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2025年1月12日 (日)

監督の資格、奉仕者の資格、信心の秘められた真理(3章)

<監督の資格>
この手紙においても、パウロはキリスト教会の秩序を重んじています。
信徒の中にグノーシス主義者が入り込み、極端な思想を持ち込み混乱をきたしているエフェソの集会にいるテモテに対しパウロは、まず教会の秩序を保つために監督者の資格を述べます。
聖書の箇所は、テモテへの手紙一3章1節から7節です。

 

●1節.この言葉は真実です。

 

「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
パウロは、教会における「監督の職」について話します。

 

教会における指導的な働きのための職として、この監督、長老、牧者、そして執事がいます。
監督は、教会全体の運営と導きの働きで、長老は、霊的な権威が神から与えられている人たちのことですから、人々の模範として振舞います。
そして牧者は、集っている信徒たちを、羊を養うように、み言葉をもって養い育てる働きをする人です。

 

 

執事は、教会における庶務にたずさわります。
このように職務が分かれていますが、兼務の場合もあるのでしょう。

 

また、キリスト教会には、監督制、長老制、会衆制などがありますが、監督制は牧師に教会の意思決定が与えられている制度。長老制は牧師の他に長老がいて、この長老たちが教会の責任者となっている制度。会衆制は会衆に教会を導く権限が与えられている制度で、民主制みたいなものということです。

 

●2節.だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。

 

監督の仕事はよい仕事だとパウロは言っています。
監督の職につく人は、その職につきたいという願いが、神から与えられていることが条件でしょう。人間が自分の損得とか都合で選ぶものではありません。

 

1節の良い仕事である監督の資格を2節と3節で述べています。
監督は教会の指導者で教会全体を代表する存在であり、その言動は教会外の人々の教会に対する印象に影響を及ぼします(コリントの信徒への第一の手紙10章32節、コロサイの信徒への手紙4章5節、テサロニケの信徒への第一の手紙4章12節)。

 

監督の使命は教会を指導して教えて説教することです(テモテへの第一の手紙3章2節、5章17節)から、あらゆる異端から教会を守らなければなりません(使徒言行録20章28〜31節)。

 

「非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができる人・・・」の「非のうちどころがなく」というのは、客観的に見て責められるところがない、ということでしょう。

 

「一人の妻の夫」というのは、当時は、一夫多妻制で二人の妻を持っていることは当たり前でしたから、妻は一人でなければいけないということでしょう。

 

また、解説では、⑴未婚者、⑵再婚者。「ローマの信徒への手紙7章2〜3節、コリントの信徒への第一の手紙7章39節)。⑶処女でない者をめとる(レビ記21章14節)、⑷不実(結婚においての忠実を指すのかキリストキリスト者全員にも要求されるのかが問題。)もだめだとされています。

 

「節制し、分別があり、」の「節制し」は、後の「分別があり、礼儀正しく、客を親切」につながります。
つまり、その時の気分とか思い付きにとらわれず、自分を制することができる人ということでしょう。

 

指導者たちは、彼ら自身の行いを吟味し監督してくれる指導者はいませんから、彼らは自分で自分を律しなければならないということでしょう。

 

「礼儀正しく、客を親切にもてなし、」ですが、古代においては「宿屋」の評判はけっしてよいものではなかったそうです。
それで、キリスト諸教会では旅をしながらの説教伝道者たちに安全な宿泊所を提供していたそうです(テトスへの手紙1章8節、フィレモンへの手紙22節、ヘブライの信徒への手紙13章2節、ヨハネの第三の手紙5〜8節)。

 

「よく教える」とありますが、これは神の言葉の真理を説き明かすことができる人ということでしょう。
神は、監督あるいは教師となる者を自ら選ばれていますから、その者が職務を遂行するために必要な賜物や技術をも与えておられるはずです。
また、あらかじめ特定の人々をそのためにキリスト教会の僕(しもべ)として用意されているはずです。

 

●3節.また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、

 

「酒におぼれず」とありますが、絶対的な禁酒ではなく、酒を楽しむために飲んだり、酔うことを目的に酒を飲んではいけいないということでしょう(テモテへの第一の手紙3章8節、5章23節、ヨハネによる福音書2章1〜12節)。

