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2024年12月 4日 (水)

十戒(20章)

聖書の箇所は、20章1節から21節です。
20章は、神の律法(モーセ律法)が記されています。
モーセの律法は613からなり、十戒は、その最初に記されています。

 

シナイ山の手前で、神(主)がイスラエルの民と結ぼうとされる契約は、これまでのノアやアブラハム、イサク、ヤコブに対してなされた神に一方的な約束とは異なり、合意に基づく双務的な契約です。

 

それは、19章5節「今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」、6節「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」です。

 

主は、ご自分の言葉に聞き従い、契約を守るなら、イスラエルは「主の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」となると約束されているのです。
8節で民は、「民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。」となっています。
イスラエルの民を選民と言います。

 

 

 

 

それは神が全人類救済の目的、ご計画のために用いるためにイスラエルの民を選ばれたからです。

 

ただし、現実はイスラエルの民は数度にわたる神の裁きとか導きにも関わらず偶像礼拝に走り、神の約束を破り、神の子、神と共に歩む民族となれなかったので、その役目をキリストの民であるクリスチャンと言われる者が引き継ぎ今日に至っています。

 

神が選民であるイスラエルの民をご自分のご計画に用いるために民と結ばれた基本的な契約が、出エジプト記20章1節から17節の「十戒」です。

 

「十戒」を言い換えれば、神とイスラエルの民との愛と信頼のかかわりを規定するものです。

 

●1節.神はこれらすべての言葉を告げられた。

 

「これは」はこれから神が語られる「十戒」でしょう。
イスラエルの民はシナイ山のふもとに集められています。
そして主なる神が、黒雲や、雷、稲妻、角笛の音などをもって顕現されています。そしてイスラエルの民に音声で、直接語られます。

 

●2節.「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 

神はまず、ご自分がイスラエルの民をエジプトの国から導き出した神であると確認されます。
ですから、イスラエルの民は、神によって救い出された者たち、神の所有とされた民であるということでしょう。

 

●3節.あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 

第一の戒めです。
当時の世界は、自分たちの欲望を満たすものをみな神としていた多神教の世界です。

 

有名な力や知性を表す神「バアル」とか豊穣の神「アシュタロテ」、富の神である「マモン」などがあります。
しかし、真の神は主(創造主)のみです。ほかの神は偶像ですから神ではありません。被造物を人間か自分たちの欲望を満たしたいので、その被造物を神としてあがめるから神なのです。

 

それでは、なぜこのようなことが命じられているのでしょうか。
つまり、もし私たちが主なる神よりも大事にするものがあるとしたら、それが何であっても神になってしまうということです。

 

主なる神は「世界はすべてわたしのものである。」と言われているように、お一人で、唯一絶対の神なのです。
真の神である主なる神は、ご自分以外のものを神としてあがめるのを非常に嫌われます。被造物を神としている限り、真の信仰は生まれないからです。

 

第一の戒めは、後の九つの戒めを一つにまとめたものですから、他の九つの戒めは、第一戒のために存在し、第一戒によって他の九つの戒めを理解する必要があります。

 

●4節.あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

 

第二の戒めです。
「いかなる像も造ってはならない。・・いかなるものの形も造ってはならない。」とあります。
被造物をかたどってそれを神として拝んではいけない、と命じられているのでしょう。偶像礼拝の禁止です。

 

なお、偶像のことは6節で詳しく書きます。

 

●5節.あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
●6節.わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 

主なる神は、まず、偶像の神に「ひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」とし、ご自分は「熱情の神」であるから、ご自分を「否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と言われています。

 

反対に、ご自分を「愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」と言われます。
このように主なる神は、非常に嫉妬と独占欲が強く潔癖な神なのです。

 

他の神々とヤハウェなる神との違いは、ヤハウェは一対一の、人格的関係、契約関係を持つことを望んでおられる生ける神ですが、他の神々は、人間が自分の都合に合わせて、自分の都合の良いときに自分の欲望を満たすことを願う神々です。それも被造物を神として拝し、願う神です。

 

4節から6節で「あなたはいかなる像も造ってはならない。」「それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」「わたしを愛し、わたしの戒めを守る」ことを命じられています。

 

「偶像」とはヘブル語で「ベセル」と言い、意味は刻んだものだということです。
すなわち、神のイメージにかたどって造られたもの、それが偶像です。

 

神の形にかたどるのは、崇拝の対象とするからです。
真の神は唯一で絶対神です。ならば何の力もない偶像の神のことなどほっておけばよいののですが、真の主なる神は、偶像を造ることを禁じています。

