祈りに関する教え(2章)
聖書の箇所は、テモテへの手紙一2章1節から15節です。
テモテは今、エフェソにいて、パウロの手紙を読んでいるのでしょう(1章5節)。
パウロは、テモテをエフェソの教会にとどまらせて、そこの教会で起こっている問題、すなわち、異なった教えに対処するように命じました。
それは、「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」です。(1章5節)
異なった教えの内容は前置きにも書きましたが、律法について異なった教えです。おそらく、口伝律法が大きく影響しているでしょう。
パウロは、テモテに言い争うのではなく、「信仰と正しい良心とを持って」対処するように命じています。
2章でパウロは、公の場における秩序について話しています。
●1節.そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
●2節.王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
パウロはテモテに、まず第一に「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 」と言っています。
2節では「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」とします。
ここにある、まず第一にすべきことは、すなわち、1章で語られていた、教会内で無益な議論を避けるためにすることは、それは祈りで、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 」です。
その祈りの内容は、「願いと祈りと執り成しと感謝」です。
願いは、必要があってなされるのですが、その必要を神に知っていただくために祈るのです。
わたしたちの必要は、神様はすべて知っておられますが、そのことをあえて祈り願うことは、自分の意思を明確にして、そのことを神様に知っていただくことによって神様との交わりを始めることになるのでしょう。
「祈り」は、神様へのデボーションでしょう。
パウロは、祈りは「すべての人々のために」ささげなさいと言っています。
自分の気に入った人とかクリスチャンだけではなく、文字通りすべての人です。その意味で、「執り成し」とあるように、わたしたちはすべての人の救いを願うべきです。
「王たちやすべての高官のためにも」とあるのは、もちろん、その人たちもすべての人たちの中に入りますから当然ですが、パウロは、「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため」としています。
●3節.これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
このようにして祈ることは、「救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれること」なのです。それはその祈りが御心に沿っているからです。
神を「救い主」と呼んでいます。イエス・キリストではないのです。
●4節.神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
●5節.神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
神は人間一人一人を良い意味でも悪い意味でも異なった賜物を与えて創造されました。
そのうえで、この世界にサタンをも自由に泳がせて、人間に影響を及ぼすのを許されています。
その結果、現在のような悲惨な社会が形成されていますが、それはある意味、人間の責任によるものでないという面もあります。
それは別の意味で、新しい人間の創造という遠大なご計画の達成に必要であるからと言えます。
そうであれば、神は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」というのは当たり前で、それは神の創造の御業であり、全人類救済のご計画に沿うことなのです。
もちろん全能の神のご計画ですから、それは必ず成るのです。
神は、創造主であり唯一です。
イエス・キリストも「神と人との間の仲介者」であり、唯一です。
●6節.この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。
イエス・キリストの十字架死も「すべての人の贖いとして御自身を献げられ」た結果であり、ご計画であり、定められたときになされたことなのです(ガラテアの信徒への手紙4章4節、テトスへの手紙1章3節、テモテへの第一の手紙6章15節)。
キリストの「贖い」は、人々が罪や死や悪魔から解放されて自由の身となれるようにするためでした。
●7節.わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。
パウロは、イエス・キリスが「すべての人の贖いとして御自身を献げられました。」こと、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。」とし、それは真実だと証ししています。
●8節.だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
●9節.同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。
こういう聖書の教えは、当時の時代背景(当時の文化や習慣)が大きく影響すると思います。
もちろん、中には聖書の教えには、あらゆる時代に有効なのもあるでしょう。
8節と9節の男と女に対する教えですが、現在でも有効なのでしょうか。むつかしい問題です。
どちらにしてもこれらは書かれた当時の習慣や文化に由来するものであり、そのまま現代にも厳格に適用するべきものではないのは明らかだと思います。
2章8節の「男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること」とか9節の、「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって」などはいまでもそうであればと思います。
