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2025年1月 3日 (金)

神の憐れみに対する感謝(1章)

聖書の箇所は、テモテへの手紙一1章12節から20節です。
●12節.わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。

 

パウロは、ここから自分自身のことを話し始め、神への憐れみと感謝の祈りが始まります。
そして、神から福音宣教の務めがゆだねられた経緯を語るのですが、主キリスト・イエスが「わたしを強くして・・わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださった」とします。

 

そう、パウロは、キリストが「わたしを忠実な者と見なして」と言っています。自分がキリストの忠実な者になったのではなく、キリストが自分を忠実な者とみなして、ということです。

 

 

パウロ自身は別の生き方をしようとしていたのですが、ダマスコへの途上で神は彼を御自分の福音伝道のために召命されたのです(使徒言行録9章1〜6節)。

 

また、パウロは、神から使命をいただき、その使命を実行するための力もいただいたのです(フィリピの信徒への手紙4章13節)。
●13節.以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。

 

かつてパウロはユダヤ教徒で、「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者」であったとします。
ですから、キリストが「わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださった」のは、それらは「信じていないとき知らずに行ったことなので、」憐れみゆえだとします。

 

かつてパウロはキリスト教会を滅ぼそうと試みました(使徒言行録9章1節、22章4〜5節、26章9〜12節、ガラテアの信徒への手紙1章13節)が、彼はそうすることで自分が神に仕えているのだと思い込んでいたのでしょう。

 

神に対する罪で、確信犯の罪は無知のゆえに罪を犯した者よりも厳しい裁きを受けています(民数記15章22〜31節)。

 

●14節.そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

 

パウロは、神のあわれみを受けただけでなく、主の「恵み」をも受けたのです。
恵みですから、自分は神の祝福にあずかるに価しないのに、祝福を受けているということです。

 

ローマの信徒への手紙」5章20節に「律法がはいり込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。
しかし、罪の増したところでは、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」とあります。

 

●15節.「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

 

パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」のは真実だとし、「わたしは、その罪人の中で最たる者」だと宣言します。

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」という言葉は牧会書簡ではほかにも出てきます。

 

パウロは自分のことを「罪人の中で最たる者」と言っていますが、(神に対する)罪深さなど人間には他人と比べることなどできないのではないでしょうか。

 

むしろ、人間は神の前では各々が最大の罪人だと言えます。
パウロはキリストを知り、自分の罪を自覚し、そのような気持ちになったのでしょう。

 

●16節.しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。

 

パウロは、「罪人の中で最たる者」である自分が神から憐れみを受けて救われたのは、キリストを信じて救われようとする人々の手本となるためだと言っているのでしょう。

 

パウロは、神はご自分の寛容さを示すためにパウロを初めに選ばれたのだ、と言っているのでしょう。
パウロは、最大の罪びとである自分を憐れんでくださるならば、神はもっと小さな罪人たちのことも(すなわち誰であれ)憐れんでくださると言いたいのでしょう。

 

●17節.永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

パウロは賛美を続けます。
17節は、活ける真の神は唯一の存在であることを教えているのでしょう。
「目に見えない唯一の神」ですから、人間には神そのものを見ることが決してできないということです。

 

●18節.わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、

 

テモテは、以前、長老たちがテモテに手を置いて祈っているときに、テモテに預言が与えられて、彼はパウロの同僚となり牧会の務めに任じられていることになったときのことを言っているのでしょう。(使徒言行録16章1〜3節、テモテへの第一の手紙4章14節)

 

そのテモテにパウロは、「その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、」と命じます。
テモテは、若く弱弱しくおくびょうな性格の持ち主であったそうですが、パウロは、「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われ」て、異なった教えを集会に吹き込んでいる者たちと戦うことを命じているのです。

 

●19節.信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。

 

「正しい良心」ですが、神は私たちに良心を与え何が真理で何が偽物かを判断する能力を与えています。
しかし、その異なった教えが幅を利かせて教会の一部の人々がそれに影響され良心を捨てて信仰が挫折することがあったのでしょう。

 

●20節.その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒瀆してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。

 

「その中には」は、信仰を挫折した人々を指し、その中には、「ヒメナイとアレクサンドロ」がいたのです。
その人々をパウロは、「神を冒瀆してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」と言っています。

 

彼らをサタンに引き渡す権威がパウロには与えられていたのです。
これはエフェソの集会での出来事だったと思いますが、ヒメナイという名はテモテへの第二の手紙2章17〜18節でも出てきますが、その箇所によれば彼は復活がすでに起きたと主張していました。

 

パウロはコリントの信徒への第一の手紙5章5節で「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」と言っています。

 

現世で罪を犯し、または救われないで死んでも、主の日には救われるのです。

 

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