旧約聖書の預言とヨハネの黙示録
旧約聖書の預言とヨハネの黙示録
目次
比較1.ダニエル書7章3節から7節とヨハネの黙示録13章1節から2節
比較2.ダニエル書7章25節とヨハネの黙示録13章5節から7節
比較3.ダニエル書7章2節・3節と7節とヨハネの黙示録13章1節と11
節
比較4.ダニエル書7章7節・8節・24節とヨハネの黙示録13章1節
比較5.エゼキエル書38章(マゴクのゴク)のいわゆるエゼキエル戦争の預言とヨハネの黙示録20章7節から10節(サタンの敗北)
比較6.ゼカリヤ書14章12節の疫病とヨハネの黙示録9章1節の第五のラッパ。
比較7.ヨハネの黙示録8章12節・13節の三つのわざわい(第五、第六、第七のラッパ)と旧約終末預言の関係
比較8.イザヤ書34章5から6、9節、63章1から6とヨハネの黙示録19章13から16節(ハルマゲドンの戦い)
本文
キリストの弟子の一人ヨハネが書いたヨハネの黙示録は人間社会の終わりを告げる預言書として知られていますが、このヨハネの黙示録にもダニエル書と同様、世界の歴史についての預言が書かれています。
ヨハネの黙示録はダニエル書と密接な関係にあるのですが、そのことを両者の該当箇所を比較しながら考えてみたいと思います。
比較1.ダニエル書7章3節から7節とヨハネの黙示録13章1節から2節
<旧約聖書の該当箇所>
- ダニエル書7章3節から7節(四頭の獣の幻)
〇3節.すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、
〇4節.第一のものは獅子のようなものであったが・・わしの翼が生えていた。
〇5節.第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にくわえていた。
〇6節.次に見えたのはまた別の獣で、豹のようっであった。背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。
〇7節.この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。
<ヨハネの黙示録の該当箇所>
- ヨハネの黙示録13章1節から2節(二匹の獣)・・海から上がってくる反キリスト。
〇1節「わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒瀆するさまざまの名が記されていた。
〇2節「わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。」
- 比較
上記ヨハネの黙示録13章1節と2節とダニエル書7章4節から7節を比較し、出てきた獣の特徴を比較しますと、
ダニエル7章 黙示録13章 該当する国家
(海から四頭の獣) (海から上がった獣) (該当する国家)
獅子 獅子の口 バビロン
熊 熊の足 メデイア・ペルシヤ
豹 豹に似ている ギリシヤ
十本の角を持つ獣 十本の角 艱難時代の始まりに起こる十のブロック
ヨハネの黙示録13章は、海から上がってくる獣、この「獣」は、反キリストを象徴します。反イスラエルでもあります。
「十本の角」は十カ国連合で、「七つの頭」とは、その帝国主義の支配形態を表すのでしょう。
比較2.ダニエル書7章25節とヨハネの黙示録13章5節から7節
<旧約聖書の該当箇所>
- ダニエル書7章25節
〇25節.彼はいと高き方に敵対して語りいと高き方の聖者らを悩ます。
彼は時と法を変えようとたくらむ。
聖者らは彼の手に渡され一時期、二時期、半時期がたつ。
<ヨハネの黙示録の該当箇所>
- ヨハネの黙示録13章5節から7節・・海から上がってくる反キリスト。
〇5節.この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
〇6節.そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した。
〇7節.獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。
- 比較
黙示録の「大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。」獣は四十二か月の活動期間が与えられます。
