで人間一人ひとりの自由意思を尊重されているのではないかと思います。

自分の意志でイエスを選ぶことが大切だということではなかろうか。

それが何にもまして神の御心の達成には大切なことだから。

神は無駄なことは一切されないというのが前提です。

悪魔が死に物狂いでイエスの計画を壊そうと動きまわる。

イエスの教えを受け入れようとする者を誘惑し惑わそうとするのはあたりまえです。自分が自由に権利を行使することができる空間がどんどん減っていくから当たり前です。

が、大まかな出来事のすべてが決まっていたのなら、悪魔の仕業もすべて計算済みで、神の計画の内であるということになります。

こうして、人間というものを見てみると、神の御心とか、霊的な鍛錬のためかは知らないが、不法と不条理に満ちた世界の現状を見るとまことに憐れむべき存在と思いませんか。

迫害を受けて、名も知れず虫けらのように死んでいく人々がなんと多いことか。

いまわしい猟奇的殺人がなんと多いことか。

また、生涯をかけて財産とか名誉とか権力を勝ちとっても病には勝てないし死にも勝てません。

やがて必ず死んで行くのです。

その人たちが人生の競争に一段落して、ふと自分の歩んできた過去を振り返るときがきたときに、ふと空しく思う時があると思うのです。

なぜなら、財産とか名誉とか権力を得ること、本当の意味での人生はそこにはないと思うからです。

財産とか権力とかをフル活用して人生を遊んでも、一時は楽しく充実しているように思えても必ず空しくなると思うのです。

いずれは、必ずそれらをすべてこの世において言って死ななければならないことを知っているからです。

死という宿命を背負った人間は、どのような人であろうとも哀れで悲しい存在です。

どのような人でも、病とか死に打ち勝つこともできないことを悟った時、人は哀れで空しい存在になります。

ヒットラーでさえ、ああいう生き方しかできなかったのを見ると、やはり憐れだと思います。わたしはそこに人間の弱さと憐れさを見ます。

そのような人間社会を憐れんでか、イエスは新約聖書で、人間に哀れみを抱いたという記述が何度も出てきます。

病にあって苦しんでいるのを哀れむ、娘が死んで嘆く母親をみて哀れむ。

とにかくよく哀れんでおられるのです。

そして最後に十字架の上で自分を十字架に架けた人間に対しても、「何をしているかわからない」といって本来は憎むべき人間をも憐れんでおられるのです。

そんなに愛してくださるなら、きっと、すべての、それがだめならほとんどの人間が罪から救われて永遠の命を得られるようにしてくださるでしょう。

わたしはそのように願います。

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2012年2月 8日 (水)

人間救済の意味(1)

創世記よもやま話」という投稿文で、創世記第3章15節の「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」という聖句につき、色々と書きました。

そこで、イエスは人類が創造されるときにすでにこの世に来られること、十字架も復活の出来事も既に決まっていました。

その中ではたす悪魔の役割も決まっていたと書きましたが、よく考えると、旧約・新約聖書に書かれていることは、まさしく人間が創造されてから罪に陥る経緯から、罪から救済するための、いわば人類救済の歴史が書かれていると思うのです。

悪魔の存在とその役割、エデンの園での人間の神からの離反、イスラエル民族の、結果として人類の罪の歴史、人間を罪の中から救い上げるため、贖いの生贄としてのイエスの十字架死と復活などすべて人間を創造するときから決まっていた神のご計画、出来レースであったと言うことになりますが、それではなぜそのようなことをされたのでしょうか。

独断と偏見で考えてみたいと思います。

まず、同じ罪を犯したのに、すなわち悪魔は罪から救われないのに、なぜ神は、人間だけを、自分の御子イエスを十字架に架けてまでして罪を贖い、罪の中から救済しょうとされているのだろうか。

わたしが思うに、悪魔が神に離反したのは、自分も神のようになりたいという理由ですから、つまり自分も神のような立場になりたいと言う確信犯です。

確信犯ですから悪魔は本質が罪なのです。

天使である存在が変質して悪魔的性質に変わってしまったと言うことだと思います。

もう救いようがないのです。

ところが、人間は、自分のしている結果がどういう事態を及ぼすのか分からずに、悪魔の誘いに乗って、それも悪魔の誘いとも思わずに罪を犯し続けでいるということですから、確信犯ではないのです。

ここに大きな違いがあるのです。

人間は、自分はどこから来てどこへ行くのか、なぜ生きているのかの意味もわかっていないのです。

何が罪かもわからない人間が作った今の社会制度それ自体が罪を包含する制度ですから(つまり社会の制度自体が、弱者を生み、敗者を生み、被差別者を生み、貧困を生み、虐殺を生むのです)、そこで生きるということは意識していようが、意識していなかろうが罪を犯しているのです。

罪を犯さないと生きてはいけないと言うことだと思うのです。

だけど、人間は悪魔に騙されて、自分がしていることの意味も分からず罪を犯したとはいえ、自分の意思で神から離反しましたので、神の元に戻るか否かも自分の意思で判断する必要があるのだと思います。

