挨拶、クレタでのテトスの仕事(テトス1章)
<挨拶>
聖書の箇所は、テトスへの手紙1章1節から4節です。
●1節.神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
当時の手紙は、このように書き手の名が最初に書かれて、書き手である自分が誰かを最初に言い表すのですね。そして、受け取る人の名を書くのです。
「神の僕」「イエス・キリストの使徒」とパウロは、初めに自分が何者かを言いあらわしています。
「神の僕」としてパウロに与えられた使命はキリストの福音を宣べ伝えることで、パウロはその使徒です。
自分は「神の僕」であり「イエス・キリストの使徒」ですから、主イエスに「使わされた者(男性)」で、その権威をもって福音を伝え「神に選ばれた人々の信仰を助け、・・信心に一致する真理の認識」に導いています、ということでしょう。
「神に選ばれた人々の信仰を助け、」ですから、福音を聞き信仰に導かれるのは、「神に選ばれた人々」で、神に選ばれたから信仰に導かれたということですから選びがあって信仰に導かれるのです。
使徒言行録18章10節「・・この町にはわたしの民が大勢いるからだ。」と、パウロのコリント伝道の際にイエスは幻の中でパウロに告げておられます。
福音を聞いた一人一人が信仰を持つ前に、すでに神(イエス)がその人を選んでおられたということです。
神は使徒には「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」とも言っておられます。
そのようにして、信仰に導かれると、「信心に一致する真理の認識」を得るということです。
信心に一致する真理の知識を得ることが目的なのです。
解説では、「敬虔にふさわしい、真理」とも訳されていました。
●2節.これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
ここでパウロは、「真理の知識」とは、「永遠の命の希望に基づく」と書いています。
「偽ることのない神」が約束された永遠の命の希望だということです。
それは「永遠の昔」からの約束ですから、それが新しい人類創造のご計画の一環でもあるのです。
それを偽ることのない神」が約束されているのです。
この世の始まる前(「永遠の昔」)に神は人類を罪の圧制下から救い出すことをお決めになりました(エフェソの信徒への手紙3章8〜11節、コロサイの信徒への手紙1章25〜26節、テモテへの第二の手紙1章9節)。
神が永遠の命の希望を約束しておられるのであれば、必ず、神に選ばれた人々は、永遠の命に至るのです。
このようにしてキリストの者とされた者は、神に選ばれたので天に属していますが、言い換えれば、この地上にしばらくの間、留まるように召されている旅人です。
「信仰」と「真理の知識」とは互いに結びついていて一つです(コリントの信徒への第一の手紙15章17〜20節)。
●3節.神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――
神は「定められた時に」罪に沈む人々の救いの計画を実現、すなわち、イエス・キリストの地上降臨と十字架の罪の贖い、そして、死からの復活です(ガラテアの信徒への手紙4章4節・5節。テモテへの第一の手紙2章6節)。
だから、約2000年前のイエス・キリストの出来事は、神の時ですから、最善の時でした。
キリストは、永遠の昔から約束しておられた、永遠の命の希望を、パウロが生きていた時に実現するように定めておられたのです。
主が、長い年月をかけて、その時のために用意しておられたのです。ほかの時ではだめだったのです。
ローマ帝国がキリスト教国となったのも、その時代、すべての道はローマに通ずると言われるように、世界はローマ帝国の支配によって一つになっていました。
ローマ支配化の全ての民が、ギリシア語を話し、福音宣教が通訳なしに実現し、福音が世界に広まったのです。そして、いまや世界人口の三分の一がクリスチャンです。
●4節.信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。
テトスはパウロの伝道を通してキリスト信仰者となりました
。テトスはパウロの最も信仰による近しい弟子の一人でしたが、使徒言行録では一度もその名は出てきません。
テトスは、テモテよりも先に、パウロの働きによって信仰を持ったということですが、テモテも異邦人で、アンティオキアの教会で信仰を持ったようです。
テトスは、パウロの福音宣教とパウロが開拓した諸教会への働きかけにおいて、パウロの代理として派遣された人で、しかも、深刻な問題が起こっているところに、前もって遣わされていくという難しい使命を帯びていたようです。
「信仰を共にする」は、イエス・キリストについての教えについて、共通の信仰を持ってい るということでしょう。
<クレタでのテトスの仕事>
聖書の箇所は、1章5節から16節.
