フォト
2026年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

« 古い契約と新しい契約(1) | トップページ | エゼキエル戦争(1) »

2025年4月 7日 (月)

古い契約と新しい契約(2)

1804.古い契約と新しい契約(2)(おじさんの聖書)
<全人類との新しい契約>
新しい契約(または新約)は神が全人類の罪を赦して、神と共に歩む人々と交わりを回復するという神と人間との約束です。
イエス.キリストが新しい契約の仲介者です。そして十字架上でのキリストの死と復活がこの約束が成就した証です。

 

<罪の赦しと救い>
神が全イスラエルの残りの者と終わりの日のその日に結ばれる「新しい契約」は、31章34節の後半の言葉では、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」という「罪の赦し」と「救い」が語られているのです。

 

これこそが、神の憐れみによる徹底的な「赦し」であり、まさに神の「無条件の愛」の表れなのです。
その神の愛が「新しい契約」で、終わりの日のその日、おそらくキリスト地上再臨の前に全イスラエルの残りの者と実現するのです。

 

 

このように「新しい契約」は、神の愛、神の憐れみによって、神を裏切り続けてきた全イスラエルの民に対して終わりの日のその日に実現し、神から離れ、他の神々のことを思い続けてきた、私たち異邦人に対してはキリスト降臨により約2000年前に結ばれ実現したのです。

 

イエスは、十字架の上にご自身を捧げる時に、新しい契約がはじまることを告知されました(マルコ14章24-25節)。

 

「新しい契約」は「古い契約」に対するものですが、その古い契約は、出エジプトの後、荒野のシナイ山で結ばれたのですが、その主目的は、神は全人類救済計画の担い手としてのイスラエルの民を選び、神の民としての教育のために「古い契約」、即ち「十戒」と「契約の書」(出エジプト20章)を定め守ることを命令しましたがイスラエルの民はそれを守らない、いや、守れなかったのです。(エレミヤ書11章1-8節)。

 

歴史書である旧約聖書の申命記から列王記下までには、イスラエルが終始一貫して、契約のその条項を守れなかった理由と、どのようにして、イスラエル王国とユダ王国が主の裁きを受けたのかを記録しています。

 

このように、イスラエルが神の選びの民として、常に問われた問題は、律法に対する服従でした。
なお、イスラエルが律法を守らなかったということですが、調べてみると、多くの聖書記者は、イスラエルの信仰にとって最大の危機を造り出したのは、イスラエルが律法に守らなかったというより、従うことができなかった点にあるとしています。

 

それについて、エレミヤは13章23節で「クシュ人は皮膚を豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも正しい者となりえよう。」と表現しています。

 

この31章23節の解釈は、クシュ人がその皮膚の色を変えることができず、豹がまだらの皮を変え得ないように、神から離反したイスラエルの民の心は悪に馴らされており、もはや正しい者として、律法を行うことができないというものです。

 

ということは、イスラエルの民が自力でこの現状を変え得ないならば、神の恩恵によらない限り、彼らが再び正しい者として歩む可能性は閉ざされたままであるということです。

 

そこでエレミヤは、31章33節で主の言葉を明らかにしています。
それは最終的には半強制的に全イスラエルの残りの者を救うという約束です。

 

「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」です。
(参考箇所、エゼキエル書36章26-27節)

 

もちろん、そのような事態が実現するのは、異邦人への福音伝道、すなわち、異邦人は福音を聞き、神を求めると聖霊が内住しそのような状態になるのですが、全イスラエルの残りの者の救いはキリスト地上再臨の前に実現するものと思うからです。

 

それから、異邦人の残りの者は、最終的に全イスラエルの残りの者によってなされる福音伝道によって救われるのです。
もちろん、全イスラエルに霊が注がれたのち、全異邦人にも霊は注がれます。

 

それは、マタイの福音書20章16節に「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とあるからです。
その方法は、神はそのシナイ山で締結した「古い契約」(律法)をつくり直そうとはしないで成就する、すなわち、その律法を「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」とし、民の心の中に刻み込む、という方法による一方的な恵みを示されたのです。

 

こうして、やがて神は終わりの日のイスラエルの(福音伝道で救いに与っていない)残りの者に一方的に恵みにより律法に服従する意志と能力の両方を授けられるので、その時には、神の民のひとりひとり、全員が神を知るようになり、自由な意志によって、自発的に神を愛し、神に服従するようになる、のです。

 

それによってイスラエルの民に31章34節のような変化が起こることが明らかにされています。

 

それは「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」です。

 

ですから、律法を伝えたり、解釈したり、訓示することもいらなくなるのです。
そのような日が、終わりの日のある時に到来するのです。

 

