なぜこの世界があるのか(1)
なぜこの世界があるのか(1)
<創造主の存在>
ヨハネの黙示録は、21章の新しい天地の創造(そこに住む新しい人間の創造)で終わっています。
わたしは、その新しい天地に住む新しい人間の創造のためにこの世界があると思っています。
そういう意味で、聖書が告知するキリストの福音は、神の新しい人間の創造のご計画の中での罪から離反した人間の救済の言葉となります。
新しい天地に住む新しい人間の創造の目的に沿った人間は、人間の自由意志が守られたうえでの神への帰依(愛)が必要なのです。
最初に記しておきますが、創造主である神がおられるから、この世界に希望がある。創造主がおられなければ裁きもなく、来世はなく、希望はなく、死ねば終りですから、この世界はやりたい放題、弱肉強食の世界、秩序なき世界になります。
今の世界はそのような状態に近いのです。
進化論者が言われるように、万物は偶然に発生し、人間も長い年月を経てアメーバーから進化して現在のようになった言う仮説の世界はそういう世界です。
そこには神の摂理(創造主である神による被創造物への計画・配慮)も良心もない、自己愛はあるが隣人愛はない。もちろん、正義もないから希望もない生きるための本能むきだしの弱肉強食の世界です。
進化論者のいう適者生存で進化(変化)してきた世界がそのような世界なのです。
神の摂理とか良心とか隣人愛(隣人を自分のように愛する)は、創造主がいなくてどうして生まれるのか知りたいと思います。
創造主の存在は、人間を含めたこの天地万物を見て、それが摂理によって見事に運行されているのをみれば疑う余地はありません。
例えば、この人体ですが、詳しくは書きませんが、このようなものが自然にできるでしょうか。私たち人間には、骨が何本あるのでしょう?
色々な種類の食べ物の味をどうやって区別できるのでしょうか。
心臓と脳細胞は生涯再生しないし、皮膚細胞は一年もすれば再生するそうですが、それらは人間が生きていくことに必要があってのこと、誰がこの人体の仕組みを考えたのでしょうか。
参考にフランスの比較解剖学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンチレールを評した言葉を記しておきます。
副題を「神は細部に宿る」とし、ジョフロワは、「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られると考えました。ゆえに自然は新しい器官を作ったりしないのです。すべては基本形の修飾によって生じます。これを言い換えれば、第一にあらゆる生物は、同種の構成要素からなること、第二にこれらの要素の組み合わせ方、つまり設計は同じだということです。・・・」
「すべての生物は唯一の基本設計の上に作られる」ということは、唯一の創造主がおられるということでしょう。
ネットで検索するとDNAについて、「それは、一人のヒト・一匹の動物・一本の植物など一つの個体では、どの細胞にもまったく同一のDNAが入っているということです。つまり、まったく同じゲノムが含まれています。
例えば、筋肉の細胞・神経の細胞・皮膚の細胞では、見た目も機能も全く違いますが、その中にある遺伝子はすべて共通しているということです。」と検索されました。
明らかに唯一の創造主がおられることを表しています。
人間を含めた天地万物は、自然発生的に偶然に生まれたのではないのです。
それではそこでよく問題になるのが、創造主がおられるのならば、この世を生きるのになぜ試練があるのか、ということです。
聖書は、創造神を愛の神とし、御子イエスは人間の罪を七の七十倍(いわゆる無制限に)許しなさいとも言っておられます。
試練と自由意思との関係は、悪魔との関係は、そして、何でもありの世界と神が悪を放置されている理由を考え、最後にヨブ記を読んでみたいと思います。
<希望と試練>
聖書は、この世界は悪魔という存在が跋扈していることを教えます。
その悪魔の働きもあって、人間がさまざまな試練を経験するのは、新しい人間の創造のために不可欠であるからという見方があります。
それでは、その試練の原因が本人に原因がある場合はまだよいのですが、先天的病気、精神障害、いや、障害にいたらなくても精神的にその試練に耐えられない人の場合もあります。
差別とか迫害、無慈悲な殺人もある。その上この世界は、不条理で不公平極まりない。これなどは誰も否定する方はおられないでしょう。
試練の原因は、生まれ育った国、家族など本人の責任によらない原因による不幸、とても試練とは受けとれない人的あるいは自然災害などがあります。
時には自殺に至るような絶望の淵に立たされることもあります。