9節などは、女性にもとめる外面的なことですが、現在では、そうではなく神様の意思にしたがって生きることが大切なのでしょう。
どちらにしても、いえることは、外面的な事柄でその人を判断しないことが大切なのではないでしょうか。
もちろん、性的に興味を惹かせるような服装などは避けるべきでしょう。
●10節.むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
ここは婦人に対する指導ですが、「善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人」ですから、女性が神を敬っているつもりで、身を飾っていて評判が良い場合、自分が、外見の美で評判が良いのか、それとも、主への奉仕「良い行ない」で評判が良いのか見極めるのが大切だと言っているのでしょう。
●11節.婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
パウロの言葉ですが、ユダヤ教の律法から学んだのか女性に対して非常に厳しいです。
●12節.婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。
女は教師として皆の前に「男の上に立ったりするのを」許しませんとパウロは言っていますが、これは妻が夫の上に立ってはいけないという意味ではなく、キリスト教会の礼拝の場での秩序維持にはそういうことが必要だと言っているのでしょう。
当時のグノーシス主義者たちは女たちも男と同じようにできると主張しているので、それに対してパウロはそれが神様の意思ではないという意味でこのように書いたのではないでしょうか。
●13節.なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
●14節.しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
パウロは、集会の秩序を得るために、女性が男性の上に立つことを禁じ、静かにしているべきだと言っています。でしゃばるなということでしょう。
その理由は、「アダムが最初に造られ、それからエバが造られたから」だとし、それに創世記で女性(エバ)は、悪魔に騙されて罪を犯したが、男(アダム)は悪魔に騙されなかったからだとしています。
なお、人間の創造は最初アダムが創造され、エバはそのアダムのあばら骨で創造されましたから、アダムが長子であり最初の人間でした。
最初の人間が女エバでなく男アダムなのは、それは神御自身が設定されたこの世界を創造された際の秩序でありますから、人間が勝手にそれを変更することは許されないということでしょう。
纏めると、女性は男性の上に立たないで、「信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑である」べきだとしていますが、それは、女性は男性に従い、でしゃばらないで静かにしていれば、教会は静けさと平安が得られるということでしょう。
キリストにあって男と女は一つにされていますが、それを理由に、教会において女性はでしゃばって男性をリードするようなことがあれば、そこには秩序がなくなり、人々が罪を犯しやすい環境を作ってしまうと言っているのでしょう。
なお、これらパウロの命令は、あくまでも無秩序に陥っている教会内での礼拝の場でのことであって、一般社会のあるべき姿を言っているのではないのでしょう。
●15節.しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
この言葉をその通りに取ると、子を産まない女はみな地獄に行ってしまうと取れますがそのようなことを言っているわけではないのです。
神は全人類を救済するために御子イエスを十字架にかけて全人類の罪を条件なく贖われたのです。
それでは解釈はどのようにすべきでしょうか。
調べてみますと、やはりいろいろと議論されているようです。
牧会書簡を書いたのがパウロではないという説から、グノーシス主義の影響を受けているという説までいろいろです。
この箇所を読んでキリスト信仰に躓き離れて言った信仰者もいたようです。
グノーシス主義者たちの考えですが、あたしにはよくわかりませんので詳しくは書きませんが、グノーシス主義は、イエスが創造の秩序を破壊して男性を支配下におく権能を女性に授けたと主張したそうで、それに対してパウロはキリストの使徒としてこの主張を容認できないと返答しているということです(11節と12節)。
ということで、2章11〜15節は、グノーシス主義者たちのために無秩序状態に陥っているエフェソの教会の者たちに対するパウロの指導にすぎず、現代のキリスト信仰者たちには何の影響もないというか、厳格に適応すべきではないのではないか、ということです。
しかし、読み終えての感想ですが、もうひとつ私にもよくわかりません。
ただ言えることは、当時は男尊女卑の社会でしたが、イエスは男女を平等に扱われていますし、創造の秩序は、単に男が先に生まれたというだけで、男女の価値とか優劣は関係がないし、神は生めよ増えよと子孫繁栄を約束され、そこには条件はありません。
救いについても、男女関係なく、キリストの十字架と信仰によって平等にすべての人々は救われます。
この箇所などは、字義通り解釈して、現在にそのまま適応すれば大変なことになります。
しかし、このようにパウロのキリスト告知と一見矛盾するような内容のパウロの手紙がこのように修正もなく掲載されていることによって、聖書の信ぴょう性が逆に増すと思うのです。聖書は作文ではないということです。
« 神の憐れみに対する感謝(1章) | トップページ | 監督の資格、奉仕者の資格、信心の秘められた真理(3章) »
「テモテへの手紙一を読む」カテゴリの記事
- 大きな利得、信仰の戦い(6章)(2025.02.03)
- 教会の人々に対して(5章)(2025.01.20)
- 背教の予告、キリスト・イエスの立派な奉仕者(4章)(2025.01.12)
- 監督の資格、奉仕者の資格、信心の秘められた真理(3章)(2025.01.12)
- 祈りに関する教え(2章)(2025.01.03)
コメント