 

それは人間に間違った方法で神を礼拝してほしくないからでしょう。
ヨハネの福音書4章24節に「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならなお。」とあります。

 

神は霊ですから、私たちには見えません。この見えない神を、霊と真理(の御言葉)をもって礼拝するのです。
しかし、人間は目に見えないものよりも、見えるものに頼りたくなるものです。

 

5節は、なぜ偶像を造ったり、それらを拝んではならないのかの理由が記されています。
それは、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」(新改訳には、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、」)とあります。

 

この「ねたむ」というのは、主なる神が偶像の神に嫉妬するということではなく、主なる神は私の神ですから、私自身をねたまれるということでしょう。

 

また、5節の「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」は、神を否む者は、その罪が親から子に、子から孫に代々問われるというのはどうでしょうか。影響が及ぶということでしょうか、わかりません。
新改訳は、問うが「及ぼし」とありますから、影響があるということだと思います。

 

●7節.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 

第三の戒めです。
「主の名をみだりに唱えてはならない。」と言われています。

 

名前が尊ばれる理由は、名前に神のご性質や神の働きが反映されているからでしょう。
本来、偶像の神々と聖書の神が、同じ「神」で表記されることは間違いなのです。

 

ですから、日本における多神教の神(山とか木とかの自然とか人間も神とする)を聖書の神と同様に扱うのもおかしいのです。
聖書の神は唯一であり生ける神です。この被造世界の「創造主」と呼ぶのが正しいのです。

 

ユダヤ人は、この戒めを文字通りに唱え、主の御名を呼びません。
しかし、ここにあるように「みだりに」ということばが問題です。

 

ヘブル語の意味は「中味がない」とか、「実体が伴わない」、「価値がない」、「空虚である」という意味だそうです。
ですから、「みだりに」というのは、主の名を価値がないように軽く扱ってはならない、無意味なものにしてはならない、ということでしょう。

 

だから、「主の御名」を唱えてはならないということではないのです。
では、主の名が無価値なものになる場合ですが、参考に、マタイの福音書7章21節に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」とあります。

 

問題となるのは、主よ。主よと呼びながら、中身がない祈りが問題なのでしょう。

 

●8節.安息日を心に留め、これを聖別せよ。
●9節.六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
●10.七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

 

安息日は、その名のごとく、安息を得る日、休む日のことです。
そして「聖別せよ」ですから、安息日を神だけの日とせよとなります。そこにはあなたの主、神を忘れてはいけないという神の強い思いがあります。

 

●11節.六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 

神が、安息日をもうけられた理由は、神が天地万物を六日間で創造され、七日目に休まれたからです。
なお、神は七日目に働くのを止められましたが、それ以降今日まで働き続けておられます。

 

本来神は人間と違うのですから疲れることもないので休む必要などないのです。それなのにその手を休まれたのは、創造のみわざを完成され、その御業の数々を振り返り確認されるためなのでしょう。

 

七日目は、人間ならば、六日間を振り返りなしてきたことを見直して反省し、そのうえで、過ちを悔い改めて気持ちを新たに前に進むのに必要な日になるのでしょう。

 

●12節.あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

 

第五の戒めです。
父母を敬うのは、人間として当たり前のように思うのですが、ここにわざわざ書かれているのは、父と母は、子にとって神の代理人のような存在だ、ということでしょうか。

 

そうであれば、父母を敬えば神の権威と秩序が保たれます。
ということは、親自身が神の権威に服従して、神の子とならねばなりません。

 

人間は生きていくうえで対人関係は元も大切なことです。
対人関係の戒めとして父と母を敬えと教えています。

 

十戒に出てくるのですから、父と母は対人関係でも最も重要なことなのです。
それは、父と母が、神の代表として立てられている存在だからでしょう。

 

父母を敬うことが、社会の秩序を保つのに必要なこと、それは、社会における年長者、組織における責任者、国における政治を司る人々を敬うことにつながるからでしょう。

 

ただし、この戒めは、エフエソ書6章1節に「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。」、すなわち、「主に結ばれている者として」ですから、両親を敬うのは「主にあって」従うということです。

 

つまり、この両親を敬う戒めは、主を信じる行為としてなされなければならないということです。

 

●13節.殺してはならない。

 

第六の戒めです。
人は、神の被造物であり、神のかたちに造られているから、その人を殺してはならないと命じられます。
人を殺すことは、神の心を痛めることになります。

 

人のいのちを与えるのも取るのも、創造主である神がなさることです。それを人が奪い取ることはできません。
神は、殺してはいけないと、当たり前と言えば当たり前のことを改めて言われています。