●5節.あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。
パウロはテトスをクレタ島に残したのは、「残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。」としています。
使徒言行録にはパウロがクレタ島で福音を宣べ伝えたという記述はありません。
パウロはクレタ島にテモテを置いて、他のところに働いたのでしょう。
クレタ島は、ギリシア半島の南にあり、今のギリシアの中で最も大きな島だということです。
ただ、パウロが、カイザリヤからローマに囚人として護送される途中で、船が風(ユーラクロンという暴風)に遮られ航行できなくなったので、クレタ島に避難したときだけです(使徒言行録27章7〜12節)。
「残っている仕事」というのは、クレタ島に残ったテトスのやるべき仕事で、それは、クレタの諸教会の問題を整理して「町ごとに長老たちを立ててもらうため」としています。この時代の長老は、監督であり教会の指導者であります。
なお、この「整理して」というのは、ギリシア語では「秩序正しくする」という意味合いを持っているそうです。
ですから、ここは長老たちを町ごとに任命するということなので、教会全体の秩序を正しくするということになります。
パウロはテトスに、クレタの教会に残っている問題の整理をゆだねて新しい町々へと旅を続けていきました。
聖霊降臨日(「五旬節の日」)の時にはクレタ島からきたユダヤ人たちがいてペトロの説教を聞いていました(使徒言行録2章1、11節)。
なお、クレタ島にキリスト教会ができたのはおそらく60年代であったと思われますので、歴史が浅いクレタの教会には経験豊富なキリスト信仰者が少なかったのではないでしょうか。
●6節.長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。
「一人の妻の夫」とわざわざ言っているのは、当時一夫多妻制の時代でしたから、結婚における忠実さを強調しているのではということです。
ですから、教会の指導者が必ず既婚者でなければならないとか、やもめとなった場合には再婚しなければならないという意味ではないということです。
長老の条件は、一人の妻の夫のほかに子供たちも信者、放蕩でない、不従順でないことです。
家庭の中の秩序は家族みんながキリストを受け入れて、イエス様を自分の主としていることです。
●7節.監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、
●8節.かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、
長老は信仰においても、家庭においても、教会においても信徒の模範となる存在であることを求められていますが、監督は神から任命された管理者で、長老と同じく筆頭に挙げられているのが、「非難される点があってはならない」ことです。
この非難は、誰かの主観でなく、証拠や証言に裏図けられた、明らかに過ちがあることを意味するのでしょう。
テモテへの手紙一5章19節に「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。」とあります。
次に監督ですが、教会の指導者である「監督」の仕事は、新しい教えとか解釈を持ち込むのではなく、使徒たちから受け継いできた「わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心に基づく教え」を忠実に伝えていくことです。
●9節.教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。
「教え」というのは、使徒たちによって伝え、教えられた言葉で、それは、キリストの福音で、それは使徒言行録2章で伝えられているように、エルサレムで弟子たちに聖霊が降り、教会が生まれましたが、同42節に「彼らは、使徒の教え、・・熱心であった。」とあるからです。
この教えは、使徒が生前のイエスと寝食を共にし、イエスから直接伝え教えられた言葉、福音で、その言葉をしっかりと守るうえでの言葉は、その教えに適う信頼すべき言葉であり、また、「健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりする」のには必要だということでしょう。
●10節.実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。
ここはクレタ島ですが、テモテが監督であったエフェソの教会と似たような状況が、クレタ島にもあったようです。
一つは、「不従順な者」(反抗的な者)」で、教会の秩序と平和を乱す人々です。
そして、「無益な話をする者」で、無益ですから、9節の「教えに適う信頼すべき言葉」とは関係のないことをあたかも重要であるように語る人々でしょう。
それから、「人を惑わす者」ですが、後に「特に割礼を受けている人たちの中に」とありますから、おそらく、キリスト者に割礼を受けさせユダヤ人にさせていこうとする者たち、ユダヤ主義者のことを言っているのでしょう。
ユダヤ主義者は、割礼を要求し、律法を守ることを強調し、福音をないがしろにする者たちです。
どうやら、クレタ島には異端の教えが蔓延していたようです。
異端の教えはユダヤ主義者のことを見ると、ユダヤ人たちが広めたものであったように思うのですが、当時盛んであったグノーシス主義も関係しているのでしょう。
グノーシス主義は、多種多様な宗教の影響を受け、その教義を受け入れてできた宗教のようなものではということです。
●11節.その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。
テトスがまずしなければいけないことは、「その者たちを沈黙」させることですが、そのためには、教会の「教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る」非難されるところのない長老また監督が、健全な教えで導くことです。
そして、その中で、そういった発言がいかに空しいかを、自然に明らかになるようにすることでしょう。
