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2025年10月 1日 (水)

なぜこの世界があるのか(3)

なぜこの世界があるのか(3)
<悪魔にも自由意志があるのか>
悪魔には、自由意志はあるのか、悪魔は天使(自由意志はない)が変質した存在ですから、自由意思はないと思います。神の許しのもとでしか何もできない存在です。

 

神はその悪魔の働きを止めないで、自由にさせておられる。
悪魔が人間の自由意志を利用して神から離れて自分に従うように誘惑するが、それによって、人間はますます神から離れて、何が真実かもわからず罪の中をさまよう。この世は人間が神から離れることによって、派生する行いの罪が蔓延するようになる。

 

 

 

そのような現状を見ても、神は悪魔の働きを止めようとはなさらない。・・・
それはなぜか、

 

神が悪魔の働きを妨げない理由として考えられるのは、一つは、それが「人間に与えた自由意志を侵害する」ことになるからでしょう。
聖書を読めば、神は私たちが自分の子供を愛するように人間を愛しておられます。ご自分が創造した人間ですから、それは当然のことだと思います。

 

何かを創造する場合、そこには必ず目的があります。
神は目的あってわたしたちを創造し、このような世界を造られた、いや、このような世界になることを創造の前からご承知のはずです。
神が被造物である人間に自由に生きる権利を与え、もちろん、自己中心に生きる自由も与えています。

 

ということは、それを許された神ご自身の自由がその分逆に制限されることになりますが、神は人間を愛するゆえに必要があって、目的があってそのようにされたのです。

 

もちろん、神は人間に自由に生きる権利を与え、自己中心に生きる自由も与え生きるようにされているが、神は同時に人間に良心を与え、良心に従い生きるようにもされているのです。
その中で葛藤しながら生きることが、神が求める人間の創造には必要なのでしょう

良心でもって生きる上の指針というか、同時に何が大切かも教えておられるのです。
しかし、人間は良心を持っていると言っても、自己中心に、自由に生きることの誘惑には勝てないのです。
おそらくそのことも神はご存じで、創造の目的の一環なのでしょう。

 

人間は自由を制限する良心より、(欲)思いのまま自由に生きることを望みます。
もし、人間が良心に従い、聖書に書かれた神の言葉を完全に守るならば、この世界はもっと素晴らしい世になっていることでしょう。
しかし、神はそのような人間社会を望んではおられないようです。

 

人間には(自由意志とか、自己中心的な思いから派生する)悪い心も備わっていますから、理想的な世界になるとは思いません。
理想的な世界を求めるならば、やはり神(創造主)と共に生きる人の心が必要でしょう。

 

以上を鑑みると、神は愛ゆえに、創造の目的ゆえに、必要があってご自分の力の行使や活動の範囲を制限されることをも容認されていると言えます。

 

それは神が被造物を創造された目的であり、また、人間を愛するゆえであり、聖書は最終的にそのような人間の経験を益にして私たちのために用いてくださると言っています。

 

でも、神は悪魔の働きをもう少し制限してくだされば、もう少し良い社会を私たちは築けたかもしれません。
悪魔も神の被造物ですから、神の承諾がなければ何もできないのです。だから、悪魔の働きをもう少し制限することができるはずです。

 

人間に与えられた試練の理由で、もう一つ考えられるのは、悪魔を含めた被造物の罪を神の忍耐の限界まで至らせることが目的なのではという見方です。

 

試練は、神が目的とされる新しい人間の創造に不可欠で、そのためには人間の罪が創造の目的を達するに必要な段階まで満ちるのを待っておられると言うことです。聖書は、神の人類救済計画を告知しています。

 

そして、最後の最後に人間の救いに介入されるのでしょう。
と言っても、神は正義の神、義の神ですから、人間の罪をそのまま放置して許してはいただけません。

 

キリストの十字架で、人間の罪(原罪)を赦しておいて行いの罪の裁きはこの世の終わりにすべての人間に対して、最後の審判としてなされます。(ヨハネの福音書20章)

 

ヘブライ人への手紙9章27節には「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」とあります。
この言葉は、「人間には」ですから、全人類(キリスト教徒もそうでない人も)に対して言っているのでしょう。

 

<ヨブ記でみた神様と悪魔>
ここで新しい人間の創造に大きな役目を、影響を与える悪魔その者について、そして、神と人間との関係について考えてみます。
最初、サタン(悪魔)はルシファーという天使であったと聖書は言っています。

 

エゼキエル章28章15節で、神は悪魔のことを「お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見出されるようになった。」と言っています。

 

なお、悪霊(悪魔は天使長)誕生の経緯ですが、神は悪霊(悪魔)を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありません、
悪魔となった天使長は天使ですから、神に逆らえない(神に逆らって何もできない)のですが、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい」と思うようになり、部下の天使に命じて王国を造ろうとしたのです。

 

天使も霊的存在ですから、神から離れると神からくるいのちの霊(エネルギー)を吸収することができなくなり、天使長は変質し、悪魔となるのです。

 

悪魔になった天使長は部下の天使の内三分の一を配下に置きました。それが悪霊です。

 

イザヤ書14章12-15には悪魔の顛末が、「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」と記されています。

 

悪魔は、神の創造のご計画を無視し、同じ神の被造物である人間を言葉巧みに唆し、神から離反させ、罪(神から離れて自己中心に生きること)へと誘ったのです。

 

悪魔は人間に神の真を違って教え、罪にさそい、今もその働きは続いています。
神は、そのような悪魔をすぐには処罰しないで泳がせておられます。

 

2000年前のイエスの十字架刑の背景には悪魔の働きがあったのですが、その出来事でもって悪魔の罪状は明らかなのですが、それからも神が悪魔を自由にさせておられるのは、悪魔にも自由意志があるからと言えますが、やはり、その悪魔の働きが新しい人間の創造にとって必要なことなのでしょう。

 

このように神は悪魔に人間社会の中で自由にふるまうことを許されたのですが、一定の制限も設けられています。それはヨブ記にあります。

 

ヨブ記1章12節には「主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。」です

 

この12節の前に、ヨブ記1書11節には、悪魔の「ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて(ヨブの財産を失わせる)ごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」という神に対する主張に対して、神はその主張を退け、12節の言葉となるのです。

 

神は、「彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」と、制限を設けて悪魔の活動を許されたのです。

 

なお、わたしはここで悪魔とか天使の存在を当然のように書いていますが、わたしは事実悪魔とか悪霊、天使が存在すると思っています。
天使とか悪魔・悪霊は、通常は人間の目には見えませんが、ときにはいろいろな姿で人間の前に現れるそうです。

 

創造主とか霊界(来世)の存在を信じるならば、それらの存在を否定する理由はありません。
それにこの世界には理解できない不思議な現象が多すぎます。

 

この世界、人間を含めた天地万物も、信じられないほど細部にわたり見事に秩序だった世界です。見事です。
このような仕組みは、適者生存という進化論では、絶対にできません。背景に、人間の能力をはるかに超えた存在がおられ、創造されたとしか思えません。

 

全知全能の神は、ご自分の創造のご計画の中で人間には試練が必要とされている。そして、ヨハネの黙示録22章12節で御子イエスは、「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。」と宣言され、そしてご自分のことを、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」と告知されています。

 

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