なぜこの世界があるのか(2)
なぜこの世界があるのか(2)
<悪魔の存在と試練の関係>
わたしたち人間は目に見えることしかその存在を信じないところがありますが、聖書は、霊界があり霊的存在がいることを当然として書かれています。
悪魔・天使・悪霊・人間も霊的存在で、この肉体を持った人間の体は仮の住まいです。もちろん、創造主である神様も霊的存在です。
この目に見える世界の外に霊界があり、その霊界がこの世界の本体なのです。
それでは、聖書が描く世界観を見てみたいと思いますが、その前に念を押しておきますが、悪魔とか悪霊は天使が堕落した存在ですが、その行動を神は新しい人間の創造のために必要があって許されていると受け止めたいと思います。悪魔も悪霊ももとは天使ですから、人間と同じように神が創造された被造物です。
また、悪魔とか悪霊は天使ですから、人間のように自由意志がないので神の許しがなければ何もできません。
聖書には、天では戦いがあると書いてあります。
ヨハネの黙示録12章7節・8節「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所はなかった」です。
ミカエルとその御使たちが、竜と戦っているのです。
竜は、9節で「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」とありますから、竜は悪魔とかサタンとか呼ばれるものを指していて、この地上(宇宙)に投げ落とさたことがわかります。
それでは、神の御使いであるミカエルと悪魔との戦いの根本原因は何でしょう。
そのためには悪魔とは何かを考える必要があります。
悪霊(悪魔は天使長)誕生の経緯ですが、神は悪霊(悪魔)を作れませんから、神が悪霊を造ったのでありません、
悪魔となった天使長は天使ですから、神に逆らえない(神に逆らって何もできない)のですが、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい」と思うようになり、部下の天使に命じて王国を造ろうとしたのです。
天使も霊的存在ですから、神から離れると神からくるいのちの霊(エネルギー)を吸収することができなくなり、天使長は変質し、悪魔となるのです。
悪魔になった天使長は部下の天使の内三分の一を配下に置きました。それが悪霊となるわけです。
神が人間を創造され、人間が、テモテへの第一の手紙2章4節では、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあり、同時に、他の箇所では救われない人もいると述べています。
ヨハネの福音書3章18節には「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」です。
「裁かれている」ですから、神が何もしなくてもその人は自分で自分をすでに裁いている、最終的な死後の行き先を決めているということでしょう。
つまり、神は「すべての人を救いたい」という強い思いをお持ちですが、ご自分を信じないでご自分から離反している人は救えないのです。
神を信じない人というのは、ご自分と繋がっていない、ご自分を拒否する人間のことで、そういう人は救いたくても救えない。つまり、神の命の霊を注げないから神にはどうしょうもないのです。
また、神の働き手である聖霊をその人に内住させようと思っても、神を拒否する人には聖霊を内住させることができないので、その人を救いようがないのです。
そういう人は神の創造のご計画の外で生きている、すなわち、自分の死後の行き先(地獄行き)を自分で決めていることになりますから、すでに裁かれているのです。
聖書には、「神にできないことは何一つない。」とも書いてありますから、その神の恩恵に与るためには、そういう人を含めて、神の思いであるすべての人が救われるためには何が足らないのか。
それはすべての人が自由意志で神を求めるようになることなのです。
人間が自分の意思で神を知り、神と繋がり、神を愛するようになることです。
そうすることで、神の御霊聖霊がその神を信じる人に内住され、その人は新しい人間に造り変えられ、神の願いは成就するのです。
そう、新しい天地に住む新しい人間の創造です。
神は全能ですから、無理やり人間を救うことができますが、もしそれをしたならば、神と人は本当の愛の関係にならないから神は望んでおられない。
人間はロボットと同じ、そうすると、神が人間を造った創造の目的が達成できなくなるのでしょう。
そういう人間は、神が望んでおられる創造のご計画から自ら離れてしまっているのです。
神は、人間が一人も滅びることなく、すべての者が自由意志でご自分を愛し、悔い改めに至ることを望み、この世においてもあの世(陰府)においても、何度も機会を与え忍耐して待っておられるのでしょう。
ですから、この人生の艱難辛苦は、創造の目的を達成するに必要なことであると同時に、そのことで、人間が神を知り、神を愛するようになることを期待しておられるのでしょう。そう、忍耐強く、何度のチャンスを与えて待っておられるのです。
ペトロの第二の手紙3章9節に「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」とあります。
わたしたちは被造物です。だから創造主である神のことは分からないし、神に教えてもらわなければ、わたしたちはどこから来て、なぜ存在するのか、なぜ生きているのか、死ねばどうなるのか、何もわからないのです。
それに被造物であれば、創造主の創造の目的に沿って生きることが最も幸いであるはずです。
テレビは人間の被造物ですから、テレビは創造の目的に沿って人間のために働かなければ何ら存在する意味もありません。
もし、その創造主である神の存在を認めなかったら、わたしたちは、この世界の真理も知らず、神の言葉である福音も知らず、神の創造のご計画から外れたまま生きることになり、そのような人間で構成された社会は、愛が廃れ、自己中心に生きることが優先され、不条理がまかり通る社会です。そこには夢も希望もありません。
まさに今の世界はそのような世界で、神を知らない又は否定する人間と神を認めていても自分を優先する人間が神を認め神の言葉を守り生きている人間よりはるかに多いので、このような世界になっているのでしょう。
人間は何も知らないで自己中心的性格の上に自由意志を与えられて生きています。
そのような人間社会に神は悪魔を自由に泳がせ放置されているのです。悪魔は、人間を唆し神から離し、自己中心に生きるように誘導しています。
ですから、その結果は決まっています。
このように人間は、悪魔のように根っからの悪ではありません。
悪魔も神の被造物ですから、人間と同じです。そして、悪魔も同じこの世界で神に背いて生きています。
違うところは、悪魔は本質的に、すなわち、神が創造されたこの人間世界を自分の支配下に置こうとしているが、人間は悪魔に神から離反することが何たることかを知らないでそそのかされて本来の自己中心的な性質もあり、自由意志も備わっているので自己中心に生きることを選んで多くの人は神の存在を否定、あるいは知らないで生きているのです。
しかし、人間は本質的に悪(確信犯)でないから、そこに救いのチャンスがあるということです。
人間は、悪魔と違って根っから悪ではありません。悪魔に騙されているだけなのです。
また、ヨハネの黙示録12章9節に「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」とあるように、神はこの地上に「悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者」を投げ落とし、その中にエデンの園を造り、人間を創造し、何も知らない無垢な状態のままの人間を置いたのです。
ですから、神は人間が悪魔にそそのかされて今のような悲惨な状態になるのをご存じで、つまり、このようになることは創造のご計画の中に組み込まれていることとなります。
つまり、悪魔も新しい人間の創造という神のご計画にとって必要だから放置されているのです。
それはすべて万能の神のご計画ですから、この世界で人間が体験すること、なすことのすべてが新しい人間の創造に必要なことだと言えないでしょうか。
どのような無駄に思えることでも、神は益として新しい人間の創造に用いてくださると思うのです。だからそこに希望があるのです。
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