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2025年1月12日 (日)

背教の予告、キリスト・イエスの立派な奉仕者(4章)

聖書では「終わりの時」は、すでに約2000年前のペンテコステ(聖霊降臨使徒言行録2章)の出来事から始まっています。

 

それから以降現在も、またやがて、7年の艱難時代が訪れこの人類社会が終わるまでが終わりの時(終末)なのです(「ヘブライの信徒への手紙」1章1〜2節)。

 

終わりの時に起きることについては「使徒言行録」20章29〜30節、「テモテへの第二の手紙」3章1〜5節に記載されています。
悪魔はなぜかこの地上で自由に活動していますが、艱難時代にはさらに活発に活動します。

 

悪魔は、人間の考えでは正しく見えるような「迷いの霊」を使うこともあり(ヨハネの第一の手紙4章6節)、また、異端の背後には悪魔が加担しているのです。(テモテへの手紙一4章1から2節、5章15節、ヨハネによる福音書8章44節、コリントの信徒への第二の手紙2章11節、エフェソの信徒への手紙6章11節、テサロニケの信徒への手紙二2章9〜12節、ヨハネの手紙一2章18節、4章1〜3節、ヨハネの黙示録13章14節)。

 

 

 

<背教の予告>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一4章1節から5節です。

 

●1節.しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。

 

「しかし」というのは、3章16節を受けてということでしょう。
つまり、「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」というキリスト教の奥義です。

 

「信仰から脱落」というのは、もちろん、イエス・キリストの福音そのものから離れるということでしょう。
それらのことは終わりの時に起こるのですが、それは、「惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、」としています。

 

終わりの時には、反キリストの霊の働きが活発化するのです。
第一ヨハネの手紙4章1節から3節に「1愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 2イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 3イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」とあります。

 

●2節.このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、

 

終わりの日に起こる1節のことは、「偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされる」のですが、その者は悪魔によって「良心に焼き印を押されて」いるからとしています。

 

悪魔は噓つきの確信犯ですから、彼から真実を聞くことは絶対にないのです。
その悪魔どもの教えに心を奪われた者は、「良心に焼き印」を押されていますから、偽善(真の性格・性向を隠す一方で、美徳または善といった見せかけの外観をつくることを言う。)によって嘘をつくのです。

 

「良心に焼き印」は良心がマヒするとも言いますが、つまり、罪悪感もなくなり、平気で嘘を人に教えるようになるのです。嘘の確信犯です。
異端の教師(ここではグノーシス派のことを指す)たちは、悪魔の所有物として焼き印を押されているのです。

 

良心に悪魔の焼き印が押されているのですから、良心が働く必要なときのみ悪魔が異端の教師に働くのでしょう。
悪魔が焼き印を押した良心は1章19節では、「正しい良心」の反対で、正しくない良心ということになります。

 

●3節.結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。

 

悪魔に良心を乗っ取られた異端の教師が教えていた具体的なことは、「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたり」としています。
異端教師たちは肉的な快楽を拒否する禁欲主義を要求しました。

 

異端の教師は肉体そのものを殺すべき汚れたものとみなすグノーシス主義の考え方に通じるものでした。
しかし、肉の欲望から離れることは人間にはできないのです。

 

たとえ肉的な欲望から一時的に解放されたとしても、それに代わって他の肉的な欲望が新たに湧き上がってくるのです。
こうして人は肉体をもって生きている限り、死ぬまで肉を殺す試みの周辺をずっと堂々巡りし続けることになるのです。

 

人間は自分の力では罪から逃れられないということは、そのことです。
そのような人間の罪を贖うためにキリストは、自ら生贄となって殺されるためにこの地上世界にこられたのです。

 

結婚は、神が人類創世時に定められた制度であり、食物は、「信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。」。

 

食物も神が我々に食べるようにとお造りになったことを信じると、感謝の思いがわいてきますから、その感謝の中で食べるのです。

 

●4節.というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。

 

3節を受けて、神は天地創造のときにご自分が創造したものを見て「よしとされた」(創世記1章)とあります。
ですから、神が創造されたもので悪いものは何一つないのです。

 

●5節.神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

 

神が作られたもので悪いものは何一つない食物を感謝していただくことが、神の言葉と祈りとによって「聖なるもの」とされるですから、祈りになるのです。

 

人間は、神から良心が与えられていますが、その良心によって、何が罪であり、何が良いことであるかを知ることができます。
この良心が、神の言葉(聖書の言葉)と祈りによってきよめられます。

 

神によって清められるのですから、神にとって正しいことが何かを知ることができるのです。
私たちの祈りは、自分の感じていること、思っていることによって導かれるのではなく、良心に語られた神のことばと、それに応答する信仰によって導かれるということでしょう。

 

<キリスト・イエスの立派な奉仕者>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一4章6節から16節です。
●6節.これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。

 

パウロはテモテに「これらのこと」、すなわち、これから語ることを兄弟たちに教え広めるならば、キリスト・イエスの立派な奉仕者になると教えます。

 

キリスト・イエスの言葉をほかの人々に教え広めることは、神様の御心にかなうことだからということでしょう。
そうすれば、キリスト・イエスのりっぱな奉仕者となれるのです。

 