この四十二か月は、ダニエル書の獣も「一時期、二時期、半時期」ですから三年半で四十二か月と同じ活動期間です。
また、ダニエル書は「大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、」「いと高き方の聖者らを悩ます」「神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆」とありますが、その後の歴史上の権力者でこの特徴に該当するのは、中世のローマ・カトリックとする見方があるのを記しておきます。
また、ヨハネの黙示録13章5節の四十二か月は、三年半になります。
ダニエル書の「一時期、二時期、半時期」は、「1年と2年と半年」と同じ意味で42か月(三年半)となり1260日の期間を表します。
また、聖書の預言の解釈には、一日を一年と換算する見方もあります(民数記14章34節、エゼキエル書4章6節)。
比較3.ダニエル書7章2節・3節と7節とヨハネの黙示録13章1節と11節
<旧約聖書の該当箇所>
- ダニエル書7章2節・3節と7節(四頭の獣の幻)
〇2節.ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。
〇3節.すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、
〇7節.この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。
<ヨハネの黙示録の該当箇所>
- ヨハネの黙示録13章1節と11節・・海から上がってくる反キリスト。
〇1節.わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒瀆するさまざまの名が記されていた。
〇11節.わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。
- 比較
比較対象は、ヨハネの黙示録13章1節の「十本の角と七つの頭」の箇所とダニエル書の「十本の角」、また、「海の中から上って来る」一匹の獣とダニエル書にはない11節の「地中から上って来る」一匹の獣です。
ダニエル書7章に預言されていた歴史は、ローマ帝国の崩壊から反キリストの台頭まででしたが、問題はこの黙示録13章11節の「地中から上って来る」獣の登場です。
ダニエル書7章とヨハネの黙示録13章に出てきた、今までの獣は「海」から出てきましたが、11節のこの獣は「地」から出てくるところです。
「海」は、黙示録17章15節に「天使はまた、わたしに言った。「あなたが見た水、あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である。」ですから、さまざまな民族が集まっているところ(ヨハネの黙示録17章15節、イザヤ書17章12節、エレミヤ書46章7節)ですから、異邦人社会全体を表すと思います。
「海」が異邦人社会全体でしたら、「地」はそれと対義的な存在(ユダヤ人ではない)と推測されます。
異邦人でなく(ユダヤ人でないがユダヤ人が大きな勢力を持っている勢力と考えて)、また、キリスト教国と言えないが、「小羊の角に似た」で、「小羊」は、聖書ではイエス・キリストを表しますから、キリストとかかわりがある強力な存在」、世界的な影響力を持つ国という条件で歴史を見てみると、あてはまる国はアメリカ以外にないのではないかとする説が成り立ちます。
すなわち、終わりの日の艱難時代には、偽預言者なる「獣」が、アメリカ合衆国の民を反キリストに誘導するのです。
ただし、あくまでも推測です。
比較4.ダニエル書7章7節・8節・24節とヨハネの黙示録13章1節
<旧約聖書の該当箇所>
- ダニエル書7章7節・8節・24節(四頭の獣の幻、第四の獣)
〇7節.この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。
〇8節.その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。
〇24節.十の角はこの国に立つ十人の王/そのあとにもう一人の王が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。
<ヨハネの黙示録の該当箇所>
