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2025年1月20日 (月)

教会の人々に対して(5章)

聖書の箇所は、テモテへの手紙一5章1節から25節、6章1節から2節です。
1節から16節は、家族としての教会のありかた、すなわち、教会は神の家族 であると呼ばれているわけですが、教会が持っている、霊的な奉仕と実際の家族との兼ね合いのなかでどのように教会が機能していくべきなのか、でしょうか。

 

●1節.老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、
●2節.年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。

 

 

パウロは、教会内で年齢差からくる諸問題に対し、若い年齢の監督者であり牧者であるテモテに対して、注意しています。
肉の家族と同じように、年上の人には「自分の父親と思って」、また年下の人には「兄弟と思い、」接しな さいと教えています。

 

つまり、同じ教会員には家族と同じように接しなさいと言っているのです。
現在でも、教会では主にあって教会員は兄弟姉妹と呼んでいます。
教会員は、キリストにあって一つであり、兄弟として敬いながら 勧めを行ないなさいと言っているのでしょう。

 

年よりの女性には母に対するように、そして若い 女性に対しては、下心が起こらないように、むしろ自分の肉の兄弟姉妹に対してと同じ思いでいられるようにしなさいということでしょう。

 

●3節.身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。

 

ここはやもめに接する場合のあり方を書いています。
この時代は現在と違い、夫がいなくなれば妻は生きてはいけませんでした。

 

現在の母子家庭は、働く場所があり、公的な支援にも恵まれていますが、当時はやもめになれば生きてはいけませんでした。
ここで言っているやもめは3節にあるように、「身寄りのないやもめ」です。

 

やもめは助けるのを前提にして、そのやもめが本当にやもめなのかどうかを確かめなさいと命じているのです。
やもめならば誰でも助ければよいと思うのですが、やはり、経済的事情があり条件を付け選別する必要があったのです。

 

背景には、本当のやもめでない者までが支給を受けて、それで経済的負担が増えているという事情があったのだと思います。
なお、「大事に」というのは、「敬う」とか、「援助する」という意味があるのでしょう。

 

解説では、やもめがこのように問題となるのは、250年頃のローマの教会にはやもめや助けが必要な人が多くいたのではということです。

 

●4節.やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。

 

ここは次節から見て、やもめでも、扶養してくれる子供や孫がいるならば、その者たちに「まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。」と言っています。

 

それは「神に喜ばれること」ですから、聖書が教える「あなたの父とあなたの母を敬いなさい。」に通じるのです。

 

●5節.身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、

 

やもめの子や孫には、自分の母親あるいは祖母を助ける義務があります。
そしてその援助は、彼ら自身が若い頃に両親や祖父母から受けた援助に対して報いであり、また、「神のみこころにかなうこと」であったのです。

 

解説では、当時の社会では婚礼の際に花嫁の親が持参金をもたせて花婿のもとに送り出す習慣があったそうです。
その持参金を受け取った花婿の親戚たちは、花嫁が後にやもめとなった時に彼女の世話をする義務を負うという法的な規定があったそうです。

 

「神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続け」ですが、当時やもめは、社会的地位は低く、経済力もなく、社会から見捨てられた人々であったので、やもめの重要な使命は祈ることでした(5章5節)。

 

●6節.放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。

 

「身寄りがなく独り暮らしのやもめ」と「放縦な生活をしているやもめ」を対比しています。
教会内で、両方に該当するやもめがそれぞれいたのでしょう。

 

6節の「生きていても死んでいるのと同然」というのは、そのやもめには神様はいないということで、霊的にということでしょう。
なお、「放縦な生活をしているやもめ」には、売春婦をもさしているのでしょうか。

 

当時やもめは働く場所もなく、経済力もなかったので、親戚同士の助け合いのネットワークから切り離され、支援する者がいない場合は、唯一の収入源は売春しかなく、それによって生計を立てていたようです。

 

●7節.やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。

 

一部の「放縦な生活をしているやもめ」のせいで、やもめの人全員が教会員から非難されて、「もう、寡を助 けることはやめよう。」という流れになってしまうことを、パウロは危惧しているのでしょう。

 

それでパウロは、「やもめたちが非難されたりしないように、」、次節以降のことを 命じなさい。」と言っているのでしょう。
なお、やもめは教会から援助を受けられるということで、教会に属さないやもめたちも教会に近づくとか、教会からの援助を獲得するためにやもめの親戚たちがやもめの世話を故意に放棄することなどがあったということです。

 

だから、教会はやもめへの援助が不正に拡大利用されないようにするために、援助を申し込んだやもめたちのことを吟味する必要があったのでしょう。

 

●8節.自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。

 

不信者でも扶養の義 務を守っているのに、それを怠ったら不信者より悪いのだと言っています。
信仰者なのに「自分の親族、特に家族の世話をしない者」は、「信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」と言っています。