神の言葉を広めれば、神の言葉を知らない人に神の言葉を知る機会が与えられ、信仰は神様からの賜物ですから神様はその者に働かれます。
これは教会の指導者たちだけにではなくキリスト信仰者全員にもあてはまることです。

 

●7節.俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。

 

ここはグノーシス主義の教師たちを念頭に置いて言っているのでしょう。
教会内で、正しい教師として称賛されているグノーシス主義の教師には女性が多かったそうです。
パウロは、その女性教師の教えを偽りの教え、悪霊の教えとし、それを念頭に置いていたのでしょう。

 

●8節.体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。

 

「体の鍛練」は、今生きていくうえで有効なことで、当時盛んであったようです。
体の鍛錬が盛んであったのは、当時、禁欲的な生活が奨励されていたからだと思います。

 

「信心は、この世と来るべき世での命を約束するので」としていますから、キリスト信仰者のこの世における生き方は、来るべき永遠のいのちのための訓練や準備であるということになるのでしょう。

 

コリントの信徒への第一の手紙15章19節では、キリスト信仰者はこの世だけでなく後の世にも望みをかけるべきで、この世だけならばすべての人々の中で最もみじめだと言っています。

 

●9節.この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

 

「この言葉」は、前節か次節のどちらを指しているのでしょうか。
わたしは次節だと思います。

 

●10節.わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。

 

「わたしたちが労苦し、奮闘する」というのは、「救い主である生ける神に希望を置いているから」としていますから、信仰は神様からの賜物ですが、その信仰によって神に希望を置いているから「わたしたちが労苦し、奮闘する」ということですか。

 

その神に希望の根拠は、イエスは全世界のすべての人類の罪の罰を贖うために身代わりとなって十字架で死なれ、罪を帳消しにしてくださったという事実です。

 

もちろん、わずかですがイエスによるこの贖いの御業を受け入れない人がいるようですが、その人たちには救いは実現しません。
また、イエスの十字架は全人類の救いが目的で、そこに神様の強い意志とご計画があります。

 

神様は全人類が救われることを願っておられますので、救いに与るチャンスは何度でも、あの世に行っても与えられるものと信じます。

 

また、救いの条件がキリストを受け入れることですが、その機会は、この世だけならば、その人の責任によらないでキリストを知る機会がない場合は当然ですが、不公平が蔓延するこの世ですから、神が正義の方ならば、あの世でもキリストを知る機会は与えられると信じます。
神様は、最後の一人までご自分を信じるのを忍耐強く待たれるかもしれません。

 

●11節.これらのことを命じ、教えなさい。
●12節.あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。

 

「これらのこと」というのは、6節から10節のパウロの言葉でしょう。
テモテは「年が若いということで、」と言っていますから、若い監督者であったのでしょう。

 

調べてみると、この手紙が書かれた当時のテモテの年齢は、35歳ではと言うことです。
パウロはテモテに、年が若くても「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範」となりなさいと言っていますから、テモテは年が若くて軽く見られていたので、教会の監督者としてより信仰者としての資質の面で模範となりなさいと言っているのでしょう。。

 

しかし、パウロという人物は、すごいです。
大胆にも自分の与えた模範に従うように他の人々に何度も命じているのです。
生前のキリストを知らないパウロのキリスト信仰は、この時点ですでに確立していたのです。

 

●13節.わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

 

パウロは、テモテは教会の監督者ですが、「聖書の朗読と勧めと教えに専念」しなさいと言っています。
朗読とは、聖書(旧約)を文字通り、そのまま公の前で朗読することで、「勧め」とは、聖書に書かれていることを実生活に適用させることでしょう。

 

そして、「教え」とは、解釈(聖書の解き明かし)でしょうか。

 

●14節.あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。

 

テモテは今の仕事をする際に長老たちから按手を受けているのですが、そのときに聖霊の賜物が与えられました。
それは、預言によって与えられたとしています。

 

聖霊は恵みの賜物ですから、その聖霊の恵みの賜物を「軽んじてはなりません。」と言っています。
そうですね、現在も教会により恵みの賜物である異言を使徒の時代に終わったとして認めない教会があるのは残念です。
異言を語る信徒が現実にいるのに認めないのです。

 

●15節.これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。

 

ここまでパウロが語ってきた教えから離れないように守ることに努めなさいと言っています。
そうすれば、やがて、年が若くても信仰者として、監督者としての成長をみんなが認めるようになる、ということでしょうか。

 

キリスト信仰者たちの指導者となる人物は慎重に選ばれるのでしょう。
選ばれた後も信仰者としての務めの道を外さないように専念するように求められます。

 

これは、万一指導者が罪に堕落することがあった場合、平信徒たちによる罪への堕落よりも重大な意味を帯びるから、ということでしょう。

 

●16節.自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。

 

15節に重ねて、「以上のことをしっかりと守りなさい。」と言っています。
「救う」というのは、信仰者としての救いですから、4章1節に書かれている、「惑わしの霊、悪霊の教え」からの救いを言っているのでしょう。

 

この救いを得るためには、「自分自身と教えとに気を配りなさい。」ということでしょう。
誰も他の人を救うことはできませんが、救いの源であるキリストの御許へと導くことはできます(コリントの信徒への第一の手紙7章16節)。

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