終わりの時の人々の有様、最後の勧め(3節)
<終わりの時の人々の有様>
聖書の箇所は、テモテへの手紙二3章1節から9節。
パウロはローマで死刑判決を受けると、多くの同労者が離れてゆき、パウロが立ち上げた教会には、違った教えを言い広めている者たちがたくさん出てきます。
パウロはこのような状況の中で、愛弟子テモテに自分が去った後のキリスト信仰の戦いについてこの章で詳しく語っています。
●1節.しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。
「終わりの時」というのは、自分の死刑執行の時を指すのでしょうか。
いや、やはり、この世界が終わる日が来ることを指しているのでしょう。
パウロは、自分の死とこの世界の終わりとを意識しながら書いているのでしょう。
キリスト信仰は、はじまりがあり、終わりがあるので、それまでの間をどのように生きるかを問います。
聖書の終わりの日は、キリストの到来(正確には聖霊降臨)をもって始まりました。やがてキリストは再臨され、7年間の艱難時代が到来し世の終わりが来ます。それは決まっているのです。
したがって、パウロは言っている終わりの日はこの手紙が書かれた時代はすでに聖霊降臨が実現していましたので、手紙の内容は遠い未来のことではなく彼の生きていた当時の状況について述べていることになります。
すでに終わりの日が始まっているので、パウロはキリスト教信仰への反対や異端の教えがあらわれるのは一過的な現象ではなく、キリストの再臨の時に至るまで常に教会につきまとう持続的な問題であることをテモテに強調しているのでしょう。
●2節.そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
●3節.また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、
●4節.人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、
●5節.信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
2節から5節で、終わりの時に現れる19種類の(邪悪な神を認めない)人々を挙げています。
しかし、すごいですね、生身の人間の本質をよく表しています(参考箇所は、ローマの信徒への手紙1章28〜31節)。
これらの罪の特徴は自己中心と邪悪でしょう。
問題は、ここに挙げられているタイプの人々が、キリスト信仰者の中にいるということです。
パウロは、「こうした人々を避けなさい」、つまり、彼らの邪悪な生きかたに巻き込まれてはいけないという意味で、異端者のグループから離れるように訓告します。
なお、「金銭を愛し」ですが、これはキリスト者が金を持ってはいけないという教えではなく、不正の管理人の喩えにあるように、運用して増やして御国のために用いなさいということでしょう。
すなわち、その富を用いて隣人を自分のように愛しなさいということでしょう。
そして、「ほらを吹き」「高慢」「神をあざける」の共通語は、「知的高慢」です。
つまり、自分の知識というか思っていることを絶対化、自我が肥大化してしまっている状態でしょう。
「思い上がり」ですが、原語の元々の意味は、「度を超して輝く」ということですから、。私たちは、人それぞれ神によって創造の時点で置かれている領分がありますからその領分でとどまりなさいという意味で、その領分を越えて振る舞っている者を「思い上がり」になっているのですが、自分お領分を図るのはむつかしいです。
「神をあざけり」は、すなわち神を冒涜する者です。
自己の創造主に逆らうのですから最悪の罪です。
異端の教祖などは神を知りながら神を冒涜するのですから、確信犯です。
「恩を知らず」ですが、この世は神が主権者であり、この方がわたしたちに与え、また取られる方です。
こうして生きているのも神のおかげ、恩があるのです。
わたしたちはそれぞれ賜物もって生まれてきますが、その賜物を感謝して受け取る、用いることが大切です。そうすれば、私たちは祝福されるのです。
反対に与えられた賜物を用いなければ、腐ってしまいます。
「情けを知らず」は、相手の迷惑を考えない人、自己中心性の表れです。
「和解せず」は、自己の利益をあくまでも通す人、妥協しない人、いつまでも恨む、赦す心がない状態を言っているのでしょう。
「中傷」は、そしる者ですが、これは悪魔や悪霊を呼ぶ時に使われる言葉ということです。言い換えれば、告発者、人を責め立てる者です。
「節度がなく、残忍になり」で、節度がない人は、キリスト者には柔和さが求められていますが、その反対に自分の義を相手方に強く主張する人。その結果、相手方がどのようになるかを顧みない人。
「善を好まず、」とは、悪がはびこり、人が困っていることに快感を覚える人ですか。関わろうとしない人。悪に対し抵抗のない人です。
「人を裏切り」ですが、人は人と共に生き、あらゆる約束の中に生きています。人間関係を保つには約束を守るのは必須です。
約束を守るようなふりをして、実際は守る気がない人もいます。
「軽率」というのは、慎重、冷静さの反対であります。
