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2024年12月 2日 (月)

シナイ山に着く(19章)

聖書の箇所は、19章1節から25節です。
●1節.イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。
●2節.彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。

 

イスラエルの民がシナイの荒れ野に到着したのは第三月の新月の日ですから3月1日です。。
イスラエルの民がエジプトを出たのは、第一月の十四日、過越の祭りの日でした。その日から1ヶ月半、50日目にシナイ山のふもとに到着しました。

 

3章12節の主の言葉「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」が成就したのです。

 

これで言えることは、私たちが主の言葉に従順であるかどうかは関係なく、主のご計画は成就するということです。
なお、シナイ山は、かつてモーセはこの山で神から召命を受けたところです。

 

 

また、この「宿営した」という語句は、単数形だということです。
ほかの箇所では複数形ですから意味があります。

 

神との契約を前にして民の心がひとつとされたのか、それとも、イスラエルが集合人格として取り扱われているのでしょうか。

 

●3節.モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
「ヤコブの家にこのように語り
イスラエルの人々に告げなさい。
●4節.あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
わたしのもとに連れて来たことを。

 

主はモーセに語りかけます。
「鷲の翼に乗せて」というのは、解説を読むと、わしがひなを巣立ちさせるとき、母親のわしは巣を揺さぶって、ひなを巣から追い出します。

 

ひなは、その翼を一生懸命羽ばたかせますが、上手くいかず地面に落ちます。それで、母親のわしはひなが落ちると思われるところまで飛んでいき、自分の翼の上にひなが落ちてくるようにして、ひなを翼に載せるのです。

 

このように飛ぶ訓練を子どものときに受けて、わしはようやく独りで飛べるようになるということです。

 

イスラエルの民も同じで、民が主が自分たちの神であることを知るために、エジプト軍が彼らを追い詰め、また、荒野では飲み水、食べ物の不足で民の力が尽き果てるようなことを、主は許されました。

 

それらのこともやがて主が御業を示されエジプトを滅ぼし、民に飲み水、食べ物を与えるのですが、それらは、民がこの方が主であることを知るためになされたことなのです。4節はそれらの出来事を言っているのでしょう。

 

「わたしのもとに連れて来た」とは、このシナイ山に来たことを指しているのでしょう。
このように主が民に過去のことを回顧させているのは、これがこれから民と契約を結ぶ前提となるからでしょう。

 

●5節.今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
●6節.あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 

主は、彼らを約束の地にそのまま行かせるのではなく、わざわざ遠回りをしてシナイ山のところまで来させました。
それは、この5節と6節に書かれていることを知るためでした。

 

神がイスラエルの民を贖われたのは、民が自分のために生きていくようにさせるためではなく、すべての民から分離し、神のものとなるためです。

 

それが9節の「祭司の王国、聖なる国民となる。」ということでしょう。
5節、6節で、その契約の内容が語られているのです。

 

契約が守られるならば、イスラエルの民は主の宝となるのです。
それは、主は「世界はすべてわたしのものである。」から、「わたしの契約」を守れば「すべての民の間にあってわたしの宝」にすることができるのです。

 

●7節.モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
●8節.民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。

 

モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、
モーセは「戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。」のです。

 

長老たちは、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と誓っています。
こうして誓ったことは、主の者となるための出発点に立ったということでしょう。

 

●9節.主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。

 

主はモーセに言われます。
主が濃い雲の中にあってモーセに臨み語るのは、イスラエルの民が「わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」と言われます。」

 

つまり、モーセが主と語るのを民が聞いて、モーセの言葉は主の言葉であることを認め、モーセを信じるようになるためでした。

 

主は、モーセが御自分の僕であることを、濃い雲の中から直接モーセと語り、御臨在を現すことで人々に証明すると言われているのでしょう。

 

●10節.主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、
●11節.三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。

 

主はシナイ山に三日後におりてこられます。
その時に備え、民は「衣服を洗」って聖別し、準備しなさいと言われています。

 

神が聖なる方であるから、衣服を洗って待ちなさいと言われているのです。
しかし、汚れは内側から出てくるもの(イエスは、人を汚すのは心から出てくる、嘘、好色、殺人などだ、と言われました。)です。

 

ただし、内側の清めは、自分たちの努力ではできないので、新約では、キリストの血によって、また神のみことば、つまり、聖霊の働きによってのみなされるとなっています。

 

ただ、ここ聖別ですから、衣服を洗って、主に会う心の準備をするだけでよいのでしょう。
主は、ご自分は聖なる存在であることを強く印象付け、教えられたのでしょう。

 

●12節.民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。

 

主は、ご自分がシナイ山におりてくるに際し、具体的に指示されます。。
民が山に登らないように命じなさいです。

 

そして、「周囲に境を設けて・・その境界に触れぬよう注意せよ。」です。
そして、「山に触れる者は必ず死刑に処せられる」と言われます。

 

民は、服を清めても内側は汚れたままですから、主に近づけません。
それは、主は聖なる方であり、人は罪ある汚れた者だから、それは絶対に相いれない存在なのです。

 

汚れたものが聖なるものに触れることは、死に値する罪なのです。

 

●13節.その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」

 

主は、シナイ山におりてきて民に御自分を現されますが、だれも近づけません。
ただ「角笛が長く吹き鳴らされる」時だけある人々は山に登ることができると言われています。

 

●14節.モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、
●15節.民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。

 

モーセは、民に「民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と命じます。
「女に近づいてはならない」ですが、これは、男女の不品行のみを指すのではなく、自分の妻との性的な営みを控えなさい、という意味でしょう。

 

聖なることがどういうことかを教えておられるのでしょう。
ただし、神様は子孫繁栄を奨励されていますから、夫婦の肉体関係は罪ではありません。ただ、神様の前では控えるようにということでしょう。。

 

●16節.三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。

 

「角笛の音が鋭く鳴り響いた」ですが、状況から判断して、民が角笛を吹いたとは思えません。御使いでしょうか。

 

●17節.しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。
●18節.シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

 

シナイ山は「雷鳴と稲妻と厚い雲」に覆われ、全山が「煙に包まれ」ます。

 

全山が煙に包まれ、火が燃え、その炎の中に主がおられたのです。
想像するだけで、恐ろしくなります。

 

「煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」のですから、民は震え上がったことでしょう。

 

●19節.角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。

 

主とモーセの会話が始まります。
神は雷鳴をもって答えられるのですから、イスラエル全員が聞き取れるようになっています。

 

●20節.主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
●21節.主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
●22節.また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」

 

神はモーセを「山の頂に呼び寄せ」られ「民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告」され、祭司に対しても、「身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」と警告されます。

 

しかし、主がご臨在されるときは、必ず激しい自然現象(火・煙・地震)が伴うものです。
ここを読むと、イスラエルの民は自分たちもモーセと共にシナイ山に上って行こうとしたようです。

 

●23節.モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
●24節.主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
●25節.モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。

 

主は、警告の意味で、「祭司たちと民とは越境して主のもとに登って」来ないようにと言われたのでしょう。
そして、主はモーセに「アロンと共に登って来なさい。」と言われます。

 

これは、次章で主はイスラエルの民に聞こえるように、十戒を授けられますので、その準備なのでしょう。

 

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