 

それは、律法の中の十戒の第12戒「あなたの父母を敬え。に反することになるからでしょう(出エジプト記20章12節)。
「信仰を捨てた」は、霊的に(信仰的に)死んでいるということでしょう(マルコによる福音書7章10〜13節)。

 

質の悪いのは、自分は霊的に(信仰的に)生きていると思って、自分には悔い改めなど必要ないと誤解することです。(ペテロの第二の手紙2章21〜22節)。

 

●9節.やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、

 

60歳以上のやもめは再婚することをあきらめて教会への奉仕に専念することができたのでしょう。
彼女たちはそのために「約束」、誓いました。(5章12節)

 

初代教会の中には、教会に仕えるやもめの名簿があったようです。
「やもめ」の職務内容は祈り(5章5節)、奉仕(5章10節)、家庭訪問(5章13節)が含まれていたようです。

 

「一人の夫の妻」ですから、浮気をしているとか、再婚の経験があればだめですね。
そして、あくまでも「善い行いで評判の良い人」でなければなりません。

 

●10節.善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。
●11節.年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、
●12節.前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。
●13節.その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。
●14節.だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。
後に「やもめ」とみなされる年齢制限は60歳から50歳にまで引き下げられたそうです。

 

10節では、「あらゆる善い業に励んだ者」であることが求められています。
11節から13節では、「年若いやもめは」登録できなかったとあります。

 

その理由が、情欲にかられ結婚したくなるとか「怠け癖がつき、・・おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。」からです。

 

そうすると、異端が入り込むとか悪い行いに走るようになるということでしょう。
それを、15節で「道を踏み外し、サタンについて行った」と表現しています。

 

だから14節で、若いやもめは、「再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないこと」と指導します。

 

●15節.既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。

 

「サタンについて行った」ですが、これはグノーシス主義に転向した若いやもめたちのことを指しているのでしょうか。
サタンのあとを追うことは、同時に異端に陥ることを意味しています。

 

●16節.信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。

 

信者の身内に未信者のやもめがいた場合、そのやもめの世話で教会に負担をかけないようにしなさいということでしょう。
このように教会によるやもめの支援を見てみると、教会のやもめの支援は、教会に集っている信者で、本当に支援が必要なやもめたちだけのためであったのでしょう。

 

この本当に支援が必要なやもめの条件をまとめると、良い行ないで認められていた人、子供をよく育て、旅人をもてなし、困っている人を助けるなど良いわざを行なっている人、それから、昼も夜も、 祈りに専念して、望みを神に置いている人となります。

 

●17節.よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。

 

長老には、「指導している長老」と「御言葉と教えのために労苦している長老」がいたのでしょう。

 

「よく指導している長老たち」の中でも「御言葉と教えのために労苦している長老」ですから、福音の宣教に専念できる長老たちに対しては、教会は彼らの生活費を賄わなければならないからでしょうか「二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべき」としています。

 

「よく指導している長老」ですから、きちんと指導していない人に対しては「二倍の報酬」のことは対象外です。
無条件に二倍の報酬を払いなさいと言っているのではないのです。

 

福音の宣教に専念できる長老、すなわち、教会のためにフルタイムで働く長老であって指導者でもあり牧者でもあった長老ということでしょう。

 

次節と同じで、ここは指導の任に当たっている長老たちに対する接し方でしょう。
「長老」ですが、今の教会で使われている「長老」とは意味合いが違いますね。

 

当時の長老は監督と、また牧者と同じ人です。

 

つまり、教会で指導の任に当たる人が、どのような働きをしているのか、その働きの側面によって長老と呼んだり、監督、牧者とも呼ばれているようです。

 

●18節.聖書には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。

 

「よく指導している長老」たちとは、「キリストの苦難の証人」であり、「牧している」、 つまり御言葉で信徒を養い狼から守ることで、それを「自分から 進んで心を込めて」やってい ることです。
そして、信徒を支配するのではなく、信徒の「模範となる」ことでしょう。

 

●19節.長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。

 

「二倍の報酬」を受けている指導者たちは、周囲からとりわけ厳しい目で見られていたようです。
その結果、彼らは誹謗中傷に悩んだことでしょう。中には根拠のないものまであったことでしょう。

 

そこで、指導者たちに対する訴訟では、「二人あるいは三人の証人」が必要とされました。

 

●20節.罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。

 

「罪を犯している者」ですが、前節からの流れからみると、指導者を指しているのでしょう。
罪をとがめることは、長老たちの面前で公然と行われたようです。それも、「ほかの者も恐れを抱くように」なるためと言っています。

 

●21節.神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。

 

教会の指導者である長老は、神の言葉を取り次ぐ者です。
その長老が、聖霊が働かれている教会で罪を犯した時は、ここに書かれているよう に、公の対処が必要になるのです。

 

