挨拶、ゆだねられているものを守る(1章)
<挨拶>
聖書の箇所は、テモテへの手貝第二1章1節から2節です。
パウロに死刑宣告がなされるのは確実になった時、テモテへの第一の手紙では、アジアでキリスト信仰から離れていく者たちがいるという話が出てきましたが、ここでは、教会そのものが異端の教えの中に入っていくような状況です。
つまり、第一の手紙では、ある者たちがキリスト信仰を捨てて教会から離れていくのですが、第二の手紙では、すべての者がキリスト信仰を捨ててしまった状況なのでしょう。
パウロは、テモテへの手紙一4章で、終わりの時には背教が起こることを予告しています。
●1節.キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、
●2節.愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
パウロは、「愛する子テモテへ。」と言っています。
テモテは第一の手紙では、「信仰によるまことの子テモテへ」となっています。
「まことの子」ですから、テモテはパウロにとって自分の教えを忠実に守る、霊的・信仰的な意味での息子ということでしょう。
このようにテモテは、パウロにとって特別な弟子であったのでしょう(使徒言行録16章1〜3節)。
パウロは、自分が使徒となっているのは、「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によって」であると言っています。
パウロは今、死刑宣告を受けて、牢獄で死を待つ状態です。
それなのに、たとえ死が近くとも、私にはキリスト・イエスによって与えられる命の約束があるから、囚人となっている今もなお、使徒として働いていることを強調しているのでしょう。
「主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和がある」というのは、自分は罪びとで裁かれるに当然の人間であるけれども、「主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ」により、裁かれないで今ここにいる、「平和がある」ということでしょう。
<ゆだねられているものを守る>
聖書の箇所は、テモテへの手紙二1章3節から18節です。
●3節.わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。
パウロは、「昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし」感謝して祈っていると言っています。
「先祖」は、イスラエルの先祖のことでしょう。
テモテの母と祖母はユダヤ人ですから(5節)、テモテはユダヤ人の先祖の信仰ユダヤ教を継承しているということでしょう。
パウロは、使徒言行録24章14節で「私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」と言っています。
この『分派』(この道)というのはキリスト者のことです。
当時、キリスト者はユダヤ教の中の一派であって、「この道」と呼ばれていたのです。
●4節.わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。
「あなたの涙」のあなたは、テモテのことで、信仰の父として仰いでいたパウロと、離れ離れにならなければいけなかったので、涙を流していたのでしょう。
テモテは、エフェソにいるのですが、パウロがテモテをエフェソに残していった時(テモテへの第一の手紙1章3節)に流した別れの涙のことではないかと思います(使徒言行録20章37〜38節および21章13節)。
そのことを、パウロは覚えていて、「会って、喜びで満たされたい」と願っています。
いま、パウロは囚われの身ですから自分は行けないのでテモテにローマに来てほしいと願っているのでしょう。
●5節.そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
パウロは、テモテの「祖母ロイスと母エウニケ(父はギリシャ人)」はユダヤ人でしたから、祖母らの信仰(ユダヤ教、旧約聖書の律法に即したことと預言者の書)を、テモテも持っていると確信していると言うことでしょう。
父はギリシャ人でしたから、テモテは異邦人(ユダヤ人以外の人間)でした。
しかし、祖母と母は、テモテが幼いころから人の言葉でなく、聖書(主に律法と預言の書)を教えていたようです。
それゆえ、テモテの信仰は、疑うことを知らない純粋な信仰であったようです。
パウロの第二次宣教旅行の時にテモテが同行していますが、その際にパウロは彼に割礼を受けさせています。
パウロは、神様に感謝と絶えず祈ることを奨励しています。
しかし、「わたしは確信しています。」ですから、テモテの信仰が揺らいでいたのでしょうか。それとも、テモテはキリスト教がユダヤ教の正統で純粋な「継承者」であることに確信がもてなかったのでしょうか。
●6節.そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。
「わたしが手を置いたことによって」ですから、テモテが教会の責任者(牧師)になる按手をパウロから受けた時に「神の賜物」を受けたようです。
テモテがどのような「神の賜物」を授けられたのでしょうか。
パウロは預言などのほかに教会職である教える人、奉仕なども「恵みの賜物」とみなしています(ローマの信徒への手紙12章6〜8節)。
なお、宗教改革者マルティン・ルター(プロテスタントの創始者)は、神様の命じる御言葉と具体的な物質が結びついていないということで、牧師職は賜物とみていないそうです。
ルターが、明確に聖礼典として認めたのは洗礼と聖餐の二つだけだそうです。
また、ルターは、キリスト信仰者は皆、福音を宣教していく召命を受けていて、(礼拝で説教し聖礼典を施行するための特別職である)教会の牧師職にだけ与えられているものではないとしています。納得です。
●7節.神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
「神の賜物」がテモテに与えられていると言っていますが、その賜物が何かは分かりません。。
パウロは、「神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」と言っています。
●8節.だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
パウロの、この励ましの言葉から推察すると、テモテの心理的圧迫は相当なものだったようです。
パウロは、テモテに対し、福音を宣べ伝えるために、苦しみがあっても「わたしと共に苦しみを忍んでください。」と勧めています。
「神の力に支えられて、」は、困難を乗り切るために、自分の力ではなく、神の力で、すなわち、次節でその神の力が与えられている理由を語ります。
テモテは、キリスト信仰に色々な反対意見に遭遇し、議論がなされ、教師としての自分に自信を無くしていたのかもしれません。
囚人となったパウロへの批判もあったのでしょう。囚人となるのは一般的に恥ずかしいことですが、パウロはキリスト信仰、福音のゆえに囚人となっているのですから、「わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」だから、福音を宣べ伝えるために、苦しみがあっても「福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」と、気弱になっているテモテに願っているのです。
●9節.神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、