- ヨハネの黙示録13章1節(海から上がってくる反キリスト)
〇1節.わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜する様々な名が刻まれていた。
- 比較
ヨハネの黙示録13章1節の「海の中から上って来る」一匹の獣は、つまり異邦人社会の反キリストです。
ダニエル書7章24節に「十の角はこの国に立つ十人の王/そのあとにもう一人の王が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。」とありますから、黙示録の「十本の角と七つの頭」は、十人の王、すなわち、十の国家権力を表し、終わりの日に世界を統治するの十か国連合のことでしょう。
ちなみにこの連合国のうちの「三人の王を倒す」ですから、十の国家権力の内三カ国は反キリストによって滅ぼされることがダニエル書に預言されています。(ダニエル書7章8節)
比較5.エゼキエル書38章(マゴクのゴク)のいわゆるエゼキエル戦争の預言とヨハネの黙示録20章7節から10節(サタンの敗北)
<旧約聖書の該当箇所>
- エゼキエル書38章(マゴクのゴク)・・いわゆるエゼキエル戦争
エゼキエル戦争が起こるのは、終わりの日であるのは間違いないのですが、艱難時代の前か後か、または艱難期中間かで別れています。
正直いつなのかわたしには分かりませんが起こるのは確かです。
エゼキエル戦争の詳しい解説は、別に投稿していますから参考にしてください。(カテゴリーは、「エゼキエル書を読む」)
ここでの黙示録の比較対象箇所は、20章8節に「ゴグとマゴグ」という名が出てきますので、艱難時代の後と設定し、比較しました。
<ヨハネの黙示録の該当箇所>
- ヨハネの黙示録黙示録20章7節から10節(サタンの敗北)
エゼキエル戦争は終わりの日の艱難時代の出来事であることは間違いないです。
キリスト支配の千年王国が終わり、千年王国が始まる前に牢獄に閉じ込められたサタンが解放されます。
〇7節.この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、
〇8節.地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
〇9節.彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
〇10節.そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。
- 比較
ヨハネの黙示録20章8節は、悪魔の欺きが地の果てまで(全世界の異邦の民)及ぶことを示しているのでしょう。
9節で、悪魔の欺きによる異邦人の軍勢が、全世界に広がると預言しています。
「聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。」ですから、彼らはイスラエルに侵攻しエルサレムを包囲しますが、「天から火が下って来て、彼らを焼き尽く」しました。
10節の「彼らを惑わした悪魔」は、あの獣と偽預言者がいる「火と硫黄の池に投げ込まれ」て、「世々限りなく責めさいなまれる。」のです。
こうして悪魔は最終的に滅ぼされます。
千年王国が終わり、神が悪魔を解離す理由は、最終的に神を知らない異邦の人々に救いのチャンスを与えるためでしょう。
なぜならば、千年王国は理想に近い世界で、罪も死も大幅に減りますが、肉体を持った人間の原罪はなくなりません。完全に罪が無くなったわけではないからでしょう。
艱難時代を生き残ったキリスト者以外の異邦人も千年王国には多くいると思います。
この世界の艱難辛苦は、神を知るようになるためのきっかけとなりますが、神の怒りが満ちるまでという見方もあります。
それはひとえに、神の人間への愛、一人でも多く人間が救われたいという愛の表れだと思うのです。
ですから、何度も何度も、神は人間に救いのチャンスを与えておられると思うのです。
なお、9節の「愛された都」とはエルサレムのことでしょう。
そこに地の四方の諸国の民が取り囲みますが、この四方の諸国は、ソドムとゴモラが滅んだように、火によって滅びるのです。
比較6.ゼカリヤ書14章12節の疫病とヨハネの黙示録9章1節の第五のラッパ。
<旧約聖書の該当箇所>
- ゼカリヤ書14章12節(エルサレムの救い).