 

しかし、どうして神はこのように言われたのでしょうか。
一切、人を殺してはならないということでしょうか。

 

そうすると、戦争で武力を行使することや、警察がいわゆる正当防衛で犯人を殺してしまうこともいけないのです。
なお、この「殺してはならない」という言葉はヘブル語で「ラツァック」という言葉で、人が故意に、計画的に、不法に人を殺害する場合を指しているそうです。いわゆる確信犯を指すのでしょう。

 

つまり、自分の身を守ろうとする正当防衛や、他国からの攻撃に対して自国を守るための反撃、また殺人を犯した罪による死刑は、これらに該当しないのです。

 

旧約聖書をみると、神はイスラエルがカナンの地に入っていくとき、その地の住民を皆殺しにするようにと命じています。
神は愛だと言いながら、みな殺しにせよというのはひどいです。神の言葉に矛盾があります。

 

それは、カナンの地は偶像に満ちていましたから、その偶像崇拝からイスラエルの民を守るためで、つまり、神の人類救済計画の一環として用いるイスラエルの民を偶像から守るためであったということです。

 

カナンの地には偶像崇拝という昔からの習慣があって、そうした習慣から彼らを守るための神の計画だったのです。
その他にも、旧約聖書には数多く、神ご自身が殺しなさいと命じている箇所があります。

 

一貫しているのは、殺意を持って、不法に殺すこと、つまり殺人を禁じている箇所だけだと思います。
こうしてみると、神は、創造の秩序を重んじられていることがよくわかります。

 

死刑制度なども、創造の秩序を保つために必要だということで認められているのでしょう。
創世記9章6節には、律法が入る前のことですが、「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」とあります。

 

神の死刑宣告の例です。
しかし、そうして神の怒り、あるいは御業に触れて殺され死んでいった人々はもちろん、過ちを犯し罪を犯した人も含めて、すべての人の罪を贖うためにキリストは十字架にかかられたのを忘れてはいけません。全員救済は、神のご計画です。

 

それならば、生前に好きなことをして生きる、何をしても許されると思うのですが、そうではなく、生前の行いの罪は終末に主によって裁かれます。(黙示録20章12節)

 

●14節.姦淫してはならない。

 

第七の戒めです。
神は天地万物を創造されたとき、「生めよ、ふえよ」と被造物に命じられて、祝福されました。

 

ですから、生殖行為は神から与えられた賜物であり祝福です。
そしてその行為を、神は人に結婚において行なうように定められました。

 

けれども、神が人間に与えた生理的欲求は、結婚の有無に関係なく発情するものです。
結婚関係なくて行う性行為は、聖書では、情欲であり不品行であり姦淫で、汚れた行為とされています。

 

イエス様は山上の垂訓にて、この姦淫の罪の真意を、情欲をもって女を見るならば、姦淫の罪を犯したことになる、と言われています。
この罪は本来それほど厳しい定め(人間には不可能ですが本来はそうあるべき)なのですが、当時の律法学者たちは、外側の行ないが良ければ律法を守ったことになる、としていました。

 

「姦淫してはならないは、婚外交渉をしてはいけないということで、結婚前に性交渉を持つことも含まれます。
つまり、結婚の外でのありとあらゆる性行為や不健全な性行為全般を指しているのでしょう。

 

生殖行為は神から与えられた賜物ですが、それを神が定めたところ以外で用いることを、禁じているのです。

 

新約聖書マタイの福音書5章27節から28節に「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」とあり、もっと厳しいです。
これなど私たちに守れそうではありませんが、これが神の国の常識なのです。

 

●15節.盗んではならない。

 

第八の戒めです。
他者の所有物を盗むことを「盗み」と言います。

 

神は、人間に生きていく上で必要な欲望を与えましたが、他者のものまで盗むことは容認されていません。
泥棒、詐欺、万引きは当然盗みですが、借りたものを返さないのも同様でしょう。

 

仕事をなまけるのは、雇用規約に違反している(自分の時間を買った雇用主に対して時間の盗みを犯している)ことになります。
学生のカンニングも、キセルも、脱税も同じでしょう。

 

「盗んではならない」は、人の所有権を犯すことになります。
この思想の根本には、この被造世界のすべては主が作られたのですから、主のものという思想があるからでしょう。

 

そう、いずれわたしたちはこの持ち物をすべて主にお返しすることになるのです。私たち被造物の命運は、すべて創造主である主の手の中にあるのです。

 

●16節.隣人に関して偽証してはならない。

 