8節の「神の力に支えられて、」の神の力ですが、それは、「わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによる」とします。
つまり、神は、永遠の昔に私たちをキリストにあって選び、その救いにお定めになっておられるということでしょう。
いま、自分があるのは、自分の人生というものは、すでに神のご計画の中にあるのだから誇りを持ちなさいということです。
わたしたちの救いと、福音の伝道は自分の力とか努力でなく神の力ですから、神の全人類救済、新しい人類の創造という神のご計画の中の出来事にすぎないのです。
だから、2章1節にあるように、「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスの恵みによって強くなりなさい。」ということです。
パウロは、今自分たちがあるのは、神がキリストにあって永遠の昔からわたしたちをお選びになったという、とてつもない恵みによると言っているのでしょう。
●10節.今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
「今や」は前節で述べたことを指し、そのことが「救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」とします。
わたしたちが救われ、福音の働きに召されたのは、永遠の昔に、キリスト・イエスにおいてなのだということが、明らかにされたのです。
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」ですが、「死を滅ぼし」は、もちろん、キリストの死からの復活を指すのでしょう。
「不滅の命」は、キリストに選ばれた使徒は、キリストの言葉、福音を全世界に延べ伝える仕事を与えられ、その福音の言葉を受け入れた者は、キリストにあって永遠の命に与るのです。
●11節.この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
パウロは、キリストの言葉ある福音のために宣教者、使徒、教師として任命を受けているといっています。
ということは、パウロはすでにキリストにあって永遠の命に与っているのですから、死はもはや死ではないのです。
パウロは、この福音のために、「わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。」と、三つの働きに任命されたのです。
宣教者は、福音を宣べ伝える者、使徒は、キリストの権威が授けられて、諸教会を整える働き、そして、教師は、キリストについての教えを説き明かす者です。
●12節.そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
牢獄につながれたパウロも、「恥じていません」と言っています。
「信頼している方」は、もちろん、キリスト・イエスでしょう。
その方を知っておりですから、神のご計画のことを知識ではなく、その体験の中で人生の中で知っているということでしょう。
パウロは、何度も復活のキリスト・イエスとの出会いの体験をもって知っているのです。
その中で、「わたしにゆだねられているものを、」ですから、全人類の救済のための福音伝道と、「かの日」には、キリスト再臨の日で、その日に、福音を受け入れた者が復活して永遠の命に与れることの確信を得た、守ってくださるとということでしょう。
だから、「恥じていません」ということでしょう。
それはパウロが、復活のキリスト・イエスとの交わりからえた確信なのです。
●13節.キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。
「手本としなさい」というのは、テモテに対して、自分が主から任されているものを、彼もしっかり守ってほしいと いうことでしょう。
「任されているもの」というのは、信仰の継承、福音の働きの継承のことで、それは、「わたしから聞いた健全な言葉」を手本とするのですから、その言葉をそのまま「信仰と愛をもって、」倣っていきなさい、ということでしょう。
●14節.あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
「あなたにゆだねられている良いもの」とは、13節の「健全な言葉」、すなわち「信仰の継承、福音の働きの継承」を指し、それを、「わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」ということでしょう。
テモテのいる教会では、ユダヤ教の口伝律法順守とかグノーシス派の教えが入ってきて、その教師は、テモテにゆだねられたものが、何か悪いものであるかのようにみなし、信仰によって自分の守っているものが、まるで良くないものであるかのように中傷し、妨害していたのでしょう。
自分自身ではそれを守ることはできないので、聖霊によって守りなさい、ということでしょう。
なお、教会の長い歴史の中では、多数の教会が偽の信仰に陥り、少数の教会だけが正しい信仰に留まるという異常事態が発生したことがあります。
調べてみますと、300年代のアリウス派の異端や、とりわけ宗教改革以前のローマ・カトリック教会などがその典型的な事例だとします。
中世のカトリックの過ちは、その中から生まれたのでしょう。
神様からすれば、はじめの人間たちが罪に堕落したことは予想外の出来事ではなかったのでしょう。
神様はあらかじめそのような事態を想定しておられ、全人類の罪へ堕落、創造した人間を破滅させる悪魔の力はゴルゴタのキリスト・イエスの十字架において無力化されました(ヨハネの第一の手紙2章2節)。
●15節.あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。
●16節.どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、
●17節.ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。
●18節.どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。彼がエフェソでどれほどわたしに仕えてくれたか、あなたがだれよりもよく知っています。
アジア州のパウロの同労者は、パウロが牢獄につながれたことを知り、パウロから去っていきます。パウロの巻きぞえになるのを恐れたのでしょうか。
教会は違った教えがかなり浸透していたことでしょう。
「オネシフォロの家族」が、パウロのところにやってきたのです。
彼(エフェソの商人か)はローマに来る用事があり「ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれた」と書いてあります。
エフェソの教会は、アジア州にあったのですが、オネシフォロは、エフェソの教会の執事であったようですが、パウロから離れなかったのでしょう。
しかし、囚人を探し出すのですから、大変勇気のいることです。
同類と思われ自分のいのちさえも危うくなります。
それでパウロは、「主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように。」と祈っています。
« テモテへの手紙二前置き | トップページ | キリスト・イエスの兵士として、適格者と認められた働き手(2章) »
「テモテへの手紙ニを読む」カテゴリの記事
- 個人的指示、結びの言葉(テモテ4章)(2025.03.02)
- 終わりの時の人々の有様、最後の勧め(3節)(2025.03.02)
- キリスト・イエスの兵士として、適格者と認められた働き手(2章)(2025.02.20)
- 挨拶、ゆだねられているものを守る(1章)(2025.02.16)
- テモテへの手紙二前置き(2025.02.03)
コメント