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2025年2月 3日 (月)

大きな利得、信仰の戦い(6章)

<大きな利得>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一6章3節から10節です。
●3節.異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、

 

では、「主イエス・キリストの健全な言葉」とは、福音書やイエスの特定の御言葉集のことではなく教義も行いも含めた福音全体を意味しているのでしょう。

 

もちろん、正しい教義は福音から出てくるものです。

 

「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、・・従わない者がいれば、」の「主イエス・キリストの健全な言葉・・信心に基づく教え」とは、イエス・キリストの福音によって、神の救いにあずかり、神に似た、キリストに似たものに変えられるという教えでしょう。

 

「異なる教えを説き」は、福音は一つですから福音についてそういう教えと違った教えを教える者は異端教師だということになります。

 

 

●4節.その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、
●5節.絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。

 

「異なる教え」、すなわち、異端の教えがキリスト教会の中に入ってきて、それで、「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。

 

そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。」と言っています。
この異端の教えはおそらくグノーシス派のことを言っているのでしょう。

 

パウロはグノーシス派の異端教師の教えに危機感を覚えテモテに忠告したのでしょう。

 

なお、偽りの教師たちの特徴としては、1.「議論や口論に病みつき」になり教会内に分裂を引き起こす。2.「精神が腐り、真理に背を向け、」ですから、かつては正しい信仰をもっていたが真理にそむき捨ててしまった。3.信心を利得の道と考える者。

 

●6節.もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。

 

「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道」というのは、この利得は、この世的な富ではなくて天国への道という富で、救いの恵みという利得でしょう。

 

●7節.なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
●8節.食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。

 

人は、裸で生まれてこの世で一生懸命この世の利得に励みますがしょせんむなしいものです。
人は、「何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない」のです。

 

●9節.金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。
●10節.金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

 

それなのに、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。
「これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。 」。

 

「金銭の欲は、すべての悪の根」で、「満ち足りることを知る者」とは正反対です。
それは教会の中での争いの原因が、利得が絡んでい る場合が多いからでしょう。

 

当時も今も教会の中での争いごとには金銭の欲はつきものです。
それは教会運営がビジネスになっているからと言えないでしょうか。

 

だから執拗な献金の要請が行われるのです。貧しい者を教会から放り出すことも起こるのです。神様にはお金は必要ありません。
監督者がビジネスに手を出して、それを教会に持ち込むこともあるでしょう。

 

監督者は自分の欲望達成のために信徒に対し、必要以上の献金を要請する事例も見受けられます。
監督者は自己の生活状態を世間に照らして、世間並みにするように要請する場合もありますが、日ごろ異邦人の世界を否定し、「満ち足りることを知る」と教え、金銭欲を否定して隣人のために尽くしなさいと教えているのに、生活水準は(金銭欲にまみれた)異邦人並みにしてほしいなど少しおかしくはないでしょうか。

 

なお、ここで問題視されているのは、金銭自体ではなく金銭欲であることに注意するのが大切でしょう。
金銭は現代社会では必要不可欠な交換手段なので、金銭との関係を断つことはできません。

 

金銭欲はこの世を生きていくうえで必要不可欠ですが、金銭は麻薬に似たところがあります。
金銭欲のとらわれると、どこまで言っても満足がなく際限がないのです。
ですから「金銭の欲は、すべての悪の根」、諸悪の根源です。

 

<信仰の戦い>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一6章11節から21節です。
●11節.しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。

 

「神の人よ」は、テモテを指しているのでしょう。
なお、「神の人」という表現は新約聖書では、テモテへの第二の手紙3章17節だけですが、この箇所以外はこの言葉はキリスト信仰者たち一般を指しているということです。

 

「これらのことを避けなさい。」というのは、教会の中で活躍する異端(グノーシス派)は、信心を利得の道と考える者で、その者を避けなさいということでしょう。

 

このように敬虔を利得の手段とするような動きとか、言葉の争いとか、そのようなものを避けなさい、とパウロは言っているのでしょう。
教会の問題を解決のために対応するのではなく、避けるのです。そして、元々やるべきことに集中しなさいということでしょう。

 

それが、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」ということでしょう。

 

●12節.信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

 

それでは、「信仰の戦い」ですが、教会内の問題を避けて何が戦いなのでしょうか。
それは、大事なキリスト信仰を最も大事なままであるように守ることでしょう。

 

時間がたてば、異端の教えに染まって、大切な信仰が本来のあるべき性質を変えてしまうからです。
だから、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を」熱心に求めなさい、そして、「永遠の命を手に入れなさい。」と言っているのでしょう。

 

「信仰の戦いを立派に戦い抜き」ですが、そのようにしてこの世界を戦い抜いても、キリスト信仰は永遠の命への招きであると言えますが、そこに至る救いは神様の御業であり人間の行いではありません

 

「あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明した」ですが、この信仰表明は、信仰告白した際の按手の時なのか、それとも水のバプテスマの時なのか明確ではありません。

 

い ずれにしても、永遠の命に至るキリストを信じる信仰告白を、多くの人の前で行った、つまり、信仰 を公にした時ということでしょうか。

 

●13節.万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。

 

パウロはテモテに対して、父なる神とキリスト・イエスの前で命じると言っていま す。
父なる神については、「万物に命をお与えになる」と、そして、イエス・キリストについて は、「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさった」と言っています。

 

迫害に対し、死に至るまで父なる神に忠実であったキリストが先駆者としておられ、そして死んでもキリストにあって甦らせてくださる父なる神がおられるということで す。

 

「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言」というのは、ピラトの前で、ご自身がユダヤ人の王であること、この十 字架刑は父から来たものであることを告白し、また訴えられても言い返されなかったこと等でしょう(ヨハネによる福音書18章33〜37節、19章10〜11節)。