〇12節.諸国の民がエルサレムに兵を進めてくれば疫病で主はそのすべての者を撃たれる。肉は足で立っているうちに腐り、目は眼窩の中で腐り、舌も口の中で腐る。
<ヨハネの黙示録の該当箇所>
- ヨハネの黙示録9章1節・2節・3節・12節(第一の災い、ゾンビ災害)
〇9章1節.第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、
〇9章2節.それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。
〇9章3節.そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。
〇9章12節.第一の災いが過ぎ去った。見よ、この後、更に二つの災いがやって来る。
- 比較
ヨハネの黙示録9章は、8章13節の一羽の鷲が・・「不幸だ、不幸だ、不幸だ、」と叫んだのは、これから起こる第五、第六、第七の災いが、今までの四つの災いよりもさらにひどいものであることを表しているのでしょう。
第五以降の災いと第四までの災いと違うところは、第五は天から地上に下る災いではなく、地下から吹き上がってくる災いです。
すなわち、自然災害や、戦争などの人災ではなく、地の下や、あるいは地に徘徊している悪霊どもが引き起こす災いということでしょうか。
ということで、第五のラッパは悪霊によるゾンビ災害です。それをいなごで象徴しているのでしょう。
そしてこの章から、神に仕える天使だけでなく、悪魔や悪霊の活動も詳細に描いています。
ゼカリヤ書14章12節は、エルサレムに戦いを挑むすべての民に主が下される疫病です。
この前後は「その日」に起こるとされていますから、ここは終わりの日の艱難時代の預言で、エルサレムに戦いを挑む異邦の諸国民に主が下される裁きです。疫病・足も目も舌も腐るのです。
黙示録の9章1節の第五のラッパで、三つの災いとリンクするのでしょう。
ヨハネの黙示録9章1節の「一つの星」は、黙示録では星は天使を表しています。
ところが、この星が、「天から地上に落ちて」とありますから堕天使です。
天使が天から地上に落ちるのは、イザヤ書14章12節から15節の「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」、しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」を思い出します。
そうです、地上で暗躍する悪魔のなれそめです。
この「一つの星」が、イザヤ書14章に出てくるサタンなのか、それとも別の悪霊どもの長なのか分かりませんが、堕落した天使であることは確かです。
「地上に落ちて」に使われている動詞は、原語では過去完了形ということですから、すでに星は第五のラッパ以前に地上に落ちていたことになります。
ということは、この第五のラッパの描写は、その働きがすでに地上において、その影響力を発揮していることが象徴で示されていることになります。
これから起こることではないのです。
黙示録9章1節の「底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、」の「底なしの淵」は、口語訳では「底知れぬ所」と訳されています。
新改訳では、「底知れぬ穴」、岩波訳では、「底なしの深淵の穴」となっています。
なんとなく恐ろしい、不気味な穴であることが窺われます。
新約聖書では、「底なしの淵」は、「悪魔の住み家」という意味で用いられています。
ルカ8章31節には「悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」とあります。
黙示録11章7節、17章8節では、悪魔の手下である獣(悪魔に支配された地上の権力者のことでしょう。)が「底なしの淵」から出てくることが描かれています。
黙示録9章同節の「・・・開く鍵が与えられ」というのは、星で象徴される悪魔に底なしの淵を開く鍵が与えられたということでしょう。
「与えられた」という文体は、「神聖な受動態」と呼ばれているそうです。
ですから、主語は神だということです。
神がサタンに自分たちの巣窟となる「底なしの淵」に入る鍵を与えられたのです。
神に鍵が与えられたということは、悪魔も神の支配下にあるということです。
神は「底なしの淵」の鍵を悪魔に与えて、悪魔の活動が活発化するのを許されたのは、悪魔の働きを、悪魔の性質を終末において明らかにするためであるのと同時にその悪魔の働きによる災いの中で、神はわたしたちに救いの働きを示し、神の愛を示そうとされているのでしょう。
比較7.ヨハネの黙示録8章12節・13節の三つのわざわい(第五、第六、第七のラッパ)と旧約終末預言の関係
<ヨハネの黙示録の該当箇所>
