キリスト・イエスの兵士として、適格者と認められた働き手(2章)
<キリスト・イエスの兵士として>
聖書の箇所は、テモテへの手紙二2章1節から13節です。
エルサレムで逮捕されたパウロは、ローマ市民なのでローマに移送され、牢獄生活を送りますが、その牢屋の中からテモテに手紙を出しています。
パウロは皇帝ネロの前で弁明をし、無罪になったようですが、二回目の弁明のとき、彼は死刑に定められることになります。
そのような状況下で、パウロの働き人(特にアジア州の)たちがパウロから離れてしまいました。
また、パウロの教会には違った教え、偽りの教え(当時地中海世界で興った宗教思想運動グノーシス主義の影響か)が入り込んでいました。
エフェソの教会の指導者の中にも偽りの教えをする者がいたようです。
●1節.そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。
パウロは、テモテを「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」と励まします。
テモテの頑張りによって強くなりなさいではなく、「キリスト・イエスにおける恵み」ですから、神の御霊によって強くなりなさいということでしょう。
パウロは、1章13節の「健全な言葉」、すなわち「信仰の継承、福音の働きの継承」をテモテに願い、それは神様の恵みによってのみ実現できるものであることを再確認するように促しています。
神様の助けと恵みがないかぎり私たちは神様の要求なさることを何一つ満たすことができないということです。
●2節.そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。
キリストの福音は、まず、パウロが神様から受け、次にパウロは福音をテモテに宣べ伝え、それからテモテは「忠実な人たちに」福音を委ねなければなりません。その中で、彼らはさらに他の人々に福音を教えていくのです。
キリストの福音は、「多くの証人の面前で」延べ伝え、また「ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだね」て広めていくのです。
パウロはテモテ自身のみならず、今度はテモテから次の世代、また次の世代に受け継ぐことも彼に願っているのです。
それも「教えることのできる忠実な人」という条件がついています。
●3節.キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。
福音宣教の兵士は、労苦に耐え忍ばなければなりません。
●4節.兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。
●5節.また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
パウロは、「兵役に服している者」「競技に参加する者」をたとえに、キリストの福音宣教者のあり方、役割を語ります(フィリピの信徒への手紙3章14節とかコリントの信徒への第一の手紙9章24〜27節)。
古代のオリンピック競技では優勝者に月桂冠が授与されましたが、「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、」人生の終わりまでキリスト信仰を守り通した信仰者には主から「義の栄冠」が授けられるのです(4章8節)。
●6節.労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
今度は、農地の耕作について述べています。「労苦している農夫」ですから、当時農地は貸し出され、農夫が耕作をしていましたから、その農夫こそ誰よりも先に生産物の分配にあずかるべきだということでしょう。
キリスト信仰に言い換えると、農夫であり福音伝道者が御言葉の種を蒔き、その種を成長させてくださるのが、創造主である神様です。
もちろん、農夫がまいた種を成長させてくださるのも神様です。人間は世話をするが成長させてくださるのは神様です。
参考箇所は、コリントの信徒への第一の手紙3章6〜7節です。
ただし、このような言葉もあります。
ガラテアの信徒への手紙6章7節「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」
●7節.わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。
「主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださる」ですから、キリストの福音、すなわち、御言葉を伝える仕事はこの世の基準だけでは測ることができないものですが、「あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださる」ということでしょう。
御言葉を宣教する仕事は人間ではなく、神様の視点によって評価されるべきものだということでしょう。
●8節.イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。
ここでパウロは、「わたしの宣べ伝える福音」は、「ダビデの子孫で、死者の中から復活された」イエス・キリストのことだと言っています。
キリストの復活は、パウロにとって決して譲歩できないキリスト教信仰の核心です。パウロは、復活のキリストと出会い人生が180度変わったのです。
当然ですが、パウロは事実復活のイエスに出会ったのですから当たり前です。
復活のイエスとの出会いは、パウロの人生を180度転換する、命を懸けた出来事なのです。
キリスト信仰とはそういうものです(コリントの信徒への第一の手紙15章13〜18節)。
●9節.この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。
パウロはキリストの福音のゆえに「苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。」が、「神の言葉」はつながれていないと言っていますから自由に伝道できる状態にあるわけです。
●10節.だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。