第九の戒めです。
嘘をつくのは自分の本心を隠したいからでことは、相手のまた自分の心をも傷つけます。

 

嘘をつくのは、言葉による罪ですが、そのもとは自分の本心を隠したからでしょう。
ですから、その人の内から出てくる罪です。

 

ある意味、これは物を盗むことよりも深刻な罪なのでしょう。
「偽りの証言をしてはならない」ということで、証言ですから、裁きの場において事実と異なる証言をすることを禁じるのでしょう。

 

ただ、これは自分たちに都合がいいように相手の言葉を勝手に解釈し、それをねじ曲げて証言することも含まれるのでしょう。

 

イエスがこれに対し、マタイの福音書5章37節で「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」と言われています。

 

●17節.隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 

第十の戒めです。
最後の戒めは、他者のものを盗んではいけないではなく、その盗む思いの元、すなわち、「欲してはならない。」(欲望)と言われています。

 

第九の戒めまでは、行いの罪の戒めでしたが、ここは行いの原因となる思い(欲望)の罪を定めています。
行いによって生まれる罪は、すべてその人の思いから出るものです。

 

隣人のものを欲するのは、人間が持つ本能的な欲望ですから、欲望を持つなと言われても簡単にできることではありません。
今あるもので満足すること、神の恵みが自分に十分にあることを知ることが大切なのでしょう。

 

つまり、この戒めの特徴は心に関することであるということです。
他の戒めは行為に関することですが、これは心から出るむさぼりを取り扱っています。それは、欲しがること、あるいは、むさぼりは他の戒めを破ることにつながるからでしょう。

 

盗むのも姦淫するのも嘘をつくのも、他人の物を欲しがるのも他人の物を欲しがる思いがあるからです。

 

●18節.民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、

 

民全員は、「雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様」の中で十戒を聞いて、「民は見て恐れ、遠く離れて立ち、」ます。19節を読むと、民は神の言葉に恐れたのです。

 

これは、物理的な現象に驚いたこともありますが、異次元の存在への本能的な恐れもあります。

 

●19節.モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」

 

イスラエルの民は、神の言葉に恐れをなしモーセに仲介を求めています。
自分たちと神と直接につながることで、自分たちが死んでしまう、と思ったのです。それほど恐れたのです。
神の言葉と自然界の物理的な現象が共鳴していたのでしょう。

 

●20節.モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」

 

モーセは民の求めに対し答えます。
まず、「恐れることはない」と言い、「神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」と答えます。

 

これらの出来事はすべて民が主を恐れをもって信頼し、従い、罪を犯させないようにするためであるということです。

 

●21節.民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。

 

イスラエルの民は恐れのあまり「遠く離れて立ちました。」
「モーセだけが神が顕在されている密雲に近づいて行った。」のです。

 

解説では、これはイスラエルの民と神との関係を表しているとされています。

 

神は民に近づかれましたが、民は神から遠く離れて近づこうとしなかったのです。それは今のわたしたちの姿なのでしょう。

 

契約の書
⑴祭壇について
●22節.主はモーセに言われた。
イスラエルの人々にこう言いなさい。
あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。
●23節.あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。

 

そのような民を見て主はモーセに、ご自分に似せて偶像を作ってはならないと言われます。「銀の神々も金の神々も造ってはならない。」と言われます。

 

●24節.あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。

 

また、主なる神は、「わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。」と言われます。
主なる神は、ご自分のために土の祭壇の築造を求められ、「焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。」と言われていますが、金ぴかに装飾された祭壇の築造を求めておられませんし、捧げものも金銀とか金銭ではありません。。

 

●25節.しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。

 

しかし、主なる神のために祭壇の築造をするならば、「切り石で築いてはならない。」と言われます。
祭壇を造る時は土で造るように勧め、石で造る場合は、のみを当てて加工した切り石で築いてはならないと命じられているのです。

 

土の祭壇はそのままですが、石で祭壇を作る場合は、加工した「切り石で築いてはならない、」ですから、人の知恵とか工夫を禁じておられるのです。
それは、そのようなことに心が奪われて、神に集中することができなくなってしまうからでしょう。

 

●26節.あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所があらわにならないためである。

 

また主なる神は、「階段を用いて祭壇に登ってはならない。」と言われます。
「隠し所があらわにならないため」というのは、階段を上がるときに、その人の下の姿が見えますから、主なる神はそれを望まれないのです。

 

つまり、主に臨むときは集中できるように、人の注意をひくようなこととかものを禁じられているのでしょう。
以上で、十戒と神への礼拝の教えの部分が終わります。

 

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