- ヨハネの黙示録8章12節・13節(第四のラッパの災い)
〇12節.第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった。
〇13節.また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」
ヨハネの黙示録8章13節の「一羽の鷲」ですが、「鷲」と「天使」のギリシア語が似ているそうです。
ですから、「一人の天使」と訳してある聖書もあるそうです。
いずれにしても、天にいる霊的存在であることには間違いないでしょう。
「不幸だ、不幸だ、不幸だ」と三回叫んでいるのは、「三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」としていますから、残りの三つの災いが、初めの四つの災いよりも、なお深刻な事態をもたらすので、「一羽の鷲」が、その様に警告の意味で叫んだのではないでしょうか。
なお、このような事態は、現在の環境問題を思い起こさせるという見方があります。
この四つのラッパまでは、神に逆らう人たちに、それがイスラエルの人たちであれ、異邦の人たちであれ、その人たちに裁きが与えられました。
そこには悔い改めて,神のもとへ立ち返るようにとの愛と恩恵による警告が含まれていたでしょう。
ところが、残る三つのラッパでは、厳しい裁きのわざわいが増し加わって、歴史の終末に至る究極的な裁きへと進展していきます。
それは、人々がますます神から離れ、逆らい、罪が増し加わった結果なのでしょう。
その結果人々はさらに厳しい裁きを自らに招くことになります。
しかし、どれほど厳しい裁きであっても、患難も裁きもある意味神の恩恵です。
神の愛の表れです。
神に救いの意思がないのならば、患難を与える必要も裁く必要もありません。
神のもとに立ち還るチャンスをわたしたちに与えておられるのだと思います。
当然ですが、人間が創造されたのは、裁きのためではなく、神と愛の関係を結ぶためです。
それが神の最終的な御計画だと思います。
自由意志と人格の関係から生まれた本当の愛の関係を求めておられるのでしょう。
しかし、神は義であるがゆえに、人間が神との愛の関係を破るとき、約束(契約)違反となり、その報いを与えざるを得ないから七年の艱難があるという意見がありますが、わたしはそうではないと思うのです。
神はキリストを十字架で、契約違反の責任を人間に負わせるのではなく、すでに赦しておられるのです。
ですから、七年の艱難は、人間に悔い改めて神のもとに帰る機会を与えることが目的だと思うのです。
そこに神の愛が示されています。
その愛をあくまで拒絶すると(つまり、愛の関係を築く見込みが全くなくなったら)、わたしたちは自ら裁きを背負わなければなりません。
しかし、これほどの愛の裁きを受けながら、あくまで神を拒否する人間はいるのでしょうか。わたしはいないと思います。
そのことが、永遠の滅びとして、最後の裁きとして聖書に記されているのだと思います。
<旧約聖書の該当箇所>
- ヨエル書1章15節から17節(いなごによる荒廃)
〇15節.ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。
〇16節.わたしたちの目の前から食べ物は断たれ/わたしたちの神の宮からは/喜びも踊ることもなくなったではないか。
〇17節.種は乾いた土の下に干からび/穀物は枯れ尽くし/倉は荒れ、穀物倉は破壊された。
預言者ヨエルは、イスラエルにもたらされるいなごの災害のことを預言する中で、神の御霊によって「主の日」が近いことを預言し、主の日を「全能者による破壊」の日とします。
この「主の日」は、通常、ヨハネの黙示録で預言されている、終わりの日の7年間の艱難を指します。
その日を指し示す新約聖書の三か所を参考に上げておきます。
〇テサロニケ第一5章2節・3節「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」。
〇ヨハネの黙示録1章10節「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」
周りで起こっている出来事は、神がご計画として定められたこの期間(7年の艱難期間)に向かっていく一過程なのだ、と言っているのです。
- ゼカリヤ書14章12節(エルサレムの救い)
〇12節.これが、エルサレムに戦いを挑むすべての民に/主が下される疫病である。/彼らの肉は自分の足で立っているうちに腐る。/目はまぶたの中で腐り/舌は口の中で腐る。
ここはどういうことでしょうか。エルサレムに戦いを挑む異邦の諸国民に主が下される裁きです。疫病・足も目も舌も腐るのです。
- エゼキエル書30章1節から3節(エジプトの対する裁き)
〇1節.主の言葉がわたしに臨んだ。