罪は人間であれば誰でも犯しますが、主にある者は、その罪を主の前で言 い表して、悔い改める必要があります。
それを放置しておくと、その人の罪意識は、その人の心の中にだけあるものですが、それが口に出てきて、行動に出てきて、次第に公に前で明らかにされていきます。

 

やがて長老の罪を信徒全員が知ることになり、信徒の信仰の学びに影響し、主の教会を汚すことになるのです。

 

●22節.性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。

 

「手を置いて」というのは、按手とも言い、そうすることで、キリスト教で教職者を任命するときに、監督者などが志願者の頭の上に手を当てて、自分たちが受け継いできた牧者としての権能や必要な賜物を志願者に授与と継承を神に願います。

 

ですから、按手を授ける者は按手を受ける者について責任を負います。
もし、按手を受けて教会の職務を委ねられた者が不適格であった場合、按手を授けた者が按手を受けた人物の適格性をあらかじめ十分に吟味しなかったことになるからでしょう(3章10節)。

 

だから、「性急にだれにでも手を置いてはなりません。」としています。

 

●23節.これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。

 

テモテに対して言っているのでしょうが、意味がよく分かりません。
責務の重さで、テモテは胃を痛めていたのでしょうか。元々胃弱であったのでしょうか。

 

「ぶどう酒」ですが、当時のぶどう酒は今のワインと違ってアルコール度は低かったそうです。
そうしたものを少量飲 むということですから、これはあくまでも健康のため、治癒のためであると考えられます。

 

調べてみると、当時、水の質が悪くしばしば腐っていたそうですから、胃痛はそれが原因なのかもしれません。
当時、教会では、グノーシス主義的な禁欲主義が入り込み、ぶどう酒を贅沢として、その使用はキリスト信仰者たちの間でも意見の分かれる問題であったそうです。

 

●24節.ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。
●25節.同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。

 

パウロは、罪の裁きの際に不公平が入り込むこと、裁かれなかった罪も後になって明らかになること。また、良い行いも、そうでない場合も隠れたままのことはないとします。

 

パウロはここでテモテに、そうですね、そんなに深刻にならないでと言って、励ましているのでしょう。
罪の裁きは、しょせん人間には公平に裁くことはできません。

 

罪は、主が明らかにしてくださるのですから、明らかにならなかった罪も後で(終わりの日の裁きの時に)明らかになります。
良い行いも、主にあって行なったことは、報いから決して漏れることはなく、そのことは教会においても次第に明らかにされます。

 

●6章1節.軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒瀆されないようにするためです。

 

パウロは、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきもの」と言っています。
ローマ帝国においては、人口の半分以上が奴隷であったそうです。

 

その奴隷にもいろいろな階級があり、教育を受け、文化的な生活をしていた人たちもいますが、法的には人間とみなされず、主人の所有物でありました。

 

しかし、キリストの福音は、全ての人が神の前で罪人であり、全ての人が信仰によって、恵みによって救われるのですから、差別がありません(ガラテヤ書3章28節)。

 

そういうところからこの1節のような対応が生まれるのでしょう。

 

●6章2節.主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。

 

ローマ社会の中で半分以上が奴隷だと書きましたが、その中でイエスを 信じた人々も多くいます。

 

ここでは、「主人が信者である場合」ですから、奴隷であった、または奴隷である信徒の主人が、同じイエスを信じる者となった場合、その主人のもとでどのように生きなければいけないかを教えているのでしょう。

 

主人を、「自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。」と教えます。
イエスはこの地上のおられるときに、ローマ社会にあるユダヤ人共同体の中で生まれ育ち、政治的にも社会的にも様々な不条理が多くありましたが、その中で生きられ、その不条理な制度そのものを変えよ うとはされませんでした。

 

それら全ての立てられた制度の中で、それを尊重して、小さい者、貧しい者に憐れみの行ないをされて、正 義を行われました。
人間社会は、不条理は当たり前です。神様はそれをよくご存じで、その中で神を愛し、隣人を自分のように愛し行きなさいと言われているのです。

 

教会では、奴隷の身分の人も主人の身分の人も、同じ 取り扱いでした。
どのような身分の人も、主にあって平等なのです。

 

どのような身分であっても、気にしないで一生懸命働けば、兄弟である主人の益になります。
その益をもって、その主人は 教会においても、もっと主に喜びの捧げ物をできるかもしれません。

 

ここでこのようなことに言及しているのは、奴隷である信徒の主人がキリスト信仰者である場合、信徒と主人は共通の信仰をもっていることになりますが、それで、奴隷である信徒は主人に(楽になりたいから)自分を特別扱いしてくれるように要求する誘惑に駆られたからでしょう。

 

そのような信徒に対し、パウロは彼らがむしろ以前よりも熱心に自分の主人たちに仕えるようにと奨励しました。

 

 

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