 

●14節.わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。

 

パウロは手紙の冒頭でご自分を、「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」と言いましたが、その希望が、「主イエス・キリストが再び来られる」、つまり、再臨です。」

 

キリストが再臨されるまで「おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」と言っているのでしょう(テモテへの第二の手紙4章1、8節)。

 

●15節.神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、

 

父なる神は「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、」です。
「定められた時」ですが、時間は指定されていません。

 

キリストの再臨の正確な時について御存じなのは父なる神だけです(使徒言行録1章6〜7節)。

 

●16節.唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

 

時代背景ですが、当時ローマ帝国は、ヨーロッパ、中東、北アフリカの全域を支配していました。
皇帝は、救世主でまた神の子と呼ばれていました。キリスト信仰は、それを真っ向から否定します。

 

それは「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。」とします。

 

父なる神を見ることはできませんが、イエスが父なる神を啓示してくださったので、私たちは神について、救いに必要な程度までは知ることができるようになりました(ヨハネによる福音書1章18節)。

 

なお、15節で、父なる神は「定められた時にキリストを現してくださいます。」とありますが、これは、旧約聖書の神と新約聖書の神は同じ神であると言っていることになります。

 

●17節.この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

 

「大きな利得の道」、すなわち、この世的な富ではなくて天国への道という富で、救いの恵みという利得」の道である永遠の命に至る道、すなわち、やがて栄光に富むキリストが再臨され、この方を望みとして生きる道を生きているのですから、この世における富に望みを置くべきではない、ということでしょう。

 

「高慢にならず」は、富は、高ぶりを生じさせるからでしょう。
「不確かな富に望みを置くのではなく、」は、主キリスト・イエスが再臨されるのを望みとしているのであれば、あの世に持っていけない富などの思い煩いから解放されます。

 

「すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」は、わたしたちを決してひもじい思いをさせることはなく、むしろ、あらゆる境遇において、(富による豊かさではなく)主の豊かさを楽しませてくださる神に望みを置くようにということでしょう。

 

●18節.善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。

 

キリスト者の財産に対するあり方です。
自分に任されている財産は、自分のために使うのではなく、「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与える」ように勧めています。

 

すなわち、富はそれ自体としては悪いものではないのですが、問題なのは富に対する私たち人間の態度が問題なのでしょう。
もしも富を他の人たちを助けるために用いたならば父なる神の御意思に従っていることになります。

 

●19節.真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。

 

「真の命」は、神と共にある命、永遠の命のことでしょう。
「未来に備えて」の未来は、この世のように老後の設計を言っているのではなく、キリスト者は老後の先、「真の命を得るため」の未来設計を立てなさいということでしょう。

 

「自分のために堅固な基礎を築くように」ですから、今の内にその未来に備えて、堅固な基礎を築き上げていくようにしなさい、でしょう。
神の御国というものが、あるようなないようなものではなく、現実のもの、間もなく来るものとして用意していく必要 があるということでしょう。

 

初期の教会のキリスト信仰者たちは、大多数は貧しい人々であったようですが、中には経済的に余裕のある会員たちもいたようです。
その者を念頭にこのように言っているのではないでしょうか。

 

わたしたちは、財産や富は、神様から預かったものとし、その管理者にすぎないことをわきまえるべきです。
つまり、神様から預かった富を「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与える」ならば天に富を積むことになるのです。

 

そのことによって「未来に備えて自分のために堅固な基礎を築く」ことになるのです。

 

こうしてみると、この世で賜物を賜ったキリスト者の生き方で間違った生き方は、1.物質主義(6章17節)。2.神の恵みを拒否する禁欲主義(4章3節)。3.金銭欲(6章10節)。4.利己主義(6章5節)
となります。

 

●20節.テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。

 

手紙の最後に来ました。結論です。
それは「あなたにゆだねられているものを守り」なさいです。

 

守ることは、主イエス・キリストの福音、神の救いのご計画につい てでしょう。
キリスト教信仰は神の啓示に依拠していることをパウロは強調しています。

 

それで、パウロはテモテに、神から啓示されたことをしっかり守りなさいと言われているのでしょう。
グノーシス主義に依拠した異端の教師たちが教会の内側から出現してきたのでしょう。

 

「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論」ですが、これは、当時キリスト者はユダヤ教から独立する前でユダヤ教内の一派でしたから、ユダヤ主義、つまり律法主義が教会内でまだまだ力を持っていました。

 

また、グノーシス主義が教会内に入り込みキリスト信仰が危機に瀕していたのでしょう。
それで、聖書の話を超えた憶測だけで語る作り話がいろいろとあって広まっていたのでしょう。

 

それから、グノーシス主義ですが、解説を読みますと、グノーシス主義あるいは霊知主義は、選ばれた者である「私たちには神からの知識が特別 に与えられていて、他の者たちには明らかにされていない。」とする、霊的エリート主義であったそうです。

 

神は肉体には関わる方ではなく、霊と肉を分離する二元論で、結婚や 性的な関係、また特定のものを食べることも禁じたりします。

 

ユダヤ主義でも、食べ物については食物規定があり、特定のものを食べるのを禁じ、あるいは極端に、肉体に関わることは神との関係に関わりがない のだから、何をやっても構わないという快楽主義です。

 

なお、「知識」はギリシア語で「グノーシス」といい、グノーシス主義という異端の名称の由来となっているそうです。

 

●21節.その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。

 

恵みがあなたがたと共にあるように。
「その知識」というのは、グノーシス主義のことを言っているのでしょう。

 

おそらく、「鼻にかけ、」ですから、一見、もっともらしく福音よりも優れているように見せている教えであったのでしょう。
これらを注意して避けなさいとパウロはテモテに教え ています(使徒言行録20章28〜29節)。

 

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