「選ばれた人々」というのは、福音を聞いて救いに預かる人々を指しています。
使徒言行録18章10節にこのようなコリントにいるときのイエスの言葉があります。
「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
「この町(コリント)には、わたしの民が大勢いる」と言われたのです。
この町にいるのは、異邦人でありまだ福音を知らない人々です。
その人たちを指してイエスは「わたしの民が大勢いる」と言われたのです。
つまり、福音伝道者は、神が誰を救われるのか分かりませんから、福音は全ての人に語りますが、神は、すなわちイエスは、コリントの町には福音を聞いて救われる人が大勢いることをすでにご存じなのです。
なお、「救われる」というのは、人間は神のご計画によって造られましたが、神から離反するという罪を犯して、ご計画が損なわれてしまいました。
キリストの十字架は、人間をその離反した状態から回復させ元の状態に戻し、神の創造のご計画を完成させるご計画が、その救いの目的です。
キリスト者は、その希望の中に生きているのですが、そのことを、「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得る」としています。
●11節.次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。
キリストは、全人類の罪(神から離反)を贖うために生贄となり十字架上で亡くなられましたが、三日後に復活され、救いの御業は完成したのです。
このキリストの福音を信じる者は、キリストと同様に罪に死にキリストと共に復活し、キリストと共に永遠に生きるのです。
これはキリスト教の神秘です。
もちろん、「キリストと同様に罪に死に」というのは、殉教するというのではなく、自分のキリストを知らなかった今までの生き方を捨てて(今までの生き方に死に)、キリスト共に生きる生き方に変わることです。
そのとき、キリストの復活は、希望となります。
●12節.耐え忍ぶなら、
キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、
キリストもわたしたちを否まれる。
●13節.わたしたちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を
否むことができないからである。」
パウロは、11節から13節を「次の言葉は真実です。」としています。
纏めると、一つ目は、「もし私たちが、(福音を受け入れて)彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」。二つ目は、「もし耐え忍ぶなら」、「キリストと共に支配するようになる。」(ローマ8章17 節、黙示録2章26節から27節)。
この「支配する」というのは、神のかたちの回復、つまり、アダムに対して主 が、地を従えよと命じられましたので、神にあって被造物を支配するのです。
三つ目は、「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる」です。
福音を聞いてもキリストを否むのであれば、キリストも私たちを否まれるのです(マタイの福音書、10章33節)。
四つ目は、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を否むことができないからである。」です。
一度福音を受け入れれば、それは私たちがキリストを否むようなことがあっても、キリストは私たちから離れることはないのです(参考箇所、マタイの福音書26章69〜75節、ヨハネによる福音書21章15〜19節、マルコによる福音書16章7節)。
<適格者と認められた働き手>
聖書の箇所は、テモテへの手紙二2章14節から26節です。
14節から、パウロはテモテに、第一の手紙と同じことを教えています。
それは、 テモテが指導しているエフェソの教会において、違った教えを教え、「俗悪な無駄話」に走っている者たちがいるが、そのようなことをしないように願い、また、「神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。」と締めくくります。
●14節.これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。
「これらのこと」というのは、ダビデの子孫として生まれ、死者の中から甦られたイエス・キリストをいつも思うこと、この方と共に生き、忍耐し、この方の真実の中で生かされていくということを、いつも思い起こしなさい、ということでしょう。
「言葉をあげつらわないように」ですから、言い争いは、信仰に関わる懸案事項の解決には何の役にも立ちません。
イエスは、福音を延べ伝えなさいと言っているだけで、力で説き伏せとか口論しなさいとは言っていません(参考箇所、テトスへの手紙3章10節)。
「神の御前で厳かに命じなさい。」は、「何の役にも立たず、聞く者を破滅させる」ような言葉についての論争のことでしょう。
●15節.あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
「適格者」は言い換えれば熟練した者、すなわち、真理の言葉を正しく伝える「恥じるところのない働き手」としての指導者と認められた人ということでしょう。
「真理の言葉」ですが、背景には偽りの言葉がはびこっていることを前提として話しているのでしょう。
「正しく伝える者」の「正しく伝える」は、ギリシア語では「正しく切り分ける」、あるいは、「道を正しく教える」という意味もあるそうです。
これが、教会において牧者や教師、また聖徒たちが取り組むべき主なことです。
●16節.俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、
●17節.その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。
「俗悪な無駄話」の意味するところは、「不信仰」になることで、「その言葉」は、おそらく情欲を燃やしていかせるような教えであったと思います(テモテの手紙二3章6節)。
そして、「その言葉は悪いはれ物のように広がり」とあります。