それらは人によりまちまち、どのように考えればよいのでしょうか。
わたしたちは、それらの試練に耐えるために、絶望しないために根拠のない希望を持ち、試練にはさまざまな理由をつけて必死に立ち向かい生きています。
でも、この世界の艱難辛苦が、試練でしたら希望があります。
艱難辛苦が試練であるためには、この世界の創造主の存在を認める必要があるのではないでしょうか。
そう、この世界は創造のご計画のもとにすべてが成り立っているという意味です。
もし、この世界の創造主がいないならば死んでしまえばすべてが終わり、来世はなく、救いもなく、同時に希望も無くなります。
この世界は、やったもん勝ち、それこそ地獄です。
そうですね、神の摂理(創造主である神による被創造物への計画・配慮)もないのですから、無秩序な世界になります。
また、創造主がおられるとしても、あまりに試練が厳しければ絶望に追いやられ、二度と立ち直れない場合もありますが、そのような場合は、この世の艱難辛苦は試練だと言っても何の意味もありません。
創造主がおられるならば、人間が移動に便利なように車を作るように目的がなく人間を創造することなど考えられません。
人間を含めた万物は目的があって作られていることになります。
しかし、争、虐待、自然災害、パンデミック、その他ありとあらゆる本人の責任によらない苦しみは、苦しみの理由としては決して納得いくものではありません。理不尽であることには間違いありません。
わたしはこの世を生きるうえでの患難辛苦は創造主による試練だと思っています。だからそこに希望があるのです。
<試練はなぜ必要か>
さて、聖書は、神は人間に自由意志を与えたと書いています。
神は人間に自由意志を与えたが、人間はその自由意志を濫用して、わたしから離れて自己中心に生きている、その結果がこの悲惨な現状を生んだと言っているのです。
反面、聖書はそれらの試練をわたしたちの益にして新しい人間の創造のために用いるとしています。
神はこの世界が終わった後に新しい天地を創造し、そこで生きることができる新しい人間を創造するために人間を、この世界を造ったのです。
そういうことであれば、この世界で起こっていることのすべては神の創造のご計画の中での出来事と言えます。
自由意志が人間に与えられているのは、新しい人間を創造するのに必要であるからでしょう。
言い方を変えれば、神は人間を愛されているからと言えます。
本当の愛が育まれるためには、強制された愛ではだめ、そのような愛は神が求めておられる愛ではないのです。
神が求めておられる愛は自由意志の中ではぐくまれたご自分を求める愛なのです。神はロボットを求めておられません。
つまり、神は自由意志の中で愛のある関係を人間と育むことを求めておられるのです。
だから神はご自分に似せて人間を創造されたのです。神と交流ができる霊的な存在として創造されたのです。
また、人間は不完全で自由意志をもって生きていますが、希望をもって生きるように設計されていますから、失敗とか過ちを繰り返し少しずつ成長すると思うのですが、ヨハネの黙示録などを読むと、人間は自分の力ではなんともできないで、最終的に神の介入によって救済され新しい天地と共に新しい人間に造り変えられます。
この世界が神のご計画と目的をもって創造されたのならば、神は万能のお方ですから、必ずご計画通りになるはずです。
神は、決して目的があって計画に沿って造ったものが滅びることを望んでおられるとは思いません。
神は創造のご計画を成就させるために御子イエスをこの地上世界に送り、御子イエスの命をもって人間の罪を贖い、御子イエスの福音を信じた者に三位一体の三位格である聖霊を助け手として内住させ、ご自分との交流を回復し、創造の本来の目的である永遠に生きる存在にすると言っておられます。
人間に与えられた自由意志によって、当然ですが、人間は神のように万能ではありませんから、悪魔がそこに付け込み誘惑し、そのことで苦しむこともあります。
でも、そのことも神のご計画の中で、そのような事態を用いてその人間のためになる、すなわち益としてくださるのです。
そして、それは愛をはぐくむための糧ともなります。
キリスト信仰でよく問題になるのが、原罪(的外れとも言います。神からの離反)です。
原罪も自由意志がなせる業です。
人間は悪魔にそそのかされて、その与えられた自由を誤った用い方(神から離反して自己中心に生きることを選んだ)をしたので、人間社会は今のような悲惨な状態になったのだと思いますが、しかし、それでもその人の責任によらない試練とかその人の責任を超えた理不尽な試練はどうなのか、もう一つ納得できません。
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