 

監督にこのようなことを定めたのは、アルコールは指導者の判断力を鈍らせてしまうからでしょう(箴言31章4節、20章1節、23章29〜35節、イザヤ書5章22〜23節、28章7〜10節)。

 

「乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、」ですが、指導者は寛容であるべきで(フィリピの信徒への手紙4章5節)、人と争わず、乱暴でなく(テトスへの手紙1章7節)、争いません(テトスへの手紙3章2節)。

 

「金銭に執着せず、」ですが、指導者は貪欲であってはならないのです。指導者が貪欲であれば、キリストの福音は語れません。(テモテへの第一の手紙6章5、10節、テモテへの第二の手紙3章2節、ペテロの第一の手紙5章2節。また、ヨハネによる福音書12章6節です。)。

 

●4節.自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。
●5節.自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。

 

自分の家庭を治められないようでは集会も治められません。
家庭、家族あっての集会と見れば、キリスト教会とは家族的要素が極めて強いということです。
(サムエル記上3章12〜14節)。テトスへの手紙1章6節)

 

●6節.監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。

 

監督は、キリスト信仰者として成熟していることが求められます。
信者になって間もない者が早々と教会の指導者の地位に上ると高慢になる可能性が高いからです。

 

ここでは特に異端が問題になっているのでしょう。
異端と戦うためにはキリスト信仰者として十分に成熟していることが求められます。

 

●7節.更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

 

監督は、「信仰に入って間もない人、教会以外の人々からも良い評判を得ている人」であることが必要です。
「悪魔」という言葉を使って、監督の資格を説明しています。

 

まず、「信仰に入って間もない人」は、人の上に立つと霊的に不十分なのに、、自分は霊的にも高められていると勘違いする可能性があるからでしょう。

 

「教会以外の人々からも良い評判を得ている人」ですが、教会は、世間から浮いている(別世界)ではなく、世間(異邦人の世界)にしっかりと根を下ろしている必要があります。

 

教会は、福音を世間(異邦人の世界)の人々に伝えるのが仕事ですから、当たり前です。

 

<奉仕者の資格>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一3章8節から13節です。
●8節.同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、
●9節.清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。

 

教会の奉仕者(執事)は、教会員の献金を私益のために使うことができたのでしょう。
「奉仕者たちも」ということは、監督者と同じく、ということでしょう。

 

それゆえ奉仕者(執事)は、そのような罪を犯さないような人物でなければならなかったのです。
「二枚舌を使わず、」というのは、同じ事柄についてその場その場で都合の良い異なる言葉を話してはいけないという意味でしょう。

 

奉仕者はいろいろと教会員の情報が入ります。他人の悪口を言わないように自制できなければ、逆に悪いうわさ話を拡散してしまう首謀者にもなりかねません。

 

「大酒を飲まず、」は、3節の監督の「酒におぼれず」より厳格です。
「恥ずべき利益をむさぼらず、」は、奉仕者(執事)は会計を取り扱いますので、不正をしてはいけないということでしょう。

 

「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人」というのは、奉仕者(執事)という職は、監督ではなく、本人がなりたいと言えばなれるのですから、選定の基準が甘いところがあるのでしょう。

 

ですから、だれがやっても、別に同じだからということで、その人の霊的素質をないがしろにしてしまいがちになるからでしょう。

 

●10節.この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。

 

「この人々」というのは奉仕者で、「審査を受けるべき」としています。
監督が任命前に吟味されたように、奉仕者(執事)も吟味されなければなりません。

 

「審査を受けるべき・・非難される点がなければ、」ですから、奉仕者を選ぶ場合、その人の現在あるいは過去の言動は、あらかじめ知る必要がある。

 

その上で問題がなければ(資格からはずれることがなければ)「奉仕者の務めに就かせなさい。」という意味でしょう。

 

●11節.婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。

 

「婦人の奉仕者たち」もですが、二つの見方があります。
つまり、奉仕者の妻たちを意味しているのか、それとも、女性の奉仕者を意味しているのかです。

 