〇2節.「人の子よ、預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。泣き叫べ、ああ、その日は災いだ。
〇3節.その日は近い。主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である。
神によるエジプトへの裁きの預言が続きます。
それぞれの預言に日付が記してありますが、17年間に為された預言を編集したものでしょう。
しかし、30章1-19節の預言には日付がありません。
第二預言と同じだとすれば第二十七年(前567年)であり、バビロニア王ネブカドネザルがエジプトに侵略した時の預言になります。
「その日」というのは、 「主の日」、つまり、世の終わりに世界全体に下る神の裁きの日のことを指すのでしょう。
なぜ、終わりの時の預言がエジプトの裁きの預言に入っているのかですが、この箇所は、あくまで、バビロンによって主がエジプトに裁きを下される預言ですので、エジプトの裁きの預言が、同時にその出来事が将来の最終的裁きを指し示すものになっているということでしょう。
エジプトが倒れることによって、その力に頼って同盟を結んでいた周りの国々も倒れますが、この姿が終わりを予め示す型となっているのでしょう。
具体的にエジプトの同盟国が列挙されていますが、最も痛手を被るのは、クシュ、つまりエチオピヤだということです。
地図では、スーダン、エチオピヤ、そしてエジプトの南の部分だということです。
それからプトは今のリビアで、リディアは紀元前7世紀にリュデイア地方で栄えた国家と言うことです。場所は、トルコの西の方と言うことです。
- エレミヤ書50章27節・51章60節(反キリストの滅亡)
〇27節.バビロンの雄牛を残らず剣にかけよ。彼らを屠り場に追い込め。彼らは災いだ。彼らの日、彼らの罰せられる時が来た。
紀元前539年にペルシヤのクロス王によってバビロンは滅びます。
クロス王は、被支配地に寛大な政策を行いますが、バビロンの王族の中から反抗する者が現れたので、当時の王ダリヨスがその反乱を鎮圧します。その時はバビロンの残党を容赦なく殺していきました。
〇51章60節.エレミヤはバビロンに襲いかかるすべての災いを一巻の巻物に記した。そこに書かれた言葉はすべて、バビロンに関するものであった。
バビロンは、反キリストを象徴しています。
比較8.イザヤ書34章5から6、9節、63章1から6とヨハネの黙示録19章13から16節(ハルマゲドンの戦い)
<旧約聖書の該当箇所>
- イザヤ書34章5から6、9節、63章1から6(エドムの審判、主の報復)
〇5節.天において、わが剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る/絶滅に定められた民を裁くために。
ここからは世界最終戦争(ハルマゲドンの戦い)の結果ですが、第一義的にはイザヤの時代のエドムにもたらされるのです。
エドムは、死海の南西の部分で、モアブはエドムの北にあります。
死海の東の地域一帯が、終わりの日の主と世界の反キリストの軍隊の戦場となるのでしょう。
〇6節.まことに、主の剣は血にまみれ/脂肪を滴らす。小羊と雄山羊の血にまみれ/雄羊の腎臓の脂肪を滴らす。主がボツラでいけにえを屠り/エドムの地で大いなる殺戮をなさるからだ。
〇7節.野牛は彼らと共に倒れ/子牛は雄羊と共に倒れ/彼らの土地は血に浸され/その土地は脂肪を滴らす。
主は世界の反キリストの軍隊が、死体となって転がっているのを動物のいけにえに例えておられます。
〇8節.まことに、主は報復の日を定められる/シオンにかかわる争いを正すための年を。
この戦いは主の報復であって、それは「シオンにかかわる争いを正すため」であるのです。
なぜこのようにエドムが滅亡するのかと言いますと、エドムは、ヤコブの兄エサウから出た氏族の総称であって、イエスを殺そうとしたヘロデ大王もその氏族の一人です。
エドムはエサウの弟ヤコブの子孫を憎み続け、その執念深い恨みには冷酷さがあります。(詩篇137篇7節参照)
ここはそのシオン(イスラエル)の民の訴えが叶えられ、復讐の時が来ることを預言しているのでしょう。
「報復の日」とは、エルサレムがバビロンのネブカデネザルによって破壊された日のことを指しているのでしょう。
なぜならば、その時、エドムはエルサレムを何度も略奪したからです。
エドムは、神の究極的なさばきの代表とも言えます。
〇9節.エドムの涸れ谷は変わってピッチとなり/その土は硫黄となる。その土地はピッチとなって燃え上がる。
- イザヤ書63章1節から6節(主の報復)
〇1節.「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き/勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ/大いなる救いをもたらすもの。」
