テモテへの手紙二前置き
「テモテへの第二の手紙」は「パウロの遺書」と呼ばれています。
それは、死刑の執行を間近に控えて記したパウロの最後の手紙であるからです(4章6〜7節)。
パウロはローマで死刑の判決を受け(4章6〜7節)、死刑施行を待つ中で自ら開拓したキリスト教会の自分亡き後のことを考え、自分がキリスト信仰に導いた、各地のキリスト教会に派遣した信仰者一人ひとりのことに心を配っていたのでしょう。
それでか、この手紙では二十人以上のキリスト信仰者の名前を上げています。
テモテ宛のこの手紙には、テモテに対して特に異端の教えに気をつけるように忠告しています(2章23節)。
なお、ローマ皇帝ネロの在任14年目すなわち紀元68年にペトロもパウロも死刑に処されたいうことです。
そしてネロは同年6月8日に皇帝の座を追われ、翌日に自殺しています。
この手紙は、西暦67年 頃パウロによって エフェソで書かれたと考えています。
この手紙が書かれた時代背景ですが、パウロ自身は、ローマ皇帝によって斬首刑に処せられること決定し、自分が開拓し、福音が大いに広まったエフエソの教会では、違った教えをする者たちが影響力を持ち、また、パウロが牢屋に入れられたことをきっかけにして、アジア出身の福音の働き手が、パウロを見捨ててしまったようです。
その中で、信仰の我が子テモテに励ましの手紙を書いています。
西暦64年にローマで大火事が起こりました。
その火災はネロ自身が都市開発のために火をつけたのではと疑われたので、ネロは、自分に向けられた嫌疑を晴らすために、キリスト者をローマ放火の罪で起訴して、迫害を始めたと言われています。
ペトロの手紙第一と第二が書かれた時代背景にも、この迫害があると言われています。
ネロがキリスト者を嫌ったのは、ローマでは皇帝を神とあがめるように強制していましたが、キリスト者はそれを拒んでいました。
もちろん、皇帝の像に香をたくのも拒んでいました。
それでネロが、キリスト者を放火の犯人に仕立て上げ、指導者であるパウロをとらえたのでしょう。
この時代パウロは西方ローマでは皇帝からの迫害に、東方アジアでは内からの攻撃を受けていました。
テモテはその中で、パウロの弟子として恐れや落胆の中でさぞ苦しんでいたことでしょう。
パウロは、気弱なテモテを、手紙で励ましていたのだと思います。
パウロは自分が置かれた状況が最悪ですが、気落ちをしていません。
苦しみの中にいても、それでも信じる価値のある福音をパウロは力強く語ります。
パウロが初めて囚人となった理由は、彼が福音を伝える中で、エルサレムにおいて、主イエスが自分を異邦人に遣わすと言ったと証言したときに、ユダヤ人が騒ぎ出し、それがきっかけで、囚人となりました。
その後パウロはローマに護送され、住まいは自費で用意するのですが、やがて釈放され、再びまた捕らえられます。
そして、ローマ皇帝ネロにより処刑されるのですが、経緯は省略します。
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