自分のしていることの結果を顧みない、どのようになるのか想像できない人です。 いい加減な人です。
そして、「思い上がり(慢心)」とは、高ぶりです。自分の創造主に与えられた自分の領分を知らない人。自己中心性と通じますね。
「神よりも快楽を愛し」ですが、「思い上がり」に通じますね。
●6節.彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、
当時は家の教会でした。今のように大きな教会堂を建ててそこに皆が集まるのではなかったのです。
それで、女性が家にいることが多く、世話をすることも多かったでしょう。
そこで、まだ、キリスト信仰に未熟な女性を利用する異端教師がいたようです。
キリスト信仰を学んでまだ浅い女性は異端教師の教えを鵜呑みにしてしまうことがあったようです。
その時に、異端教師はその権威を利用して女性に好色な行ないをすることがあったようです。
「他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかし」というのは、そのことを言っているのでしょう。
しかし、「彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立て」とありますが、異端のグノーシス主義は禁欲主義ではなかったかと思うのですが、調べてみると、放縦な性生活を追認する側面もあったようです。
ずいぶんいい加減なものですね。
●7節.いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。
誘惑されて情欲に駆り立てられた女性のことを言っているのでしょう。
学ぶことは大切ですが、その学ぶ意欲が新しい教えや体験にとらわれて知らない間に異端のグループに巻き込まれてしまうこともあるのでしょう。
●8節.ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。
「ヤンネとヤンブレ」ですが、出エジプトの際にモーセに抗して登場したエジプトの呪術師とか魔術師ではないかとされています。
二人の名が記された文献があるそうです(出エジプト記7章11〜12節)。
異端の教えは一部正しい教えと共通するところとか、もっともらしい教えもありますから、だまされやすいのです。
しかし、しょせん偽物は偽物です。異端特有の脆弱性というか本質が嘘で、正しい教えのまねごとですからやがてばれてしまいます。
●9節.しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。
異端の教えであるグノーシス主義は、一時使徒たちの正しい教えよりも勢いがあるように見えた時期もあったようですが、やがて「彼らの無知がすべての人々にあらわに」なり、正しいキリスト教信仰の前に消えていきます。
<最後の勧め>
聖書の箇所は、テモテへの手紙二3章10節から4章8節です。
パウロは、「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい」(3章1節)とテモテに告げます。
その困難な時期の特徴を1節から記します。
そして、6節以降で、グノーシス派の異端の教師の活躍も告げますが、9節で「これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。」として締めくくります。
●10節.しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
●11節.アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
10節の「あなたは」はテモテを指すのでしょう。
テモテは。パウロの「わたしの教え」に倣い、ですから、テモテはパウロにとって信頼のおける愛弟子だったのです。
このテモテへの手紙は、異端がはびこる教会の中で、パウロの逮捕もあり、テモテに自信がなかったのでしょう。
テモテは、パウロが牢に入れられるのをもって同労者までがパウロから離れるのを見て弱気になっていたのでしょう。
はたして自分のしていることが正しいのか、疑問を持っていたのかもしれません。
そのようなテモテにパウロは自分の経験を語り励ましています。
そして、11節では、パウロはテモテが彼の受けた困難や迫害を思い起こし、「そのような迫害にわたしは耐え」たとします。
そして、最後に「主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。」とします。
自分の行いを模範にして従うように他の人々に呼びかけるパウロの態度は傲慢のように見えますが、そうではなく主がそのようにしてくださった、つまり、パウロは主の言葉に従っただけなのです。
言い換えれば、キリスト信仰者は皆、主について自分の生きかたを通して証するために召されているからと言えます(参考箇所フィリピの信徒への手紙3章17節)。
また、コリントの信徒への第一の手紙11章1節に、「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」とあります。