「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。」とあります。「赤い衣」は、キリストの十字架の姿とする見方がありますが、「エドムから来るのは誰か。」という言葉がありますから、それは終わりの日に来られる地上再臨のメシアが「ボツラ」において神の民の救いために反キリストの軍勢と戦って、身に降りかかった血によるものだと考えます。
終わりの日の「ボツラ」は、イスラエル人が反キリストの軍勢から逃れて隠れた地です。
それで、ボツラのイスラエル人を根絶しようとエルサレムからボツラに進軍した反キリストの軍勢に復讐して帰ってくるキリストを「ボツラから赤い衣をまとって来る」と表現しているのでしょう。
なお、「ボツラ」はエドムの首都で、エドムはイスラエルよりも弱い国でした。
それでも、イスラエルが弱った時には、もともとイスラエルには屈折した憎悪をもっていましたので、必ず攻撃してきたそうです。
なお、「エドム」はエサウの子孫ですが、「血」を意味し、エドムの主要都市である「ボツラ」は「ぶどうを摘み取る」ことを意味するそうです。
そのぶどうを摘み取って、ぶどうの酒ぶねを踏むことで着物が赤くなることと、戦いで血のしたたりがふりかかることを重ね合わせているのではということです。
エドムの場所ですが、死海の南方にある地域で、聖書では常に神の民イスラエルに敵対する民族として登場しています。
それはエドムの祖先であるエサウが、神の特別の祝福である長子の権利を、一杯の煮物と引き替えに双子の弟ヤコブに売り渡してしまったからです。
それで兄が弟に仕えることになってしまいました。
そのためにエサウはヤコブを憎むようになったのです。
その子孫であるエドム人は常にイスラエルに敵対する者として存在するようになってしまったのです。
〇2節.「なぜ、あなたの装いは赤く染まり/衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
〇3節.「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ/憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び/わたしは着物を汚した。」
〇4節.わたしが心に定めた報復の日/わたしの贖いの年が来たので
〇5節.わたしは見回したが、助ける者はなく/驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により/わたしを支えたのはわたしの憤りだ。
〇6節.わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり/わたしの憤りをもって彼らを酔わせ/彼らの血を大地に流れさせた。
神の終末におけるマスタープランの中での「ボツラ」は、イスラエルの悔い改めの場所とされています。
キリストの地上再臨はエルサレムのオリーブ山ですが、それまで再臨されたキリストは、反キリストと戦われますが、その戦いの場所として重要なのは、有名なハルマゲドンの戦いの舞台となるイスラエル平原、エルサレム、ボツラだということです。
ここで終わりの日のキリスト再臨以降の出来事を黙示録で順を追って纏めてみます。
反キリストによる大患難期の終わり頃に、反キリストは神の民を破滅させるために、世界中からメギドの山の麓にあるイズラエル平原に軍隊を集結させます。
この後、反キリストの軍勢は南下しエルサレムの町を包囲して崩壊させますが、すでにユダヤ人たちはエドムの「ボツラ」に退避しています。
そのボツラにおいて、イスラエル人たちは「恵みと哀願の霊」が注がれ、悔い改めて、民族的な救いを経験します。4節の「わたしの贖いの年が来た」が、そのことを言っているのでしょう。
イスラエル人たちを根絶しようとエルサレムからボツラに進軍した反キリストの軍勢に復讐しているのが1~6節に預言されているメシアの姿です。
全世界から集まった反キリストの軍隊によってイスラエルは全滅の危機に瀕し、荒野に逃げる人もいれば、またエルサレムに残る人もいます。
反キリストの軍隊は、荒野に逃れたイスラエルの民を完全に滅ぼそうと戦いに出ます。
その時に天から地上再臨されたメシアが、彼らに戦われます。
そして戦いはエルサレムにまで及びます。
ヨハネの黙示録19章14節にハルマゲドンの戦いの時、「そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。」とあります。
ハルマゲドンの最後の戦いは、ヨルダンからイスラエル一帯で繰り広げられ、イスラエルと神ご自身に敵対する者ども、反キリストの世界の軍隊をことごとく滅ぼされるのです。