パウロはローマ書16章1節で女性の奉仕者に手紙を出していますから、女性の奉仕者がいたのは確かです。
ですから、ここは奉仕者の妻も女性の奉仕者も含めてということでしょう。

 

●12節.奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。

 

この節には奉仕者の条件として、「奉仕者は一人の妻の夫」でなければならないとしています。
このようなことをわざわざ書いたのは、当時は一夫多妻制で、複数の妻を持った夫が多くいたのでしょう。

 

●13節.というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。

 

「奉仕者の仕事を立派に果たした人々」ですが、そのような人々は「キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得る」としています。

 

「良い地位を得」とは、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、世間でいうような高い地位に出世することではなく、「キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得る」としていますから、信仰者として前よりも高く評価されるようになることを意味しているのでしょう。

 

すなわち、奉仕者は、さらに霊的な務め、伝道者、牧者(監督)とか、より大切な務めへと主が引き上げてくださいますということでしょう。

 

<信心の秘められた真理>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一3章14節から16節です。
●14節.わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

 

パウロは「神の家でどのように生活すべき」かを手紙の宛先であるテモテのところに行ったときに話そうと思っていたが、「行くのが遅れる場合」ですから、行くのが遅れた場合に備えてあらかじめ先のことを手紙に書き記しているということでしょうか。

 

●15節.行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

 

パウロは教会を「神の家」と呼んでいます。
この神の家を構成しているのはキリスト信仰者たちです(コリントの信徒への第一の手紙6章19〜20節、エフェソ2章19〜22節)。

 

そして、神の家は世俗的な組織ではなく神の御業(福音)なのです。
真の神は「生ける神」ですが、反対の「死んだ神」が、偶像を指すのでしょう。

 

●16節.信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。

 

パウロは、キリスト教会(集会ともいう)を「神の家」と呼び、また「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会」(別名神の家族)と呼んでいます。

 

神の教会は、神が住まわれるところであり、神がおられるところです。
ですから、教会は、神を礼拝すること、神の言葉である真理の言葉(福音)を守り異邦人に伝えることをもっとも大事とするところでなければいけません。

 

神の家である教会は、そのための真理の柱であり、土台です。
これは建物になぞらえて、教会はしっかりと神の言葉である真理の言葉の上に立ち、神の言葉を柱とし、その「真理の言葉」を異邦人の間に知らしめる、伝え教える必要があるということでしょう。

 

「土台」も神の言葉を指しますから、決してその真理の言葉からそれないでかたく保っている、偽りの教えを拒むということでしょう。
「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、・・」ですから、キリストがどのような方なのか、またどのような働きをされ、またキリストが「異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

 

すなわち、そのようなキリストの栄光は、真理でありキリスト教の奥義なのです。
「天使たち」は、イエスの復活(マタイによる福音書28章2節)と昇天(使徒言行録1章10節)の出来事の場にいてそれらが真実であることを証しています。

 

「キリストは肉において現われ」とありますが、これはキリストの受肉を表すのでしょう。
キリストは、処女マリヤから聖霊によってお生まれ、肉を宿したという真理を語っているのでしょう。

 

次に、「“霊”において義とされ、」ですが、これはキリストが義であることを御霊が明らかにされるということでしょうから、キリストが受霊と復活において、義なる方(神の子)であることが宣言されたことを指すのでしょう。

 

「真理の柱」は、神の言葉である福音こそが教会を築き上げる土台や基礎(エフェソの信徒への手紙2章20節)であって、教会は真理の柱(3章15節)なのです。

 

「信心の秘められた真理」は、キリストは「信心の奥義」でありその奥義が何であるかを明らかになさるお方でもあるということでしょう。(ローマの信徒への手紙16章25節)

 

また「異邦人の間で宣べ伝えられ、」とあるように、福音はすべての諸国民に宣べ伝えられていくために与えられているものなのです。

 

なお、もしもこの讃美の詩の内容が時間的順序に従って歌われているものだとすれば、 最後の行の「栄光のうちに上げられた」というのは、終わりの日のイエスの再臨を指していることになるのでしょうが、まだ実現していませんから、終わりの日の再臨までをとらえたキリスト賛美の詩と解釈したいと思います。

 

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