●12節.キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
キリスト・イエスに結ばれて生きようと思ったら、必ず迫害があります。
この時代のキリスト教徒は、ローマにあっては皇帝ネロの迫害があり、イスラエルにおいては口伝律法との戦いがあり、異端の教えであるグノーシス派の活躍もあり非常に困難を極めていたでしょう。
今の日本ように信仰の自由は保証され、キリスト者が日々暮らすのにはキリスト信仰は何の支障もありません。なんと恵まれた時代でしょう。
大変な違いです。
●13節.悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
「悪人や詐欺師」は、3章2節から5節に記してある終わりの時に現れる19種類の(邪悪な神を認めない)人々を指すのでしょう。
テモテは、エフェソの教会においてその者たちの「惑わし惑わされながら、ますます悪くなってい」ですから、悪人や詐欺師は、自分が騙しているだけでなく、自分自身も騙されているのです(ローマの信徒への手紙1章28〜31節)。
まさに現在では、そのような新興宗教がはびこっているように思います。
でも、グノーシス派が滅びたように、そのように実のない信仰はいずれ滅びます。
●14節.だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
キリスト信仰者は、最初キリストに出会った時の不思議な体験を誰でももっています。
それがあるから、聖書を真実と証しし、福音を語らざるを得なくなるのです。
だから、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」です。
最初のキリストとの出会い、学び、体験を忘れないで大切にしなさいと言っているのです。
●15節.また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
「自分が幼い日から聖書に親しんで」とありますが、ユダヤ人の(男の)子どもたちは5歳になると旧約聖書について教えを受けるようになるそうです。
教会内においてはびこる「悪人や詐欺師」に困っていたテモテですが、パウロはテモテに、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」とし、キリスト信仰に対する確信を改めて伝えることによって元気づけます。
そして、それは、「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているから」とします。
使徒ヨハネが第一の手紙2章24節と25節「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるのでしょう。」
●16節.聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
「聖書はすべて神の霊の導き」ですが、パウロは、旧約聖書全体を神様の啓示として受け入れていたのでしょう。
なお、この聖書というのは、当時新約聖書がなかったので、今手元にある旧約聖書の律法と預言の書を指すのでしょう。
●17節.こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
ここは 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」とし、聖書そのものに信頼と確信を置いてよいのだとして励ましているのでしょう。
聖書が神の霊感によって書かれたものですが、霊感とは、「神の息が吹き込まれた」という意味で、それは、聖書の言葉は神の言葉そのものであるということです。
もちろん、この時代の聖書とは、旧約聖書の律法と預言の書のことでしょう。
パウロが、聖書についてここまで言い切るのは、聖書が神の霊感によるものであることを身をもって知っていたからです。
聖書を書いている人は人間で、使われているのは人間の文字ですから、神の意思を正確に伝えるのには不十分で、間違いもあるでしょうが、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」ですから、そうして書かれた聖書に聖霊が働かれて、読む者に働かれるのです。
書いている人と、文字の不完全は、聖霊が働かれることによって、完全となります。これはキリスト信仰の神秘です。
それでも聖霊が導かれて書かれたのですから、聖書は神に拠るものであり、読む者に霊感が働かれ、間違いなく伝えられます。
なお、「神に仕える人」(神の人)は、キリスト信仰者のことを指しているのでしょう。
●4章1節.神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
●2節.御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
「生きている者と死んだ者を裁く」ですが、この裁きは第二コリント5章10節「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」のことを言っているのでしょう。