神は義なるがゆえにそうせざるを得ないということです。

神は、なぜ敵である悪魔の占領下にあるこの世界に、ご自分の子供を人間のように肉体を備えて(イエスのこと)上陸させ、ユダとユダヤの僧侶と大衆を悪魔の手にわたし、イエスを十字架にかけて、御子イエス殺しの証拠をあげて、それでもすぐに悪魔を罰するわけでもなく裁きは最後の審判まで据え置いて、悪魔の支配するこの世の中に、神の支配するワールドを少しずつ広げようとされている。

そして、その神が支配するワールドを広げようとする運動は人間の手に委ねられているのです。

だから、個人から個人への伝道というまことに面倒くさい方法で広げていくことになるのですね。

なぜ神は力づくで悪魔の支配するこの地上に上陸し、侵略しなかったのか。

全能の神ならばそれくらい朝飯前であったはずです。

それでは、一つ一つ浮かぶ疑問を、わたしなりに考えてみたいと思います。

やがてイエスがこの世に再臨されることは聖書に書いてあります。

神はやがて力ずくで上陸してこられます。

しかし、その時期は誰にも分からないのです。

もし、再臨を遅らせておられるならば、遅らせておられる理由は、神は我々に自発的に神の陣営に加わるチャンスを与えようとされていると言うのは確かだと思います。

わたしは最後の独りまで救われるのを待っておられると思うのです。

やがてくる神の再臨が実現するとき、それは世の終わりであると言うことでしょう。

作者が舞台に出てきたら芝居は終わるということです。

神がイエスという人となったのは、被造物である人間を神の子に変えるためであったと思うのです。

単に今までの人間を改造するのではなく新しい種類の人間を作り出すためであった。

このことは別の投稿文「人間の新生」に書きましたが、もし、このことを進化に絡めて話すなら、キリスト教の考えはまさに新しい人間の創造、進化を認める宗教だと思うのです。

それは能力とか機能の進化ではなく、神の被造物から神の子への、神と共に生きる存在への変化であると思うのです。

その最初の実例が2000年前にパレルチナに現れたイエスだと思うのです。だからキリスト信者はキリストに倣って生きることを求められていると思うのです。

イエスの母マリアは聖霊により身ごもりイエスが生まれました。

それは人間の男と女の生殖作用によって生まれたのではない、聖霊により生まれたまったく新しい人間の姿と言えます。
我々は自分の新生を拒否することもできます。

自主的なものなので、あたらしい人類の列に加わることなく、新生の道を選んだ人々(イエスの言葉を信じた人々)が進んでいくのをただみていることもできるのです。

神はどちらを選ぶかわたしたちに委ねられているのです。

神はあくまで人間が自由意思のもとにご自分を選ぶのを待っておられるのです。

新生の働きは、自分が何かが出来るとか、自分の努力によるのではなしに、神の霊、聖霊の働きによるのです。

だから、わたしたちは神につながっていなければ、聖霊を受け入れていなければ新生もできないのです。

それは、イエスの言葉を信じ留めればその聖霊はその人に内住し、その人を新しく変えてくださるという事態なのです。

神は、被造物である人間と御子イエスと同じように子として共に暮らせるようになりたいのです。

どのような本を見て書きとめたか忘れましたが、誰が書かれたのかも忘れましたが、書き留めていた言葉がありますので次に転載します。

イエスは言われる。「わたしの与える助けは、あなた方が完全なものになるための助けのみである。

あなたがたはもっと小さいことを求めるかも知れないが、わたしはそれ以下のものを与えないのだ。」

「もし、わたしに任せるなら、わたしはあなたを完全なものにしてあげよう。あなたが自己をわたしの手にゆだねた瞬間それは始まる。

あなたは自由意志を持っている。だからいやならわたしを押しのけることができる。

しかし、押しのけないなら、はっきり言っておくが、わたしはこの仕事を徹底的にやるつもりだ。あなたがそのためにこの世でどんなに苦しみ、死後もどんな思いもかけぬ浄化を受けねば成らぬとしても、いや、わたしがそのためにどんなに犠牲をはらわねばならぬとしても、あなたが文字通り完全なものになるまでは、わたしの父(神)がわたしのことをわが心にかなうものといわれたように、あなたについても無条件にわが心にかなうものとおっしゃることができるようになるまでは、わたしは休まないし、またあなたも休ませない。このことをわたしはやれるし、またやるつもりだ。」

この言葉は、新約聖書のイエスの言葉とは決して矛盾しないと思います。


これを読んでわたしは本当にそうだと納得しました。

人間救済に意味(2)に続きます。

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2012年1月 8日 (日)

イエス受難時の出来事(3)

「イエス受難時の出来事(2)」からの続きです。

さてイエスの復活ですが、復活については他の投稿文と重複しているところもありますが、ここでは福音書の記事にそって書いてみたいと思います。

最初にイエスに従ってついてきた二人の女が、十字架の日から三日目にイエスの墓を見に行きました。

聖書にはその時の状況を次のように書いています。

マタイの福音書第28章1節から4節「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」

不思議なことが起こったのです。

そのとき婦人たちは天使に「・・まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカの福音書第24章6節7節)と言われて初めて生前イエスが言われた言葉を思い出したのです。