「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者」の目的は、「恥ずべき利益を得るため」ですから、それは、金銭的な利益もあるでしょうし、権力欲とか支配欲、知名度もあるでしょう。
聖書にある健全な教えから離れたことを、勝手に作り出して教えるのです。
「数々の家庭を覆しています。」とありますから、家庭(の集会)を壊しているのです。
どのような教えをもって家庭(の集会)を壊すのでしょうか。情欲でしょうか、金銭欲でしょうか。
テモテへの手紙二3章6節に「彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。
彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。」とあります。
最初に「その者たちを沈黙させねばなりません。」とあるのは、当時は家庭集会が中心であったので、異端の教師たちは熱心に家々を個別訪問して布教活動を行ったのでしょう。
彼らは家族単位で異端の教えを持ち込み、改宗を進めていったようです。
異端教師たちを「沈黙させねばなりません。」とパウロは命じています。
それは、彼らと対話したり論争したりするのは無益で、徒労に終わるからでしょう。それに彼らは、すでに自分の道をすでに選んでしまっているから、人の話を受け入れる余地がないからでしょう。
●12節.彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。
「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」という言葉は、解説では、クレタ人の預言者で神学者ヒエロニムスによると、ギリシアの賢人エピメニデス(紀元前500年代)の詩だということです。
この言葉は、クレタのキリストの教会の中のクレタ人信徒の特徴を記しているのでしょう。
キリスト者になったと言っても、霊的に成長できていない時は、以前の性質が多分に残るものです。
教会の秩序は、そうした信徒の性質から派生して、乱されるのでしょう。
なお、ギリシア語では「クレタ人である」という言葉と「嘘をつく」という言葉は同義語だそうで、大陸側のギリシア人たちはクレタ人たちを信頼ならない者とみていたそうです。
●13.この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、
「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」というクレタ人の預言者の言葉は、当たっているとパウロは言っています。
●14節.ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。
「ユダヤ人の作り話」はユダヤ主義者たちで、「真理に背を向けている者」は、異端の者ですから、そのような者の掟に巻き込まれることは「健全な教え」に対して背を向けることを意味します。
ユダヤ人の作り話は、いろいろな聖書にない教え(口伝律法)を持ち込み守らせるのでしょう。
テトスはクレタ島で、困難な働きに付いています。
テモテはエフェソで、テトス同様困難な働きについています。
両者は、パウロの代理として派遣されているのですが、パウロは両者を何度となく、励ましています。
「彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、」の「彼ら」は異端の教師達で、「信仰を健全に保たせ、」というのは、教会の信徒たちのことでしょう。
異端の教師たちを厳しく戒めることで、教会員の信仰を健全に保たせ」るということでしょう。
●15節.清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
異端の教えがどのようなものかは、テモテの手紙一4章1節から5節(背教の予告)を読めばある程度分かります。
特に同3節を読めば背教に導く異端の教えは、「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。」とありますから、異端の教えは禁欲主義で、いろいろなことが禁止事項とみなされ、ある種の食物も食べてはいけないものとしていたのでしょう。
しかし同4節には、「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てる者はないからです。」とありますから、新約聖書では禁欲しなくても自分の救いの妨げとはならないと書いてあります(マタイによる福音書15章10〜11、16〜20節、マルコによる福音書7章14〜23節、使徒言行録10章9〜16節、ローマの信徒への手紙14章19〜23節、コロサイの信徒への手紙2章20〜23節)。
●16節.こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。
異端の教師たちの実態は、「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。」とあります。
彼らは神を知っていると主張するが、彼らの行いを見れば、自ら神についての無知さを露呈しているのです。
そのことは、ローマの信徒への手紙2章17節から29節に詳しくパウロは書いていますが、特に異端の教師のことを同21節・22節には「それならば、あなたは他人には教えながら自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」とあります。
ということで、キリストの福音は、福音の真理によって、信仰によって清められるのですから、これこれをしてはならない、さもないと汚れる、などと教えることは、避けなければいけないのでしょう。
何を語れば、何をすればよいのかは、一人一人の良心に任せればよいのでしょう。その人の信仰により確信をもって、主に対して守ればよいのでしょう。
異端の教師は、神を知っていると言っているのですが、それは知識だけで、その知識が行いに生かされていないのです。
それは、別に異なる動機、 汚れた動機があるのでしょう。
教会の中で公言するが行いで否定している者は、教会の信徒に対してつまずきを与えます。
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