テトスへの手紙前置き
1798.前置き
テトスへの手紙は、パウロがクレタ島にいるテトスにあてた手紙です。
テトスは、 パウロの宣教によってキリスト信仰を持ち、パウロにとって信仰による自分の息子のような存在であったのでしょう。
テトスもテモテと同じように、パウロの宣教旅行に同行していますし、テモテと同じように、パウロの代理として教会に遣わされています。
テトスは新約聖書で13回その名が出てきますが、「使徒言行録」には彼の名は一度も出てきませんので、ルカとの関係で何かあったのでしょうか。
なお、テトスはギリシア人キリスト信仰者で、異邦人のキリスト信仰者でした。
パウロは、伝道旅行先のユダヤ人の手前、同行するテモテに割礼を授けました(使徒言行録16章3節)が、テトスはパウロのエルサレム訪問の際に同行しましたが、割礼を受けることを要請されませんでした(ガラテアの信徒への手紙2章1〜4節)。
テモテが割礼を求められたのは、テモテがユダヤ人の母親を持つのでユダヤ人とパウロが見ていたからでしょう。
だからユダヤ人キリスト教徒もテモテをそのようにみている。
パウロは、テトスをエルサレム訪問に同行させますが、その目的は、使徒会議に参加です。
その会議では異邦人も割礼を受けるべきかどうかが議論されることになっていましたので(ガラテアの信徒への手紙2章1節、使徒言行録15章1〜2節)、割礼を受けていない異邦人のテトスを連れて行ったのは、パウロの意思をエレサレムの教会に明確に示すこととエルサレムの使徒たちの反応を見るためであったのでしょう。
ガラテヤ人への手紙2章3節に「わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。」とあるように、パウロは、異邦人に割礼を強要しようとするエルサレムの割礼派と対峙して、それで、 エルサレムに、バルナバと共に上っている話が出てきたときに、「テトスも連れて」と強調していますが、そのときのパロの言葉です。。
異邦人伝道にはエルサレムの出方(特に異邦人信徒の割礼)は非常に大切です。
パウロはテトスをエフェソの教会からコリントの教会に派遣しました。
その目的はコリント教会の混乱を解決することで、それでテトスはコリント教会の混乱を収めることができましたが、パウロはその結果を知りたくて、テトスからの連絡を待ちきれないで、わざわざテトスが滞在するマケドニヤに赴いて(コリントの信徒への第二の手紙2章13節)テトスと再会し、コリントの教会についての朗報を受けます。
そのマケドニヤの教会で、パウロはコリントの信徒への第二の手紙を書き上げたと思います。
なお、パウロはテトスをマケドニヤからふたたびコリントの教会に派遣しますが、その目的はエルサレム在住の貧しい信徒たちのために献金を集めることでした(コリントの信徒への第二の手紙」8章15節)。
1章5節以降にでて来るクレタ島はテトスが亡くなった島ですが、「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者」が多い土地でした(1章10〜16節)。
「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」とも書いてあります。
しかしパウロはテトスなら困難な状況も打開できるであろうと信頼してそのようなクレタ島に派遣したのでしょう。
コリント人への第二の手紙ではテトスはエルサレム教会の貧しい人々のための募金をコリントの教会で行い、またパウロの手紙をコリントの教会に届けるために派遣されています。
テモテへの第二の手紙4章10節では、テトスはダルマティアにも滞在していたようです。
聖書には彼の死についての記事はないのですが、伝承によればテトスはパウロによってクレタ島の主教(司教・初代の教会長)に任じられ、1世紀始めにクレタ島で高齢にて生涯を終えたということです。
なお、ここに出てくる教会というのは、今の教会のように大きな建物があって大勢の人が集って牧師の説教を聞くようなものではなく、信徒の家に小人数が集まって集会を開いているような状態だと思います。エクレシア(集会)と言われ信徒の集まりを指します。家の集会です。
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