そして、空の墓を確認した婦人たちは、急いで弟子たちに知らせに行こうとしたら、目の前に復活したイエスが立っていたのです。

復活したイエスは女たちに、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイの福音書第28章10節)と言われます。

女たちから、復活したイエスの言付けを聞いた十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登って祈っているときに復活のイエスに初めて会いました(マタイの福音書第28章16節)。

最初に知らせを受けた二人の弟子は、女たちから報告を受けたが信じられなかったので、空の墓を確認に行っています(ヨハネの福音書第20章3節)。

この二人の弟子は空の墓を見て初めてイエスの復活を信じたのです。

そのことを聖書には「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人は、まだ理解していなかったのである。」(ヨハネの福音書第20章9節)と書いています。

それからも、イエスは弟子たちの前に何度も顕れるのですが、その時の状況を福音書は、イエスの復活の体は、肉体をもってといわれる方もおられますが、閉め切った部屋に突然現れたり(ヨハネの福音書第20章19節)、復活のイエスを見て弟子たちが亡霊だといって驚いたり(ルカの福音書第24章37節)、二人の弟子がエマオでイエスにであったときも、話をしていても最初それがイエスだとかわからなかったとか(ルカの福音書第24章13節以降)、漁から帰ってきた7人の弟子に現れた時、岸に立っていた人物がイエスだと気がつかなかった。(ヨハネの福音書第21章1節以下)などと書かれています。

記事に共通して言えることは、一つは、弟子たちは復活のイエスに出会ってもすぐにイエスだとは認識できなかったということです。

だから、わたしたちが持つ肉体と同じ肉体の体で復活したとはとても思えない。もう一つは、イエスのほうに何らかの働きがなければイエスがイエスだと分からなかったということです。

復活のパターンは、復活のイエスに出会っても初めは気がつかないということです。イエスから何らかのアクシヨンがあって初めて気がついているのです。

どうやら肉眼で見てもわからない。霊的に感知しなければわからないのですね。それは、聖霊が見る者に働かなければ、イエスとはわからないということでしょう。

まさに復活のイエスは異次元の存在です。

ここのところは、投稿文「さらにイエスの復活について」を参考にしてください。

また、イエスの復活が弟子たちの幻覚とか妄想でもないと思います。

なぜなら一時に大勢の弟子の前に現れていますから幻覚や妄想ではそれは説明できません。

復活の事実を確信するのには、神の聖霊の臨在が伴うと思うのです。

弟子たち個人への聖霊降臨以降、聖霊の働きは一時的なものではなく、イエスの周りだけでなく、弟子たち個人に一層激しく働くようになったと思います。

だから、弟子たちは常に身近にイエスの存在を感じることができたので、イエスは死んではいない、甦って今も生きておられる、と信じるようになったと思うのです。これがイエスの復活の記事の真実ではないでしょうか。

勃興期のキリスト教には、聖霊の働きは今よりも激しかったと思います。

あらゆる迫害に負けずに信徒たちが信仰を守り抜いたのも、迫害の中、次から次と新しい信者が生まれたのも聖霊の激しい働きがあってのことだと思います。聖霊は時代に応じ、信者の必要に応じ激しく働かれるのでしょうね。

旧約聖書に通じていた弟子たちはイエスの復活に出会った衝撃が落ち着いて、冷静に物事を見ることができるようになってから、イエスの十字架と復活という不思議な体験とイエスの生前の言動の意味を解明するために旧約聖書を調べ始めたと思います。

彼らは、イエスの死を旧約聖書の「イザヤ書」53章で語られている「苦難の僕」と結びつけました。

ユダヤ教では、この苦難の僕こそ、来るべきメシアを預言していると信じられていたからです。

「苦難の僕」に書かれていることが、イエスに起こった出来事と余りにも似ていました。

弟子たちは、彼らの集まりの中に働く聖霊のご臨在の中で、祈り求めつつイエスの十字架の意味を探り求めました。

そして得た結論は、今、終わりの日が到来し、旧約聖書で預言されていた死者の復活が始まっていることを体験しているという信仰であったと思うのです。

そして、マタイの福音書の記者は、イエスの周りで起こった不思議な出来事を、旧約聖書の預言の言葉を用いて語った、ということではないでしょうか。

このように、イエス受難時の出来事は、旧約聖書のメシア預言と結びついた解釈が多く含まれていると思いますが、それらは、イエスの出来事と旧約聖書の預言とを、人々が後で意図的に結びつけたとは言い切れないと思います。

もし、事実でもないのにそのようなことをすれば、イエスの生前を知っている人、十字架の時の状況を知っている人が当時はまだ多く生きていましたので、嘘がすぐにばれてしまいます。

そのようなことをすれば、かえって福音書の信頼を失うことになると思います。現場にいなかった弟子たちも、復活のイエスに出会い、そのとき身を持って聖霊の働きを受け、旧約聖書の預言通りのことが事実として起こったと、疑うことなく信じ、受け入れたのだと思います。


その出会いの体験は弟子たちのあらゆる疑惑をも打ち消す圧倒的な出来事だったと思います。


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