つまり、私たちはみな、キリストが来られた時に、善であれ悪であれ、各自その肉体のときになした行いに応じて報いを受けることになります。
ヨハネの黙示録20章12節の命の書に書かれている行いによる最後の裁きは、クリスチャンは対象ではないのですが、そうすると、キリストを知らない、または信じないで死んだ者は行いにより二度裁かれるようになるのでしょう。
どちらにしても、この世でキリストを知らない、または信じないで死んだ者にもセカンドチャンスがあるわけです。
そうでなければ、行いでわざわざ二度も裁く必要はありません。
教会を大きく揺るがす違った教えが入ってきている時にパウロは、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」とし、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」と、聖書の言葉(福音、救いの計画が啓示)、すなわち、「御言葉を宣べ伝えなさい、」と命じます。
なお、この命令は、イエスが昇天される前に、弟子たちに対して大宣教命令を出されましたが、その命令と同じ威厳と権威をもって語っているのでしょう。
だからこの命令は「神の御前で、・・キリスト・イエスの御前で」なされます。
「折が良くても悪くても励みなさい。」ですから、福音を延べ伝える方法がどうこうではなく、折がよくても悪くても、と言っていることに注目すべきでしょう。
つまり、キリスト教信仰で神の言葉を宣べ伝えるのは、人々の都合によらないで、延べ伝えなさいということでしょう。
また、「御言葉を宣べ伝え」ることは、神のことば、キリストの救いのメッセージを人々に宣言し、伝達することですから、私はこう思うとかおいうように自分の意見や考えを述べることではなく、神が言われることをそのまま宣べ伝えるのです。
そうすれば、み言葉を聞く者に聖霊が働かれて救いに導かれるのです。もちろん、その時も神様の時です。
●3節.だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、
●4節.真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
「健全な教え」とは、福音、つまり、キリストが罪人を贖うためにこの世界に来られ十字架にかけられ亡くなられ、三日後に復活されたのです。
その神の恵みを教え、そして神の御心にかなう生活、敬虔に生きるように教えるものです。。
人々が福音宣教を聞こうとするときは、いつもあるわけではなく、むしろ逆です。
それは、何が正しいかがわからないから、人々は自分にとって都合の良いことを教える新しい教師たちをたえず探し求めるものだからです。
キリスト教信仰で宣べ伝えるべきことは、人々が聞きたがっていることではなく神が人々に告げたいことです。
「自分に都合の良いことを聞こうと」する人々は、「真理から耳を背け、作り話の方に」耳を傾けるのです。
何が真理かを知ろうとしない人、福音を聞いても信じない人は、全く関心がないか、何か別の教え、つまり、作り話ですから、自分に取って都合の良い教えにとらわれているのでしょう。
そして、「好き勝手に教師たちを寄せ集め」ですから、自分にとって耳障りのよい言葉を語ってくれる教師を探し、寄せ集めていたのだと思います。
●5節.しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
今度は、テモテのことですが、教会の責任者であるテモテは異端教師たちの人気の高さや聴衆たちの反対に惑わされることなく何が真理かを見極めて福音を宣教していかなければなりません。
異端教師は、信徒の耳触りの良いことばかりを語りますから、当然、人気があります。
その中で、「身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」と、パウロはテモテを励まします。
●6節.わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。
●7節.わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
処刑の日が間近に迫っていたパウロは「自身は、既にいけにえとして献げられています。」と言っています。
●8節.今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
パウロは、自分が信仰を守り通したことを、「戦いを立派に戦い抜き」という言葉と、「決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」という言葉で表現しています。
だから、今や、「義の栄冠を受けるばかりです。」からこの世界での自分の役目は終わり天の御国に凱旋する時が来たということでしょう。
なお、「義の栄冠」とは、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられる永遠のいのちことです。
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