これらのことが起こる背景には、グノーシス主義に関わる教えが教会内に広がっていたのでしょう。
グノーシス主義では、神は目に見えない霊に関わっておられるが、肉体は神の関わることはしない領域であるという考えです。
心や霊だけが大事であり、肉体の営みは関わりがないのです。
そうすれば、自ずと不品行を行なってもそれが神と関わりがないのだから、許されるということになります。
そういう思想にとらわれた人は、自由と欲望の奴隷になっていくのでしょう。
ですから、異端の教師たちは「がん」のような存在です。
彼らの活動を抑止しないかぎり腐敗がどんどん蔓延していき、最終的には命取りになります。
「ヒメナイとフィレト」は、よくわかりません。
ヒメナイは、テモテへの第一の手紙1章20節に名前が挙げられています。
●18節.彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。
異端とは、テモテへの第一の手紙6章20節から21節によれば、「不当にも知識と呼ばれている反対論、・・その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者」です。
異端に陥った者たちは彼らに追従する人々も異端に巻き込んでいきます。
また、異端の教師たちは「復活はもう起こったと言って」復活を否定しました。
解説では、おそらく彼らはキリストの復活そのものを否定したのではなく、キリスト信仰者の復活はすでに受洗時に起きたから他の復活はもう起きないと教えたのではということです。
異端の教えが猛威を振るっても神様の「堅固な基礎」は揺るぎません。(次節)
●19節.しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。
俗悪なむだ話が、癌のように広まっていく中で、必要なのは「神が据えられた堅固な基礎」です。
それは決して揺るぎませんと言っています。
そして、その堅固な基礎において二つの銘が刻まれていることになります。
それは、「主はご自分に属する者を知っておられる。」と「不義から身を引く」です。
「主はご自分に属する者を知っておられる。」ということですから、私たちが、自分が神 にしがみついていないと、信仰から離れてしまうと心配する必要はないということです。
●20節.さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。
●21節.だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。
「大きな家」は、パウロは私たちをみな、神の大きな家の器に喩えられています。
「大きな家」には、尊いことに用いる「金や銀の器」もあれば、普通のことに用いる「木や土の器」もあります。
そして、その中で「諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器」になるのです。
「諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、」ですから、「卑しい器」も「貴いことに用いられる器」になれると教えています。
器の材料である粘土自体は変わらないのですが、「並外れた偉大な力」を神様が付与してくださるのです(参考箇所は、コリントの信徒への第二の手紙4章7節です。
●22節.若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
21節の「諸悪」として、22節で「情欲」、23節は、「愚かで無知な議論」を取り上げています。
「情欲から遠ざかり」は、テモテ自身若いので、 若さからくる情欲との葛藤もあったことでしょうが、まず遠ざかることが求められます。
また、この情欲は、肉体の情欲を全く否定するものではなく、神の与えておられる境界線を越えて肉体の欲求を満たす時に情欲になるということでしょう。
そして、 情欲を避けるだけでなく、「正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」とします。
それも「清い心で主を呼び求める人々と共に、」としていますから仲間と共に追い求めることが必要なのです。。
●23節.愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。
●24節.主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、
パウロは、2章16節で「俗悪な無駄話」は避けるように言いましたが、ここでも「愚かで無知な議論」を避けるように言っています。
教会員の教育は、論争ではなく、「争わず、すべての人に柔和に接し、」忍耐強く教育することから始まります。
●25節.反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。
「反抗する者」には、「よく忍び」「優しく教え導かねばなりません。」とします。
若者が陥りやすい論争ではなく、柔和な心は聖霊の賜る信仰の実のひとつですから、「彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」ということでしょう。
教えを理解するのには、時間がかかります。教える方は忍耐が必要です。
●26節.こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。
「悪魔に生け捕りにされ」というのは、「反抗する者」とか「愚かで無知な議論」をする者のことでしょうが、その者の背後には悪魔の仕業があると言っていますので、これは霊的な戦いだということでしょう。
そのような者にも、忍耐と、柔和さをもって教え導くが、その人が、自分のしていることに気づくのは飽くまでも神がしてくださることなのです。
「いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。」ということですから、必ずそのようになるとは限らないのです。
けれども、柔和に忍耐強く訓戒すれば、主が目を開かせてくださる可能性があります。
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