不利になった反キリストの軍勢は再びエルサレムに引き返しますが、エルサレムのヨシャパテの谷で最終的な敗北を喫します。
その時、彼らが流す血を6節で「彼らの血を大地に流れさせた。」と簡単に書いていますが、ヨハネの黙示録14章19から20節は「そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。」と表現しています。
なお、「ボツラ」という名称は「ぶどうを集める」ことを意味し、それを主が「地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた」と表現し、そして、押し潰し、ぶどう汁が「搾り桶から流れ出て」くるように、主が彼らを踏み潰すと予告されているということです。
その後、再臨のキリストは栄光の王としてエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立ちます。
ゼカリヤ書14章4節に「その日、主は御足をもって/エルサレムの東にある/オリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け/非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。」とあります。
オリーブ山は、その真ん中で「東と西に半分に裂け」て非常に大きな谷ができますが、これは大地震によるものでしょう。
これによってエルサレムは世界で最も高い山となるそうです。
そこを中心にして、メシア(キリスト)による統治、千年王国が樹立されます。
おそらくそこに第四神殿も立つはずです。
<ヨハネの黙示録の対象箇所>
- ヨハネの黙示録19章13から16節(白馬の騎手)
〇13節.また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
「血に染まった衣」は、イエスが十字架で流された血潮というよりも、敵対する軍隊を倒されるときに飛び散る血を指すのでしょう。イザヤ63章1節から6節「主の報復」の成就のことでしょう。
その名は「神の言葉」と呼ばれたとは、ヨハネの福音書1章1節から3節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」、そして、同14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」に対応しているのでしょう。
天地が創造されたときは、「光よあれ」という神の言葉によって造られましたが、今、同じ神の言葉をもって、敵対するものすべてを滅ぼされるのです。キリストは裁き主です。
〇14節.そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。
「天の軍勢…白く清い麻の布をまとった」の「天の軍勢」は「白く清い麻の布を」来ていますから、キリストの花嫁でしょう。
それも、真のキリストの民、すなわち、すでに召されてキリストのもとにいる聖なる者たちと天使のことでしょう。
キリストの花嫁が、キリストに率いられて獣と偽預言者(20節)と戦います。
「白い馬」は、戦いに勝った将軍が乗るものです。一時的な存在で、平和をもたらす人気者として現れるのでしょう。
〇15節.この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
キリストの口から「鋭い剣」が出ているは、御言葉によって諸国の民を打ち負かすということでしょう。
この「諸国の民」とは、最後まで神を信じることなく、最後まで悪魔に組みした不信者のことでしょう。
〇16節.この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
「王の王、主の主」のギリシア語でも英語でも、王も主も大文字はすべて大文字で書かれているそうですから、主の栄光の完全な現われを表しているのでしょう。
- 比較
イザヤ書34章5から6、9節、63章1から6とヨハネの黙示録19章13から16節が対応しています。
この箇所は、有名なハルマゲドンの戦いの箇所です。
すなわち、天の軍勢が獣(反キリスト)と王たちの軍勢との最後の戦いの場です。
ハルマゲドンという地に軍勢が集まるので、その名がつけられたのでしょう。
この戦いはヨルダンのボツラで行われるようです。
反キリストである獣、そして、偽預言者もとらえられ地獄に送りこまれます。
それ以外の者は、キリストに剣で切り殺され、鳥の餌食になります。
これをもって、7年間の艱難時代は終わります。
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