そのような事態は、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」という一方的な赦しの言葉と共に預言されています。

 

ですから、全イスラエルの残りの者が本当に神を知るようになるのは、悔い改めてそのようになるのではなく、悔い改めることができない彼らに、神は恵みにより一方的に罪の赦しを宣言し、律法に服従する意志と能力を持つ心を彼らの中に植え付け、すべてのものが神を「知る」ように変えられるのです。

 

その新しい契約が先に具体化した新約聖書の「新しい契約」の箇所は、コリントの信徒への手紙第一11章25節「また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」とルカの福音書22章20節「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」です。

 

このようにイエスは、「新しい契約」をご自身の血による罪の贖いと恩恵に結び付けて明らかにされています。
この「新しい契約」の対象は、イスラエルの民を含む全人類です。

 

ただし、その契約が成就するのは、福音伝道によるという条件付きですが、異邦人が先でイスラエルの残りの者はそのあとになるのでしょう。(マタイの福音書20章16節)

 

この約束の言葉は、同時にシナイ契約(古い契約=モーセ律法)の終わりを示し、神の人類救済のご計画の歴史が新しい時代を迎えたことを告知しているのでしょう。

 

イエス・キリストによる一方的な恵みによる罪の赦しによって、全人類に対する新しい救済時代が到来したのです。
とすれば、先に、神が全人類救済のご計画の担い手としてイスラエルを選び、神の民としてふさわしくあるために律法を与えたと書きましたが、それも神は民が律法を守れないことを知りながら律法を守れと命令されたと書きました。

 

それでは、なぜイスラエルの民を選んで人類救済計画を進められたのか、イスラエルを選ばずに最初からキリストを地上に送り、聖霊を人々に一方的に内住させて律法を心に記していれば、イスラエルの民の裁かれる悲惨な歴史は必要なかった、キリスト者の福音伝道というまことに面倒くさい方法をとらないで済んだのではないかと思うのですが、神の創造の御業を完成させるためには、必要であったのでしょう。

 

<神の真意は>
本当のところ、神の真意は分かりませんが、もし、神が人類救済の担い手としてのイスラエルの民の選びと民の離反と裁かれる歴史がなく、もちろん、キリスト者の福音伝道もなく、キリストの十字架死、救いの御業のみであれば、人類はおのれとは何者か、罪とか何か、また、罪にある苦難も、神の救済の恵みのありがたさを知らないで救われることになると思います。

 

おそらくそれらを体験しないならば、新しい人類の創造という神の大いなる御業は成就しない、本当の意味での救いにならないということでしょう。

 

最後に、聖書では明確でない、我々異邦人の「福音伝道で救われなかった」すでに死んでしまった残りの者はどのようになるのでしょうか。
イスラエルの残りの者が、終わりの日のその日に、神の一方的な恵みにより救われるならば、異邦人にも同じことがあってもおかしくはないと思うのです。

 

神は、義の方です。不公平は似合わない。いかがでしょう。
そのことが示唆される個所がヨエル書3章1~5節と使徒言行録2章17節から21節にあります。

 

どちらも、神は「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言われています。

 

もちろん、救われるのは、ヨエル書は「主の御名を呼ぶものは救われる。」で、使徒言行録は「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」で、救いの内容は同じですが、そのことが起こるのはヨエル書の方は「その後」で、使徒言行録は「終わりの時」(おそらくキリスト再臨の直前)です。

 

なお、ヨエル書の「その後」は、主がエルサレムに戻ってこられた後ということで、キリスト地上再臨の後だとする解説もあります。

 

使徒言行録は「終わりの時」の始まりである2章の聖霊降臨は、イエスの弟子120名ほどに実現したとしていますが、同時に、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」とあり、また、主を求めて霊が注がれれば、「あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」とあります。

 

わたしはイスラエルの民に起こることは、異邦人である我々全人類にも起こることで、その救いの神の御業は、天と地にいるすべての人において実現するものと思っています。

 

イスラエルの民が、神に全人類の救済の御業の先兵として選ばれたのは、なにもイスラエルの民が特別優れていたわけでも、また、神に従順でもないのに神はイスラエルを選び神の民として育てようとされたのですが結局失敗でした。

 

それでも、終わりの日のその日に神は全イスラエルの残りの者を一方的に恵みにより救われるのです。
だから私はほぼ全員救済を主張し、祈りの課題となるのです。

 

« 古い契約と新しい契約(1) | トップページ | エゼキエル戦争(1) »

おじさんの聖書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 古い契約と新しい契約(1) | トップページ | エゼキエル戦争(1) »

無料ブログはココログ

最近のトラックバック